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2019年5月29日 (水)

グムンデンのトラム延伸 I-概要

グムンデン路面軌道 Straßenbahn Gmunden

グムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof ~ グムンデン・ゼーバーンホーフ Gmunden Seebahnhof 間 4.2km
軌間1000mm、直流600V電化、最急勾配100‰
1894年開通、2018年ゼーバーンホーフへ延伸、トラウンゼー鉄道と直通化

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湖岸への急坂を下るグムンデンのトラム
 
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グムンデン Gmunden は、オーストリアの湖水地方であるザルツカンマーグート Salzkammergut の入口に位置する町だ。トラウン湖 Traunsee の水運を操り、古くは上流のハルシュタット Hallstadt などから産出する岩塩の取引で栄えた。19世紀に入ると、イシュル Ischl(バート・イシュル Bad Ischl)に次ぐ帝国の避暑地となり、湖を見下ろす斜面には上流階級のヴィラ(別荘)が建ち並んだ。町は今も湖畔リゾートの雰囲気を漂わせていて、夏には、白地に緑縞を描いた名産の陶器を並べる市が立つ。

その市街地を、昨年(2018年)9月からグムンデン路面軌道 Straßenbahn Gmunden の連節トラム(下注)がさっそうと走り抜けるようになった。かつてトラムは、旧市街の手前のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ Franz-Josef-Platz(フランツ・ヨーゼフ広場)を終点にしていた。ÖBB駅との間わずか2.3kmを細々と往復し、世界最小の路面軌道と自称していた。19年前に初めてこの町を訪れた時、標識が1本立つだけの停留所に、デュヴァーク Duewag 製の古ぼけたボギー単車がぽつんと客待ちしていたのを思い出す。

*注 2016~17年にフォスロー・キーペ  Vossloh Kiepe(現 キーペ・エレクトリック Kiepe Electric)製の低床連節車トラムリンク Tramlink V3 形 8編成が導入された。

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フランツ・ヨーゼフ・プラッツに停車中の旧車 GM 10
系統幕の「G」はグムンデンを意味する
(左)オリジナル色(1999年撮影)
(右)グムンデン・ミルクのラッピング(2014年撮影)
   海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供
 

それが今や、湖の対岸に終点のあったトラウンゼー鉄道 Traunseebahn(下注1、正式名:グムンデン=フォルヒドルフ地方鉄道 Lokalbahn Gmunden - Vorchdorf)と線路がつながり、町をはさんで東西約19kmを乗り換えなしで結ぶ。時刻表番号も、従来の174からトラウンゼー鉄道の番号である161に統一され、全体を「トラウンゼートラム Traunseetram」と呼ぶようになった。直通化だけではない。定員90名の旧型単車は、定員175名の低床5車体連節車に完全に置き換えられ、1時間2本きりだったダイヤは4本に倍増された(下注2)。主要な停留所もバリアフリー仕様に改造されている。

*注1 鉄道名は「トラウンゼー鉄道」とするが、地名は「トラウン湖」と記すことにする。
*注2 うち2本はグムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof ~エンゲルホーフ Engelhof 間の運行。

トラウンゼートラムの開通(直通運行)を祝う行事は、9月1日に町を挙げて行われた。その日から2週間は無料の試乗期間とされ、多くの市民が直通トラムの初乗りを楽しんだ。

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低床連節車トラムリンクV3
 

2014年に先行開通していた区間を含めても、新たに建設された軌道は1kmにも満たない距離だ。しかし、州道120号線になっているトラウン橋の前後は代替路が少ないため、かねてから交通のボトルネックになっていた。そこに輸送能力のある鉄軌道が出現する効果は大きく、実際に利用してみても快適さ、便利さを体感する。たかが1kmでも、町にとっては画期的な交通ルートの誕生なのだ。

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グムンデン周辺の地形図に鉄軌道ルートを加筆
赤色の線がグムンデン路面軌道で、
列車は橙色のトラウンゼー鉄道に直通する
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

グムンデン路面軌道が、グムンデン電気地方鉄道 Elektrische Lokalbahn Gmunden (ELGB)  として開業したのは今から125年前、1894年8月のことだ。市民が蒸気機関車の走行に伴う騒音や臭気を嫌ったため、名称が示すとおり、最初から電車が導入された。オーストリアでは3番目の電気鉄道だった(下注)。大都市のウィーンやリンツでも、市内線に電車が登場するのは1897年以降だから、いかに時代を先取りしていたかが想像できる。

*注 オーストリア初の電化鉄道はメードリング=ヒンターブリュール地方鉄道 Lokalbahn Mödling–Hinterbrühl で、1883年開業(最初から電化されており、架線集電では世界初)、1932年廃止。2番目のバーデン路面軌道 Straßenbahn Baden は1873年に馬車軌道で開業、1894年7月から順次電化されたが、現存しているのはウィーン地方鉄道 Wiener Lokalbahn が走る短区間のみ(本ブログ「ウィーン地方鉄道(バーデン線)I-概要」で詳述)。

このように歴史はきわめて古いが、規模は最初からささやかなものだった。国鉄のグムンデン駅前(グムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof)と市庁舎広場(ラートハウスプラッツ Rathausplatz)の間、路線延長はわずか2.54kmに過ぎない。1877年に開通した国鉄ザルツカンマーグート線 Salzkammergutbahn(下注)のグムンデン駅が、湖岸の市街地から2km離れた丘の上に設けられており、その連絡が目的だったからだ。

*注 当初は勅許を得た私有ルードルフ皇太子鉄道 k.k. privilegierte Kronprinz Rudolf-Bahn (KRB) が建設し運行した。それで、駅もルードルフスバーンホーフ(ルードルフ駅)Rudolfsbahnhofと呼ばれていた。鉄道は経営不振のため、1880年代に国有化。

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(左)現在のグムンデン・バーンホーフ電停
(右)現在のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ電停
 左端の"CAFE"前が旧来の電停で、現在はグムンデン駅方面の乗り場
 

すでにグムンデンでは、対岸のトラウンドルフ Traundorf に、岩塩を運ぶ馬車軌道から転換された蒸気鉄道(下注)があり、1871年には航路に接続するゼーバーンホーフ(湖岸駅)Seebahnhof も開設されていた。とはいえ、これはあくまでローカル支線だ。方や、ザルツカンマーグート線は亜幹線の位置づけで、ウィーンからの直通列車も走っていた。保養客の取り込みをバート・イシュルと競っていたグムンデンとしては、市街地と結ぶ交通手段の確立が喫緊の課題だった。

*注 ランバッハ=グムンデン地方鉄道 Lokalbahn Lambach–Gmunden、後にトラウンタール鉄道 Trauntalbahn とも呼ばれた。1859年までに開業、1988年に旅客輸送を廃止。現在は一部区間で貨物輸送のみ行われている。

都市の近代化に熱心だった市長のもとで建設が計画され、事業の遂行はシュテルン・ウント・ハッフェルル Stern und Hafferl 社に委ねられた。同社はすでに近隣で、760mm狭軌のザルツカンマーグート地方鉄道 Salzkammergut-Lokalbahn(ザルツブルク~バート・イシュル、1890~94年開通)や、ラック式登山鉄道のシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn(1893年開通、下注)を手掛け、交通企業としての実績を挙げていた。

*注 この2本の鉄道については、本ブログ「ザルツカンマーグート地方鉄道 I-歴史」「オーストリアのラック鉄道-シャーフベルク鉄道」で詳述。

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トラウン門をくぐって旧市街に入るトラム
 

半年の工期を終えて、鉄道は開通式の日を迎えた。朝の試運転を行っている間、町では、電車の通行に慣れさせるために、乗馬や馬車牽きに使われる馬が通りに沿って多数繋がれていたという。鉄道に電気を供給するため、沿線に石炭火力発電所が建設されたが、電力の一部は市内にも送られ、ガス灯を電灯に置き換えていった。

先述のように、路線は地方鉄道 Lokalbahn として開通している。しかし、オーストリアがナチスドイツに併合された1938年からドイツ国内の建設・運行規程が適用されたことで、路面軌道 Straßenbahn に分類されることになった。実際、併用軌道は全長の2割弱で、他は車道と分離されたいわゆる道端軌道だが、戦後も路面軌道として扱われ(下注)、名称もそれに準じている。

*注 旧車の前面の系統幕に、グムンデンを意味する「G」の文字を掲げていたのはその名残。

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エスプラナーデに立つグムンデン鉄道史の展示パネル
「1894年 グムンデン路面軌道の開通」
 

二度の大戦でも、路面軌道は大きな被害を受けずに走り続けてきたが、その運営が順風満帆だったわけではない。とりわけ1960~80年代は衰退に向かう時代だった。1961年に新聞輸送が廃止された。1975年には自動車交通を優先させるために、旧市街のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ~ラートハウスプラッツ間0.2kmが休止となり、運行区間が短縮された。1978年には車掌が乗務しないワンマン運行に切り替えられ、1989年にはついにバス転換案が表面化している。

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同 展示パネル
上2枚はラートハウスプラッツ電停、
下1枚はフランツ・ヨーゼフ・プラッツ電停
 

退勢が反転したのは、軌道の将来に危機感を抱いた人々の熱意が行政を動かした結果で、それがなければ軌道はとうに過去帳入りしていたかもしれない。この年、路面軌道存続を求める請願に6000人以上の市民が名を連ねた。それに応える形で、市によってグムンデン路面軌道支持者協会 Verein Pro Gmundner Straßenbahn という名の推進団体が設立されたのだ。

協会はまず、路面軌道に対する市民の関心を呼び覚ますことに努めた。車庫まつりや古典電車運行など、次々と市民参加のイベントを仕掛けた。各電停にある古風な駅名標も、昔の様式にならって協会が1994年に新たに設置したものだ。

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古風な駅名標も支援策の一つ
 

2000年代に入ると、協会が中心となって、軌道を延長しトラウンゼー鉄道と直通させるための計画が具体化されていった。その間に、フライブルクやインスブルックから低床車を借りて、既存区間で試験走行も実施された。周到にまとめられた計画案は2003年、市議会に上程され、全会一致で可決された。

協会はその後も広報活動や資金調達など、さまざまな分野で計画の遂行を支援していて、こうした足かけ30年に及ぶ熱心な活動が、路面軌道を復調に導いたのは疑いのないところだ。これまでに実施されたさまざまな更新と新設の内容については、次回、グムンデントラムの走行ルートを追いながら見ていくこととしよう。

■参考サイト
シュテルン・ウント・ハッフェルル  https://www.stern-verkehr.at/
トラウンゼートラム  https://www.stadtregiotram-gmunden.at/
グムンデン路面軌道支持者協会  https://www.gmundner-strassenbahn.at/

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2019年5月22日 (水)

コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年コンターサークル春の旅、5月19日は西へ飛んで、広島県の上根峠(かみねとうげ、下注1)を訪ねた。広島から三次(みよし)へ向かう国道54号線の途中にある標高267mのサミットだ。

ここに降った雨は、北側で簸川(ひのかわ)から江の川(ごうのかわ)を経て日本海へ、南側で根の谷川(ねのたにがわ)から太田川(おおたがわ)を経て広島湾へ流れ下る(下注2)。つまりここは、日本海斜面と瀬戸内海斜面を隔てる中央分水界になっている。

*注1 「かみねだお」「かみねのたお」とも言う。「たお」は「たわ」「とう」などとともに、中国地方で峠を意味する地名語。ちなみに、堀淳一氏も『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)の100~104ページで、上根峠を取り上げている。
*注2 簸川は「簸ノ川」、根の谷川は「根谷川」とも書かれる。居住地名の表記は「根之谷」。

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国道54号上根峠
 

しかし、馬の背を分ける形の分水界をイメージするなら、実景とはかなり違う。国道バイパスを北上していくと、峠の手前では、急坂で谷間を上り、トンネルと高い橋梁で山脚を縫っていく山岳道路だ。ところが、峠に出たとたん、まわりは嘘のように穏やかな谷底平野に変わる。片方にしか坂がない「片坂」になっているのだ。

これは後述するように、簸川の上流域を根の谷川が侵食し、水流を奪い取ってしまったことから生じた。奪った川と奪われた川の侵食力の差が目に見える形で現れたのが、片坂だ。上根峠は、明瞭な形状とスケールの大きさから、こうした「河川争奪」の典型地形の一つとされている。

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上根峠周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

集合場所のJR可部線可部駅まで、広島駅から電車で出かけた。11時10分、予定時刻に西口バスターミナルに集まったのは、今尾さん、相澤夫妻、私と、今尾さんの友人で地元在住の竹崎さんと横山さんの計6人だ。

相澤夫妻はクルマで現地へ先行し、残る4人は、駅前を11時25分に出る広電バス吉田出張所行き(上根・吉田線)に乗った。広島バスセンターから国道54号を北上してくるこのバス路線は、上根峠の手前の上大林まで30分毎、吉田まで1時間毎で、そこそこ頻度は高い(ただし土日は減便)。郊外路線としては頑張っているほうだろう。

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(左)227系で可部駅に到着
(右)行程を打ち合わせ
 

きょうは薄陽の差すまずまずの天気だ。九州ではすでに雨が降っているのだが、広島はぽつりと来た程度で、傘の出番はなかった。バスは10人ほどの客を乗せて、可部街道(旧 国道54号、現 183号)を北へ走っていく。

根の谷川の谷は、次第に深まりを見せる。バスは上根バイパスを通らず、旧 国道(現 県道5号浜田八重可部線)に回る。「走っていくと壁がどーんと現れるんですよ」と竹崎さんが予告したとおりだった。行く手を塞ぐように、高い斜面森が目の前に出現し、道は左へ大きく曲がった。これが片坂の谷壁に違いない。私たちは、旧 国道がヘアピンカーブを切って谷壁に手を掛ける手前の、根の谷停留所でバスを降りた。

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(左)上根バイパスが峠へ上っていく
(右)根の谷バス停で下車
 

待っていた相澤夫妻と合流し、西から流れてくる渓流の岸まで降りる。小さな滝が涼しい水音を立てていた。魚の遡上を阻んでいるので、魚切(うおきり)滝というそうだ。「これくらいなら、元気のいいのは滝のぼりするんじゃないかな」と相澤さん。

川沿いに、潜龍峡ふれあいの里という名の小さな公園が造られている。ちょうど作業をしておられた方に声をかけられた。訪れたわけを話すと、「ここが珍しい地形だとは知らなくて、子どもの頃は魚切滝で泳いでました」という。「学校にプールがなかったので、上根(峠の集落)の子はここまで降りてきたんです」。公園の一角には、復元された石畳がある。「あの道(旧 国道)ができる前、石畳を敷いた県道がここから上がってたそうです」。そのうえ、歩く参考になればと、近辺のガイドマップを全員にいただいた。

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魚切滝を通過
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潜龍峡ふれあいの里で、地元の方に話を聞く
 

出発が遅かったので、すでに正午を回っている。公園のあずまやで昼食をとってから、再び歩き出した。これから比高80mある片坂の峠を上るのだが、クルマの通る旧 国道ではなく、霧切谷(きりぎりだに)の近道を行くつもりだ。「霧切谷は歩けますが、大雨で崩れたところがあるから気をつけてください」と、その方に見送られて、公園を後にする。

少しの間、根の谷川の左岸の里道を下っていく。谷間にこだまする鳥の鳴き声を、「オオルリですよ」と相澤さんが即座に言い当てる。この道は昔の街道のようだ。その証拠に、下流で橋を渡って大きくカーブした道の脇に水準点(標高179.5m)があった。傍らに国土地理院の標識が立ち、標石も頂部に円い突起のついた美品だ。「小豆島の花崗岩が使われています」と今尾さん。

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(左)復元された旧県道の石畳
(右)旧県道の水準点
 

そばに小橋が架かっていて、霧切谷入り口と記してある。後で坂上で見た案内板によれば、三次方面から流れてくる朝霧が、谷を吹き上がる暖かい気流で消えることから、霧切の名があるそうだ。踏み入れると、落ち葉が散り敷いた険しい山道で、あの方の警告どおり、沢水が道を押し流した箇所があった。しかし、崖側に手すりが講じてあったので難なく突破し、10分あまりで片坂を上りきる。

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(左)霧切谷入口
(右)落ち葉散り敷く山道
 

峠の手前の旧国道脇には「上根河床礫層」の露頭があった。雑草がはびこってはいるが、土の崖に大小の粒石が露出しているのがわかる。「礫層は傾斜が緩いと流れてしまうので、垂直が最も安定してるんです」と横山さん。案内板によれば、同じ礫層が根の谷川両岸の山地に分布しており(下注)、争奪される以前、簸川の流域がさらに南へ広がっていたことを示すものだという。

*注 右岸(西側)の礫層は左岸より20mほど標高が高く、これは上根断層による変異と考えられている。

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上根河床礫層の露頭
 

それでは、簸川と根の谷川の間で起こったという河川争奪とはどのようなものなのだろうか。その過程を地図上に描いてみた(下図)。

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上根峠の河川争奪過程
矢印は流路の方向を表す
 

中国山地には、北東~南西方向のリニアメント(地形の直線的走向)が数多く見られる。国道54号が走る根の谷川から簸川にかけての谷筋もその一つで、ここには上根断層と呼ばれる断層が走っている。簸川は、かつて白木山(しらきやま)を源流とし、起伏の緩やかな老年期山地を北へ流れていた。それに対して、南下する根の谷川の流路は短く、したがって急勾配だ。さらに断層によって劣化した岩盤が、川の下刻作用を促した【上図1】 。

根の谷川の旺盛な谷頭侵食は断層に沿って前進し、やがて古 簸川の流域に達した。水流が奪われ、根の谷川に流れ込むようになった(現 桧山川)【上図2】。

侵食はなおも北へ進み、ついに上根以南の水流もすべて奪ってしまう【上図3】。それにより簸川の被争奪地点、今の上根周辺には、水流のない平たい谷、いわゆる風隙(ふうげき)が残った。一方、根の谷川は流量の増加で下刻作用がいっそう強まり、潜龍峡や霧切谷と呼ばれることになる深い渓谷を作ったのだ。

*注 上図は、徳山大学総合研究所「中国地方の地形環境」http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/gehp/index2.html、多田賢弘、金折 裕司「上根峠の河川争奪と上根断層」日本応用地質学会 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009798321
等を参考に作成

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旧国道(現 県道5号)のサミットは上根集落の中に
 

旧 国道が坂を上り切ったところに、その上根の集落がある。広島側は明らかに下り坂だが、三次側は平坦な道がまっすぐ続いており、勾配が感じられない。まさに片坂だ。峠下から山道を歩いて上ってくると、景観の激変が実感される。

中央分水界を横切る位置には、かつて郵便ポストが立っていた。すでに廃止され、現物は移設されているが、立て看板がその記憶を伝えている。「分水嶺ポスト:ポストの屋根右側に降った雨は日本海へ、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。また、戦争中に出征兵士をこの場所から見送ったことから、『泣き別れのポスト』とも言われています」。すぐ隣に上根峠のバス停があるから、遠くへ行く人を見送る場所でもあったのだ。

旧国道のポストに対して、新国道にも国土交通省が立てた「分水嶺」標識があるというので、行ってみた。北行き車線と南行き車線それぞれに設置されているが、デザインは別だ。しかし、どちらも分水嶺を左右対称の形に描いてあるのが惜しい。せっかくの珍しい片坂地形なのだから、それを図でも強調してほしいところだ。

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分水嶺ポスト跡
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新国道の分水嶺標識
(左)北行き車線は幾何学的
(右)南行き車線はイラスト風
 

標識の足もとの水路は、谷の凹部を流れており、現在の簸川の源流に相当する。上流へ後を追っていくと、国道をまたぐ陸橋のたもとで左へ90度曲がって東を向き、山手の寺(善教寺)へ向かう道に沿っていた。一方、寺の南側の浅い谷の小川は、空中写真によれば、霧切谷を通って根の谷川へ落ちている。ということは、陸橋と寺を結ぶ東西の線が、現在の中央分水界のようだ。

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(左)簸川源流の水路
(右)寺へ上るこの里道周辺がおそらく分水界
 

さて、上根峠探索のついでに、もう1か所行ってみたい場所があった。古 簸川の流域は峠を境に争奪されてしまったが、実はかつての上流部で、根の谷川やその支流の侵食がまだ達していないところがある。すでに根の谷川流域に取り込まれているものの、山の中腹に古い平地が残っているのだ。礫層露頭の説明板にある、上根と同じ礫層が分布しているのはそうした場所だ。

私たちは、そのうち最も近い平原(ひらばら)へ足を向けた。霧切谷を横切って、森の中のほぼ等高線と並行に延びる1車線道を歩いていく。20分ほどで視界が開けて、数軒の民家と、その前に平たい田んぼが広がっていた。猫の額どころかけっこうな広さで、根の谷川から比高120mの高みに載っているとは思えない。「なるほど平原ですね」と、地名の由来に思わず納得する。

ちなみに、峠より南にありながら、ここは安芸高田市八千代町(旧 高田郡八千代町)で、行政的には上根と一体だ(下注)。昔の人も、ここがもと簸川流域であることを意識していたのだろうか。

*注 根の谷川右岸の本郷などとともに、大字は向山(むかいやま)で、上根からの視点でつけられた地名のように思われる。

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平原の古 簸川上流域
 

平原から根の谷川の谷へ降りる道は、森の中の落ち葉に埋もれた、霧切谷よりさらに滑りやすい山道だった。しかし道筋は明瞭で、昔は平原の集落とバス道路を結ぶ近道として使われていたのだろう。谷へ降りたところに、上大林のバス停がある。クルマのところへ戻る相澤夫妻を見送って、私たちはここで15時10分に来る帰りのバスを待った。

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(左)根の谷川へ降りる山道
(右)上大林の集落が見えてきた
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2019年5月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-中央本線鳥沢~猿橋間旧線跡

東京駅から午前中に1本きりの大月直通快速に乗って、西へ向かう。2019年5月3日、コンターサークルS春の旅の2日目は、中央本線鳥沢(とりさわ)~猿橋(さるはし、下注)間の旧線跡を歩くことになっている。東京から比較的近く、かつ未整備のままで野趣に富むため、マニアの好奇心をくすぐるルートだ。

*注 猿橋の駅名は、1918(大正7)年まで「えんきょう」と読ませた。

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消失した御領沢橋梁
右の畑が橋梁に続く築堤跡
 

昨日の午後から好天が続き、車内にも眩しい日差しが届く。三鷹で特快に追い抜かれた後、駅ごとにハイカー客や部活姿の高校生が次々と乗り込んできた。高尾以遠でE233系10両編成は余裕の輸送力だと思うが、それでも立ち客が結構見られる。

中央本線が、八王子から小仏(こぼとけ)峠を越えて山梨県の大月まで開業したのは1901~02(明治34~35)年のことだ。以後、西へ順次延伸されていき、電化も戦前のうちに(1931(昭和6)年)、甲府まで到達している。しかし、複線化はずっと遅れ、高尾以西では1960年代にようやく始まった。

1968(昭和43)年9月20日に完了した鳥沢~猿橋間の複線化では、急カーブが存在する既存線を放棄して、まったく別の複線新線が建設された。桂川の深い谷を長さ513m、高さ45.4mの新桂川橋梁で一息にまたいだ後、長さ1222mの猿橋トンネルで河岸段丘をクリアするという、非常に大胆なルートだ。

それに対して旧線は、国道20号線と同じく北へ迂回していた。鳥沢駅を出てしばらくは左岸の山際を行き、中小4本のトンネルで山脚をしのいだ後、桂川の峡谷を渡る。日本三大奇橋の一つに数えられる猿橋が一瞬見られるので有名な車窓だった。ルート切り替え後、地表に出ていた旧線跡は大部分が転用されたものの、トンネルや橋梁の遺構は今も随所に眠っているという。

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鳥沢~猿橋間の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
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旧線が描かれた1:25,000地形図(1929(昭和4)年)
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拡大図に旧線の位置を緑で加筆
消失した施設は破線で描いた
 

この日、鳥沢駅の小ぎれいに改築された駅舎に集合したのは、大出、中西、森さんと私。サークルメンバーの中でも「鉄分」が濃いめの四人衆だ。駅前からは国道へ出ずに、細道を西へ歩き出す。線路際の祠の前に跨線橋があり、その上に立つと、旧線が右へ分岐するようすがよくわかった。

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(左)鳥沢駅西方、旧線跡(小道の左側)が右へ分岐
(右)廃線跡(画面左の空地)でもと機関士の方に話を聞く
 

少しの間、小道が緩やかにカーブしながら延びている。この左側(南側)が旧線跡で、やがてアパートや戸建て住宅の列に変わる。歩いていると、畑仕事をしていた人が顔を上げて、「どこへ行かれる」と尋ねる。目的を話したら、なんとその方はもと国鉄の機関士で、現役時代、EF64を甲府まで運転していたという。

道は国道に向かって急勾配で降りていくが、この上にかつて、曲弦下路トラスで谷を一気にまたぐ御領沢橋梁がかかっていた。「こっちの橋台はもうないが、向こう側(猿橋方)はまだ残ってるよ」と、この先の廃線跡のようすをいろいろと教えてくださった。

国道を横断し、対岸の踏み分け道を上ると、確かに草むらの陰に石積みの橋台が見つかった。谷からは相当な高さがあり、その規模が実感される。山際を続く廃線跡は、また畑や宅地に転用されていた。旧道がそれと交わるところはクランク状に曲がっていて、踏切だったことがわかる。

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御領沢橋梁
(左)東側橋台(中央の石垣付近)は消失
(右)西側橋台は残存
 

線路跡はたどれないので、並行する国道の縁を歩いていく。300mほどで、遊具やベンチが置かれた小さな公園に上がる小道があった。忘れられたような公園から、いかにも廃線跡然とした草むした空地が延びている。それは進むにつれて、次第に浅い切通しに変わった。

行く手を阻む倒木をかわしながら、なんとか一つ目のトンネルである富浜第一隧道(長さ120m)の東口にたどり着く。堅牢な石積みのポータルに護られるように、馬蹄形の坑口がぽっかり口を開けている。一応フェンスで塞いであるものの、一部が壊れていた。地元の人も近道に使っていたというとおり、内部の路面は乾いていて歩きやすい。石組みや煉瓦の天井もしっかりしていて、列車が行き交っていた半世紀前を想像しながら通過した。

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(左)遊具が置かれた小公園
(右)草むした廃線跡
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富浜第一隧道
(左)東口 (右)内部はまだ堅牢な状態を保つ
 

廃線跡の濃厚な雰囲気は、西口を出たとたん、残念ながら消えてしまう。次の富浜第二隧道(同 113m)へ向かっていた線路敷が、高く土盛りされて、小向地区の公民館敷地に転用されたからだ。隧道の東口もそれと運命を共にしたので、やむをえず旧道を迂回する。

ほの暗い竹沢の谷の中に回り込むと、目の前に石造りの橋台が突き出ていた。谷の反対側には、林を透かして高い橋脚も見える。どちらも竹沢橋梁の遺構だ。中西さんの姿がないと思ったら、橋台横の急斜面を熊笹につかまりながらよじ登っていく。しばらくして戻ってきたので聞くと、「富沢第二隧道のポータルが残ってます」と、カメラのモニターを見せてくれた。次の宮谷隧道(同 253m)の東口も竹沢の橋脚の先に見えるが、まともな道がない斜面で、探索は難しい。

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竹沢橋梁
(左)東側橋台 (右)谷間にそびえ立つ橋脚
 

この谷には、もう一つ見ものがある。1912(明治45)年竣工の八ツ沢発電所第三号水路橋だ。こちらは現役の施設で、上野原にある八ツ沢(やつさわ)水力発電所へ水を導いている。土木技術史上の価値が認められ、重要文化財に一括指定された発電所関連施設の一部だ。踏み分け道を伝って谷底まで降りてみると、水槽のような躯体をずんぐりした煉瓦アーチが支えていた。スマートな鉄道橋に比べればずいぶんと無骨だが、水の重量を受け止めるには必要な構造なのだろう。

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八ツ沢発電所第三号水路橋
(左)100年以上現役の水路橋
(右)煉瓦組みのアーチで支える
 

再び国道脇の狭い歩道を歩いて、宮谷隧道の西口へ。ネットに挙げられている先人のレポートによれば、道路の擁壁の上にポータル左上部がかろうじて残っているそうだが、雑草に覆われてよくわからなかった。次の大原隧道との間には、かつて高い築堤が一直線に延びていたという。しかし、国道レベルまで切り崩された上、現在はコンビニの駐車場やバス車庫の用地に転用されて、面影はまったくない。

大原隧道(同 364m)の東口は、国道の脇の斜面にある。親切にも斜面の上からトラロープが垂れ下がっていて、それを頼りにポータルの位置までよじ登ることができた。内部の状態も良さそうだが、フェンスがあるうえに、誰も照明を持っていないので、おとなしく国道を行くことにする。

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(左)築堤は切り下げられ、コンビニやバス車庫に転用
(右)林の陰に残る大原隧道東口
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大原隧道
(左)東口 (右)内部はカーブしている
 

隧道の西口は、猿橋へ通じる旧道へそれるとまもなく見えてくる。といっても、旧道の真下を抜けているので、道路から見えるのはポータルの最上部にある笠石と壁柱(ピラスター)頂部の飾り石だけだ。注意していないと見過ごすだろう。「居酒屋食堂 仙台屋」の横手から覗かせてもらうと、立派なポータルがあった。この隧道は内部が閉塞しておらず、遊歩道化する計画もあったというが、今は放置されたままだ。

隧道の先はすぐに桂川の深い峡谷で、第二桂川橋梁の橋台が両岸に残る。とりわけ西側のそれは住宅の土台に使われている。つまりこの住宅は崖際に建っているのだが、これほど頑丈な土台はないと思う。その後、廃線跡は国道を横切り(下注)、猿橋の町裏を通って現在線に合流するが、もはや遺構はないようだ。

*注 現 国道は旧線廃止後に建設されたので、当時踏切があったわけではない。

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大原隧道西口
(左)ポータル最上部が道路際に露出
(右)道路の下に西口がある
 

廃線跡探索からは脱線するが、古来の名所である甲斐の猿橋も見ておきたいと思う。ここは、富士山から流下した溶岩流により一時堰き止められた桂川が、その封鎖を突破した地点だ。激しい下方侵食により、長さ100m、高さ30mの目もくらむ峡谷が形成されている。

川幅が最も狭まるという点で架橋の適地なのだが、木橋を渡すには支間が広すぎる。そこで、両岸から刎木(はねぎ)と呼ばれる柱を少しずつ谷の上へせり出し、その上に橋桁を置いた。桁や梁についているミニチュアのような屋根は、雨水による腐食を防ぐためだという。

猿橋のすぐ上流には、車が通れる旧道の橋が架かっている。そこから見下ろすと、長さ30.9m、幅3.3mの古橋は、形状のユニークさといい、シチュエーションの壮観さといい、なるほど奇橋と賞賛されただけのことはある。ただし、これは1984年に、現代の技術を用いて架け直されたものだ。刎木はまるごと木材ではなく、H鋼に木の板を張り付けてあるのだそうだ。

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(左)甲斐の猿橋を渡る
(右)並行して架かる八ツ沢発電所第一号水路橋(画面中央)と国道橋
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橋の下は高さ30mの峡谷
 

猿橋近隣公園のあずまやで昼食にした。連休中、観光地はどこも大賑わいだが、ここは静かで、しばらく4人で談笑に耽る。「こんなに遺構が残っているとは思いませんでした」と森さん。「保存状態がいいのも驚きです」。明治期の官営鉄道施設は堅牢に造られていて、風化に耐え、今なお枯淡の美を保つものが多い。それを訪ね歩くのも、廃線跡趣味の醍醐味の一つだ。

大出さんが、近くの大月市郷土資料館に旧線関係の資料があるというので、行ってみた。猿橋の古い写真も展示されていて、そのうちの1点に旧線の鉄橋を渡る列車の姿が写っていた。通過の一瞬を捉えたものか、それとも後で描き足されたのか。今どきの観光列車のように、鉄橋の上で停車して、眺める時間を与えてくれるとは思えないが。

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(左)刎木で支える構造
(右)刎木のモチーフでデザインされた猿橋駅

この後は、猿橋駅から下り電車に乗り、二駅先の初狩(はつかり)駅を訪れた。急勾配が連続する中央本線には、通過式スイッチバックがたくさん造られたが、その中で初狩には唯一、当時の配線が残されている。そのようすを見ようというのだ。

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初狩駅付近の1:25,000地形図
(上)2015(平成27)年図 (下)1929(昭和4)年図
 

降り立ったのは、上下線に挟まれた狭い島式ホームだった。カーブの途中のため、プラットホームの中間線に、カントに見合う段差があるのが珍しい。このホームは25‰勾配の本線上にあるが、かつては甲府方に引き出された平坦線に設けられていた。その旧構内は保線ヤードに転用され、レールを運ぶ作業車両が休んでいる。一方、構内踏切を渡った先の木造駅舎はもとのままだ。東京方には、加速のために5‰の上り勾配のついた引出し線があるが、こちらは採石場に通じていたので、石材の積出しに活用されているそうだ。

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初狩駅
(左)昔ながらの駅舎
(右)上下線のホームに段差
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初狩駅のスイッチバック
(左)甲府方、旧ホームは撤去されて保線ヤードに
(右)東京方、引出し線に5‰の勾配
 

駅は無人で、私たちと一緒に電車を降りた人たちもすぐにどこかへ消えていった。山あいの駅構内には動くものもなく、時が停まったようだ。おりしも静寂を破って、甲府方からE353系の特急「あずさ」が現れ、本線をさっそうと滑り降りていった。その後を追ってくるはずの普通列車で、私たちも東京へ戻るつもりだ。

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上り本線をE353系が通過
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大月(平成27年調製)および上野原(昭和4年測図)、大月(昭和4年測図)を使用したものである。

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2019年5月 9日 (木)

コンターサークル地図の旅-鬼怒川瀬替え跡と利根運河

取手(とりで)駅から、関東鉄道常総線のディーゼルカーに乗って北上した。列車は最高時速80kmで疾走する。全線非電化にもかかわらず、途中の水海道(みつかいどう)までは堂々たる複線で、まっすぐ延びる線路の上に、遮るもののない大空が広がっている。都市近郊路線としては他に得難い風景だ。

2019年5月2日、コンターサークルS春の旅1日目は、常総線の小絹(こきぬ)駅が集合場所だった。小さな駅舎の改札前に集ったのは、中西さん、丹羽さんと私の3人。初めに、鬼怒川(きぬがわ)の瀬替え、すなわち流路付け替えの跡を見に行く。

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寺畑北方の小貝川分流跡
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常総線小絹駅
(左)ユニークな妻面をもつ駅舎
(右)乗ってきた列車を見送る
 

鬼怒川は、日光国立公園の一帯を水源とする主要河川だ。栃木県と茨城県西部を貫流し、守谷(もりや)の西で利根川に合流している。しかしこれは、江戸幕府による利根川東遷事業で瀬替えされた結果で、以前はつくばみらい市(旧 谷和原(やわら)村)寺畑で、小貝川(こかいがわ)と合流していた(下図参照)。そこから下流では、今の小貝川が鬼怒川の河道だったのだ。

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鬼怒川旧河道(瀬替え跡)と利根運河周辺の河川の位置関係
基図に1:200,000地勢図(2010~12年)を使用
 

17世紀、新田開発と水運の改良を目的として、鬼怒川を常陸川(ひたちがわ、下注)に短絡させる新たな流路の開削が計画された。両者の間には比高10mほどの猿島(さしま)台地が横たわっている。約8kmの新流路の東半は台地に入り込む支谷の一つを利用し、サミットの板戸井(いたとい、現 守谷市)で台地を深く切り通した。1629(寛永6)年に工事は完成し、翌年、旧流路が締切られて、鬼怒川は小貝川と完全に分離された。

*注 1654年の赤堀川通水の成功と、その後の拡幅により最終的に利根川本流となる。

この瀬替えによって、鬼怒川と小貝川の間には約1kmの廃河道が残されることになった。その現状を確かめようというのが今回の目的だ。

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鬼怒川旧河道周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちは、かつて鬼怒川が小貝川と合流していた伊奈橋をめざした。地形図を手に、駅から最短経路となる里道をたどる。空は曇りがちながら、暑くも寒くもなく、歩くには申し分ない日だ。このあたりは台地と谷地(低地)が入り組んでいて、道も少なからず上り下りがある。20分ほどで小貝川の堤に出た。

橋の南側が、かつての合流地点になる。堤防に面して水門があり、「四ヶ字(しかあざ)排水樋管」と記した立札が付いていた。堤の内側に目を移すと、水門に通じる水路が見え、住宅地の中の四角い池につながっている。これらはみな河道の名残と考えていいのではないか。水路のそばに矩形の石碑が立っているが、碑文は残念ながら摩滅寸前で、「治水?生」(3文字目は不明)という題字以外、判読できなかった。

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(左)小貝川と伊奈橋
(右)四ヶ字排水樋管
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(左)住宅地の四角い池を東望
(右)水路のそばの石碑
 

中西さんが地形図を指差しながら、「この蛇行水路が気になります」という。寺畑の北方にある、常総市とつくばみらい市の境界に沿った水路のことだ。南側に、連続する崖の記号を伴っている。「鬼怒川と小貝川をつないでいた水路でしょうか」「流水方向が手がかりになるかもしれない」と、寄り道することにした。

代掻きを済ませた田んぼの間の、ぬかるむ農道を歩いていくと、地図のとおり、攻撃斜面に相当する高さ2~3mの崖の連なりが現れた。崖下は、一部が湿田になっているほか、一面芦原に覆われて、残念ながら水流はまったく見えなかった。「蛇行のカーブがきついところを見ると、本流ではなく、小貝川の分流かもしれませんね」と丹羽さん。おそらく、下妻から水海道にかけて多く見つかる乱流跡の一つなのだろう。

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小貝川分流を縁取る農道にて
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小貝川分流に沿う低い崖の連なり
 

鬼怒川の河道跡に戻る。先ほどの四角い池から西側は盛り土されて、西ノ台の住宅街の一部になり、緩やかにカーブする道路だけが、流路の中心線を保存している。約300m西で住宅街が途切れた後は畑地となり、それが常総線の低い築堤まで続く。

国道294号線の両側では、河道跡のほとんどが埋め立てられ、ロードサイド店の駐車場になっていた。間に残された水路がさきほどの中心線の延長上にあるようだが、今や水たまり同然で、顧みる人もない。とはいえ、これが400年前の川の痕跡だとすれば、よくぞ残ったという感慨も湧いてくる。

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(左)河道跡をなぞる街路のカーブ
(右)駐車場に挟まれた水たまりのような水路
 

その西には、旧道が載る高さ4~5mの築堤が延びている。河道跡と直交する形状から見て、鬼怒川を瀬替えしたときの締切堤防に違いない。鬼怒川は河川敷の一段低いところを流れているはずだと、河畔林まで分け入ってみた。しかし、藪が鬱蒼と生い茂って、見通しがほとんど利かない。カメラに一脚を取り付けても、藪の背のほうがはるかに勝る。隙間からかろうじて水面を透かし見ただけで、現場を引き揚げざるを得なかった。

河川敷の畑の木陰で、昼食休憩にする。ちょうどそこに、畑の持ち主の方が農具を持って現れた。聞けば、この河川敷は私有地で、昔は毎年水に浸かった。今でも数年に一度は、冠水するのだという。広い堤外地は、遊水地の役割を果たしているのだろう。同時に、洪水は新しい土を置いていくから、作物の育ちはいいに違いない。

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(左)旧道が載る締切堤防
(右)藪から透かし見る鬼怒川の川面
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木陰のある河川敷の畑、背景は締切堤防
 

午後は、利根川の対岸に導水口がある利根運河(とねうんが)へ移動する。丹羽さんが早引けついでにと、車で送ってくれた。

利根運河は、利根川と江戸川を接続している約8kmの運河で、1890(明治23)年に開通した。その目的は、海の難所である犬吠埼沖を避けるために、東北地方と江戸(東京)を結ぶ東廻り航路で利用されていた内陸水運ルートの改良だ。銚子から関宿(せきやど)まで利根川を遡上した後、江戸川を下るのが従来ルートだが、距離が長く、一部に浅瀬もあって、輸送効率が悪かった。そこで、これをショートカットする運河の掘削が計画された。

オランダ人の土木技師ムルデルの監督のもと、民間会社が建設し、通行料を取って運営した。しかし、栄えた時期は短く、近隣で相次いで開通した鉄道(下注)に貨客を奪われ、内陸航路はじりじりと衰退していく。そして1941(昭和16)年、台風に伴う増水で堰や堤が壊れて経営が行き詰まり、施設は国有化された。交通路の役目を終えた運河は、一時、首都圏の水需要を賄う導水路に活用されたものの、その機能もすでになく、今は産業遺産として保存されている。

*注 1896年に日本鉄道土浦線(後の常磐線)田端~土浦間が開通、1897年には総武鉄道(同 総武本線)が錦糸町から銚子まで通じた。

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利根運河周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちが着いたのは、利根川の取水口から1km西にある運河水門だ。空を覆っていた雲はすっかり消え去り、初夏の眩しい日差しが降り注いでいる。朝から着ていたジャケットも、もう必要ない。帰る丹羽さんにお礼を言って、運河の北岸を江戸川のほうへ歩き始めた。

高堤防の上に、細い道が緩いカーブを描きながら、延々と続いている。あずまやの前で、春日部から自転車で来たという人に声を掛けられた。ここまで20数kmあるが、車道を走らなくて済むので、よくサイクリングするのだという。「運河駅まで歩くの? まあ5kmだね」とよくご存じだ。

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利根運河
(左)運河水門 (右)細々とした水量
 

運河は戦後、利根川の洪水を江戸川へ逃がす分派機能を託され(下注)、それに伴い、堤防の拡幅と嵩上げが行われた。このため、運河の幅は80~90m(天端間)、堤高は約5mと、見た目にもかなりのスケール感がある。ところが底の水路は細々としたもので、葦の茂みの間に水質が悪化しない程度の量が流されているに過ぎない。下流では周辺からの流入があり、さすがに水かさが増すが、それでも子どもの膝まで届かない深さだ。汽船が通っていたとは信じられないが、もちろん昔はもっと水位が高かった。利根運河碑の説明板によれば、開通当時は河底幅が18mしかない代わり、平均水深は1.6mあったそうだ。

歩き始めのうちは、堤の下が田んぼの広がる谷津(やつ)、すなわち谷間の低地だったのだが、進むにつれて地盤が上がり、いつのまにか堤よりもまだ上に斜面が続いている。鬼怒川の新河道と同じように、運河は、下総(しもうさ)台地を深く掘り割って造られたからだ。しかし、人工水路でありながら、水辺には低木も茂り、その部分だけフレームに切り取れば自然河川と変わらない。

*注 正式名称は「派川利根川」だったが、地形図では常に利根運河と注記されている。

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堤防上から見た風景
(左)三ヶ尾の谷津
(右)周囲からの流入で少しずつ水かさは増す
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自然河川のように低木が茂る
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堤の上は東京理科大キャンパス
野田線の鉄橋が見えてきた(アーチのあるのは歩道橋)
 

5kmの距離は長そうに思えたが、二人で鉄道のよもやま話をしながら歩いたら、もう運河を渡る東武野田線(アーバンパークライン)の鉄橋が近い。流山街道の西側は親水公園に開放されていて、子どもたちが水遊びをしていた。運河の上空には、色とりどりの鯉のぼりが五月の風を受けて泳いでいる。たなびく姿が水面に映って、その数以上に賑やかに見えるのがおもしろい。

時代の要請に次々と応じたあげく、実用的役割を失ってしまった運河だが、今はこうして、人々が憩うやすらぎの水辺として余生を送っている。水路の生涯もさまざまだ。背景の鉄橋を電車が通過するのを記念写真に収めて、ささやかな水路巡りの旅を終えた。

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運河の上空で鯉のぼりが泳ぐ
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水面に映る鯉のぼり、背景は野田線の電車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図守谷(平成17年更新)および20万分の1地勢図千葉(平成22年修正)、東京(平成24年要部修正)、水戸(平成22年修正)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

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2019年5月 1日 (水)

紀州鉱山軌道の楽しみ方

紀伊半島の山中を、ささやかなトロッコ列車が走っている。軌間2フィート(610mm)、走行距離は約1kmに過ぎないが、1日6往復の設定がある。しかし、鉄道事業法に基づくものではないため、市販の時刻表や鉄道路線図には一切載っておらず、知る人ぞ知るという存在だ。

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山あいの湯ノ口温泉駅にトロッコ列車が到着
 

三重県南端に近い熊野市の内陸部(旧 南牟婁(みなみむろ)郡紀和町)、熊野川支流の、瀞峡(どろきょう)で知られる北山川の左岸に、それはある。今は観光用に運行されているが、もとは鉱山軌道だった。

この地区では古くから小規模な採鉱が行われていて、1930年代に、石原産業が本格的な鉱山を開いた。採掘場は北山川の支谷に沿って点在し、鉱石から銅などの有用鉱物を選別する選鉱場が、紀和町中心部の板屋(いたや)に置かれた。軌道はこの間を結ぶもので、鉱石と作業員・資材の輸送を担っていた。鉱山の名から「紀州鉱山軌道」と呼ばれているが、メインルートの板屋~惣房間だけでも5.5kmあり、険しい山中のため、大半がトンネルだった(下図参照)。

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紀州鉱山軌道周辺の1:25,000地形図(1976年)に
軌道関連事項と新国道のルートを加筆
 

1940~50年代、紀州鉱山(石原産業紀州事業所)は、銅の生産量で国内有数の規模を誇った。しかし、1963年の貿易自由化後は、海外産に押されて採算が悪化していき、1978年、約40年の歴史に幕を降ろした。軌道もまた、それと運命を共にした。

鉱山は地域の基幹産業だ。その撤退という大きな試練に直面して、町は、観光開発に将来を託そうとした。鉱区の中心、湯ノ口地区は地名が示すとおり、昔は温泉が湧く土地だった。鉱山開発の影響で長らく枯渇していたが、閉山1年後に行ったボーリングで地中の源泉が発見され、温泉として再興された。

ただそこは鉱山軌道がなければ秘境同然の場所で、アクセスに難がある。それで、軌道の一部を利用して、利用客を温泉の前まで送り届ける計画が練られた。起点は、国道311号線からほど近い小口谷(こぐちだに)とされた。そこには鉱山のズリ捨て場があり、再開発用の空地には事欠かなかったからだ。

1987年に小口谷~湯ノ口間でトロッコ列車の試験運行が始まり、1989年からは通年で運行されるようになった。さらにその翌年、小口谷に、瀞流荘(せいりゅうそう)という新たな宿泊施設がオープンした。設備の整ったその施設に宿泊し、トロッコで湯ノ口温泉に通うというユニークなオプションが可能になった。

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瀞流荘駅に停車中のトロッコ列車
 

それから早や30年が経つ。温泉施設は近年改築され、装いを新たにしたが、トロッコ列車は当時のまま健在だ。マッチ箱のような小さな2軸木造客車がトンネルの中をゴトゴトと走り、湯浴みの客を運ぶとともに、鉱山軌道ありし日の面影を今に伝えている。

昨年(2018年)夏、この軌道に乗る機会があった。前夜、瀞流荘に泊り、ゆっくり朝食をとって、9時55分発二番列車の客となった。乗り場は宿の山側にあり、地名の小口谷ではなく、「瀞流荘」駅を名乗っている(下注)。ここはかつて操車場や修理工場がある鉱山軌道の拠点だったので、谷間に広い跡地が残されている。線路の手前は駐車場に使われ、奥は特産品の加工場になっているようだ。

*注 グーグルマップでは「トロッコ電車 小川口駅」と注記されている。

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瀞流荘駅
(左)駅舎 (右)出札窓口
 

木造平屋の駅舎で切符を売っている。運賃は、大人片道270円、往復540円、また、湯ノ口温泉の入浴券つき往復券が860円だ。さらに、トロッコと瀞流荘・湯ノ口温泉入浴が1日フリーパスになる「熊野湯めぐり手形」もある(下注)。これは、宿泊客の場合、往復運賃と同額の540円(宿泊しない場合は1080円)で買え、実質的に入湯が無料になる。瀞流荘に泊るなら、これ以上の選択肢はない。

*注 「熊野湯めぐり手形」は、瀞流荘のフロントでも購入できる。

駅舎を出ると、線路を2本はさんだ、屋根付きの相対式ホームがあった。右も左も山の斜面で、線路はトンネルに潜っている。天井が低いかまぼこ形をした、しかし複線仕様のトンネルだ。左の板屋側のトンネル(二号隧道)の中を覗くと、鉄格子の奥に車両らしきものが見え、車庫として使われているようだ。列車が進む右側は、加工場へ行く道路と交差し、谷川を渡ってすぐ三号隧道に入る。

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瀞流荘駅前後のトンネル
(左)板屋側の二号隧道は車庫代わりに
(右)湯ノ口側の三号隧道入口
 

乗るべき客車は、すでにホームに据え付けられていた。江ノ電色に塗られた2軸車の5両編成だ。茶室のにじり口並みの小さな引き戸を開け、腰をかがめて入る。内部は狭いながらも四方にベンチがあり、座布団が敷いてある。窓にはガラスが嵌っているが、鉱山軌道時代は、隙間を空けて板を貼っただけの、いわゆる無双窓だったそうだ。夏場はともかく、さすがにそれでは温泉帰りの客は乗せられまい。

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(左)機関車が機回しされてきた
(右)客車内部
 

機回しされてきた機関車が前に付けられた。台車の上に大きな平箱を載せた車両で、箱の中を見せてもらうと、多数のバッテリーが配置されている。これは実際に鉱山軌道で使われていた蓄電池式電気機関車で、いわば貴重な動態保存機だ。

かつて鉱山軌道の本線系統は、架空線が張られ、直流600V、パンタグラフ集電の電気機関車が活躍していた。一方、坑道内では、スパークによるガス爆発を避けるため、蓄電池式が使われていた。軌道復活に当たっては、架線設備の再建を要さない後者で、客車を牽引することになった。広告媒体などで「トロッコ電車」という表現を目にするが、実態はこういうことだ。

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蓄電池式電気機関車
(左)後部に運転台、直接制御器がある
(右)前部の蓋を開けると蓄電池の列が
 

私たちのほかにもう1~2組の同乗者を載せて、列車はほぼ定刻に出発した。走行する全線で複線の線路が残されているものの、1編成が往復するだけなので、単線で足りる。このときは隣の線路が途中で外されて、何か工事をしているようすだった。

ルートはみごとに直線で、微かな上り坂だ。三号隧道は長さが300mある。天井に照明があり、にじみ出る地下水で、側壁が鈍く光っている。トンネルを抜けると、大嶝(おおさこ)と呼ばれた明かり区間を、少しの間走る。地形図で見ると、北山川が接近しているが、木々に隠され、車窓からは見えない。次の五号隧道は730mと長く、途中で下り坂に転じる。

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走行区間の大半を占めるトンネル
(左)かまぼこ形の断面、全線複線
(右)中間部の短い明かり区間
 

10分ほどで湯ノ口温泉駅に到着した。ホームは沢をまたぐ鉄橋の上にあり、線路は左に急カーブしながら、閉鎖された六号隧道へ向かっている。駅舎の代わりに、片流れ屋根のかかった待合ベンチがある。ここも鉱山軌道のジャンクションの一つで、かつては機関庫その他の施設が建ち並び、三角線をはじめ多数の側線が谷を埋めていた。その後跡地は転用され、温泉施設と滞在用のコテージやバンガローの敷地になった。

折り返し列車の発車は10時55分で、50分ほど間がある。源泉かけ流しの湯ノ口温泉で、露天風呂に浸かる時間を確保しているのだ。もっとゆっくり過ごしたいなら、1本見送って次の列車(12時35分発)にすることもできる。1日6往復は、ほどよい列車本数だろう。

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湯ノ口温泉駅
(南端から瀞流荘駅方を望む)
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(左)湯ノ口温泉
(右)軌道構内の跡地に並ぶ温泉のバンガロー
 

鉱山軌道の楽しみはこれにとどまらない。トロッコと同じ軌道上を、レールバイク(軌道自転車)でも走ることができるのだ。レールバイクは2人で漕ぐが、電動アシストなので大して力は要らない。また、後ろに2人乗りの付随車(ベンチシートと呼んでいる)をつければ、計4人まで同時に移動できる。

アクティビティの要素もあって、実のところ、狭いトロッコ客車に揺られるよりはるかに開放的で爽快だ。料金は湯ノ口1往復で2,600円、ベンチシートはプラス640円だが、試してみる価値は十分ある。ただし、1台しかないので、瀞流荘への事前予約が必須だ。また、一人だけでは乗れない。

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レールバイク
(左)後ろに2人乗りのベンチシートを付けることができる
(右)電動アシストのマウンテンバイク2台を固定接続
 

出発時刻は決まっていて、行きはトロッコ発車の15分前、帰りは10分前だ。ということは、もたもたしていると、後ろからトロッコが追ってくるわけで、漕ぎだす前に、「もしトンネル内で立ち往生したら、後から来る列車にライトで合図してください」と注意を受けた。もちろん、ふつうに漕げば心配は無用で、トロッコが発車する頃には終点に到着している。

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鉱山軌道を自転車で疾走
 

鉱山軌道の楽しみの延長として、場所を少し移動すれば、当時の珍しい車両や鉱山施設跡を目にすることも可能だ。

瀞流荘から2kmほどの板屋地区に、1995年開館した紀和鉱山資料館がある。ここには、各種車両が静態保存されている。まず前庭にあるのが、パンタグラフ集電の電気機関車610号機が有蓋人車(客車)、鉱車(貨車)各1両を牽く形の「列車」だ。鉱車の上に索道搬器も吊ってある。隣の、簡易転車台から延びる軌道には、蓄電池式機関車230号機と軌道自転車が据え付けられている。屋根が架けられているものの、戸外のため、表面に錆が回り始めているのが痛々しい。その中で人車だけは美しく塗り直され、中に入って、例の無双窓からの景色を追体験できる。

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紀和鉱山資料館前庭の展示車両
(左)鉱車と有蓋人車、上空に索道搬器
(右)架空線式電気機関車610号機
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(左)「列車」には立派な屋根が架けられている
(右)簡易転車台に接続された蓄電池式機関車と軌道自転車
 

館内には、蓄電池式機関車229号機、同415号機、鉱車、作業員を運んだ無蓋人車などの展示がある。人形を使って当時の鉱山作業の様子が再現されており、そのセットの一部という扱いだ。そのほか、紀州鉱山の動静が記録された社内紙「石原紀州」の貴重なコレクションも閲覧に供されている。

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資料館内部の展示車両
(左)蓄電池式機関車と鉱車
(右)坑夫を乗せた無蓋人車
 

板屋には選鉱場があり、鉱山軌道で運ばれてきた鉱石を処理していた。案内板によれば、総面積2200坪、高さ75mで日本第二の規模、完成当時の処理量は1日1000トンで東洋一だったという(下注)。その跡は、資料館から山手へ歩いて数分のところにある。倉庫や修理工場が建っていた平地は、公共施設用地に転用されてしまったが、山の斜面を利用した選鉱場跡が、建物を撤去した状態で朽ちるがままにされている。

*注 ちなみに、選鉱場で純度を高めた精鉱は、全長14.7kmの索道で山を越え、紀勢本線阿田和駅で貨物列車に積まれた。

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板屋選鉱場跡の廃墟
 

敷地内は通常立入禁止で、麓からの観察になる(下注)が、斜面にそびえるコンクリートの梁と柱、這い上がるインクラインのレールや階段など、見上げる廃墟の景観は、巨大なだけにかえって寂寥感を誘う。

*注 熊野市観光公社が年1回開催しているツアーに参加すれば、立入禁止区域の選鉱場上部や坑道を探索できる。

傍らには、鉱山軌道の一号隧道が口を開けている。複線の線路も残されているが、鉄格子の扉が閉まっている。このトンネル(一号・二号隧道)の反対側の出口は、「瀞流荘」駅のある小口谷だ。

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(左)インクライン跡
(右)一号隧道入口、内部には鉄格子扉が
 

最後に、この地への交通手段を書いておこう。

瀞流荘に泊る場合は、JR紀勢本線の熊野市駅まで送迎バスを出してくれるので、宿泊予約の際に確認するとよい。

公共交通機関で行く場合は、熊野市駅前から、熊野市バス「熊野古道瀞流荘線」(三重交通に運行委託)に乗る。資料館および選鉱場跡は「板屋(鉱山資料館前)」下車、トロッコ乗り場は終点「瀞流荘」下車だ。所要時間は約50分、1日4往復(2019年4月現在)しかないので、発車時刻には要注意だ。下記サイトに路線図と時刻表がある。

熊野市バス http://www.city.kumano.mie.jp/kurasi/kumanosi_bus/

本稿は、名取紀之「紀州鉱山専用軌道-その最後の日々」RM LIBRARY 212, ネコ・パブリッシング, 2017年、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図瀞八丁、大里、伏拝、本宮(いずれも昭和51年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
熊野市観光公社 http://kumano-kankou.com/
瀞流荘 https://www.ztv.ne.jp/irukaspa/
紀和鉱山資料館 https://kiwa.is-mine.net/

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