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2019年1月14日 (月)

コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

国分寺崖線を巡った翌日11月25日は、一気に茨城県北部まで飛んで、名勝「袋田の滝(ふくろだのたき)」を訪れた。それだけならただの物見遊山なので、ついでに滝周辺の山地に現れているケスタ地形を観察しようと思う。

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第一観瀑台から見た袋田の滝
 

ケスタというのは、スペイン語由来の地形用語(下注)で、層を成す岩石の硬さの違いで断面が非対称の波形になった山地のことだ。もう少し説明すると、緩やかに傾斜している地層で、硬い岩層と比較的軟らかい岩層が交互に重なっていた場合、前者は後者に比べて侵食されにくい。そのため、長い間風雨に曝されるうちに、後者が露出しているところが先に流失し、前者のところは残る。断面で見ると、片側(軟らかい岩が侵食された跡)が急斜面で、反対側(残った硬い岩)が緩い傾斜という、片流れ屋根のような形の山地になる。これがケスタ地形だ。

*注 スペイン語の cuesta(原語の発音はクエスタ)は、坂、斜面を意味する名詞。

袋田周辺では、硬い岩がデイサイトの火山角礫岩、軟らかい岩は凝灰質の砂岩や頁岩で構成されている。下図に見える生瀬富士から月居山(つきおれやま)、そして422.7mの三角点にかけて続く南北の尾根が、侵食に抵抗する硬い岩層だ。尾根の西側に崖の記号が連なり、急斜面になっているのがわかる。図の中央を流れる滝川は、尾根の東側の準平原(旧 生瀬村)から水を集めて、このケスタの壁を突破する。その地点に、袋田の滝がかかっている。

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袋田の滝周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

この日、朝方は冷え込んだが、日が高くなるにつれ、秋らしい晴天になった。東京からの列車の便を考慮して、集合時刻は遅めに設定してある。私は水戸で前泊したので、朝、水郡線を常陸太田(ひたちおおた)まで往復してから、上菅谷(かみすがや)で袋田方面へ行く下り列車を待った。やってきた329Dはなんと4両編成。袋田の滝はとりわけ紅葉の名所で、見ごろになると多くの見物客で賑わうと聞いている。そのための増結なのだろうか。

水戸から乗ってきたのは今尾さんと真尾さん、それに袋田駅前に丹羽さんが車で来ていた。本日の参加者はこの4人だ。袋田駅到着10時31分。駅に置いてあったハイキング用のルートマップを手に、駅前広場から滝方面の茨城交通バスに乗った。終点の停留所は「滝本」という名だが、バスの方向幕に「袋田滝」と大書してあるから迷うことはない。

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(左)バンガロー風の水郡線袋田駅舎
(右)1日4往復の滝本行き路線バス
 

滝本バス停に降り立つと、観光バスや乗用車から降りた観光客がぞろぞろと歩いている。滝へは約600m、とりあえず私たちもその流れに乗って、滝へ向かった。途中で滝川を渡り、さらに土産物屋の軒に沿って進むと、袋田の滝の矢印標識が見えてきた。この先は山の急斜面を避けて、山腹に歩行者専用のトンネル(下注)が掘られている。

*注 袋田の滝トンネル、長さ 276.6m、1979年完成。

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滝本バス停に到着
後ろの山は生瀬富士
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(左)袋田の滝入口
(右)トンネルを歩いて観瀑台へ
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滝と観瀑台の位置関係
入口の案内板を撮影
 

入口で300円の入場料を払って、中へ。突き当りが第一観瀑台だ。滝は四段に分かれていて、ここからは最下段が真正面になる。遠近感が狂ってしまうのか、太鼓腹のように膨れた滝の壁が手を伸ばせば届くところに見える。水音とあいまって迫力満点だ。流量が思ったより少なく、上から三段目では水流が最もへこんだ所に集中してしまっているが、最下段に来ると一転、歌舞伎で投げる蜘蛛の糸のように細かく割かれ、ごつごつした岩肌を勢いよく滑り落ちていく。

*注 滝の高さ120m、幅73mと書かれていることが多いが、1:25,000地形図で見る限り、落差はせいぜい60~70m、幅も最大約50m(四段目)だ。後述する生瀬滝を合わせても高低差は120mには届かない。

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第一観瀑台
滝の最下段が正面に来る
 

「これは一枚岩ですか?」と誰かが問う。だが、滝の成因などを記した案内板は見当たらない。「観光案内だけでなく、地質的な解説もほしいですね」。後で大子町文化遺産のサイトその他を見ると、滝に洗われている岩を含む周辺の火山角礫岩はおよそ1500万年前、東北日本が海の底だった頃に火山活動で生じたものだと書かれている。

溶岩流が冷却固結した後に割れて礫となり、それが堆積したものが火山角礫岩だ。冷却する際に、収縮作用によって規則性のある割れ目、いわゆる節理が発達している。後に陸化し、川の流路に露出したとき、比較的軟らかいこれら節理や断層の部分が削られて、段差が拡がっていった。岩には大きな節理が四本走っており、それが四段の滝になった理由だそうだ。

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滝の下流を望む
 

惜しいことに第一観瀑台では、最上段が隠れてしまい、二段目もよく見えない。そのため、第二観瀑台が上部に造られていて、エレベーターで昇ることができる。ところが、乗り場に行くと、団体客の長い列が延びていた。他に上る方法はないので、おとなしく順番を待つ必要がある。「しかし、だいぶ時間がかかりそうですね」。私たちは行列を敬遠して、トンネルの途中から吊橋のほうへ折れた。

吊橋は、滝のすぐ下で川を渡っている。ゆらゆら揺れる橋の上から足を踏ん張りながら眺めると、斜め角度で見える滝の白糸もさることながら、その横にそそり立つ断崖の威圧感が際立つ。紅葉は盛りを過ぎたようだが、飾りがなくとも地形本体だけで見応えは十分だった。

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(左)滝川を渡る遊歩道の吊橋
(右)川床には滝壁と同じ岩質の巨岩が転がる
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吊橋から見た滝と背後の断崖
 

この後、ケスタ地形を俯瞰しようと、月居山(つきおれやま)へ登る山道、月居山ハイキングコースに挑んだ。吊橋の下手にある鉄製階段が入口だ。「生瀬滝まで片道20分」と記された案内板を横目で見ながら上り始めたら、直登に近い心臓破りの階段道が果てしなく続いていた。「登山では、最初飛ばすと後で疲れが来るので、意識的にゆっくり上るのがいいんです」と今尾さん。途中、木の間を透かして滝が見える場所があったが、ゆっくり眺める余裕もなく上り続ける。かなり上ったところで左へ分岐する道があり、その後ほぼ水平に進むと、小さなテラスに出た。

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月居山ハイキングコース
(左)入口の鉄製階段
(右)直登に近い階段道を行く。背景は天狗岩
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木の間を透かして滝が見えた
 

そこが、生瀬滝(なませだき)の観瀑台だった。生瀬滝は袋田の滝の一段分ぐらいの規模(大子町サイトによれば、落差約15m)だが、同じように数段の段差がある。さきほどの観瀑台とは違って滝までは距離があり、遠くから俯瞰する形だ。ちょうどベンチが一脚あったので、腰を下ろして、滝見がてらの昼食タイムにした。

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生瀬滝遠望
 

真尾さんは飛行機を予約しているので、ここで引き返し、残る3名が階段道に戻って、月居山(つきおれやま)の前山を目指した。途中、山道を勢いよく駆け降りてくるジャージ姿の高校生とすれ違う。階段で足を滑らせても、平気なようすだ。「部活のトレーニングでしょうか」「足幅分もないような狭い階段をよく走れますね、忍者みたいだな」と感心する。

階段が終わってもなお、坂道は続いた。尾根に出ると眺望が開け、右手に滝川の谷を隔てて、秋の陽に照らされる生瀬富士が見えた。赤や橙に色づいた山肌はみごとだが、その間に不気味な断崖も見え隠れしている。南西向きのこの斜面が、ケスタの壁だ。

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断崖が見え隠れする生瀬富士を、尾根道から望む
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険しい道だが歩く人は多い
 

山道は要所ごとにポイント標識が立ち、よく整備されている。しかし、ようやく登りきった前山の山頂には何の案内板も見当たらず、拍子抜けした。標高は約390mに過ぎないが、近くに視界を遮る峰がないので、遠くまで眺望がきく。この後は急な下り階段だ。降りきる手前にあった朱塗りの月居観音(月居山光明寺観音堂)にお参りした。その下に鐘楼もあり、誰でも鐘をつけるようになっている。

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(左)月居観音の小さなお堂
(右)観音堂下の鐘楼で鐘をつく人
 

前山と月居山の間にある鞍部は月居峠と呼ばれ、生瀬から袋田へ通じる近世の山越えルートが通っていた。尾根伝いの登山道とは十字に交わっている。「どの道を行きましょうか」と私。直進すれば月居山頂だが、また険しい山登りを覚悟しなければならない。

「ケスタ地形の崖じゃない側も見てみたいですね」という提案に同意して、私たちは古道を東へたどり、水根地区へ降りていった。近世の重要路も、今や落ち葉が散り敷く一筋の踏み分け道と化している。20分ほどで水根橋のたもとに出た。ひっそりとした小さな集落を低山が取り巻いている。滝川の支流の一つである水根川の流れも、まだ静かなものだ。

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(左)落ち葉散り敷く月居峠古道
(右)旧道が通る水根橋
 

この橋を通っているのは、袋田へ抜ける国道461号線の旧道(当時は県道日立大子線)で、1976(昭和51)年に新月居トンネルが完成するまで、主要道として使われていた。月居山の主尾根を長さ273mの月居隧道で貫いているので、歩き通せば、片流れ屋根の地形を実感できるはずだ。

道路はすぐに坂道になり、切通しの中を通過していく。カーブの先に、隧道が見えてきた。その手前で上空を水路橋が渡っているのが珍しい(下注)。隧道はポータル、内部ともコンクリート覆工で、古さを感じさせないが、実は1886(明治19)年竣工で、130年以上の歴史がある。最初は内部が素掘りのままだったが、後年改修されたのだそうだ。ポータルも煉瓦か石積みだったはずで、そのままなら文化財になっていたに違いない。

*注 水路橋は道路を横切る川を通しているが、これもコンクリート製で、明治期のものではない。

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月居隧道東口
(左)切通しで隧道へ
(右)水路橋が道をまたぐ
 

真っ暗闇の隧道を手探りで抜けると、ケスタの崖の山腹に出た。小さな集落が道路にへばりついているが、人の気配はなさそうだ。視界が開け、久慈川の谷にかけて黄や橙に色づく山並みが一望になった。崖の側でも一歩離れたら、もう穏やかな風景が広がっているのだ。旧道は、山襞に沿って曲がりくねりながら高度を下げていく。

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月居隧道西口は斜面の中腹に開いている
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旧道から展望する久慈川の谷にかけての山並み
 

途中から七曲りの山道を経由して、滝本の里に出た。駅まで歩いて戻ることにしたのだが、途中、ふじた食堂という店の前まで来たとき、「どうですか」と呼び止められた。おばあさんが店先で蕎麦を打っている。長い歩きで三人とも小腹がすいていたので、ためらうことはなかった。出されたのは、太めで長さも不揃いの素朴な手打ち蕎麦だったが、おいしくいただく。その後、蕎麦湯や肉厚の梅干しを賞味していたら、長居し過ぎて、危うく水戸へ帰る列車の時刻を忘れるところだった。

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素朴な手打ち蕎麦
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図袋田(平成28年調製)を使用したものである。

■参考サイト
大子町文化遺産 http://www.daigo-bunkaisan.jp/
茨城県北ジオパーク構想-袋田の滝ジオサイト
https://www.ibaraki-geopark.com/geosite/hukuroda/

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2019年1月 8日 (火)

コンターサークル地図の旅-国分寺崖線

コンターサークル2018年秋の旅の舞台は関東に移る。11月24日の集合場所は都内、中央線と武蔵野線が十字に交わる西国分寺駅だ。この駅の構造はちょっとおもしろい。後からできた武蔵野線(1973年開通)が地表付近を突っ切り、歴史的にずっと先輩の中央線(1889年開業、下注)は、それを避けるかのように掘割の底を通っている。なぜこのような配置になっているのだろうか。

*注 路線の正式名称は「中央本線」だが、本稿の記述は列車系統で使われる「中央線」に統一する。

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国分寺崖線に沿って歩く
 

それは、中央線が通過する地形に関係がある。武蔵野台地の地盤が、西隣の国立駅の手前で一段低くなっているのだ。その差は10m強。加えて東側にも、野川(のがわ)が削った谷がある。この高低差を緩和するために、中央線はここで地面を深く切り通し、線路の位置を下げて建設された。対する武蔵野線はそれをまたぎ越せればいいので、結果的に地表を通れることになる(下注)。

*注 ただし、武蔵野線の西国分寺駅以南は、地表を走っていた通称 下河原線の一部を転用したという事情も影響していよう。

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(左)西国分寺駅改札内コンコース
 武蔵野線下りホームから撮影
 中央線のホームへはさらに左右の階段を降りていく
(右)国分寺の花沢橋から西望
 中央線は切通しを抜け、
 野川の谷を築堤で横断、再び切通しへ
 

本日のテーマは、この地盤の段差によって生じた斜面、すなわち段丘崖だ。中央線が突破している崖のラインは、立川市北部で顕著になり、およそ南東方向に大田区まで30km以上続いていて、国分寺崖線(こくぶんじがいせん)と呼ばれる。

武蔵野台地は、もともと多摩川により関東山地から運び出された砂礫が堆積してできた扇状地だ。その後、多摩川の流路が南遷する過程で側面が削られ、段丘が形成された。西国分寺駅が載る上位段丘の武蔵野面に対し、国立の市街地は一段低い立川面にある。その境目が国分寺崖線だ。ちなみに立川面と、多摩川の沖積低地との境にも段丘崖が存在し、こちらは立川崖線と呼ばれている(下図参照)。

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国分寺崖線と立川崖線の概略位置
ベースは1:200,000地勢図(2012(平成24)年要部修正図)

この日の午前10時、西国分寺駅の改札内コンコースに集合したのは、今尾さん、大出さん、中西さんと私の4人。午後に予定が入っている人が多いので、短時間で行けるところまで行くことにして、ルートを熟知している今尾さんの案内でスタートした。

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西国分寺~新小金井間の1:25,000地形図と陰影起伏図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)
 

まず、崖線に沿って流れ下る野川の源流に足を向けた。武蔵野線のガードをくぐって、府中街道を横断し、階段を降りて恋ヶ窪の谷底へ。旧道を北へ少し歩くと、恋ヶ窪用水の由来を記した案内板が立っていた。玉川上水(後に砂川用水)からこの低地を経て、崖線沿いの旧村へ引かれていた水路だ。住宅街にはさまれて右へ、その流れと小道が寄り添うように延びている。

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姿見の池に向かう恋ヶ窪用水
 

たどっていくと、まもなくこんもりとした林地が現れた。中央にカルガモが泳ぐ池があり、木橋の上から園児の一団が楽しそうにそれに見入っている。これは姿見の池といい、昭和40年代にいったん埋められたものを復元整備したものだ。水は、地下水位上昇に伴う浸水対策を兼ねて、武蔵野線のトンネルで湧く地下水を引き込んでいるという。谷戸(やと、下注)と呼ばれるこうした谷間の湿地は、宅地に向かないため、まさに日陰の存在だった。時代が変わり、それが市民の憩いの場として見直されているのだ。

*注 地域によって、谷津(やつ)、谷地(やち)などとも呼ばれる。

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姿見の池も蘇り、市民の憩いの場に
 

池から続く谷間を下流へ歩いた。黄色い電車が颯爽と走る西武国分寺線のガードをくぐり、日立中央研究所の森を限る高い塀に沿って進む。そこをねぐらにしているのか、烏が太い声で鳴き交わしている。姿見の池から来た水は研究所内の大池に注ぎ、再び流れ出て野川となる。その先を追うには築堤上を走る中央線を横断しなければならないが、「築堤を突っ切る道がないので、陸橋まで迂回します」と今尾さん。

マンション脇の坂を上って、中央線を乗り越える花沢橋を渡った。東隣の国分寺駅がもう目の前だが、この駅のホームも掘割の中にあり、複雑な地形の起伏が実感される。それから住宅街の中の階段を降り、崖をなぞる形で蛇行する道をたどった。「泉町という町名ですね」「昔はここにも湧水があったんでしょうね」。しかし、今は斜面までびっしりと宅地化され、道に面して車庫、その上に住居という構造の住宅が並んでいる。泉どころか緑も乏しい。

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(左)野川沿いの小道、斜面もびっしり住宅で埋まる
(右)野川は深い溝の中
 

国分寺街道と交差する一里塚橋の手前まで来ると、野川は自らの狭い谷を離れ、広い下位段丘面(立川面)に出る。私たちは崖線沿いに東へ進んだが、反対側、西約1kmにある武蔵国分寺跡も必見だ(下注)。後日一人で訪れたが、古代人が崖線を意識してこの地を選んだことがわかった。

*注 府中街道と武蔵野線をはさんで東側には、国分尼寺跡もある。

それは、ちょうど国府から北へ延びる官道(東山道)が崖線を越えようとする位置にある。現場の案内板によると、伽藍は崖線を背にして、その南面一帯に配置されていたようだ。崖線の下からは今も清水が湧き出し、中の島に祠を祀る真姿の池を潤していた。昔はもっと多くの湧水があったそうで、寺の財源である水田経営にとっても有利な場所だっただろう。崖線周辺は雑木林が保存されていて、都市化以前の風景を想像させてくれるのもうれしい。

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武蔵国分寺跡
奥に見える林が国分寺崖線
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国分寺・国分尼寺の伽藍と崖線の位置関係図
現地案内板を撮影
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(左)中の島に祠のある真姿の池
(右)崖線沿いに残る雑木林は都立公園として保護されている
 

話を戻そう。

国分寺街道を横断して、さらに東へ進む。崖に沿うこの一車線道は「ハケの道」と呼ばれている。崖のことを、古語で「ハケ」というからだ。しかし、鉄道駅に近いので、泉町同様、斜面もすべて家やマンションの用地にされ、段丘の上下を長い階段が結んでいる。年配の女性が手すりにつかまりながら、それを上っていく。高低差がせいぜい15mとはいえ、「毎日これで駅へ通うとしたら、どうでしょうね」。地形的にはここも「ハケ」に違いないが、植生を剥がしてコンクリート張りにしてしまってはイメージが合わない。

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(左)国分寺駅へ向かう道が急坂で崖線を上っていく
(右)住宅街にも崖線の上下を結ぶ階段が
 

もちろん、国分寺跡にあったような崖線の雑木林と、湧水地いわゆるハケの水が見られる場所もまだいくつか残されている。一つは、今回訪問しなかったが、国分寺駅近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園だ。もとは岩崎家の別邸で、現在は都立公園になっている。湧水が注ぐ池が深い谷底にあり、段丘上に設けられた休憩所(紅葉亭)から見下ろすことができる。崖の落差を視覚的にも利用した劇場風の回遊式庭園で、コンパクトながら見応え十分だ。

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殿ヶ谷戸庭園
紅葉亭から崖下の次郎弁天池を俯瞰
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(左)崖を流れ落ちる滝
(右)崖を斜めに下る竹の小道
 

私たちは、その800mほど東にある新次郎池を見た。東京経済大学の敷地内で、林に囲まれた薄暗い窪地に小さな池があり、周囲の崖下5か所から湧水が流れ込んでいる。傍らの銘板によれば、かつてここにはわさび田があったといい、新次郎というのは、それを池を整備した時の東経大の学長の名だそうだ。湧水に手を浸してみる。「おっ、暖かいですね」。今日の最高気温は13度、もはや地下水のほうが暖かく感じる季節になっているのだ。

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林に囲まれた薄暗い窪地にある新次郎池
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(左)一つ一つの湧水は少量だが
(右)池の堰を落ちるときはまとまった水量に
 

さらに200mほど進み、貫井(ぬくい)神社の前まで来た。石の鳥居をくぐると、色づき始めたモミジを映す大きな池がある。その上に架かる朱塗りの橋を渡り、水神様(市杵嶋姫命)を祀る本堂の前に出た。建物を囲むように水路が造られ、清水が流れている。湧出口があちこちにあるらしく、奥から手前へと見る見る水量が増えていくのには驚いた。

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水神様を祀る貫井神社
朱塗りの橋で池を渡る
 

新次郎池も貫井神社も、同じように段丘に食い込んだ形の窪地(下図参照)だ。かつては崖を侵食するほど豊かな湧水があったことを想像させる。都市開発が進み、地表がコンクリートやアスファルトに覆われると、降った雨は雨水管に直行してしまい、地中に浸透しなくなる。減少する地下水に連動して湧き出す水量も減り、すでに枯渇したものも少なくないそうだ。

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新次郎池と貫井神社附近の1:10,000地形図
 

最後に訪れたのは、新小金井街道の脇にある滄浪(そうろう)庭園。大正時代に実業家の別荘の庭として造られたもので、現在は小金井市が管理している。同じように段丘上に入口があり、崖下の湧水を引いた池まで降りていける。池の周りには針葉樹やモミジが鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い森を作っていた。ハケと呼ぶにふさわしい空間だ。「お屋敷の庭といっても相当広いですね」「市街地が拡大する前のものでしょうからね。残っていてよかったと思いますよ」。

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滄浪庭園入口
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崖を降りて池のほとりへ
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鬱蒼と茂る森に差し込む光
 

時刻を見たら、もう12時を回っている。どこかに食べる所があるだろうと手ぶらで来たので、崖線を巡る旅をここで切り上げ、武蔵小金井駅前に出た。昼食を共にして解散する。

改札で3人を見送った後、私はハケの道をさらに下流へ歩いてみた。中央線の駅勢圏から遠ざかるにつれ、風景は郊外色を帯びてくる。国分寺界隈とは違って、住宅地の間に少なからぬ面積の緑地が点在している。地形図に示した、はけの森緑地や美術の森がそうだ。小金井第二中学校の向かいには、個人宅の表札を掲げた大きなキウイ農園(はけの森果樹園)もあった。

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(左)美術の森
(右)はけの森果樹園のキウイ畑
 

やがて道は、はるかに広大な緑地、武蔵野公園に入っていく。土曜日とあって、子どもたちの歓声が広い谷間にこだましている。園地を貫く野川の流れは潤いというにはささやかだが、人工物が少ない風景は自然と心が落ち着く。晩秋の日は短い。午後3時を過ぎるともう、地面に落ちる林の影が長くなってくる。野川公園は北門をカメラに収めただけで、帰途に就くべく、私は新小金井駅に通じる崖線の坂を上っていった。

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武蔵野公園
(左)遠くから子どもたちの歓声が聞こえる
(右)紅葉する公園の樹々
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(左)西武多摩川線の電車が野川を渡る
(右)野川公園北門
 

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図国分寺(昭和61年編集)、2万5千分の1地形図立川(平成30年調製)、吉祥寺(平成30年調製)および20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)を使用したものである。起伏陰影図は地理院地図ウェブサイトより取得した。

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