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2017年10月29日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編

コロラドの鉄道を語る際に欠かすことのできない人物がいる。その名はデーヴィッド・モファット David Moffat。生まれは東部ニューヨーク州だが、20代半ばでデンヴァーに移住し、デンヴァー第一国立銀行 First National Bank of Denver の頭取にまでなった有力実業家だ。

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デーヴィッド・モファット
(1839~1911)
© Denver Public Library 2017,
Digital Collections H-123

彼は、デンヴァー最初の鉄道となったデンヴァー・パシフィック Denver Pacific(下注)をはじめいくつかの新興鉄道にも出資者として名を連ねている。そして、1887年にはリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)の代表取締役に就任し、ライバル他社との激しい競争を制して、自社の優位を保つことに貢献した。テネシー峠回りの本線改良を推進したのも彼の功績だ。しかし、債権者との意見の相違が原因で1891年に社長を辞任し、その後は、リオグランデに対して距離を置き、独自の道を貫くことになる。

*注 デンヴァー Denver ~シャイアン Cheyenne 間のデンヴァー・パシフィックについては「ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー」で言及している。

その後モファットが仕掛けた鉄道は、リオグランデにとって最後のライバルとなった。デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway (DN&P) が正式名だが、地元では常にモファット線 Moffat Line またはモファットロード Moffat Road(下注)と呼ばれている。なぜなら新たな夢を叶えるために、彼が持てる私財を惜しみなく注ぎ込んだ鉄道だからだ。

路線は、デンヴァーから直接西へ進み、ソルトレークシティ Salt Lake City と直結する計画だった。リオグランデと目的地が重なり、かつ南のプエブロ Pueblo を回るリオグランデに比べて距離がはるかに短い。デンヴァーの商業界も、市街の背後に残された鉄道空白地を解消する「エアライン Air Line(空地の路線の意)」として、その実現に大いに期待を寄せた。

*注 次回詳述するロリンズ峠 Rollins Pass 越えの廃線跡も、モファットロードと呼ばれるので注意。

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デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道(モファット線)の路線概略図
赤線がモファット線、青線がリオグランデ

デンヴァーの西側には、ロッキー山脈の一部を成すフロントレンジ Front Range(前面山脈の意)が屏風のように立ちはだかる。そのため既存の鉄道は迂回路を選んだのだが、遅れてきたモファット線はこの天下の険に敢えて正面から挑戦した。工事は1902年の冬に始まったものの、山脈に分け入るルートは難工事の連続で、分水嶺を越えて西斜面に達するまでに3年の歳月を要した。その分、開通後は壮観な山岳風景が見どころとなり、長旅の客を魅了したのだ。

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デンヴァー西方の山岳地帯を行くモファット線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆

列車に乗ったつもりで、デンヴァーの中央駅であるユニオン駅 Denver Union Station(標高1,581m)からそのルートをたどってみよう。

駅を出てしばらく旧コロラド・セントラル線 Colorado Central Railroad と並行したあと、線路は西北西へ向かう。30km(18.5マイル)の地点に、早くも最初の注目ポイントがある。平原からフロントレンジへの取っ掛かりに設けられた大カーブ群だ(下の地形図も参照)。勾配を20‰に抑えるために、敢えて極端に切返すことで高度を稼ごうとした。

2か所の馬蹄形カーブには、デンヴァー側から順にリトルテン Little Ten、ビッグテン Big Ten の呼び名がある。アメリカの鉄道では通例、カーブの緩急を弦(=弧の両端を結ぶ線分)100フィートに対する中心角の度数で表す。度数が大きいほどカーブがきつい。ビッグテンの「テン」は10度を意味し、半径175mに相当する急カーブだ。マイルトレイン Mile train (下注)がこの区間を上る様子は、まるで山に帰ろうとする大蛇のようにも見え、早くから定番の撮影地になっている。

*注 マイルトレインは、1マイル(1.6km)もあるような長大編成の貨物列車を言う。

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ビッグテンを降りるマイルトレイン
Photo by Aaron Hockley at flickr.com. License: CC BY-NC-ND 2.0

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ビッグテン~プレーンビュー間
なお、等高線間隔は、図の左半分が40フィート(約12m)、右半分が10フィート(約3m)
USGS 1:24,000地形図 Louisville 1965年版、Golden 1971年加刷修正版、Eldorado Springs 1965年版、Ralston 1965年版に加筆

この後、列車は山裾を北へ進む。トンネルにはデンヴァー方から番号が振られていて、第1トンネルを出てまもなくプレーンヴュー Plainview の信号場(標高2,071m)がある。大平原の眺望という名が示すとおり、沿線最大かつ最後の見晴らしが楽しめる。

その先はいよいよ山岳地帯だ。大小のトンネルが27本も連続する区間「トンネル・ディストリクト Tunnel District」が待ち受けている。線路は、断層崖に露出したフラットアイアン Flatiron(アイロンの意)の大岩を抜け、エルドラド山 Eldorado Mountain の下の第8トンネルで西に折れ、サウスボールダークリーク South Boulder Creek の南側の険しい山襞を文字どおり縫うように進んでいく。このあたり、谷底からの比高は300mを優に超え、かなりの高度感がある。

サウスドロー South Draw の深い支谷を馬蹄カーブでしのぎ、長めの第17トンネルで向かいの尾根を抜ける。クレセント Crescent 信号場(標高2,271m)を通過すると、右手にデンヴァーの水がめ、グロス貯水池 Gross Reservoir の巨大なダムが望める。その後も同じようなトンネルが断続的に現れるが、いつのまにかサウスボールダークリークの谷底がかなり上昇してきている。谷中の馬蹄カーブの途中でごく短い第27トンネルをくぐればトンネル・ディストリクトは終了し、パインクリフ Pinecliff 信号場(標高2,430m)が目前だ。

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クレセント信号場の西でグロス貯水池を望む
Photo by Jerry Huddleston at wikimedia. License: CC BY 2.0

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プレーンビュー~クレセント間
USGS 1:24,000地形図 Eldorado Springs 1965年版に加筆
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クレセント~パインクリフ間
USGS 1:24,000地形図 Eldorado Springs 1965年版、Tungsten 1972年版に加筆

この後しばらくは、高原上の浅い谷の中を通る旅になる。ロリンズヴィル Rollinsville、トランド Tolland の信号場を過ぎ、デンヴァーから81km(50.2マイル)で、いよいよ大陸分水嶺の本体というべき山塊にぶつかる。線路はイーストポータル East Portal 信号場(標高2,808m)の先で、単線のモファットトンネル Moffat Tunnel に突入する。長さが9,994m(6.21マイル)もあり、開通当時は北米最長を誇った(下注)。

*注 現在は、ワシントン州のカスケードトンネル Cascade Tunnel(12.55km(7.8マイル))、モンタナ州のフラットヘッドトンネル Flathead Tunnel(11.28km(7.01マイル))について鉄道トンネルとしては第3位。

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モファットトンネル西口
Photo by Jeffrey Beall at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

当時、このようなトンネル建設は、前例のない大プロジェクトだった。それだけに、必要とされた莫大な資金を民間の力だけで集めきるのは難しかった。そこで、公営水道の計画と抱き合わせにして、デンヴァー市が起債で一部を賄おうとしたのだが、私企業との合弁事業に対し、反対派から横槍が入って頓挫する。最終的には州政府の財政援助を得て、なんとか着工に漕ぎつけた。

トンネルの掘削も、資金調達に負けず困難な作業だった。特に西側で想定以上に地質が悪く、破砕帯に遭遇して大量の湧水にも悩まされた。工期の短縮を図るために、先に貫通させた導坑を使い、本坑を複数の工区に分けて掘り進めていった。この導坑はトンネル完成後、水路に転用され、先ほど見たグロス貯水池を経由して、西斜面の豊かな水資源を東の都市域に導く役割を果たしている(下注)。

*注 トンネルは東口より西口のほうが高度が高いが、中央を高くする拝み勾配のため、水路トンネルの西半分は逆サイホンの原理で流している。

長い闇を抜ければ、太平洋斜面で最初の駅ウィンターパーク Winter Park(標高2,762m)に到着する。スキーリゾートとして知られる町だ。線路はさらに、フレーザー川 Fraser River に沿って西へ下っていく。

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ウィンターパークの中心部
Photo by Darkshark0159 at English Wikipedia.

興味の尽きないルートながら、現在このルートを走る旅客列車はごく少ない。通年運行するものでは、シカゴ Chicago ~エメリーヴィル Emeryville 間の大陸横断列車カリフォルニア・ゼファー号 California Zephyr が唯一だ。西行き、東行きとも2日目の日中にこの山岳区間を通過するので、変化に富んだ車窓風景が楽しめる。

このほか、デンヴァーのシニア世代には懐かしいデンヴァー~ウィンターパーク間の「スキートレイン Ski Train」が、数年間の中断を経て、2017年のシーズンから復活している。

この列車は1940年に運行が始まり、1950~60年代にはウィンターパークのスキー教室に出かける子どもたちを運んでいた。1988年にリゾートトレインとして再出発したものの、利用者の減少が進み、2008~09年冬のシーズンをもって廃止されてしまった。ところが、2015年のウィンターパーク開設75周年に当たって記念列車を計画したところ、用意された450席が即日完売となり、急遽追加した翌日便もすぐに売り切れた。そこで運行の定期化が検討され、2017年1月からスキーシーズンの週末(土・日曜)に「ウィンターパーク急行 Winter Park Express」の名で再び走り始めたのだ。

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デンヴァー・ユニオン駅に停車中のスキートレイン(2003年)
Photo by Lexcie at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

こうして今や大陸横断鉄道の一部にもなったモファット線だが、実はデーヴィッド・モファットは、夢に描いた新路線の完全な姿を見届けることなく、1911年にこの世を去っている。分水嶺を越える区間は、確かに生前の1904~05年に開通しているのだが、トンネルが完成したのはずっと後の1928年なのだ。では、それまでの24年の間、旧線はどこを通っていたのだろうか。その驚くべきルートについて次回詳述しよう。

(2007年2月2日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-モファット線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
アムトラック-ウィンターパーク急行 https://www.amtrak.com/WinterParkExpress

★本ブログ内の関連記事
 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー
 ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道
 ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後
 ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート
 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

2017年10月22日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線

サウスパーク、そしてミッドランドと、コロラド山岳地帯で抜きつ抜かれつ繰り広げられた鉄道の敷設競争を挑戦者の視点から追ってきた。こうした他社の進出に刺激されて、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)も改軌工事や新線建設など、自社路線の改良と拡張を着々と進めている。今回は、その様子をまとめておこう。

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マーシャル峠東側を下る列車、右奥に谷底の線路が見える
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1260

意外というべきか、リオグランデの最初の本線は、マーシャル峠 Marshall Pass 経由の南回りルートだ。これでデンヴァー Denver とソルトレークシティ Salt Lake City が3フィート(914mm)軌間で結ばれた。レッドヴィル Leadville の近くからテネシー峠 Tennessee Pass を越えていく北回り路線が整備されたのはその後のことだ。

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デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の2本の本線ルート
太い二重線が標準軌の北回り(テネシー峠経由)、
細い二重線が狭軌の南回り(マーシャル峠経由)、
太い青の梯子線は3線軌条区間(プエブロ~マルタ間)

リオグランデは、銀山のあるレッドヴィルへ進出するのと同時に、西へ向けて路線網を拡大する計画を進めていた。レッドヴィル到達は1880年だが、途中サライダ Salida で分岐した路線が、ガニソン Gannison には翌年8月、モントローズ Montrose へは1882年9月に達し、同年12月にグランドジャンクション Grand Junction まで延長された。そしてユタ州側から建設されていた鉄道に乗入れることで、1883年にデンヴァー~ソルトレークシティ間に初めて直通列車が走った。なお、グランドジャンクションという地名は鉄道の接続と関係はなく、コロラド川の旧称グランド川 Grand River とガニソン川の合流点(ジャンクション)を意味している。

ユタ側の鉄道会社は、デンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW) といった。非常に紛らわしい名称だが、実際にコロラド側のリオグランデの関連会社(社長は兼任)で、まもなく同社が施設を借りて運行するようになり、過半数株式の取得を経て、1908年に両社は統合される。

マーシャル峠は大陸分水嶺 Continental Divide 上に位置し、標高は3,309m(10,846フィート)だ。富士山の8合目ほどもある高地を、軌間3フィートの軽便鉄道がどうやって越えていたのか。ルートを追ってみよう。

サライダでレッドヴィルへ北上する線路と分かれた本線は、いったん南西へ向かう。ポンチャジャンクション Poncha Junction でモナーク支線 Monarch Branch を、ミアーズジャンクション Mears Junction で南下するヴァレー線 Valley Line(下注)を分けた後、いよいよマーシャル峠への上りにかかる。ミアーズとは、峠に最初の有料馬車道を作ったオットー・ミアーズ Otto Mears の名を取ったものだ。リオグランデはその馬車道を買収して、工事資材の輸送に利用した。

*注 モナーク支線は、最急勾配45‰と2か所のスイッチバックを介してモナーク鉱山へ通じる24.6km(15.3マイル)の支線。ヴァレー線は、ポンチャ峠 Poncha Pass を越え、サンルイス谷 San Luis Valley を一直線に南下してアラモサ Alamosa に至る119.7km(74.4マイル)の路線。

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マーシャル峠東側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Mount Ouray 1980年版、Poncha Pass 1980年版に加筆
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マーシャル峠と西側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Pahlone Peak 1967年版、Mount Ouray 1980年版に加筆

地形図(上図)を見ると、分水嶺へのアプローチはたいへんユニークだ。峠からまだ直線距離で10kmも手前の段階で、ヘアピンカーブを繰り返しながら約300m(900フィート)の高度を上りきり、後はユーレイ山 Mount Ouray の中腹を等高線に従いながら、峠へ近づいていく。先に存在したミアーズの馬車道に沿って線路を敷いたからだとされるが、高所を通る区間が長いため、見晴しのいい路線になった。

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マーシャル峠東側の多重ループ眺望。中央の雪山はユーレイ山、峠はその左奥になる
image from wikimedia

峠の駅マーシャルパスは、分水界の尾根を切り通した急曲線上に設けられた。峠は風の通り道で、冬場はかなりの積雪がある。後に線路は雪囲いですっぽり覆われ、屋根に点々と煙抜きの小窓が開けられた。周辺には小さな集落ができ、合衆国最小と言われる郵便局もあったという。

駅を出るとすぐに本線は、分水嶺の西斜面を降りる長い下り坂に入る。こちらは峠直下の支谷をいくつも巻きながら、東側の半分の距離で一気に下界をめざしている。本線の制限勾配は40‰と険しく、それが麓の谷のチェスター Chester 駅に降り立つまで続いていた。

州道50号線と出会うサージェンツ Sargents から、トミチクリーク Tomichi Creek が流れる谷底平野を50km(31マイル)進むと、ガニソンの町に到達する。ここは同名の郡の中心地で、周辺で開発された鉱山や放牧地からの貨物の集積地として賑わったところだ。リオグランデ線から1年後にはサウスパーク線も開業した(下注)が、両社は地域の覇権を巡って対立し、町民もそれに同調して市街地は二分されたという。

*注 デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)。本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート」も参照。

ガニソンからは先は再び谷が狭まり、やがて東のロイヤル峡谷と並ぶ東西交通の障壁となったガニソンのブラック峡谷 Black Canyon of the Gannison にさしかかる。峡谷には陽がほとんど差し込まず、昼間も薄暗かったために、その名がついた。長さ77km(48マイル)と規模はロイヤル峡谷をはるかにしのぎ、深さも最大600m(2000フィート)ある。

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ブラック峡谷~セロサミット間の現役時代のルート
(上)東半部。中央にクーリカーンティ・ニードル
(下)西半部
USGS 1:125,000地形図 Montrose 1909年版、Uncompahgre 1908年版に加筆

途中、左岸(南側)に突き立つ奇岩クーリカーンティ・ニードル Curecanti Needle(クーリカーンティの針、比高210m)は沿線きっての名勝として知られた。リオグランデの社章にも、その特徴的な形が描かれている。路線が廃止された後の1960~70年代、電源開発の目的で峡谷に一連の大型ダム群(下注)が建設された。ダム湖によって残念ながら廃線跡はほとんど水没し、クーリカーンティ・ニードルも下部が沈んで、神秘性が半減してしまった。

*注 鉄道ルート上に造られたのは、上流からブルーメサダム Blue Mesa Dam(1966年供用)、モローポイントダム Morrow Point Dam(1968年供用)。

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ガニソン川を隔ててクーリカーンティ・ニードルを望む(当時の絵葉書)
image from wikimedia

ブラック峡谷はなおも続くが、本線はシマロン Cimarron 付近で支流シマロン Cimarron River の谷を利用して、脱出を図る。500m遡った地点にその支流を渡っていたトレッスル橋が復元され、一時はその上に列車も展示されていた。狭軌用の278号機関車(軸配置2-8-0)、炭水車、有蓋貨車、カブース(車掌車)と最小編成ながら、現役当時をしのばせるモニュメントだった。

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シマロン川のトレッスル橋に静態展示された列車、2006年撮影
(左)278号機関車 (右)最後尾はカブース
left: Photo by Nationalparks at English Wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
right: Photo from flickr.com

この後、線路は標高2,451mのセロサミット Cerro Summit を再び40‰で越えて、モントローズ Montrose の谷底平野に出る。針路を北西に変え、デルタ Delta からガニソン川 Gunnison River の流路に忠実に沿って、グランドジャンクションへ向かった。

しかし、南回りルートが本線として使われた期間は、7年と短かった。後述のとおり、テネシー峠経由の新線が1890年に標準軌で全通すると、役目を終えてローカル線に転落する。他の線区のように標準軌に改築されることもなく、1949年にまず、セロサミットをはさむ閑散区間(サピネロ Sapinero~セダークリーク Cedar Creek)が廃止されて直通不能になり、1953年にはマーシャル峠を越えていた残り区間もほとんど廃止となった。

地図でも一目瞭然だが、テネシー峠経由のルートは南回りより距離が長い。それにもかかわらず、なぜ本線として遇されるようになったのだろうか。テネシー峠の標高は3,177m(10,424フィート)で、デンヴァーの西方で大陸分水嶺を越える峠の中では最も低い。さらにサミットに至るアプローチが比較的穏やかで、高度に比例して積雪量も少ない。それが列車運行の面で利点と認められたのは確かだが、理由はそれだけではなかった。

この峠を初めて列車が越えたのは1881年だ。ただしそれは、峠の北側で新たに拓かれたレッドクリフ Red Cliff の銀鉱山へ向かうためだった。翌82年には、3.2km(2マイル)先のロッククリーク Rock Creek 鉱山まで延長されている。レッドヴィル周辺では鉱山が次々に開発されており、そのつど貨物線が延ばされた。テネシー峠を越えた路線も、初めはそうした支線の一つに過ぎなかった。

簡易線であった証拠に、ルートも今と異なっている。地形図(下図)に描かれているとおり、峠南麓のクレーンパーク Crane Park から北側のパンド Pando までほとんど別ルートだった。テネシー峠のトンネルも存在せず、サミットを急勾配で昇り降りしていたのだ。

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テネシー峠の初期ルート
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

平凡なローカル支線に転機が訪れるのは、1880年代の後半になってからだ。山向こうのアスペン Aspen で有望な鉱脈が発見されたという情報が知れ渡り、新たなエルドラドを求めて、人々の視線が一斉に西の山中に注がれた。前回紹介したコロラド・ミッドランド鉄道は、ハガーマン峠経由でアスペンとレッドヴィルを直結する新線を計画していた。それに対し、リオグランデはすでにテネシー峠を越えていた上記支線をイーグル川 Eagle River 沿いに延長することで、アスペンに先回りしようと考えた。

まずは3フィート(914mm)軌間のままで、グレンウッドスプリングズ Glenwood Springs を経てアスペンに至る167km(104マイル)の自社線路が1887年10月に完成した。目的地への到達は、ミッドランドより3か月早かった。

続いて、1435mm標準軌のミッドランドに対抗するため、貨物輸送で上がる収益をつぎ込んで、改軌工事にもとりかかる。その際、3フィート狭軌のブルーリヴァー支線 Blue River Branch の列車が直通する区間は、狭軌・標準軌併用の3線軌条とした(下注)。対象となるのは、ロイヤル峡谷を含むプエブロ Pueblo~マルタ Malta 間254km(158マイル)で、東京~浜松間に相当する長大なものだった。この措置は同支線がコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad(サウスパークの後継)に譲渡される1911年まで続けられた。

*注 ブルーリヴァー支線はレッドヴィルから北へ、フリーモント峠 Fremont Pass を越えてディロン Dillon まで延びていた58.3km(36.2マイル)の支線。マルタは、レッドヴィルの7.7km(4.8マイル)手前にある、テネシー峠方面とレッドヴィル方面の分岐駅。

もう一つの課題はテネシー峠だった。西の延長区間は曲線や勾配が標準軌仕様で設計されていたが、峠周辺は簡易線規格のままで、標準軌の列車を通すわけにはいかなかったからだ。1889~90年に分水嶺の下の、旧線より60m(200フィート)低い地点に初代テネシー峠トンネルが穿たれ、前後区間もパンドまで全面的に付け替えられた。なお、このトンネルは1945年に、並行して造られた新トンネルに置き換えられている。

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テネシー峠の改良ルート(赤マーカー)と旧ルート(破線)の関係
USGS 1:100,000地形図 Leadville 1983年版に加筆

一方、グレンウッドスプリングズから西、南回り本線と出会うグランドジャンクションまでの区間は、ミッドランドと線路を共有する協定を結んだ。ハガーマン越えの建設工事で多額の負債を抱えたミッドランドが、単独での全線建設を諦めたからだ。改軌やトンネル掘削を含む一連の改良工事は1890年中に完了し、プエブロからテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る中央山岳地帯の標準軌ルートがつながった。

こうしてリオグランデは、他社との競争という外的要因に刺激されて、初めから意図したわけではないものの、北回りルートを手に入れた。運行距離が多少長くなろうとも、標準軌で全米に直通できるメリットには代えがたい。狭軌のマーシャル峠はたちまち、主役の座を追われることになる。

本線化によって、テネシー峠を経由する貨物の輸送量は年を追うごとに増加していった。峠の西側には30‰勾配が連続する区間があり、坂を上る列車には補助機関車が必要だ。この回送が加わり線路容量が逼迫するようになったため、1903~10年には勾配区間(ディーン Deen ~ミンターン Minturn 間)で複線化工事が行われている。

代替ルートを形成していたミッドランドが1918年に廃止されると、列車はテネシー峠に集中した。ボトルネックを解消すべく、CTCの導入や単線区間に長い待避線を設置するなどの対策が相次いで実施された。運行機能が強化された北回りルートは、ライバル社の挑戦を退けて覇者となったリオグランデの主要幹線として、しばらくの間君臨し続けたのだ。

しかし何事にも盛衰がある。リオグランデが築いた堅固な地盤に、なおも挑む鉄道が現れ、しかも最終的にはこの本線ルートを代替することになろうとは、当時誰も予想しなかったに違いない。詳細は次回

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Colorado Central Magazine  http://cozine.com/
National Park Service - Curecanti National Recreation Area, Colorado
https://www.nps.gov/cure/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

★本ブログ内の関連記事
 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー
 ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道
 ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後
 ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート
 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

2017年10月15日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド

1887年9月、リオグランデやサウスパークに7年遅れて、レッドヴィル Leadville に次の挑戦者が登場する。その名はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)。以下、「ミッドランド」と呼ぶことにしよう。

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ハガーマン峠西側ヘルゲート Hell Gate へのアプローチ
Courtesy, L. Tom Perry Special Collections, Harold B. Lee Library, Brigham Young University, Provo, UT 84602.

この鉄道はどこから来たのだろうか。デンヴァー Denver とプエブロ Pueblo の間にコロラドスプリングズ Colorado Springs という町がある。現在は州でデンヴァーに次ぐ大きな都市に成長しているが、もとはリオグランデが、付近の鉱泉を売りにして1871年から開発を始めた鉄道沿線のリゾートタウンだ。鉄道網ができ、1890年にクリップルクリーク Cripple Creek でコロラド最後のゴールドラッシュが起こると、鉱物資源の集積地として発展する。この町からミッドランドは、サウスパークと同じ峠を越えてレッドヴィルへ、そしてさらに西へと線路を延ばしていった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の路線概略図
赤線がミッドランド、青線がリオグランデ(主要線のみ)

ミッドランドには、前2社とは一線を画すセールスポイントがあった。2社が3フィート(914mm)の狭軌線だったのに対して、最初から4フィート8インチ半(1435mm)の標準軌で建設されたのだ。これは、大陸横断鉄道はもとより国内の主要鉄道網にそのまま車両を乗入れできることを意味する。リオグランデも対抗上、翌1888年にプエブロ~レッドヴィルの競合区間に急いで標準軌の線路を敷いたほど、そのインパクトは強かった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の
絵葉書、1900年ごろ
Photo from wikimedia

中でもブエナビスタ Buena Vista 北方からレッドヴィル西方までの約80kmは、ライバル同士が並走する区間になった。両者の線路は、時にアーカンザス川 Arkansas River をはさんで対岸に、時には全く隣接して敷かれていた。

リオグランデも標準軌にするのだが、完全に軌間を変更してしまうと狭軌車両が直通できなくなる。そこで一部区間では3線軌条方式を採用した。その後、支線の廃止に伴って、コロラド山中の路線は標準軌に統一されていくが、そのきっかけとなったのがミッドランドの参入だったのだ。

さらにミッドランドは1887年に、ブエナビスタまでの区間で定期運行を開始するにあたり、スケネクタディ機関車工場 Schenectady Locomotive Works 製115形3両を含む28両の機関車を投入した。115形は軸配置2-8-0(先輪1輪、動輪4輪)で、「コンソリデーション Consolidation(混載輸送の意)」と呼ばれた当時としては最大級の蒸気機関車だ。荷主たちに輸送力の優位性をアピールする意図があったことは言うまでもない。

では、鉄道がどんなルートを通っていたのか、地図で確かめておこう。幸いレッドヴィル周辺については、各社が競合していた時代の地形図が残っている(下図参照)。ご覧の通り、リオグランデ、ミッドランドとも、山麓の緩斜面に立地するレッドヴィルの町まで谷筋から寄り道する形で線路を設けている。ミッドランドにとってはこれが本線で、アーカンザス川に沿う線路は後から造ったアスペン短絡線 Aspen Short Line と呼ばれるショートカットルートだ(下注)。

*注 下図は1889年版だが刊行は少し後のようで、サウスパークのハイライン High Line(図の右上から降りてくる2本の線路のうちの右側)がすでに後継会社のコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad と注記されている。

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1880年代、レッドヴィルを目指した路線網
赤がミッドランド、青がリオグランデ、緑がコロラド・アンド・サザン(旧サウスパークのハイライン(高地線))
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

さて、ミッドランドがさらに西へ進出するには、どこかで大陸分水嶺を越える必要がある。選ばれたのは、レッドヴィルの西に位置する峠だ。ミッドランドの社長の名からハガーマン峠 Hagerman Pass と呼ばれるようになるが、鉄道通過で注目されるまでは交易ルートからも外れた無名の土地だった。峠の南1.3kmにある鞍部の直下に掘られたトンネルは、長さが659m(2,161フィート)に過ぎない。しかし、線路の最高到達地点は標高3,514m(11,528フィート)で、アルパイントンネルに次ぐ高度になった。当然、そこに至るアプローチは生易しいものではない。

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ハガーマン峠東側の多重ループ
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1915

地形図(下図)に開通当時の状況が描かれているが、峠の東側では、約560mある高度差を稼ぐために4回も折り返しながら最大32.4‰の勾配で上っていく。山麓から3つ目の馬蹄カーブは、谷をまたぐ長さ330mの大規模なトレッスル(下の写真参照)が組まれていて、とりわけ壮観だった。一方、峠の西側は谷底まで900m(3000フィート)以上も下降するため、最大30‰の片勾配が延々32km(20マイル)も続く。西から鉱石などの重量貨物を牽いて上ってくる機関車にとっては、試練の道中だったに違いない。

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ハガーマン峠周辺
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版、Mount Jackson 1909年版に加筆
*注 ハガーマントンネル~アイヴァンホー湖間のルートは誤りで、実際は赤のマーカーで示したように湖の南側の尾根を巻いていた。

分水嶺を驚異のルート設定で克服したミッドランドは、1887年12月にコロラド川本流と出会うグレンウッドスプリングズ Glenwood Springs まで線路を完成させて、分水嶺をまたぐ列車運行を開始した。線路はアスペンジャンクション Aspen Junction(後のバソールト Basalt)で二岐に分かれ、片方は1888年2月に目標としていた鉱山町アスペン Aspen に達した。

もう片方は、コロラド川北岸のライフル Rifle まで自社路線を建設(一部は乗入れ)し、その先をリオグランデと協定を結んで線路を共有することで、1890年9月にユタ州境に近いグランドジャンクション Grand Junction まで開通させた。これによりミッドランドは、ユタ州側の鉄道(リオグランデ・ウェスタン鉄道 Rio Grande Western Railway)と接続を果たし、予定していたソルトレークシティ Salt Lake City へ列車を直通できるようになった(下注)。

*注 ミッドランドは、1890年にリオグランデのかつての敵サンタフェの子会社となり、名称はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railroad に改められた。日本語では区別できないが、旧社名の Railway が Railroad に変わっている。しかし1893年のサンタフェ倒産により、再度独立する。

しかし山越えの線路には、開通直後から問題が発生していた。標高の高い峠道はとりわけ冬の気候が厳しく、雪が6月まで融けきらないこともあった。そのため、湿度の高い状態が長く続き、影響で木製の枕木やトレッスルが早々と腐り始めたのだ。取り換えてもまた同じ繰り返しになることから、抜本的なルート変更が計画された。

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第3馬蹄カーブの大規模な木造トレッスル橋
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-729

より低い位置で峠の下を貫くバスク=アイヴァンホートンネル Busk-Ivanhoe Tunnel がそれだった。長さは旧トンネルの4倍以上の2,863m(9,394フィート)あり、標高は3,338m(10,953フィート)まで落ちる。地図(下図の破線ルート)に示したとおり、ハガーマン峠前後の多重ループを一掃し、距離も1/3以下に短縮する画期的なものだった。不安定な地質に苦しみながら工事は3年がかりで進められ、1893年に開通した。

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旧線ハガーマントンネルと新線バスク=アイヴァンホートンネル(図では破線のルート)の位置関係
USGS 1:24,000地形図 Homestake Reservoir 1970年版、Nast 1970年版、Mount Massive 1967年版、Mount Champion 1960年版に加筆
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ハガーマン峠西側で32km続いていた下り坂(地図はその一部、上図の西側に当たる)
USGS 1:24,000地形図 Nast 1970年版に加筆

ただし、新線での運行が定着するまでには一騒動があった。ミッドランドはすでに巨額の負債を抱えていたため、トンネルは同名の建設会社が完成後も所有し、当面ミッドランドが通行料を支払って運行する形をとった。しかしこれは問題を先送りしたに過ぎず、不況下でミッドランドの経営が行き詰ってくると、料率をめぐる交渉が決裂する。鉄道会社が再建されたとき、新経営陣は放置されていた旧線を急ぎ復旧して、1897年10月から新トンネルの運行契約を破棄するという強硬策に出た。列車の運行は旧線経由に戻された。

ところが運の悪いことに、次の冬(1898~99年)は例年以上に天候不順で、連日嵐が吹き荒れた。1月になると降り積もる雪で、旧線ではスノーシェッド(雪囲い)が倒壊し、線路も埋まってしまった。峠の線路に列車が閉じ込められたが、救援に向かおうとしたロータリーもあまりの豪雪に歯が立たなかった。荒天が収まり線路が開通したのは4月になってからで、不通期間は78日に及んだ。さすがに懲りたミッドランドは建設会社を買収することにより使用料問題を解消し、1899年5月から運行を新線に復帰させたのだった。

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アスペンに入る2本の鉄道
USGS 1:125,000地形図Mount Jackson 1909年版に加筆

ミッドランドは、標準軌や最新車両という武器を引っ提げ、域内輸送のみならず、山地を通過する貨物もリオグランデから奪おうとした。その目論見はどこまで成功したのだろうか。

2社はレッドヴィルに次いで、発展が期待されたアスペンや西方との連絡輸送ルートの確立を競った。路線の開通はほとんど同時期だが、ミッドランドは速達性と輸送力で応分のシェアを獲得した。しかし、リオグランデも1890年には標準軌化を完了させるとともに、待避所の増設や複線化を進め、輸送体制を強化していく。ミッドランドの場合、稼いだ利益は社債の高利息の支払いに消えていき、運転資金は潤沢とは言えなかった。さらに1900年から1901年にかけての資本移動の結果(下注)、ミッドランドはライバルであるリオグランデに半分所有される形になり、もはや競合関係ではなくなってしまった。

*注 1900年にミッドランドの株式をリオグランデ・ウェスタンとコロラド・アンド・サザン Colorado and Southern が取得し、1901年にそのリオグランデ・ウェスタンの株式をリオグランデが取得して経営権を掌握した。

この頃のアメリカは好況期で、沿線では鉱業だけでなく畜産業も盛んになり、貨物輸送は順調に増加した。しかし1908年を境に、経済は不況に転じる。通過貨物はリオグランデだけでも担える量に縮小し、ミッドランドには流れにくくなった。鉱山の閉鎖や生産設備の移転により、域内輸送も減少した。

ところが、第一次世界大戦が始まると、連邦鉄道管理局は、戦時輸送の効率化を図るために、東西の短絡ルートであるミッドランドに列車を集中させるよう指令を出した。突然、膨大な貨物が集中したため、ミッドランドでは運行管理が追い付かず、列車の遅延や貨物の滞留が常態化した。当局はミッドランドが対応できないとみるや指令を撤回し、今度は列車をリオグランデ経由に振り替えた。この混乱で、ミッドランドから通過貨物がまったく消えてしまい、ついに息の根を絶たれることになった。1918年に運行休止の許可が下り、線路は1920年代初めに撤去された。

コロラドの中央山岳地帯における鉄道事業者の争いで、勝ち残ったのはリオグランデだった。もちろん経営権をめぐる複雑な動きも含めた結果ではあるものの、主要河川であるアーカンザス川とコロラド川の自然回廊をいち早く選択するという、先行者ならではの特権も大いに寄与しただろう。この基軸ルートを最大限に活用して、路線網を広範囲に張り巡らせ、それによって地域内と全米各地との移送貨物、さらには大陸を横断する通過貨物も受け入れることができた。

ほかの鉄道は、リオグランデより有利な経路を採ろうとしたものの、連絡運輸をうまく取り込むことができず、多くの場合、地域内輸送を担ったにとどまる。そのため、鉱物資源に多くを依存する地域が不況に陥ると、たちまち収益は悪化し、経営が立ちいかなくなってしまったのだ。

とはいえ、覇者たるリオグランデも、ライバルに対抗するために自社路線のさまざまな拡張や改良を行っている。とりわけ山脈の東西を結んだ2本の主要ルートは、アルパイントンネルやハガーマン峠にも匹敵する北米屈指の山岳鉄道だった。次回はその起源と盛衰に迫ろう。

(2007年1月18日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ハガーマン峠」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
Colorado Midland Railway - A Short History
http://www.willcallhandyman.com/ColoradoMidland/Short_History_Page.html
DRGW.net - The Colorado Midland Railway
http://www.drgw.net/info/ColoradoMidland
William Henry Jackson Collection - Brigham Young University Library
https://lib.byu.edu/collections/william-henry-jackson-collection/

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2017年10月10日 (火)

ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート

銀の都レッドヴィル Leadville に、サンタフェとの鉄道戦争を決着させたリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)が到達したのは1880年のことだ。ところが、リオグランデは狙い通りに町の輸送需要を独占することはできなかった。なぜなら、次のライバルが別の方向からすでに姿を現していたからだ。

ライバルの名は、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P、下注)。以下「サウスパーク」と呼ぶが、リオグランデがロイヤル峡谷の戦いでもたついている間に、着々とコロラドの山中へ駒を進めていた。パシフィック(太平洋)という名が示すとおり、これも西を目指そうとした鉄道だが、軌間は、リオグランデと同じ3フィート(914mm)の狭軌だった。

*注 1872年10月設立時点の社名は Denver, South Park and Pacific Railway。1873年に増資の上、Railway を Railroad に改名して新たに設立された。

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サウスパークを走った機関車
(コロラド州フェアプレー Fairplay, CO のサウスパーク市立博物館 South Park City Museum に展示)
Photo from www.loc.gov http://www.loc.gov/pictures/resource/highsm.33658/

リオグランデが、路線をデンヴァー Denver から南へ延ばすつもりだったことは前々回述べたとおりだ。それでレッドヴィルへ向かう路線も、開通済みのプエブロ Puebloで分岐してアーカンザス川 Arkansas River 沿いに北上するルートをとった。しかしこれをデンヴァー起点で見ると、かなりの遠回りになる。それに対してサウスパークは、デンヴァーから目的地に直行するという点を売りにした(下図参照)。サウスパーク South Park という名称は、途中で横断する高原地帯の名に由来する。

会社設立は1872年という早い時期だ。この時点ではまだシルヴァーブーム(1878年~)が起きてはおらず、したがってレッドヴィルの町も小さかった。例のパイクスピーク・ゴールドラッシュのさなか、1859~60年に礎が築かれたレッドヴィルは、一時はオロ・シティ Oro City(黄金都市の意)と持て囃されながら、砂金が枯渇するとたちまち人口が激減していた。標高3,100mの高地で気候が厳しいこともあって、有望な鉱物資源がない限り、鉄道資本家の興味を引く場所ではなかったのだ。

それでサウスパークの本線は、レッドヴィルに立ち寄ることなく、まっすぐ西へ向かい、まだ見ぬパシフィックをめざそうとした。しかし、1873~76年というのは金本位制のもとで、西部が不況に喘いでいた時代だ。鉄道会社も資金繰りが苦しく、延伸工事はいっこうに捗らなかった。

1878年にいよいよシルヴァーブームが到来すると、コロラド各地で銀の採掘地へ向けた鉄道の建設ラッシュも始まった。その年の初めにはまだデンヴァーから20マイル(32km)のプラット峡谷 Platte Canyon 入口で足踏みしていたサウスパークも、みるみる路線を延ばしていった。鉄道輸送は活気を呈しており、1日当り480ドルの費用で1,200ドルの収入があった。収支係数40の超優良線だったのだ。鉄道は1879年6月にサウスパークの一角にあるコモ Como に達した後、標高2,892mのトラウトクリーク峠 Trout Creek Pass を越え、リオグランデが縄張りとするアーカンザス川の谷へ降りていった。

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デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道の路線概略図
赤線がサウスパーク、青線がリオグランデ(主要線のみ)

こうなると、銀の都へのルートを巡って、両者の間で新たな鉄道戦争が勃発する、と先読みしたいところだが、実際はそうならなかった。なんと両者は手を携えて、レッドヴィルに入ったのだ。サウスパークのレッドヴィル開業は1880年7月2日、リオグランデは7月20日とされ、前者がタッチの差で早いらしいのだが、ターミナルは別でも、そこに至る線路は共同で使っていた。なぜそうなったのか。

実は裏で画策した男がいた。「泥棒男爵」ジェイ・グールド Jay Gould。ロイヤル峡谷戦争に介入し、リオグランデの側に立って、サンタフェの戦意を喪失させたあの男だ(前々回参照)。彼はすでにサウスパークの物言う株主でもあったため、二者が並行路線を持つのは無駄だと考えた。それで、両者がレッドヴィルに到達する1年前の1879年10月に、共同運行協定を結ばせていたのだ。そこにはこう記されている。「調和と相互利益を目的として、リオグランデは、ブエナビスタ Buena Vista からレッドヴィル鉱山地区へ線路を敷設し、サウスパークは同等の運行権を共有する。同様に、サウスパークは、チョーククリーク Chalk Creek 経由ガニソン Gunnison 地内への敷設権が与えられ、リオグランデには同等の運行権が与えられる。」

平たく言えば、両者がそれぞれ相手の路線に乗り入れる権利を有するということだ。サウスパークはこの協定に基づいて、リオグランデの敷いた線路でレッドヴィルに乗入れることができ、同時に、サウスパークが敷く予定の西側区間がガニソンまで共用となる。しかし、これはお互いに不満の残る協定だった。というのも、当該区間で上がる収入も、かかる維持費も両者が折半することになっていたからだ。取扱量の多いリオグランデとしてはドル箱路線の利益をみすみす他者に渡すことになる一方、サウスパークは列車数が少ない割に維持費の負担が重かった。

案の定、協定は開業から4年足らず、1884年2月に破棄されてしまう。それを見越してサウスパークは、レッドヴィルに通じる独自路線の建設を進めていた(下注)。コモで本線から分岐して北上するルートだ。

*注 ジェイ・グールドの支配下にあったサウスパークは、1881年からユニオン・パシフィック鉄道(UP)のサウスパーク線区 South Park Division として扱われるようになったが、本稿では混乱を避けるために前歴と区別せずに記述している。

線路はボレアズ峠 Boreas Pass を越え、ブレッケンリッジ Breckenridge からいったんブルー川 Blue River の谷を下る。その後反転南下して、テンマイルクリーク Tenmile Creek を遡り、フリーモント峠 Fremont Pass 経由でレッドヴィルに至る。「ハイライン High Line(高地線)」と呼ばれたように、標高3500m近い大陸分水嶺を二度も越える名うての山岳路線だった(下注)。この開通によって、レッドヴィルからデンヴァーまでの距離は、リオグランデの446km(277マイル)に対し、243km(151マイル)と著しく短縮された。

*注 ボレアズ峠は標高3,499m(11,481フィート)、フリーモント峠は標高3,450m(11,318フィート)。

ところで、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道を語るなら、本来の設立目的であった西部連絡線のことも外すわけにはいかない。ハイラインの大胆なルート選択にも驚くが、西方ではさらに挑戦的な土木工事が実行に移されていたからだ。

西をめざすサウスパークの当面の目標は、大陸分水嶺を越えた先にあるガニソンの谷だった。その周辺では石炭、石灰石、鉄や貴金属を産出する鉱山が開発を待っていた。峠道にはいくつかの選択肢がある。最も標高が低いのは一番南にあるマーシャル峠 Marshall Pass だが、すでにリオグランデの最初の本線が敷かれていた。次に低い峠はモナーク峠 Monarch Pass で、現在、連邦道50号線が通っている。サウスパークはそのいずれでもなく、ブエナビスタから距離は最短だが、標高はさらに高い峰筋を越えようとした。

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アルパイントンネルを中心とした鉄道路線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆

残念ながらその時代に分水嶺付近の地形図は作られなかったので、1980年代の地形図でルートを確認しておこう。右上のデンヴァー側からPACK TRAIL(登山道)の注記のある小道が左に延びている。これが廃線跡だ。線路は最急40‰の険しい勾配で、サミットをめざしていた。トンネル沢 Tunnel Gulch の南斜面に、標高11,600フィートの注記を伴ってトンネル北口がある。本来の峠道は一つ東にあるウィリアムズ峠 Williams Pass なのだが、鉄道はそれよりも尾根がくびれて、掘削距離が短くて済むこの場所を選んだ。

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アルパイントンネル周辺
USGS 1:24,000地形図 Saint Elmo 1982年版、Cumberland Pass 1982年版、Whitepine 1982年版、Garfield 1982年版に加筆

アルパイントンネル Alpine Tunnel(アルプストンネルの意)と命名されたこのトンネルは、コロラドの大陸分水嶺に穿たれた最初のものだ。標高3,539m(11,612フィート、下注)は、鉄道用としては北アメリカで最も高く、その記録は未だに破られていない。長さはたかだか540m(1,772フィート)と見積もられたので、建設会社は6か月で貫通させるつもりだった。ところが、掘削中に花崗岩の破砕帯に遭遇し、アカスギの支持枠で全長の8割を補強するなど、予期しない難工事となった。結局、完成までに2年近くを要し、1881年12月にようやく開通した。地形図にはトンネルの位置が明瞭に描かれているが、現在はポータルが崩壊して、内部に入ることはできなくなっている。

*注 アルパイントンネルに関するウィキペディア英語版の記事では、トンネルの標高が11,523フィート(3,512m)とされているが、1:24,000地形図記載の標高値から見て、Narrowgauge.org が示す11,612フィートに妥当性がある。 http://narrowgauge.org/alpine-tunnel/html/auto_tour.html

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アルパイントンネル西口、1880年代撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1425

南口からは、地図上の廃線跡が車道の記号になる。もちろん車高の高い四輪駆動車でしか行けないようなオフロードだが。この狭い平底の谷間には、列車運行の中継基地が設けられた。アルパイン駅 Alpine Station と呼ばれて、機関庫、給水タンク、転車台、鉄道員宿舎などが備わっていたが、1906年に火災に遭い、主要な建物は焼失してしまった。最近になって愛好家たちの手で、駅併設の電報局舎や37m(120フィート)の線路、転車台などが復元され、かつての雰囲気が蘇っている。

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現地に復元されたアルパインステーションの施設
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

やがて道は、はるかに広いU字谷の中腹に踊り出る。谷底からの高さは約300m(1,000フィート)ある。車窓には、登山鉄道も顔負けの雄大な山岳風景が開けて、列車の客を魅了したに違いない。降りていく途中にあるザ・パリセーズ The Palisades(絶壁の意)は、そそり立つ断崖の下に石組みで通路を確保した難所で、沿線の名所にもなっていた。谷底に達すると、線路は急曲線のシャーロッドループ Sherrod Loop で方向転換する。現在の車道はループを短絡しており、外側に膨らんだ小道が本来の線路跡だ。また、すぐ下方にあるウッドストック Woodstock 駅は、1884年早春の雪崩で宿舎が壊滅して、13人が命を失うという大きな被害に見舞われた現場になる。

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往時のザ・パリセーズ、1900~1920年撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1373
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現在のザ・パリセーズ(上写真の逆方向を見る)、2006年撮影
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

この後は、ミドルクウォーツクリーク Middle Quartz Creek の右岸の谷壁に沿って、淡々と下っていく。地形図で、山から滑り落ちる谷川を渡る地点にある "Water Tank" の注記は、機関車に補給する水を貯える水槽だ。張り出し尾根を大きく回り込むと、ようやく峠の西麓クォーツ Quartz(すでに廃村)に降り立つことができる。

このアルパイントンネルとアプローチ区間20.9km(13マイル)は、近年「アルパイントンネル歴史地区 Alpine Tunnel Historic District」として保存と復元が進められ、1996年に国の登録歴史地区 National Register of Historic Places に指定されている。

さて、最大の難所の完成で工事は山場を越え、1882年9月にサウスパークの最初の列車がガニソンに到着した。ガニソンからさらに北方のボールドウィン鉱山へ支線が敷かれ、鉱石輸送も始まった。しかし、アルパイントンネルを挟んだ険しい山岳区間は冬場、しばしば猛吹雪に曝され、列車の運行は困難を極めた。年表には、トンネルの一時閉鎖をはじめ、脱線、衝突など、心細げな狭軌鉄道の苦闘の歴史が連綿と綴られている。

サウスパークは、ガニソンを拠点に、オハイオ峠 Ohio Pass を越えて西進するルートの開拓や、西南部のサンファン San Juan 地方への進出を画策するが、新天地はすでにリオグランデに押さえられていて、手の出しようがなかった。全通6年後の1888年、不況のために会社は早くも資金繰りに窮し、ユニオン・パシフィックの管理下で別会社(下注)に引継がれた。さらに1899年には、コロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railway (C&S) に再編される。

*注 デンヴァー・レッドヴィル・アンド・ガニソン鉄道 Denver, Leadville and Gunnison Railway。社名からわかるように、破綻したサウスパークの受け皿会社だった。

1910年11月、トンネルの一部が崩壊してまたも運休となったが、運営会社はもはや復旧する意欲を失っていた。そのままアルパイントンネルを含むブエナビスタ~ガニソン間は、廃止されてしまう。自動車交通が発達すると残る東部区間でも輸送量も漸減していき、1937年ついにほぼ全線が廃止となった。例外的に残された、もとハイライン(高地線)のレッドヴィル~クライマクス Climax 間は1943年に標準軌に改軌され、なおも使われたが、現在は保存鉄道「レッドヴィル・コロラド・アンド・サザン鉄道 Leadville Colorado & Southern Railroad」の観光列車が走るだけになっている。

リオグランデが創始し、サウスパークなどが後を追って、確立されたコロラドの3フィート狭軌王国。次回は、そこに標準軌という新しい風を吹き込んだ挑戦者の話をしたい。

(2007年1月25日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-アルパイントンネル」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Leadville Colorado & Southern Railroad  http://www.leadville-train.com/

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2017年10月 5日 (木)

ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後

鉄道史に残るバトルの舞台となったロイヤル峡谷 Royal Gorge は、アーカンザス川 Arkansas River がロッキー山脈からグレートプレーンズ Great Plains(大平原)に流れ出る直前に通過する地形上の隘路だ。谷は西北西方向に約10km続き、まるで鋭利なナイフで切り裂いたかのように深くて狭い。谷の深さは最高380m、幅は最も狭まるところで底部15m、頂部90mしかないという。

これほどの険しい地形はどうしてできたのだろうか。およそ100万年前、氷河期の直前に、アーカンザス川の流れる方向と交差する軸に沿って、花崗岩の地盤の隆起が始まった。それは断続的かつかなり急速なものだったが、川が水の力で河床を削るペースより速くはない。結果的に流路はその位置に保たれ、周囲が上昇していく中で相対的に谷が刻まれていった(=先行谷)。これがロイヤル峡谷になる。谷の幅は通常、長年の風化作用によって両側へ拡大していくものだが、隆起の発生が比較的最近のために、まだその段階に達しておらず、切り立った断崖が残されているのだ。

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ロイヤル峡谷
Photo by Michael Murphy at flickr.com, License: CC BY-NC-ND 2.0

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ロイヤル峡谷橋周辺
USGS 1:24,000地形図 Royal Gorge 1994年版に加筆

1880年3月に宿敵サンタフェとの間で結んだボストン協定 Treaty of Boston によって、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)はこの峡谷で路線所有権を手に入れた。険しいとは言え川沿いの通路は、隆起した台地を昇り降りするより、はるかに勾配が緩やかで、機関車に多くの荷物を運ばせることができる。峡谷を押さえたことは、コロラドの山岳地帯に路線網を拡げる突破口を得たのも同然だった。

これを梃にリオグランデは、精力的に線路を延ばし続ける。銀の都レッドヴィルはもとより、サライダ Salida で分岐してマーシャル峠 Marshall Pass を経由するルート(南回り線)で、1883年にユタ州ソルトレークシティ Salt Lake City との接続も果たした。ユタ州との連絡路はまもなく北回りのテネシートンネル Tennessee Tunnel 経由に移るが、いずれにしてもロイヤル峡谷は通らねばならず、1930年代までここは常に重要幹線であり続けた。

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1901年のリオグランデ路線図

峡谷に衰退の影が差し始めたのは、1928~34年にモファットトンネル Moffat Tunnel 経由でデンヴァーに直結する新線が完成してからだ。この路線はもともとリオグランデのライバル会社(下注)が、自力でデンヴァーとソルトレークシティを結ぶために建設を進めていた。しかし全通を果たすことなく倒産してしまったため、リオグランデが買収し、自社線に接続替えする工事を実施したのだ。デンヴァーへの距離ではこのほうがかなりの短縮になるため、多くの列車がそちらに回るようになった。

*注 デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway、別稿で詳述予定。

しかし、峡谷ルートの息の根を止めたものはそれではない。まず旅客輸送について言えば、あらゆる鉄道に共通の課題である自動車や航空機との競争だ。1967年7月26日、デンヴァー~サライダ間にわずかに残されていた1日2便の運行が終了して、旅客列車の姿が消えた。片や貨物列車はその後も運行が続いていたが、合併によって路線の所有者となったユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、1996年にコスト削減策の一つとして運行ルートの整理を発表したのだ。最後の営業列車が峡谷を抜けたのは、それから1年も経たない1997年8月23日だった。

かつて経営を支えていた多数の鉱山支線はとうに全廃されており、通過貨物が戻らないなら路線の将来はないと思われた。ところが、ここで新たな道が開ける。それは観光資源としての活用だった。休止の翌年(1998年)、ユニオン・パシフィックは、ロイヤル峡谷を通る約19km(12マイル)の線路の売却について要請を受けた。運営に携わる新会社が地元のキャニョンシティ Cañon City(下注)で設立され、早くも1999年5月に「ロイヤル峡谷ルート鉄道 Royal Gorge Route Railroad」の名称で観光列車の運行が始まった。

*注 旧名 キャノンシティ Canon City。1994年に正式に改称された。

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ロイヤル峡谷ルート鉄道
Photo from wikimedia

走行区間は、キャニョンシティ~パークデール Parkdale 間19km。キャニョンシティのサンタフェ駅 Santa Fe Station で乗り込み、峡谷を通り抜けたパークデールで折り返す、所要2時間(夕刻便は2時間半)のツアーだ。喜ばしいことにこのイベントは人気を呼び、18年経過した現在も継続されている。2017年のスケジュールでは、夏のシーズン(5月27日~10月31日)に毎日3~4本の列車が走り、冬場にもサンタ・エクスプレスなど特別列車の運行がある。

設立当時から在籍する機関車は、かつてリオグランデの長距離列車を牽引していたGM-EMD社製F7形などだが、2012年に同じEMD社のGP40-2形がお目見えし、それ以来これが運行の主力になっているようだ。

客車はヴィスタドーム Vista Dome(展望車)、クラブ Club (1等車)、コーチ Coach(普通車)の区別があり、乗車料金も異なる。中間にはオープンエアカー Open Air car (無蓋車)が1両連結されており、展望車に乗らなくても峡谷の空を仰ぐことが可能だ。これは予約不要で、クラスを問わず出入りできる。また、GP40-2形が先頭につくときは、より魅力的なキャブライド Cab Ride(運転室添乗)という選択肢も用意されている。1列車2名限定で150ドルのプレミアムチケットだが、いい思い出になるのは間違いない。

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オープンエアカーから見る峡谷の風景
Photo from coloradoscenicrails.com

線路はこの区間で終始アーカンザス川の左岸(北側)を通っているが、これほどの峡谷にもかかわらずトンネルが一つもなく、断崖を削って用地を確保しているのには驚かされる。だが、最も狭隘な地点ではそれも難しく、流路の上に張り出す形で長さ53m (175フィート)の橋梁を渡す必要があった。設計者は、川床に橋脚を立てる代わりに、両岸から梁を延ばしてA字形に組み、それでプレートガーダー(鈑桁)の片側を吊るという珍しい形式の橋梁を考案した。ここは開通時から有名なポイントなので、観光列車も必ず停車して、見学の時間を与えてくれる。

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A字梁の吊橋
Photo from coloradoscenicrails.com

もう一つ、大きな吊橋がはるか上空に架かっている。谷を一跨ぎして両岸を結ぶロイヤル峡谷橋 Royal Gorge Bridge だ(下写真。冒頭の俯瞰写真も参照)。長さ384m(1,260フィート)、中央径間268m(880フィート)、水面からの高さはなんと291m(956フィート)もあり、1929年完成以来、米国で最も高い橋のタイトルを保持し続けているという(下注)。

*注 長年、橋の公式の高さは321m(1,053フィート)とされてきたが、現在は上記の値になっている。また、2001年に中国の六広河大橋 Liuguanghe Bridge が完成するまで、72年の間世界一高い橋でもあった。

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谷を一跨ぎするロイヤル峡谷橋
Photo by Hustvedt at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

橋は、一般交通を目的とせず、最初から観光アトラクションを意図して建設されたものだ。地形図で読み取れるように、峡谷の両側には、谷底にいては想像もできないような、なだらかな起伏の高原が広がっている。ここにロイヤル峡谷橋公園 Royal Gorge Bridge and Park という名のテーマパークがあり、橋はその公園区域を連絡する通路、かつアトラクションの一つになっているのだ(下注)。

*注 普通車両までは通行できるが、南口は閉鎖されており、公園への出入りは北口に限定されている。

公園では吊橋の他にも、峡谷のスケールを立体的に体感できるさまざまなライド(乗り物)やアトラクションが開発されてきた。橋の完成後間もない1931年には、峡谷の底に達する3フィート(914mm)軌間のインクライン鉄道 Incline Railway(ケーブルカー)が造られた(下注)。地形図に、破線に添えて INCLINED RR とあるのがそれだ(RRは Railroad の略)。

*注 延長1550フィート、勾配45度(1000‰)、所要時間片道5分半とされる。
最近の写真は次のサイト参照。ページの後半でインクライン鉄道が登場する。
http://highestbridges.com/wiki/index.php?title=Royal_Gorge_Bridge/Page_2

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(左)インクライン鉄道全景(古い絵葉書)
Photo by Boston Public Library at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
(右)インクライン鉄道の谷底駅(1987年)
Photo by Larry D. Moore at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

さらに1950年代には、峡谷のへりにループ式のミニチュア鉄道が設置された(同じく  Miniature Railroad と注記)。1969年には峡谷を渡る空中ケーブルが開通し(同 AERIAL TRAM と注記)、片道は空中ケーブル、片道は徒歩で橋を渡るという周遊コースが可能になった。2003年には峡谷上空へ空中ブランコで飛び出すスカイコースター Skycoaster も登場した。

ところが、観光地として人気を博していたさなかの2013年6月、橋の西側で山火事が発生し、まもなく峡谷両岸に燃え広がった。火は4日間燃え続け、公園の90%を焼き尽くした。客と従業員は全員避難して無事だったが、インクライン鉄道や空中ケーブルを含め公園施設の大半が被害に遭い、当面休園を余儀なくされてしまった。吊橋だけは不幸中の幸いで、踏板の一部を焦がしたにとどまり、躯体に損傷は及ばなかった。

復旧工事が進められた結果、公園は2014年8月に一部再開、2015年5月に峡谷を横断する新しいゴンドラとジップラインが完成して、大規模な再開が実現した。その陰で、インクライン鉄道は、定員が少なく非効率だったこともあり、修復の断念が伝えられている。会社としては、代わりに二人乗りチェアリフトのような、待ち時間を少なくする別のアトラクションの導入を検討しているという。橋とほぼ同じ時を刻んできたユニークな鉄道だったのに、残念なことだ。

話を開拓時代に戻すことにしよう。空前の景気に沸く銀の都レッドヴィル Leadville、その切符を手中にしたリオグランデに対し、サンタフェとはまた別のライバルが別の方向から出現する。それを次回に。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
Royal Gorge Route Railroad  https://royalgorgeroute.com/
Royal Gorge Bridge and Park  http://royalgorgebridge.com/
Highest Bridges.com  http://highestbridges.com/

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