« 2017年8月 | トップページ | 2017年10月 »

2017年9月24日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道

デンヴァー Denver に拠点を置く鉄道会社として、デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG) 、あるいはデンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW、下注) の名はいまだになじみがある。名称が長いので、以下単に「リオグランデ」と呼ぶことにするが、1870年の創設以来、1988年まで実に100年以上も山岳地帯の鉄道輸送で中心的な役割を果たしてきた。

*注 D&RGが経営悪化で政府の管理下に置かれた後、1920年に新たに受け皿会社としてD&RGWが設立され、1921年にD&RGを統合した。

Blog_colorado11
D&RGW 483号機、ニューメキシコ州アズテック Aztec, NM 駅にて、1967年
Photo by Drew Jacksich at wikimedia. License: CC BY 2.0

そのリオグランデが先駆者のデンヴァー・パシフィック Denver Pacific と異なるのは、3フィート(914mm)の狭軌で建設されたという点だ。1830年代から鉄道の建設が始まっていた東部では、当初さまざまな軌間が用いられた。しかし、路線が延長され相互に連絡する段階になると、イギリスと同じように、車両が直通できないという難点が強く認識されていった。大陸横断鉄道の軌間が4フィート8インチ半(1435mm)と法律で明示されたのも、これを教訓にしている(下注)。この軌間はすでに東部で多数派になっていたとはいえ、法制化されたことが事実上の標準軌として全米に普及する契機となった。

*注 いわゆる太平洋鉄道法 Pacific Railroad Acts で、1862年に大陸横断鉄道の建設を促進するために制定。軌間の規定は1863年に追加された条文にある。

大陸横断鉄道と直通することを主目的に挙げるデンヴァー・パシフィックは、当然同じ規格を採用したが、リオグランデはそれを選ばなかった。なぜだろうか。

リオグランデの共同経営者だったハワード・スカイラー Howard Schuyler は、鉱山経営を視察するためにイギリスのウェールズ地方へ行ったことがある。そこで見たのが、スレートを採掘場から港まで運んでいたフェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway だ。約2フィート(正確には1フィート11インチ半、597mm)とたいへん狭い軌間ながら、何ら問題なく使われていた(下注)。

*注 フェスティニオグ鉄道については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I」で詳述している。

Blog_colorado12
フェスティニオグ鉄道タン・ア・ブルフ(タナブルフ)Tan-y-bwlch 駅、1890~1905年ごろ
Photo from wikimedia

狭軌鉄道は線路用地だけでなく曲線半径も小さくできるので、山間のような険しい地形に適している。また、車両や設備がコンパクトな分、比較的安価に導入できる。スカイラーはこうした利点を評価し、標準軌にこだわらず、むしろ最初にこれを採用することで地域の標準規格にすることができると考えた。

ただし、フェスティニオグ鉄道はたかだか20km程度の路線に過ぎない。コロラドでは100km単位の長距離となり、かつ取り扱う貨物量も多くなることが見込まれたため、3フィートに拡げて設計したと言われている。それでも、大陸の人々は狭軌鉄道を実見したことがなく、こんな鉄道では役に立つはずがないと反対したので、準備は見切り発車で進められた。

リオグランデは、その後、コロラドから西のユタ準州にかけての中央山岳地帯に自社路線を張り巡らせていく。しかし不思議なことに、鉄道の名称であるリオグランデは、デンヴァーから1,000kmも南のメキシコ国境へ流れていく川の名で、路線網と流域が重なるのは南部を走る一部の支線に限られる。そう、確かに最初の計画は、現 インターステート25号線に沿うルートでひたすら南下して、リオグランデ川に達するというものだった。最終的には国境を越えて、メキシコシティ Mexico City をめざしていた。だが、遠大な構想が実現することはついになかったのだ。

なぜ、リオグランデはリオグランデに行かなかったのか。その理由は、大きく二つ挙げられる。一つは行く手を阻むライバルが出現したからであり、もう一つは南へ行くよりもっと収益が上がる目標を見つけたからだ。

そのライバルというのは、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway (AT&SF、下注)。これも名称が長いので「サンタフェ」と略することにするが、カンザス州アッチソン Atchison を起点に、西へ向けて建設が進められてきた路線だ。同じように南部の開発利益を狙っていて、早晩利害の対立が表面化するのは明白だった。

*注 アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道は1859年設立。サンタフェ Santa Fe はニューメキシコ州の州都だが、路線は最終的に西海岸のロサンゼルス Los Angeles やサンフランシスコ San Francisco に達し、南回りの大陸横断鉄道を実現した。1995年にバーリントン・ノーザン鉄道 Burlington Northern Railroad と合併し、現在はBNSF鉄道 BNSF Railway になっている。

アメリカ19世紀の交通史には、「鉄道戦争 Railroad Wars」という用語がしばしば登場する。連邦政府や州政府の援助を得てはいてもすべて私設鉄道として計画されるため、ときにルートが競合して争いになる。通常は訴訟が起こされ、法廷闘争のなかで決着を見るのだが、中にはこじれて本物の武力抗争に発展することがあった。というのも19世紀後半の西部は、映画のジャンルで一世を風靡したあの西部劇の舞台であり、たとえば「荒野の決闘」に出てくるような保安官やならず者が実際に生きていた時代なのだ。

リオグランデとサンタフェがぶつかったのは、コロラドとニューメキシコの州境に位置するラトン峠 Raton Pass(下注)だった。両者ともすでに峠の北麓のトリニダード Trinidad まで路線を延ばしてきており、さらに南へ進出するにはどうしてもこの峠を越える必要があった。

*注 ラトン峠は標高2,388m、西部開拓ルートのサンタフェ・トレール Santa Fe Trail が通る。ラトン Ratón はスペイン語で鼠を意味する。

Blog_colorado_map4
同じ南部の開発を狙うリオグランデ(図の赤線)とサンタフェ(黒線)のルートがラトン峠 Raton Passでぶつかる
image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)

1878年12月、双方が拳銃使いや保安官を雇って激しくにらみ合った。サンタフェの社長W・B・ストロング W. B. Strong は、リオグランデのW・J・パーマー W. J. Palmer 将軍に対し、峠の上でこう言い放ったとされる。「最初にここに着いたのはわれわれだ。この仕事の邪魔をする奴は誰でも、眉間に弾丸(たま)を受けるのを覚悟しろ!」

結局この争いは、資本規模で劣るリオグランデが引き下がったため、サンタフェがラトン峠を獲ることに成功した。しかし戦争はそれで終わらなかった。リオグランデが南へ行かなかったもう一つの理由、収益の期待できる目標が絡んできたからだ。

前年(1877年)、コロラド山中のレッドヴィル Leadville で有望な銀の鉱脈が発見されていた。さらに、1878年2月にブランド=アリソン法 Bland-Allison Act が施行され(下注)、金本位制に替えて金と銀の複本位制が復活した。これは、連邦政府が一定量の銀を買上げ、ドル銀貨に鋳造して流通させる制度で、政府による銀の買い支えだ。たちまち銀価格が吊り上がり、ゴールドラッシュならぬ銀の採掘ブーム、いわゆるシルヴァーブーム Silver boom が巻き起こる。一旗揚げようとする男たちが我先にレッドヴィルへ殺到し、膨れ上がる人口で小さな入植地は、数年のうちにデンヴァーに次ぐ大きな町になった。

*注 1873年から金本位制が採用されていたが、それに伴う銀価格の下落で打撃を受けた西部の採鉱関係者は議会での巻き返しを図っていた。ブランド=アリソン法の成立はその成果だった。

Blog_colorado13
1882年のレッドヴィル鳥瞰図、鉱脈発見から5年で大きな町に
Image from www.loc.gov https://www.loc.gov/resource/g4314l.pm000720/

当然、大きな需要が生じるのを見越して、鉄道を敷こうという動きが出てくる。レッドヴィルはアーカンザス川 Arkansas River(下注1)の最上流、標高10,152フィート(3,094m)の高地に位置している。当時、リオグランデの路線は180km下流のキャノンシティ Canon City(下注2)に、サンタフェはさらに下流50kmのプエブロ Pueblo に達していた。

*注1 アーカンザス川は、レッドヴィル近くの大陸分水嶺に源をもち、本流というべきミズーリ川 Missouri River を別とすると、ミシシッピ川 Mississippi River の最も長い支流。
*注2 市名は1994年に、スペイン語に由来するキャニョンシティ Cañon City に変更されたが、本稿ではそれ以前の旧称を使用する。

両者揃って並行路線を敷ければ何の問題もなかったのだが、キャノンシティの西には、ロイヤル峡谷 Royal Gorge という稀に見る難所が横たわっている。川が花崗岩の高原を切り刻み、最高380mもある断崖が長さ16kmにわたって続く大峡谷だ(下注)。谷底の最狭部は15mほどの幅しかないクレバスのような隘路で、到底、鉄道を2本も建設する余地はない。

Blog_colorado14
ロイヤル峡谷の最狭部を
通過するリオグランデの線路
© Denver Public Library 2017, Digital Collections P-448

サンタフェは1878年4月に、この難所で線路敷設のための測量調査を始めた。連絡もなしに自分の縄張りに杭を打たれたリオグランデが黙っているはずがない。すぐに現場へ駆けつけるものの、サンタフェ側の妨害に遭って撤退させられてしまう。ラトン峠でぶつかる以前に、もう一つの鉄道戦争、いわゆるロイヤル峡谷戦争 Royal Gorge War の種がすでに蒔かれていたのだ。

サンタフェは裁判所にリオグランデを訴えた。主張が通って、リオグランデに対して妨害行為の差止め命令が出されたが、それに耳を貸すようなリオグランデではない。現場に岩を落としたり、測量器具を川に捨てたりと、なおも作業を妨害し続けたため、サンタフェは警備のために強力な助っ人を雇う。

呼び寄せられたのは、フォード郡の保安官だったバット・マスターソン Bat Masterson 。彼は、ドク・ホリデイ Doc Holliday の力を借りて人を集め、リオグランデの駅施設を次々に襲って、占拠する。リオグランデも反撃に出た。ガンマンの一団を雇って駅に付属する電報局の裏窓から奇襲攻撃をかけ、州政府の兵器庫から借りた大砲で威嚇して、機関庫の奪回に成功する。

*注 蛇足ながら、ドク・ホリデイといえば、保安官ワイアット・アープ Wyatt Earp とともに「OK牧場の決闘」で闘った命知らずのガンマン。他にも、「汚れた」デーヴ・ラダボー "Dirty" Dave Rudabaugh、「謎の」デーヴ・マザー "Mysterious" Dave Matherといった派手な名を持つ拳銃使いがいた。

並行して進めていた法廷闘争では、1879年4月、リオグランデに峡谷に鉄道を建設する権利を認める決定が下された。こうしてリオグランデはとりあえず戦争に勝利したのだが、二者の抗争はその後泥沼化していく。サンタフェは豊富な資金力にものを言わせて、リオグランデの既存路線と競合する路線を造ると発表した。これに怖れをなしたのがリオグランデに出資していた資本家たちで、会社を潰されては元も子もないと、サンタフェに通行権を与えるよう圧力をかけた。

思惑通りに30年間の通行権を得たサンタフェは、すぐさま次の手を打った。カンザス州の荷主を優遇して、運賃のダンピングを始めたのだ。これはサンタフェと、その支持者であるデンヴァーの商人にとって、大きな打撃となった。リオグランデが法廷に申し立てた通行権契約の破棄が認められると、堰を切ったように双方の抗争が再燃する。実弾が飛び交い、駅や機関庫が襲われ、ついに死者も出た。

不毛の闘いに終止符が打たれたのは、連邦裁判所の介入と、大資本家ジェイ・グールド Jay Gould(下注)がリオグランデに加担したことによる。彼はあくどい手口で鉄道を買収していくので「泥棒男爵 robber baron」の一人とされる人物だが、すでにリオグランデの大株主になっていて、手を引かなければサンタフェの競合路線を造ると脅しをかけた。サンタフェは、これで最終的に諦めた。

*注 ジェイ(ジェイソン)・グールドはアメリカ鉄道王の一人で、1880年に全米の鉄道路線の1/9に当たる1万マイル(16,000km)を支配下に収めていた。

1880年3月に、すべての訴訟に決着をつけるボストン協定 Treaty of Boston が結ばれた。それによれば、リオグランデは、ニューメキシコのエスパニョーラ Española(下注)から南に鉄道を建設せず、サンタフェは今後10年間、リオグランデの本拠地であるデンヴァー、レッドヴィルのいずれにも鉄道を延ばさない。また、サンタフェがすでにロイヤル峡谷に建設を進めていた線路は、リオグランデが180万ドルで買い取ることとされた。これが、リオグランデがリオグランデに行かず、西に路線網を張り巡らすことになった決定的な理由だ。

*注 エスパニョーラは、同州サンタフェ市の北40kmにある町。サンタフェ鉄道はラトン峠経由で、サンタフェ市以南にすでに路線を持っていた。

アメリカ鉄道史に残るロイヤル峡谷戦争は、こうして幕を閉じた。リオグランデは協定どおりロイヤル峡谷の線路を獲得し、1880年5月にサライダ Salida、同年7月に念願のレッドヴィルに到達した。

Blog_colorado15
ロイヤル峡谷を行く保存観光列車(ロイヤル峡谷ルート鉄道)
Photo by Markgreksa at wikimedia.

さてその後、ロイヤル峡谷はどうなったのだろうか。まずはリオグランデが思い描いたとおりの華やかな幹線時代が始まるのだが、しかしそれは永遠に続くものではなかった。次回は、峡谷ルートの盛衰とその後の展開を追ってみたい。

(2007年3月8日付「ロイヤル峡谷の鉄道 I」、同3月15日付「ロイヤル峡谷の鉄道 II」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
New Mexico History Museum  http://www.nmhistorymuseum.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

★本ブログ内の関連記事
 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー
 ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後
 ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート
 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I

2017年9月17日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー

Blog_colorado1
最初の大陸横断鉄道開通75周年
の記念切手
image from wikimedia

北アメリカで最初の大陸横断鉄道が開通した1869年5月10日は、全米が祝賀ムードに酔いしれたと言われる。しかし、所詮それは1本の道に過ぎない。鉄道が通った町が人と荷物の集散地になって繁栄を謳歌する一方で、ルートから外れてしまった多数の町は賑わいを奪われ、寂れていくのを座して待つしかなかった。現在、コロラド州の州都になっているデンヴァー Denver も、当時はそうした不運な町の一つだった。

ところがそのわずか20年後には、背後のロッキー山脈 Rocky Mountains を越えて密度の高い鉄道網が出現し、その中心に、急速な発展を成し遂げたデンヴァーの町があった。いったいこの間に何が起きたのだろうか。その原因に迫るために、19世紀後半から20世紀前半における代表的なコロラドの開拓鉄道を4つ(下注)選び、その歴史と特徴を、地形図とともに追ってみることにしよう。

*注 デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG)、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)、コロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)、デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway (DN&P)。

1869年5月10日、最初の大陸横断鉄道の開通式のようすを描いた一枚の絵がある(下図)。開通の宣言は、今のようなテープカットではなく、犬釘を打ち込む儀式をもって行われた。特別誂えの月桂樹の枕木に、代表者が銀のハンマーで黄金製の犬釘(下注)を打ち込み、レールを固定するのだ。「最後の犬釘を打ち込む driving the last spike」という言い回しは、鉄道の開通と同義語になっている。もちろんこんな高価なものを無人の平原に放っておくわけにはいかないので、式の後、通常の犬釘と枕木に差し替えられた。本物は今もスタンフォード大学の博物館に保存されている。

*注 ゴールデンスパイク Golden spike と言うものの、実際は金73%、銅27%の合金製。

Blog_colorado2
トーマス・ヒル Thomas Hill 画「最後の犬釘 The Last Spike」
プロモントリー・サミットにおける大陸横断鉄道の開通式の様子を描いた油彩画
California State Railroad Museum Collection, image from wikimedia

大陸横断鉄道は、東側からネブラスカ州オマハ Omaha を起点にユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、西側からカリフォルニア州サクラメント Sacramento を起点にセントラル・パシフィック鉄道 Central Pacific Railroad が、それぞれ建設を進めていった。私鉄の形をとるとはいえこれは国を挙げての大事業であり、連邦政府から手厚い支援を受けていた。用地は線路だけでなく、付属地として線路1マイルにつき10平方マイル(1.6kmにつき26平方キロ)が無償供与され(下注)、建設費用も、国債の発行により調達された補助金が支給された。それで両社は、できるだけ自社の運行区間を長くしようとして大いに競い合った。

*注 ランド・グラント Land grant という。鉄道会社は獲得した広大な土地に入植者を募り、農産物や生活必需品など輸送需要の喚起を目論んだ。

開通式が挙行されたのは、両鉄道の接続点となったユタ州(下注1)のプロモントリー・サミット Promontory Summit という場所だ。グレートソルト湖 Great Salt Lake の北岸に位置するが、前後区間が1904年に湖上を横断する新線(下注2)に置換えられて廃止されたため、今は史跡として残されている。

*注1 開通当時はユタ準州 Utah Territory で、1896年に州 State に昇格した。
*注2 このルーシン短絡線 Lucin Cutoff は当初トレッスル橋で建設されたが、1950年代に築堤に移された。

路線延長競争の結果は、東側のユニオン・パシフィックが1,087マイル(1,749km)、西側のセントラル・パシフィックは690マイル(1,110km)と、かなりの差が生じた。前者は中央大平原を行く区間が長く、技術的に建設が容易だったのに対し、後者は険しいシエラネバダ山脈 Sierra Nevada を越えるのに難工事を強いられたためだ。

Blog_colorado_map3
青線が、デンヴァーを通らなかった最初の大陸横断鉄道のルート
赤線は、後に完成したデンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックのルート
map image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)

上図は、その大陸横断鉄道の路線図だ。ルートの宿命として、北米大陸の背骨を成すロッキー山脈をどこかで横断しなければならず、そのピークが太平洋斜面と大西洋斜面を分ける大陸分水界 Continental Divide になっている、とふつうは思う。ところが、意外にも分水界と交差する場所は、峨々たる山脈どころか、大分水嶺盆地 Great Divide Basin と呼ばれる広大な高原地帯の真っただ中にある(下注)。地形的に通しやすい場所を選んだ結果だが、このために鉄道は盆地の入口であるワイオミング州シャイアン Cheyenne を経由し、その約100マイル(160km)南にあるデンヴァーはルートから外れてしまった。

*注 ワイオミング州ローリンズ Rawlins とロックスプリングズ Rock Springs の中間、ロビンソン Robinson 信号所のすぐ東で大陸分水界と交差する。

シャイアンと違ってデンヴァーの背後には、鉄路の行く手を阻む大山脈がそびえている。この地域で標高14,000フィート(メートルに直すと4,267m)を超えるピークをコロラド・フォーティナーズ Colorado 14ers と呼ぶが、その数は全部で53峰。アラスカを除けば、合衆国の高山ベスト10のうち7つがこの一帯にあるというほどの山岳地帯だ。

Blog_colorado3
コロラド・フォーティナーズの最高峰エルバート山 Mt. Elbert
手前はツインレイク Twin Lakes
Photo by David Herrera at wikimedia. License: CC BY 2.0

では、なぜこんな場所に町ができたのだろうか。きっかけは1858年、コロラド山中のパイクスピーク Pike's Peak で発見された砂金だ。瞬く間にゴールドラッシュが巻き起こり、「何が何でもパイクスピークを目指せ! Pike's Peak or Bust!(下注)」を合言葉に10万もの人が殺到した。このとき交易の中心となったのが、山麓に位置していたデンヴァーだった。

*注 原文の "or Bust" は是が非でもという慣用表現だが、同時にPeak(絶頂、頂点)とBust(破産)の対比を掛けている。

しかし、ゴールドラッシュの狂騒は3年しか持たなかった。さらに、1861年に成立したコロラド準州の州都の地位を近隣のゴールデン Golden に奪われ、鉄道も通らないと確定したことで、新興のデンヴァー市民は町の将来を危ぶんだ。実際に北方で鉄道が着工されると活気が消え失せ、ユニオン・パシフィックの幹部はそのさまを見て、「墓場よりも寂れている too dead to bury」とさえ形容したといわれる。

苦境を挽回するために準州知事ジョン・エヴァンズ John Evans が打ち出したのは、独自の鉄道会社を起こして町に線路を引込むという構想だった。彼は「鉄道のないコロラドなど大した価値はない」と宣言していた。彼や地元実業家の奔走により、1867年11月に「デンヴァー・パシフィック鉄道・電信会社 Denver Pacific Railway and Telegraph Company」が設立される。奇しくも、大陸横断鉄道のシャイアン到達とほぼ同時だった。

ところで、西部の鉄道は「パシフィック(太平洋)」という名を冠したものが多い。デンヴァー・パシフィックなどは高々100マイル程度の地方路線に過ぎず、僭称の域を出ないのだが、これは当時の鉄道事業者のいわば合言葉だ。自力で太平洋まで進出できなくとも、大陸横断鉄道と接続すれば、線路は太平洋までつながる。パシフィックが意味するものは黄金郷にも似て、その目的を前面に打ち出すことで投資家を誘うことができたのだ。

とはいっても、デンヴァーはまだ若い町で、資本の蓄積は十分でない。会社は立ち上がったものの、工事を始めるために必要な資金の調達は一向に捗らなかった。知事は町ぐるみの事業として、富裕層に投資を呼びかける一方、中産・下層階級には少額の寄付か、でなければ労働力の提供を求めた。それでも一時は、計画が頓挫の危機に立たされた。

ちょうどそのころ、東隣のカンザス州で、西へ路線を延ばそうとしている鉄道があった。カンザスシティ Kansas City を起点にするカンザス・パシフィック鉄道 Kansas Pacific Railway だ。これとの接続を図るとして連邦政府から土地の無償払下げを受けることに成功した会社は、その土地の売却と、一部は担保にして融資を受けることで、ようやく建設費用を捻出することができた(下注)。

*注 カンザス・パシフィックは、大陸横断鉄道の南の支線という位置付けで、太平洋鉄道法に基づき設立されており、ランド・グラントの対象になっていた。

デンヴァー・パシフィックは1868年5月に起工式を行い、2年後の1870年6月に予定のデンヴァー~シャイアン間が完成して、開通式が挙行された。初めて通じたこの鉄道により、ついに町は大陸横断鉄道と接続するという念願を叶えた。2か月後の8月にはカンザス・パシフィックも町に到達したので、この年、一気に北と東へ列車が走るようになり、苛酷な駅馬車の旅を過去のものにした(下注)。

*注 その後、デンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックは、1880年1月に大陸横断鉄道のユニオン・パシフィックに合併される。

Blog_colorado4
1870年代のデンヴァー駅
(c) Denver Public Library 2017, Digital Collections Z-169

以上が、デンヴァーにおける鉄道発達史の第1幕だ。続く第2幕は、残された南のフロンティアをめざした鉄道が主役になる。次回、そのデンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の動きと、それを牽制しようとするライバルとの確執について話を進めよう。

(2007年1月11日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-序章」を全面改稿)

本稿は、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Colorado Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/

★本ブログ内の関連記事
 ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道
 ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後
 ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート
 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

 カナディアンロッキーを越えた鉄道-序章
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要
 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-トゥーンバ付近

2017年9月10日 (日)

スロベニア 消える湖、消える川

スロベニアの南西部、クラス Kras(ドイツ語でカルスト Karst)と呼ばれる地域には、地形用語の本場にふさわしい石灰岩台地が横たわる。地中には長い歳月をかけて造られた洞穴が網目のように張り巡らされていて、世界遺産のシュコツィアン Škocjan や、トロッコ列車が走るポストイナ Postojna(下注)などの大規模鍾乳洞は、観光地としても有名だ。

*注 ポストイナの洞内軌道については、本ブログ「ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車」参照。

Blog_postojna11
ポストイナ鍾乳洞前のピウカ川
image from www.slovenia.info

こうした地下洞をうがってきたのが、台地に降った雨水を流す河川であることはいうまでもない。たとえばポストイナ盆地 Postojnska kotlina / Postojna Basin の水はピウカ川 Pivka に集まる(下図参照)。地形用語でポリエ Polje と呼ばれるこの溶蝕盆地は、砂岩と頁岩が互層になったフリッシュ Flysch で床張りされている。フリッシュは不透水性のため、川は盆地の平たい地表面を蛇行しながら流れる。

しかしその周囲は、石灰岩やドロマイトといった水溶性の岩石で覆われた山地だ(下注1)。そこで川は山際まで来ると、岩の隙間に浸み込み、徐々に溶かして地中に通路を拡げていく。ポストイナ鍾乳洞 Postojnska jama / Postojna Cave(下図では青の円内)もそのようにして生成された(下注2)。

*注1 石灰岩の主成分は炭酸カルシウムでそれ自体は水に溶けないが、二酸化炭素を含んだ水に触れることで水溶性の炭酸水素カルシウムに変化する。
*注2 なお、トロッコの線路が敷かれているのは水流の絶えた古い通路で、現在のピウカ川はそれより西側の通路を流れている。

Blog_postojna_map12
ポストイナ付近の1:50,000地形図
青の円内がピウカ川 Pivka の吸込み口であるポストイナ鍾乳洞
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ではこの後、川はどこへ行くのだろうか。ポストイナの町から街道を北へたどってみよう。ポストイナ門 Postojnska vrata / Postojna Gate と呼ばれるなだらかな峠を越えると、道はヘアピンカーブを繰り返しながら山を降りていく。坂下にあるのがプラニーナ Planina という小さな村だ。村の奥、高さ65mの断崖の直下に水の湧出口がある。ここで地中から出た川は、同じようなポリエの盆地、プラニーナ・ポリエ Planinsko polje / Planina Polje の中をゆったりと流れていく。

プラニーナ村の湧出口はプラニーナ鍾乳洞 Planinska jama / Planina Cave(下注)と呼ばれている。この洞穴が興味深いのは、500メートル奥で主要地下河川の合流が見られることだ。一つはポストイナから北流してきたピウカ川、もう一つは東から流れてくるラーク川 Rak River で、地下での合流としては、水量的にヨーロッパで最大級だという。

*注 かつては、湧出口近くにある古い小城にちなんで、小城鍾乳洞 Malograjska jama / Little Castle Cave とも呼ばれていた。

Blog_postojna12
プラニーナ鍾乳洞入口。ウニツァ川が勢いよく流れ出る
Photo by Doremo at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

そしてこのラーク川は、ピウカ川にもまして、何度も地下に消える川として知られている。地表に現れるたびに名前が変わることから、「7つの名を持つ川」の異名もある。

本流の水源は、スロベニアのカルストでは最も高い大スネジュニク山 Veliki Snežnik(標高1796m、下図右下)の麓に湧き出る泉だ。この山が属するディナル・アルプス Dinaric Alps は、バルカン半島を北西から南東に走っているが、その北側に、山脈に並行して大小のポリエの列が見られる。川はこのポリエ群を貫通しながら流れ下る。

Blog_postojna_map11
「7つの名を持つ川」リュブリャニツァ川の流路
ポリエ Polje(溶蝕盆地)で地表に現れては地下に潜るのを繰り返す
背景のレリーフは Geopedia.si より取得。(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

まず、クロアチア国境のバブノ・ポリエ Babno polje(標高750~770m)で、川はトルブホヴィツァ Trbuhovica の名を与えられる(下注)。地下を通って次のロジュ谷 Loška dolina / Lož Valley(標高約580m)に出ると、オブルフ川 Obrh と呼ばれる。また地下に浸み込み、ツェルクニツァ・ポリエ Cerkniško Polje / Cerknica Polje(標高約550m)に現れてからは、ストルジェン川 Stržen になる。

*注 この項は "Karst of Notranjska", Geodetski zavod Slovenije, 1996による。地形図には記載されていない。

Blog_postojna_map13
ツェルクニツァ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内がストルジェン川 Stržen の湧出し口、青の円内が吸込み口
「消える湖」ツェルクニツァ湖は湿原記号で描かれる。ポリエの周縁には他にも湧水(濃い青円の記号)が多数見られる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ストルジェン川の名は知らなくても、川の流域にある「消える湖」ツェルクニツァ湖 Cerkniško jezero / Lake Cerknica の名は耳にしたことがあるかもしれない。平均で26~28平方km、満水時には38平方kmと面積は同国最大で、ウィンドサーフィンなどさまざまなウォータースポーツの場を提供する湖だ。ところが、夏の渇水期には完全に干上がってしまい、湖底はたちまち草に覆われて牛たちの放牧地に変貌する。秋に激しい雨が降ると、わずか一日のうちに水が戻り、湖が再現される。

これが毎年繰り返されることから、ツェルクニツァ湖はヨーロッパ最大の間欠湖と言われる。湖面の変動が大きいため、地形図には水涯線が描かれず、Cerkniško jezero の名称と、蛇行する川の周囲に湿地の記号が広がるばかりだ。

Blog_postojna13
ツェルクニツァ湖の眺め
Photo by ModriDirkac at wikimedia. License: CC0 1.0

なぜこのような現象が起きるのだろうか。湖はポリエの南半分に位置する。そして、カルスト台地の地下にある洞穴の貯水池と、多数の開口部を通してつながっている。このいくつかは周囲の山の下にあって湖面より水位が高く、ほかのものは湖面より水位が低い。夏、流入量が少ないとき、水はより低水位の地下洞貯水池に排水されてしまい、湖には残らない。秋に雨が降ると、周囲のより高所にある貯水池が満水になり、地下通路を通じて湖へ水が回る。こうして湖は急速に水量を回復するのだ。

かつて村人たちは、湖を干拓して恒久的な農地に変えようとした。逆に土木技師は、貯水池に整備して産業開発に生かそうと考えた。しかし、カルストの地下構造との連動を完全に断ち切ることは不可能で、これまでいかなる制御の試みも成功したことがないという。

Blog_postojna14
秋、ツェルクニツァ湖に水が戻る
image from www.slovenia.info

川の追跡に戻ろう。ツェルクニツァ・ポリエの後、川は一度だけ地下から峡谷の底に顔を出す。名勝として知られ、同国で最も歴史ある風景公園のラーク・シュコツィアン Rakov Škocjan / Rak Škocjan だ。

*注 ディヴァーチャ Divača の近くにある世界遺産のシュコツィアン鍾乳洞 Škocjanske jame / Škocjan Caves とは別。シュコツィアンは聖カンティアヌスの縮約形で、これを守護聖人とする村(教会)の名として他にも例がある。

Blog_postojna_map14
ラーク・シュコツィアン付近の1:50,000地形図
ラーク川 Rak は青の円内でのみ地表に現れる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

峡谷は、鍾乳洞の天井の崩落によって生じたもので、長さは2.5km、切り立った断崖に囲まれる「出口のない」谷だ。中でも、42mの高さがある小天然橋 Mali naravni most / Little Natural Bridge、同じく37mの大天然橋 Veliki naravni most / Big Natural Bridge の、2か所の天然橋(下注)が見ものだ。特に後者では、上を地方道さえ通過している。この峡谷を通る間、川はラーク川 Rak と称し、再度地中に潜った後、先述のプラニーナ洞の中で合流してピウカ川になるのだ。

*注 天然橋(ナチュラルブリッジ)は、岩が川の上にアーチ状にまたがる自然の造形。

Blog_postojna15
ラーク・シュコツィアンの小天然橋。橋の上部は川から42mの高さ
image on the left by Zairon at wikimedia, License: CC BY-SA 4.0. image on the right from www.slovenia.info
Blog_postojna16
大天然橋は川のトンネル
Photo by Umberto Vesco at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

さて、これでプラニーナ・ポリエ(標高440~450m)まで戻ってきた。湧出口を出た川は、今度はウニツァ川 Unica(またはウーネツ川 Unec)と名前を変える。そして豊かになった水量を持て余すようにひどく蛇行しながら、ポリエの中を横断していく。北西端まで達すると、鋭角に曲がって東を向くが、地形図で涸れ川の記号が使われているように、いくらかの水は途中、山地の際に寄ったところで地中に吸い込まれてしまうようだ。

Blog_postojna_map15
プラニーナ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内が湧出し口=プラニーナ鍾乳洞、青の円内が吸込み口だが、
ウニツァ川 Unica はその手前から涸れ川記号で描かれている
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

出現と潜伏の繰り返しにも、いつか終わりが来る。リュブリャーナ盆地南東隅のヴルフニカ Vrhnika という町(標高290m)の周辺で、川はいくつもの湧水に分かれた形で、最終的に地表に現れる(下図)。

Blog_postojna_map16
ブルフニカ付近の1:50,000地形図
左の円内がモチルニク Močilnikとトヴィエ Retovje、右の円内がビストラ Bistra
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ヴルフニカの主要な湧出口は3か所ある。一つはモチルニク Močilnik で、高さ40mの石灰岩の崖、悪魔の断崖 Hudičeve skale / Devil’s Cliffs の直下だ。ギリシャ神話によれば、英雄イアソンとアルゴー号乗組員 Jason and the Argonauts は、金の羊毛皮を求めて川を遡行してきた。ところが、ここで地上の川が消失したため、行く手を阻まれてしまった。イアソンは怒り狂って拳で岩を叩いたので、その跡が今も残っているという。乗組員たちはやむなく船を分解し、部材を肩に担いでアドリア海まで運んだのだそうだ。

二つ目は、最も湧水量の多いレトヴィエ Retovje で、とりわけ大水門 Veliko okence と呼ばれる湧水は、水面がむくむくと盛り上がるほど勢いよく湧きあがり、迫力満点だ。三つ目は、ヴルフニカとボロウニツァ Borovnica の中間にあるビストラ Bistra で、修道院と古城の脇を泉から流れ出た小川が巡っている。

Blog_postojna17
(左)レトヴィエの湧出し口の一つ、大水門 (右)ビストラの湧出し口
image on the left  by Savinjc at Slovenian Wikipedia. License: CC BY-SA 3.0. image on the right by Mihael Grmek at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

これらの川はまもなく盆地の中央に集まり、7番目の名であるリュブリャニツァ川 Ljubljanica となって、首都リュブリャーナへ流れ下る。イアソンの時代は一面芦が生い茂る湿原だったはずだが、今は排水が進み、行く手に見渡す限りの農地が広がっている。

Blog_postojna18
農地化された湿原をリュブリャニツァ川は流れ下る
image from www.slovenia.info

(2006年3月18日付「スロベニア 何度も消える川」を全面改稿)

本稿は、Tourist map " Karst of Notranjska " Geodetski zavod Slovenije, 1995、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/
ヴルフニカ市観光案内 http://www.visitvrhnika.si/

★本ブログ内の関連記事
 ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

2017年9月 3日 (日)

ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

中欧スロベニアの南西部からアドリア海の間には、石灰岩やドロマイトなど水溶性の岩石が造り出す複雑怪奇な地形が横たわる。カルスト地形というよく知られた用語は、スロベニア語でクラス Kras と呼ばれるこの地方のドイツ語名称を借りたものだ(下注)。

*注 クラスはドイツ語でカルスト Karst、イタリア語ではカルソ Carso になる。

Blog_postojna1
トロッコ列車が地中の「コンサートホール」を駆け抜ける
image from www.slovenia.info

首都リュブリャーナ Ljubljana から西へ向かう列車は、このカルストの波打つ高原を越えていかなければならない。たどるルートは、ローマ時代からあるパンノニア平原(現 ハンガリーとその周辺)と北イタリアを結ぶ交易路だ。標高610mの峠道は回廊状になっていて、ポストイナ門 Postojnska vrata と呼ばれる。近現代に至るまで戦略的に重要な場所で、今も幹線鉄道と高速道路が並走している。

Blog_postojna_map1

ポストイナというのは、峠道から下りたところにある小さな町の名だ。しかしその名は門よりも、鍾乳洞(下注)の存在によって世界に知られている。カルスト地形では珍しくない鍾乳洞だが、ポストイナの裏山の地下に横たわるそれは総延長が約24kmあり、同国でも一二を争う規模を誇る。その一部、往復5kmが観光用に公開されており、1日数回行われるガイド付きツアーで見学することができる。

*注 公式名称はスロベニア語で Postojnska jama(ポストイナの洞穴)、英語でも Postojna Cave だが、日本ではこの種の洞穴を鍾乳洞と呼ぶので、本稿では「ポストイナ鍾乳洞」とした。

Blog_postojna2
ポストイナ鍾乳洞の管理棟(鍾乳洞宮殿 Jamski Dvorec)、左奥が洞口
image from www.slovenia.info

ポストイナ鍾乳洞のユニークさは、規模の大きさにとどまらない。ここにはおそらく世界でも類のない、鍾乳洞の中を走るトロッコ列車があるのだ。ツアー参加者は、洞内に入るとまず、このミニ列車に乗って、地中の奥深くへ運ばれていく。約10分乗車した後、ガイドに従って、徒歩で鍾乳洞の最も見ごたえのある区間を巡る。そして、コンサートホール Koncertna dvorana と呼ばれる大空間から、再び列車で入口まで戻ってくる。全行程の所要時間は約1時間半だ。

洞内軌道は620mm軌間で、上下別線になっている(見かけは複線)。終端はループ化されており、周回線路の総延長は3.7kmに及ぶ。また、降車ホームと乗車ホームは分離され、両者の間は回送運転になる(下図参照。図中、departure platform が乗車ホーム、arrival platform が降車ホームの位置)。列車は、蓄電池式機関車が牽引し、2人掛け×4列の簡素な2軸客車を多数連結している。それでも押し寄せる訪問客をさばくために、繁忙期は60分ごとに続行で運行されるのだ。

■参考サイト
YouTube ポストイナ洞内軌道の乗車映像(4K解像度)
 往路と復路が逆に編集されているので注意。全20分のうち、前半は「復路」の後方、後半は「往路」の前方の映像になっている
https://www.youtube.com/watch?v=u3CE6hzDE0A

Blog_postojna3
線路は上下別線
photo by fish tsoi at flickr.com, CC BY 2.0
Blog_postojna4
洞内の終点(降車ホーム)、ここから徒歩ツアーが出発する
image from www.slovenia.info

Blog_postojna_map2
地形図で見るポストイナ鍾乳洞
赤の鉄道記号が洞内軌道のルート、青線が徒歩ツアーのルート

公式サイトから取得した洞内平面図を、1:25,000地形図に重ねた。位置照合は、Geodetski zavod Slovenije 発行の観光地図 "Karst of Notranjska" を参考にした
(c) Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

観光用の軽鉄道とはいえ、鍾乳洞の公式サイトによれば140年もの歴史があるという。ポストイナ鍾乳洞は、未知の通路が発見された1818年以降、人々に知られるようになった。ウィーン~トリエステ間のオーストリア南部鉄道 Österreichische Südbahn がポストイナを経由した19世紀中期には、すでに洞内に鉄道を敷く構想があったが、実現はしなかった。

初めて洞内にレールが敷かれるのは1872年だ。入口から洞内のカルバリ Kalvarija(下注1)と名付けられた地点まで、1,534mの長さの人車軌道だった。ルートにほとんど坂道がない(下注2)ので、案内人一人で、二人乗りの小さな客車を押して走らせていたという。しかし、訪問者が増加すると、人力に頼る運行形態には限界が来る。

*注1 カルバリはいうまでもなくキリスト受難の丘のことだが、現在は「大きな山」 Velike gore / Great Mountain と呼ばれる。
*注2 実際、軌道が走る周囲の床面は平坦化されており、人工的に整備したのは間違いない。

1914年に、モンタニア Montania と呼ばれるガソリンエンジンで走る機関車と4人乗り客車が、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社に発注された。モンタニアは鉱山や林業で使われていた小型機関車だ。しかし、第一次世界大戦が勃発したため、納入は延び延びになり、予定の運行が可能になったのは、線路の改修が完了した1924年だった。

当初、1日4便が運行され、初年度は15,588人がそれを利用して鍾乳洞を巡った。翌25年には3軸の、より強力な新型モンタニアが6人乗りの新しい客車とともに導入された。1928年には、鍾乳洞の入口に、レストランや待合室がある今の管理棟がオープンし、プラットホームも整備された。ただし、今と違って、列車を利用せずに徒歩だけで巡ることもまだ可能だった。徒歩ツアーは1963年まで維持されていた。

第二次世界大戦後、鍾乳洞の訪問者数はますます増加したが、引き続きガソリン車が使われたため、洞内の空気汚染が深刻化していった。1957年にようやく、蓄電池で動くエマム Emam 機関車2両が配備されてモンタニアを置き換え、完全無煙化を達成した。エマムは1959年と1964年にも各1両が増備された。

一方、線路も改良の必要に迫られていた。単線で、中間の信号所が2か所しかなく、同時に3本運行するのが限度だったからだ。1959年から複線化の検討が始まり、第一段階として、鍾乳洞入口のループと2本目の線路が1964年6月20日に開通した。このとき、洞内の終点はまだ頭端構造だったが、1967年に第二段階の、人工トンネルを介したループが最奥部で開通し、現在の周回線が完成した。

1978年には蓄電池式機関車は12両を数えるまでになったが、1988年に新型6両が調達されて、8両の旧型車を置き換えている。来年(2018年)は鍾乳洞発見200周年に当たり、これを機に管理会社では、輸送システムのさらなる更新を計画しているそうだ。

本稿の最後に、1999年8月に筆者が訪れたときの簡単なレポートを記しておこう。

リュブリャーナ8時10分発のプーラ Pula 行き列車で、霧の中をゆるゆると走って、ポストイナ着9時02分、ホームに降り立ったのは数人だった。貨物駅かと思うほど駅前にも何もなく、地図帳を紛失して土地不案内の私たちは、道なりに進んでなんとか町の中心部に出た。案内所があったので地図を所望するも、窓口氏は「not exist」とにべもない。

Blog_postojna5
(左)ポストイナ駅に到着。構内は広いが貨物駅のよう (右)鍾乳洞の平面図

道路標識を頼りに歩くこと10分ほどで、鍾乳洞の施設が見えてきた。訪問者はみなマイカー利用のようで、なるほどこれでは公共交通が成立しないはずだ(下注)。毎時00分にツアーが出るとパンフレットにあったので、急いで入場券の窓口に並んだ。平日でもかなりの人出だ。

*注 2017年現在、リュブリャーナからポストイナ鍾乳洞行きのバスが平日3本、休日1本設定されている。なお、鍾乳洞には立ち寄らないものの、ポストイナ市街を通る路線バスは多数走っている。

エントランスを入っていくと、トロッコ列車が待機している。遊園地のジェットコースターのような短いオープン客車が10両ほども連なっている。ドアもシートベルトもないのだが、走り出したらやたらと飛ばす。それも本物の鍾乳洞の中なので、鍾乳石の垂れ下がる大広間があるかと思えば、頭をこすりそうな素掘りのトンネルをくぐる。通路幅が狭くなると上り線と下り線が離れていき、また近づいてくる。スリリングな場面展開は、造り物のアトラクションの比ではなかった。

Blog_postojna6
(左)乗降客で混雑する入口駅 (右)鍾乳石の垂れ下がる洞内を行く
Blog_postojna7
第2次大戦中、ナチスドイツが洞内を火薬庫に使用していた。パルチザンが火をつけたため、洞内に煙が充満した。黒い鍾乳石はその名残

これだけでも十分楽しめたのだが、列車を降りた後、ガイドによる洞内ツアーがある。私たちは「English」の立札のもとに集合したが、ガイド氏の話は率直なところよくわからない。一応ついていきながらも、半分勝手に行動したので、いつのまにか後ろの「イタリアーノ」組に追いつかれてしまった。

鍾乳石は見事に保存されていて、スパゲティと呼ばれる細い糸のような石や、削り節をくねらせたような石のように、繊細な造形がそのまま見られる。かなり奥深いところなので、荒らされる前に保護の網をかぶせることができたのだろう。洞穴はピウカ川 Pivka River が造ったはずだが、水流が全く見られないのは、別の場所を通っているからだという(下注)。

*注 ピウカ川は、上の地図でライトブルーに塗った洞穴を流れている。なお、入口の降車ホーム付近だけは、川が流れる洞穴に設けられているため、水音がする。

ツアーが終わる直前、類人魚なる生き物が入れられた水槽の前を通過した。ライトを当てられっ放しだが、闇の中で生きてきた類人魚は大丈夫なのだろうか。徒歩による鍾乳洞見学は1時間ほどで終わる。予想に反して、ガイド氏はチップを要求することもなく、帰りの列車の時刻だけ告げて、どこかへ消えてしまった。

Blog_postojna8
徒歩ツアーで巡る鍾乳洞、「スパゲティ」が天井を覆う

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/

★本ブログ内の関連記事
 スロベニア 消える湖、消える川
 ベルギー アン鍾乳洞トラム I

« 2017年8月 | トップページ | 2017年10月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

BLOG PARTS


無料ブログはココログ