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2018年12月 6日 (木)

オーストリアの地形図略史-帝国時代

プロイセンのザクセン侵攻から始まったいわゆる七年戦争は、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ長い戦いになった。その中でオーストリアは、プロイセンに占領されていたシュレージエン(シレジア)Schlesien の奪回を目論んだのだが、果たせないまま1763年に講和に臨まなければならなかった。

戦時中、軍部の指導者は、作戦の立案と実行に際して、自国領土を描く詳しい地図の必要性を痛感していた。それまで地図作成といえば各地の領主の仕事で、所有地の記録に添えて提出する見取図のレベルだったからだ。終戦の翌年(1764年)、女大公マリア・テレジアの承認のもと、宮廷参謀会議は、参謀本部による包括的な土地測量に必要な命令を出した。

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「ヨーゼフ皇帝の土地測量」彩色原図 ウィーン市街と西郊
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これが、オーストリアで全国規模の土地測量が実施されることになったいきさつだ。1918年に帝国が解体されるまでの約150年間に、こうした土地測量が4回実施されており、それぞれ当時の大公・皇帝の名を冠して呼ばれている。初回の事業には20年以上の期間を要し、1785年、マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世の時代にようやく完成したので、「ヨーゼフ皇帝の土地測量 Josephinische Landesaufnahme(あるいは第1回土地測量 Erste Landesaufnahme)」の名がある。

測量原図は、図上の長さ1ツォル Zoll が実長400クラフター Klafter になる縮尺(下注)で作られた。分数表示ではほぼ1:28,800になる。まだ三角網が構築されていないため、位置関係は正確でなく、ケバ式による地勢表現もスケッチの域を出ていない。しかし、市街地や道路・水路網はもとより、耕地、牧草地、葡萄園、沼地、森林など、産業革命前夜の土地景観が手彩色で明瞭に描かれている。これらは、軍の測量官が馬で現地を調査して丹念に写し取ったものだ。

*注 ツォル(英語圏のインチに相当)、クラフターともドイツ語圏で広く使われていた単位だが、地域によって基準が異なり、ウィーンでは1ツォル=2.634cm、1クラフター=1.8965 mだった。

地図の総数は3,589面(後に4,096面に拡大)にのぼり、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー、ネーデルラントなどハプスブルク家の承継地があまねく含まれた(下注)。この原図4面から、縮尺約1:115,200の地図も編集されている。

*注 オーストリア領ネーデルラント Österreichische Niederlande は、現在のベルギー西部やルクセンブルクに相当する地域。なお、チロル Tirol については、別途1774年に、縮尺1:103,800の地図集成「アトラス・ティロレンシス Atlas Tirolensis」が作られた。

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「ヨーゼフ皇帝の土地測量」彩色原図 グログニッツ Gloggnitz 周辺
image at wikimedia

■参考サイト
Europe in the XVIII. century
https://mapire.eu/en/map/europe-18century-firstsurvey/
 ヨーゼフ皇帝の土地測量(第1回土地測量)の彩色原図が見られる

オーストリアのハプスブルク家が皇帝を世襲する神聖ローマ帝国はとうに形骸化していたが、ナポレオン台頭の煽りを受けて、1806年に完全消滅した。帝国解散を宣言したのがフランツ1世(神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世)で、その治世に、新たなオーストリア帝国の領土をカバーする地図作成事業が始まった。これが「フランツ皇帝の土地測量 Franziszeische Landesaufnahme」と呼ばれる第2回土地測量 Zweite Landesaufnahme(1807~29年)だ。

作業に先立ち、専門機関として1806年、参謀本部に地形図製作所 Topographische Anstalt が設置された。これが1839年に軍事地理研究所 Militärgeographische Institut に改組されて、第一次世界大戦の終結まで軍用地図の作成機関となる。

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「フランツ皇帝の土地測量」彩色原図 グラーツ市街
image at mapire.eu

この土地測量が第1回と違うのは、地図作成にあたって三角測量法が導入されたことだ。また、時期を同じくして、土地税評価の統一基準を確立するために地籍測量(「フランツ皇帝の地籍測量 Franziszeischer Kataster」と呼ばれる)が実施されており、この成果も取り込まれた。これらにより、地図の精度が格段に向上し、土地利用景の描写が詳細になった。また、ケバの描き方も目に見えて改良されている。

縮尺は前回と同じく、実長1クラフターが図上1ツォルで表される1:28,800だ。図葉数は3,300を超え、この成果から1:144,000特別図 Spezialkarte、1:288,000一般図 Generalkarte が編集された。この編集図は軍用にとどまらず、公開の扱いとされたことも特筆される。

その後、更新作業が進められ、一部の図葉には鉄道路線などの経年変化が描き加えられた。しかし、最終的にハンガリー、ジーベンビュルゲン Siebenbürgen(現 ルーマニア中部トランシルヴァニア地方)、ガリツィア Galizien(現 ウクライナ南西部)などは未着手のまま、新たな測量事業(第3回)に引き継がれた。

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「フランツ皇帝の土地測量」彩色原図 ランツベルク Landsberg 周辺
image at wikimedia

■参考サイト
Europe in the XIX. century
https://mapire.eu/en/map/europe-19century-secondsurvey/
 フランツ皇帝の土地測量(第2回土地測量)の彩色原図が見られる

1867年、オーストリアとハンガリーの和協(アウスグライヒ Ausgleich)がまとまる。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねて外交、軍事、財政を司るものの、内政は両者がそれぞれの自治政府が執り行うという、新たな政治体制の始まりだった。

これがいわゆるオーストリア=ハンガリー二重帝国で、後に国父と称されて国民に親しまれたフランツ・ヨーゼフ1世の治世とほぼ重なる。その時代の前半に、第3回土地測量である「フランツ・ヨーゼフ皇帝の土地測量 Franzisco-Josephinische Landesaufnahme」(1869~87年)が実施されている。

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「フランツ・ヨーゼフ皇帝の土地測量」 1:25,000彩色原図 グラーツ市街周辺
上掲フランツ皇帝の土地測量に比べると、絵図から記号図への進化が見て取れる
image at wikimedia

この事業は、測地系の確立、高度基準の設定、メートル法や等高線の採用など、近代地形図の必要条件を具備した点が重要だ。

まず測地系は、パリ子午線から起算された1867年欧州測地調査 Europäische Gradmessung による基準網(下注)が用いられている。これをもとに新たな三角測量が実施され、地図の骨格が整えられた。

*注 パリ子午線は、グリニッジ子午線が採用される以前に広く用いられていた基準。旧世界で西端とみなされた大西洋カナリア諸島のフェロ島(エル・イエロ El Hierro 島)を通る子午線を0度(本初子午線)とし、パリ天文台を通る子午線を東経20度と定義した。グリニッジ経度からの換算式は、フェロ経度=グリニッジ経度+17度40分。

高度の基準は、当時オーストリア領だったアドリア海岸のトリエステ(ドイツ語名トリースト Triest)とリエカ(ドイツ語名ザンクト・ファイト・アム・フラウム Sankt Veit am Flaum、イタリア語名フィウーメ Fiume)の平均海面とされた。オーストリアは1871年にメートル法を採用したので、この事業では全面的にメートル単位が使用されている。それに伴い、測量図の縮尺もきりのいい1:25,000になった。

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「フランツ・ヨーゼフ皇帝の土地測量」1:25,000図の索引図(一部)
左下に öst. L. v. Ferro(=östlich Länge von Ferro、フェロ東経)の注記がある

平板測量と現地調査が帝国全域で行われ、生まれた成果は、彩色原図2,780面とウィーン圏内の1:12,500図47面に上る。1:25,000は経度15分、緯度7分30秒の図郭で、地勢表現には、従来のケバと20m間隔の等高線が併用された。公務用に、原図から墨1色の複製が作られている。

同時に、原図4面分を縮小して、1:75,000特別図 Spezialkarte が編集された。これは帝国内752面のほかに、他国領の図葉も若干ある。図郭は経度30分、緯度15分で、投影法は多面体図法を用いている。原図と同様、ケバと等高線(平地50m、山地100m間隔)を併用しているが、墨1色版では、緻密なケバの描線があだとなって、等高線はやや読み取りにくい。刊行開始は1872年で、後に森林を表す緑のアミを加刷した版も現れた。

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1:75,000特別図の例 5352 Klagenfurt 1915年
image at BEV
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一部を拡大

特別図とともに編集作成されたのが、1:200,000中欧一般図 Generalkarte von Mitteleuropa だ。これは帝国領内にとどまらず、南辺はニースからイスタンブール、北辺はマインツからキエフに及ぶ広大な地域を同一縮尺で描くという壮大な企画だった。図郭は経度1度、緯度1度で、整数の経線と緯線が図郭の中心を通るように区分されているため、図番も(フェロ島を0度とした)経度と緯度の数値の組合せを使用している。1面に特別図8面分の範囲が含まれ、多色刷りで265面が刊行された。

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1:200,000中欧一般図の例 32-47 Klagenfurt 1914年
image at BEV
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一部を拡大
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中欧一般図の索引図(一部)
ベースマップに引かれた国境は、青が第二次大戦前の旧国境、橙が新国境

このほか、より小縮尺の地図として、1:750,000中欧地勢図 Übersichtskarte von Mitteleuropa も作られている。

このようにフランツ・ヨーゼフ皇帝の測量事業は、規模の大きさと進捗速度の点で、国際的な注目を集めるものになった。たとえばギリシャからは、自国の測量事業に対する支援の要請が届き、それに応えてオーストリアは、測地隊を派遣して技術指導と要員訓練に当たらせた。ギリシャの地形図の図郭が、オーストリアと同じ経緯度間隔になっているのは単なる偶然ではない。

■参考サイト
ハプスブルク帝国-フランツ・ヨーゼフ皇帝の土地測量(1:25000)
https://mapire.eu/de/map/europe-19century-secondsurvey/
 フランツ・ヨーゼフ皇帝の土地測量(第3回土地測量)の彩色原図または単色複製図が見られる

第3回の枠組みを引き継いで、1896年から新たに「精密測量 Präzisionsaufnahme(第4回土地測量)」が開始された。しかし、第一次世界大戦の勃発で中断され、1918年の帝国解体により、オーストリア共和国領以外の成果は、帝国領を承継したチェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアなどの各政府に引き渡された。

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第3回(左)と第4回の1:25,000測量原図を比較
市街地や水部の描写は第3回ですでに完成しているが、第4回の精密測量により道路の位置等がより正確に
(左)「フランツ・ヨーゼフ皇帝の土地測量」測量原図 5155-3 1877年
(右)精密測量原図 5155-3 1899年、下図も同じ
images at BEV
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ケバの描画技術が進歩し、山地の表現は大きく改良

その後のオーストリア共和国の地図の変遷と現状については、次回以降、縮尺別に紹介したい。

■参考サイト
BEV http://www.bev.gv.at/

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