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2018年6月24日 (日)

北海の島のナロー IV-ランゲオーク島鉄道

ランゲオーク Langeoog ~埠頭 Anleger (Anlegestelle) 間 2.6km
非電化、軌間 1000mm
1901年開通(馬車鉄道)、1937年ディーゼル化

ランゲオーク Langeoog は、文字どおり長い(lange)島(oog)だ。地図で見ればユーストやノルダーナイのほうがより長いのだが、ワッデン海の沖に砂丘がどこまでも伸びるさまを見て、昔の人が素直に名付けたのだろう。ところが地名とは対照的に、ランゲオーク島鉄道 Inselbahn Langeoog は、3島の鉄道の中で最も短い。ランゲオーク駅と埠頭 Anleger (Anlegestelle) 駅の間 2.6km、ゆっくり走っても7分で着いてしまう。

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ランゲオーク島鉄道のカラフルな旅客列車

宿泊していたエムデン Emden から朝、ランゲオーク島をめざした。まずは船が出る本土側の港までたどり着かなければならない。東フリジアの各島の港と本土の港は、ほぼ1対1で対応している。この島に渡るにはこの港からというのが決まっているのだ。ボルクム島であればエムデン、ノルダーナイ島はノルトダイヒ・モーレ Norddeich Mole、そしてランゲオーク島の場合はベンザージール Bensersiel になる(下の地図参照)。

エムデンやノルトダイヒ・モーレへは本土の鉄道網が通じているが、その他の港はもはや鉄道では行けない。実際、旅行者の多くが自家用車で直接港まで来てしまうので、需要が細っているのだ。その分、港の周辺には大規模な駐車場が用意され、テーマパークの前かと思うほど車が並んでいる。

しかし感心するのは、片や公共交通機関のネットワークもしっかり維持されていることだ。各港を一つ一つ回っていくバス路線があり、列車も船もそれに連絡するようにダイヤが組まれている。ノルデン Norden からは、K1系統が日中1時間毎に、エーゼンス Esens を経由して、最終的に最東端ヴァンガーオーゲ島への港であるハルレジール Harlesiel まで行く。

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東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016

エムデン中央駅から、7時42分発のノルトダイヒ・モーレ行き列車に乗った。ブレーメン Bremen からやって来たダブルデッカーのIC(インターシティ)だが、案の定、車内はガラガラだ。ノルデン Norden で下車し、駅北側のターミナルで8時15分発のバスに乗り継ぐ。ベンザージールまで1時間近くかかる。

バスは数えるほどの客を乗せて、広大な平野をひた走った。一帯は干潟や塩性湿地が長い時間かけて干拓され、見渡す限り緑の農地に姿を変えている。エーゼンスでは駅前に入り、ヴィルヘルムスハーフェン Wilhelmshaven から来る列車(下注)の到着を待った。

*注 ノルトヴェスト鉄道 Nordwestbahn が連接気動車を運行している。ブレーメン Bremen やオルデンブルク Oldenburg 方面からはこのルートが近い。

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(左)島への港を回っていくバスK1系統 (右)緑の平野をひた走る

改めて北へ進んだバスは、高い防波堤を乗り越えて、ベンザージール港の旅客ターミナルの前で停まった。見ると、切符を求める人の列が玄関からはみ出している。出航は9時30分。あと20分しかないので少々焦る。しかし、中に入ると窓口が3つ開いていて、思ったより早く順番が回ってきた。

島内鉄道込みで大人往復25.20ユーロ(リゾート税 Kurtaxe 別)。日帰り券 Tagesrückfahrkarte は22.50ユーロだ。ただ、渡されるのは皆同じICチップの入ったランゲオークカード LangeoogCard で、レシートを見ないと何の切符かわからない。しかもこれは使い回しなので、帰りの船に乗る際、ターミナルの改札機で回収されてしまう。

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(左)ベンザージール港の旅客ターミナルには切符を買う人の列
(右)ランゲオークカード

ランゲオーク島の年間訪問者数は約21万人(2016年)で、ノルダーナイ、ボルクムに次いで諸島で3番目に多い。それで夏季(5~10月)は、本土との間を船が6~7往復しており、比較的自由に旅程が組める。この港からランゲオークの町まで、船と列車を介して約1時間というのも手軽でいい。

平日というのに、乗り込むとすでにデッキのベンチにも客があふれていて、人気ぶりが窺える。後部デッキの端に陣取って、海を眺めた。ちょうど干潮のタイミングらしく、周りは泥の干潟だ。船は防波堤の間の長い水路をたどり、十分沖合まで出たところでようやく速度を上げた。行く手にはすでに島の白い帯が見えていて、次第に輪郭がはっきりしてくる。30分もすればもう、島の港の突堤に迎えられる。

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(左)船はデッキまで満員 (右)長い水路を進む。防波堤の外側は干潟が広がる
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ランゲオークの埠頭
中央やや左、ランプウェーの陰に赤色の機関車が見える(帰路撮影)

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ランゲオーク島の1:50,000地形図(L2310 Esens 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ランゲオーク島は、港、鉄道、市街を含めて全体がボルクムのミニ版という印象だ。規模は小さくても、公共交通機関がスムーズに相互接続している点は同じだし、ましてやカーフリーの島なので、それなしでは移動もままならない。

埠頭に建つ、本土側と同じデザインの旅客施設を通り抜けると、駅のプラットホームに直結している。だだっ広い島式ホームはかさ上げされ、車両との段差が小さい。トラムのようだったボルクムの軽便に比べて、いくぶん普通鉄道の雰囲気がある。ここも機関車が列車の両端に付くプッシュプル運転なので、町に向かって左側の発着線には機回し用の側線もなかった。

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(左)埠頭駅の島式ホーム (右)ホームの両側に列車が停車中

ホームの両側に列車が停まっている。右の列車は客車5両のみの編成、左は客車6両とその後ろに、託送手荷物の小型コンテナを載せる長物車が連結されている。小ぶりの客車はデッキ付きで、内部は2人掛けクロスシートの木製ベンチが並ぶ。また、中央の車両はバリアフリーの特別仕様だ。ホームとの空隙を埋める踏み板が出て、座席も1人掛けで通路が広く取られている。塗装は1両ごとに色が違い、紺、青、赤、黄、緑とカラフルだ。それに赤いディーゼル機関車(シェーマ・ロコ Schöma-Lok)が付くと、軌間1000mmでも遊園地の列車のように見える。

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(左)シェーマ・ロコ CFL 250形
(右)託送手荷物を積む長物車(ランゲオーク駅で撮影)
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(左)客車はデッキ付き (右)車内は2人掛けのクロスシート
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(左)バリアフリー車両は中央に両開き扉、踏み板つき
(右)1人掛け席で通路を広げている

船を降りた客のほとんどが右側の列車に乗り込んでいくので、それに従った。出発すると、右にカーブしながら、フリントヘルン防潮堤 Flinthörndeich の陸閘を通過する。それから堤防前地 Deichvorland に広がる牧草地の中を走っていく。緑の波に無数のタンポポが揺れる。その中で馬が悠々と草をはみ、野鳥の群れが羽を休めている。実にのどかな景色だ。

踏切を渡って、ハーフェンシュトラーセ(港通り)Hafenstraße 沿いに進む。右の車窓に、セスナ機が駐機している滑走路が見えた、と思う間に側線が左右に分かれ、ランゲオーク駅のホームが近づく。実際乗ってみても、遊覧列車並みの感覚だった。

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(左)列車は牧草地の中を行く (右)ハーフェンシュトラーセ(港通り)を横断
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(左)堤防前地の広大な牧場 (右)島の飛行場を右に見る

鉄道の規模に比べて、駅はかなり大きい。列車は1面1線のホームのどん詰まり(町側)に停車するが、後方(港側)にも広いスペースがあり、倉庫のような建物が続いている。ここでは2008年まで鉄道貨物の受け渡しが行われていたのだ。取扱いが廃止されて以降、貨物輸送は、本土側で仕立てたコンテナトレーラーを船に載せ、島に着いたら電動カートでそれを目的地まで牽いていくロールオン・ロールオフ方式が取られている。駅で扱うのはもはや託送手荷物だけなので、広い作業場は遊休化している。

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ランゲオーク駅に到着
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(左)駅舎内部。出札窓口の右側は託送荷物の受付
(右)駅前にある手荷物運搬用のリヤカー置き場
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島の道を行く車両は馬車と電動車

ボルクムの経験から、埠頭に残っていたもう1本の列車が続行してくると予想し、カメラを手に構内の南にある踏切で待った。線路を横切るのは馬車か、電動車が牽くトレーラーだ。カーフリーの島ならではだが、肝心の列車はいっこうに現れなかった。さんざん待たされた挙句、見送ったのは埠頭から来る列車ではなく、ランゲオーク11時30分発の埠頭行きだった。とすると埠頭にいたあの列車は、次の船を待っていたのだろうか…。

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埠頭行き列車を見送る

駅前の幅広の通りを西へ向かった。中央通り Hauptstraße の名のとおり、町を貫くちょっとしたショッピング街だ。滞在客もそぞろ歩いていて、明るく開放的なリゾートの雰囲気が漂う。突き当りの坂の上にレトロな意匠の給水塔 Wasserturm があり、見晴らしが利く。起伏の多い海岸砂丘(カープ砂丘 Kaapdünen の名がある)はすっかり植生に覆われていて、その間を縫っていく遊歩道の先に、海も望めた。

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(左)給水塔から見下す市街地
(右)かつて馬車軌道が通ったバルクハウゼン通り Barkhausenstraße
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(左)町のはずれの給水塔 (右)給水塔から海岸砂丘と海を望む

ここランゲオーク島でも、最初に造られたのは馬車鉄道だ。渡船を運営していたエーゼンス=ランゲオーク航運 Reederei Esens-Langeoog の子会社により、1901年6月に開通した。諸島では最も遅い登場になる。当時の桟橋は今の位置ではなく、やや北東にあった。そこから軌道は干潟と湿地を横断して現駅付近で中央通りに入り(併用軌道)、さらに角を曲がってバルクハウゼン通り Barkhausenstraße を北上し、ロックム修道院の宿泊所 Hospiz des Klosters Loccum(下注)に達していた。延長3.62kmのルートだった。

*注 ニーダーザクセン州レーブルク=ロックム Rehburg-Loccum にある修道院が建てた宿泊施設で、現在も残っている。

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波に洗われる桟橋と馬車軌道(ランゲオーク駅舎の展示写真)

当初は冬場運休するなど、細々と走っていたが、1909年に本土の港ベンザージールに1000mm軌間の軽便鉄道(下注)が開通すると、急増した旅行者で運行も安定していった。1925年には他の島のような機関車の導入が計画されたが、町民の反対にあった。騒音に対する懸念も一つの理由にされたが、それより彼らは、船賃が高く旅行者が他の島に流れていると、会社の方針に不満を抱いていたのだ。結局、1927年に町は航路と馬車鉄道を一括で買収することで、公営化に踏み切った。ただ、懸案の動力転換は資金不足のために先送りされた。

*注 レーア=アウリッヒ=ヴィットムント軽便鉄道 Kleinbahn Leer-Aurich-Wittmund のオーゲンバルゲン Ogenbargen ~ベンザージール Bensersiel 間の支線。途中エーゼンス Esens で国鉄に接続した。1967年廃止。

1936年10月、嵐が二度も襲来し、桟橋へ通じる線路は高波をかぶって完全に流失してしまう。復旧に当たって、町は動力化を決断する。その際、町なかの併用軌道は廃止され(下注)、町の南口、すなわち現在位置に駅が設置されることになった。1937年7月15日が馬車鉄道の運行最終日で、ついにランゲオーク島に、ディーゼル機関車が列車を牽く時代が訪れた。

*注 一説では、中央通りからバルクハウゼン通りへの急カーブを列車が曲がれないことも理由にされた。

新しい線路は馬車軌道に並行して敷かれたが、ルートはその後二度変遷する。最初のそれは同じ年、空軍が島に飛行場を設置すると決めたことが原因だ。水害から飛行場を護るために防潮堤が築かれ、資材を陸揚げする新港の建設が始まった。工事は1939年に完成し、同時に鉄道も全面的に移設され、その埠頭に向かうようになった。

この軍用埠頭は戦後、民間開放されてしばらく使われたが、1951年、約400m西に新たな埠頭が建設され、線路も再び移動した。港通りの踏切の手前でカーブする今のルートは、このとき使われ始めたものだ。

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埠頭駅に揃う客船と列車

この間、機関車はドイツ Deutz 社やシェーマ Schöma 社製新車のほか、廃止された近隣の鉄道(シュピーカーオーク、ユーストを含む)からの譲渡でも調達されてきた。1960年代から気動車が運用されたが、現在の主力はシェーマ・ロコ CFL 250形5両だ。これは1994年に州の財政支援を受けた整備の一環で、同時に客車10両、長物車1両も新造された。さらに2005年にバリアフリー車両2両が追加された。

並行して施設の整備も実施されている。1995年にランゲオーク駅舎が今ある姿に改築され、線路配置も変更された。埠頭駅の拡張は2000年で、片面ホームから現在の島式2線になり、多客時の混雑緩和が可能になった。

こうしてランゲオーク島鉄道は、近年見違えるように近代化された。その一方で、長く島の鉄道を記録してきたサイト Inselbahn.de は、「その際、この島だけに残っていた軽便鉄道らしさ Kleinbahn-Flair の多くが失われた」と言って、惜しむ気持ちを隠さない。古典車両を走らせて観光鉄道の側面も強化するボルクムに比べて、こちらは見かけはともかく、中身は機能的で実用本位だ。往年のファンは、理解しつつもそこに一抹の寂しさを感じてしまうのだろう。

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ランゲオーク駅舎

次回は、最東端のヴァンガーオーゲ島鉄道を訪ねる。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/
Langeoog Tourismus Service  https://www.langeoog.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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2018年6月20日 (水)

北海の島のナロー III-ボルクム軽便鉄道 後編

埠頭を後にして、ボルクム軽便鉄道 Borkumer Kleinbahn の列車は一直線の長い築堤の上を走っていく。周りに低木が育っているし、道路も並行しているので、干潟の景色はとぎれとぎれだ。最高時速は50km、並行道路を飛ばす車には抜かれるものの、それなりに速い。発車して5~6分ほど経った頃、ようやく堤防と交差する陸閘 Deichtor(ボルクム駅起点 3.8km)を通過して、島の本体に入った。

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保存蒸機「ボルクム3世」号が牽く回顧列車

反対方向の列車とすれ違い、この鉄道が全線複線だったことに改めて気づく。列車が片道10本もないミニ路線に過剰設備では? そういう疑問を抱く人がいても不思議ではない。途中に信号所を設けて、列車交換させれば済むことではないかと…。

実際、1980年代に線路の強化工事を行った際、経費節約のために、整備対象外の一部区間(下注)を閉鎖して単線運行にしたことがある。ところが、船の到着が遅れて列車のダイヤに乱れが生じると、単線ゆえにそれが増幅し、出航する船にも波及した。それでその区間を復活させることになり、単線化の実験は4年(1989~93年)で終わった。船の発着に合わせて遅滞なく訪問客を送迎するには、複線設備が必要なことが証明されたのだ。

*注 単線区間はボルクム駅起点 2.7km~6.9km区間、およそ町のへりから埠頭の手前までだった。

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重軌条化された複線が陸閘を通り抜ける

それに、時刻表に記載されていない列車も走っている。フェリーの収容人数は最大1200人、カタマランやオランダからの便もあるので、1本の列車には乗せきれないということが当然起こりうる。また帰りの客が一列車に集中すると、乗換えに時間を要し、船の出航が遅れる可能性もある。それで状況に応じて臨時列車 Entlastungszug(混雑緩和列車の意)を出しているのだ。

私が本土に戻ろうと、ボルクム駅で列車を待っていたときもそうだった。定刻は15時30分発なのに、15分も前に早々と出発の合図が鳴った。時刻変更かと訝しみながら、慌てて飛び乗ったのだが(下注)、桟橋に着き、船のデッキから見ていると、もう1本時刻どおりの列車が入ってきた。結局、この船のために2本の列車が前後して走り、船はその到着を待っておもむろに出航した。

*注 私が見逃しただけであって、増発列車があることは駅の電光掲示板に表示される。

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レーデ駅に時刻通り現れた2本目の連絡列車

車窓風景に話を戻そう。列車が陸閘を過ぎ、林の中をさらに進むと、木の間越しに赤屋根の家並みがちらちらと見えてくる。ここで減速し、唯一の中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク Jakob-van-Dyken-Weg に停車した。この周囲にも貸別荘があるようすで、スーツケースを引きながら何組かが下車した。

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中間停留所ヤーコプ・ファン・ディーケン・ヴェーク

再び動き出すと、また道路と並走するようになり、辺りが町の様相を帯びてくる。やがて右に鋭くカーブし、多くの人が待つボルクム駅 Borkum Bahnhof のホームへ滑り込んだ。煉瓦建ての駅舎ではカフェやアイスクリーム屋が店を出し、ホームも線路面も煉瓦張りで、街路のような造りだ。普通鉄道の駅というよりむしろ、トラムのターミナルというのがふさわしい。

町のど真ん中なので、周りにはホテル、土産物屋、ブティック、レストラン、スーパーマーケット、ついでにカジノと、何でもある。考えてみれば、エムデンからここまで他人の後ろについて乗り継いできただけで、迷うどころか、長く歩かされることさえなかった。離島でも船と鉄道の連携によって、最小限の移動ストレスで済む公共交通システムが構築されているのはすばらしい。

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列車がボルクム駅に滑り込む

任務を終えた列車はどうなるのか、と見ていると、女性車掌が踏切の先にある重い転轍てこを倒して、線路を切替えた。それから列車は、推進運転で手前にある車庫の側線へ移動する。車庫は5両程度の奥行きらしく、機関車はまず半分を庫内に納めた後、残りを連れて、隣の線路に転線した。車庫入れ作業はちょっと面倒そうだ。

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推進運転で車庫入れ作業
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別の列車の機回し作業
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作業を終え、レーデ駅に向けて出発

ボルクム駅を含む町なか約1km区間の歴史は、軽便鉄道の開通よりさらに古い。なぜなら、1879年に造られた 900mm軌間の馬車軌道の一部だったからだ。旧灯台が火災で使えなくなり、新しい灯台が急遽必要となったため、島の東の入江からその建設現場まで、資材輸送用の軌道が敷かれた。ちなみに、このとき造られた新灯台 Neuer Leuchtturm は今も駅裏の丘に立ち、町を見下ろしている。

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馬車鉄道が建設資材を運んだ新灯台
(左)駅舎の裏に新灯台が頭を出す
(右)灯高(平均海面から灯火までの高さ)は63m

一方これとは別に、潮位の影響を受けない固定の埠頭を、堤外4kmの干潟の先端に建設するという計画が、1883年に動き出した。建設と運営を請け負ったのは、馬車軌道を走らせていたハービッヒ・ウント・ゴート社 Habich & Goth だ。同社は堤防から埠頭まで線路を敷くための築堤を造成し、先述のとおり馬車軌道も一部転用して、1888年、町と埠頭を結ぶ蒸気鉄道を開通させた。今のボルクム軽便鉄道だ。

たった今体験したとおり、これは本土との往来を劇的に改善する効果を生んだ。しかし、高波で築堤が何度も流されるなど、路線の維持は民間会社の手に余るものだった。そこで公共企業「エムス社 AG Ems」の子会社「ボルクム軽便鉄道・汽船会社 Borkumer Kleinbahn und Dampfschifffahrt GmbH」が設立され、1903年に事業を継承した。

1902年にボルクム島は海軍要塞とされ、各所に軍用施設が造られていく。それに合わせて1908年、軽便鉄道に並行して資材を輸送する軍の専用線が敷かれた。当初2本の線路は別々に使われていたが、1912年ごろから混用されるようになり、軽便鉄道の複線運行が始まった。

本線から分岐する支線や側線、引込み線も多数造られた。すでに1888年にボルクム駅から北の海岸に沿って、防波堤工事の資材を運ぶシュトラント(海浜)線 Strandbahn が造られていた。1912年には島の東側へ向けて、オストラント線 Ostlandbahn が敷設された(下注)。

*注 工事終了後、1929年からシュトラント線では保養客のために旅客輸送も行われたが、1953年に休止。1968年に最後の記念運行が行われた後、線路は撤去された。一方、オストラント線は一般旅客輸送を行うことなく、1947年に撤去されている。

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(左)オストラント線はボルクム駅から北へ続いていた
(右)構内線路の先に道路となった線路跡が延びる

戦争の足音が再び近づいた1938年、埠頭に隣接して新しく軍港が建設されることになった。現在、フェリーが着岸する埠頭は旧港であって、西側の大きく掘り込まれた貨物港がそれだ。埠頭へ通じる築堤も拡幅され、複線の横にさらに軍用道路が通された。戦後1946年にこの道路は民間に開放され、港と町を結ぶルートとして機能するようになる。

しかし、このことは道路交通との競合を生じ、鉄道の経営に悪影響を及ぼした。前々回述べたように、1960年にはバス転換も視野に入れて、調査が実施されている。結論は鉄道の役割を肯定するものだったが、片や1962年に高波で鉄道が不通になり、その際のバス調達がきっかけで路線バスの運行が始まった(下注)。さらに1968年からは鉄道の運行期間が短縮され、冬季はバス代行となった。貨物輸送もまた1967年に廃止され、トラックに移された。

*注 路線バスはボルクム軽便鉄道・汽船会社が現在も運行しており、埠頭から町の中心部を経由して鉄道のない東部まで足を延ばす。

こうした低迷期は1970年代を通して続いた。潜在的な危機を脱したのは、1979年に積極的なインフラ投資計画が決定してからだ。それに基づき、線路の重軌条化や整備工場の改築、ボルクム駅舎の拡張、車両更新などさまざまな施策が進められた。旅客数が増えたことで、冬季運休は1994年に解除された。2000年代以降も機関車の増備や線路の再更新が続けられ、ボルクム軽便鉄道は順調に走り続けている。

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新灯台から南望
左奥に港へ延びる築堤がある。その右にかすかに見える発電用風車が新港の位置

鉄道の重要性はさておき、この島の旅行者にとって次に必要な交通手段は、自転車だそうだ。駅にレンタサイクル Fahrradverleih があるので、借りるべく駅舎南端の受付へ行った。そこには駐輪場かと思うほど、膨大な数の黒い自転車が整然と並んでいる。現地の人の体格に合う大型で頑丈そうな自転車だ。悲しいかな、私はサドルを一番下にしてもらって、ようやく地面に爪先がついた。料金は1日8ユーロ。

後輪用のブレーキレバーはなく、ペダルを少し逆転させると効くコースターブレーキだ。使ったことがない私には難しかった。走り始めのケンケン乗りはできない。発進時にペダルが真上/真下にあっても漕ぎ出せない(少しバックさせてから乗る)。走行中も無意識にペダルを逆回しして、ブレーキがかかる経験を何度かした。ただ、このレンタサイクルは軽便鉄道の直営なので、フレームに鉄道のロゴがついている。できるものなら土産に買って帰りたいところだ。

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ボルクム軽便鉄道のロゴ入り自転車。左のブレーキレバーはない

昼食の後、さっそく風を切って、海岸プロムナードを南へ走る。レストランの先は砂浜が広がり、シュトラントコルプ Strandkorb と呼ばれる優雅なビーチチェアがたくさん並んでいた。

灌木の中の気持ちのいい小道を走り、堤防の陸閘のところで踏切を渡って、一般道に出た。陸閘の壁面に何やらモザイクで描かれている。初めは抽象画かと思ったが、よく見るとボルクム島の地図で、1974~77年に建設されたこの堤防の位置を示しているのだった。縮尺まで添えてあるところが憎い。

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(左)色とりどりのシュトラントコルプが並ぶ砂浜
(右)管理小屋、扉の上に書かれた Vermietung はレンタルの意
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(左)陸閘のモザイク壁画は島の地図 (右)赤丸が現在位置、堤防は黒の太線

築堤道路をさらに進む。今日はよく晴れて、まだ5月というのに暑いくらいだ。埠頭に着いて、何か飲み物をと探したが、カフェどころか、売店すらない。もちろん船内に入ればあるのだが、地上は単なる通過地点とみなされているらしい。列車を1本撮影して、元来た道を戻った。

築堤道路を無心に漕いでいたとき、またレーデ行きの列車と行き違った。しかし、牽いていたのはいつものシェーマ・ロコではない。蒸気機関車だ! 

この蒸機は1940年、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社製で、1941年から1962年までこの島で「ドラルト Dollart」の名で稼働した後、島内で静態展示されていた。それが、鉄道を観光資源にする取組みのもと、解体修理で軽油焚きに改造され、「ボルクム3世 Borkum III」号として1996年に再デビューした。

きょう日曜日は、木曜とともにその運行日なのだが、何時に走るのか情報がなかったこともあり、すっかり忘れていた。特別運行の回顧列車 Nostalgiezug で、蒸機はヴァイヤー様式の古典客車を伴っていた。私はカメラを取り出す暇もなかったので、すばやく撮影に成功した同行のT氏の作品をお借りする(冒頭写真)。

鉄道には、このほか「豚の鼻面 Schweinschnäuzchen」または「オオアリクイ Ameisenbär」の異名をもつボンネットエンジンのヴィスマール・レールバス Wismarer Schienenbus T1形も1両保存されている。こちらの運行は原則火曜日だ(下注)。

*注 いずれも乗車には特別料金が必要。正確な運行日は鉄道の公式サイトに記載されている。

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(左)保存蒸気「ボルクム3世」号が通過
(右)車庫にいたヴィスマール・レールバス T1形、別称「豚の鼻面」

撮り逃がしたままにしてはおけないと、ボルクム3世が埠頭から折り返してくるのを、さっきの陸閘の上で待ち構えた。今度こそ撮れたのはよかったが、残念なことに機関車はバック運転だった。転車台はどこにもないから、そうなることはわかっていたのだが…。

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戻ってきた蒸機はバック運転

次回はランゲオーク島鉄道を訪れる。

■参考サイト
AG Ems  https://www.ag-ems.de/
Borkumer Kleinbahn  http://www.borkumer-kleinbahn.de/
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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2018年6月16日 (土)

北海の島のナロー II-ボルクム軽便鉄道 前編

ボルクム Borkum~レーデ Reede 間 7.44km
非電化、軌間 900mm、全線複線、1888年開通

東フリジア諸島の西端、ボルクム島 Borkum へ渡る船は、エムデン Emden の港から出航する。私は朝9時に出る便を予約したので、市内の宿に前泊していた。エムデンは、エムス川 Ems の河口近くにある古くからの港町だ。港に面して市庁舎が建ち(下注)、人々が集まる広場があり、片隅に起源が1635年に遡るハーフェントーア(港の門)Hafentor という市門も残っている。保存帆船が係留された風景は、どこか対岸のオランダの港町を思わせる。

*注 第二次世界大戦中の空襲で町の8割が焼けたため、市庁舎も戦後の再建になる。

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エムデン中心部の旧港
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(左)旧港に面して建つ市庁舎 (右)ハーフェントーア(港の門)

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エムデンの1:50,000地形図
(L2708 Emden 1997年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

ただし、この港は保存された旧港だ。船が大型化するにつれ、港は沖へ拡張されていった。ボルクム航路は現在、旧市街から3km先の外港(アウセンハーフェン Außenhafen)にあるボルクム埠頭 Borkumanleger に発着する。

そのため鉄道も、エムデン中央駅 Emden Hbf との間に連絡支線を持っている。中央駅から埠頭最寄りのエムデン・アウセンハーフェン Emden Außenhafen 駅まで、ごろごろと低速で走る列車でも6分あれば着く(下注1)。また、中央駅前のターミナル(ZOB)からは、市バスも1時間ごとに出ている(下注2)。ボルクム桟橋では駅とバス停が目の前に並び、船との乗継ぎはいたって便利だ。

*注1 ヴェストファーレン鉄道 Westfalenbahn のRE15系統と、若干のIC(インターシティ)が乗り入れてくる。
*注2 Stadtverkehr Emden (SVE) 502系統、埠頭の最寄りは Außenhafen-Borkumanleger 停留所。なお、土曜は本数が減り、日曜は運休のため、要注意。

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(左)エムデン中央駅
(右)駅前広場に置かれた静態保存の蒸機。右奥は古い給水塔、手前の線路は模型走行用
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エムデン外港
(左)アウセンハーフェン駅 (右)左奥の建物がフェリーターミナル Fährhaus。駅に直結している

ボルクムは、東西二手に分かれるエムス河口の間に位置し、諸島の中では本土から最も遠い島だ。それにもかかわらず、旅行者数はノルダーナイ島に次いで多く(下注)、人気とともにそれに見合う受入れ体制を備えている。

*注 2016年の旅行者数 ボルクム 290,875、ユースト 135,284、ノルダーナイ 537,641、バルトルム 76,567、ランゲオーク 217,161、シュピーカーオーク 94,055、ヴァンガーオーゲ 123,036。 Industrie- und Handelskammer für Ostfriesland und Papenburg (IHK), "Tourismus auf den Ostfriesischen Inseln" による。

航路が水深のあるエムス川を通るので、他の島のように運行が潮位に左右されないのも有利だ。それでハイシーズンには、フェリー(貨客船)とカタマラン(双胴船)が1日3往復ずつ、計6往復の設定がある。フェリーは島まで2時間から2時間半かかるが、最高速度38ノット(70km/h)のカタマランなら、それを1時間に短縮できる。

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ボルクム航路の船団
(左)客船ヴェストファーレン号 (右)カタマラン(双胴船)ノルトリヒト号

ちなみにボルクムまで、大人普通運賃は片道19.60ユーロ、往復37.20ユーロだ。ほかに週末往復や日帰り往復(片道運賃と同額!)の割引切符もある。島に着いたら軽便鉄道の列車で町まで行くので、これらはすべて鉄道込みの運賃だ(下注)。

*注 島内の利用者のために、軽便鉄道のみの運賃の設定もある(大人片道2.60ユーロ)。蒸機等の特別列車は追加料金が必要。

他方、カタマランは、乗船1回につき11ユーロの追加が必要になる。さらにパンフレットには予約推奨と書いてある。9時発はこれで運行されるので、私は大事をとって、ネット予約しておいた。ところが、乗船してみると、船内はみごとに閑古鳥が鳴いていて、帰りに乗ったフェリーのほうがはるかに混雑していた。

上記IHK資料によれば、島の訪問者の平均滞在日数は8.43日で、日本人の感覚からするとかなり長い。時間に余裕のある滞在客にとって、乗船時間を1時間節約したところで大した意味はないのだろう。もちろん、満席にならない限り、予約なしで窓口へ行ってもカタマランの切符は買える。

エムデン中央駅から埠頭までバスで行った。到着が出航5分前という際どい接続だが、昨日下見に来ていたこともあって、難なく予定のカタマラン、ノルトリヒト Nordlicht 号(オーロラの意)に乗船できた。定刻9時、船は静かに港を離れる。積込みを待つ新車が整然と並んだ港内をゆっくり進み(下注)、川というより湾に見えるエムスの広い水面に出たところで、猛然と速度を上げた。

*注 エムデンにはフォルクスワーゲンの主力工場の一つがある。

ホバークラフトとは違い、カタマランは2階のデッキに出られる。高みから観察していると、航路は初め、緑の野に発電用風車が林立する右岸に沿う。やがてそれが右奥へ去るや、今度は左岸、すなわちオランダ側の陸地が接近してくる。こちらも発電用風車が回っているが殺風景で、造成された工業地区のようだ。スマホを定額のローミングサービスにしていたら、知らぬ間にオランダの電話会社につながっていた。

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(左)エムデンを出航 (右)右岸はドイツ領。緑の野に発電用風車が林立
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(左)エムス河口を猛然と走る (右)ボルクム島の砂浜に沿って

やがてボルクムの白く扁平な島影が見えてきたころ、針路は北西から右回転して東に転じる。そして、砂浜に沿うようにして、島の埠頭へ接近していく。朝というのに、埠頭にはたくさんの人影と車の列があった。後で知ったが、オランダのエームスハーフェン Eemshaven 行きのフェリーを待っているのだった。確かにボルクムは、ドイツ本土よりオランダのほうがずっと近い。

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ボルクム埠頭で船を待つ多くの人影
中央が軽便鉄道のホーム

タラップを伝って、ボルクム埠頭に降り立った。ボルクムといっても、ここはまだ干潟の先端に造られた人工の小島だ。島本体とは長さ2km以上ある築堤でつながっている。岸壁に並行して狭軌の線路が2本延び、屋根付きの低いプラットホームがそれに接する。フェリーにマイカーを載せてきた人は別として、大部分の訪問者はここで軽便鉄道の列車に乗り継ぐことになる。

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ボルクム島の1:50,000地形図(L2406 Borkum 1988年版)
© Landesamt für Geoinformation und Landentwicklung Niedersachsen, 2018

そのボルクム軽便鉄道 Borkumer Kleinbahn は、ここレーデ Reede から町なかのボルクム駅 Borkum Bahnhof まで、7.4kmを運行する非電化、900mm軌間の鉄道だ。エムス株式会社 AG Ems の子会社、ボルクム軽便鉄道・汽船会社 Borkumer Kleinbahn und Dampfschifffahrt GmbH が、航路と一体で運営している。ミニ路線ではあるものの、全線複線化されており、鉄道が残る3島の中で最も規模が大きい。

レーデとは投錨地、停泊地を意味する言葉だ。埠頭は一般にアンレーガー Anleger(接岸場所の意)と呼ばれるのだが、ボルクムでは港が整備される以前の呼称を残している。なお、同鉄道の時刻表では駅名を、Reede ではなく Fährhafen(フェリー港の意)と記載しているので注意。

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埠頭のレーデ駅
(左)列車が入線
(右)電光掲示板は各方面のボルクム駅出発時刻(船の出航時刻ではない)を示す

待つことしばし、昔のバスかトラックのような余韻のない警笛を合図に、真っ赤な小型機関車が列車を牽いて、ゆるゆると入ってきた。ホームの前に停車するや、降りる人と乗り込む人が交錯する。特大のスーツケースが行き来し、毛並みのいい飼い犬も尻尾を振りながらついていく。

赤を装う機関車は、運行の主力を担うシェーマ社(下注)製の2軸ディーゼル CFL150形だ。側面のプレートによれば、これは「ハノーファー Hannover」号。鉄道には同型車があと3両、「ベルリン Berlin」「ミュンスター Münster」「アウリッヒ Aurich」が在籍している。いずれも赤塗装だが、機関室前面の排気筒の色が識別のポイントだ。このほか、より古いシェーマ・ロコ CFL200形「エムデン Emden」も、繁忙期に出番がある。

*注 ドイツのディープホルツ Diepholz に本拠を置くクリストフ・シェットラー機械製造会社 Christoph Schöttler Maschinenfabrik GmbH、通称シェーマ SCHÖMA は、簡易軌道やトンネル建設現場で使われるこうした小型ディーゼル機関車の専門メーカー。

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シェーマ製ディーゼル機関車。排気筒の色でも識別可能
(左)ハノーファー号、1993年製 (右)アウリッヒ号、2007年製

機関車の後ろにつく黄色づくめの車両は、コンパートメント兼荷物車だ。さらに、側面が色違いの4軸客車が8両連なっている。小型とはいえ全部で10両、堂々たる編成だ。客車は1993~94年の製造で比較的新しいが、デッキつき、ダブルルーフの古典仕様は、かつて活躍していたヴァイヤー式客車 Weyer-Wagen(下注)に基づく。乗車時間が短いので、座席は木製ベンチだ。車内の片側が対面式クロスシート、もう片側がロングシートで、狭いスペースに効率よく配置されている。

*注 カール・ヴァイヤー社 Carl Weyer & Cie. (後のデュッセルドルフ鉄道需要 Düsseldorfer Eisenbahnbedarf)は、デュッセルドルフに本拠のあった車両メーカー。軽便鉄道が所有する旧型客車は改修を受けて、今なお回顧列車 Nostalgiezug の運行に使われている。

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現行4軸客車。内部は片側クロスシート、片側ロングシート
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回顧列車で使われる古典客車

乗客が乗り込んでいる間に、外では機回し作業が行われた。文献には、列車の両端に機関車を連結して(下注)、そのまま折り返し運転ができる、と書かれているが、この日はどの列車も機関車は1両だった。残りの機関車は、検査か整備に出ているのだろうか。

*注 2両の機関車が客車を挟む形のプッシュプル運転 Wendezugbetrieb は、 CFL150形を1両増備(「アウリッヒ」号)して、2007年に始まった。

時刻表によれば、この列車の出発時刻は「およそ」10時15分。船の遅延も見込んで、幅を持たせてあるのだろう。ホームから人影が消えれば、発車の準備が整う。前のほうで例のそっけない警笛が響き、列車はそろりと動き出した。車窓を、ランプウェーの口をぽっかり開けたフェリーの影が遠ざかる。ボルクム駅までは17分の旅だ。

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回顧列車がレーデ駅を出発、ボルクム駅に向かう
先頭は1970年製のシェーマ・ロコ、エムデン号

続きは次回に。

■参考サイト
AG Ems https://www.ag-ems.de/
Borkumer Kleinbahn http://www.borkumer-kleinbahn.de/
Inselbahn.de https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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 北海の島のナロー VII-シュピーカーオーク島鉄道の昔と今

2018年6月11日 (月)

北海の島のナロー I-概要

ヨーロッパ大陸とイギリス諸島の間に横たわる北海。ドイツやオランダもこの海に接しているが、より大縮尺の地図を見ると、本土と北海本体の間には小さな島が鎖状に連なり、オランダ沿岸からユトランド半島にまで延びている。これらはフリジア諸島 Frisian Islands / Friesische Inseln と呼ばれる(下注)。そのうち、ドイツ領のエムス Ems 河口からヤーデ Jade、ヴェーザー Weser 河口までが、東フリジア諸島 East Frisian Islands / Ostfriesische Inseln だ。

*注 フリジア Frisia は英語由来の呼称で、ドイツ語ではフリースラント Friesland という。上で併記した原語は左が英語、右がドイツ語。

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東フリジアの地図
沖合に島が鎖状に連なる。本土との間の海がワッデン海
ドイツ官製1:500,000地形図 Nordwest を使用 © Bundesamt für Kartographie und Geodäsie, 2018

なぜこのような形に島が並ぶのだろうか。その成因は主として海流による。このあたりは、最終氷期(約7万年前~1万年前まで)に海面が現在より約60m低く、砂礫やモレーンから成る平たく乾燥した土地が広がっていた。その後、氷床が融けて海面が上昇すると、海流に乗って砂が西から東へ移動していく。また、北海に注ぐ川が内陸から多量の砂泥を海に押し流し、これも海流によって運ばれた。

北海沿岸の潮汐力は大きい。満ち潮は速くて勢いがあるが、引き潮の速さはその85%にとどまるという。そのため、沖合から満ち潮に乗ってきた砂は、引き潮で戻されずにいくらかはそこに残る。高潮や強風がそれを上へと堆積させる。やがて沿岸には長さ500kmにもなる砂丘の列ができた。実は、今あるフリジアの島々は、こうした砂丘が嵐の際の高波などで寸断された姿だ(下注)。

*注 なお、ユトランド半島西岸の島々は北フリジア諸島と呼ばれ、成因が異なる。

一方、氷圧から解放されたスカンジナビア半島の隆起で、相対的に北海南部が沈下したため、海面水位は上昇し続けている。そのため、島と本土との間は完全に陸地化することなく、干潟や遠浅の海、ワッデン海 Wattenmeer(下注)として姿をとどめた。

*注 オランダ語の Waddenzee に基づきワッデン海と呼ぶが、本来、干潟(Watt)の海(Meer)という意味の普通名詞でもある。

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遠浅が続くワッデン海の眺め
シュピーカーオーク島西岸にて

東フリジア諸島に有人島は7つある。西から順に、ボルクム Borkum、ユースト Juist、ノルダーナイ Norderney、バルトルム Baltrum、ランゲオーク Langeoog、シュピーカーオーク Spiekeroog、そしてヴァンガーオーゲ Wangerooge だ(下注)。

*注 島名の語尾に付く oog、ooge は、現地のフリジア語で島を意味する。

一番大きいのは西端のボルクム島だが、それでも面積は31平方km、日本でいえば厳島(宮島、30平方km)にほぼ等しい。一方、バルトルムとヴァンガーオーゲは10平方kmにも満たない小島だ。人口も、最も多いノルダーナイ島で約6000人、バルトルムやシュピーカーオークは1000人を割り込む。

そのようなささやかな島々にもかかわらず、このうち5島にかつて一般旅客や貨物を運ぶ軽便鉄道が存在した。そして今日でもなお、3つの島で列車の走る姿が見られる。しかも細々と動いているどころか元気で、島にとっても不可欠の存在になっているのだ。

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賑わうボルクム軽便鉄道
(左)レーデ Reede 駅で船と接続 (右)終点は町の中心

なぜ、島の鉄道 Inselbahn が21世紀まで生き残り、それぞれに活路を見出し得たのだろうか。その理由を知るために、少し歴史を遡ろう。

かつて東フリジアの島の生業は、漁業と少しばかりの農業だった。島に別の収入をもたらす道を開いたのは、19世紀、本土からやってきた保養客だ。彼らは泳ぎに来たわけではない。当時、海辺の新鮮な空気が呼吸器疾患その他さまざまな病状の改善に有効だと考えられており、療養のために滞在したのだ。

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砂浜を埋め尽くすシュトラントコルプ(屋根付きビーチチェア)Strandkorb
ヴァンガーオーゲ島にて

1797年にノルダーナイ島が、プロイセン王から最初のノルトゼーバート(北海保養地)Nordseebad に認定された。本土から隔絶した島という希少性や神秘性が、上流階級の人気に拍車をかけた。しかし、それは、交通の便が悪いことと同義だった。

島へ向かう舟は、本土のジール港 Sielhafen から出航する。ジールはフリジア語で、堤防で囲まれた水門のある水路のことだ。水路は河川とつながっており、内陸の水が水路を通って海に排出されるときに、干潟に深い溝、いわゆる澪(みお)を刻む。浅海では、これが唯一安全な航路になった(下注)。

*注 グレートジール Greetsiel、ベンザージール Bensersiel、ハルレジール Harlesiel など、島へ渡る港(干拓が進んで内陸に取り残された旧港を含む)の多くが今も「ジール」のついた地名をもっている。

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ジール港の眺め
カロリーネンジール Carolinensiel にて

潮が満ちてくれば、舟が出せる。だが、島との往来に使われたのは、シャルペ Schaluppe と呼ばれる1本マストの小さな帆掛け舟だ。慣れない本土の客は、これでたいてい船酔いの洗礼を受けた。さらに島の側には港と言えるものはなく、正確に言えば沖合の投錨地だった。桟橋を造っても、当時の技術では嵐が来るたびに、波で簡単に壊されてしまうからだ。

それで客は潮位が下がるのを待ち、干潟を歩いて上陸した。急ぐ者には、有料の干潟馬車 Wattwagen という選択肢もあった。満ち潮でも濡れないように車高を上げた馬車で、2頭の馬が波を蹴立てて牽く。馬はひどいときには頸まで水に浸かるため、病気になることも多かった。

シャルペに代わって蒸気船が就航すると、所要時間が短縮され、船酔いも軽減された。しかし喫水が深いため、投錨地はさらに沖合に遠ざかり、干潟馬車まで小舟でつながなくてはならなかった。乗り換えのときに、不注意な客が泥の海に落ちることもしばしばあったという。

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(左)1900年代の干潟馬車、座席は高さ1.7m。カリフォルニア・オークランド博物館所蔵
Photo by Daderot at wikimedia. License: CC0 1.0
(右)現代の観光用干潟馬車。ノイヴェルク島 Neuwerk にて
Photo by Simaron at flickr.com. License: CC BY-SA 2.0

時代が下り、19世紀後半になると、いよいよ北海の島々にも鉄道敷設の構想が現れる。まず、本土との距離が最も近いノルダーナイ島で、ワッデン海を築堤で横断し、その上に本土直通の鉄道を走らせるという計画が発表された。しかし、ヒンデンブルクダム Hindenburgdamm(下注)に半世紀先立つ大胆な提案は、技術的な困難さからすぐに立ち消えとなった。

*注 ヒンデンブルクダムは、北フリジア諸島のジルト島 Sylt と本土をつなぐ長さ11kmの築堤。1927年に完成し、その上を標準軌鉄道が通る。

実現した鉄道としては、1879年にボルクム島に導入された900mm軌間の馬車鉄道が最初だ。ただしこれは船との接続ではなく、火災に遭い改築が必要となった灯台の工事現場に建設資材を輸送するものだった。1885年にはシュピーカーオーク島に旅客用の馬車鉄道が登場するが、これも港ではなく、西海岸に設けられたビーチと村の間を往復した。

港と島の中心集落との連絡機能を担う最初の鉄道は、1888年にボルクム島で開通した蒸気鉄道だ(下注)。固定の桟橋が、潮位に影響されないように防波堤の沖4kmに建設され、そこへ向けて延長された築堤の上に線路が敷かれた。蒸気船を降りた客は、桟橋に横付けされた列車に乗り換えて、町まで運ばれる。上陸までの煩わしい行程を過去のものにする画期的な方式で、この後、島への訪問客が急増するのは当然のことだった。

*注 ジルトでも同年、ムンクマルシュ Munkmarsch の旧港から主邑ヴェスターラント Westerland までメーターゲージの蒸気鉄道が開通している。ボルクムのわずか3週間後だった。

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列車が埠頭に横付けされ、乗継ぎは実にスムーズ
ボルクム・レーデ駅にて

ボルクムの成功を見て、1890年代は島々の間で、桟橋の整備とともに鉄道敷設が一種のブームとなった。1891年にはシュピーカーオークで馬車鉄道が、1897年にはヴァンガーオーゲでメーターゲージの蒸気鉄道が、1898年にユースト(下注)、1901年にランゲオークでもそれぞれ馬車鉄道が開業し、港で客を迎える体制が整えられている。

*注 ユーストの馬車鉄道は開通後まもなく、高波の被害を被った。それを機に線路を杭桁 Pfahljoch の上に載せ、内燃動力に切り替えたので、馬車鉄道の運行は1シーズンのみで終わった。

鉄道の近代化のスピードは、島によって事情がかなり異なる。初めから蒸気鉄道であったボルクム、ヴァンガーオーゲでは、1950年代に、徴用解除された本土の中古ディーゼル機関車や気動車により「無煙化」された。内燃式のユーストも同時期に気動車を導入している。

それに対して、馬車鉄道のランゲオークとシュピーカーオークは、歩みが遅かった。前者は1937年に内燃動力に転換したが、後者はドイツ最後の馬車鉄道と言われた時代を経て、戦後の1949年にようやく転換された。

さて、こうした旅客や生活必需物資の輸送は、島の鉄道の重要な任務だが、他にも期待された役割があった。その一つは海岸保全工事のための資材輸送だ。

北海の嵐に伴う高波はしばしば島に大きな被害をもたらし、「ブランカー・ハンス Blanker Hans(下注)」と恐れられてきた。堤防や桟橋が破壊されるだけでなく、海岸が、ときには屋敷や畑も含めて持っていかれる。風向きの関係で西岸が常にハンスの攻撃に曝されており、逆に東岸には未固結の砂州が長く延びている。島の主要集落が西側に偏っているのは、侵食作用で追い詰められた結果に他ならない。

*注 ブランカー・ハンスは、白く光るハンス(ハンスは一般的な人名)の意で、波のしぶきを見立てたもの。

そのため、防波堤の建設と拡張が19世紀半ばから継続的に行われ、工事用の軌道や側線が、鉄道の本線から分岐する形で設けられた。ボルクム、ユースト、シュピーカーオーク、ヴァンガーオーゲ、どの島もそうだ。バルトルム島にも工事軌道はあり、州の水路・航路局 Wasser- und Schiffahrtsamt (WSA) が管理していた。しかし、こうした軌道は、工事が完成すれば不要となる定めだ。今も残っているのは、ヴァンガーオーゲにあるWSA保全拠点への引込み線が唯一とされる。

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(左)「堤防は島を護る。立入らないでください」の立札
(右)防波堤と交差する線路には陸閘を設置。いずれもヴァンガーオーゲ島にて

それに加えてもう一つの役割は、軍事貢献だった。とりわけボルクムとヴァンガーオーゲは、エムス、ヴェーザーの河口を扼する位置にあるため、二度の世界大戦で要塞地帯とされた。兵舎、弾薬庫、砲座など軍用施設には、たいてい鉄道の引込み線がつながっていた。

初期の挫折以来、鉄道に縁がないノルダーナイ島でも、軍用鉄道だけは造られた。第一次世界大戦中の1915年に何と標準軌で敷設され、第二次大戦でも使用された。だが戦後は、民生用に転換されることもなく、1947年までに姿を消した。

戦後、本土(特に西ドイツ)では1950~60年代までに、ほぼすべての軽便鉄道が自動車との競争に敗れ、廃止されてしまうが、島の鉄道はどうなったのだろうか。

分類すると、東フリジア諸島で現在、軽便鉄道が存続しているのは、ボルクム、ランゲオーク、ヴァンガーオーゲの3島だ。ユーストとシュピーカーオークのそれは1980年代前半に廃止され、残るノルダーナイとバルトルムでは、先述の通り一般用の鉄道が稼働したことは一度もない(下注)。

*注 シュピーカーオークでは廃止とほぼ同時に、馬車鉄道が保存運行で復活し、2年の中断期間があったものの、現在も続けられている。ちなみに、北フリジアのジルトの軽便鉄道も1970年に廃止された。

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東フリジアの鉄道路線
"Personenverkehr Deutschland", DB Vertrieb, 12/2016

ではなぜ、ある者は生き残り、ある者は失われたのか。まず存続したほうの要因は、いまだに需要があるというに尽きる。

ボルクムでは戦後、桟橋へ通じる軍用道路が市民に開放され、車で直接桟橋に行くことが可能になった。競合による鉄道の経営悪化を受けて、1960年に初めてバスへの転換を視野に入れた調査が行われた。しかし、町まで 7kmの距離があり、船で到着した客を一度に運ぶには相当な台数が必要となるため、バス輸送は現実的でなかった。大量輸送できる鉄道の特性を認めた結論だった。

また、ランゲオークとヴァンガーオーゲでは、島全体がカーフリー化されており(下注)、旅客輸送はもっぱら鉄道に任されている。

*注 自動車の全面禁止ではなく、スイスのツェルマット Zermat やヴェンゲン Wengen などと同様、貨物を運ぶ電動車は走っている。

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ヴァンガーオーゲの広大な塩性湿地を行く

一方、鉄道が廃止されたユーストとシュピーカーオークもカーフリーの島なので、原因を作ったのは車ではない。実は、中心集落に近い場所に新港が造られたため、鉄道で間をつなぐ必要がなくなったのだ。かつては、ある程度水深のある沖合でないと、桟橋を設けることができなかった。しかし、浚渫技術の進歩で、干潟の奥まで水路を掘る工事が可能になり、両島はそちらを選択した。

とはいえ、今なお東フリジアの3つの島に軽便鉄道があり、積極的に活用されているというのは貴重だ。今年(2018年)5月、実際に島を訪れる機会を得たので、次回からその活動状況や沿線風景を順にレポートしていこう。

■参考サイト
Inselbahn.de  https://www.inselbahn.de/

本稿は、Malte Werning "Inselbahnen der Nordsee" Garamond Verlag, 2014および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

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2018年6月 6日 (水)

コンターサークル地図の旅-淡河疏水

兵庫県東播磨地方のいなみ野(印南野)台地は、日本で最も灌漑用ため池が密集する地域だ。水田に対するため池の面積は、地区によって3割にも達するという。瀬戸内気候で降水量が少ないことに加えて、台地は周囲を流れる河川より数十m高く、また表土が山砂利層であることから、もともと水が得にくい土地だった。

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御坂サイフォン橋
手前が1891年築の石造橋、奥は1953年築の鉄筋コンクリート橋

江戸時代の新田開発で、周辺や台地内の河川から水路が引かれたが、既存の水利権との調整で、取水できるのは秋から春に限られた。そこで、堤を築いて池を造り、水をいったんそこに引き込んでおき、必要なときに使えるようにした。ため池が多いのはそれが理由だ。しかし、農業生産が拡大するにつれ、水不足は再び顕著になっていく。

より遠い六甲山地(六甲山系および丹生(たんじょう)山系)に水源を求める案は、すでに18世紀後半から唱えられていたというが、流路が藩をまたぐため、利害調整が難しく、話は容易に進まなかった。明治に入り、最終的に兵庫県に統合されたことで、計画がようやく動き出す。

当初、取水地は山田川中流と目されていたが、調査の結果、水路予定地の地質が悪いことが判明し、一本北の川筋である淡河川(おうごがわ)に変更された。導水路は最初、川の右岸の山中を伝う。そして御坂(みさか)で志染川(しじみがわ、下注)の谷を横断した後、芥子山(けしやま)を隧道で貫き、いなみ野台地に出る。この淡河疏水(おうごそすい、下注)は1888(明治21)年1月に着工され、難工事を克服して1891(明治24)年に完成を見た。

*注 御坂で淡河川と山田川が合流して、志染川と名を変える。
*注 正式名は淡河川疏水。なお、「疏」は当用漢字外のため、地形図では淡河「疎」水と表記される。

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淡河疏水、山田川疏水の概略ルート

御坂で横断する谷の比高は60m以上ある。このため、横浜水道の設計者である英国人土木技師ヘンリー・S・パーマーの提案により、逆サイフォン構造が採用された(下注)。管路延長は749.32m(水平距離735.30m)で、谷底を流れる志染川は、全長56.95mのアーチ橋を架けて通過する。管路の吐口は呑口より2.45m低いだけだが、管路を満たした水は、連通管の原理で谷を隔てたこの位置まで上昇してくる。

*注 起点の水面より高い位置を越える本来のサイフォンとは構造が異なるが、以下ではこの名物区間のことをサイフォンと記す。

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御坂サイフォンの見取図。現地の案内板を撮影

前置きが長くなったが、2018年5月28日のコンターサークルSの旅は、この淡河疏水の探索がテーマだ。まずはお目当てのアーチ橋、御坂サイフォン橋に行き、その後時間が許す範囲で、疏水の名物スポットを巡りたいと思っている。

JR三ノ宮駅の高架下にある神姫(しんき)バスのターミナルから、9時10分発の西脇営業所行きに乗車した。三木や小野を経由する便だが、御坂にも停まるので、現場へのアプローチとしては理想的だ。

朝の郊外方面なので、乗客は数えるほどだった。三宮を出ると、長い新神戸トンネルで六甲山系を一気に越え、箕谷(みのたに)ICから志染川沿いに下っていく。御坂バス停前に集合したのは、バスに乗ってきた今尾さん、浅倉さん、私と、自家用車で到着していた相澤夫妻の計5人だ。

サイフォンのありかは、すぐそばの山腹に黒い鉄管が横たわっているので、探すまでもない。斜面を降りた鉄管は地中に潜ってしまうが、跡を目で追うと、県道を越え、御坂神社の脇を通り、集落内の道に出る。そしてそのままサイフォン橋に接続する。橋は本来、車一台優に通れる幅があるのだが、上流側はチェーン柵を張って通行できなくしている。「明治の橋が老朽化したので、戦後(1953(昭和28)年)、下流側に新しい橋が造られ、水路もこちらを通っているそうです」と私。

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御坂サイフォン橋の路面。この下に管路が通っている
(左)北側から写す。上流側は通行不可になっている (右)南側から写す

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御坂サイフォン周辺の地形図(等高線は10m間隔)

橋のたもとから右に分かれる小道をたどると、川原に降りることができる。流れに架かる沈下橋の上に立って、眼鏡橋の通称をもつ軽やかな2連アーチを眺めた。ただ、前面に来るのは鉄筋コンクリート製の昭和の橋なので、隠れている明治橋が見える位置まで、川原の草藪を漕いでいった。

明治のサイフォン橋は、アーチ部も橋台も石造りだ(冒頭写真)。表面にモルタルを吹き付けて補強した跡があるが、下部ほどその剥離が目立つのは、大水のときに受けた被害だろうか。昭和橋は、明治橋のプロポーションを踏襲している。開腹と充腹というデザイン上の違いはあるものの、並んでもあまり違和感がない。下から仰ぐと、まるでお爺さんに若者が寄り添い、支えている構図だ。

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(左)並ぶアーチを川原から見上げる。左が明治橋 (右)昭和橋の側面
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斜面に横たわるサイフォンの管路 (左)橋の南側から写す (右)北斜面に接近

橋を後にサイフォンの南側まで行ってみたが、管路が再び地表に出たところで通行止めの柵がしてあった。それで逆の北側に回る。急坂の小道を上り、老人ホームの手前で折れて、疏水べりに出た。幅2~3mの水路にまだほとんど水は来ていない。この上流には石積みのポータルをもつ隧道があるはずだが、周囲の草丈が高すぎて、踏み込むのは躊躇された。

一方、下流側は水路に蓋がされ、その上が通路になっている。おりしも土地改良区の人が水路のゲートの調整に来ていたので、一言お断りしたうえで、その道を先へ進んだ。地形図では庭園路の記号で書かれている林の中の道は、枝葉が積もっているものの歩きやすい。少し行くと、急に視界が開けて、サイフォンの吞口にある枡が現れた。

そこは格好の展望台で、谷を降りていく管路とサイフォン橋を通る道、向かいの谷を上る管路が直列に並ぶさまが一望になる。下から見上げるのとは違う、スケールの大きな眺めだ。「サイフォン全体がわかる。ここはいいですね」。今日は曇りがちで日差しこそ少ないが、谷間はやや蒸し暑かった。それに比べて、山の上は心地よい風が通う。一行はしばらく風に吹かれながら、130年前の偉業を成し遂げた地元の人々の熱意に思いを馳せた。

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呑口(北側の山上)からの眺望
背景は三木総合防災公園内の施設、その後ろは芥子山

「さっきの神社の付近に三角点がありますね」と地形図を眺めていた今尾さんが言う。山を下りた後、神社の境内に狙いを定めて探してみた。案の定、社の奥の竹林の中に「基本測量」と記された杭があった。相澤さんが慣れた手つきで落ち葉の下を掘り返すうち、目印となる自然石とその中心に測量標の頭が現れた。「三角点にしては見通しの悪い場所ですね」「設置したときは竹林もなく、開けていたんでしょう」。

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(左)御坂神社正面 (右)三角点の探索

相澤さんの車に同乗させてもらい、移動を開始した。東播用水土地改良区の事務所でもらった疏水の資料と地形図を見比べながら、私がナビをする。まず車を停めたのは、練部屋(ねりべや)分水所だ。淡河疏水は、後にできた山田川疏水(下注)と合わさり、いなみ野台地の比較的高い位置にあるこの分水所に達する。そしてここで5方向に分けられる。

*注:1915(大正4)年竣工。かつては坂本で山田川から取水していたが、1991(平成3)年以降、呑吐(どんど)ダムから導水している。呑吐ダムには、さらに北部の大川瀬ダムから水が送られてくる。

最初は方形に煉瓦を積み上げたものだったそうだが、後に六角形に改修され、1959(昭和34)年に現在の直径10mある円筒分水工に置き換えられた。ここでは、送られてきた水を円筒の中心部から湧出させ、円筒外周部に分配比に応じた仕切りを造って、越流させている。分水を可視化して公平性を担保しているわけで、賢い仕掛けだ。

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(左)練部屋分水所の円筒分水工 (右)分水工の構造図。現地の案内板を撮影

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練部屋分水所周辺の地形図

ここで昼食。水音を間近に聞きながら、こどもの頃のサイフォン遊びの思い出から、水車で搗いたそばが美味い理由や、水力で動くケーブルカーに乗った話まで、水にまつわる話題に花が咲いた。

東京へ帰る今尾さんをJR土山駅へ送って行った後、来た道を戻って、淡山疏水・東播用水博物館を訪ねた。淡山(たんざん)疏水とは、淡河川疏水と山田川疏水の総称だ。前庭に、サイフォンで使われた鉄管の断片が置いてあった。初代のそれは英国から輸入した軟鉄製で、後年の漏水対策として分厚いコンクリートが周囲に巻かれた状態で保存されている。今、現地で使われているのは1992年に交換された3代目だそうだ。

館内には水路のルートをランプで示す地図や、明治期の疏水施設の写真展示もある。案内人さんの、「水路管を清掃すると魚がいっぱい、ときには亀まで出てくることがあります。小さいときに入ったやつがパイプライン暮らしで育ってしまって」という話には笑った。

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博物館の前庭にあるサイフォン管の展示

この近くに、疏水の石造橋が残されている。掌中橋(てなかばし)といい、小川をまたぐ長さ7.6mの小さな水路橋だ。1914(大正3)年竣工と時代が下るが、堅牢そうな花崗岩のアーチと側面の煉瓦張りで、見栄えがする。すでに水路の用はなしていないが、元の場所に手を加えることなく残されており、疏水関連の貴重な遺産だ(下注)。相澤夫人に臨時のモデルをお願いして、写真を撮った。

*注 西方にある、より規模の大きな平木橋(長さ16.2m)は、道路工事に支障したため、移築保存された。

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掌中橋。欄干には橋の名とともに請負人、石工の名が刻まれる

水路トンネルのポータルを見ておきたかったので、相澤さんにまた車を走らせてもらった。目星をつけたのは、雌岡山(めっこさん)の西麓、古神(こがみ)地内の田んぼの中にある幹線水路の隧道だ。ところが、法面をすっかり草むらが覆っていて近づけない。やむをえず道路から遠望したのが下の写真だ。几帳面な石積のポータルの下に、煉瓦を巻いた楕円形の吐口が見える。「流量が少なくても泥などが溜まりにくいように、底を丸めてあるんでしょう」と浅倉さん。

御坂で会った土地改良区の人が、来週、再来週には田植えが始まる、と言っていたのを思い出した。もう6月だ。あの画期的なサイフォンで谷を渡って、この水路にたっぷりと水が送られてくる日も近い。

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(左)雌岡山 (右)その西麓にある隧道吐口

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図京都及大阪(平成15年修正)、和歌山(昭和59年編集)、姫路(昭和59年編集)、徳島(昭和53年編集)、および地理院地図を使用したものである。

淡河疏水、山田川疏水の概略ルートは、農林水産省近畿農政局東播用水二期農業水利事業所 製作の「いなみ野台地を潤す水の路 ”淡河川山田川疏水”」所載の図面を参考にした。

御坂サイフォンの写真は別途、晴天時に撮影したものを使用している。

■参考サイト
いなみ野ため池ミュージアム http://www.inamino-tameike-museum.com/
 トップページ > ため池資料館 >「淡河川・山田川疏水開発の軌跡をたどる いなみ野台地を潤す"水の路"」に詳しい資料がある。

農林水産省「御坂サイフォンを設計したパーマー」
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/hyogo_02/

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2018年6月 2日 (土)

コンターサークル地図の旅-高野街道と南海高野線旧線跡

2018年のコンターサークルS 春の旅本州編の後半は、関西地方が舞台だ。5月27日は、昔の風情を残す旧 高野(こうや)街道と、サイクリングロードになっている南海高野線旧線跡を通して歩いた。駅でいうと、河内長野(かわちながの)と天見(あまみ)の間、8kmほどの距離だ。

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吉年邸の大クスノキ

10時30分、河内長野駅の改札前に集合したのは、今尾さんと私と、飛び入りで参加してくれた海外鉄道研究会のTさんの計3人。駅前広場の一角にある高野街道の碑のところから、今日の歩きをスタートさせた。

高野街道というのは、古来、京や大坂と真言密教の聖地高野山との往来に使われたルートの総称だ。京都方面から生駒山地の西麓を南下してくる東高野街道、堺から南東へ進む西高野街道など、道筋はいくつかあるが、それらが最終的に河内長野で一本にまとまり、紀見峠(きみとうげ)を越えていく。

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河内長野駅前の高野街道碑

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河内長野~三日市町周辺の1:25,000地形図

なかでも河内長野から三日市宿にかけては沿道に見どころが点在している。駅前から南に向かうと、立派な旧家、吉年(よどし)邸がある。だが屋敷より目を引くのが、庭に生える樹高20m、枝張り30mもあるという大クスノキだ。家の裏手から噴き出すように枝葉を広げ、白壁の土蔵を今にも呑み込んでしまいそうな勢いだ(冒頭写真)。

その脇で道は二手に分かれる。「右のほうが古い道なので、そっちを通ろうと思います」と案内役の私。今尾さんが持参した明治期の地形図では、三日市宿へショートカットする道がすでに描かれているので、右は旧々道ということになる。

段丘崖を降りて道が直角に曲がる所に、天野酒の醸造元、西條合資会社の風情のある建物が軒を連ねていた。道の左側(南側)が登録有形文化財の旧店舗「さかみせ」で、幕末から明治初期の建築だそうだ。修復工事が終わったばかりなので、軒に渡された銅の雨樋がまだ艶々としている。最近の景観整備事業で路面が石畳に置き換えられたこともあり、ここだけ昔にタイムスリップしたような一角だった。

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(左)銅の雨樋が光る西條合資会社の旧店舗
(右)旧西條橋を渡ると別久坂(2018年3月撮影)

旧西條橋で石川を渡った後は、また坂を駆け上がる。別久(びっく)坂と呼ばれるこの急坂で、道は烏帽子山の山裾にぴったりと張り付く。中世、山頂には城が築かれており、「防衛戦略上や経済的な理由から、高野街道を山裾に取り込んだものと考えられます」と案内板は語る。確かにここは上位段丘面で、宅地がなかった頃は遠くまで見通しが利いただろう。烏帽子形八幡神社の門前には休憩用のベンチがこしらえてあった。鬱蒼と茂る森の中から、鶯のさえずりが聞こえてくる。

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烏帽子形八幡神社の門前

上田の高札場跡で直角に曲がると、今度は松屋坂の急な下り道だ。吉年邸から直進してきた旧道と合流してすぐ、旧 三日市交番が公開されていた。木造2階の小さな建物だが、築年は古く1921(大正10)年とされる。「駅前に新しい交番ができるまで、駐在さんがここに詰めていたんです」とボランティアの案内人さん。かつてはすぐ隣に町役場もあったというから、辺りは行政の中心だったのだ。

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(左)旧 三日市交番が公開中 (右)風情を漂わせる三日市宿の家並み

加賀田川を渡る。私たちが注目したのは左に見える高野線鉄橋、ではなくその手前(西側)に残された煉瓦の旧橋台だ。おそらく1914(大正3)年開通時のもので、イギリス積みのどっしりとした外観が頼もしいが、観光パンフレットには何ら言及がない。「これも文化財なんで、説明板の一つぐらいほしいですね」とTさんが残念がる。「街道の風物じゃないと関心がないんでしょうか」と私。

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(左)高野線単線時代の煉瓦積み橋台 (右)現在線の脇に残る

それに対して宿場の歴史に関わるものは、本陣格の旅籠だった油屋跡、19世紀後半に造られ現存する八木家住宅と、どれも丁寧に解説されている。背景にショッピングセンターの無粋な建物が見え隠れするものの、蛇行する街路沿いに懐かしい瓦屋根の町屋が続いて、写真の一つも撮りたくなる界隈だ。

三日市町駅前まで来たので、少し早いが、そのショッピングセンター、フォレスト三日市の空調の効いたベンチを借りて、昼食にした。今日は気温が30度に近く、空気の重たさが梅雨の季節が近いことを知らせている。

駅を後に、直線状の旧道をなおも進む。石見川を渡る新高野橋の北のたもとに、八里石を見つけた。高さ178cmの立派な石碑で、おもてに「西是(これ)ヨリ高野山女人堂江(へ)八里」、側面に安政四(1857)丁巳年二月の日付が刻まれている。傍らの案内板によれば、これは堺から高野山まで13里ある西高野街道に沿って一里ごとに建てられた標石の一つで、すべてが今も残っているという。「日本のマイルストーンですね」と今尾さんが感心する。

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(左)八里石 (右)街道は紀見峠に向けてなおも延びる

史跡などの見どころはおよそこれが最後で、旧街道自体もこの先、断続的に国道に取り込まれてしまう。大阪府が作成したハイキング地図は、「車が多く、歩道がない区間もあるので、国道の脇道をのんびりと歩くこと」を勧めている。この脇道というのが、南海高野線の廃線跡を転用したサイクリングロード(歩行者自転車専用道)だ。一般道路で代用される区間はあるものの、天見川の谷に沿って約5.5kmの間延びている。

南海高野線には急勾配急曲線の連続する山岳区間があり、ズームカーと呼ばれる高性能の専用車両が活躍する舞台となっていた。今でこそ橋本~極楽橋間に短縮されているが、かつては大阪寄りの紀見峠の前後区間もそうだった。

1970年代に入ると、全国的なニュータウン開発の波が山間部まで及んでくる。それに呼応して高野線でも、河内長野~橋本間で輸送力強化を目的とした複線化が進められた(下注)。大型車両の乗り入れが可能となるよう、高架橋やトンネルの新設による線形の抜本的な改良も実施された。そしてその引き換えに、谷間を曲がりくねっていた単線の旧線は任務を解かれ、廃線跡となったのだ。

*注 複線化(多くの区間でルート変更を伴う)の時期は以下のとおり。
河内長野~三日市町 1974(昭和49)年、三日市町~千早口 1984年、千早口~天見 1983年、天見~紀見峠 1979年、紀見峠~御幸辻 1983年、御幸辻~橋本 1995年(ただし新線切替は1994年)
 旧線区間はカーブの最小半径が160mだったが、これを400m(一部240m)に緩和した。反面、ルートをショートカットするため、最大勾配は旧線25‰に対して新線は33‰とされた。

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三日市町~天見周辺の1:25,000地形図
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高野線旧線時代の地形図(1977(昭和52)年修正測量)。範囲は上図と同じ

美加の台(みかのだい)駅の500m手前で、線路際から左前方へサイクリングロードが分かれていく。軽自動車なら通れる道幅で、簡易舗装もされている。路側に植え込みや並木が続いているから、一般的な農道でないと知れるが、案内板などは見当たらない。立っているのは歩行者自転車専用の道路標識のみ。旧高野街道のルートマップでもせいぜい「国道の脇道」扱いだから、地元では観光資源とはみなされていないのだろう。人通りもなく、私たちが歩いている間、サイクリストのグループと一、二度すれ違っただけだった(下注)。

*注 自転車旅行者の間では、由来は定かでないが、「トトロ街道」と呼ばれているという。

小道はさっそく、木漏れ日が差し込む谷間に入っていく。少しの間、桜の並木が造られている。周りの林に負けないように育ったと見えて、かなりの丈がある。「線路のそばに咲いていたのかな」「枝ぶりから見て、整備のときに植えたんでしょうね」。廃線からすでに30年以上経つので、桜の木なら十分育つだろう。

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(左)サイクリングロードになった旧線跡が分かれていく
(右)谷間を桜並木が彩る(いずれも2018年3月撮影)

右手には現在線の高架に続いて、ニュータウンの玄関口として新設された美加の台駅が見える。丘の上には大規模な住宅地が広がっているはずだが、谷間にいては実感できない。現在線のガード下をくぐった後は、さらに谷が深まった。天見川の清流を二度横切るので、もしやと橋の下を覗いてみたら、頑丈そうなガーダー(橋桁)と煉瓦の橋台が確認できた。旧線の遺構に違いない。

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美加の台駅の南側で高野線をくぐる
なお、旧線跡(加賀田信号所があった)は現在線と同一レベルで交差していたので、サイクリングロードはこの区間で旧線跡からそれて迂回している
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天見川を渡る個所に旧鉄橋の橋台と橋桁が残る

渓谷を抜けたところで、サイクリングロードはいったん終わり、一般道路に接続している。廃線跡は道路の隣で草むらの農道と化し、その先では民家の庭先や畑の拡張に利用されているようだ。少し進むと、現在線が美加の台トンネルから出てきた。ここから千早口駅まではルートが移設されていない、すなわち廃線跡がないので、私たちは下岩瀬集落の中を抜けていった。

線路をくぐれば、千早口(ちはやぐち)駅だ。駅前の観光案内板には珍しくサイクリングロードも描かれていたが、旧街道のように、鉄道史跡であることも書き添えてほしいところだ。「信号機でも残っているとわかりやすいんでしょうけど」とTさん。実際は、鉄道標識すら保存されておらず、さっきの民家の畑に赤く塗られた境界標らしきものがあっただけだ。

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千早口駅前の観光案内板

標高が上がったせいで、頬に当たる風が少し涼しく感じられるようになった。駅横から再びサイクリングロードを進む。こちらはさっきより舗装が新しいので、後で整備されたのだろう。右に左にカーブが連続し、そのつど新しい景色が開けるのが楽しい。対岸には国道が通っていて、トラックの走行音も聞こえてくるのだが、それさえ別にすれば、なかなか趣のある道だ。

谷の中で、少し幅の広い箇所を見つけた。舗装道は1線分だが、柵の隣に同じような幅の空地が並行しているのだ。横断する水路の側壁の幅から、谷側にもう1線あったことが推定できる。そのときは信号所の跡と思ったが、よく考えてみると、旧線の千早口~天見間はわずか1.9km。列車交換のための信号所は必要ない。あるいは天見川の対岸に砂利採取場があるので、積込用の貨物側線だったのだろうか…。

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(左)千早口駅南方。側壁は現役時代のオリジナル
(右)柵の隣に側線跡のような空地が並行する

旧線は峠に向けて高度を稼ごうとしていたらしく、谷底との高低差が徐々に広がってくる。家並みが谷底に沈んで見える。鬱蒼とした林の中、天見小学校の裏手を回っていくと、今日の目標にしていた天見駅だった。板張りの山小屋のような無人駅舎だが、中で自動改札機がしっかり通せんぼしている。

すぐ下手に温泉旅館の南天苑があり、建物が登録有形文化財になっているので、見に行った。辰野金吾事務所の設計で、堺の大浜公園に建っていた保養施設の別館を1935(昭和10)年に移築したものだという。元の場所は戦争で空襲に遭い、そこに残っていた本館は焼失してしまった。移設のおかげでこの建物だけは命拾いしたことになる。おかみさんから奨められて、庭から座敷も拝見した。

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天見温泉南天苑(2018年3月撮影)

「これから高野山に登ってきます」という元気な今尾さんを天見駅に見送って、Tさんと私はサイクリングロードをもう少し先まで行った。ここでも桜並木が程よいカーブを描いている。次の支谷を横断する地点に架けられているのは、安っぽい擬製のアーチ橋だったが、その下に本物の煉瓦溝渠が顔を覗かせていた。

心地よい歩き道は、しかし蟹井神社の手前の辻で途切れる。例によって、人と自転車を描いた道路標識が立っているだけで、実にそっけない終わり方だ。そこから先、廃線跡は築堤上の空き地に変わり、残存する高いガーダー橋を経て、現在線に合流していく。紀見峠の下を貫く新しいほうのトンネルが、もうすぐそこに見えている。

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(左)天見駅舎 (右)サイクリングロードはなおも上流へ
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(左)擬製のアーチ橋の左下に煉瓦溝渠
(右)サイクリングロードの終点。廃線跡の築堤はまもなく現在線と合流する

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図富田林(昭和52年修正測量および平成19年更新)、岩湧山(昭和52年修正測量および平成22年更新)を使用したものである。

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