« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

2017年12月29日 (金)

新線試乗記-可部線あき亀山延伸

Blog_kabesen1
河戸帆待川~あき亀山間を走る227系

可部(かべ)線の新しい終点まで行くのに、京都駅の券売機で乗車券を買おうと思った。駅名を度忘れしてしまい、ちょっと慌てたが、なんとか検索で探し当てた。ところが、出てきた切符を見たら、広島市内行きと書いてある! 手間取る必要はなかった。券面表示が同じなら、広島駅まで買えばよかったのだ。

地図・鉄道ファンと広言している割には認識不足も甚だしいが、可部線は駅数が多く、時刻表地図に比較的長めに描かれているせいか、こんな勘違いをしてしまう。実際の営業キロ数は15.6km(横川~あき亀山間)、広島からでも18.6kmと、広電と並走する山陽本線の広島~宮島口(21.8km)に及ばない小規模な都市近郊線だ。

その可部線も、かつては広島市域を出て中国山地深くに分け入り、三段峡まで60.2kmの長い距離を走っていた。しかし、非電化区間の可部~三段峡間は、利用者数の低迷で2003年に廃止されてしまった。しばらくその状態が続いていたが、今年(2017年)3月4日、新たな展開があった。可部から新駅のあき亀山まで1.6km、運行区間が延長されたのだ。見かけは旧線の一部復活だが、線路も駅も一から整備されたので、実態は新規開業に等しい。今回は、遅まきながらその様子を見に行くつもりだ。

Blog_kabesen2
広島近郊路線図、水色のラインが可部線

しばらくぶりで訪れた広島駅は、2階に広いコンコースがオープンして、見違えるように明るくなっていた。南口の改築はこれからなので、これでもまだ変化の途中だ。4番線に降りると、可部線方面の新型電車が停まっていた。こちらも黄色一色の従来車ではなく、2年前(2015年)から投入された新型電車227系だ。ステンレス車体に、カープの本拠地らしく鮮やかな赤帯を巻いている。すでに日中の運行はこの形式の2両編成に統一され、ローカル支線のイメージが一掃された。

Blog_kabesen3
広島駅にて
(左)新型電車227系
(右)黄色づくめの旧型車は朝夕の応援部隊。写真は105系

広島駅を出て横川(よこがわ)までは山陽本線を行く。アストラムラインと連絡する新白島(しんはくしま)駅が中間にできたからか、速度は上がらないままだ。横川駅では、手前でポイントを渡って、島式ホーム5番線に入った。ここからが可部線で、太田川(放水路)の鉄橋を渡り、路線唯一の短いトンネルを抜けた後、川の右岸(西岸)に広がる沖積平野を北上していく。

Blog_kabesen4
横川を出てすぐ太田川放水路鉄橋を渡る
Blog_kabesen5
太田川(放水路)に面する三滝駅

可部線のルーツは、1909~11年に大日本軌道により開業した非電化762mm軌間の軽便鉄道だ。駅間距離が短く、駅構内の造りがコンパクトなのもその名残だろう。1919年に可部軌道として独立したが、その後、1926年に地元の電力会社だった広島電気に買収されて、電化と1067mmへの改軌(1928~30年)が行われた。1931年には広浜鉄道として独立し、1936年に島根県浜田に至る予定線の一部として国有化されて、国鉄可部線となった。

軽便鉄道が開通したころは一面の田園地帯だった沿線も、今や市街地で覆い尽くされている。広々とした車窓風景に出会える区間といえば、太田川を渡る三滝駅の前後や上八木~中島間ぐらいのものだ。

Blog_kabesen7
太田川鉄橋を渡る227系(上八木~中島間)

ただ、前面展望なら他にも楽しめるところがある。可部線のルートは、電化改軌や河川改修に伴い、かなり変わっている(詳細は本稿末尾を参照)が、梅林~上八木間では、道端をゴトゴト走っていた軽便鉄道の面影が残っているのだ。道路とは完全に分離されているものの、梅林駅の前後では可部街道の左側にぴったり沿って走る。10キロポスト付近に来ると、半径160mの急カーブで街道を横断し、今度は道の右側につく。吊り掛けモーターの旧車が似合いそうな線路を、新型227系が進んでいくのは面白い。

Blog_kabesen6
軽便鉄道の面影が残る区間
(左)梅林駅 (右)上八木駅。いずれも上り列車から撮影

広島駅から約40分で、可部駅に到着した。今回の延伸に伴って、駅構内は様変わりしている。右側にあった電車用の頭端式ホーム(旧1・2番線)は使われなくなり、線路も剥がされた。その代わり、三段峡まで通じていた時代に気動車が発着していた3番線が1番線上りホームとなり、その向かいに2番線下りホームが整備された。改札は各ホームの北端に設置され、跨線橋が駅の東西を結ぶ自由通路になっている。

旧市街地に面した狭い東口が昔日の面影を残す一方で、西口は、2007年に造られた立派なバスターミナルが駅の下り改札に直結された(上り改札へは跨線橋の上り下りが必要になったが)。朝、再訪したときは、ここに広島方面行きのバスが次々と発着していた。なにしろ国道は渋滞気味だし、町中の旧道も抜け道に使う車がひっきりなしに行き交い、歩くのに危険を感じるほどだから、可部線の果たす役割は小さくない。

Blog_kabesen8
可部駅東口
(左)駅務室も売店もこちらに (右)改札は上りホーム専用になった
Blog_kabesen9
可部駅西口
(左)アーチをくぐって右手が下り改札。左は跨線橋で東口と上り改札へ通じる
(右)整備された西口バスターミナル

Blog_kabesen_map1
可部線旧線と新線の比較
(左)可部~三段峡間廃止以前の図(1977~78(昭和52~53)年)。河戸駅は大毛寺川を渡る手前にあった
(右)あき亀山延伸後の図。あき亀山駅は大毛寺川を渡った県営団地跡に設けられた

新線区間は短距離なので、まずは線路に沿って歩いてみた。河戸帆待川(こうどほまちがわ)駅の小さな駅前広場は県道267号線に面している。帆掛け舟のモニュメントがあったので、太田川を遡る川舟かと思ったら、帆待川の名の謂れを示すものだった。直前に渡った小川では帆掛け舟が通れそうにもないし、帆待川がどこにあるのかはわからずじまいだ。新可部や西可部のようなありきたりの名にはしたくなかったとしても、凝りすぎだろう。

Blog_kabesen10
河戸帆待川駅
(左)最小サイズの正面入口 (右)駅名の由来を示す帆掛け舟のモニュメント

さらに歩いていくと、路地の奥に歩行者用跨線橋があるのを見つけた。新線区間の列車を撮るには好都合だ(冒頭写真はここで撮影)。ただ、人通りがさほどなさそうな場所なのに、エレベーターまで付随している。バリアフリーの方針自体は結構なことだが、果たして保守費用に見合うだけの利用があるのだろうか、と余計な心配をしてしまった。

県道267号線の整備区間は大毛寺川(おおもじがわ)の手前までで、そこから昔ながらの田舎道になった。とはいえここも車の通行が結構多く、歩きたくなるような道ではない。終点のあき亀山駅は、高台の住宅地から降りてきた道との交差点を南へ入ったところにある。構内は、頭端型の島式ホームに接する2線の横に、可部駅の設備が移されたのだろう、留置側線が3線並んでいる。駅前には小さなロータリーがあるだけで、市民病院の移転予定地とされる一帯はまだ手付かずの状態だ。

■参考サイト
あき亀山駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.517200/132.496300
あき亀山駅付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@34.5170,132.4955,17z?hl=ja

Blog_kabesen11
あき亀山駅
(左)正面入口は南向き (右)発着用2線の横に留置線も
Blog_kabesen12
あき亀山駅と可部市街を遠望。川との間の空地は病院の移転予定地

駅名の亀山というのはこの地域の地名(旧村名)で、駅の住居表示も広島市安佐北区亀山南一丁目になっている。旧線にも「安芸亀山(あきかめやま)」と称する駅があったが、場所はもっと西で、新駅の位置はむしろ旧 河戸(こうど)駅に近い。安芸がひらがな表記になったのは、旧駅との混同を避けるためらしい。

ちなみに、周辺を歩いたとき、集落の中に河戸駅の駅名標と待合室が保存されているのを偶然発見した。場所はあき亀山駅の北200mで、グーグルマップにも「旧河戸駅移設地」の注記がある。

Blog_kabesen14
集落の中に旧 河戸駅の駅名標と待合室を発見

駅への進入路の西側には、復活しなかった廃線跡が続いている。線路がまだ残されているのが見えたので、雑草をかき分けながら行ってみた。すっかり赤錆びているものの、レールは左に緩くカーブしながら、家並みの裏手に延びる。線路脇に倒された電柱、8の字(0.8kmの意)が刻まれた距離標と、思いがけない小道具が情趣を添える。だが、それも県道267号線との交差地点(旧 踏切)までで、後はバラストが剥き出しだった。位置的には平野のどん詰まりで、渓谷が目の前に迫っている。

Blog_kabesen13
(左)あき亀山駅西側の廃線跡 (右)倒された電柱と距離標が残る

あき亀山駅へ戻った。簡易改札機にICカードをタッチして、ホームへ上がる。広島行きの列車が停車中だが、昼間の始発駅には人影がほとんどなく、静かだ。病院が移転してくるまで、当面こんな状況が続くのだろう。

定刻になり、列車はバラストも真新しい線路をおもむろに走り出した。見通しのいい直線コースだが、駅間距離800mなので速度を上げる間もない。棒線駅の河戸帆待川で、黒カバンにスーツ姿の二人連れが乗り込んだ。税務署や区役所が近いから、その所用客だろうか。国道54号可部バイパスの高架をくぐり、右へカーブしていくと、早くも可部駅が視界に入った。列車は旧線時代と同じ東側のホーム(現 1番線)へ滑り込み、隣で待機していた下り列車に道を譲る。

Blog_kabesen15
可部駅での列車交換。左の上りホームは旧来のもの、右の下りホームは新設

【参考】可部線のルート変遷

横川~安芸長束

軽便時代の駅は可部街道の東側にあり、松原駅の北で街道を横切っていたが、1928年の電化改軌の際に省線横川駅から西へ出発する形に改められた。さらに、戦後の太田川放水路の建設に伴って、1962年に西寄りの現ルートに付け替えられている。

Blog_kabesen_map2
(左)軽便時代の横川駅は、旧 可部街道の東側にあった
(中)1928年電化改軌の際、省線横川駅から西へ出発する形に改修
(右)太田川放水路建設に伴い、1962年に西寄りの現ルートに付け替え。赤のマーカーは旧線のルート

古市橋~緑井

軽便時代は、安川の旧流路に架かる古市橋を併用軌道で渡り、古市市街地の裏手を通っていた。1929年の電化改軌の際に併用軌道が廃され、現在の直線的なルートとなった。ちなみに、このとき消えた古市駅の名は、場所は異なるもののアストラムラインの駅名として復活している。

Blog_kabesen_map3
(左)軽便時代は、古市橋を併用軌道で渡り、古市市街地の裏手を通った
(右)1929年電化改軌の際、直線的な現ルートに付け替え

上八木~中島

旧 太田川鉄橋は可部街道の橋梁に並行して架けられ、前後に急曲線があったが、河川改修に伴い、1953年に鉄橋が移設され、曲線も緩和された。

Blog_kabesen_map4
(左)旧 太田川鉄橋は可部街道の橋梁に並行
(右)河川改修に伴い、1953年に鉄橋とその前後のルートが付け替えられた

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図広島(大正14年測図、昭和25年修正、平成6年部分修正測量)、祇園(大正14年測図、昭和25年修正、平成6年部分修正測量)、深川(大正14年測図)、中深川(昭和52年修正測量)、可部(昭和52年修正測量)、飯室(昭和53年修正測量)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 三江線お別れ乗車
 奥出雲おろち号で行く木次線
 ライトレールの旅-広島電鉄本線・宮島線

2017年12月19日 (火)

コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年11月5日、札幌は最低気温が4度まで下がった。昨日は曇り空に木枯らしが吹いて、道庁の庭に散り敷いた黄葉の絨毯を舞い上がらせていたが、今朝はもはや初冬の風情だ。札幌駅8時43分発の小樽行き普通列車に乗る。車内は混んでいて、途中駅での動きも少なく、結局ほとんどの人が小樽まで乗り通した。出口へ向かう人の波を見送って、私はさらに気動車に乗り継ぐ。

Blog_contour2601
初冬の積丹海岸、泊村茂岩にて

集合場所の余市(よいち)駅前には、堀さん、ミドリさん、河村さん、片岡さんがすでに到着していた。列車で来た真尾さんと私を加えて総勢6人。3台の車に分乗して、国道229号線を積丹(しゃこたん)半島西岸へ向かう。精力的に実施されてきたコンターサークルS道内の旅も、今年はこれが最終回になる。神恵内(かもえない)村の大森山道と泊(とまり)村の海のモイワが、本日の目的地だ。

Blog_contour2602
余市駅 (左)改築された駅舎 (右)駅前に集合した面々

Blog_contour26_map1
積丹半島の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

私は片岡さんの車に乗せてもらった。古平(ふるびら)からは、近道になる道道998号でトーマル峠を越える。半島を横断するこの峠道は標高が600m以上あり、周囲は早くも雪景色だ。神恵内(かもえない)で国道に復帰して海岸線を北上し、山際に道の駅が見えたところで、目指す大森トンネルに入った。2007(平成19)年に開通した新しいトンネルで、長さは2,509mある。

半島の海岸線をぐるりと回る国道229号は、夕陽のきれいな海景ルートとして人気が高い。反面、地形的には非常に厳しく、険しい断崖がどこまでも連なり、日本海の荒波に洗われている。そのため、1982(昭和57)年にトーマル峠越えのルートから指定替えされて以降も、国道はしばらく未完のままだった。最後まで残った積丹町沼前(下注)~神恵内村川白(かわしら)間が開通したのはわずか20年前、1996(平成8)年のことだ。

*注 沼前は、旧図に「のなまい」の読み仮名が振られているが、地理院地図によれば現在は「ぬままえ」と読むようだ。

大森トンネルを含む大森~珊内(さんない)間はそれ以前に道路が通じていたが、ルートには変遷がある。現ルートは3代目に当たり、その前は、南から順に旧 大森トンネル、大森大橋、とようみトンネル、ウエンチクナイトンネルとつなぐ旧道があった(下図の第2段参照)。旧道といっても、1985(昭和60)年開通の立派な二車線道だ。

Blog_contour26_map2
大森トンネル前後のルート変遷

ところが不幸なことにこの2代目は、2004(平成16)年9月に襲来した台風18号の波浪で途中の大森大橋が損壊し、通行不能になってしまう。12月に仮復旧した(上図第3段)が、最終的に、別途山側に掘ったトンネルを既存のウエンチクナイトンネルとつなげる形で、2007(平成19)年3月に現在の大森トンネルが完成して(同 第4段)、2代目ルートはあえなく廃道となった。

この新道、旧道に対して、初代の自動車道路は海際を避けて、標高約150mの高みを通っていた(同 第1段)。ルートはまず、大森集落の北のはずれで大森山の斜面をゆっくり上るところから始まる。断崖より上の山襞を4本の短いトンネルで貫いた後、キナウシ川の谷に沿って降下する。しかし、降りきる手前でキナウシ岬をトンネルで抜け、それからおもむろに海岸線に達する。それが、これから歩こうとしている大森山道だ。なお、旧版地形図には、それより古い山越えの徒歩道が描かれており、こちらを山道と呼ぶべきかもしれないが、それは別の課題として…。

Blog_contour26_map3
現行の地理院地図(1:25,000、2017年12月取得)に、歩いたルートを加筆
Blog_contour26_map4
上記と同範囲の1:25,000地形図、2005(平成17)年および2006(平成18)年更新
大森大橋が仮復旧していた時期のもの。図には、ウエンチクナイトンネルの延長によって廃止された2代目ルートの痕跡が残っている。

私たちは、大森トンネルを出てすぐの空き地に車を停めた。山を下ってきたキナウシ川が海に注ぐ場所だが、高い防波堤に遮られて、道路から海はまったく見えない。向いには次のキナウシトンネル(長さ1,008m)が口を開けている。

面白いことにキナウシトンネルは、先代、先々代と3代のポータルが斜面に仲良く並ぶ。大森トンネルの北口が旧 ウエンチクナイトンネルのそれをそのまま利用しているのに対して、キナウシトンネルは、ルートが変わるたびに新たに掘られたからだ。供用中の3代目(2002(平成14)年竣工、2003(平成15)年開通)に対して、その海側で完全封鎖されているのが2代目、上方の、バリケードがあるものの本体は無傷なのが初代のトンネルだ。

Blog_contour2603
3代のキナウシトンネルが並ぶ光景
現 3代目トンネルの左に封鎖された2代目、上方に初代が残る

時刻は12時少し前。このとき神恵内の気温は6.8度だったのだが、海辺は強い風が吹き付けていて、体感温度はもっと低い。「寒いのは苦手です」という堀さんはミドリさんの車に残り、あとの5人で旧道のようすを探りに出かけた。

現行の地理院地図には描かれていないが、2010(平成22)年3月完成の大きな砂防ダムが谷をまたいでいる(下注)。そのため、山道の新道接続部は完全に消失していた。ミドリさんがさっさとダムの脇の法面をよじ登っていったので、私たちも草をかき分けながら後を追う。幸いにもダムの上流ではもとの山道が残っていた。轍の跡以外はススキその他の丈高い草が茂っているが、冬枯れしていて歩くのに支障はなさそうだ。

*注 上図では、3か所のダムの概略位置を加筆した。

いったん車のところまで下りて、作戦会議を開く。日の短い時期で、全線踏破するには時間が足りないことから、目標を山道のトンネルの現況確認に絞ることになった。

Blog_contour2604
(左)砂防ダムで付近の山道は消失 (右)ダム側からの眺め
Blog_contour2605
(左)砂防ダム上方、海岸へ降りる道と初代キナウシトンネル方面への分岐点
(右)冬枯れの山道をたどる

Blog_contour2606

堀さんは、過去に二度、サークルのメンバーとここを訪れている。最初は1989年5月と8月で、『忘れられた道-北の旧道・廃道を行く』(北海道新聞社、1992年)の冒頭にそのレポートがある。新道への切り替えから4年後だが、掲載写真で見る限り、足元に雑草は生えているものの、路面はいたって明瞭だ。

二度目は12年後の2001年5月で、自費出版の『北海道の交通遺跡を歩く』(コンターサークル、2003年、p.60~)に出てくる。堀さんの記憶では、このときもまだ普通に通れたそうだ。

山道が寸断されたのは、主に砂防ダム工事が原因だろう。歩いていくと、キナウシ川を渡る最初の橋は問題がなかったが、上流にある砂防ダムの手前で道は途切れてしまい、少しの間、藪をかき分けながら、あるかなしかの踏み分け道をたどらなければならなかった。

Blog_contour2607
上流の砂防ダム。左は帰路写す

さらにその先、第二の橋のあるところでは川筋が移動していた。橋の下を流れていたはずのキナウシ川が、橋の手前を横切り、そのために山道がまるごと流失していたのだ。「昭和35年10月竣工」の銘板をもつ親柱が残っているとはいえ、橋はもはや何の役割も果たしていない。川にはそれなりの水量があったが、山歩きに慣れている片岡さんが、川幅が最も狭まるところを見極めて、ひょいと渡った。私たちも後に続き、足を濡らしながらもどうにか難所を通過した。

Blog_contour2608
第二の橋
(左)川筋の移動で山道が流失。奥に見えるのが山道の続き
(右)沢渡りの場所にあったハクション大魔王の壺?

そのあとは再び歩ける道になった。枯草と落ち葉に覆われているものの、もとの道幅がわかる程度に空いている。第三の橋は欄干こそ壊れていたが、路面は無事で、「キナウシ」と川の名を記した看板が道の脇に埋もれていた。ここで谷を折り返して、今度は左岸の斜面を上っていく。川際と沢の横断で2か所流されていたのを除けば、道は谷沿いよりはるかに原形をとどめていた。崖に張られた防護ネット、ガードレール、カーブミラー、道路標識、砂箱と、置き去りにされた現役時代の証人が次々と現れて、私たちを喜ばせる。

いくつか切通しを抜けたところで、枯れ枝越しに白くかすむ海原が俯瞰できた。ずっと上り続けてきて、標高はすでに130~140mある。

Blog_contour2609
道のない斜面を横渡り(第三の橋の直後)
Blog_contour2610
切通しは当時のまま残る
Blog_contour2611
現役時代の証人 (左)防護ネットとガードレール (右)曇りなきカーブミラー

やがて、目指していたウエンチクナイ4号トンネルが視界に入ってきた。近づくと、コンクリート製のしっかりしたポータルで、内部も荒れておらず、30年以上も放置されていたとは思えない。河村さんがトンネル名称を記した看板が落ちているのを見つけて、撮影用にセットする。最も長い4号がこれだけしっかり残っているのなら、残り3本の状況も期待できそうだ。しかし、復路に必要な時間も考えて、今回は4号の南口を確かめただけで引き返した。

Blog_contour2612
ウエンチクナイ4号トンネル北口

戻りがてら、初代キナウシトンネルの様子を見に行った。ポータルの仕様は4号トンネルと同じなので、同時期に一連の工事で造られたものだろう。北口はオーバーハングした断崖の真下で、頼まれても長居はしたくないような場所だった。崖下に沿って草に覆われた狭い段丘のような地形が続いていたが、山道の跡なのか、それとも2代目道路の覆道の屋根なのか、判然としない。

Blog_contour2613
(左)海に臨むキナウシの断崖 (右)初代キナウシトンネル北口

車に戻ったのは15時に近かった。堀さんを残して2時間半も出かけていたことになる。ミドリさんが「長い間、車に閉じ込めてしまって」と謝ると、堀さんは笑って「いや、かえってその間、開放してもらったようなもんです」。

持参した軽食でとりあえず空腹を満たしてから、次の目的地、泊村の茂岩(もいわ)へと車を進めた。それは長いトンネルを出た先にある小さな浜集落で、正面の海岸に兜をかぶったような形の大きな岩山が鎮座している。弁天島と呼ばれるが、「茂岩の名はここから来ていると思います」と真尾さん。アイヌ語でモ・イワは小さい山を指し、さらにイワには神聖な山という含みがある。今は弁天様(弁財天)にすり替わってしまったが、アイヌの人々もこの孤高の岩山に神が宿ると考えたのだ。

Blog_contour26_map5
茂岩周辺の1:25,000地形図、2006(平成18)年更新。青円内が弁天島

おりしも低く垂れこめた雲の間から太陽が顔をのぞかせ、鉛色の海原を朱く照らし出した。傍らに立つ神の岩が、そのシルエットをひときわ濃くする。夕陽のきれいな積丹半島が見せてくれた最後の挨拶。目の前に広がる荘厳なメッセージに、私たちは寒さも忘れて、しばらくその場に立ち尽くした。

Blog_contour2614
海原を照らす夕陽と神の岩のシルエット

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図珊内(昭和51年修正測量、平成17年更新)、ポンネアンチシ山(昭和51年修正測量)、神恵内(昭和51年修正測量、平成18年更新)、20万分の1地勢図岩内(平成18年編集)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点
 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

2017年12月10日 (日)

コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点

本日のテーマは3つの都府県が境を接する地点、いわゆる3県境会合点だ。こうした会合点は全国で48か所(和歌山県の飛び地に関する4か所を含む)を数えるが、ほとんどが山中か、そうでなければ水面上にある。行政界は稜線や川など自然の境界に設定されることが多いから、当然だろう。一昨年訪れた京都・大阪・奈良の会合点などはまだ到達が容易なほうだったが、それでも藪蚊の猛攻撃をかわしながら、雑木の茂る里山に分け入る必要があった(下注)。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点」参照。

ところが全国で唯一、平地の会合点も存在する。栃木・群馬・埼玉3県境のそれだ。渡良瀬(わたらせ)遊水地近くの田んぼの中に、その旨を示す標識杭が打たれているという。本日10月9日はまずここを目指し、周辺を歩く予定だ。ついでに近辺にある茨城・栃木・埼玉の会合点、さらに茨城・埼玉・千葉の会合点(どちらも川の中)にも足を延ばそうと思う。

Blog_contour2501
三県境界に設置された測量標。中央の+の位置が会合点

Blog_contour25_map1
古河周辺の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

東北本線(宇都宮線)の古河(こが)駅西口で、真尾さんのレンタカーに拾ってもらった。参加者はこの二人だけだ。古河の旧市街を抜け、渡良瀬川に架かる三国橋を渡って右へ。見通しのいい渡良瀬遊水地の堤防道路を北上する。昨日から続く好天で、青空がまぶしい。

この道は県道9号佐野古河線(下注)だが、県境を次々と越えていくことで知られている。三国橋の上で茨城県から埼玉県に入るが、約3kmで栃木県に移り、さらに群馬、埼玉、群馬、栃木と目まぐるしく変わる。ご丁寧にも、境界をまたぐたびに県名と市町村名を掲げた道路標識(白看)が立っている。道路は気持ちよく伸びているので、県境のほうが複雑に入り組んでいることがわかるが、なぜこんなことになったのだろうか。

*注 加須市柏戸~古河市街(本町二丁目交差点)間は国道354号線と重複している。

Blog_contour2502
県道9号佐野古河線を北上
遠方に「道の駅きたかわべ」の特徴的な建物が見える区間で県名標識が林立する
(左)栃木県栃木市 (中)群馬県板倉町 (右)道の駅の入口で再び埼玉県加須市
Blog_contour2503
道の駅施設の屋上から望む渡良瀬遊水池(谷中池)

下図で、この周辺の今昔を比較してみよう。左は今から110年前、1907(明治40)年の5万分の1地形図を拡大したもの、右は現行1:25,000地形図だ。左図では北西から流れてきた渡良瀬川に、西から谷田川(やたがわ)が合流している。渡良瀬川はこのあたりで大きく蛇行しており、「海老瀬(えびせ)の七曲り」の呼び名があった。3県の境界は川の流路上に設定されていたので、川の合流地点がすなわち3県境会合点だった。

1910(明治43)年から、洪水制御の名目で渡良瀬川の大規模な改修工事が始まり、1918(大正7)年に現在の東寄りの流路に付け替えられた。蛇行していた旧流路は、後に遊水地の造成工事で出た土砂を盛って、耕作地に整備された。しかし、県境は変更されなかったので、結果的に、県境を堤防道路が串刺しするような状況が出現したのだ。3県境会合点が田んぼの真ん中に残されたのも、同じ理由だ。

Blog_contour25_map2
栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大
(右)1:25,000地形図(平成29年)。いずれも県境を赤のマーカーで強調。現在の県境が旧河道をなぞっていることがわかる

車の行く手に、「道の駅きたかわべ」の建物が見えてきた。きたかわべ(北川辺)は、加須(かぞ)市に合併する前の旧町名だ。目的地に近いので、車を停めさせてもらう。連休中とあって、お昼前でも駐車場は満車寸前で、特産品売り場もよく賑わっている。建物の屋上に出て、広々と明るい遊水池(谷中池)の展望を楽しんだ後、いよいよ県境探索に出発した。

実は真尾さんは、すでに二度ここを訪れている。初回は個人で、二回目は2014年10月11日に堀さんを含むコンターサークルのメンバー5名とともに。「あのときも会合点には行ったんですが、周りの入り組んだ県境は歩いてないんです」。再々訪の目的はそれを貫徹することだ。私は私で、前回の旅を仕事の都合で欠席したので、初の踏査を楽しみにしている。

■参考サイト
コンターサークルS前回の訪問記「関東内陸の3県境を訪ねる」
https://ameblo.jp/chizumania/entry-12006028049.html

Blog_contour2504
道の駅から3県境会合点を望む。県境を白線で加筆

Blog_contour25_map3
栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の1:2,500都市計画基本図に加筆
画像は105dpi相当。加須市刊行図のため、空白となる他市町域は1:25,000地形図で補った。図中のA~Iは以下の写真の撮影位置

「境界を歩くために、秘密兵器を用意してきました」と、私は加須市の1:2,500都市計画基本図(上図)を広げた。これなら、1:25,000地形図で描ききれない田んぼの畦道や細かい水路もしっかり載っている。地図に従って、道の駅の南側の法面を降りた。小道の脇に県境が走っているはずだ。しかも、北西に埼玉、南東に群馬という地理感覚を混乱させる配置なので、二人で交互に2県を股にかける記念写真を撮った。このユニークな県境は、畦道にはさまれた溝となってさらに南へ250m続く。途中、溝の北西側に「北川辺町」の標石を見つけた。

Blog_contour2505
サイクリストが県境を越える(背景は渡良瀬遊水池(谷中池)、上図のA地点)
北西に埼玉県、南東に群馬県(!)
Blog_contour2506
埼玉・群馬県境
(左)右足は群馬、左足は埼玉に(B地点) (右)県境の北西側に旧 北川辺町の標石

車道に接近する一歩手前、コスモスが風に揺れる草道と出会う地点で、県境は東へ向きを変える。さっきよりはやや深い水路に沿って200m弱進むと、県境は、東西に延びる新設の街路と二度クロスする。この街路の南側にはみ出した部分は、三角形の公園に整えてあるのがおもしろい(下注)。さらに草をかき分けながら住宅裏の畦道をたどっていくと、目標の地点が見えてきた。

*注 1:25,000地形図ではこのはみ出し部分を長く描きすぎている。会合点の位置もあいまいだ。

Blog_contour2507
埼玉・群馬県境
(左)南北に延びる農道の右側が県境(C地点)
(右)群馬県域に含まれる三角公園(D地点)

変哲のない田園地帯というのに、何人か先客の影がある。それもそのはず、今やこの3県境会合点は、にわか観光スポットになっているのだ。道の駅には案内パンフレットが置いてあったし、私たちがここに滞在した短い間だけでもグループが2組現れて、順番に写真に収まっていた。自撮り用にと、スマホやカメラを置く台まで作ってある。

Blog_contour2508
(左)県境の水路の先の会合点には先客が(E地点)
(右)道の駅にある3県境のPRコーナー

当の会合点は、小さな水路がT字状に交わる地点で、水路の中に「三県境界」と刻まれた測量標が設置されている(冒頭写真)。水準点に使われるのと同様の、金色に光る立派なものだ。「地元の方が作った立札は3年前もありましたが、測量標はなかったですよ」と驚く真尾さん。パンフレットには、昨年(2016年)1月から3月にかけて県境の改測が実施され、その際に、ここで以前入れられたと思われる杭が発見されたとある。この測量標はそれに代わるものらしい。しかし見物客にとっては、溝に隠れた測量標より、目立つ手製の立札のほうがむしろいいようだった。

Blog_contour2509
栃木・群馬・埼玉3県境会合点

私たちは会合点から延びる小水路、すなわち栃木・埼玉の県境を東へたどることにした。渡良瀬川の旧流路をなぞっているから、緩く左にカーブするのはわかるが、なぜか栃木側がやや高い。住宅の裏を縫うようにして進むと、堤防の手前で資材置き場のフェンスに阻まれた。この平行四辺形の造成地は2県にまたがっている。

次に堤防下の側道を遡上し、栃木・群馬県境となった旧流路跡の小水路に沿って、会合点に戻った。さっきいた人たちとは別のグループが来ている。なかなかの人気だ。通りがかりの人の話では、3県境がマスコミにも取り上げられた去年はもっと多かったらしい。

Blog_contour2510
栃木・埼玉県境
(左)こちらも小さな水路が県境(F地点) (右)集落入口、堤防際に建つ祠(G地点)
Blog_contour2511
栃木・群馬県境
(左)カーブミラーには藤岡町(現 栃木県栃木市)と記載。道路標識は群馬県板倉町(H地点)
(右)栃木・群馬県境の小水路をたどって会合点に戻る(I地点)

一つ目の会合点と県境探索を完遂した私たちは、道の駅に戻って、次の目的地である茨城・栃木・埼玉3県境会合点へ車で移動した。県道9号を古河のほうへ戻り、遊水地と渡良瀬川を区切る堤防の水門脇に出る。会合点があるのは渡良瀬川の水面上だ。河川改修以前は、ここで渡良瀬川に思川が合流していた。旧版地形図(下図左)に描かれたとおり、三国橋はこの場所に架かり、文字通り下総(下注)、下野、武蔵の三国を渡っていたのだ。堤防の天端に立つと、対岸のゴルフ場と古河市街が望めるが、その手前にあるはずの肝心の水面は、ススキその他背の高い草の陰に隠れて、ほとんど見えなかった。

*注 古河(旧 猿島郡古河町)は茨城県だが、下総国に属する。

Blog_contour2512
遊水地堤防から茨城・栃木・埼玉3県会合点を望む
しかし会合点のある水面はほとんど見えない

Blog_contour25_map4
茨城・栃木・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

三つ目の会合点へ赴く途中、加須市伊賀袋(いがぶくろ)に残された河跡湖(三日月湖)に寄り道した。渡良瀬川の旧河道で、ふれあい公園の名で周囲と併せて整備されている。湖といっても泥に覆われてまるで干潟のようだが、申し訳程度に流れる水でも、逆光で眺めると、悠然たる大河の気配を漂わせるから不思議だ。「渡良瀬川本流だったときは、ここに県境が通ってたんです」と真尾さん。確かに、遊水地周辺とは違って、県境が新しい渡良瀬川に沿っている。かつて茨城県(猿島郡新郷村)だった伊賀袋は、河川改修後の1930(昭和5)年、地続きになった埼玉県(北埼玉郡川邊村)に編入されたのだ。

Blog_contour2513
公園に整備された伊賀袋の河跡湖

Blog_contour25_map5
伊賀袋周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

国道354号線を東へ進み、境大橋で利根川を渡って、かつて水運で栄えた関宿(せきやど、現 千葉県野田市)へ。江戸川沿いに建つ関宿城博物館で、河川改修の歴史展示を見た後、茨城県五霞(ごか)町へ回って、江戸川の堤防の上に立つ。茨城・埼玉・千葉の会合点はかつて権現堂川、逆川、江戸川の合流・分流点だったところで、今も江戸川の水面上だ。最高気温26度と10月にしては暑い一日だったが、さすがに堤の上は心地よい風が吹き通っている。合流点の向こうに顔をのぞかせる関宿城の模擬天守、そのちょっと意外な構図をカメラに収めて、本日の全行程を終了した。

Blog_contour2514
江戸川の中の茨城・埼玉・千葉3県会合点。正面奥に関宿城博物館の模擬天守

Blog_contour25_map6
茨城・埼玉・千葉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成11年)

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図古河(平成29年8月調製)、下総境(平成11年修正測量)、宝珠花(平成11年修正測量)、5万分の1地形図古河(明治40年測図)、水海道(明治40年測図)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)および加須市都市計画基本図No.2(縮尺1:2,500)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道
 コンターサークル地図の旅-御殿場線旧線跡

2017年12月 4日 (月)

堀淳一氏を偲ぶ

物理学者、地図エッセイストであり、コンターサークルSの創始者でもある堀淳一さんが、2017年11月15日、冥界へと旅立っていった。

実は堀さんには、11月初旬に北海道でお目にかかったばかりで、5日はコンターサークルSの旅で積丹半島に出かけ、翌6日はご自宅に伺って地図談議に花を咲かせた。1926年生まれの御年91歳だが、頭脳は常に明晰で、収集した膨大な数の地図を肴に、四方山話はいつまでも尽きなかった。

それだけに、亡くなったと聞いても俄かに信じることができなかったのだが、先日サークルのメンバーと最後のお別れに参列したことで気持ちに区切りがついた。私が堀さんの面識を得てからまだ4年足らずだが、『地図のたのしみ』(下注)以来の読者だったこともあり、敬愛する著者の最晩年に接した思い出を少し語ろうと思う。

*注 『地図のたのしみ』は1972年初版で、日本エッセイストクラブ賞受賞作。私の手元にあるのは1973年1月発行の9版。

初めて生身の堀さんに会おうという気になったのは、私が所属していた海外鉄道研究会の席で、先輩会員のNさんが「今度、堀さんが関西に来ますよ」と声をかけてくれたのがきっかけだ。NさんはコンターサークルSの会員でもあり、私が堀さんの本を読んでいることを知っていた。

ずっと後で堀さんに、なぜもっと早く現れなかったのか、と問われたことがある。コンターサークルSの活動のことは知識があったものの、北海道が活動拠点で、メンバーも道内の人たちなのだろうと、漠然と考えていたというのが唯一の理由だ。実際には本州在住のメンバーも多数いて、本州を巡る旅では主に堀さんとその人たちが動いている。

Nさんからもらった旅程表は、堀さんの自筆だった。このときはまだ堀さん自身で旅のテーマを決め、列車でアプローチする場合の集合場所と時刻を書いたものを、メンバーに送っていたのだ。その記述に従って、2014年のゴールデンウィークのさなか、京都北部の東舞鶴駅へ一人で出かけた。

サークルの旅に参加するのに事前連絡は不要で、誰が来るかは当日その場でないとわからない。私にとっては著書にある小さな顔写真の記憶だけが頼りだが、白い顎鬚を伸ばした仙人のようないでたちで改札を出てこられたので、難なくわかった。その後のことはブログ(下注)に書いたとおりで、この日はたまたま他に同行者がなく、堀さんと二人行という、長年のファンにとっては夢のような旅になった。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡」に記述。

舞鶴へ行った翌日の旅は、滋賀の百瀬川扇状地が舞台だった(下注)。ここで以前からのサークルメンバーとも初めて会うのだが、私はこの川の上流の河川争奪について書かれている『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)を持参して、ちゃっかりサインをもらったのを思い出す。帰りは、堀さんが宿をとっている近江八幡まで電車でご一緒した。現地へ車で来るメンバーも多い中で、堀さんと私は基本的に列車移動なので、以降の旅でも行き帰りの車内で話をする時間がたっぷりあった。

*注 「コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地」に記述。

そうした機会に、ずっと疑問に思っていたことを聞いたことがある。「文章の中に色の名前がたくさん出てきますが、あれは現地でメモしておられるんですか」と。堀さんが言うには「いや、撮ってきた写真を後で色名事典で照合しながら書いてるんです。赤、黄、緑だけではおもしろくない。緑色と言ってもいろんな緑がありますからね。それを書き分けたいので」。その答えに、目にした情景を正確に表現するという信念を見た気がしたものだ。

堀さんの文章は、地元北海道を題材にしたものが圧倒的に多い。その雰囲気を味わいたくて、道内の旅にも何回か参加した。昨年5月に行ったときは、旅の前日に二人で、環状線化された札幌市電に乗り(下注)、行きつけのレストランで昼食をとった。食後に紅茶を注文した堀さんは、飲む前に砂糖をスプーン3杯注いだ。驚いている私に、「『先生、入れ過ぎでは?』とウェイターが言うんで、『市販のジュースはもっと砂糖が入ってるよ』と言い返したことがあるんです」と笑った。

*注 「新線試乗記-札幌市電ループ化」に記述。

渡道のもう一つの目的は、堀さんの地図コレクションを拝見することだった。堀さんは北大で教鞭をとっていた時代から幾度もヨーロッパを訪れ、その都度気に入った地形図や市街図を買い集めている。日本でも輸入地図を扱う専門店(東京・広尾にあった内外交易など)へよく通ったそうで、「行くと、店の人が私のためにいろいろとおもしろい地図を取り置いてくれてました」と語っていた。

『地図のたのしみ』(p.51~)によれば、堀さんが外国地図の魅力に捕えられたのは、イギリスの1マイル1インチ地形図を手に入れた1961年のことだ。その後、国際学会で初めて海外出張する1963年前後から、収集に本腰を入れるようになった。私が堀さんの本に影響を受けて外国地図に熱中し始めたのは1990年ごろなので、その1世代前の旧版図が揃っている。

北大近くにある堀さんの仕事部屋は、書籍と地図でほとんど埋め尽くされていた。外窓に面して書き物机が置かれ、その周りだけがかろうじて空いている。ここにはあまり来客を入れないという堀さんは「これでも片づけたんですが、半分でいやになっちゃった」と言い訳されたが、私にはその心遣いだけでもありがたかった。

『地図を歩く』(p.24~)でも紹介されているように、日本の地形図はきれいに折り畳んで図名を記し、引き戸のキャビネットに20万分1図、図番(1~16)、作成年の順で並べてある。一方、日本の市街図や外国地図はジャンル別、国別に仕分けして赤茶色のデスクトレーに収め、それをスチール棚に縦重ねしてあった。同じような箱積みが奥にもあるのがちらと見える。「蓋に青いラベルが貼ってあるのが外国図です。緑は北海道関係かな。三層になってるので、奥にあるのはもう取れなくなってます」。

その日は、イギリスとアイスランドの地形図に絞って見せてもらったが、それでさえ相当な数だった。イギリスは主に1インチ図の第7エディションや1/4インチ図の第5シリーズ、アイスランドはデンマーク時代の手描き感溢れる旧図のオンパレードだ。そして、私が「これいいですね」と言うたびに、地図に描かれた土地にまつわる堀さんの思い出話が次々と出てくる。それを伺いながら見ていたら、いつのまにか夕方になっていた。

それからも何度か部屋におじゃましたが、いつもデスクトレーを二、三箱開けるだけで午後の時間が過ぎてしまう。直近の11月6日は、イタリアなど南欧の地図を拝見した。「イタリアの古い地形図は記号が美しいでしょう?」と堀さん。「そうですね、さすが芸術の国だと思います」「ええ、文字も洒落てるんですよ」「この書体ですね、平ペンで書いたような…。イタリアって一見大雑把かなって思うんですけど、結構細かいんですよね」「細かいですよ。果樹の記号なんか、やたら細かく分類されてる」「そういうものに愛着を持っているんでしょうね」。そんなやりとりを日がな一日していたのだ。

「山下さんのお好きなスイスの地形図も結構あるはずです」というので、奥のほうのデスクトレーも確かめてみたが、見つからない。あちこち探し回った挙句、もしやと、椅子の後ろに積まれた段ボール箱の一つを開けてみると、中に目標の品が山盛りになっていた。「ああ、ここでしたか。灯台下暗しだな。見ますか?」 しかし、そろそろ夕食の時間だった。次回来た時にこの続きを見せていただくことにして、いつもの店へ食べに出る。そこでも長話をした後、別れ際に「次来るのはいつです?」と聞かれたので「雪が融けたころに必ず参ります」と答えた。それが、堀さんと交わした最後の言葉になった。

「はじめての土地を、誰にも道を聞かずに、気の向くままのびのびと歩き回るのは、大変気分のよいものである。その土地をよく知っている人間と思われて、人に道を尋ねられたりすれば、なおさらのことである。」「これを可能にしてくれるのが地図である。地図さえ持っていれば、どんな道の土地でも、自由に歩き回ることができ、思うところへ行くことができる。」(『地図から旅へ』p.106)

堀さんにとって、地図は知らない土地への道案内であるとともに、歩いた道の記憶装置でもあった。旅の詳細を忘れていても、そのとき携行した地図をもう一度開けば、情景をありありと脳裏に蘇らせることができる。行き帰りの列車の中で、あるいは仕事部屋で、記憶装置から引き出された話を心行くまで伺うことができたのは本当に幸せだった。しかし、未見の地図はまだまだ棚の間に眠っていて、それと同様、聞き出せなかったこともたくさんあったはずだ。

来年からコンターサークルSの旅に、堀さんの姿はない。でも、きっといつものように地形図を手にしながら、空の上から私たちの旅に参加されるだろう。おあずけになった話の続きはそのときに聞くことができるかもしれない。

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

2018年11月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

BLOG PARTS


無料ブログはココログ