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2018年4月26日 (木)

コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

朝、JR御殿場線の上り電車に乗った。雲一つない秋晴れのもと、裾野の急坂を上っていくと、岩波駅あたりから、左前方の車窓にすっかり雪化粧を終えた富士山が顔を覗かせる。次の富士岡から南御殿場駅にかけてがハイライトだ。山体がいよいよ左正面に移動してきて、朝陽に照らされた優美な姿が窓枠いっぱいに展開する。

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御殿場線の車窓から見る朝の富士(富士岡~南御殿場間)

2017年11月25日のコンターサークルSの旅は、この御殿場線沿線に残る昔の複線跡がテーマだ。今でこそ地元密着型のローカル線だが、よく知られているようにこの路線は、1889(明治22)年の開通から丹那トンネルが完成するまでの45年間、東海道本線の一部だった。「燕」や「富士」「櫻」のような戦前を代表する長距離特急が疾駆し、主要幹線として全線が複線化されていたのだ。しかし、熱海回りのルートが1934(昭和9)年に開通すると、その地位から降ろされ、さらに太平洋戦争中にレール供出のために単線に戻されてしまった。

線路は撤収できても、トンネル、橋脚、橋台などおいそれとは移動できない構築物がある。堀さんは、著書『地図のたのしみ』(1972年)の中で、そうした複線時代の遺構が数多く存在することを書き留めている(下注)。元の記事は1964年に雑誌「鉄道ファン」で発表されたものだから、現地取材は50年以上前のはずだ。果たして今はどうなっているのだろう。私たちは堀さんに案内してもらったつもりで、沿線を旅することにした。

*注 『地図のたのしみ』p.146~(2012年新装新版ではp.153~)「四 地図に見る鉄道今昔 2 小田原付近と御殿場線」

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御殿場線(国府津~沼津間)のルート
1:200,000地勢図に本稿関連の駅名を加筆

電車は酒匂川(さかわがわ)の深い渓谷を通り抜けて、山北駅に9時50分に着いた。ここは東海道線時代に、箱根越えの前線基地として列車運行を支えた駅だ。駅前広場には、大出さんと石井さんが車で来ていた。

今日の行程を相談しているとき、石井さんが「古い地形図に、山北駅から南へ曲がっていく線路が描いてあるんですけど、これは何ですか」と聞く。明治中期の地形図(下図左参照)では確かに、駅から出た線路が南へ鋭くカーブし、山に突き当たって途切れている。「鉄分の濃いお二人ならご存じじゃないかと思って…」。しかし悔しいかな、私たちは線路の正体を知らなかった。

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山北駅周辺の地形図
(左)1896(明治29)年の1:50,000地形図
(右)現行1:25,000地形図(2014(平成26)年)。加筆した赤枠が線路跡地で、今も宅地がこの形に並ぶ

手がかりを求めて、山北町の鉄道資料館へ行ってみることにした。広場の東に建つふるさと交流センターの2階で、今年(2017年)8月にオープンしたばかりだ。開館時間前だったが、係の方が開けてくださった。山北が鉄道の町だったことを物語る貴重な資料や写真を見ていくうちに、まさに疑問に答えてくれるパネルがあった。

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山北駅 (左)構内で静態保存されているD52 70 (右) 山北町鉄道資料館の展示

そこには「緊急避難線(キャッチサイディング)」と書いてある。坂を下りてくる列車がブレーキ故障などで暴走した場合に、本線から逸らせて停止させるための設備で、昔は勾配区間にしばしば設けられていた。「でもどうしてこんなにカーブしてるんでしょうね。停まる前に脱線してしまいませんか」と石井さんが畳みかける。そこで資料館を辞した後、現地を見に行った。

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山北駅扇形庫の左上から延びる切妻屋根の縦列がキャッチサイディング跡
(山北町鉄道資料館の展示を撮影)

駅の東南の、町役場や生涯学習センターが建っている敷地には、かつて補助機関車を格納する扇形機関庫があった。その一角から南向きに右カーブしている宅地の列が、キャッチサイディングの跡らしい。宅地に沿って狭い道路が、国道246号線をアンダークロスした後も続いている。敷地は室生神社の境内をかすめて、なおも山手へ進み、斜面に阻まれる形で終わっていた。歩いてみると、末端に向かってかなりの上り勾配であることが実感される。「これなら脱線する前に、列車は失速しますね」。

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キャッチサイディング跡をたどる
(左)国道の南側から駅方向を望む。道路と右の宅地が跡地
(右)山際付近。左手前から左奥にかけての住宅の列が跡地

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トンネルと橋梁が連続する山北~駿河小山間
1:50,000地形図に加筆

所用のために戻る石井さんを見送って、大出さんと私は、予定の複線跡を探しに西へ向けて出発した。まず、国道から右に折れ、旧道(現 県道76号山北藤野線)に入ってすぐ、箱根第一号と第二号、2本のトンネルの間の橋梁が見える場所に、車を停める。フェンスがあって中に立ち入れないものの、トンネルは塞がれておらず、橋桁(ガーダー)もしっかり残っている。

現在、山北~谷峨(やが)間は、北側の旧 上り線が現役だ。しかし、さっきの資料館の展示によれば、1943(昭和18)年の単線化では、南側の旧 下り線に列車を通したのだそうだ。ところが、1968(昭和43)年の電化に際して、使われていなかった旧 上り線でトンネル断面の拡張工事を実施し、架線を設置した。このため、旧 上り線が現役に復帰し、代わりに旧 下り線が廃線になった。堀さんが訪れたのは電化前なので、ディーゼルカーは、今はなき南側の線路を走っていたはずだ。

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(左)左のトンネルポータルが箱根第二号の旧下り線
(右)箱根第一号、第二号トンネルの間に残る旧線ガーダー

第一酒匂川橋梁の脇にも、橋台が残っているのを確認してから、同 第二橋梁のほうへ回った。旧道は、線路を俯瞰するような高い位置を通っているので、集落に通じる細道を降りる。ここは複線仕様の橋脚が残っていた。石積みの橋脚を煉瓦で現在の線路面近くまでかさ上げしているから、昔は下路ガーダーが架かっていたのだろうか。

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第二酒匂川橋梁を俯瞰
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複線仕様の橋脚が残る第二酒匂川橋梁

昼食の後、谷峨駅を経て、今は無き第一相沢川橋梁(下注)の近くに車を置いた。1889年の開通時は単線だったので、第一相沢川橋梁で川の左岸、つまり北側に渡り、(旧)箱根第六号トンネルを経て、第二相沢川橋梁で右岸に戻っていた(下図上参照)。1901(明治34)年の複線化では、この1km足らずの区間だけ腹付け(隣接して敷設)ではなく、対岸を2本のトンネルで通過する別ルートとされた(下図中)。つまり、ここでは上下線が川を挟んで走っていたのだ。戦時中の単線化では旧 下り線(南側)が生かされたが、戦後の電化でも、山北~谷峨間のように旧 上り線が復活することはなかった(下図下)。

*注 川の名は現在、鮎沢川だが、鉄橋名は相沢(相澤)川とされている。

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谷峨駅西方の線路の変遷
(上)初期の単線時代 1896(明治29)年 1:50,000地形図
(中)複線時代 1921(大正10)年 1:25,000地形図
(下)単線化後 2014(平成26)年 1:25,000地形図

堀さんは、谷峨駅で下車して付近を歩いている。「(旧 第五号トンネルの西口から)川の方を見ると、大きな橋脚が一本河原に立ち、その向こうに対岸の橋台とそれに続く築堤があって、さらにその向こうに短いトンネルが望見された」(『地図のたのしみ』p.156)。

谷峨駅に通じる旧 第五号トンネル西口は今も確認できるが、川の中に橋脚は見当たらず、短いトンネル(旧 第六号)もすでに跡形すらない。おそらく国道の拡幅改良工事で、痕跡はほぼ完全に道路の下に埋もれてしまったようだ。

「北側の切通しを抜けると、左側の高みに登っていく細い道(中略)が分れている。それを入ってゆくと、左に鮎沢川を見下ろし、対岸に山腹をゆく御殿場線を望み、右に旧上り線の切り取りの跡を見下ろす、眺めのよい場所(中略)に出た」(同書p.156)。少しは期待していたのだが、この無名の展望地も道路工事の犠牲になったとおぼしい。

「もう少し先で対岸に渡る橋があるので、そこまで行ってみましょう」。大出さんと相談して、徒歩で向かう。それは、川沿いの小さな工業団地へ行く橋だったのだが、そこから右手に、第二相沢川橋梁の橋台が確認できた。両岸の取付け部分はすっかり工場の敷地に取り込まれたが、石積みの橋台だけが両岸から、まるで昔話を交わすかのように向かい合っているのだ。午前中からいくつか見てきた遺構の中で、この光景は特別印象的だった。

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第二相沢川橋梁
(左)両岸に残る橋台(矢印の位置)
(右)左岸(北側)の橋台。背後は工場敷地に埋もれている

車に戻って、再び西へ走り出す。駿河小山(するがおやま)駅へ通じる第一小山踏切から、箱根第七号トンネル西口の石積みポータルが間近に見えた。トンネルが連続する渓谷区間はこれが最後だ。線路はまだしばらく鮎沢川の谷間をくねっているが、谷は次第に浅くなり、やがて空の広い富士の裾野に出ていく。

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(左)箱根第七号トンネル西口。左側に旧上り線のポータルが見える
(右)足柄駅北方にある第五相沢川橋梁。ここも橋脚は複線仕様

「あと、どこか見るところありますか」と、大出さんが聞く。私は朝の上り電車の車窓を思い出していた。「複線跡じゃないんですが、富士岡駅のスイッチバックの築堤はどうでしょう」。富士岡駅は、1911(明治44)年に信号場として開設されたが、25‰の急勾配の途中にあるため、通過式スイッチバックが採用された。坂道発進が困難な蒸気機関車のために、本線に並行して堤を築き、発進用の水平な線路を造ったのだ。電化に伴い、線路は撤去されてしまったが、高堤防と呼ばれた築堤だけはそのまま残されている。これも、主要幹線だった時代の貴重な遺構だ(下注)。

*注 同様の築堤が次の岩波駅にもある。

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富士岡駅で交換するJR東海313系
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富士岡駅のスイッチバック線跡、通称 高堤防
(左)駅のある北方向を望む (右)南方向。築堤末端ではかなりの高低差がつく

駅の南の住宅街を縫う小道をたどり、踏切を渡ってこの築堤に上がった。傾きかけた陽が雪の山襞に隈取のような影を加えて、富士が朝とはまた別の美しさを放っている。入口の案内板には、「富士見台(高堤防)」の名とともに、「富士見台という地名は数あれど最高の眺めを得られるのはここです」と誇らしげに記してあった。容赦なく視界を横切る新東名の巨大な高架がいささか目障りだが、それも現代的な小道具と思えば、確かにここは絶景だ。

堀さんは、谷峨で旧線跡を訪ねた後、再び下り列車を捕まえて、そのまま沼津まで乗り通したようだ。富士はそのとき、ディーゼルカーの車窓にどんな姿を映していたのだろうか。

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高堤防から望む富士

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図山北(大正10年測図および平成26年12月調製)、5万分の1地形図松田惣領(明治29年第1回修正)、秦野(昭和47年編集)、山中湖(平成2年修正)、20万分の1地勢図東京(平成3年要部修正)、横須賀(昭和55年編集)、甲府(昭和55年編集)、静岡(昭和55年編集)を使用したものである。

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