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2018年10月31日 (水)

コンターサークル地図の旅-曽爾高原

2018年秋の本州旅2日目の舞台は、奈良・三重県境に位置する曽爾(そに)高原とその周辺の、東海自然歩道にも含まれているトレッキングルートをたどる。曽爾高原は、すり鉢状の斜面にススキが群生して、秋になると臨時バスが運行されるほど関西の人気スポットの一つなのだが、それを取り囲むように連なる、柱状節理の断崖を剥き出しにした室生火山群の山々もまた人を引き付ける。その風景をゆっくり楽しもうと、敢えて高原へ直行せず、麓の谷間の集落から歩き始めることにした。

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ススキ揺れる曽爾高原、右下の湿原はお亀池

10月15日朝、雨上がりの近鉄大阪線の名張(なばり)駅前から、曽爾高原行きの路線バスに乗り込んだ。平日というのに、車内はハイキング装備の人たちで満席だ。参加者は今尾さんと私の2名。地形図話に花を咲かせながら、青蓮寺川(しょうれんじがわ)の渓谷を遡るバスに揺られた。ダム湖が尽きるあたりから、道路は見上げる高さの断崖と川とに挟まれ、大型車1台分の道幅しかない区間が断続する。30分ほど走ったところで、ようやく谷が開けてきた。

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(左)近鉄名張駅西口、レトロな木造駅舎が残る (右)太良路バス停で下車

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名張市、曽爾村周辺の1:200,000地勢図(1988(昭和63)年修正図)
茶色の枠が下掲1:25,000詳細図の範囲

下車したのは、太良路(たろうじ、下注)というところ。杉の巨木が立つ神社の前、村のよろず屋の軒先に停留所の標識が立っている。走り去るバスを見送って歩き始めると、社森の陰から特異な風貌の鎧岳(よろいだけ)が姿を現した。のどかな村里の背後に急角度でそそり立ち、まるで守護神のように谷を見下している。中腹に露出した断崖の連なりは、なるほど鎧のようだ。

*注 太良路は、山一つ越えた太郎生(たろう)地区へ通じる道を意味する地名。バス停のふりがなは「たろうじ」だが、地理院地図の地名情報には「たろじ」とある。

上空は朝から雲に覆われたままだが、幸い雨の予報は出ていない。「ちぎれた雲が流れていくのも、神秘的でいいですよ」と私。橋を渡って、太良路の集落に入り、勾配のきつい沢沿いの旧道を上っていく。林がとぎれたところで振り向いたら、集落の向こうにまた鎧岳が見えた。今度は後ろに兜岳(かぶとだけ)を伴っている。

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太良路集落を見下す鎧岳(右)と兜岳
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別の角度から見た鎧岳(新嶽見橋にて別の日に撮影)
柱状節理の断崖がより顕わになる

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曽爾高原周辺の1:25,000地形図。赤線が歩いたルート

クルマ道と合流して少し進み、曽爾高原ファームガーデンの前を通り過ぎる。道路が勾配緩和のループを繰り返す間、徒歩道は森の中をほぼ直登している。胸突き八丁というべき、きつい上り坂だ。1:25,000地形図の倶留尊山(くろそやま)図幅によれば、太良路が標高390m、ファームガーデンが約470mに対して、ススキの原の広がるあたりはもう700mを超えている。

今尾さんが持ってきた地形図には、これから歩くルートが赤でなぞってあった。ただ、行く予定のないところまで延びているので聞けば、「古書店で買ったときから赤線が入っていたんです」。もとの持ち主は、何日もかけて山地を縦走する相当の健脚家だったようだ。

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徒歩道は車道からそれて杉林の中を直登する

森の中では風が止むため、じわりと汗がにじんでくる。こんな天気で湿度が高いらしい。落ち葉の積もる薄暗い杉林を登り続けて、国立曽爾青少年自然の家の前に出た。有名なススキの原はこの南側に広がっているはずだ。その全景を確かめようと、さっそく地形図で728m標高点がある高まりのほうに足を向けた。

一帯は、例えるなら半円の客席が舞台を囲む劇場のような地形だ。客席に相当する後ろの山は左右にピークがあり、左のそれは二本ボソ(標高996m)、右端は亀山(標高849m)という。間の鞍部は亀山峠と呼ばれ、太郎生へ抜ける徒歩道が通っている。一方、手前の舞台に当たる部分は凹地で、一部が湿原化して、お亀池の名がある。

この凹地には水の吐け口がなく、一見古い火口のようだ。しかし成因はそうではなく、後ろの山が大規模な崩壊を起こしたときに、その山と押し出された土砂(今立っている728m標高点から南へ延びる高まり)との間にできた窪みだ。風化によりすっかり均され、穏やかな表情を見せているので、過去にすさまじい地滑りが起きた現場とはとても思えない。

国立曽爾青少年自然の家の資料(下記参考サイト)によると、一帯は昔から麓の太良路地区の茅場だったそうだ。毎年春、地区の共同作業で山焼きが行われ、ススキが生育する環境が保たれてきた。刈り取ったススキ、すなわち茅で地区の屋根を葺いていたのだが、瓦やトタン屋根の普及で需要が減少したため、現在は専門業者が引き取り、全国の古民家の葺き替えに使われているという。

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ススキの原が広がる曽爾高原(別の日に撮影)
左端が二本ボソの稜線、中央の鞍部が亀山峠、右端のピークが亀山
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遊歩道が廻るお亀池(別の日に撮影)

池のそばのピクニックベンチで昼食を取った後、再び歩き出す。亀山峠までは、ススキが揺れる斜面を斜めに上る丸太階段の遊歩道だ。高度が上がるにつれ、曽爾の谷を隔てた西側の山並みも立ち上がってくる。太良路で確認できたのは鎧と兜だけだったが、今やその左奥にある国見山や住塚山(すみつかやま)、ナイフで片側を切り落としたような形の屏風岩まで一望になる。

室生火山群として括られている山々だが、どれも火山そのものではない。この地域は約1500万年前、南方で活動した火山からの噴出物で埋め尽くされた。火山灰は熱と自重によって溶融し、場所によって厚さが400mにもなる溶結凝灰岩の層を形成した。現在の山地は、これらの地層が水流の侵食を受けた後に残ったもので、ピークが1000m前後で揃っている。山地を特徴づける柱状節理の断崖は、凝灰岩の露頭だ。

標高約820mの峠から遠くの山並みにカメラを向けるが、あいにく雲の動きが早すぎて、峰が次々と覆い隠されてしまう。そのうち、亀山の尾根の裏からも霧が湧いてきて、ススキの原をすべり降り始めた。「風伝(ふうでん)峠みたいですね」と今尾さんが言う。風伝峠といえば熊野古道の山越えの一つで、冬場に朝霧が里へ吹き下りる風伝おろしが見られる。偶然にも私も、最近そこを歩いたばかりだ。

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(左)亀山峠へ上る長い階段道 (右)霧に包まれる亀山峠
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曽爾高原から室生火山群を望む 中央が兜岳、その右が鎧岳

しばらくそんな旅の四方山話をしながら視界が晴れるのを待ってみたが、かえって霧がこちらへ回ってきて、周りを白一色に塗り込めてしまった。帰りのバスの時刻も気になってきたので、時計の針が1時を指したところで諦め、山を降りることにした。

峠には県境が走っている。西側が奈良県宇陀(うだ)郡曽爾村、東側は三重県津市だが、かつては一志(いちし)郡美杉村といった。その名にたがわず、道はすぐに、すらりと伸びた杉の美林の下へ潜り込んでいく。

ジグザグの山道には、曽爾側と同じように丸太で土留めした階段が組まれているのだが、極端に急斜面のため、谷側の詰めた土がすでに抜け落ちた個所さえある。加えて先月の台風で倒れたと見え、太い木が何本も道を塞いでいる。私たちはそれを一つずつ跨ぎ越しながら、慎重に歩を進めた。谷の傾斜が少し緩むと、それこそ熊野古道のような苔むした石畳が現れた。観光用とは思われず、このルートがかつて主要な往来に供されていたことを示すものだ。

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(左)亀山峠からの下り (右)急斜面を杉の美林が覆う
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(左)台風による倒木が道を塞ぐ (右)石畳の山道

632m標高点の付近で山道は杉林を抜け出し、軽自動車が通れる幅の舗装道に合流する。そしてしばらく、池の平高原と呼ばれる緩い起伏の、棚状の土地を縦断していく。ここも地滑り地形のようだが、地形図で見る限り、曽爾高原よりはるかに大規模だ。しかし、放棄された茅場に植林が実施されたことで、景観は大きく変わってしまったらしい。同じような湿原もあるはずなのに、荒れ地か耕作放棄地としか見えないのだ。高原で出会ったのは放し飼いにされた2頭の山羊のみで、人のいる気配はなかった。

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池の平高原 (左)倶留尊山は雲がかかったまま (右)放し飼いの山羊しかいない

620m標高点から先は、また急な下り坂が復活し、整地された棚田の中を太郎生(たろう、下注)の村里へ入っていく。太郎生は、堀さんが名張からバスで名松線の伊勢奥津(いせおきつ)駅へ向かう途中で立ち寄った場所だ。しかも季節は秋だった。著書『地図を歩く』(1974年)には、「とある一隅の畠からの、茶褐色の土のうねと、浅みどりの野菜の葉と、たわわに実る柿とを前景にした倶留尊の見はらしは、なかでも私の忘れ得ぬ旅の印象の一つとなった」(p.178)とある。

*注 この地名のふりがなには、「たろう」「たろお」の二通りの表記がある。

しかし残念ながら、私たちが太郎生に降りてもまだ、倶留尊山は中腹まで雲がかかったままで、堀さんを魅了した険しい峰の連なりを拝むことは叶わずじまい。棚田と小川と、その周囲に散在する農家のたたずまいを眺めることでよしとするしかなかった。

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太郎生へ降りる道から見た倶留尊山(別の日に撮影)

太郎生郵便局の前に停留所(南出口バス停、下注)の標識を見つけ、名張駅前へ戻るバスを拾った。往きの曽爾高原行きとは打って変わって、乗客は遠来の私たちだけだ。観光地から外れた地方路線にはありがちな話とはいえ、「駅までこのままかな」と他人事ながら気になる。結局、市街の外縁に当たる上比奈知(かみひなち)でようやく女の子が一人乗ってきて、私たちを少し安堵させたのだった。

*注 南出口バス停から100mほど南西に、中太郎生バス停もある。旧道沿いの民宿たろっと三国屋の右の路地を抜けると到達でき、このほうが距離的には近い。

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(左)山麓の上出集落を抜ける (右)国道沿いの南出口バス停

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図倶留尊山(平成28年調製)および20万分の1地勢図伊勢(昭和63年修正)を使用したものである。

■参考サイト
国立曽爾青少年の家-曽爾のこともの http://soni.niye.go.jp/kotomono/kotomono.html

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