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2016年12月31日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I

ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour ~ブライナイ・フェスティニオグ Blaenau Ffestiniog 間 21.93km(下注)
軌間 1フィート11インチ半(597mm)
開業 1836年、休止 1946年、保存鉄道開業 1955~82年

*注 公式数値13マイル50チェーンをメートル法に換算

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ポースマドッグ・ハーバー駅の新ホームで発車を待つ列車

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フェスティニオグ鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

ポースマドッグに到着した日、ホテルに荷物を置いて、私はさっそく一つ目の保存鉄道、フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下 FR)に乗りに出かけた。同じポースマドッグが起点でも、FRの駅はカンブリア線のそれとは1kmほど離れ、市街地をはさんで反対側の、港の脇に位置している。名称もポースマドッグ・ハーバーだ。もちろんこれは、鉄道が山から積出し港までスレート(下注1)を運ぶために敷かれたからで、開業も1836年と、カンブリア線(1867年開通)より30年以上も先輩になる。それどころかこの鉄道会社は、現存するものでは世界最古(下注2)というから只者ではない。

*注1 スレートは頁岩、粘板岩で、板状に加工して屋根を葺く材料などに用いられた。
*注2 運行中の世界最古の鉄道は1758年創業のウェスト・ヨークシャーのミドルトン鉄道 Middleton Railway だが、当時の会社はすでになく、保存団体(会社組織)が運営している。

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(左)ポースマドッグの市街地 (右)かつてのスレート積出し港はマリーナに転身

駅舎は通りから少し引っ込んでいるが、すぐにわかった。黒ずんだ石積みに濃赤とアイボリーのラインが入った独特の配色で、「フェスティニオグ鉄道ハーバー駅」と側壁に大書してある。この駅は2011年から、もう一つの保存鉄道ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway (下注1) の終着駅にもなったので、入口には2つの鉄道の時刻表が掲げてあった。駅舎の中は切符売り場と、品揃えの豊富な売店、その隣はパブのようだ。グッズ漁りは後回しにして、さっそくエクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass (下注2)を見せて、ブライナイ・フェスティニオグ往復の乗車券(50%引き)を購入した。

*注1 ウェルシュ・ハイランド鉄道については、「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 I」「ウェールズの鉄道を訪ねて-ウェルシュ・ハイランド鉄道 II」で詳述
*注2 エクスプローア・ウェールズ・パスについては、前回「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」で詳述。

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ポースマドッグ・ハーバー駅
(左)駅舎は石積みに赤とアイボリーでアクセント (右)入口には2つの鉄道の時刻表
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紙カードに印字した乗車券

駅舎に接したホームには大きな庇屋根がかかり、満載のフラワーバスケットが彩りを添えている。これは南北に向いた旧1番線だ。ちょうど、給水を終えて持ち場に向かう緑色の小型蒸機「リンダ Linda」が通りかかった。1893年製で、最初はペンリン Penrhyn の採石場鉄道で働いていたが、1962年にフェスティニオグに輿入れした機関車だ。

その後ろ姿を目で追うと、ホームは急カーブで向きを変え、2014年にお目見えしたばかりの新1・2番線につながっている。これはウェルシュ・ハイランドの列車を受け入れるために実施された、敷地を海側へ拡張しての大改修の成果だ。このホームがなかった2011年当初、列車は入換機関車に託されて、スイッチバックで旧1番線に入っていた。1本きりのホームを、FRとウェルシュ・ハイランドが交替で使っていたのだ。新ホームと機回し線の完成で、両線の列車を一度にさばくことができるようになり、FRの列車もこちらを使うことが多い。

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(左)フラワーバスケットが飾られた旧1番ホーム (右)小型蒸機「リンダ」が持ち場に向かう
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ポースマドッグ・ハーバー駅のパノラマ
左が旧1番線、右はウェルシュ・ハイランド鉄道が入ってくる新2番線
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新2番線から背後のカンブリア山地を望む(上の写真の反対側)

この日のFRのダイヤは、10時05分発から15時45分発まで計6便だ。私はリンダが牽く14時30分発の列車に乗り込んだ。狭軌線なので、3等室は中央通路の片側が1人掛け、もう一方が2人掛けのテーブルつきボックスシートだ。隣の1等室を覗くと、肘掛つきの1人掛け席が用意されている。しかし、午後の山行きは客車1両につきせいぜい2~3組しか乗っていないから、1等室でなくてもゆったりした旅ができるだろう。

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発車を待つブライナイ・フェスティニオグ行き列車
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車内 (左)3等室は1人掛けと2人掛けのボックス席 (右)1等室は肘掛つき1人掛け席

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ポースマドッグ~タン・ア・ブルフ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆

列車はまず、ザ・コブ The Cob と呼ばれる築堤の上を走っていく。グラスリン川 Afon Glaslyn の三角江を締め切り、内側の干拓と同時に、水流を集中させて港の水深を確保するための長い築堤だ。線路は並行する道路(A497号線)より一段高く敷かれているから、眺めがいい。とりわけ左の車窓は、スノードニアの山並みを背景にして、広大な湿地の風景が展開する。左奥に見える尖峰が、ウェールズの最高峰スノードン Snowdon(標高1,085m)だ。右の尖った山はクニヒト Cnicht(標高689m)と言うのだが、近いだけに目立つので、私は滞在中、ひそかに偽スノードンと呼んでいた。湿原は一面丈の高い草に覆われ、グラスリン川の水辺では鳥たちが集まって羽を休めている。

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ザ・コブを行く。線路の左側は道路が並走、右側は遠浅の海
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左車窓に広がる湿地とスノードニアの山並み。左端奥の最も高い尖峰がスノードン山

ザ・コブを渡り終えると、扇形に開いたボストン・ロッジ工場 Boston Rodge Works が右手をかすめる。FRの車両整備を一手に引き受けている基地だ。1893年生まれのリンダも、ここで解体修理を受けて2011年に復帰した。窓の外に集中していると、ウェイトレスさんから、お飲み物はいかがと声がかかった。何等車の客であろうと、注文したものはトレーを提げて持ってきてくれる。

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FRの整備基地ボストン・ロッジ工場

次のミンフォルズ Minffordd は、石造りの趣ある駅舎と、ホームに陰を作る大きな樹が印象的な駅だ。それに気を取られてつい見逃してしまうのだが、駅の下をカンブリア線がアンダークロスしている。両鉄道の間でスレート貨物を受け渡していた側線も、左側に残っている。ここで最初の列車交換があった。時刻表には14時35分発とあるのだが、対向列車はなかなか現れず、交換したときには45分になっていた。よく考えてみれば、ポースマドッグを30分に発車して、ここまで10分はかかっている。35分に交換できるはずがない。ほかの駅でもほぼ同じ調子だったから、どうやら時刻表はかなりサバを読んでいるようだ。

イギリスの鉄道は原則左側通行だが、FRは開通当初から右側通行だ。それで、対向列車は左の線路を進んでくる。車両限界が思いのほか小さいから、切符の注意書きのとおり、うかつに窓から乗り出していると危ない。ドアには鍵が掛かり(下注)、ホームにも出られないので、おとなしく通過を待つのが無難だ。対向列車の先頭は、ダブル・フェアリーの11号機「メリオネス伯爵 Earl of Merioneth」だった。デザインは19世紀のものだが、1979年にボストン・ロッジで新造されている。

*注 途中駅で降りる客のいるボックスには、車掌がホームから開けに来た。検札の際に覚えているのだろう。

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カンブリア線と接続するミンフォルズ駅に接近
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ミンフォルズ駅にて
(左)山を下りてきた列車と交換 (右)車両限界が小さいので、写真撮影には注意!

13分の遅れ(?)でミンフォルズを発車した。5分ほどでペンリン Penrhin 駅を通過。集落の近くを走るのは当面これが最後だ。牧場のように大仰な柵で封じた踏切を横切ると、列車は山中へ入っていき、気がつくと、いつのまにか結構高いところを走っている。ボストン・ロッジ以降、1:82(12.2‰)~1:96(10.4‰)の勾配を保ちながら、等高線をなぞるように上り続けているからだ。

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(左)牧場のような柵で封じた踏切を通過 (右)有人踏切で、柵は落とし錠で固定

線路に一定の勾配がついているのには理由がある。もともとFRは、機関車を使わない重力鉄道だった。小型貨車に整形スレートを積み、山の上から自然の力で転がすという実にエコロジカルな方式で運行されていたのだ。スレートは重いので、下り坂が続くと結構なスピードが出る。それを手動ブレーキで調節しながら、港まで送り届けた。1856年の時刻表によれば、この方法でフェスティニオグからボストン・ロッジまで、途中3駅各10分の停車を含めて1時間32分で下りきっている。最盛期には、連結される貨車が80両以上になるのも普通で、3名の制動手が乗り込んでこれを操った。

下りはいいが、帰りの上り坂はどうしたのだろうか。実は、列車にはスレート貨車8両につき1両の割合で、馬を載せた貨車も連結されていた。港で荷を下ろして身軽になった貨車は、今度はその馬に牽かれ、約6時間かけて山へ戻っていったそうだ(下注)。

*注 ボストン・ロッジ~ポースマドッグ間のザ・コブはレベル(水平)のため、坂を降りてきた列車が停まってしまったときは、同じように馬に牽かせていた。

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線路には一定の勾配がついている

スレートの増産が続き、鉄道会社としては蒸気機関車を使った効率的な輸送を模索していた。しかし、狭軌用の小型機関車は開発が難しく、馬に代わる最初の蒸気機関車マウンテニア号 Mountaineer が導入されたのは、開通から27年後の1863年だった。これでようやく列車の長編成化が可能になり、1865年から人も乗せ始めた。用意されたのは小さな2軸客車で、「虫篭 bug box」と揶揄されたとはいえ、イギリスの狭軌鉄道では初めて実現した旅客輸送だった。続いて1869年には、ダブル・フェアリー式機関車(下注)も導入されている。

*注 スコットランドのロバート・フランシス・フェアリー Robert Francis Fairlie が1864年に発明した、ボギー台車に動輪をもつ関節機関車。

山へ帰る列車はこうして機関車が牽引し、輸送力と速度の飛躍的向上が果たせたのだが、おもしろいことに、山を下る列車は相変わらず重力に頼っていた。それも、荷を積んだスレート貨車、一般貨車、客車、仕事をせずに走る機関車の最大4群に分割され、順番に坂を下っていく。車間を適切に保って転がすのが、制動手の腕の見せどころだったようだ。危険性が指摘されて、一般貨車と客車は機関車に連結するようになったが、スレート貨車は実に1939年まで自力で転がされていたという。

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ザ・コブ区間(写真前方)は水平路のため、途中で止まってしまった貨車は馬で牽いた(帰路写す)

重力列車が実際にどのように走ったのか。運行のようすを再現した実験映像がある(下記参考サイト)。開通当時とは違って現在は、途中のジアスト Dduallt ~タナグリシャイ  Tanygrisiau 間に逆勾配があるため、全線で重力走行させることはできない。それで、1つ目の実験はモイルウィントンネルの南口から、2つ目はトンネルを抜けた先にある水力発電所の裏手からのスタートだ。機関車で坂の上まで引き上げられた貨車の列が、連結を解かれた後、どんな走りっぷりを見せるのか、興味のある方はご覧いただきたい。

■参考サイト
重力列車が実際にどのように走ったのかを再現したイベントの動画
BBC Countryfile - Gravity Train  https://www.youtube.com/watch?v=scD0B7Gczp8
Slate train - 1863 and all that!  https://www.youtube.com/watch?v=B5xzUsNbZ-g

次回も、ブライナイ・フェスティニオグへ向けて、旅を続ける。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/
Festipedia https://www.festipedia.org.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Ffestiniog Railway, A Traveller's Guide" Ffestiniog Railway Company, 2016および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

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2016年12月24日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線

シュルーズベリー Shrewsbury ~アベリストウィス Aberystwyth 131.2km
ダヴィー・ジャンクション Dovey Junction ~プスヘリ Pwllheli 86.6km
軌間 4フィート8インチ半(1,435mm)、開業 1859~67年

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朝の光に浮かぶバーマス鉄橋のシルエット

まだひっそりとした朝のバーミンガム・インターナショナル Birmingham International 駅5番線から、私たちのウェールズへの旅が始まる。ここはバーミンガム空港の最寄り駅だ。ホームにはすでに、西海岸へ直通する4両編成の列車が停車している。側面をピーコックブルーに塗った気動車158形エクスプレス・スプリンターだ。きょうは終日いい天気になると、テレビの予報が言っていた。車両の屋根越しに射し込んでくる朝日がまぶしい。

今回(2016年8月)の旅では、西海岸のポースマドッグ Porthmadog に宿を取っている。そこを足場に、ウェールズの北・中部に残る小鉄道群を訪ね歩く計画だ。バーミンガム・インターナショナルからポースマドッグまでは253km、列車で4時間40分もかかる。小縮尺の地図では近そうに見えるのだが、本州に住む人が北海道の距離感覚にとまどうのと同様、グレート・ブリテン島も想像以上に広い。

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中部ウェールズ直通列車の走行ルート、シュルーズベリー以西はカンブリア線を通る
基図は "National Rail Timetable Map 2003-2004" を使用  (c) Network Rail, 2016

ウェールズのローカル線は、2003年からドイツ鉄道(DB)の関連会社アリーヴァ・トレインズ・ウェールズ Arriva Trains Wales が運行している。列車はシュルーズベリー Shrewsbury を経由して途中マハンレス Machynlleth で分割され、前2両が北のプスヘリ Pwllheli 行き、後ろ2両が南のアベリストウィス Aberystwyth 行きだ(下注)。私たちの目的地はプスヘリ方面だが、耳慣れない地名ばかりなので、乗り間違えないように注意しなくてはいけない。

*注 これは始発駅での編成。後述のようにシュルーズベリーで進行方向が変わるため、以降は前後が逆になる。なお、2016年現在、平日のプスヘリ方面は2時間間隔、アベリストウィス方面は1~2時間間隔の運行。

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バーミンガム空港とインターナショナル駅を直結するエアレール・リンク AirRail Link(無人運転のシャトル)
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朝のバーミンガム・インターナショナル駅
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中部ウェールズ直通列車はアリーヴァ・トレインズ・ウェールズが運行

切符は、駅の窓口でウェールズの公共交通のフリーチケットを買った。「エクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass」といって、ウェールズ内のナショナル・レール(下注)と路線バスに使える。価格は大人99ポンド。有効期間は連続8日で、鉄道にはその中で4日(自由選択)、バスには8日間とも乗れる。鉄道は本数が少ないので、それを補完する路線バスが自由に乗れるのはありがたい。それに、各地の保存鉄道もこれを見せると所定の割引が受けられる。通常20%引きだが、距離の長いフェスティニオグとウェルシュ・ハイランドでは50%引きという寛大さだった。

*注 「ナショナル・レール National Rail」は実体のある事業者名ではなく、旧イギリス国鉄 British Rail (BR) の路線を主に運行する旅客輸送事業者 TOCs が共通的に使用しているブランド名。日本でいえば総称としてのJR(ただし旅客輸送のみ)のようなもの。

ちなみに北ウェールズあるいは南ウェールズだけを回るなら、これより安い地域版(66ポンド)があり、さらに短期滞在用に有効1日のローヴァーチケットも用意されている。いずれも現地でしか買えないが、ブリットレールパス(下注)よりずいぶんと安く上がるのは確実だ。

*注 ブリットレールパス BritRail Pass は、ナショナル・レールの外国人旅行者専用フリーパス。

ただし、ウェールズ・パスにも難点がある。指定のローカル線を除いて、平日は9時15分以降有効、つまり朝の通勤通学時間帯には使えないのだ。きょうは月曜日。駅の改札機が時間までチェックするとは思えないが、車内検札でペナルティを払わされるのは避けたい。それで、列車が有効時間帯に入るシュルーズベリーまで、別に自販機で乗車券を購入しておいた(下注)。

*注 蛇足ながら、帰りはこの切符でバーミンガム・ニューストリート駅の改札機を出入りできたので、イングランドでもアリーヴァの運行区間なら有効のようだ。

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エクスプローア・ウェールズ・パス、これとは別に利用日付を記入する副券あり

列車は、インターナショナル駅を定刻の8時09分に発車した(下注)。渡り線をゴトゴト渡って左の線路に移り、速度を上げていく。予約の札が立っている座席はざっと半分で、始発駅ではまだ座る場所を選ぶ余地があった。しかし、バーミンガムの中央駅であるニュー・ストリート New Street である程度の乗車があり、シュルーズベリーでは、ついに通路を含めて満杯になった。のんびりしたローカル線を予想していたのに、大外れだ。隣に座ってきた老婦人はロンドン在住で、今はウェールズ西海岸のタウィン Tywyn に避暑に来ている、と話した。彼女によればこの集団は、シュルーズベリーで開かれていたフラワーショーを見て帰る人たちなのだそうだ。

*注 この中部ウェールズ直通列車は、かつてニュー・ストリート駅止まりだったが、2008年にインターナショナル駅まで延長された。空路との乗継ぎがスムーズになっただけでなく、大ターミナルでのタイトな折返しで多発していた遅延も減って、運行実績が改善したという。

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イングランドの麦畑の中を行く

シュルーズベリーで進行方向が変わり、列車はこの先、カンブリア線 Cambrian Line(下注)と呼ばれる中部ウェールズで唯一廃止を免れた旧国鉄線に入っていく。ウェルシュプール Welshpool の手前に「国」境がある。車窓はまだ、イングランドと同じのびやかな田園地帯が続いているが、駅名標は2言語併記になって、異国に入ったことを無言で告げていた。

*注 カンブリア Cambria は、ウェールズ(ウェールズ語でカムリ Cymru)のラテン名。ちなみに地質時代区分のカンブリア紀は、英国でこの時代の岩石の露出が最も多い地域であったことに由来する。

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(左)シュルーズベリー駅で多数乗車
(右)ウェールズ最初の駅ウェルシュプール、駅名標は2言語併記

列車は、建設当時世界一と言われた深さ37mの切通し(タレルジッグ切通し Talerddig cutting)でカンブリア山地 Cambrian Mountains の分水界を越える。森を掻き分けるように坂を降りていくと、ダヴィー川 Dovey River (Afon Dyfi) の広い谷に出た。点在する建物が、赤煉瓦からグレーの石積みに変わっていることに気づく。ウェールズの建築様式だ。中部ウェールズの入口に当たるマハンレス駅では12分停車して、列車の切離し作業が行われた。

*注 アベリストウィス方面については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-アベリストウィス・クリフ鉄道」で触れている。

先行するアベリストウィス行きを見送って数分後、私たちのプスヘリ行きも発車した。実際に線路が分岐するのは次のダヴィー・ジャンクション Dovey Junction 駅で、西を目指してきた線路が、片方は南へ、もう片方は北へと進路を変える。実は海岸までまだ10kmほどあるのだが、ダヴィー川の河口は広大な三角江(エスチュアリーまたはエスチュエリー estuary)になっているため、川幅が狭いうちに渡っておく必要があるのだ(下注)。

*注 当初は河口(アニスラス Ynyslas ~アバーダヴィー Aberdovey 間)に長大な鉄橋を架ける計画で、一時、港までの仮線を敷いて渡船連絡を行っていた。しかし架橋は実現せず、代わりに現在のダヴィー川右岸(北岸)を縫うルートが造られた。

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(左)マハンレス駅でアベリストウィス行きを切離し
(右)実際の分岐駅ダヴィー・ジャンクション、直進はアベリストウィス方面、右に曲がるのがプスヘリ方面
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海岸沿いの湿地帯は野鳥の楽園(タウィン Tywyn ~トンヴァナイ Tonfanau 間)

保存鉄道に乗るのが主たる目的なので、ナショナル・レールの車窓風景には大して期待していなかった。ところがどうして、これはイギリスでも指折りの海景ルートだ。列車は、カーディガン湾の波打ち際を舐めるように走るかと思えば、断崖の上から白く煙る大海原を眺め下ろす。往路、遠浅の河口には目の届く限り砂浜が広がっていたのに、帰りは満潮で線路際まで水が押し寄せていて、まったく別の風景に写った。

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(左)カーディガン湾に沿って北上
(右)マウザッハ川の河口に接近(フェアボーン Fairbourne 南方)

中でも絶景と言えるのが、マウザッハ川 Afon Mawddach に架かるバーマス鉄橋 Barmouth Bridge の前後区間だ。この川も例に洩れず広い三角江をなしていて、カンブリア線は河口近くでこれを横断する。1867年に完成した鉄橋は、長さが699m(下注)。113本の鋳鉄製橋脚が木造トレッスルを支え、その後に、河道をまたぐ2連の下路アーチが続いている。アーチ橋は、当初船を通すために跳上げ式の構造になっていたそうだが、1899年に旋回式に改築され、それが現存している。速度制限の標識が建っていたが、列車は平然と通過していった。渡り終えた後、左の車窓から振り返ると、橋の全貌が見渡せる(冒頭写真)。黒ずんだ頑丈そうなアーチと、整然と並ぶ華奢な橋脚の取り合わせが絶妙だ。

*注 長さには諸説あるため、ここでは英語版ウィキペディアの数値を記した。

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マウザッハ川の三角江を横断するバーマス鉄橋
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バーマス鉄橋。木造トレッスルに旋回式のトラス橋が接続

列車がバーマス Barmouth 駅に到着すると、多数の人が下車した。ホームの賑わいが、沿線でも人気のある観光地であることを教えている。路線も末端に近づいてきたからか、走行音が短尺レールのそれに変わり、速度もやや落ちたようだ。列車はリクエストストップ扱いの小駅にも、けっこう律儀に停まっていく。フィーンフォーンと聞こえるユーモラスな警笛は、都会ではちょっと間が抜けているのだが、開放的な海岸の景色にはマッチするような気がする。

車窓最後の名所は、ハーレフ(ハルレッフ)駅に程近い丘の上に立つハーレフ城 Harlech Castle だ。13世紀ウェールズ王国を征服したエドワード1世が拠点にした城の一つで、世界遺産にも登録されている。列車の窓からもその威容が拝めるが、訪れた家内によると、城の上から一望できるカーディガン湾の景色はまた格別なのだそうだ。

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丘の上に立つハーレフ城の足元を列車は走る

架け直された道路併用橋でドゥアリド川 Afon Dwyryd を渡ると、列車の針路は再び西へ変わる。三角江の岸辺をなぞり、後で乗るフェスティニオグ鉄道と交差し、湿地を横断する長い直線路を渡りきれば、目的地のポースマドッグだ。2面2線のがらんとした無人駅にも、それなりの客が降り立った。プスヘリの終点まであと20km走り続ける列車を見送って、私たちは宿へ向かった。

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ポースマドッグ駅に到着

■参考サイト
Cambrian Lines  http://www.thecambrianline.co.uk/
Arriva Trains Wales  https://www.arrivatrainswales.co.uk/

【付記】 ウェールズ語の表記について

ウェールズの公共の表示は、英語とウェールズ語の併記が原則だ。地名も概してウェールズ語由来だが、読み方は一様でない。"Porthmadog" は、バーミンガムの切符売り場でポースマドッグ(スは[θ])と聞いたが、現地の列車の車掌氏は巻き舌を効かせてポ「ル」スマードッグと発音した。カーナーヴォン Caernarfon も、現地読みはカイルナルヴォンだ(「ル」は巻き舌)。また、"Aberdovey" は、ウェールズ語で河口の意の Aber(アベル)と、ウェールズ語による川の名 Dyfi(ダヴィー)を英語化した Dovey(ダヴィー)との合成で、車掌氏はアバドーヴィーと発音した。現地でそうだから、日本語表記はなおさら混乱している。

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路面に記された「徐行」の文字も2言語で

加えて、日本語では書き表しようのない音があり、中でもエルを2つ重ねた "ll" が難題だ。本稿では原則として、語頭に来るときは「ス+ラ行音」(例:スランディドノ Llandudno)、語中で母音の前では「ラ行音」(例:マハンレス Machynlleth)、語中で子音の前では「ス」(例:プスヘリ Pwllheli)で表記した。ただし、慣用の読みがある場合はそれに従う(例:スランゴスレン Llangollen)。もちろんウェールズ語の発音が位置によって変化するのではなく、日本語での書き分けに過ぎない。

次回は、ここポースマドッグを拠点にするフェスティニオグ鉄道に乗る。

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 スランゴスレン鉄道乗車記

2016年12月17日 (土)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

午前5時過ぎのロス・モチス駅。真っ暗な中にここだけ蛍光灯が煌々と灯る待合室には、スーツケースを引いてきた旅行者が10数人、列車の搭乗を待っていた。隅の出札窓口は1等急行とエコノミー(普通列車)に分かれている。2016年3月1日から1等急行の切符は車内では発売しないので事前に購入のこと、と注意書きが見えた。駅で買って乗るように、ということだ。ところが目を疑うことに、窓口には昼間の取扱時間しか書かれていない(下注)。列車は早朝に1本だけなのだが。

*注 掲示によると取扱時間は、月・木 10:30~14:30、15:00~17:30、火・水・金 9:00~12:00。

がらんとしたホームに、チワワ Chihuahua 行き1等急行列車はすでに据えつけられている。フェロメックス Ferromex(メキシコ国鉄)のいかつい顔をしたディーゼル機関車の後ろに食堂車1両、客車3両という簡素な編成だ。発車時間が近づくと、ぞろぞろと客が集まってきて、係員氏が搭乗のチェックを始めた。客はみな旅行社かどこかで予約を入れてきているらしい。切符を持っていないと告げると、スペイン語で答えが返ってくる。だが通じないと見た係員氏は、とにかく乗れと身振りで示してくれた。

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夜明け前のロス・モチス駅で発車を待つチェペトレイン
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ロス・モチス駅 (左)待合室に人が集まり始める  (右)乗車開始

6時00分、定刻にチェペトレインはホームを後にした。チェペ Chepe というのは、チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)の愛称だ。駅や列車のあちこちでそのロゴを見かける。車内に入ると、通路を挟んで2人掛けのゆったりしたリクライニングシートが並んでいるが、始発駅ではまだ空席が多い。車掌が回ってきたので、手書きの乗車券を切ってもらう。

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(左)1等急行車内、始発駅からの乗客はまだ少数
(右)座席配置図(備え付けの安全のしおりに掲載)

出発したときは薄暗かったのに、東の空が見る見る明るんできた。きょうも快晴のようだ。食堂車へ行くと、テーブルにはすでにクロスが敷かれ、食器とナプキンがセットされている。ほかの乗客も朝食を求めて次々と客車から移ってきた。

夜が明けると、列車は遠くに小山を望む平原を走っている。ほかに見えるのは、林と空地と雑多な建物群ぐらいだ。本来、貨物鉄道なので、軌道はロングレールでバラストも厚く、速度が上がっても乗り心地は悪くない。南北幹線との分岐駅、多数の貨車が休むスフラヒオ Sufragio を通過。車内に朝日が差し始め、食事を終えたテーブルに濃い影をつくった。

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走るうちに東の空が白み始める
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朝食
(左)朝食メニュー、通貨単位はメキシコペソ
(右)ウエボス・チェペ Huevos Che Pe を注文。説明によれば、農場風ソースをかけたマチャカ(乾燥肉)入りウエボス・エストレジャードス(フライドポテトの目玉焼き載せ) Huevos estrellados con machaca bañados en salsa ranchera

8時20分、エル・フエルテ El Fuerte 着。フエルテ Fuerte とは砦(英語の fort)のことで、16世紀の探検時代に軍隊の駐屯地だった。駅からかなり離れているが、旧市街はプエブロ・マヒコ Pueblos Mágicos(下注)にも選定されている。それとセットのツアー客なのだろう。簡易屋根の待合所にたむろしていた人たちが大勢乗り込んできて、車内はにわかに活気づいた。

*注 プエブロ・マヒコ(スペイン語で魔法の村の意)は、魅力的な市街や村を選定するメキシコ政府観光局の観光振興プログラム。

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エル・フエルテ駅 (左)8時20分到着 (右)多数の乗車がありほぼ満席に

線路にカーブが目立ち始め、大サボテンがまるで記念碑か何かのように、周りの灌木を圧して突っ立つ。列車は信号場のような小駅をいくつか通過した後、9時半過ぎにフエルテ川 Río Fuerte に差し掛かった。部分上路トラスのリオ・フエルテ橋梁は、長さが499mと路線随一だが、それだけでなく水面から結構な高さもある。自然のまま流れる泥色の大河に影を落としながら、列車は飄々と通過した。

*注 本稿記載のトンネルと橋梁の長さは、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014, p.123 のリスト掲載のフィート数値をメートルに換算した。

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(左)灌木の生える丘陵地を行く (右)記念碑のように立つ大サボテン
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路線最長のリオ・フエルテ橋梁を渡る

橋梁を境にして、西シエラネバダ山脈の西斜面を上る山岳線区間に入る。まずは東西に横たわる前山を越えなくてはならない。灰青色の油煙を勢いよく吐きながら、機関車は勾配のついた線路に挑み続ける。エル・デスカンソ El Descanso の無人駅を見送ると、まもなくトンネルに突っ込んだ。海側では初めてのトンネルとなるこの第86号(エル・デスカンソトンネル)は、前山を一気に抜けるもので、1,807m(現地標識は1,823m)と路線では最長だ。

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(左)山並みをめざして (右)信号場の小駅にも簡易のベンチ(ロス・ポソス Los Pozos)
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(左)前山を抜ける第86号トンネル
(右)トンネルを出るとウィテスダム湖が広がる。正面奥の谷がこれから上るセプテントリオン川の谷

闇が晴れると、やがて右手に湖面が現れる。フエルテ川を堰き止めて1995年に完成したウィテスダム Presa Huites(正式名 ルイス・ドナルド・コロシオダム Presa Luis Donaldo Colosio)の湖だ。対岸には重量感のある山塊が居座り、ところどころ剥き出しの岩肌を見せて威嚇している。峡谷の入口に到達したと実感させる光景だ。10時過ぎ、列車は右に大きくカーブして、湖面の上を鉄橋で一跨ぎした。さざ波立つ青い湖水が緑の山並みに映えて、予想外のいい眺めだった。このチニパス橋梁 Puente Chinipas は、全長291mで路線第二の長さがある。湛水した現在はともかく、完成当時は谷底からの高さが105mもあったそうだ。

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(左)ダム湖を渡るチニパス橋梁 (右)橋上からは予想外のいい眺め

いよいよ列車は、セプテントリオン川 Río Septentrión の谷を上流へ遡っていく。湖はほどなく後ろへ去り、川は渓流となって谷底を這う。両岸の切り立った断崖が牙をむき、見上げると山上で尖った岩の塔が青空に列をなしている。このあたり、谷は非常に深く刻まれ、頂との高低差は1,500mにもなる。急傾斜の岩は脆くて落石が多いので、主要列車が通る前に、軌陸車(下注)が線路の点検に回るのだという。

*注 軌陸車は、トラックなどの道路車両に軌道用の車輪を装備した保線用車両。これにより道路と同様、線路でも走ることができる。英語ではハイレール hi-rail(ハイウェーとレールからの造語)などと呼ばれる。

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セプテントリオン川の谷に分け入る
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(左)線路を巡回する軌陸車に遭遇 (右)落石防止の工事施工中
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(左)谷が深まる中流部ではトンネルと橋梁が多数 (右)川床からかなりの高さがある

20を超えるトンネルと無人駅を3つ通過した後、線路は川を渡って左岸(谷の東側)に移った。すると、左の席の乗客が外を指差して何か言っている。見ると、高い岩山の中腹に、鉄橋の朱いガーダーと巨大な銘板が架かっている(下写真)。資料によると、古い鉄道レールで組んだ銘板には、こう記されているそうだ。「チワワ太平洋鉄道は、メキシコ革命50年を記念してアドルフォ・ロペス・マテオス共和国大統領により開業した。1958年までの投資額3億9千万ペソ、1959~1961年の投資額7億4,400万ペソ。公共事業大臣。」(下注)

*注 原文は次の通り。"F. C. Chihuahua al Pacífico fue puesto en servicio por Adolfo López Mateos, Presidente de la República, en conmemoración del cincuentenario de la Revolución Mexicana. Inversión hasta 1958 $ 390,000,000.00. Inversión en 1959-1961 $ 744,000,000.00. Secretaria de Obras Públicas."

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テモリスに接近
(左)セプテントリオン川を渡りながら反転。上段に橋梁と巨大な銘板が見える
(右)古い鉄道レールで組んだ開通記念の銘板

ここが鉄道の名物景観の一つ、テモリス Témoris の3段ループだ。線路はまず大きく左に回りながら、長さ218mの鉄橋で川を渡り、向きを反転した形でテモリス駅へ滑り込む。エル・フエルテ以来の停車駅で、時刻はもう11時20分だ。駅を出ると、そのまま斜面を上っていく。そして、長さ932mの第49号トンネル(ラ・ペーラトンネル Túnel la Pera)の中で右に半回転してから、最上段のテラスに飛び出す。そこから見下ろす峡谷の風景は、あたかも良くできた鉄道模型だ。聳え立つ岩山が影を落とす緑の小盆地、その縁を廻るように敷かれた単線の線路。急カーブしたガーダー橋と、貨車が休む小さな駅。

■参考サイト
テモリス付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.2561,-108.2598,15z?hl=ja

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テモリス駅
(左)列車は南を向いている (右)チェペ全通50周年(2011年)の記念碑
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テモリスの3段ループ全景
線路は右下から来て、奥の鉄橋を渡り、左の駅を手前に進み、トンネルで半回転してこの写真の撮影地へ出てくる。さらに左の山腹を進み、奥の山塊をトンネルで抜ける
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ループ最上段を走る列車から下の鉄橋を望む。モニュメントのような岩山が印象的

この迂回で高度をかなり稼いだはずだが、傍らの川はかなりの急流で、長いトンネルを抜けたところで、もう線路の近くまで上ってきている。またしばらく、谷川とのおつきあいが続く。次のソレダー Soledad 駅の先にもオメガループの寄り道があるが、走るにつれて、周りの景色は溪谷から高原へと表情を和らげていった。

12時20分着のバウィチボ Bahuichivo では、久しぶりに大きな集落に出会うことができた。下車した人たちは、きっと南方にある峡谷観光の拠点チェロカウィ Cerocahui を訪れるのだろう。赤屋根の家と果樹園が点在するクィテコ Cuiteco の村を見送った後は、また溪谷の中だ。オメガループが計3回。最後のそれを回り終えると、3時間かけて遡ってきたセプテントリオン川は見納めになる。

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(左)車窓は高原の様相を帯びてくる (右)チェロカウィへの最寄りとなるバウィチボ駅
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赤い屋根と果樹園が点在するクィテコの村

この後鉄道は、激しい浸食を辛うじて免れた形の、回廊状の高原の上を伝っていく。地勢としては尾根筋だが、鉄道を通すには手ごわい起伏も待っている。最初の試練は、峠のトンネルを出てすぐのラ・ラーヤ La Laja だ。だが、概して羊腸の山岳ルートでは例外的に、ここの線形は大胆だ。大きく口を開けた谷を長さ212mのPC橋梁でひとまたぎし、立ちはだかる山を長さ465mのトンネルで貫いていく。

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ラ・ラーヤ橋梁 (左)木の間越しに橋梁がのぞく (右)線路は珍しく直線的

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1:1,000,000(100万分1)地形図で見るチワワ太平洋鉄道第二区間(山岳区間)のルート、図中の枠は下図2の範囲
米国国防地図局DMA発行ONC H-23(1988年改訂)
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

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クリル~ラ・ラーヤ間の拡大図(縮尺1:250,000)
赤で加筆した鉄道ルートは、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" に基づいているため、原図とは一致しない
米国空軍航空図・情報センター発行JOG NG12-3 Ciudad Obregon(1968年編集)、JOG NG13-1 Creel (1969年編集)を使用
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

13時15分、サン・ラファエル San Rafael 駅に到着。機関車を転回する三角線が備わり、山岳区間の運行基地を任されている。乗務員も交替するので、列車は10分ほど停車する。鮮やかな原色の服をまとった地元タラウマラ族の売り子たちが、列車の周りに集まってきた。手編みの籠や袋詰めの果物を両手いっぱい持っているが、一様におとなしくて商魂には欠けるようだ。

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手編みの籠と果物を売るタラウマラ族の女性。サン・ラファエル駅にて

次は、珍しく棒線駅のポサダ・バランカス Posada Barrancas だ。峡谷の宿という意味の駅名どおり、宿泊施設が集中するアレポナプチ Areponápuchi 地内に設置されている。線路をはさんで両側にプラットホームがあった。人気の観光地で利用者が多いので、乗車ホームと降車ホームを分離しているのだ。秘境のはずが、これではまるで都会の駅ではないか。エル・フエルテから乗ってきた客も大方ここで降りた。

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ポサダ・バランカス駅 (左)1線2面の駅 (右)乗車と降車でホームを分離。写真は降車用

出発してまもなく、フランシスコ・M・トーニョ Francisco M. Togno 信号場で、対向待ちのロス・モチス行き列車と行違う。トーニョは、山岳区間の建設工事を指揮した主任技師だ。チワワ~トポロバンポの中間に近い場所に、功労者の名が残されているのも故ないことではない。

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フランシスコ・M・トーニョ信号場 (左)ロス・モチス行きと交換 (右)束の間の出会い

14時、列車はもう片方の観光拠点、ディビサデロ Divisadero に停車する。前回も記したように、厳密に言うと、鉄道はバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(コッパー・キャニオン)の中を通っていない。険しく複雑な断崖が続くため、とうてい線路を敷く土地がないからだ。それで、絶景を見渡せる唯一の場所が、崖っぷちに最接近する当駅ということになる。列車はここでも20分停車するから、展望台に出て、ウリケ川 Río Urique が刻んだ大峡谷の奇跡的な景色を堪能することができた。

■参考サイト
ディビサデロ付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.5345,-107.8245,17z?hl=ja

旅行書ロンリー・プラネットは書く。「駅には土産物屋や色鮮やかな屋台村もあるので、時間には気をつけたい。間に合わせのオイルドラムストーブで調理されたゴルディタス gorditas(マーサケーキ、ブルーコーンで作られたものもある)、ブリートー burritos(肉・チーズなどのトルティーヤ包み)、チレ・レジェーノ chiles rellenos(トウガラシのチーズ詰め)だけでも、足を止めるに値する」(下注)。

そればかりか、近所にはジップライン、ラペリング、ロッククライミングなど、冒険的アトラクションも揃っている。一日ここで過ごせればいいのだが、そうでない場合は、絶景を記憶にとどめて先へ進まなくてはいけない。

*注 残念ながら、飲食物を客車へ持込むことはできないそうだ。

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ディビサデロ駅では峡谷展望のために15~20分の停車がある
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バランカ・デル・コブレのパノラマ
コブレ(銅の意)の名は、岩肌が地衣類に覆われて緑(青銅色)に見えることから
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ディビサデロ駅前に色鮮やかな土産物屋や屋台が並ぶ

14時20分、ディビサデロを発車。カーブだらけの線路をしばらくのろのろと走った後、15時ごろ、エル・ラーソ El Lazo(スパイラル、日本でいうループ線のこと)を通過した。上り勾配の途中で、下の線路は切通しと短いトンネル、上の線路はそれをアーチ橋でまたいでいる。アーチの直下は切り通しなので、オープンスパイラルと言って間違いない。

■参考サイト
エル・ラーソ(スパイラル)付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.6549,-107.7390,17z?hl=ja

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エル・ラーソ(スパイラル)通過中

次のオヒトス Ojitos 信号場が、路線の最高地点となる。標高はおよそ2,438m(約8,000フィートの換算値)に達している。後はおおむね下り坂だ。エル・バルコン El Balcón と呼ばれる長いオメガループを廻ると、右車窓に人里が見えてきて、まもなく一帯の中心地クリル Creel に到着した。時刻は15時40分、ほぼ定刻の運行だ。クリルも峡谷観光の拠点なので、残っていた乗客もここであらかた下車してしまった。

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クリル駅 (左)町は一帯の中心地で峡谷観光の拠点 (右)チワワ行きの入線

クリルから先は、西シエラマドレ山脈の東斜面になる。しかし実態は、今たどってきた高原地帯の続きと言ったほうが正確だろう。列車はまだしばらく、山中の気配が漂う中を行く。
クリルを出発してすぐ、路線で2番目、長さ1,260mの第4号トンネル(コンチネンタルトンネル)をくぐる。その名が示すように、カリブ海と太平洋を分かつ大陸分水嶺の下を抜けるトンネルだ。全通の際にルートが変更された区間で、以前は25‰の急勾配と数度のオメガループを駆使して峠を乗り越していた。その跡はダート道路になっているようで、空中写真でも追跡することができる。

また上り勾配に転じて、サン・ファニート San Juanito に16時20分着。峡谷圏はここまでで、以降、チェペトレインは沿線に点在する地方の町や村に目もくれない。支線と合流するラ・フンタ La Junta 駅も通過してしまうので、残る中間停車駅はクアウテモック Cuauhtémoc のみだ。

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潤いのある渓谷と乾燥した広大な盆地が交互に現れる

残っていた客もクリルであらかた降りてしまい、あれほど賑やかだった車内は嘘のようにがらんとしている。ツアー客はおそらくハイライト区間だけつまみ食いして、帰りは観光バスに身を任せるのだろう。人口の張り付く平野や盆地では閑散としているのに、人気のない山中に入ると賑やかになるというのも皮肉な現象だ。

少し早いが夕食を取ろうと思い、食堂車に足を向けた。ロス・モチスの出発直後のように、ここでも人影は数えるほどしかない。赤い夕日が差し込むテーブルに着き、キンキンに冷えた缶ビールを開けて、メキシコ唯一の長距離列車旅を締めくくろう。終点チワワの到着予定は20時54分だ。時間はまだたっぷりある。

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チワワ駅 (左)夜のとばりが降りた駅構内に接近 (右)20時54分全行程終了

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

2016年12月11日 (日)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

見る者を圧倒するような大峡谷といえば、アメリカのグランド・キャニオンがまず思い浮かぶだろう。ところが、お隣のメキシコには、それさえ凌ぐほど広大で深く刻まれた谷があるという。スペイン語でバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(下注)、英語でコッパー・キャニオン Copper Canyon と呼ばれるその地形は、同国北西部、西シエラマドレ山脈 Sierra Madre Occidental がカリフォルニア湾岸の低地に臨む一帯に広がっている。

*注 バランカ・デル・コブレは複数の峡谷(エル・コブレ El Cobre、ウリケ Urique、シンフォローザ Sinforosa、バトピラス Batopilas、オテロス Oteros など)の総称でもある。原語が複数形(バランカス Barrancas)なのはそのため。

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バランカ・デル・コブレの展望。ディビサデロにて

今回取り上げるチワワ太平洋鉄道(チワワ・パシフィック鉄道)は、その峡谷を一望できる展望台が第一のセールスポイントだ。しかしそれだけでない。鉄道自体が、中央高原と太平洋を直結する使命を背負い、険し過ぎてまともな道さえなかったコッパー・キャニオンの横断に挑んでいる。その結果、標準軌としては世界屈指の山岳鉄道が出現した。これから2回にわたって、驚異の路線の来歴と変化に富んだルートを紹介したい。

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奇岩が空を限るセプテントリオン谷
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路線最長のフエルテ川橋梁

チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)は、メキシコ高原北部のチワワ Chihuahua(下注)とカリフォルニア湾に臨む天然港トポロバンポ Topolobampo を連絡する673.0kmの路線だ。名前が長いので、現地では、チワワとパシフィコの頭文字(ChとP)を取って「エル・チェペ El Chepe」と呼ばれる。

*注 チワワは州名でもあるので、区別するときはチワワ市 Ciudad de Chihuahua(英訳 Chihuahua City)と書かれる。ちなみに犬種のチワワは当地方が原産。

今でこそ国内で完結しているが、本来の構想ははるかに壮大だった。1880年にメキシコ政府の承認を受けた計画は、アメリカ中央部から太平洋岸を目指す大陸横断鉄道だったのだ。それを引き継いだのが、鉄道経営者のアーサー・エドワード・スティルウェル Arthur Edward Stilwell で、1900年にカンザスシティを起点に、プレシディオ Presidio(オヒナガ Ojinaga)で米墨国境を越えてトポロバンポを終点とする総延長2,670kmの鉄道建設を開始した。当時、スティルウェルは経営していた別の鉄道が破産して失意の底にあったのだが、励ましのために誘われたパーティーで、集まった人々を前にこの計画を打ち明けた。北米大陸の地図に紐を当てながら、彼は、このルートこそ太平洋への最短距離であることを人々に納得させたという(下図参照)。

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スティルウェルの大陸横断鉄道構想を赤のルートで示す
黒のルートは競合する大陸横断鉄道(の一部)

設立されたカンザスシティ・メキシコ・アンド・オリエント鉄道 Kansas City, Mexico and Orient Railway が、線路の建設を進めていった。メキシコ国内では、1907年に峡谷の東の入口クリル Creel に達した。しかし、その先は険しい地形に阻まれて着工の見通しが立たなかった。アメリカ国内でも、サザン・パシフィック Southern Pacific など他の大陸横断鉄道が、競合を懸念して陰で妨害していたと言われる。さらに1910年にメキシコで政変が起きると、沿線で破壊行為が頻発して、不通個所が拡大していく。運賃収入が急減した会社は、結局、計画未完のまま、1912年に倒産してしまった。

その後、経営体はアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway を含めて何度か交替するものの、クリル以西の延伸については長らく手付かずのままだった(下注)。1940年に鉄道が国有化されたことで、ようやく翌年から国営事業として工事が再開されることになる。

*注 アメリカとメキシコ区間の接続も遅れ、最後の空隙だったアルパイン Alpine から国境のプレシディオ Presidio の間が1930年に完成している。

海側では、線路がすでにエル・フエルテ El Fuerte の先まで延びていたので、クリルとの間に残されていたのは約280kmに過ぎなかった。ただし、一方は海岸低地、一方は山脈の肩に位置しており、標高差は2,300m以上もある。そのため、後で見る通り、2点をつなぐルートは非常に複雑で、足掛け20年にわたる長期の工事となった。ルイス・コルティネス Ruíz Cortines 大統領臨席のもと、国民待望の開通式が1961年11月 24日に挙行され、最初の構想から80年の長い時を経て、ついに峡谷を越える新たな交通路が日の目を見たのだ。

地下鉄とライトレールを除くと、今やメキシコで定期旅客列車を運行しているのは、この鉄道が唯一だそうだ。それで「チェペトレイン(スペイン語でトレン・チェペ Tren Chepe)」は、峡谷を訪れる観光客はもとより、地元住民にとっても大切な交通手段になっているらしい。2015年のダイヤによれば、旅客列車はチワワ~ロス・モチス Los Mochis 間653.1kmで、プリメラ・エクスプレス Primera Express(1等急行) が毎日1往復、クラセ・エコノミカ Clase Económica(普通列車)が週3往復設定されている。

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目立つロゴを配したチェペトレイン
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ロス・モチス駅の出札窓口は列車別

1等急行でも朝6時の出発で、終点に到着するのは夜の20時半から21時前という所要14~15時間の長旅だ。そのため、ハイライト区間のみを利用するツアー客が多い。一方、普通列車は、地元住民のために主要駅のほか50以上あるフラッグストップでも乗降を扱い、乗り通すなら1時間ほど余計にかかる。どちらも途中のディビサデロ Divisadero で、乗客が峡谷の眺望を楽しめるよう、15~20分の長い停車がある。

1等急行の編成は、定員64人の空調つき客車2~3両と食堂車1両だ。普通列車も同じ収容力の客車を使うが、食堂車は付随せず、代わりに売店がある。1等急行の運賃は普通の2倍近くするのだが、食事代は含まれておらず、普通に対する優位性はあまり高くない。それで普通列車のほうに人気が集まり、選択肢が1等しか残っていないこともしばしばある、と旅行書ロンリー・プラネットは注意を促している。

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1等急行車内
(左)リクライニングシートが並ぶ客車 (右)食堂車は木を使った暖かみのある内装

そのチワワ太平洋鉄道のルートだが、通過する地形を基準にすると、大きく3つに区分できるだろう。チワワ側から言えば、一つ目はチワワ~クリル間、メキシコ高原から西シエラマドレ山脈の東斜面をゆっくり上っていく約300kmだ。乾燥した盆地といくらか潤いのある溪谷が交互に現れ、その間に標高は1,400mから2,400mまで上昇する。

当区間は開通が1907年と早かったので、国営化後に路盤改良やレールの重軌条化が施工されており、線形を良くするために一部でルート変更も行われた。中でも規模の大きなものは、クリルの手前(東方)に造られた長さ1,260mのコンチネンタルトンネル Túnel Continental だ。旧線は、大陸分水嶺でもあるこの峠を25‰勾配と数か所のオメガループで乗り越えていたが、新トンネルの完成により勾配は20‰に緩和、距離も約3km短縮された。

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第一区間は高原に広がる盆地と渓谷が交互に現れる

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1:1,000,000(100万分1)地形図で見るチワワ太平洋鉄道のルート
第一区間のうち、チワワ~サン・ファニート、太字の駅名は1等急行停車駅

二つ目は、最終開通区間とも重なっている。クリルを出発して、山脈の西斜面を滑り降り、路線最長の橋梁でフエルテ川を渡るまでの約220kmだ。ここで鉄道は、スパイラル(日本でいうループ線)やテモリス Témoris にある3段ループ、さらには多数のトンネルと橋梁を連ねて、地形の障壁に立ち向かう。ディビサデロでの眺望チャンスを含めて、全線のハイライト区間であるのは疑いない。

下の地図でわかるとおり、ルート設定は非常に巧妙だ。鉄道を敷くには険しすぎるコッパー・キャニオンの本体には、実は一度も足を踏み入れていない。クリルからは、まず南西へ延びる尾根の上をたどる。それから、比較的浸食度が浅いセプテントリオン川 Río Septentrión の谷にとりつき、この中を終始下りていくのだ。貨物列車の走行を考えると、線路勾配は最大でも25‰に抑える必要がある。そのため、急流部では高度を稼ぐために何度も折り返しているのだが、それでもコッパー・キャニオンの懸崖と格闘することを思えば、はるかに通過は容易だっただろう。

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第二区間、テモリスの大規模ループを見下ろす
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第二区間、峡谷の入口にあるウィテスダムの湖面

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第一区間終端~第二区間:サン・ファニート~フエルテ川橋梁

三つ目は、トポロバンポで最終的に海に出会うまで、太平洋岸低地を淡々と走る160kmの道のりだ。エル・フエルテまでは起伏のある灌木林を縫っていくが、その先は一面の平野が広がっている。なお、旅客列車はトポロバンポまでは達せず、20km手前の主要都市ロス・モチスが終点になる。

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第三区間は、丘陵そして平野をひた走る

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第三区間:フエルテ川橋梁~トポロバンポ
以上3図は、米国国防地図局 DMA 発行 ONC H-23(1988年改訂)、H-22(1974年改訂)を使用
images from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

折しも海側ロス・モチスからチワワまで、山を上っていく列車の車窓写真を提供いただいた。それをもとに次回、チワワ太平洋鉄道の机上旅行を楽しんでみたい。

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

2016年12月 4日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II

第一次世界大戦の戦後処理では、ベルギーが最後まで主権の行使にこだわったフェン鉄道だが、その後どのように使われたのだろうか。

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レートゲン(レートヘン)駅、ザンクト・フィート方向(2008年)
Photo by Les Meloures from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

まず軍用面では、荷主がベルギー軍に代わったものの、ドイツから接収したエルゼンボルン Elsenborn 演習場に向けて、最寄りのズールブロット Sourbrodt 駅まで、軍用列車が引き続き運行された。ズールブロットから3km離れたキャンプまでは、軌間600mmの道端軌道が延びていた。また、これまでと違って、貨物列車がオイペン Eupen 方面から来るようになったため、ラーレン Raeren 駅での折返しの手間を省く目的で、同駅西方に駅構内をバイパスする連絡線が設けられた。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線

その一方、産業鉄道としての役割は、大戦後の国内外における情勢の変化のために大きな打撃を受けた。そもそも鉄道が通過する地域はほとんどが山間部で、域内の輸送需要は限られている。主要顧客は、北と南の鉱工業地帯を発着する通過貨物だった。ところが南部では、ロレーヌ(ロートリンゲン)がフランスに返還されてしまい、ルクセンブルクもドイツとの関税同盟を離脱して、フランスへの依存を強めていった。何度も税関を通らなければならない貨物輸送は、とうてい現実的ではなかった。1926年には優良顧客であったアーヘン郊外ローテ・エルデ Rothe Erde の製鉄所も閉鎖された。

1929年に起こった世界恐慌とそれに続くナチズムの台頭は、通行量のさらなる衰退を招くことになった。ドイツ領沿いの区間では、ナチの信奉者による妨害が多発し、軍用列車も安全のために迂回を強いられた。過剰な設備を維持する意味が薄れ、ベルギー国鉄は1937~38年にかけて、ラーレン以南の単線化に踏み切った。

1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。1940年5月、ドイツによるベルギー再占領と同時に、東部地方はドイツに強制併合された。フェン鉄道の運行権も同年6月にドイツ国営鉄道 Deutsche Reichsbahn の手に渡り、フランスやベルギーに駐留する軍隊の補給路として利用された。30年前の事態の再来だった。

ドイツの敗色が濃くなった1944~45年の冬、濃霧が支配する高地の気候を利用して、ドイツ最後の反撃といわれるバルジの戦いがこの地方で仕掛けられた。しかし結果は失敗に終わり、戦場となったフェン鉄道沿線では、後退するドイツ軍と進攻する連合軍の双方によって、鉄道施設が甚大な被害を蒙った。中でも鉄道橋は、1か所を残してすべて通行妨害の目的で壊されたといわれる。

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破壊された高架橋(ビュートゲンバッハ付近)
Photo from wikimedia

ドイツ軍の撤退後、順次復旧工事が進められたものの、運行再開は1947年までずれ込んだ。また、トンネル内部が崩壊した南のロンマースヴァイラー Lommersweiler ~ロイラント Reuland 間や、1910年代に軍事目的で建設された一部の支線は放棄され、二度と列車が走ることがなかったのだ。

産業路線から国威を発揚する政治路線へ、そして軍事路線へと時代の要請に黙々と応えてきたフェン鉄道であるが、第二次大戦後はその存在理由をほとんど失ってしまう。自動車が陸上交通の主流となった1950年代以降、地方の鉄道路線に降りかかった運命はどれも似たようなものだ。とりわけフェン鉄道にとって致命的だったのは、国境地帯に沿って延びているために貨客の流動方向に合わないことだった。

飛び地を従えたラーレン~カルターヘルベルク Kalterherberg 間では、定期の旅客列車はついに設定されなかった。貨物列車のほうは、各駅を回る便が週3回のペースで細々と存続した。レートゲン(レートヘン)Roetgen で材木や肥料が、ランマースドルフで調理用ストーブ工場からの製品が積出されるなど、控えめながら安定した物流が残っていたのだ。ベルギー軍もまた、演習場最寄りのズールブロットを発着する軍用列車を走らせていた。1974年に発効した両国間の新たな協定では、この区間で貨物の取扱いを引き続き実施することが確認される一方で、旅客列車の運行は特別な場合に限定された。すなわち、双方に定期旅客輸送を復活させる意思がないことを前提に、1922年の合意事項を簡素化したのだった。

しかし、この協定の効力も長くは続かなかった。線路状態の劣化がかなり進行しており、ベルギー国鉄SNCBが、今後の運行継続は困難であると表明したからだ。ズールブロットへの軍用列車は南回りで代替することになり、1988年8月限りで運行を終えた。民生用の定期貨物も1989年6月限りで姿を消した。そして1990年、用済みとなったラーレン~ズールブロット間の土地施設は、国鉄から地元自治体に移管されてしまった。すでにウェーム Waimes(ヴァイスメス Weismes)から南の区間は1982年までに廃止済みで、1986年に線路も撤去されていた。この結果、フェン鉄道「本線」の営業は、後述するラーレン以北の存続区間を除くと、トロワ・ポン Trois-Ponts 方面に接続するズールブロット~ウェーム間、わずか12.4kmの断片と化してしまった。

なお、この時点でラーレン以北が廃止を免れた理由は、別の役割が与えられていたためだった。ベルギーのアントヴェルペン Antwerpen 港に陸揚げされ、ドイツに運ばれる大型軍用車両などの例外的な貨物の通路としての役割だ。ベルギーからアーヘンに至る路線は別に2本あるのだが、どちらも両国国境の下をトンネルで抜けており、大型貨物は建築限界に抵触するため通行が不可能だった。そこで、遠回りにはなるがトンネルのないフェン鉄道が利用されていたのだ。

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ボッツェラールトンネルの4線軌条

しかしまもなく、2本の別ルートのうち、モンツェン Montzen ~アーヘン西駅 Aachen West ルートにあるボッツェラールトンネル Botzelaer Tunnel(ドイツではゲンメニッヒトンネル Gemmenich Tunnel と呼ぶ。長さ870m)で改良工事が開始された。もともとトンネル内部は複線だったが、アーヘン方向のみ、天井の高い中心部に寄せて、特殊貨物専用の第3の線路が増設されたのだ。この4線軌条化により、トンネル内部は6本のレールが並ぶ一種のガントレット(単複線)になった。トンネルの入口に第3の線路への分岐があり、ここから列車が進入すると、通行に支障する対向の線路には停止信号が出る。1991年にこの施設が完成したことで、オイペン~ラーレン~国境間もまた存在理由を失ってしまった。

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ボッツェラールトンネル
(左)ポータルの直前で左の線路から特殊貨物用線路が分岐
(右)内部は6本のレールが並ぶ
Photo by Wi1234 from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

フェン鉄道廃止年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ブラント Brand :1984年8月31日
・ラーレン Raeren ~ズールブロット Sourbrodt :1989年6月30日
・ズールブロット Sourbrodt ~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes):2007年1月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1982年9月28日
・ザンクト・フィート~ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~シュタイネブルック Steinebruck :1954年

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー~ロイラントReuland:1944年
・ロイラント~トロワヴィエルジュTroisvierges:1962年

【支線】
・シュトールベルク=ミューレ Stolberg-Mühle ~ヴァールハイム=シュミットホフ Walheim-Schmithof :1991年6月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :2007年1月1日

なお、日付は最後の営業日、運行廃止日、法的廃止日が混在している可能性がある。

飛び地を巡るルートは、これによって永遠に草むらに埋もれてしまったのだろうか。いや、そうではない。フェン鉄道がなしえた最後の貢献、それはこの地方に観光客を呼び寄せるシンボルになることだった。国鉄による路線廃止の意向を受けて、ベルギーのドイツ語共同体を包括する地方政府が、保存鉄道への転換を図ろうとしたのだ。

欧州地域開発基金 ERDF からの交付金を得て線路が再整備され、1990年からベルギーのフェン鉄道協会 belgische Vennbahn V.o.E. の手で、観光列車の運行が開始された。5月から10月の日祝日に、国鉄の定期旅客列車が通じているオイペン Eupen を始発駅として、ラーレン、ヴァイヴェルツまで進み、東のビュリンゲン Büllingen もしくは西のマルメディ、トロワ・ポン Trois-Ponts に達するコースだった。ディーゼル機関車のほかに蒸気機関車も登場して、いっとき人気を博した。1994年にはドイツ側のフェン鉄道協会 deutsche Vennbahn e.V. によるシュトールベルク Stolberg ~ラーレン~モンシャウ間の運行も始まった。

ところが、沿線にあったプロイセン時代の地下坑道の崩壊で、路盤が一部不安定になっていることが明らかになり、協会の資金不足も手伝って、2001年をもってこのイベントは幕を閉じる。その後しばらく鉄道施設は放置されていたが、2007年、ついにこの区間の線路を撤去し、他の廃線跡とともにワロン地域の遊歩道ネットワーク RAVeL, Réseau autonome de voies lentes に組み込むことが発表された。

こうして、時代に翻弄され続けたフェン鉄道の苦難の歩みは、過去の記憶となった。線路敷のベルギー領土はそのまま残されているが、シェンゲン協定によって国境の検問が不要となり、標石以外に両国の国境であることを示すものはない。すでにラーレン~カルターヘルベルク間の敷地は整備され、林や野を縫う静かな遊歩道に姿を変えている。一方、カルターヘルベルク~ズールブロット間7.1kmはレールが残され、現地でレールバイク Railbike と呼ぶ軌道自転車(ドライジーネ Draisine)を使った体験ツアーが催されている。今ではこれが、ありし日のフェン鉄道をしのぶ数少ない手がかりだ。

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レールバイクが並ぶカルターヘルベルク旧駅
Photo by L.1951a from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。記事では、Bernhard David "Die Vennbahn", Lokrundschau #195, pp.46-51、および参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版、フランス語版の記事(Vennbahn, Vennquerbahn)を参照した。

■参考サイト
Vennbahn Online http://www.vennbahn.de/
The Vennbahn: Belgium’s railway through Germany
http://www.avoe05.dsl.pipex.com/be_venn.htm
Eisenbahnen in Aachen und der Euregio Maas-Rhein
http://www.vonderruhren.de/aachenbahn/
Vennbahn.eu http://www.vennbahn.eu/
Rail Bike des Hautes Fagnes http://www.railbike.be/

★本ブログ内の関連記事
 ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

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