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2017年3月27日 (月)

オーストラリアの地形図-クイーンズランド州

連邦制をとるオーストラリアでは、地形図の製作業務も連邦と各州が分担している。連邦が受け持つ1:100 000以下の小縮尺図は以前紹介している(下注)ので、今回から州が独自に製作する地形図を見ていきたい。初回はクイーンズランド州だ。

*注 「オーストラリアの地形図-連邦1:100,000」「オーストラリアの地形図-連邦1:250,000ほか」参照

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クイーンズランド州
地形図カタログ第3版
(2002年)表紙

オーストラリア大陸の東北部を占めるクイーンズランド Queensland は、同国第2の面積をもつ大きな州だ。日本からの直行便が飛ぶ州都ブリスベン Brisbane(現地の発音はブリズベン)やケアンズ Cairns のような拠点都市、ゴールドコースト Gold Coast やグレートバリアリーフ Great Barrier Reef といった海洋リゾートはよく知られている。

2017年現在、同州の測量業務を担当しているのは、天然資源・鉱山省 Department of Natural Resources and Mines だ。官製図にはお堅いイメージがつきまといがちなので、オーストラリアのいくつかの州では愛称を付して親近感の演出に努めている。クイーンズランドの場合は、亜熱帯の陽光が降り注ぐイメージから「サンマップ Sunmap」だ。

残念なことに、紙地図(オフセット印刷図)の新規発行はすでに全面停止され、ウェブサイトでの画像提供に移されている。だが、そこでは現行図だけでなく、旧版図も扱われているので、まずは基礎知識として、かつての紙地図の体系に触れておきたい。

手元に2002年5月発行の地形図カタログ第3版がある。それによると、州全域をカバーする最大縮尺は1:100,000だ。しかし、大鑽井盆地 Great Artesian Basin が広がる内陸部については、正式図ではなく測量原図の青焼き dyeline copy でのみ供給可能としている。1:100,000でそれだから、1:50,000より大縮尺図の整備範囲は推して知るべしで、人口が張り付く南太平洋岸の限られたエリアで作成されているに過ぎない。

縮尺体系はさまざまで、1:10,000や古い1:31,680(半マイル図、図上1インチが実長1/2マイルを表す)も若干数見られるが、一定量の面数があるのは、1:25,000と1:50,000だ。

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1:25,000地形図表紙の変遷(左から)
等高線地図 8064-32 Redlynch 1986年
写真図 9242-11 Toowoomba 1996年
等高線/写真図両面刷 8557-41 Bowen 2001年
デジタル等高線図 9242-11 Toowoomba 2010年

1:25,000 は州の整備計画のもとで製作されてきた。図郭は1:50,000のそれを縦横2等分しており、経度7分30秒、緯度7分30秒になる。ユニークなのは図葉によって地図の種類が異なることだ。製作年代に応じて、次に述べる3種のいずれかが入手できた。

1977年に標準地図の製作計画がスタートした当初は、等高線地図 Line Map、つまり一般的な地形図が作られていた。等高線間隔は5mまたは10mと、日本の1:25,000(10m間隔)と比べても遜色ない精度だが、その代わり、急傾斜地では主曲線を省略して計曲線のみにした。そのため、山がちの地域では地勢表現が大雑把になりがちだった。また、等高線に紅色を配したため、赤(朱色)や橙の道路記号とやや紛らわしい。その他の地図記号はおおむね連邦の1:100,000に準じていた。

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1:25,000地形図の例
大分水嶺の急斜面に臨むトゥーンバ市街
いずれも 9242-11 Toowoomba 図葉 (左)等高線地図 2010年 (右)写真地図 1996年
© The State of Queensland, 2017, License: CC-BY 3.0

次に登場したのが、写真地図またはオルソフォト地図 Image or Orthophoto Map だ。同州のそれは、カラー空中写真の上にUTMグリッド、等高線、交通網、行政界などの記号と地名を加えてあった。写真地図は、地表の様子がありのまま読み取れるという空中写真の利点を生かしつつ、写真には表現されない高度、境界、道路区分、地名といったデータを補うものだ。理想的な地図のように見えるが、実際に作業に用いるには、決して使いやすいものではない。情報量が多すぎて地表の様子を大掴みすることが難しく、また書込みが効かない(書込んだものが目立たない)からだ。

*注 オルソフォトは、地表の高度差、あるいは写真の中心からの距離によって生じる歪みを修整した正射投影画像のこと。

その反省もあったのだろう。1990年代に、等高線地図と写真地図を両面刷りする形式に切り替えられた。1枚で2種の地図を見比べられるから徳用版だ。なお、等高線地図の等高線の色が変えられ、主曲線が灰色、計曲線が茶色になった。識別しやすいかどうかは別にして、線幅(線の太さ)でなく色で区別するという仕様は、世界的にも珍しいものだ。

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1:25,000地形図の例 キュランダとバロン・フォールズ 8064-31 Kuranda 2004年
© The State of Queensland, 2017, License: CC-BY 3.0

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等高線地図 凡例の一部。州作成図のなかでは最もカラフル

これに対して1:50,000 は、1:25,000整備計画以前に、軍の測量機関であった王立オーストラリア測量隊 Royal Australian Survey Corps が製作していたものだ。陸上交通路の重点防衛地域で実施された地図整備事業の成果物だが、一般にも供されていた。図郭は1:100,000のそれを縦横2等分した経度15分、緯度15分になる。1:25,000の製作範囲とおよそ重複しているので、縮尺は異なるものの、およそ1世代前の地表の状況を記録した地図と考えればいいだろう。

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1:50,000地形図の例
(左)港湾開発前の、マングローブが広がっていたブリスベン川河口
9543-3 Brisbane 1971年
(右)州境の峠を越える北海岸本線のループ線(スパイラル)
9441-2 Grevillia 1990年
© The State of Queensland, 2017, License: CC-BY 3.0

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地形図の図郭と付番方式
図郭は1:100,000(外側の黒の太枠)を縦横2等分すると1:50,000(赤枠)、同4等分すると1:25,000(黒の細枠)
図番は1:100,000に対して、1:50,000は枝番1桁(1~4)、1:25,000はそれに2桁目(1~4)を加える

クイーンズランドの旧版地形図は、広範なスキャニング作業により、現在はウェブサイトで自由に閲覧できるようになっている。

■参考サイト
クイーンズランド州旧版地形図 Historical topographic map series—Queensland
https://data.qld.gov.au/dataset/historical-topographic-map-series-queensland

使い方は次のとおりだ。

1.上記参考サイトの Data and resources(データおよびリソース)の見出しの下に列挙されているシリーズ名から見たいものを選択する。さまざまなシリーズが挙げられているが、代表的なものは以下の2種だ。

・25000 series 1965-2012—Queensland(=1:25,000多色刷等高線地図)
・25000 image series 1993–2003—Queensland(=1:25,000オルソフォト地図)

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旧版地形図シリーズをリストから選択

2.タイトルのリンクを選択すると上の画面になる。Download ボタンで、地形図の目録データ(csv形式)が取得できる。あるいは、Visualisation Preview ボタンで、同じ目録データがブラウザ上に表示される。

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目録データの取得

3.目録データの "jpg_linkage" の列で見たい図葉を選択し、(Windowsなら右クリックで)開き方を選択すると、高精度の地図画像が取得できる。

残念ながら、図葉選択に欠かせない索引図は周辺のページに見当たらなかった。次の QTopo(現行デジタル地図閲覧サイト)で、1:25,000の図郭を表示して確認するしかなさそうだ。

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目録データから画像にリンク

現行デジタル地図は QTopo と呼ばれるサイトで見ることができる。

■参考サイト
QTopo(現行デジタル地形図)
http://qtopo.dnrm.qld.gov.au/desktop/

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QTopo 初期画面

地図の閲覧では、地図画面左上のスケールバーを操作すれば拡大縮小ができる。また、画面上部の Print タブ、または左上の Click here to... を選択すると、印刷やPDF取得のオプションが見つかる。

1.Generated a Printable Map: 画面に表示した任意の範囲の地形図を印刷する。
2.Download a Standard MapSheet: 標準図郭の地形図PDFが取得できる。

また、各縮尺の地形図の図郭は次の方法で表示できる。

画面左下の Map Layers ロゴを選択する。左メニューに表示される Operational Layers を展開して、縮尺を選択する。1:100,000、1:50,000、1:25,000の選択肢があるが、画面にはいずれか1種しか表示できない。そのため、例えば1:25,000図郭なら、ベースマップをかなり拡大表示(表示縮尺 1:144,448 以上)しておく必要がある。

■参考サイト
天然資源・鉱山局 Department of Natural Resources and Mines
https://www.dnrm.qld.gov.au/

★本ブログ内の関連記事
 オーストラリアの地形図-連邦1:100,000
 オーストラリアの地形図-連邦1:250,000ほか
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 オーストラリアの地形図-南オーストラリア州
 オーストラリアの地形図-ノーザンテリトリー

2017年3月20日 (月)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV

商業鉄道だった旧ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway がすべての運行を停止したのは、第二次世界大戦前の1937年だった。それから74年の歳月を経て、2011年に保存鉄道として全線再開されるまでのいきさつは、ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建 Welsh Highland Railway restoration」の項(下記参考サイト)に詳しい。約13,000語に及ぶ長文の資料から、関係する諸集団の思惑が複雑に絡み合った鉄道再建の険しい道のりが明らかになる。以下、その骨子を書き出してみた。

■参考サイト ウィキペディア英語版「ウェルシュ・ハイランド鉄道の再建」
https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Highland_Railway_restoration

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ベンチの脚を飾るレッド・ドラゴン(ベズゲレルト駅にて)

旧線路用地の帰趨

旧WHRの運営企業は、正式名をウェルシュ・ハイランド鉄道(軽便鉄道)会社 The Welsh Highland Railway (Light Railway) Company(以下、旧WHR社)といった。同社は、1896年軽便鉄道法に基づく軽便鉄道令 Light Railway Order (LRO) によって、1922年に設立が認可されている。会社は、社債を発行して鉄道の建設資金を調達したが、その3/4を引き受けたのは国と地元自治体だった。ところが開通後まもなく経営不振に陥り、利子払いが滞ったため、会社に対して1944年に清算令が下された。ここまでは前回述べたとおりだ。

指名を受けた清算人は、債権者に債務弁済するにあたって、線路用地は入札にかけ、最高額の札を入れた者に売却することで資金を回収しようとしていた。ただし軽便鉄道令によって、線路用地の所有権は旧WHR社のみにあり、かつ鉄道目的にしか使えない。そこで、用地を縛りから解き放つには法的な手続きが必要となり、それには2つの選択肢があった。

一つは、旧WHR社を廃止する「廃止令 Abandonment Order」を得ることだ。ただしこれを申請する者に法律上の費用負担が生じる。二つ目は「譲渡令 Transfer Order」で、これを得た者は旧WHR社から譲渡を受けられるが、その土地の使用は引き続き鉄道目的に限定される。

清算人としては土地の換金が可能になる廃止令が望ましいが、その前提となる費用を工面する当てがなかった。旧WHR社の残余資産はすでに債権者に分配済みで、使い勝手の悪い線状の土地を取得するために気前よく資金を差し出す者が現れるとは思えなかったからだ。

1961年7月に、保存鉄道に関心のあるシュルーズベリーの実業家の声掛けで、鉄道再開の可能性を議論する会合が開かれた。その場に招かれた清算人は、交渉次第ではあるが土地は750ポンドで売却する用意があると述べた。そこで、話をさらに具体化するために同年10月、ウェルシュ・ハイランド鉄道協会 Welsh Highland Railway Society(以下、WHR協会)が設立された。

協会の創設者に名を連ねたうちの数名は、近隣の保存鉄道フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)にも関与していた。フェスティニオグ鉄道も1946年に運行を休止したが、復活を望む人々によって1951年に鉄道協会が設立され、協会が過半数の株式を取得する形で、休眠状態の鉄道会社が再建された。そして1950年代の終わりまでに、ポースマドッグ Porthmadog(下注)から全線のほぼ中間地点にあたるタン・ア・ブルフ Tan-y-Bwlch まで運行が再開されていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から現在の Porthmadog に変更されたが、本稿では表記をポースマドッグに統一している。

鉄道再建の実績を持つ人々の参加はWHR協会の大きな支えになった。その一方で、FRの支持者の間ではWHRの再建に対して複雑な反応があり、歓迎する者もいれば、公然と敵意を示す者もいた。理由はおいおい明らかになるが、このことが、後日のFRの行動に少なからぬ影響を及ぼすことになる。

さて、路線を復元するには、まず再測量のために線路用地への立入り許可が必要だ。清算人はWHR協会に好意的で、ほどなく協会を実行力のある想定売却先と認めるようになった。協会は、清算人との間で用地購入に関して、行政当局とは計画認可に関して、それぞれ交渉に着手した。ポースマドッグが属するメリオネスシャー州 Merionethshire からは、ルート南端の計画に対して認可が下りた。しかし、カーナーヴォンのあるカーナーヴォンシャー州 Caernarfonshire の議会は、鉄道より並行道路の改良に関心が向いており、協会の計画には非協力的だった。

鉄道の運営責任を引き受けるには法人格が必要なため、WHR協会は1964年初めに、ウェルシュ・ハイランド軽便鉄道(1964)有限会社 Welsh Highland Light Railway (1964) Limited を設立した。巷では「64年会社 The 64 Company」と呼ばれたので、以下ではそれに倣おう。

運の悪いことに、行政との認可交渉をしている間に清算人が体調を壊し、用地の売却交渉をまとめることなく亡くなった。清算業務は管財人が自ら引き継いだが、彼は64年会社への売却を良しとせず、土地を競売に出すという当初の方針を貫いた。協会側は、積み上げてきた交渉を突然打ち切られ、同時に用地への立入り権も失ってしまった。

管財人は、競売への参加者に対し、旧WHR社の債務を引き受けるに足る資産の証明と、廃止令への出資を条件に加えた。64年会社も参加した競売で最高額を投じたのは、カンブリア州 Cumbria の資産家J・R・グリーン J. R. Green という男だった。グリーンは他の保存鉄道を支援している理解者であり、信頼のおける保存団体に管理を委ねるつもりだった。64年会社は彼にWHR復元と運行の支援を要請され、同意した。

ところがその後グリーンは、一時的に資金難に陥った。先行きを不安視した管財人は1969年に売却を撤回してしまい、64年会社は再び挫折を経験することになった。

その後、64年会社は1973年後半に、ポースマドッグでベズゲレルト側線 Beddgelert Siding と近接の土地を購入している。側線は、クロイソル軌道 Croesor Tramway が山から運び下ろしたスレート貨物をカンブリア鉄道 Cambrian Railways(後の国鉄カンブリア線)に受け渡すために造られたもので、戦後は使われていなかった。この廃線跡の上にポースマドッグからペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction まで短距離の狭軌線が敷かれ、1980年に保存鉄道として開業することになる。

64年会社と全線派

1974年に自治体の再編が実施された。メリオネスシャー州とカーナーヴォンシャー州は統合されて、グウィネズ Gwynedd 州になった。それに伴い、かつて保存鉄道に無関心だったカーナーヴォンでも、鉄道への風向きが変わり始めた。観光客の減少を食い止めるために、新たな観光資源に結び付ける動きが出てきたのだ。このとき、1972年に廃止されて以来、州の所有になっていた標準軌線跡を使って、狭軌保存鉄道を町まで引き込む構想が初めて提案された。一時は64年会社の拠点を、ポースマドッグからカーナーヴォンに移す話さえあったほどだ。

1970年代の半ばに、グウィネズ州は旧WHRの線路用地の取得に乗り出した。線路用地の査定価格は州に対して旧WHR社が負う債務と相殺されるので、名目の金額だけで用地を取得できるはずだ、と州は主張した。しかし、これでは最高額の入札者に売却したことにならないと、管財人は売却を貫徹するための承認を法廷の裁定に求めた。

1980年代の初めには、州と64年会社が用地を共同管理し、カーナーヴォンから「ベズゲレルト Beddgelert とリード・ジー Rhyd Ddu の間の手ごろな地点」まで鉄道再建を段階的に進めるという計画案ができていた。そのために、州はとりあえず費用を支払って、旧WHRの廃止令を得るつもりだった。

しかしこれが、その後巻き起こった激しい意見対立の、まさに引き金となった。すなわち廃止令によって線路用地の法的保護がなくなれば、再建の対象にならなかった区間は、鉄道以外のフットパス(自然歩道)や道路の新設・改修に使われてしまうのではないか。64年会社の内部に、そうした懸念をもつグループ、いわゆる「全線派」がいた。彼らはあくまで全線再開を目標にするべきで、それにはフェスティニオグ鉄道のように、旧WHR社の過半数の株式を取得して線路用地の管理権を得なければならないと考えた。

全線派は、自前の資金で旧WHRの株式と債券を探し当てて、購入し始めた。1983年初めに取締役会で彼らが表明したこの方針は、他の取締役を大いに驚かせた。州との取引を推進するという従来の会社の方針に逆行するように見えたからだ。ともかくも4月の取締役会では、取得済みの株式と債券を所有する財団の設立が合意された。全線派は調査を続けてよいが、その結果は取締役会に定期的に報告することとされた。

ところがその後、全線派はさらに踏み込み、資金集めの発起書を刷って社員や一般会員に配布した。これは取締役会の決議内容を越えるものだったため、9月の取締役会は紛糾した。会社の方針に従わなかったとして、全線派は買い集めた株式と債券を無償で会社に引き渡すよう求められた。彼らが拒否すると、業を煮やした取締役会は、全線派の取締役辞任を勧告した。

内部騒動の間も64年会社は、州との交渉を継続していた。州議会の小委員会は1983年4月に、管財人からペン・ア・モイント~ポント・クロイソル Pont Croesor 間の用地を取得して、64年会社にリースするよう勧告することを決定した。1980年に開業した区間の延長に道筋をつけるものだった。会社は同年11月に臨時総会を開き、そこで州との取引を進めることが承認された。

片や全線派も活動を進めていた。線路用地の買収を目的にした「線路用地統合会社 Trackbed Consolidation Ltd(以下、TCL)」を密かに立ち上げて、管財人に用地売却を働きかけた。これはすぐに取締役会の知るところとなり、1983年12月に、TCLに関係している全線派社員5名に対する会員活動の停止が決議された。彼らは年次総会への出席すら拒まれたため、双方ともに深い遺恨を抱くもととなった。

全線派はTCLを使って、株式と社債の買収を進めた。社債の75%の所有者による賛成票が、旧WHR社の財政再建計画に同意を与える法律的要件だったからだ。64年会社には全線派のほかにも同様の考えを持つグループがあり、彼らは西部借款団 West Consortium の名で、1985年1月に国が保有していた社債を購入した。

TCLと新たな盟友となった西部借款団の確保した社債を合わせると、全体の65%に達した。残りは3つの地方自治体が所有していた。その一つ、ドゥイヴォル Dwyfor 郡(下注)は当初全線派の考えを支持しており、それを足せば78%になる見通しだった。ところが1986年1月に再招集された債権者会議で、ドゥイヴォル郡は州議会などの説得に応じ、反対側に立った。全線派のめざす財政再建の試みは、土壇場で中断を余儀なくされた。そして管財人は、引き続き土地を州に売却する意思を持ち続けたのだ。

*注 ドゥイヴォル郡は1974~1996年に存在した自治体で、ポースマドッグやベズゲレルトを郡域に含む。

フェスティニオグ鉄道の思惑

64年会社が州と組もうとしたのは、弱い資金力をカバーするため、建設に際して公的な財政支援を期待したからだ。一方、州政府にとってWHRは、あくまでカーナーヴォン周辺の観光開発のためのツールでしかない。ポースマドッグまで線路が延伸される見込みは薄く、使われなかった用地は処分されるか転用され、全線再開は永遠に不可能になるだろう。全線派はそう考えて、あくまで自力でWHRを復興させようと考えた。

管財人が所与の権限で用地を州政府に売り渡そうとしているのに対抗して、彼らは旧WHR社を再興することで、本来会社にある用地の所有権を掌握しようとした。64年会社と州政府、それと対立する全線派(TCL)や西部借款団、いずれもWHRの再開という目指す方向は一致しており、最終目標とそのために取るべき手段が異なっただけだ。

ところが、ここでもう一者、まったく別の思惑でこの問題に介入しようとした集団があった。フェスティニオグ鉄道(FR)だ。FRはすでに1982年に自社全線の再開を完了していたが、ジアスト Dduallt からの水没区間で迂回線を建設するために、資金の借入れを行っていた(下注)。そのうえ再開後の乗客数が伸び悩み、収益性に問題を抱えていた。

*注 揚水式発電所建設に伴う調整池の建設で、旧線が水没したため、復活にあたってはスパイラルを含む迂回線の建設が必要となった(本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照)。

そのようなFRにとって、64年会社と州政府が進めているWHR復活計画は、決して他人事ではなかった。というのも、同じポースマドッグの町から出る潜在的な競争相手は、州の財政支援を受け、沿線にブライナイ・フェスティニオグよりも魅力的な観光地ベズゲレルトを擁している。ポースマドッグからベズゲレルトまでは平坦なルートで、運行経費が安価なため運賃を低く設定することも可能だ。FRは、現在の利用者の半数近くがWHRに流れると見積もり、借金の返済計画にも影響が及ぶことを懸念した。

WHRの再建は阻止しなければならない。そのための最良の方法は、自らWHRの線路用地を取得することだと、FRは考えた。これは後に「買って封じる Buy to Shut」政策と呼ばれることになる。

1987年9~10月に、他のいかなる入札者にも勝る16,000ポンドの入札が匿名でなされた。しかし、管財人が州に売却する方針を曲げなかったため、この策は成功しなかった。そこでFRは1988年9月に、州への直接の説得を試みた。州政府に線路用地の入札を辞退することを勧め、代わりに自分たちが入札に成功したら、鉄道目的「以外」に使うという条件で州に用地を寄託する用意があると伝えたのだ。

1989年に64年会社と州は協力関係を再確認し、管財人から線路用地を購入するために高等裁判所で売却の認可を受ける準備を始めた。裁判所の尋問ではすべての利害関係者を宣言するので、匿名の入札者の正体も明らかにされることになる。

FRは先手を打って、州政府と再協議の機会を持った。そこでは態度を180度転換して、「自分たちは鉄道保存の事業者であり、維持発展が可能ないかなる鉄道の休止も求めない」ことを表明した。そして、FRが用地を取得して、64年会社にリースすると提案した。そこで州は、両者の話し合いによる解決を促すことにした。

1989年のクリスマスに両者の代表が会合を持ち、FRは入札者の正体を開示したうえで、自らの考えを話した。しかし64年会社は、先に州から1988年9月にFRと行った会合のメモを入手していた。WHRの再開を望んでいなかった会社が、わずか1年後に再建を手助けしたいと申し出ている。64年会社は、FRの動機を非常に怪しんだ。

すでにこのとき、64年会社はペン・ア・モイントからポント・クロイソルまでの延長計画に認可を得て、州と共同で軽便鉄道令の案を提出していた。会合の後、64年会社はこの件に干渉するFRを非難する声明を発表し、FRに入札から撤退するよう求めた。秘密の入札者の正体も、一般会員の知るところとなった。

このニュースはすぐに広まり、イギリスの鉄道保存団体に属する多くの人々に衝撃を与えた。FRは、64年会社の地主となって彼らを援助したかった、64年会社と州の協力関係のもとでは全線復元の機会が失われたはずだと弁明したが、世間は納得しなかった。鉄道専門誌も反発し、「これは保存の精神ではない」という論説を掲載した。FRの支援者さえも非難の声を上げた。

連携と逆転劇

このときまで別の方法で線路用地へのアクセスを試みていた全線派は、それが取得できれば64年会社にリースするか寄贈する意思を持っていた。しかし、64年会社の顧問弁護士は、1922年軽便鉄道令は再使用できないとアドバイスしていたため、同社は彼らとの協力を拒否し続けた。厳しい批判に晒されるFRと、交渉の糸口がつかめない全線派と西部借款団、ともに全線復活を目標にする三者が接近するのは当然のなりゆきだった。

全線派(TCL)と西部借款団は、FRが全線の開通と運行に最善の努力を払うことを条件に、集めた株式と債券をFRに引き渡すことで合意した。その受け皿として、子会社フェスティニオグ鉄道ホールディングズ有限会社 Festiniog Railway Holdings Ltd が設立された。

こうしてFRは、全線派たちが描いていた戦略を用いて、高等裁判所の聴聞で管財人の申請に異議を唱えることができる立場に立った。理事が交替したFRは、今や復元の当事者になろうとしており、膨大な資料作成のための資金も準備していた。

聴聞の場でFRは、旧WHRの財政再建を試みる時間を稼ぐために、州への売却時期の延期を申請した。しかし、裁判所は、旧WHRにもはや存命の取締役がおらず、会社はいわば瀕死の状態であるとして、認めなかった。64年会社の顧問弁護士が指摘していたとおりだった。FRの再建のケースでは、1946年の休止後まもなく保存運動が始まっており、取締役会の再招集が可能だったが、WHRには同じ手法が通用しなかったのだ。

裁判所はそのうえで、この問題の解決策は、両当事者のどちらかが1896年軽便鉄道法第24条にもとづき譲渡令を申請することであると裁定した。譲渡令を得れば、(管財人との間で)売却の合意が整った後、鉄道建設と運行の権限の譲渡を受けられる。裁判所は管財人の売却申請には裁定を下さず、譲渡令申請の時間を見込んで猶予を与えた。

両者はそれぞれ譲渡令を申請した。内容が競合するため、1993年11月に公聴会が開かれることになった。1988年9月のメモが証拠として提出されたこともあって、FRは本当に再建に取り組む気があるのかどうか、まだ疑念を抱かれていた。そこで公聴会の進行中にFRは、州政府との間で、譲渡令を得たら5年以内に工事を開始する、実行できなかったときは線路用地を州に明け渡すという趣旨の協定を結んで、自らの姿勢を明確にした。

しかし、独立検査官が調査の結果下した判断は、64年会社の申請を支持するというものだった。その理由として検査官は、州の関与によって高水準の公的支援が期待できること、64年会社がポースマドッグに既存設備を有していること、64年会社が目的をWHR再建に特化しているのに対し、FRは他にも多数のプロジェクトを手がけており、そちらが優先される可能性があること、商業組織であるFRより64年会社のほうが、再建に必要なボランティアの動員が容易であること、などを列挙した。

やはりFRの挑戦は無謀だったと、誰しも感じたことだろう。ところが公聴会を踏まえて1994年7月に運輸大臣ジョン・マグレガー John MacGregor が発表した報告書を読んだ人は、自分の目を疑った。決定内容が64年会社ではなく、FRの申請を是認していたからだ。

FRの構想には公共団体や公的支援が関係していないため、結果的に公的部門に対するリスクが削減されるというのが、付された理由だった。当時の保守党政府の政治観に適合する結論とはいえ、予想外の展開に対して、地元では激しい反発が巻き起こった。FRは国務大臣を買収したと非難された。最後の蹴りを入れられた形の64年会社は控訴を検討したが、それは成功の保証がない高価な選択肢だった。

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WHRの再建過程

対立を超えて

この後、FR財団は鉄道再建のための子会社を設立し、ついにカーナーヴォンを起点に再建のための工事が開始された。復活WHRの最初の区間となるカーナーヴォン~ディナス Dinas 間4.3kmは、1997年10月に開通した。

とはいえ、64年会社も大人しく引き下がったわけではない。FRに対抗して1996年に社名を「ウェルシュ・ハイランド鉄道有限会社 Welsh Highland Railway Ltd(名称が紛らわしいので以下、WHR(旧64年)社とする)」に変更し、「ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway」を名称登録した。自分たちがWHRの正当な後継者であると、会社はなおも主張していた。

区間開通に先立つ1997年3月に、FRはディナス以遠、ポースマドッグまでの工事令 Works Order(工事認可)を出願した。提案ルートに対するパブリックコメント(意見公募)で多数の反対意見が提出されたため、同年6月に公聴会が開かれた。

中でも焦点となったのは、ポースマドッグの町を通過する「クロス・タウン・リンク Cross Town Link」と呼ばれる区間だった。これには道路橋であるブリタニア橋の併用軌道が含まれており、ウェールズ政府道路局は、道路横断がハイストリート High Street(本通り)に交通渋滞をもたらすと異議を申し立てた(下注)。

*注 これは、町を迂回する道路バイパスの開通(2011年)によって最終的に解決が図られた。

WHR(旧64年)社も、反対意見を提出した。提案ルートの一部に自社所有地が含まれており、工事令が出れば強制的に買上げられてしまうからだ。

WHR(旧64年)社は、新路線を自社のペン・ア・モイント駅に接続させるという反対提案も用意していた。上述のように同社は1980年からペン・ア・モイント~ポースマドッグ間で保存列車を走らせており、ポースマドッグの駅は、FRのハーバー駅とは町をはさんで反対側、国鉄駅の向かいにある。このルートを使えばクロス・タウン・リンクが不要になって、本通りが渋滞する心配がない。両駅間を行き来する人が増えて、町の商店街への経済的効果も期待できるだろう。

しかし、FRにとればこの提案は、新路線と既存FR線を連絡させる機会が失われることを意味する。また、WHR(旧64年)社が南端区間の所有者になることで、通行保証のための協議が必要になり、両者間で争いが起これば通行妨害が起きるかもしれない。FRは、何とかしてWHR(旧64年)社が反対意見を撤回するよう説得すべきだと考えた。1997年8月に両者は交渉のテーブルについたが、9月後半に早くも決裂する。しかし公聴会が迫ってきたため、11月に交渉が再開され、ついに基本合意に達した。

合意内容は次のようなものだった。WHR(旧64年)社は、クロス・タウン・リンクに対する反対意見を取り下げる。その代わりにWHR(旧64年)社は、(新線と重なる)自社所有地のペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間で路線を建設できるものとし、FRもそれを全面支援する。つまり、FRは北から線路を延ばし、WHR(旧64年)社は南から線路を延ばす。合流地点をポント・クロイソルとするということだ。

加えて、北から来る新線の先端がポント・クロイソルに到達するまで、WHR(旧64年)社がペン・ア・モイント~ポント・クロイソル間を自社で運行できる。また、WHR(旧64年)社の列車に対して新線全線の通行権を保証するとされた。

11月30日に取り交わされた覚書に基づき、1998年1月12日に協定が成立した。このいわゆる「1998年協定 The 1998 Agreement」で、新路線の北側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(カーナーヴォン)Welsh Highland Railway (Caernarfon)」、南側を「ウェルシュ・ハイランド鉄道(ポースマドッグ)Welsh Highland Railway (Porthmadog)」の名称で区別することも取り決められた。

その後、北側では、2000年8月にディナスからワインヴァウル Waunfawr まで、2003年にリード・ジー Rhyd Ddu まで線路が完成した。南側は、2006年にペン・ア・モイントからトライス・マウル Traeth Mawr の暫定ループ(信号所)まで700mが延長され、列車も走ったが、WHR(旧64年)社にはそれ以上延長工事を進める資金がなかった。

結局、北から来た線路は2010年4月にポント・クロイソルに到達し、WHR(旧64年)社が造れなかった区間を含めて、FRの手でポースマドッグまでの全線が建設され、2011年4月20日に晴れて開通の日を迎えた。それと同時に、1998年協定に従ってWHR(旧64年)社のトライス・マウルへの延長運転は中止され、ペン・ア・モイントで折り返す運行に戻った。名称も「ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR)」に変更されて今に至る。対立していたWHR(旧64年)社とFRの関係も、その後、共同行事の開催などを通じて、はるかに誠意のあるものに変わってきているという。

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年3月12日 (日)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III

前2回で見てきたように、ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway(以下 WHR)は、カーナーヴォン Caernarfon ~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour 間39.7kmという、保存鉄道としてはかなりの長距離を直通している。しかしこれは、保存鉄道になって初めて実現した運行形態だ。現WHR以前に、商業鉄道としての旧WHRがあり、さらにその前身となる古い鉄道が存在した。つまり、過去に築かれた基礎の上にこそ今のルートがあるのだ。この稿では、旧WHRが成立する過程を区間別に繙いてみる。地理的位置については下図(WHRと周辺の路線網の変遷)を参考にしていただきたい。

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(左)1850年代まではスレート鉱山と港を結ぶ貨物鉄道が主だった
(中)1860年代に標準軌各線やクロイソル軌道 Croesor Tramway が開通
(右)1880年代にWHRの前身ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways が開通
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(左)1900年代に南北を連絡する PBSSR の工事が始まるも中断
(中)1920年代に旧WHRが全通
(右)1940年代までに旧WHR、フェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway とも休止
作図に当たっては、M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" Second Edition, Ian Allan Publishing, 2006 およびWikipedia英語版各鉄道の項を参照した。

カーナーヴォン Caernarfon ~ディナス Dinas

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擁壁と道路に挟まれて
狭い敷地の現WHRカーナーヴォン駅

現WHRの北端に当たる4.3kmの区間に最初に登場したのは、スレートを輸送するナントレ鉄道 Nantlle Railway だ。3フィート6インチ(1,067mm)軌間の馬車鉄道で、1828年というかなり早い時期に開業している。起点は、現WHRの駅より城壁に寄ったセイオント河畔にあり、スレートの積出し港に接していた。

鉄道は40年近く特産品の輸送に貢献した後、1865年にカーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway に合併された。カーナーヴォン~ポースマドッグ間(後にカーナーヴォン~アヴォンウェン Afon Wen 間に短縮)の建設認可を得ていたカーナーヴォンシャー鉄道は、計画ルートに重なるカーナーヴォン~ペナグロイス Penygroes 間を転用しようと目論んだのだ。1867年に標準軌への改築が完了したが、その際に、多くの区間で曲線緩和のためのルート移設が行われている。また、スレート輸送は継続していたので、旧ナントレ鉄道の非改軌区間では狭軌の貨車を使い、標準軌の区間はそれを標準軌貨車に載せて(いわばピギーバック方式で)運んだという。

カーナーヴォンシャー鉄道は、1871年にロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway (LNWR) に合併され、1923年のロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ London, Midland and Scottish Railway (LMS) ヘの統合を経て、1948年に国鉄 British Railways (BR) の一路線となった。しかし、ビーチングの斧 Beeching Axe(不採算路線の整理方針)により、1964年に廃止されてしまった。

その後は、自転車道(ローン・エイヴィオン自転車道 Lôn Eifion cycleway)に活用されていた廃線跡だが、WHRの再建にあたり、カーナーヴォンへ列車を直通させるために、自転車道に隣接して線路が再敷設された。標準軌の廃線跡を利用して観光都市まで狭軌線を延伸した例は、ドイツのハルツ狭軌鉄道ゼルケタール線にも見られるとおりだ(下注)。

*注 本ブログ「ハルツ狭軌鉄道のクヴェードリンブルク延伸」で詳述。

しかし、現カーナーヴォン駅は、狭隘な敷地でも推測できるように、もとの駅の場所ではない。旧駅は旧市街の北側にあったのだが、1972年の路線全廃(下注)後、敷地が処分されて、大規模店舗が進出した。市街地の下を抜けていた長さ270mの鉄道トンネルも、道路に転用されてしまった(下写真)。それで、復活WHRはこれ以上北へ進めず、今の位置に駅を置くしかなかったのだ。

*注 カーナーヴォン駅には、メナイブリッジ Menai Bridge でノース・ウェールズ・コースト線に接続する路線(旧バンガー・アンド・カーナーヴォン鉄道 Bangor and Carnarvon Railway)、アヴォンウェン線 Afonwen line(旧 カーナーヴォンシャー鉄道 Carnarvonshire Railway)、スランベリス支線 Llanberis branch line(旧カーナーヴォン・アンド・スランベリス鉄道 Carnarvon and Llanberis Railway)が発着していたが、最後まで残ったメナイブリッジ線も1972年に廃止された。
なお、カーナーヴォンの地名はかつて Carnarvon と綴り、1926年に Caernarvon、1974年に Caernarfon に変更された。

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カーナーヴォン旧駅(BR)と新駅(WHR)の位置
1:25,000地形図 SH46 1956年版に加筆

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カーナーヴォンシャー鉄道のトンネルを転用した道路トンネル

ディナス~リード・ジー Rhyd Ddu

ディナス以南は、軌間1フィート11インチ半(597mm)で敷設された本来の狭軌鉄道区間だ。その北半、グウィルヴァイ川の谷 Cwm Gwyrfai を遡ってスノードン山麓に至る15kmの区間は、ノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways (NWNGR) の手で開業した。この鉄道も、沿線のスレート鉱山からの貨物輸送を主目的にしており、本線よりも途中のトラヴァン・ジャンクション Tryfan Junction で分岐するブリングウィン支線 Bryngwyn Branch Line の取扱量が多かった。

ディナスは、上述した標準軌カーナーヴォンシャー鉄道の中間駅だ。狭軌線接続と貨物積替えのための駅だったことから、長らくディナス・ジャンクション Dinas Junction と呼ばれていた。1878年にここからスノードン・レーンジャー Snowdon Ranger(開通時の駅名はスノードン)までの本線とブリングウィン支線が開かれ、続いて1881年に本線がリード・ジー Rhyd Ddu まで延伸された。

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ノース・ウェールズ狭軌鉄道が標準軌に接続していたディナス(旧ディナス・ジャンクション)駅

本線沿線にもスレート鉱山はあるものの規模が小さかったので、会社は旅行需要を喚起しようと、スノードン山への最寄りであることをアピールした。その一環で、終点の駅名が何度か改称されている(下注)。

*注 M. H. Cobb "The Railways of Great Britain - A Historical Atlas" によれば、両駅の駅名の変遷は以下の通り。
スノードン・レーンジャー:1878年(NWNGR開通時)スノードン→1881年 スノードン・レーンジャー→1893年 クエリン・レイク Quellyn Lake →2003年(現WHR)スノードン・レーンジャー
リード・ジー:1881年(NWNGR開通時)リード・ジー→1893年 スノードン→1922年(旧WHR開通時)サウス・スノードン South Snowdon →2003年(現WHR)リード・ジー
ちなみにリード・ジー駅の敷地は、旧WHR廃止後、駐車場に転用されたため、現WHRの駅はその山側に設けられた。

鉄道開通に伴って、スノードン山頂への登山道も整備された。一つ東の谷のスランベリス Llanberis を足場にするより距離は短く、高度差も小さいので、実際この頃、旅行者はリード・ジー駅で群をなして降りたそうだ。1885年には路線のカーナーヴォン延伸が認可され(下注)、さらにベズゲレルト Beddgelert への南下も計画されていた。

*注 ノース・ウェールズ狭軌鉄道の時代には、結局実現しなかった。

主としてそれがもとで、1893年にスランベリスの利害関係者の代表団が、地主のジョージ・アシュトン=スミス George Assheton-Smith に会いに行き、ベズゲレルトが登山の拠点としてすぐにスランベリスに取って代わると訴えた。アシュトン=スミスはスノードンに上るいかなる鉄道にも反対の立場を取っていたが、最終的に説得に応じ、1896年に登山鉄道と山上ホテルが完成する。ノース・ウェールズ狭軌鉄道の存在は、こうしてスノードン山の観光開発の刺激剤にもなった。

しかしその後は、スレート産業の衰退と第一次世界大戦中の旅行自粛とが重なり、狭軌鉄道の経営は行き詰る。旅客営業は1916年に休止され、貨物輸送だけが需要に応じて細々と続けられた。その状態で、後述する旧WHRの設立を迎えることになる。

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サミットの駅リード・ジー(ポースマドッグ方面を見る)

リード・ジー~クロイソル・ジャンクション Croesor Junction

リード・ジーから急勾配で山を降りて平野に出るまでの14.3kmは、先行開業していた鉄道がなく、1923年に旧WHRが自ら開通させた区間だ。しかし、それ以前にもこのルートを通る鉄道構想があった。まず、前述のノース・ウェールズ狭軌鉄道が1900年にベズゲレルト延長の認可を受けている。ベズゲレルトでは、ノース・ウェールズ電力会社 North Wales Power and Traction Company が準備していた電気鉄道に接続する予定だった。

それに修正を加えたのが、ポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 Portmadoc, Beddgelert and South Snowdon Railway (以下、PBSSR) の計画(下注)で、既存のノース・ウェールズ狭軌鉄道と後述するクロイソル軌道を連絡しようというものだった。列車を直通させるために軌間は1フィート11インチ半(597mm)が採用されたが、グラスリン谷 Cwm Glaslyn に設けた水力発電所から供給される電力を利用して、三相交流の電気運転を行うことにしていた。

*注 ポースマドッグはかつて Portmadoc(ポートマドック)と綴り、1974年から Porthmadog に変更された。本稿では混乱を避けるため、鉄道名称以外、表記をポースマドッグに統一している。

工事は1906年に始まった。ところが、発電所の建設に資金を使い過ぎて、線路の完成が後回しにされ、竣工期日を延期したあげく、計画は途中で放棄されてしまった。

この時点でリード・ジーから南へ1マイル(1.6km)以上は完成しており、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest 国有林からの木材搬出に利用された。また、アベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel やベズゲレルト地内の路盤工事も進んでいた。これらの線路敷は旧WHRに引き継がれたが、ベズゲレルト駅の前後では、電気運転を前提にした1:23(43.5‰)の急勾配などを理由に、WHR線で使われなかった線路(未成線)の痕跡がある。

まず、ベズゲレルト駅の北では、現行地形図に、現WHRに隣接して低い築堤や掘割が描かれており(下注)、車窓からもそれとおぼしき橋台が確認できる。これがPBSSRの工事の跡だ。現WHRがS字カーブを切る「クーム・クロッホ ループ Cwm Cloch S-bend」が、PBSSRの急勾配を緩和するために造られた迂回路であることがよくわかる。また駅の南でも、ゴートトンネル Goat Tunnel を出たところに、A498号線をオーバークロスする未成線の煉瓦橋梁が完全な姿で残り、その先の牧草地でも1対の橋台が撤去を免れている。

*注 下図は旧版地形図(1953年版)のため、築堤等の記号ではなく未成線用地を示す地籍界が描かれている。

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ベズゲレルト付近のPBSSR未成線ルートと遺構の位置
1:25,000地形図 SH54 1953年版に加筆

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S字ループに隣接する未成線の低い築堤と橋台(上図中央左の unused abutments)
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ベズゲレルトの牧草地に残された橋台(上図中央右の unused abutments)
Photo by Herbert Ortner from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

■参考サイト
A498号線をオーバークロスする煉瓦造橋梁
https://www.flickr.com/photos/byjr/2969761132/

クロイソル・ジャンクション~ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour

グラスリン川 Afon Glaslyn 河口の干拓地を走る6.1kmの南端区間は、1864年に開業したスレート運搬のための馬車軌道、クロイソル軌道 Croesor Tramway がルーツだ。

ポースマドッグ北東にあるクロイソル谷 Cwm Croesor で1846年に採掘が始まったが、当初、スレートはラバの背で東側の山を越え、タナグリシャイ Tanygrisiau まで行ってフェスティニオグ鉄道 Festiniog Railway の貨車に積まれるという長旅をしていた。クロイソル軌道はこれを直接ポースマドッグに運び出すために造られた。

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クロイソル軌道がインクラインで上っていたクロイソル谷(中央奥)とクニヒト山(中央左)

1865年にクロイソル・アンド・ポートマドック鉄道 Croesor and Port Madoc Railway が軌道の運行を引き継いだ。1879年に同鉄道はベズゲレルトへの支線建設の認可を得たが(下注)、工事に着手できないまま、1882年に管財人の管理下に入り、1902年に先述のポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道 PBSSR に売却されてしまう。クロイソル・ジャンクションは、このときベズゲレルト方面への路線の分岐点として設置されたものだ。

*注 このとき鉄道会社名は、ポートマドック・クロイソル・アンド・ベズゲレルト路面鉄道 Portmadoc, Croesor and Beddgelert Tram Railway に改称された。

さらに南下したペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction では、ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway (WHHR) の「本線」に近接する(下注)。この「本線」は元をたどれば、カンブリア鉄道 Cambrian Railways(現 カンブリア線)のポースマドッグ駅からベズゲレルト方面へ計画されていた標準軌の未成線の跡だ。クロイソル軌道の現役時代は、標準軌のベズゲレルト側線 Beddgelert Siding として使われ、ペン・ア・モイント ジャンクションで、軌道との間でスレート貨物の受渡しが行われていた。ジャンクションと呼ばれるのはそのためだ。

*注 前回記事「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」参照。

クロイソル軌道は、カンブリア鉄道と平面交差した後、ポースマドッグ市街の東のへりを通過して、ポースマドッグの埠頭(港の西側)まで走っていた。

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ポースマドッグ周辺の各路線の位置関係
1:25,000地形図 SH53 1956年版に加筆

旧ウェルシュ・ハイランド鉄道の挫折

さて、時間を1920年代初頭に戻すと、ディナス・ジャンクション~ポースマドッグ間に存在した路線は、細々と貨物輸送だけを続けるノース・ウェールズ狭軌鉄道(ディナス・ジャンクション~リード・ジー)と、資金の枯渇で延伸工事が止まり、旧クロイソル軌道区間(クロイソル採鉱場~ポースマドッグ)だけが稼働しているポートマドック・ベズゲレルト・アンド・サウススノードン鉄道だった。

第一次世界大戦後、失業対策として国や地方自治体が社債の引受けで建設事業を支援したことで、2本の鉄道を接続する計画が再始動する。活動の中心にいたのはスコットランドで醸造業を営んでいたジョン・ステュワート卿 Sir John H. Stewart だった。彼はフェスティニオグ鉄道の経営権も獲得して、車両や要員の融通を可能にした。工事は進み、1923年6月1日、ついにWHRが山地を貫いて全通した。

しかし残念なことに、業績は開通初年がピークだった。当時スレート産業は衰退の途上にあり、期待された観光輸送も、シャラバン(大型遊覧バス)などとの競合に晒された。WHRは寄せ集めの中古車両を走らせており、到達時間もバスに全く敵わなかった。カンブリア線との平面交差では、グレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway が法外な使用料を要求したため、交差の部分だけ乗客は徒歩連絡を強いられた(下注)。利用が乏しいとして、早くも翌24年に冬季の運行が中止された。

*注 乗降のために平面交差の南側にポートマドック・ニュー Portmadoc New 駅が設置され、1923年から1931年までフェスティニオグ鉄道の列車がそこまで乗入れる形をとった。乗入れ廃止後、ニュー駅は平面交差の北側に移され、その状態が運行中止まで続いた。

その年から社債利子の支払いが滞り始め、債権をもつ地方自治体の訴えで1927年に管財人が指名された。運行は続けられたものの、開通からわずか10年後の1933年に、地方自治体は廃止の決定を下した。

翌34年からは、フェスティニオグ鉄道に路線をリースする形で、運行が再開された。旅行者を呼び込むために、客車の塗装を変えたり、フェスティニオグ鉄道との周遊旅行を販売するなど、振興策が実施された。しかし、いずれも劣勢を覆すまでには至らず、1936年9月をもって旅客輸送が中止され、翌37年に残る貨物輸送も終了した。

第二次世界大戦で1941年に動産の徴発が実施されると、車両の多くは売却され、線路もクロイソル軌道区間を除き、ほとんど撤去されてしまった。1944年にWHRに対して清算命令が下され、残余資産が債権者に分配された。

幸いだったのは、1922年の認可の根拠である軽便鉄道令が存続しているために、線路用地が鉄道目的以外に転用されず、大部分が一体的に残されたことだ。それが半世紀後の再建を可能にした要因だが、その主導権を巡っては法廷闘争まで絡んだ複雑ないきさつがあった。

次回は、旧WHRの廃止後、現WHRとして復活するまでの険しい道のりについて話していこう。

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(左)1960年代にはビーチングの斧で標準軌路線網が分断
(中)2000年代に新WHRがリード・ジー Rhyd Ddu まで開通
(右)2011年に新WHRが全通

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年3月 4日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II

まるで難読地名のようなリード・ジー Rhyd Ddu(下注)は、ウェールズ語で黒い浅瀬を意味するそうだ。前身であるノース・ウェールズ狭軌鉄道 North Wales Narrow Gauge Railways の最終到達点であり、今のウェルシュ・ハイランド鉄道(以下、WHR)でも2003~09年の間、終着駅だった。

*注 日本語では「ジー」になってしまうが、Ddu の発音は [ðíː]。

現行ダイヤでは主としてここで列車交換が行われ、スノードン山頂をめざす登山客や、折返し乗車または観光バスに乗継ぐツアー客が乗降する。駅の周りは、旧駅跡を転用した駐車場と、下手の道端にB&Bが数軒あるだけの寂しい場所だが、列車が着くときだけ活気が蘇る。この列車からも、雨のホームに何人か降り立った。

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雨のリード・ジー駅で列車交換

右手は、線路と並行する道路の向こうに、スリン・ア・ガデル Llyn-y-Gader の水面と、青草が覆う茫漠とした湿地が広がっている。にわかに信じがたいが、この平たい土地がルート上のサミットだ。線路が右カーブして道路の下をくぐるとすぐ、線路の右脇に標高650フィート(198m)のサミットを示す標識が立っている(実物は見損ねたが)。ピッツ・ヘッド・サミット Pitt's Head Summit という名は、畑の中に鎮座している大岩が、19世紀初めのイギリスの首相の横顔に似ているからだそうだ。

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スノードン・レーンジャー~ベズゲレルト間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図107 Snowdon 1959年版 に加筆

分水界を越えると、長い下り坂になる。それも1:40(25‰)の勾配が6kmほど続く、ポースマドッグ方から来る機関車にとっては苦難の坂道だ。この急勾配でも直登はできず、高度を稼ぐために、途中に半径60mのS字ループ S-bend を2か所挟んでいる。

上のループは通称「ウェイルグロズ(牧草地)ループ Weirglodd S-bend」、下のループは「クーム・クロッホ(鐘谷)ループ Cwm Cloch S-bend」で、その中間に、ベズゲレルト・フォレスト Beddgelert Forest(国有林)のキャンプ場最寄りとなるメイリオネン Meillionen の停留所がある。興味深い線形なので車窓を注目していたが、残念ながら、森の中を走るためにあまり視界がきかない。下のループのくびれの部分で、かろうじて後で通る線路を見つけることができた。

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(左)森のキャンプ場最寄りのメイリオネン停留所を通過
(右)下のループでは、後で通る線路が見えた

14時30分、ベズゲレルト Beddgelert で途中下車した。駅は、長坂を降り切る手前に位置する。カーブした島式ホームで、坂を上る機関車のために、給水設備も用意されている。美しいことで知られる村の玄関口だが、駅へのアクセスはフットパスと車椅子用の迂回路のみだ。村から行く場合、表通り(A498号線)の観光案内所前にあるバス停が目印になる。脇道の奥に駐車場があり、その一角の木柵を開けて小道を上ると、突然線路とホームが現れる。

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(左)ベズゲレルトで途中下車 (右)先を急ぐ列車を見送る
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村から駅へのアプローチ
(左)駐車場の一角にある木柵を開ける (右)未舗装の小道を上ると駅が現れる

なぜこれほど目立たないのだろうか。資料によると、リード・ジーから保存鉄道の延伸が計画されたとき、村民が駅の開設に強く反対したのが原因らしい。曰く、駅が大きくて風景を侵害する、居住地に近すぎる、村へ入る道路の交通量が増加する…。どうやら、鉄道によって静かな村に喧噪が持ち込まれることを懸念したようだ。スノードニア国立公園局も同調して、リード・ジーを除き国立公園内に暫定終点を置かないことを、建設の許可条件に盛り込んだ。そのため、2009年4月に駅が開業したものの、小さな待合所が置かれただけで、本格的な旅客用施設は未整備のままとなった。

しかし実際のところ、1日の列車が最大3往復では、目くじらを立てるような騒音被害は起こりそうにない。反対していた住民も肩透かしを食らった気分だろう。それどころか鉄道は、新たな効果をもたらした。鉄道が通じていなければ私たちは村を知らなかったし、この駅で下車した人は、他にも10人は下らなかったから。

幸運なことに、あれほど辺りを煙らせていた雨が、ここへ来て上がり、雲に覆われた空も明るさを取り戻しつつある。先を急ぐ列車を見送って、村に通じる小道を下りた。表通りに出ると、左手が灰茶色の石造りの家の建ち並ぶ村の中心部だ。歩いていくと、まもなくコルウィン川 Afon Colwyn に行き当たった。水音を立てながら流れ下る川を、古びた石橋が2連のアーチでまたいでいる。橋と、たもとに建つ宿屋との取り合わせは、素朴ながら凛とした雰囲気で人目を惹いた。

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コルウィン川の石橋と、たもとに建つ宿屋

橋のすぐ先でコルウィン川は、東から来るグラスリン川 Afon Glaslyn に合流する。家内たちが土産物屋を巡っている間に、私は通りから逸れて、川沿いの牧草地にある伝説の猟犬ゲレルトの墓(下注)を訪ねた。それから下流の鉄橋のところまで行き、谷を遡ってくる列車をカメラに収めた。村に戻った後は、ポースマドッグ行きの発車時刻までゆっくりティータイムを楽しむことができた。

*注 墓碑銘によると、ゲレルトの墓(ウェールズ語でベズ・ゲレルトBedd Gelert)にまつわる伝説は次のとおり。ゲレルトは、村に邸のあるスラウェリン王子の忠実な猟犬だった。ある日、留守から戻った王子は息子がいないことに狼狽する。ゲレルトも息子のベッドも血だらけなのを見て、彼は剣でゲレルトを手に掛けてしまう。そのとき息子の声がして、近くに狼の死骸を発見した彼は、自分が誤解していたことに気づく。王子はゲレルトをこの場所に葬り、その後二度と笑顔を見せることはなかった…。なお、この塚墓は伝説に則って18世紀後半に作られたものだそうだ。

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(左)グラスリン川沿いの散歩道 (右)村のセント・マリー教会
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猟犬ゲレルトの墓 (左)墓は突き当たりの独立樹の根元に (右)墓碑銘
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グラスリン川を渡るカーナーヴォン行き列車

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ベズゲレルト~ポースマドッグ・ハーバー間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図116 Dolgellau 1953年版 に加筆

17時10分、ベズゲレルト駅から再びWHRの客となる。雨に襲われる心配がなくなったので、オープン客車に席を取った。短いゴートトンネル Goat Tunnel を抜けると、さっきロケを張った鉄橋を渡って、グラスリン川左岸に位置を移す。そこから約1kmの間はアベルグラスリン渓谷 Pass of Aberglaslyn で、沿線で唯一の瑞々しい渓谷風景が見られる。行く手を塞ぐように谷はどんどん深まっていき、列車は短いトンネル2本でしのいだ後、路線最長のアベルグラスリントンネル Aberglaslyn Tunnel(長さ 280m)で谷の最狭部をバイパスする。

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再びWHRの客に (左)グラスリン川に沿って下る (右)アベルグラスリン渓谷を縫う

闇を抜けると同時に、景色はがらりと変化する。ナントモル Nantmor の停留所を見送った後は、農地と湿地が混在する干拓地トライス・マウル Traeth Mawr の真っ只中に出ていく。右に90度向きを変えた地点が、旧クロイソル・ジャンクション Croesor Junction で、近傍のスレート鉱山へ向かうクロイソル軌道 Croesor Tramway との分岐点だったところだ。

軌道跡は線形がよく、わが機関車は帰りを急ぐかのように速度を上げる。羊の姿を隠すほど背丈の高い草の牧場をかすめていき、地方道と一緒に川幅が広がったグラスリン川を渡る。小さな待合室がぽつんとあるだけのポント・クロイソル Pont Croesor 停留所には停まらなかった。

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(左)クロイソル・ジャンクションへの90度カーブ (右)背丈の高い草が生える牧場
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(左)川幅が広がったグラスリン川を渡る (右)ポント・クロイソル停留所を通過

右の車窓に注目していると、側線が分岐し、並行するホームと複数の線路が現れた。ペン・ア・モイント ジャンクション Pen-y-Mount Junction / Cyffordd Pen-y-Mount だ。ウェルシュ・ハイランド保存鉄道 Welsh Highland Heritage Railway(以下 WHHR)の走行線の終点になっている。

WHHRというのは、WHRやその運営者であるフェスティニオグ鉄道とは別の組織が運営する小さな保存鉄道だ。カンブリア線のポースマドッグ駅近くの拠点駅からここまで、約800m(下注1)の路線を有している。WHR側にはホームはなく、この列車も知らん顔で通過してしまうが、よく似た鉄道名や接近する線路を見れば、2つの鉄道が無関係でないことは誰でもわかる。実際、両者の間には、何十年にも及ぶ関わり、というより穏やかならぬ因縁がある(下注2)。

*注1 路線長は公称1マイル(1.6km)だが、実測では800m弱しかない。
*注2 この経緯は、「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV」で詳述している。

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ペン・ア・モイント ジャンクション
(左)側線(閉鎖中)が分岐する (右)看板の裏にWHHRのホームと線路
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WHHR(茶色破線)とWHR(右上から降りてくる破線)、カンブリア線(左右に走る破線)の位置関係

辺りが人里めいてきた。主要道のバイパスの下をくぐると、WHHRの「本線」は右へ緩いカーブを切って離れていくが、車庫や博物館のある雑然とした区画がまだ並行する。と突然、ガタガタと線路を渡る衝撃が襲った。標準軌のカンブリア線を横断するカイ・パウブ クロッシング Cae Pawb Crossing(下注)だ。

*注 かつては単にカンブリアン クロッシング Cambrian Crossing と呼ばれていた。

線路同士が平面で交差するのは珍しい。なかでも異軌間のそれは、国内でもここにしかない。歴史的には、クロイソル軌道のほうが開通時期が早く、標準軌線は遅れて敷かれている。なぜ立体交差にしなかったのか。想像するに、それまで軌道が運ぶスレート貨物は、ポースマドッグ港で船に積み込まれていた。しかし、標準軌線が開通すれば、貨物輸送はそちらに移行して(下注)、港線の往来は激減するだろう。それなら立体交差に費用をかけるまでもないという判断だったのではないか。最終的には港線ばかりか軌道全線が廃止されてしまったが、保存鉄道化に際して、昔のとおりに平面交差が復元された。

*注 先述のペン・ア・モイント ジャンクションはそのための積替え駅で、WHHRが使う1.6kmの路線は、元来ジャンクションへ通じる貨物側線(ベズゲレルト サイディング Beddgelert Siding)だった。

■参考サイト
Phase 4 - Completing the Welsh Highland Railway - Cae Pawb: The Cambrian Crossing
http://www.whrsoc.org.uk/WHRProject/phase4/cambrian.htm
カイ・パウブ クロッシングの再建過程を写真入りで詳細に紹介しているウェルシュ・ハイランド鉄道協会(愛好団体)のサイト

狭軌の旅のフィナーレは、ポースマドッグの市街地のへりを行く区間だ。計画時点では、ポースマドッグ・クロスタウンリンク Porthmadog cross town link と呼ばれた。旧線跡が商業施設に転用されてしまったため、ルートはその駐車場の東側に新設されている。カーブの多い線路をゆるゆると走った後、列車は一旦停止した。前方から警報機の唸る音が聞こえてくる。

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ポースマドッグ・クロスタウンリンク
(左)製粉工場スノードン・ミルの廃墟をかすめる
(右)駐車場の外側に新設された線路(いずれも別の日に撮影)

この先は、ポースマドッグ港に面するブリタニア橋 Britania Bridge という道路橋で、併用軌道になっている。信号で道路交通が遮断されると、列車は動き出し、橋上の道路に急カーブで進入する。ポースマドッグのハイ・ストリート High Street に、大柄なガーラット式機関車がゆっくりと割り込んでいくこのイベントは、今や町の名物の一つといっていい。列車はそのままポースマドッグ・ハーバー駅前をすり抜けて、新設された2番線へ滑り込む。時計を見ると17時50分、定刻の到着だった。

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ブリタニア橋の併用軌道へ急カーブで進入
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ブリタニア橋を一時占有する列車
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(左)列車通過の間、道路交通は完全遮断(別の日に撮影)
(右)ポースマドッグ・ハーバー駅新2番線に到着

カーナーヴォンからポースマドッグまで直通列車の走行を実現したWHRだが、長い路線の成立までには紆余曲折があった。次回はその経緯を追ってみたい。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Cymdeithas Rheilffordd Eryri / Welsh Highland Railway Society(愛好団体サイト)
http://www.whrsoc.org.uk/

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 III
 ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 IV
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

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