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2017年11月30日 (木)

コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

今日も宇都宮駅東口で待ち合わせた。中心街とは反対側で、空き地が目立つ東口だが、LRTの着工を来年に控えて、ストラスブールのシタディスをモデルにした大きな看板が立てられている。富山市のようなスマートな都市装置の始動を期待しながら、今の風景を写真に収めた。地図の旅2日目の10月8日は、黒磯の晩翠橋(道路橋)を見るとともに、東北本線(以下 東北線)の旧線跡をたどりながら北上する。

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宇都宮駅東口に立つLRT計画推進の大看板

参加者は堀さん、真尾さん、大出さん、石井さん、中西さん、私の計6人。堀さんはいつものとおり石井さんの車に、他のメンバーは真尾さんのレンタカーに分乗して、国道4号線を北東へ向かった。

最初の目的地は、東北線の鬼怒川(きぬがわ)橋梁だ。上野から順次延伸されてきた日本鉄道、現在の東北線は、1886(明治19)年10月1日に宇都宮~那須(現 西那須野)間が開業している。このときのルートは宇都宮からほぼ北へ直進するもので、氏家(うじいえ)の西方で、東西に分流していた鬼怒川を渡っていた(下の地図参照、下注)。ところがこの川は暴れ川で、大雨のたびに氾濫しては線路に多大な被害を与えた。そのためルートは1897(明治30)年に早くも放棄され、現在の宝積寺(ほうしゃくじ)経由に付け替えられたのだ。

*注 後年、河川改修で東鬼怒川が鬼怒川本流となり、西鬼怒川は川幅縮小の上、水路化された。

水害の教訓から、新しい橋梁は、東の宝積寺台地と西の岡本台地が接近して、鬼怒川低地が最も狭まる地点を選んで架けられている。東西鬼怒川がすぐ上流で合流しているので、橋梁が1本で済むという点でもベストな渡河地だ。現在は上下線がそれぞれ単線橋で渡る。明治の橋梁はとうに姿を消し、現在上り線が使っているのが、跡を継いで1917(大正6)年に完成した2代目だ。

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宇都宮北方の東北本線が描かれた1:200,000図
(左)北へ直進する旧線が描かれた唯一の地図(輯製二十万分一図、1894(明治27)年修正) (右)宝積寺経由の現ルート
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鬼怒川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆。薄茶色に着色した部分が台地

私たちは国道4号線の新鬼怒川橋を渡り、東北線を乗り越したところで狭い脇道に入った。車を降りて護岸上の踏み分け道を少し行くと、2本並ぶ鉄橋の袂に出られる。上り線橋梁は南側で、頑丈そうな煉瓦積みの橋脚に、ポニーワーレントラスと呼ばれる小型のトラス桁が載っている。下り線の、スマートだが冷たげなコンクリート橋との対比で、リベット打ちのレトロな機能美がひときわ目を引く。

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東北線鬼怒川(きぬがわ)橋梁。左が上り線のワーレントラス橋

橋脚はよく観察できるのだが、浅い角度のため橋桁の眺めは今一つだ。それで引き返して、国道橋の歩道へ回り、側面から鉄橋の全貌を眺めることにした。横構のない小型トラスは古風なスタイルだが、背景に広がる那須の山並みを遮らないのがいい。コンテナを連ねた長い貨物列車が、ジョイント音を高く響かせながら走り去るのを見送る。

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国道橋からの眺め

じっと眺めていた石井さんが「なぜ一番右のトラスだけ白いままなんでしょうね」と聞く。誰も答えないので、「塗り直さないでいつまで持つか実験しているのでは」と私。「持つなら塗らずに済まそうってこと?」「そうかも…」。本当のところは塗装作業の途中だったのかもしれない。

次の目的地は黒磯なので、しばらく4号線をドライブする。市街地をバイパスして、那珂川(なかがわ)のたもとに車を付けた。

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黒磯の晩翠橋のたもとに到着

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晩翠橋周辺の1:25,000地形図に加筆

晩翠橋(ばんすいきょう)は、旧国道4号(現 県道55号西那須野那須線)が那珂川を渡る地点に架けられた道路橋だ。初代の橋は、栃木県令に就任した三島通庸(みしまみちつね)が新陸羽街道整備の一環で1884(明治17)年に造らせたもので、木造だった。今より約70m上流にあり、大水で損壊しては、その都度架け直された。現在の橋は実に5代目で、1932年(昭和7)年に、世界恐慌に伴う失業対策で実施された国道の改良工事に合わせて建設されたものだ。

昭和の晩翠橋は、取付け道路を含めて画期的な設計で水害に対する強度を高めている。三島の旧橋は、扇状地面に載る黒磯の市街地から一段下がった位置(低位段丘面)で対岸に渡されていた。対する新橋は市街地から築堤を延ばし、道路はほとんど勾配なしで橋に達する。そのため橋面は、水面から23mの高さになった。さらに、流路に橋脚を立てずに済むアーチ構造を採用し、全長126.0m、中央径間70m(下注)の、大規模で景観的にも優れた橋梁が誕生したのだ。

*注 数値は、現地の案内板による。

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(左)初代~第4代の写真(現地案内板を撮影) (右)現 晩翠橋を川べりから見上げる

橋の南のたもとに、大きな写真入りの案内板があった。考えてみれば、いくら立派な橋梁を造っても、このように上路アーチの場合、通行人の目に入るのは欄干と路面だけだ。全体像は、側面から見て初めて理解できる。私たちもそうしたいと思ったが、それには下の河原に降りる必要がある。右岸の河原に停車している車や人影が見えるから、行けるのは確かなようだ。

しかし、実際にたどり着くのは一苦労だった。地理院地図に描かれている橋の300m北側の小道は柵で塞がれていて、車を進めることができなかったのだ。方々探し回ったあげく、石井さんがグーグルマップで橋の南側に別の道を見つけて、ようやくたどり着く。せっかくライトアップまでして橋を観光につなげようとしているのに、鑑賞する場所への道案内を欠くのは不備ではないか。

ともかく、水際から勇壮な鋼橋を見上げることができた。この構造はバランスドアーチといって、アーチを連続させることで、中間の2つの支点にかかる力(水平反力)を相殺する。もちろん見た目にも美しく、この角度から眺めると、まるで白鳥が翼を広げて大空に飛び立とうとしているかのようだ。

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翼のように広がるアーチが緑の渓谷を横断

「そろそろお昼にしましょうか」と真尾さんが皆に声をかけた。ベンチや土手の段に思い思いに座って、持参の昼食を開けようとしたら、堀さんが「昼食を買ってくるのを忘れちゃったな」と言う。しかし、心配する必要はなかった。「おにぎりありますよ」「私のアップルパイもどうぞ」と差し出されたもので、たちまち1食分が揃った。みんな優しい。

それから、400mほど下流に架かる東北線の橋梁を見に行った。鬼怒川橋梁と同じで上り線が古く、1920年竣工の上路プラットトラスが架かっている。下り線はコンクリート橋だが、初代のものとおぼしき煉瓦造の橋台が残っていた。カーオーディオのボリュームを全開にしてキャンプもどきを楽しんでいる若者たちの傍らで、新幹線と3本並んだ鉄道橋を写真に収める。

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少し下流に架かる鉄道の那珂川橋梁
手前から東北線上り線、同 下り線、東北新幹線

那珂川河畔を後にして、私たちは東北線の旧線跡をたどりながら北上した。同線の黒磯~郡山間は、1887(明治20)年に開業している。黒磯と白坂の間では、那須火山群からの泥流に覆われた起伏の多い土地を横断するため、曲線とともに随所に25‰の急勾配が必要になった。第一次世界大戦後、輸送力の逼迫から東北線では複線化を含む大規模な改良工事が実施され、1920(大正9)年にこの区間は、勾配を緩和した新線に切り替えられた。それに伴い残されたのが、20km近い旧線跡だ。

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堀さんの著書『地図を歩く』(河出書房新社、1974年、p.232~)にこのことが詳述されている(下注)。今でこそ廃線跡探索は鉄道趣味の一ジャンルとして確立しているが、おそらくその先駆けとなったのが『地図のたのしみ』や本書に収録されたレポートだ。私もこれで、地形図と照合しながらルートの変遷を追うという楽しみ方を知ったので、読み返せば懐かしい。

*注 2012年刊の『地図を歩く』新装新版ではp.220以下。

晩翠橋の少し先の瀬縫交差点を右折して、県道211号豊原高久線へ。国道4号(黒磯バイパス)をくぐった地点から、道路は旧線跡に載り、上瀬縫の台地越えを再現している。車なら何でもないとはいえ、じわじわと上る坂道だ。新幹線を乗り越えて現在の東北線に突き当たると、道は旧線からそれて高久駅に並行する。そして駅の先で右折して、線路の反対側へ出ていた旧線跡に再び合流する。

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東北線 黒磯~大田原間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

まもなく、現在線と並行する気持ちの良い直線路に入った。「撮り鉄がいますね」と話しながら車を走らせていると、余笹川の手前で列車がこちらに向かってくるのが見えた。「あれ、四季島(しきしま)じゃない?」と真尾さんが叫ぶ。なるほど、撮り鉄さんはこれを待っていたのか。私たちも路側のスペースに車を寄せて、今年デビューしたばかりのクルーズ列車がしずしずと通過するのを見届けた。私のコンデジではぶれてしまったので、大出さんにもらった動画のキャプチャーが下の写真。

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黒田原駅南方でクルーズ列車「四季島」と遭遇
(大出さん撮影の動画からのキャプチャー)

黒田原の市街地では町役場などが並ぶ旧駅前の道の直線化が完了していて、ナビを間違えた。ここで旧線は坂を下っていき、泥流原の縁に黒川がつくった浅い谷に通路を求める。堀さんが訪れた1972(昭和47)年当時は、黒川の中に「レンガ造りの背の高い橋脚が、五〇年の風雪に耐えて屹立して」(同書p.239)いたのだが、すでに撤去され、二車線道路に姿を変えている。

しかし、まもなく改良区間が終わり、一車線の田舎道が現れた。おおかた刈取りを終えた田んぼの中を、左右に緩くカーブしながら続いている。黒川を再び渡ったところで、豊原駅へ寄り道することにした。新線への切替えと同時に、その間にあった黒田原、豊原の両駅も移転したが、なかでも豊原新駅は旧駅から南へ1.6kmも離れた丘の中腹に造られた。小さな無人の駅舎から跨線橋で島式ホームに渡る構造だが、果たして今どれだけの乗降客があるのだろうか。

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ひっそりとした現 豊原駅

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東北線 大田原~豊原間周辺の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

成沢集落を過ぎたところで、旧線跡の道路に戻る。40数年前は、「ススキが両側に伸び放題に伸びているデコボコの砂利道で、ときたま小型自動車が砂埃をまきあげて通るほかは、秋の日ざしをあびて静まりかえった、野趣あふれる道だった」(同書p.242)。さすがに舗装されたものの今も一車線のままで、堀さんが歩いたときと景色はほとんど変わらないだろうと思わせる。だが、対向車の数は確実に増え、それもけっこう飛ばしてくる。「廃線後も幹線のままですね」と真尾さんが笑う。信号のない一本道なので、抜け道に利用されているのかもしれない。

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黒川橋梁南方の旧線跡を転用した一車線道路を進む

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東北線 豊原~白河間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
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旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

列車の撮影地として名高い黒川橋梁が見えてきた。丘の高みを伝ってきた現 東北線は、ここで黒川の広い谷を横断して、利根川水系と阿武隈川水系の分水嶺に向かう。橋梁は、上り線が長さ333.7mの堂々とした上路ワーレントラス橋で、下り線はシンプルなプレートガーダー橋になっている。

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堂々たる姿の東北線黒川橋梁

橋の下の空き地に車を停めた。せっかくだから、鉄橋を渡っていく列車を撮ってみたいが、旅客列車はさっき通ったばかりだ。「貨物列車が来るといいんだが。山下さんの神通力は効きませんか」。昨年、山陰本線の惣郷川橋梁へ行って以来、堀さんは、私に列車を呼び寄せる力があるのではと疑っている(下注)。しかし残念ながら、運はさっきの四季島との遭遇で使い果たしてしまったようだ。しばらく待ってみたものの、来ないものは来ない。

*注 惣郷川橋梁でキハ40系が通った話は「コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス」参照。

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(左)車を止めて待つも列車は現れず (右)地形図で経路を確認(大出さん撮影)

今日はよく晴れて、強い日差しが降り注ぐ。「ここにいても暑いので先へ進みましょう」と再び車に乗り込んだ。一車線道に出て、ちょうど鉄橋の真下を通っていたときだ。車内の話し声が突然、耳を聾さんばかりの轟音にかき消された。頭上を貨物列車が通過している。

「直下だと凄い音ですね。てっきり車が何かを引っ掛けて引きずってるのかと思いましたよ」と真尾さん。そのまま車を走らせようとしたら、中西さんが「大出さんを置いてきちゃった」と叫ぶ。私たちが轟音にたじろいでいる間に、列車を撮ろうと飛び出していったらしい。慌てて車を停めた。まもなく何喰わぬ顔で戻ってきた大出さん、うまく走行シーンを捉えることができたそうでよかった。

道はこの後、杉林の中を右にカーブを切りながら坂を上っていく。側面に、黒田原からの下り坂と同じような石垣が続いているので、同時期に整備したのだろう。やがて東北線下り線の踏切、少し離れて上り線の踏切を通過。それから廃線跡は緩やかなカーブで上り線に吸収されていき、本日の探索のゴールと決めた白坂駅に到達する。

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林の中の旧線跡道路

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図黒磯(平成13年修正測量)、宝積寺(平成13年修正測量)、5万分の1地形図大田原(明治42年測図)、同(平成7年修正)、白河(明治42年測図)、同(平成5年修正)、輯製20万分の1図日光(明治27年修正)、宇都宮(明治27年修正)、20万分の1地勢図日光(昭和52年編集)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

■参考サイト
栃木県の土木遺産 http://www.doboku.shimotsuke.net/
土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/

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