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2018年4月 5日 (木)

プロヴァンス鉄道 I-トラン・デ・ピーニュの来歴

「トラン・デ・ピーニュ Train des Pignes」、地中海岸のニース Nice から山中へ分け入るプロヴァンス鉄道 Chemins de fer de Provence (CP) の列車につけられた愛称だ。ピーニュはプロヴァンス方言で松ぼっくりを意味する。蒸気機関車の時代、列車がのんびりやってくるので、駅で待つ客は落ち着いて松ぼっくりを拾う時間があったとか、石炭が足りなくなると、機関士は集めた松ぼっくりを罐(かま)にくべたなど、名前にまつわる逸話が伝わっている。

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プロヴァンス鉄道の新型車両、2010年CFD社製のAMP800形連接気動車
プラン・デュ・ヴァール駅にて

しかしこの愛称、もとは別の線区を走る列車のものだった。現在、プロヴァンス鉄道と呼ばれるのは、ニース~ディーニュ・レ・バン Digne-les-Bains 間149.9kmの単一路線だが、過去には、同じメーターゲージ(1m軌間)で他に2本の主要路線とそれに接続する支線群があった(下の路線図参照)。主要路線の一つが、アルプス前面の丘陵地帯を貫く「中央ヴァール線 Ligne Central-Var」(ニース~メラルグ Meyrargues 間210km)で、沿線には数十kmにわたり松林が続く。冬になれば線路の周辺に、おびただしい数の松ぼっくりが転がっていたに違いない。

もう一つはトゥーロン Toulon ~サン・ラファエル Saint-Raphaël (Var) 間110kmの「ヴァール沿岸線 Ligne du littoral varois」で、地中海岸の町や村を結んでいた。これらの狭軌列車を総称してトラン・デ・ピーニュと言ったのだが、今やそれを受け継ぐのは、当時「北線 Ligne du nord」であったニース~ディーニュ間のみとなった。

北線は人口の少ない山間部を通り、3線区中輸送量が最も少なかった。にもかかわらず、なぜ生き残ったのだろうか。今回は、プロヴァンス鉄道の来歴をたどってみたい。

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ニースを中心とする旧ニース伯爵領 Comté de Nice/ Contea di Nizza は、1860年にイタリアからフランスに帰属替えされた土地だ。パリ、リヨンからマルセイユに至る路線を造っていたパリ=リヨン=地中海鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée (PLM) は、さっそく地中海岸を東進する延長線の建設を開始し、1864年にニースに到達した。

「帝国の動脈 artère impériale」とされた幹線網が確立すると、次の目標は、支線の建設による地方の開発だった。1879年の公共事業計画、いわゆるフレシネ計画 Plan Freycinet(下注)には、この地方で「137号 ディーニュよりカステラーヌ Castellane を経てまたは近傍を通りドラギニャン Draguignan に至る路線」、「141号 ニースよりピュジェ・テニエ Puget-Théniers に至る路線」が挙げられた。

*注 公共事業大臣シャルル・ド・フレシネ Charles de Freycinet が手掛けた野心的な国土開発計画。特に鉄道の整備に重点が置かれ、181の地方線(地方利益路線 voies ferrées d'intérêt local と呼ばれる)が指定された。日本の鉄道敷設法と同様の趣旨。

PLM社は、137号に含まれるディーニュ~サンタンドレ Saint-André 間の認可を得たが、山間部の路線のためメーターゲージの導入を迫られると、あっさり撤退してしまう。代わって名乗りを上げたのは、マルセイユ資本で設立されたフランス南部鉄道 Chemins de fer du Sud de la France いわゆるシュド・フランス Sud France だった。1885年に、141号を延長して137号のサンタンドレに接続する新たな路線の認可を取得した。これが北線の原型になる。

両端から工事が進められ、まず西側のディーニュ~メゼル Mézel 間が1891年8月に開通した。次いで1892年には、東側でニース~ピュジェ・テニエ間、西側でメゼル~サンタンドレ(下注)間が開通した。当時、イタリアとの間で政治的な緊張が高まっていたため、ニースから途中のサン・マルタン・デュ・ヴァール Saint-Martin-du-Var までは標準軌の軍用列車が通過できるよう3線軌条とされ、トンネル等の構造物も標準軌の建築限界が適用されている。

*注 開通当時の正式駅名はサンタンドレ・ド・メウイーユ Saint-André-de-Méouilles だったが、現在はサンタンドレ・レザルプ Saint-André-les-Alpes と称する。

残るピュジェ・テニエとサンタンドレの間には、ヴァール Var、ヴェルドン Verdon 両水系の分水嶺が立ちはだかり、長大トンネルの掘削が必要だった。資金不足の同社は早々と建設を諦め、この区間の工事は国が肩代わりする形で進められた。

シュド・フランスは20世紀初めに延長600kmに及ぶ路線網を有した大規模な地方鉄道だったが、信用上の醜聞に振り回されて資金繰りに難渋し、北線は後回しにされた。15年後の1907年にようやくピュジェ・テニエからポン・ド・ゲダン Pont-de-Gueydan、1908年にさらにアノー Annot まで延伸され、1911年8月、最後の峠越え区間(アノー~サンタンドレ間)の完成で、全線が開業した。

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プロヴァンス鉄道と周辺の路線網(破線は廃線を示す)

初めこそ祝福を受けたものの、自動車の普及に加えて、洪水による線路の流失など、地方路線の経営は順調にはいかなかった。1925年、会社は国の支援を受けることになり、名称もプロヴァンス鉄道会社 Compagnie des Chemins de fer de la Provence に改められた。これが現在使われている名称の起こりだ。

状況はその後も改善しなかったため、同社は1933年に北部線と中央ヴァール線の運営を断念した。両路線は国の管理に移され、県土木局(ポンゼ・ショセー)Ponts et Chaussées が運行を引き継いだ。1935年からは蒸気機関車に換えてルノー社製の気動車が導入され、コストとともに所要時間の削減効果をもたらした。第二次世界大戦にかけて業績は好転する。

ところが、その戦争が事態を一変させた。大戦末期の1944年、ドイツ軍と連合軍の戦闘で、中央ヴァール線とヴァール沿岸線の主要な高架橋が破壊され、通行できなくなってしまったのだ。不通区間はバスで代行され、1948~50年に全線が正式に廃止された。こうして、旧 プロヴァンス鉄道の路線網で唯一残ったのが、皮肉にも重要性が低いとみなされていた北線だった(以下の記述では、北線を「プロヴァンス鉄道」と呼ぶ)。

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蒸気列車の旅に誘う
トラン・デ・ピーニュのポスター
撮影地はベイート高架橋
Viaduc de la Beîte
(アノー~ル・フュジュレ間)

戦後、国はこうした地方路線の直営体制を見直すべく、沿線自治体に抜本的な対策の策定を促した。廃止を求める意見もあった中で、関係地方自治体による組合組織(下注1)が設立され、1972年に運営の移管が完了した。列車運行はCGEAグループ(後のヴェオリア・トランスポール Veolia Transport、現在はトランスデヴ Transdev)の子会社CFTA(下注2)に委託されてきたが、期間満了に伴い、2014年からこの地域の広域行政を担うプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 Région Provence-Alpes-Côte d'Azur の直営となっている(下注3)。

*注1 地中海・アルプス協同組合 Le Syndicat Mixte Méditerranée-Alpes (SYMA)。
*注2 CFTAは2005年に、歴史的な名称であるフランス南部鉄道会社 Compagnie ferroviaire du Sud de la France (CFSF) に改称され、その名のもとに2013年まで路線の運行を担っていた。
*注3 路線の所有権は依然国にあり、管理運営を州に相当する地域圏 Région が行う。

細々と続けられてきた貨物輸送が1977年に終了する一方、1980年からは、旅行者誘致のために蒸気列車の運行が開始された。これは保存団体のプロヴァンス鉄道研究グループ Groupe d’Étude pour les Chemins de fer de Provence によってピュジェ・テニエ~アノー(およびル・フュジュレ Le Fugeret)間で現在も続けられている。

■参考サイト
トラン・デ・ピーニュ・ア・ヴァプール(蒸気による松ぼっくり列車の意)Train des Pignes à vapeur
http://www.traindespignes.fr/

プロヴァンス鉄道はニース~ジュネーヴ Genève 間の最短ルートに当たるため、1959 年から季節限定で連絡輸送が実施されていた。1970年代には、グルノーブルとディーニュの2回乗換えで両都市間を移動することができた(下注)。1983年からはSNCFと連携して「アルプアジュール(アルパジュール) AlpAzur」の統一名称で改装車両が運行され、一時注目を浴びた。

*注 ルートは、ジュネーヴからSNCFでキュロズ Culoz、シャンベリー Chambéry、モンメリアン Montmélian、グルノーブル、ヴェーヌ Veynes、サントーバン Saint-Auban を経てディーニュ・レ・バンへ、そしてプロヴァンス鉄道でニース南駅に至る。

残念ながら、1989年にSNCFが幹線網に接続するサントーバン=ディーニュ線 Ligne de Saint-Auban à Digne の休止に踏み切ったことに伴い、ユニークな企画も終了した。同線は1991年5月に正式に廃止され、線路は残っているもの朽ちるままにされている。この時から、プロヴァンス鉄道は他に接続する鉄道を持たない孤立線となった。

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ディーニュ・レ・バン駅。ホームの左側が廃線となったSNCF線
車両は1970年代CFD社製のSY形気動車(車両番号X301~)

同じころ、ニース市もまたプロヴァンス鉄道の山中を走る区間(全線の9割)を廃止して、近郊区間だけを存続させる再構築案の検討を始めていたが、後に撤回された。その代わりに、鉄道は1991年12月に歴史あるニース南駅を明け渡し、西へ140m後退した位置に新しいターミナルとしてニースCP駅を置くことになった。

現在、このCP駅から平日毎時2~3本の列車(下注)が出発していくが、多くは13km先のコロマール(ラ・マンダ)Colomars–La Manda を終点にしている。時間にして25分ほどのミニトリップだ。その先、ヴァール渓谷の入口に位置するプラン・デュ・ヴァール Plan-du-Var(ニースから24.7km、40分)まで行くのが、平日11本。時刻表ではこの近郊区間をラ・ナヴェット la Navette(シャトル運転の意)と称して区別している。

*注 頻発区間でも、土・日・祝日は運休する便が多いので要注意。

さらに全線を完走して、ディーニュ・レ・バンに到達するのは1日わずか4本だ。所要3時間20分あまりの長旅で、こんなところによく鉄道を敷いたものだと感心するような山中をメーターゲージのか細いレールが延びている。いったいどのような景色の中を列車は走っていくのか、次回はそのルートを追ってみよう。

写真はすべて、2018年2月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
プロヴァンス鉄道 https://trainprovence.com/
 公式サイトは近郊区間(通勤者向け)urbain と旅行者向け tourisme に分かれている

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