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2018年8月27日 (月)

火山急行(ブロールタール鉄道) I

本線(谷線 Talstrecke) ブロール Brohl BE ~エンゲルン Engeln 間17.51km
 軌間1000mm、非電化、最急勾配50‰、1901年開通

支線(港線 Hafenstrecke) ブロール~ブロール・ハーフェン Brohl Hafen 間1.95km
 軌間1000m、標準軌との3線軌条区間あり、1904年開通

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ブロールBE駅の火山急行、先頭に立つのは蒸気機関車 11sm

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DB(ドイツ鉄道)ライン左岸線の、普通列車しか停まらない小駅から、その狭軌鉄道は出発する。ブロールバッハ Brohlbach という川が流れる谷を遡っていくので、路線名はブロールタール鉄道 Brohltalbahn だが、列車のブランドは「ヴルカーン・エクスプレス Vulkan-Express」、直訳すると火山急行だ。

イタリアではなくて、ドイツにも火山がある? と訝しく思う人がいるかもしれない。実はこのライン川からベルギー、ルクセンブルク国境にかけてのアイフェル Eifel 地方は、第三紀の5000万年前から火山活動が続いていて、地表はその噴出物で覆われている。地形図をざっと眺めるだけで、火山起源の円錐丘やマールの湖(下注)が至るところに見つかる。マール Maar という地理用語自体、アイフェル方言で湖を指す言葉(標準ドイツ語では Meer)から採られたものだ。

*注 マールは、爆発的噴火により生じた、周囲に環状丘を持たない円形火口をいう。水を湛えるマールは、伊豆半島の一碧湖や男鹿半島の一ノ目潟などわが国にも見られる。

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火山起源の円錐丘に建つ城(オールブリュック城)を背景に走る火山急行
Photo by Simeon Langenbahn from http://vulkan-express.de/

火山急行は、そのようなヴルカーンアイフェル(アイフェル火山帯)Vulkaneifel の高みへと上っていく列車だ。命名はスイスの有名な観光列車、氷河急行 Glacier Express に倣ったのだが、急行と言いながら曲線と勾配のきつい狭軌線をのんびり走るところは、本家のそれに似ていないでもない。

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ブロールタール鉄道ブロール~ニーダーツィッセン間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年、L5510 Neuwied 1983年を加工)
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018
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ブロールタール鉄道ニーダーツィッセン~ケンペニッヒ間の1:50,000地形図
(L5508 Bad Neuenahr-Ahrweiler 1985年を加工)
廃止されたエンゲルン~ケンペニッヒ間は黒の破線で表示
© Landesamt für Vermessung und Geobasisinformation Rheinland-Pfalz 2018

火山急行の舞台となるブロールタール鉄道は、メーターゲージ、非電化の小鉄道だ。ライン河畔の村ブロールを起点に、谷を遡る本線(谷線 Talstrecke)と、河港へ行く支線(港線 Hafenstrecke)から構成される。

本線は、ブロールから終点のエンゲルン Engeln まで17.5kmを結び、1901年に先行開通した。最奥部のオーバーツィッセン Oberzissen とエンゲルンの間は、50‰の急勾配が5.5kmもの間続く難所だ。開通当初はアプト式(2枚レール)のラック区間とされ、1934年から粘着式運転に切り替えられた。また、1902年にはエンゲルンから先、ケンペニッヒ Kempenich まで6.3kmが延長されたが、残念ながら利用の低迷により、1974年に廃止されて今は無い。

一方、支線はブロールからブロール・ハーフェン(ブロール港)Brohl Hafen に通じる1.95kmの短い路線で、1904年に開通している。中間部には、国鉄(のちDB)との間で貨物を積み替えるヤード、ブロール積替駅 Brohl Umladebahnhof が造られた。標準軌貨車を直通させるための3線軌条が1933年に積替駅と港の間に設置され、今も残っている(下注)。

*注 ブロールタール鉄道の本線方面に標準軌貨車を直通させるために、他の狭軌鉄道と同様、ロールボック(1928年まで)やロールワーゲン(1978年まで)も使われていた。

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火山急行を牽いてテーニスシュタイン高架橋を渡る蒸機
Photo by Walter Brück from http://vulkan-express.de/

ブロールタール鉄道の敷設目的は貨物輸送で、沿線で採掘された石材を運び出し、国鉄やラインの川船に引き渡すことだった。開通以来、トラス Trass(特産の凝灰岩)の切石やモルタルに使う細骨材、あるいはガラス生産の添加剤として使われるフォノライト(響岩)など、有用資源が鉄道を通して出荷されてきた。

他方、旅客輸送は、人口の少ない山間地域のため、当初から細々としたもので、その後の経済不況や戦争の間に、休止と再開を繰り返した。そして車両の老朽化などを理由に1961年9月に一般旅客列車は廃止され、バスに置き換えられた。

その後、鉄道に残っていた客車を使って、1977年から観光客向けの列車が運行されるようになる。これが火山急行の始まりだ。この間も貨物輸送は続いていたが、道路輸送への転換や他国産との競合による操業中止などで輸送量が減少し、残る顧客はフォノライトだけになっていた。

鉄道は1987年に廃止の危機に瀕した。このときは持ちこたえたものの、1991年に会社は再度廃止方針を表明する。だが最終的に、観光資源としての可能性を評価する地元自治体から新たな出資を得て、存続が決まった。

1995年には裁判所から、粉塵公害を理由に河港での積替え作業を禁止する裁定が出たことで、フォノライト輸送が中断する事態も起きた。これはコンテナ方式に変更し、ブロールでトラックに積み替える方法をとることで、4年後の1999年に再開された。

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ブロール港の静かな水面。堤防の右はライン川

現在、鉄道は上下分離方式で運営され、インフラはブロールタール連合自治体 Verbandsgemeinde Brohltal が、運行事業はボランティアベースの利益共同体が設立した運行会社(ブロールタール狭軌鉄道運行会社 Brohltal-Schmalspureisenbahn Betriebs-GmbH)が、それぞれ責任を負うことになっている。

ドイツにも保存鉄道は相当数あるが、月1回とか日曜祝日のみなど、運行日が限定されているものが多い。その中で火山急行はシーズン中、特定曜日を除き毎日運行していて、旅行者にとって比較的訪問日程が取りやすい鉄道と言えるだろう。ただし、運行本数は少なく、最大でも一日3往復しかない(下注)。所要時間は、往路が一方的な上り坂のため90分、復路は下りで72分だ。

*注 ダイヤは日ごとに変化するので、公式サイトで前もって調べておく必要がある。

列車を牽くのは基本的にディーゼル機関車だが、2018年のダイヤでは、シーズン中の一部の土・日曜に、鉄道の虎の子的存在であるマレー式蒸気機関車 11sm(下注)が登場する。11sm は1906年製で、1960年代までこの路線で定期列車を牽いていたオリジナル機だ。1966年の引退後、ドイツ鉄道史協会DGEGに引き取られ、長らく博物館で静態展示されていたが、買い戻されて長期にわたる解体修理の上、2015年に現役に復帰した。

*注 マレー式蒸気機関車は、動輪群を前後2組配置し、後部はボイラーに固定、前部は関節でつないで可動式にしたもので、牽引力が高く、急勾配・急曲線に適応する。なお、車両番号の sm は重量マレー schwere Mallet の略。

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マレー式蒸気機関車 11sm

蒸気機関車は、負担の大きい急勾配区間には入らず、ブロール~オーバーツィッセン間を往復している。たとえば午前中の便では、ブロール10時30分発の二番列車を牽いてオーバーツィッセンまで行く(11時27分着)。そこへ、ディーゼル牽引の一番列車がエンゲルンから戻ってくる(11時34分)ので、その客車を自らの列車の後ろに併結する。こうして長い編成となった列車を従え、11時55分、蒸気機関車はブロールへ向け帰っていくのだ。ちなみに、列車を蒸機に託してフリーになったディーゼル機関車は、エンゲルン行き二番列車(12時00分発)を牽いて、再び急坂を引き返していく。

一方、港線は基本的に貨物専用だが、火曜日に限りブロール・ライン埠頭 Brohl Rheinanlagen の停留所まで旅客列車が運行され、ライン川の観光船と連絡している。

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オーバーツィッセンでの交換風景
(左)復路の一番列車が駅に到着したとき、すでに蒸機は帰り支度を整えていた
(右)ディーゼルが解結され、この後蒸機が転線して併結作業に入る
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長い編成でブロールに戻る火山急行。復路の蒸機は後退運転

2018年5月の旅行中、日曜日に時間が空いたので、火山急行に乗りに出かけた。朝9時10分発の一番列車に間に合うように、ライン左岸線のブロールでRB(普通列車)を降りる。DB駅前の狭い広場から数十段の階段を上ったところが、ブロールタール鉄道の起点駅だ。DBと区別するために、ブロールタール鉄道(会社)Brohltal-Eisenbahn(-Gesellschaft)  の頭文字を採って、ブロールBE駅と書かれる。

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ブロールBE 駅 (左)DB駅前からBE構内へ上る階段 (右)駅舎のチケットカウンター

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(左)エンゲルン往復の乗車券
 (右)蒸機追加料金券

発車時刻が迫っているので、さっそく駅舎に入って切符を買い求めた。2等往復13ユーロだが、先述のとおり、復路が蒸機列車になるため、その追加料金3ユーロが必要だ。

ホームには、乗るべき列車がすでに待機している。急勾配に備えてディーゼル機関車は重連編成だ。このD1とD2は、1965年オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社製の50歳を超えた古参機だが、まだ頑張っている。港線で標準軌貨車と連結できるように、先頭のバッファーの位置を狭軌線路の中心線からずらしてあるのが特徴だ。

機関車の次は、自転車その他の手荷物が積み込まれた有蓋貨車、その後に客車が3両つながっている。1両目はスイスのBOB(ベルナー・オーバーラント鉄道)の旧車で、内部は1等室と2等室に分かれ、窓下のテーブルにBOBの路線図がそのまま残る。2両目は食堂車(といっても軽食と飲み物)、3両目は車長の短いベンチシートの2軸客車、いずれも、車端のデッキから乗降する形式の古典車両だ。

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ディーゼル機関車D1、バッファーの位置が中心線からずれている
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(左)有蓋貨車は主として自転車運搬用 (右)BOBの旧型客車、右1/3は1等室
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(左)BOB客車の1等室 (右)窓下テーブルに路線図が残る
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2軸客車はレトロなベンチシート

観光バスからの客が乗り込んだので、BOB車は賑わっていたが、後ろの車両はガラガラで、週末旅行で来たというオランダ人の鉄道ファンと、地元の親子連れが1組だけだ。車掌が巡回してきた。どこから来たのかを聞きとると、日本語版がないのは残念だが、と言いながら、英語で書かれた沿線案内をくれた。

「乗客のみなさま、1901年に正式開業した『火山急行』にご乗車ありがとうございます! ドイツに残る数少ないメーターゲージ列車の一つで、おそらく最も急勾配の列車の旅をお楽しみください。

乗車中にご体験いただけるとおり、『ブロールタール鉄道』は本物の山岳鉄道です! 興味深いことに、あなたは『火山公園 Vulkan Park(下注)』の一部を通って旅しています。アイフェル山地のこの地域では、鉱泉のような『熱い過去 hot past』の多くの遺物や火山活動のあらゆる種類の痕跡を見つけることができます…。」

注:正式名は、アイフェル火山帯自然公園 Naturpark Vulkaneifel。

読んでみるとけっこう充実した内容で、車窓風景の理解に役立った。次回は、この沿線案内を参照しながら、エンゲルンまで旅することにしよう。

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一番列車まもなく出発

■参考サイト
火山急行(公式サイト) http://vulkan-express.de/

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 火山急行(ブロールタール鉄道) II
 ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

2018年8月21日 (火)

ドラッヘンフェルス鉄道-ライン河畔の登山電車

ケーニヒスヴィンター Königswinter(下注)~ドラッヘンフェルス Drachenfels 間1.52km
軌間1000mm、750V直流電化、リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配200‰
1883年開通、1953年電化

*注 同名のDB駅と区別するために、正式駅名はケーニヒスヴィンター・ドラッヘンフェルス鉄道 Königswinter Drachenfelsbahn という。

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ドラッヘンフェルス鉄道の中間駅シュロス・ドラッヘンブルク

ビンゲン Bingen から130km続くライン川中流 Mittelrhein の長い渓谷が終わろうとする東岸に、最後の砦のようにドラッヘンフェルスの岩山が聳えている。標高321m、川からの高さはおよそ270m。ジーベンゲビルゲ Siebengebirge と呼ばれる火山起源の山地の中で、これだけが河岸に面している。数値以上の威圧感があるのはそのためだ。

ドラッヘンフェルス Drachenfels は、ドイツ語で竜の岩を意味する。ワグナーの楽劇の題材にもなった中世の叙事詩ニーベルンゲンの歌 Nibelungenlied で、英雄ジーフリト Sîfrit(現代語ではジークフリート Siegfried)が山の洞穴に棲んでいた竜を退治し、その血を浴びて不死身になったことが語られる。その舞台がここだという。

*注 ドイツ語版ウィキペディアでは、竜伝説は後付けで、ドラッヘンの語源は Trachyt(トラカイト、粗面岩)だとしている。粗面岩は昔からこの山で採掘されており、ケルン大聖堂の築造にも用いられた。

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ライン川から見たドラッヘンフェルス山頂の廃墟(右)とドラッヘンブルク城(左)

山はラインの流れを見下ろす要害の地で、中世に築かれた古城がうらぶれた姿を曝している。19世紀、ロマン主義が一世を風靡した時代に、この風光が旅人の心の琴線に触れた。バイロン卿がチャイルド・ハロルドの巡礼 Childe Harold's Pilgrimage に表し、画家ターナーが水彩の筆を揮った。それらをきっかけにして、岩山は国際的に知られるようになる。

*注 ターナーが描いたドラッヘンフェルスの水彩画は以下のサイトで見られる。TW0496とTW0606は対岸(左岸)上流から見た構図。TW0606では手前の岩山の上に有名な廃墟ローランツボーゲン Rolandsbogen も描かれている。それに対して、TW1311は対岸やや下流からの構図。
TW0496 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-drachenfels-tw0496
TW0606 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-drachenfels-tw0606
TW1311 https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-drachenfels-from-the-rhine-tw1311

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早くも1883年に、この岩山の上まで登山鉄道が通じた。山の名を採ってドラッヘンフェルス鉄道 Drachenfelsbahn と呼ばれるこの鉄道の出現は、フィッツナウ・リギ鉄道全通の10年後だ。ドイツではかなり早い時期で、当地での観光需要の高まりが実感される。果せるかな、鉄道が開通するとたちまち人気が沸騰し、夏のシーズン3か月で6万人以上の客を運んだという。

1913年にオーデコロンの代表ブランド4711のオーナーが経営権を握り、ドラッヘンフェルス鉄道は、同じ方式で隣の山に上っていたペータースベルク鉄道 Petersbergbahn(下注)と合併して「ジーベンゲビルゲ登山鉄道株式会社 Bergbahnen im Siebengebirge AG」となった。電化は1953年で、70年以上走り続けた蒸気機関車は1960年までにすべて引退した。その後、ペータースベルク鉄道は経営不振で廃止されてしまったため、現在この会社は、社名の「登山鉄道」は複数形のまま、ドラッヘンフェルス鉄道だけを運行する。

*注 ペータースベルクは、ケーニヒスヴィンターの東にあるジーベンゲビルゲの山の一つ。登山鉄道は1889年開通、1958年廃止。1000mm軌間のリッゲンバッハ式で、ドラッヘンフェルスと双子のような鉄道だった。

ドイツ国内のラック鉄道は他に、シュトゥットガルト市内と、バイエルンアルプスのツークシュピッツェ Zugspitze、同 ヴェンデルシュタイン Wendelstein(下注)に残っているが、その中でドラッヘンフェルス鉄道は最古の存在になっている。

*注 ヴェンデルシュタイン鉄道については、本ブログ「ヴェンデルシュタイン鉄道でバイエルンの展望台へ」で詳述。上記のほか、ヴィースバーデンのネロベルク鉄道 Nerobergbahn では、ラックレールがブレーキのために使用される。

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ドラッヘンフェルス鉄道の行程(山麓駅の案内板を撮影)

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ドラッヘンフェルス鉄道周辺の1:25,000地形図(5309 Königswinter 2012年)
© Land Nordrhein-Westfalen 2012

2018年5月のある日、コブレンツ中央駅 Koblenz Hbf の109番線(下注)から、ボン・ボイエル Bonn-Beuel 行きのRE(レギオエクスプレス、快速列車に相当)に乗った。最初、南へ向かうのでとまどうが、すぐにライン川を渡り、トンネルで方向を変えて、ライン右岸線 Rechte Rheinstrecke の北行き線に合流する。川沿いに走り続け、50分ほどでケーニヒスヴィンター駅に着いた。

*注 109という大きな数字に一瞬驚くが、9番線ホームの南端にある切り欠きホームのこと。コブレンツ中央駅には同じように104、105番線もある。

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(左)コブレンツ駅109番線に停車中の右岸線RE
(右)ライン川にモーゼル川が合流するドイチェス・エック Deutsches Eck を対岸に見て

ケーニヒスヴィンター Königswinter の町はボンの南東10km、ドラッヘンフェルスのお膝元で発展したライン河畔のリゾートだ。ケーニヒ König は王という意味だが、ヴィンター Winter は冬ではなく、ラテン語の Vinetum(葡萄畑)が転訛したもので、一説にはここにカール大帝の葡萄畑の御料地があったという。ひっそりとしたDB駅から線路に沿って南へ歩き、踏切を渡ると、登山鉄道の山麓駅が見えてきた。

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ケーニヒスヴィンター (左)河畔のプロムナード (右)市街地の落ち着いた街並み

ドラッヘンフェルス鉄道は、ケーニヒスヴィンターにある山麓駅とドラッヘンフェルスの山上駅を結んでいるリッゲンバッハ式のラック鉄道だ。長さ1520m、高度差220m、片道の所要時間は8分。夏のシーズン(5~9月)中は9時から19時まで、30分毎に山麓駅を発車し(多客時は増発あり)、復路はその15分後に山上駅を出る。他のシーズンは営業時間が短縮され、11月後半から12月にかけては運休になる。

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ケーニヒスヴィンター・ドラッヘンフェルス鉄道駅(山麓駅)

まずは、駅前に置かれている蒸気機関車を見ておきたい。かつてこの鉄道で使われていたラック機関車2号機だ。文化財として1968年からここに静態保存されている。プレートには、エスリンゲン機械工場1927年製とあった。

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かつて活躍した蒸気機関車2号機の屋外展示

駅舎は2005年に改築された現代的な2階建ての建物で、ドラッヘンフェルス観光駅 Drachenfels Tourismus-Bahnhof と呼ばれている。19世紀からある鉄道にしては、山麓駅だけでなく、クラシックな外観の施設が見当たらない。首都移転に伴う補償協定(下注)によって地元に交付される資金を一部充当し、近年精力的に整備が進められたからだ。

*注 1994年のベルリン/ボン法に基づき、西ドイツの首都であったボンからベルリンに政府機能を移すにあたり、ボン地域の振興資金として、1995年から2004年の間に14億3,700万ユーロを支出する「ボン地域の補償措置に関する協定 Vereinbarung über die Ausgleichsmaßnahmen für die Region Bonn」が結ばれた。

1階(日本で言う2階)にはチケットオフィスやグッズショップがあり、ガラス戸の向こうは乗り場になっている。階段を上がると、鉄道の舞台である山域全体を模型にしたレイアウトがあった。古い時代を表しているらしく、玄関前にいるのと同形の蒸機が2両の客車を押している。

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山麓駅1階、奥に出札兼案内所、階段を上るとレイアウト展示がある
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ドラッヘンフェルス鉄道の模型レイアウト
(左)手前はDB右岸線、中央に山麓駅舎、右奥にドラッヘンフェルスがそびえる
(右)手前の建物はニーベルンゲンハレ Niebelungenhalle で、その位置からかつての中間駅は現在より下手にあったことがわかる

構内では、ラック式の電動車が客待ちをしている。両運転台車で、ドアは片側(山に向かって右側)にしかない。磨かれ艶光りしているが、実は1955~60年の製造だ。1999~2001年に全面更新を受けているものの、内装はなつかしいレールバスのそれを思わせる。

電車は、混雑度に応じて単行または2両連結で運転される。最後尾に車掌が乗っているが、戸閉めの後でチンチンとベルを鳴らすくらいで、手持無沙汰の様子だ。中間駅や山上駅は無人なので、そこでの出改札が主な仕事なのだろう。

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(左)山麓駅構内に停車中の電車、1950年代後半の製造
(右)内装はレールバスを思わせる

山麓駅を出発すると、電車はいきなり上向きになり、ぐんぐん高度を上げていく。線路の周りは森で、残念ながら見通しはあまり利かない。勾配は決して一本調子ではなく、いくらか行ったところで緩やかになる。

森が開け、石造アーチの跨線橋をくぐって停車した。中間駅のシュロス・ドラッヘンブルク Schloss Drachenburg(ドラッヘンブルク城)だ。2011年に改装された駅で、LRTの停留所と間違えそうなモダンな造りに驚く。2線に分かれ、列車交換が可能だが、多客期以外は対向列車がないので、上下列車とも山上に向かって右側のホームに停まる。

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(左)山麓駅を出発 (右)少し上ると緩勾配に
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中間駅 (左)城に通じる石橋をくぐって中間駅に接近
(右)ベンチの風防に竜のシルエットが

ここはドラッヘンブルク城の最寄り駅だ。城といっても、1884年に株式仲買人で銀行家だったシュテファン・フォン・ザルター男爵 Baron Stephan von Sarter が建てた邸宅で、19世紀後半、グリュンダーツァイト Gründerzeit の古典主義的傾向を反映した壮麗な建物だ。

前城 Vorburg と呼ばれる玄関建物を抜けると、斜面を覆って整えられた庭園が広がり、その先に堂々たる本館がある。室内の豪華な調度品は見ごたえがあるし、贅沢にも各部屋からライン渓谷が望める。螺旋階段で北の塔の屋上に登ると、ジーベンゲビルゲやボン市街など北側の眺望がよかった。

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壮麗さを誇るドラッヘンブルク城
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城の北塔からの眺め
(左)南望。ライン川の中州ノンネンヴェルトが見える
(右)北望。右奥の山はペータースベルク、左端にケーニヒスヴィンター市街

それはさておき登山鉄道に戻ろう。中間駅を再び発車すると、電車は8径間の石造アーチ橋を渡って、再び森に入る。跨線橋をくぐったところから200‰の最大勾配になる。高い切通しに沿って右にカーブしていくと、まもなく終点ドラッヘンフェルスだ。駅は簡素な造りで、出札窓口があるものの、ふだんは人がいない。切符の必要な人には、折返しの列車が到着した後、車掌が改札で手売りしてくれる。

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(左)中間駅の山上側 (右)8径間の石造アーチ橋を渡る
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(左)山頂直下の跨線橋から (右)跨線橋の下で始まる200‰の最急勾配
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山上駅 (左)1面1線の簡素な構造 (右)駅舎

駅前には、広い展望広場とレストラン施設がある。一部が階段状になった広場からは、ライン渓谷の上流側(南側)が一望になる。フランシスコ修道院のあるノンネンヴェルト Nonnenwerth の中州がアクセントとなって、単調な流路に変化が加わるのがおもしろい。

この広場もごく最近整備されたものだ。ドラッヘンフェルスはオランダ人観光客に特に人気があり、ライン川を遡ると最初に目に入る高い山なので、「オランダで一番高い山」というあだ名さえあった。その人出を受け入れるために、1970年代、ここに展望台やレストランを備えた大規模な観光施設が造られた。しかしその後、観光客が減り、麓からの景観を損ねているという理由もあって、2011年から撤去工事が始まり、2013年に展望広場に生まれ変わったのだ。

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展望広場と、眼下に広がるライン渓谷のパノラマ
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岩山の直下に葡萄畑とライン川。貨物列車が右岸線を通過中

レストランの裏の道を少し上ると真の山頂で、麓からも見えていた古城の廃墟がある。もとは南の護りを固めるために1138年にケルンのアルノルト1世大司教 Erzbischof Arnold I が建てさせたものだが、30年戦争中の1633年に破壊され、以来再建されなかった。今は自然公園の中で保護され、ライン川を見下す静かな展望台の一つになっている。

足元はるか下の川面を、大型客船がゆっくりと下っていくのが見える。それと交差するように貨物列車が岸辺を駆けていく。後でケーニヒスヴィンターに降りたら、このライン川を横断するフェリーで、対岸のメーレム Mehlem に渡るつもりだ。ターナーが描いたように岩山を少し距離を置いて眺め、ドラッヘンフェルスの半日観光を締めくくりたいと思う。

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ドラッヘンフェルス山頂に立つ古城の廃墟

■参考サイト
ドラッヘンフェルス鉄道 http://www.drachenfelsbahn.de/
ドラッヘンブルク城 https://www.schloss-drachenburg.de/

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2018年8月14日 (火)

ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線

貸切運行のモ161で阪堺線の終点、浜寺駅前に降り立った一行は、20分の休憩の間、車内を撮影したり、近くにある南海本線の駅舎を覗いたりして過ごした。

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浜寺駅前に停車中のモ161(以下、特記ないものは2014年4月撮影)

浜寺は、古くから白砂清松の海岸として知られた場所だ。沖合に埋立地が造成される以前は、海水浴場にさまざまなレジャー施設が併設された行楽の人気スポットだった。戦前、大阪市内からここまで、南海本線、阪堺線(阪堺電気軌道、1915年から南海鉄道阪堺線)、新阪堺(正式名称は阪堺電鉄、下注)と3本の鉄道が通じていたことからも、その賑わいぶりが想像できる。

*注 阪堺電軌とは別会社で、1944年に大阪市電へ吸収される際に、堺市街から浜寺までの末端区間は廃止された。

南海本線の駅名は浜寺公園といい、1907(明治40)年に建てられた私鉄最古級の木造駅舎が最近まで使われていた。惜しいことに、鉄道の高架化工事に伴って2016年1月に駅舎としての役割を終え、現在は、曳家により高架工事に支障しない位置に移設保存されている。一方の阪堺線の電停名は浜寺駅前、つまり南海の駅前という意味だ。控えめな名称に合わせるように、駅舎も切妻屋根のささやかなものだ。たいていホームに次の電車が停まっているから、待合室を設ける必要もないのだろう。

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瀟洒なデザインが特徴的な南海本線浜寺公園駅の旧駅舎(2010年4月撮影)
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浜寺駅前電停は南海の駅(右奥)から公園へ通じる通り沿いにある(2010年4月撮影)

そろそろ折返しの出発時刻になる。13時20分に出た定期列車の後を追って、モ161もホームを離れた。復路では、我孫子道車庫に寄り道した後、上町線の起点、天王寺駅前まで行くことになっている。

先行車が各電停で客を拾っていくので、こちらは徐行したり、ときには停止したり、車間距離を見計らいながらの運行だ。その間、車内ではサイレントタイムの指示があった。おしゃべりは控えて、吊り掛け駆動の懐かしいうなり音を鑑賞する。意識はおのずと車外の動く景色に向くから、数分おきにすれ違う対向列車が気になる。

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モ161の復路 (左)大道筋で先行車の後を追う (右)まもなく我孫子道電停

大和川を渡り、大阪市域に入って最初の停留場が、我孫子道(あびこみち)だ。南側のホームの前まで進んだ後、バックでゆっくりと車庫の構内に入っていった。東端の側線で停車、ここでも20分間の休憩がある。業務の支障にならないよう行動範囲を限定した上で、車庫見学が許された。

ここは阪堺電車の運行拠点なので、街路で見かけるさまざまな車両が休んでいる。堺トラム第2編成の紫おんがいるかと思えば、目立つ塗色のモ601形、その陰に隠れるように橙帯の旧 京都市電の姿も確認できた。モ161の前で全員が記念写真に収まった後、再び車内へ戻る。

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我孫子道車庫のモ161
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我孫子道車庫に憩う車両群。堺トラム、モ601形、旧 京都市電

我孫子道を14時07分に出発した。少し進めば、住吉大社前の併用軌道だ。住吉電停の先で、右へ分岐する渡り線を経由して、いよいよ上町線の専用軌道に進入する。

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専用軌道上にある住吉電停の下りホーム
浜寺駅前直通運転開始直後の2009年9月撮影

阪堺電気軌道のサイト等によれば、上町線のルーツは軌間1067mmの馬車鉄道だ。1900(明治33)年に、まず天王寺西門前~東天下茶屋間が開通している。1909年に会社が南海鉄道に合併された後、1910年に住吉神社前(現 住吉)への延伸と電化・改軌工事が完成した。南海線の駅に隣接する住吉公園(下注)まで全通したのは1913(大正2)年のことだ。その後1921年に、天王寺駅前以北の区間が大阪市電に譲渡されて、上町線の営業区間が固まった。

*注 当時は南海線の駅名も住吉公園(1912年開業)で、上町線の駅名はそれに合わせたもの。

出自が異なる阪堺線と上町線だが、旧 阪堺電気軌道が南海と合併した1915年以来、もう100年以上も姉妹線のように扱われている。南海時代には、1980年に廃止された平野線(今池~平野)とともに、大阪軌道線と総称されていた。

旅客流動は、恵美須町よりも交通の結節点であり商業の中心地である天王寺/阿倍野に向いているため、上町線と阪堺線をつなぐ系統の利用者が多い。2009年に上町線天王寺駅前と阪堺線浜寺駅前を結ぶ直通運転が復活した(下注)。代わりに阪堺線恵美須町発の電車が我孫子道止まりになり、堺市域からも天王寺へ直結させるという会社の戦略意図が明確になっている。

*注 浜寺駅前への直通運転は1955(昭和30)年に始まったが、1973年から我孫子道止まりに短縮されていた。

前回も触れたが、貸切乗車のときはまだ上町線の末端区間、住吉~住吉公園間200mが残っていた。ただ、ひと月ほど前(2014年3月)のダイヤ改正で、住吉公園の発着が大幅に減便され、朝の7~8時台の5往復(土休日4往復)だけになっていた。乗り合わせた人たちと、きっとこれは廃止の前触れに違いないと話していたのを覚えている。

予測は、わずか2年後に現実となった。2016年1月31日付でこの区間が廃止され、利用者は近くの住吉鳥居前電停に回らざるを得なくなった。屋根があり風雨をしのげる住吉公園に比べて、鳥居前は道路上で、吹きさらしの狭い安全地帯だ。快適度にはかなりの落差があるが、運用効率のほうが優先されてしまった。

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住吉公園電停ありし頃(4点とも2009年9月撮影)
(左)住吉電停前の平面交差 (右)住吉公園駅にさしかかるモ602
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(左)2線3面のささやかなホーム (右)駅舎正面。左の高架は南海本線

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住吉大社周辺の1:10,000地形図(1985(昭和60)年編集)
南海本線、阪堺電軌阪堺線、上町線と各駅・停留場の位置関係がわかる

住吉を出ると、電車は住宅街の中をくねりながら上っていき、サミットで南海高野線とオーバークロスする。坂道は30.3‰という異例の急勾配で、舞台は、低平な海岸平野から高燥な洪積台地に移る。以後、上町線はその名のとおり、終始この上町台地を伝っていく。

帝塚山四丁目電停の北側で併用軌道が始まるが、通るのは軌道の両側に1車線とれるかどうかの狭い道だ。それにもかかわらず路上駐車は日常茶飯事で、電停では朝夕その1車線が客の待ち合わせ場所にされる。それで車は、軌道の上を電車と前後しながら走らざるを得ない。

また、別のあるとき、姫松だったか、電停前の商店のガラス戸越しに、店の人と話している女性客が見えた。到着した電車に気づくと挨拶を交わし、悠々と表に出て、その足で乗り込んできた。生活密着型の鉄道ならではの光景がここにはある。

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(左)上町台地に上り、南海高野線を越える急勾配区間
(右)生活道路の併用軌道、姫松電停にて(いずれも2009年9月撮影)

北畠電停の先で左にそれて、いったん専用軌道に戻る。しかしそれは少しの間に過ぎない。松虫電停を出た後、電車は体をくねらせながら、車が溢れるあべの(阿倍野)筋の大通りに割り込んでいく。阿倍野交差点から北側は、再開発事業に伴う道路の拡幅工事の最中で、軌道の周りは雑然としている。ビルの谷間にこもる都会の喧噪を掻き分けるようにして、14時28分、モ161は終点、天王寺駅前に到着した。

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専用軌道からあべの筋に割り込む(車内から後方を撮影)
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天王寺駅前の旧ターミナル(2009年9月撮影)

あべの筋の併用軌道は、その後2016年12月3日に、拡幅が完了した道路の中央に切り替えられた。新線では、センターポールの架線柱が建ち並び、芝生を植え込んだ緑化軌道が延びる。阿倍野電停は拡幅されて上屋がつき、天王寺駅前電停も、2面1線の窮屈な構造はそのままながら、改築されて面目を一新した。ここに堺トラムが現れたら、LRTの新設路線と何ら変わらない。

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切り替えられた併用軌道
(左)阿倍野交差点から北望 (右)阿倍野電停(いずれも2017年9月撮影)
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改築された天王寺駅前電停(2017年9月撮影)

今改めて周囲を見渡せば、天を突くあべのハルカスをはじめ、キューズモール、新しい駅前歩道橋と、いつのまにか阿倍野一帯が近未来的な風景に転換されている。阪堺電車もとうとうその進化に追いついたわけだ。とはいえ、屋外広告物条例などなんのその、質屋やパチンコ屋のド派手な広告を付けた車両もまだ素知らぬ顔で走ってくる。これもまた阪堺らしい姿だ。

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図住之江(昭和60年編集)を使用したものである。

■参考サイト
阪堺電軌 http://www.hankai.co.jp/

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 ライトレールの風景-阪堺電気軌道阪堺線

2018年8月 7日 (火)

ライトレールの風景-阪堺電気軌道阪堺線

阪堺電気軌道、通称 阪堺電車が、手持ちのレトロ車両を使って貸切運行を行っている。もう4年前になるが、2014年4月の海外鉄道研究会のイベントでそれに乗る機会があった。

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恵美須町で発車を待つモ161(以下、特記ないものは2014年4月撮影)

阪堺電気軌道は、阪堺線(恵美須町~浜寺駅前14.1km)と上町線(天王寺駅前~住吉4.4km、下注)の2路線から成る。コースは、まず往路が恵美須町(えびすちょう)を出発して、阪堺線を一気に浜寺駅前まで走り通す。復路では我孫子道(あびこみち)の車庫を見学し、住吉から上町(うえまち)線に入って、天王寺駅前で降りるというものだ。

*注 ただし当時は住吉~住吉公園間0.2kmもまだ運行しており、朝の時間帯だけ発着があった。この区間は2016年1月31日付で廃止。

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阪堺電車の路線図

少し早めの昼食をとって、地下鉄堺筋線で集合場所へ向かった。恵美須町は、路線が1911(明治44)年に開業したときからのターミナルだ。堺筋が国道25号と交わる恵比須交差点の南西角で、通天閣が聳える繁華街「新世界」とは道を隔てて隣り合っている。しかし、駅(停留場)は平屋根の入口に電車のりばを示す小さな看板があるだけで、うっかりしていたら通り過ごしてしまいそうだ。

喫茶店の前の薄暗い通路を入っていくと、改札口はなく、あっけなくホームに出た。車内精算の路面電車だから当然なのだが、屋根を架けた3面2線のターミナルらしい造りの構内だけに、けっこう意外感がある。参加者は30名あまり、着いては出ていく定期列車の写真を撮りながら、賑やかに時間待ちをしていた。

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恵美須町電停
(左)のりばを示す小さなプレートがあるだけの入口(2010年4月撮影)
(右)3面2線の立派な頭端式ホーム

12時過ぎ、吊り掛けモーターのモ161がホームに入ってきた。1928(昭和3)年製の車両で、開業100周年を記念して昭和40年代の状態に復元されたのだそうだ。外装はダークグリーンだが、屋根は赤(鉛丹色)、ドアと窓枠はニス塗りでいいアクセントになっている。阪堺線ではど派手なボディー広告の車両を見慣れているので、このシックないでたちは新鮮だ。

車内に入ると、目の覚めるようなブルーのモケットシートが目を引く。腰を下ろすと感じる堅めの反発力が懐かしい。鎧戸の日除けやアールヌーボー風の装飾金具、「禁煙」のプレートでさえ、レトロ感を盛り上げる立派な小道具だ。

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モ161 (左)中央扉は両開き、ニスの赤茶が美しい
(右)艶やかなブルーのモケットシートが目を引く
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(左)さりげない装飾金具もポイント (右)運転台

12時15分、電車は恵美須町を出発した。しばらくは建物の間の専用軌道を走っていく。信号に従うほかは停まらない特別列車だが、先行車を追い抜けないので急行運転とは言いがたい。大阪環状線の下をくぐり、それと並行する大通りを横断し、旧南海天王寺支線をまたいでいた築堤を上り下りする。

路面電車というイメージが定着しているにもかかわらず、車と並んで走る併用軌道区間はそれほど多くない。開業当時、住吉大社前や堺の旧市街地を除いて、町裏や都市化が及んでいない郊外に線路を敷いたからだ。だからこそ高度成長期、いたずらにクルマの目の敵にされることなく、生き残ることができたのかもしれない。

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恵美須町を出発

気が付くと緩い右カーブに差し掛かっている。天神ノ森の大きなクスノキが視界をかすめた。まもなく電車は、南海高野線のガードをくぐって紀州街道に出ていく。約2kmの間続く最初の併用軌道の始まりだ。

その北半分は、軌道の位置が道路の西側(進行方向右側)に偏っているため、対向するクルマが軌道上を堂々と走ってくる。この間にある東玉出と塚西の北行き電停は、路面に白線で描かれた安全地帯があるだけだ。そこに立ったままでは不注意なクルマに撥ねられかねず、利用者は道路際の軒先で待たなければならない。前方を見ていると、右折車や、時には通行人まで直前を横切る。電車の速度が勘で分かっていると見えて、慌てるそぶりもない。

上町線との分岐がある住吉電停の前でいったん停車した。軌道は複雑に交差していて、左後方へ行くのは天王寺駅前方面、右前方は住吉公園へ向かうひげ線(下注)だ。阪堺線浜寺公園方面と上町線天王寺駅前方面相互間の渡り線もある。

*注 このひげ線は、上述のとおりすでに廃止されている。

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住吉の渡り線を行く旧塗装のモ161(2010年4月撮影)
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住吉鳥居前の併用軌道

初詣客数では関西で一二を争う住吉大社の門前(停留場名は住吉鳥居前)を通過すると、電車は急カーブで右にそれて、再び住宅地の中の専用軌道を走り出す。ほどなく阪堺電車の運行拠点である我孫子道で停車した。ここは阪堺線と上町線の乗換え指定駅であり、大阪市内最南端のため、運賃が変わる境界駅でもある(下注)。

*注 後述するとおり、現在普通運賃は全線均一になっている。

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大和川に架かる華奢なガーダー橋(2010年4月撮影)

大阪と堺の市境をなす大和川(やまとがわ)を、華奢なガーダー橋で渡っていく。もちろん阪堺線では最も長い橋梁だ。阪神高速と少しの間並行した後、減速して急なカーブを回り込むと、堺の旧市街を南北に貫く大道筋(だいどうすじ)が見えてくる。

幅50mあるという大通りに設けられた一直線のセンターリザベーション軌道が、電車の通り道だ。座席に腰を下ろしていると気づきにくいが、両側の車道との間は、季節の花が溢れる花壇やつつじの植え込みで仕切られていて、トラムが走る環境としては特筆すべきものだ。この区間は約2.5kmも続き、けっこう乗り甲斐がある。

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大道筋のセンターリザベーション軌道
(左)老朽化していた軌道(2010年4月撮影) (右)PCまくらぎ化で乗り心地が改善

旧市街の南端で、もと環濠の土居川を渡ると、三たび専用軌道が復活する。そしてまた、胸のすくような直線路だ。大阪市内に比べて住宅の密集度が緩和されたせいか、全開の窓から吹き込んでくる初夏の風が心地よい。

また築堤を上っていき、南海電鉄本線を斜めにまたぎ越すあたりで、電車は速度を緩めた。右の車窓に浜寺公園の松林が広がっている。13時ごろ、終点の手前の乗降場所で停止。参加者を全員降ろしてから、電車はおもむろに1面1線の浜寺駅前のホームに入っていった。ここでは折返しの発車まで、20分の休憩がある。

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(左)南海本線を乗り越して海側へ (右)浜寺駅前ではホームの手前で客を降ろす
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浜寺駅前電停
(左)出札 (右)自販機が林立する正面入口(いずれも2017年9月撮影)

1912(明治45/大正元)年に全通した阪堺線だが、1915年からは南海電鉄の一路線として運行されていた。利用者減少による採算悪化を受けて1980年に分社化され、今の形になった。しかし、その後も状況は改善せず、新会社発足以来約30年間で、輸送人員は7割も減ったという。

減少傾向は、大阪市内に比べて堺市内がより顕著だった。ほぼ並行して走る3本の鉄道(南海本線、南海高野線、JR阪和線)に、所要時間でも運賃の点でも及ばず、利用者の逸走を招いたのだ。2000年決算で、会社は最初の債務超過に陥った。人員削減で合理化を進める傍ら、2003年堺市に対して、堺市内区間の存廃を含めた協議を申し入れている。

その中で2007年ごろから、東西鉄軌道事業の構想が持ち上がった。従来の鉄道がすべて南北方向に走っているのに対して、それを連絡する東西軸としてLRTを建設するというものだ。それに合わせて阪堺線は公有化(上下分離)する方針だった。ところが、役所主導で検討が進められたため、LRTのルートとなる沿線住民の強烈な反対運動を引き起こしてしまう。2009年の市長選で争点になり、計画中止を公約に掲げる現市長が当選した結果、事業はあえなく白紙撤回された。

しかし、現実に走っている阪堺線まで見捨てるわけにはいかなかった。翌2010年に市は、阪堺線に対する支援策を発表し、2011年から10年間をめどに総額50億円の財政支援を行うとともに、公有化の協議を続行することとしたのだ。

支援項目で利用者にインパクトがあったのは、経費補助による運賃値下げだ。阪堺電車の運賃体系は、大阪市内または堺市内が200円、市境を越えると290円に跳ね上がって、並行路線より高くなっていたが、これを全線200円の均一運賃にした(消費税率改定に合わせて現在は210円)。さらに満65歳以上の堺市民は専用カード持参で100円になる。住民向けだけでなく、観光客誘致のためのフリー乗車券もいろいろと用意された。

また、車両の更新も話題となった。2013年から15年にかけて調達された3編成の新型LRV「堺トラム」だ。富山地鉄のサントラムや札幌市電のポラリスと同形の3車体連接車(下注)だが、車体塗装を敢えて抑えたトーンにしているのが特徴だ。原色がはじける従来車との違いは歴然で、外観との相乗効果で沿道に高級感を振りまいている。

*注 富山地鉄のサントラムは「新線試乗記-富山地方鉄道環状線」、札幌市電は「新線試乗記-札幌市電ループ化」の項で触れている。

実はこの日、朝早いうちに住吉鳥居前の電停でそれを待っていたのだが、同じ目的の親子連れがそばにいた。坊やは先発する従来車には目もくれない。「トラムに乗りたい!」と叫んで、次にやって来た堺トラムにいそいそと乗り込んだ。1時間に1本の割合で来る堺トラムは明らかに混んでいて、大人でもこれを選んで乗る人がいる、と後で聞いた。

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堺トラム第1編成「茶ちゃ」

多方面にわたる財政支援は、堺市民の阪堺線に対する認識に変化を与えたようだ。上町線の起点あべの界隈で、キューズモールやハルカスなど大規模商業施設が相次いで開業したこともあって、利用者数はそれ以来、上向きに転じている。

次回は、モ161の帰り道を上町線天王寺駅前までたどる。

■参考サイト
阪堺電軌 http://www.hankai.co.jp/
堺市公式サイト-阪堺線への支援の取組について
http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/toshikotsu/hankaisen/

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 ライトレールの風景-阪堺電気軌道上町線

2018年8月 1日 (水)

ライトレールの風景-福井鉄道福武線

5年後に予定される北陸新幹線の延伸を先取りするかのように、福井駅西口の風景は一変していた。駅ビルが刷新されただけでなく、広場に巨大な動く恐竜のモニュメントが据え付けられ、よそ者の度肝を抜く。それとともに、傍らに新設された福井鉄道(以下、福鉄)の電車乗り場も新鮮だ。事情を知らなければ、福井にもいよいよトラムが走るようになったのか、と驚く人もいるだろう。

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風景が一変した福井駅前を発車する福井鉄道770形

もちろん、福鉄の駅前乗入れは今に始まったわけではない。1933(昭和8)年に開通して以来、85年の長い歴史をもっている。ただこれまで福井駅前の電停は、JR駅から200mほど先の、昔ながらの商店街に挟まれた通称「電車通り」の真ん中に置かれていた。JRの駅前からは建物の陰に隠れて見えず、地元の人のみぞ知る存在だったと言ってよい。

それが2016年3月27日、西口広場の整備に伴って線路が143m延長され、本当の駅前に新しい乗り場が開かれたのだ。停留場名だけは「駅前」からもう一歩踏み込んで、ずばり「福井駅」だ。路線バスのターミナルも中央大通りから広場内に集約されたことで、西口はすっかり公共交通の結節点として再生された感がある。

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西口広場に新設された「福井駅」停留場

福井駅電停は、3面2線の頭端型ホームだ。建物内にホームがある高岡や富山のターミナルとは違って、冬場の季節風に曝されるものの、屋根の下を選べば、少なくとも雨に濡れずにJRの駅舎までたどり着ける。棒線だった旧電停に比べて、列車の留め置きが可能なのも、ダイヤが乱れたときに効果を発揮しそうだ。

ただ問題は、整備されたインフラがまだ十分に活用されていないことだろう。それはこの停留所の発車時刻表を見ればわかる。なんと朝の越前武生方面は1時間に1本程度(8時台は休日運休!)、田原町方面に至っては8時36分が始発で、9時台でも1本しかない。日中も各方面30分間隔の発車だ。本来、通勤通学で最も混雑するはずの時間帯にほとんど列車が設定されていないのは、このルートにその需要がないことを端的に示している。

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駅前通りを通過する線路。以前はここに終点があった

実はこの通称 駅前線は、短い支線に過ぎない。福鉄の路線図を見ると、越前武生(えちぜんたけふ)~田原町(たわらまち)間20.9kmが本線格で、駅前線0.6kmはそこから盲腸のようにちょろんと飛び出た恰好だ(下注)。

*注 歴史的にはこちらが本線で、旧 本町通り~田原町間は、駅前線から17年遅れて1950(昭和25)年に開通した。正式にはどちらも福武(ふくぶ)線。

列車の運行も、今や市街を貫くフェニックス通り(旧 国道8号)上の南北ルートに重きが置かれている。朝の普通列車や日中の急行列車は、福井駅に寄り道することなく、フェニックス通りを駆け抜けてしまう(下注)。そのほうが、市外から市内の高校や大学に通う学生生徒たちにとっては、おそらくずっとありがたいのだ。

*注 日中は、福井城址大名町で反対方面の急行に乗り換えることが可能。駅の案内板にそのことが記載されている。

そんなわけで日中、福井駅に発着するのは各駅停車に限られる。後述するように福鉄にも新型トラム(LRV)が導入されているが、運がいいのか悪いのか、その界隈にいた間、やってきたのは名鉄から譲り受けた1980年代の小型車両ばかりだった。車両の見栄えといい、列車の運行間隔といい、衆目を集める場所だけにちょっと寂しい。

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えちぜん鉄道・福井鉄道の路線図(一部)
左上の田原町~鷲塚針原間が福鉄(緑のライン)の乗入れ区間

さて、西口広場進出とともに、福鉄には大きな変化がもう一つある。同じ日に開始されたえちぜん鉄道(以下、えち鉄)三国芦原線との相互直通(相直)運転、名付けて「フェニックス田原町ライン」だ。同線は一般的な高床の電車で運行されているので、低床トラムの乗り入れに当たって、専用ホームの新設など地上設備にも改良が施された。その様子を見に、えち鉄福井駅(下注)からアテンダントが添乗する列車に乗って、鷲塚針原(わしづかはりばら)駅へ移動する。

*注 ちなみに訪れたのは2018年6月半ばで、同駅はまだ新幹線高架上に設けられた仮駅だった。

九頭竜川を立派なトラス橋で渡り、一面緑の田園地帯をしばらく走ったところに、その駅があった。周りは集落だが、建て込んではおらず、のどかな雰囲気だ。小さな木造の駅舎に、さりげなく登録有形文化財のプレートが貼り付けてある。ここはもともと高床ホーム1面2線の駅だったが、東側に福井方から新たに1線が引き出され、片面の低床ホームが新設された(下注)。

*注 高床ホームの高さは880mm、低床は320mm。

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鷲塚針原駅
(左)既存2線(左と中央)の隣に折返し線(LRV停車中)を新設
(右)登録有形文化財の木造駅舎
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鷲塚針原駅に揃うえち鉄の高床車両と福鉄の低床LRVフクラム

イエローグリーンをまとう3車体連接のLRVが、折り返し待ちで停車している。2013年から16年にかけて導入された福鉄のF1000形、愛称フクラムだ。色違いで現在4編成が稼働している。対するえち鉄も、自前のLRV(ただし2車体連接)L形2編成を用意して、相直運転に投入した。こちらの愛称はki-bo(キーボ)で、F1000形と合わせて、きぼうふくらむ、と読ませるらしい。

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(左)3車体連接のF1000形フクラム (右)L形ki-boは中間車のない編成
いずれも福武線水落~西山公園間で撮影

列車は私ともう一人の乗客を乗せて、鷲塚針原のホームを定刻に発車した。本線に入ると速度を上げていき、直線区間では速度計の針が70kmを指した。急行の扱いだが、えち鉄線内6kmのうち、通過するのは九頭竜川橋梁の北詰にある中角(なかつの)だけだ。川を渡って福井市街地に入ると、田原町まで各駅に停車していく。

かぶりつきで観察していると、低床ホームの設置方法には、駅によってバリエーションがある。最初の新田塚(にったづか)は列車交換駅で、島式ホーム(高床)の両側にある線路を、さらに新設の低床ホームが挟み込むサンドイッチ型だ。一方、八ツ島と日華化学前は棒線駅なので、高床と低床を直列に並べ、その間は階段やスロープでつないでいる(下注)。商業ビルに半分潜り込むような形の福大前西福井も、列車交換駅だが相対式ホームなので、やはり直列型だ。

*注 両駅は2007年開設の新駅で、将来のLRT化を見込んで、高床ホームを撤去が容易な木造にしてあったそうだ。

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(左)新田塚は中央に高床、左右に低床ホームを配置
(右)日華化学前は高床と低床を直列に配置

行く手に、両鉄道が接続する田原町駅が見えてきた。えち鉄が直進するのに対し、福鉄に入る相直便は手前で右に分岐して、一見相対式の専用ホームに到着する。一見という訳は、ホームが行先別ではなく、相直便は両方面とも、越前武生に向かって左側のホームを使うからだ。対する右側のホームは当駅折返しの列車用で、線路はえち鉄につながっていない。「お乗りまちがいにご注意ください」と書かれた掲示が利用者の困惑を物語る。

駅舎は、相直運転に合わせて、木目調の小ざっぱりした建物に建て替えられた。以前は薄暗い納屋のような駅(失礼!)だったように記憶するが、その面影はどこにもない。東側にあったはずのコンビニも撤去されて、フェニックス通りまで見通せる広場になった。とはいえ、日中の駅は閑散としたものだ。

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田原町駅
(左)えち鉄線から右へ分岐して福鉄の構内へ
(右)反対側から福鉄構内を撮影。左の線路は折返し用で、えち鉄にはつながっていない

えち鉄は、ここから旧市街を迂回してJR線の外側に出てしまう。それで、乗換えなしに中心部へ直行できる相直便は利用価値が高いのだが、列車本数は意外に少なく、1日11往復きりだ。朝に2本(福大前西福井で折返し)と日中1時間ごとで、夜は走らない。多くの時間帯は、従来どおり田原町乗り換えになる。

それでも施策は当たったようで、相直運転開始の前後を比較すると、利用者数は年間ベースで2~3%増加したのだそうだ。たとえば、福鉄を利用して福井大学に通う学生たちは、これまで田原町で降りて歩いていたが、相直便ができて、最寄りのえち鉄福大前西福井まで行くようになった(下注)。フェニックス通りに目ぼしい商業施設がなく、交通需要が通勤通学の時間帯に集中するのが辛いところだが、こうした開通効果が持続し、じわじわと拡大していくならうれしいことだ。

*注 運賃の乗継割引(最大25%)も行われている。

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田原町駅
(左)会社が変わるため運転を引継ぎ (右)手前が福鉄、奥がえち鉄の出札窓口

せっかくここまできたので、福鉄全線を乗り通してから帰りたい。福鉄の運転士に引き継がれたフクラムは、しずしずとフェニックス通りの中央に出ていく。併用軌道上の停留場も改築されていた。以前は、人一人立てるだけの、柵もない危険な「安全」地帯だったが、拡幅され、屋根と風防もついて、電車待ちの環境がずいぶん改良されている。

駅前線が分岐する福井城址大名町(ふくいじょうしだいみょうまち)は、相直運転と同じタイミングで、「市役所前」から改称されたばかりだ。その目的は観光振興だそうだが、実際には城跡より市役所のほうが手前にあるし、日常使うには名前が長すぎていただけない。設備投資に県から多額の補助が出ているから、福井城址に陣取る県庁(下注)の意向を汲んだのかと勘繰ってしまう。

*注 福井城には見事な堀と石垣が残っているが、本丸に県庁ビルが聳えている。

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フクラム青編成が、田原町駅からフェニックス通りの併用軌道へ出ていく
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(左)併用軌道上の駅も改築。仁愛女子高校停留場
(右)福井城址大名町の駅前線分岐

足羽川を渡り、商工会議所前(旧 木田四ツ辻)を出ると右へそれて、専用軌道に入る。どこか1か所で途中下車しようと思っていたので、普通列車に乗換えて、西山公園駅で下車した。西山公園というのは、鯖江市民の憩いの場になっている広い緑地で、地元では桜やつつじの名所として知られている。谷あいにある北の庭では、ちょうど花菖蒲が見ごろを迎えていた。福鉄は、並行するJRに比べて駅間距離が短いので、すぐ行ける普段使いの気安さがある。

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西山公園の嚮陽庭園
(左)北の庭では花菖蒲が見ごろ
(右)上段の庭は、山頂にもかかわらず池泉回遊式庭園!

日野川を横断し、北府(きたご)の古い木造駅舎の前をかすめるように急カーブしていくと、まもなく終点の越前武生だ。この列車が到着すると、2面3線のホームは、フクラムと880形ですべて埋まった。古びた駅ビルは、駅名を武生新(たけふしん)と言っていた頃から、大して変わっていない。そしてこれも最初からだが、JRの武生駅とは徒歩連絡で、約300m離れている。間に居座るアル・プラザの中を突き抜けて、トラムがJRの駅前広場に粛然と現れる図をつい想像してしまうのだが…。

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越前武生駅に到着。線路は新旧車両で埋まった
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越前武生駅 (左)古びた駅ビル内の改札 (右)正面

■参考サイト
福井鉄道 https://www.fukutetsu.jp/

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