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2016年11月27日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

ドイツとベルギーが接する地域の詳しい地図を眺めた人は、奇妙な国境線が引かれているのに気づくだろう。下の地図はベルギー官製1:50,000地形図の一部だ。縦に走る+(プラス)記号の列が両国の国境線で、左側がベルギー領、右側がドイツ領になる。

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ドイツ側へブーメラン状に割り込むベルギー領
ベルギー官製1:50,000地形図 35-43 Gemmenich-Limbourg 1988年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016

鉄道は、日本のJR記号と同じ白黒の旗竿で描かれているが、図の中央でベルギー側からドイツ領内に割り込んでいったかと思うと、ブーメランのような軌跡を描いて戻ってくる。これは地形の起伏を避けて迂回しているのだが、奇妙なことに、ドイツにはみ出した部分は、終始両側に国境線の記号を伴っている。つまりここは、鉄道敷地だけがベルギー領なのだ。そのため、この回廊にブロックされる形で、ドイツの領土は「本土」から切り離されて飛び地になっている。飛び地はまだ南方にも続き、全部で5か所存在する。

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この不思議な回廊は、もとはプロイセン(当時すでにドイツ帝国の一部)の鉄道の線路敷だった。それが、第一次世界大戦後の国境を画定する際に、ベルギーの強い主張で帰属が変えられた経緯を持っている。

鉄道は、強風と冷たい霧雨が襲う森と湿原の国境地帯、ホーエス・フェン Hohes Venn(高フェンあるいはフェン高地)を越えていく。ドイツ語でフェンバーン Vennbahn(フェン鉄道)と呼ばれるのはそのためだ。それにしてもなぜ、ベルギーは鉄道の敷地の取得にこだわったのだろうか。その理由を理解するには、この鉄道路線に託された使命が何であったか、そして時代とともにそれがどのように変化していったのかを追跡する必要があるだろう。

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1919年以前のフェン鉄道と旧国境線
表示した他の路線は当時未完成のものを含む

ともすれば飛び地の区間にスポットが当てられがちだが、1882年に認可を得たフェン鉄道の計画は、アーヘン Aachen とアイフェル Eifel 地方のプリュム Prüm を結ぶ、延長100km以上の大規模な路線だった。本線に加えて北部地域で、ラーレン Raeren からオイペン Eupen に至る支線、ヴァールハイム Walheim からシュトールベルク Stolberg に至る支線が付随していた。

次いで、ルクセンブルク政府との協定により、同国のトロワヴィエルジュ Troisvierges(ドイツ語ではウルフリンゲン Ulflingen)に至る連絡線が追加された。後に、近傍の町への支線も建設されて、一帯のネットワークが形成されていった。右図に、一帯の鉄道路線図を当時の国境線とともに示したが、フェン鉄道のルートが、ベルギー領内に一切かかっていないことに留意したい。

鉄道は、最小曲線半径300m、最急勾配16.7‰(1/60)で設計された。最初に開通した区間は、アーヘン郊外のローテ・エルデ Rothe Erde からフェン高地の東側にあるモンシャウ Monschau(当時はモンジョワ Montjoie)までで、1885年のことだ。その後、下表のように順次延伸され、1889年にはトロワヴィエルジュで首都ルクセンブルク Luxembourg へ通じる路線に接続を果たして、計画はいったん完了した。

フェン鉄道開通年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ラーレン Raeren ~モンジョワ(モンシャウ) Montjoie (Monschau) :1885年6月30日
・モンジョワ(モンシャウ)~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes) :1885年12月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1887年11月28日
・ザンクト・フィート~ブライアルフ Bleialf :1888年10月1日
・ブライアルフ~プリュム(アイフェル)Prüm (Eifel) :1886年12月15日

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~トロワヴィエルジュ(ウルフリンゲン)Troisvierges (Ulflingen) :1889年11月4日

【支線】
・ヴァールハイム Walheim ~シュトールベルク Stolberg :1889年12月21日
・オイペン Eupen ~ラーレン:1887年8月3日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :1885年12月1日

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フェン横断鉄道 Vennquerbahn のビュートゲンバッハ Bütgenbach 西郊を走る観光列車(2004年)
Photo by Jan Pešula at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

鉄道がひたすら南を目指した理由はほかでもない、北と南にあるドイツ屈指の産業地帯を最短距離で結ぶためだった。貨物列車は、北のアーヘン近郊で産出する石炭やコークスを南のルクセンブルクやロレーヌ地方(当時はドイツ領ロートリンゲン Lothringen)にある製鉄所へ運び、帰路はロレーヌの鉄鉱石や粗鋼をルールの工業地帯などに送り込んだ。輸送量は順調に増加し、産業鉄道としての重要性は年を追うごとに高まった。1894年から複線化が開始されたことがそれを実証している。

ただし、輸送力の増強にはもう一つの隠された意図があった。というのは、普仏戦争(1870~71)以来、ドイツはフランスと常に緊張関係にあり、西部国境線の軍備増強を着々と進めていたからだ。

ドイツの宰相ビスマルクは牽制策として、他国との協調関係を固めることによって、フランスを国際的に孤立させる政策を展開した。しかし、1890年に彼が職を辞した後、情勢は明らかに変化した。フランスはロシアに接近し、1894年に露仏同盟を結んだ。ドイツは、中東政策の対立でロシアとの関係を悪化させるなか、有事の際に東と西の二正面作戦を迫られることを覚悟した。

戦況を有利に導くには、地理的に近い対仏戦をできるだけ短い期間で完結させ、兵力を速やかに対露戦線へ反転させる必要がある。しかし、独仏が直接国境を接するアルザス・ロレーヌ周辺は、フランス側の守備も固く、突破に手間取る可能性が高かった。そこで対仏戦略を定めたシュリーフェン・プランは、軍備の比較的手薄な中立国ベルギーを突破して、北からフランスに迫ろうとしていた。

ベルギー国境に沿って南下するフェン鉄道は、そのための補給路の一部と位置づけられた。複線化と並行して、荷解きのための側線整備や待避線の延長など、軍用列車の運行を想定した駅機能の拡張が実施された。また、1910年代になると、フェン鉄道を軸にした東西方向の連絡支線の整備も急がれるようになった。フェン横断鉄道 Vennquerbahn と通称されるヴァイヴェルツ Weywertz ~ユンケラート Jünkerath 間をはじめ、ヴィエルサルム Vielsalm ~ボルン Born、ザンクト・フィート St Vith ~グーヴィ Gouvy などは、このときに開通したものだ。これらは、初めから複線で建設され、分岐点の多くは本線運行に支障がないよう立体交差とされた。

1914年、ついに第一次世界大戦が勃発する。ドイツ軍はかねての計画に基づいてベルギーに侵攻し、武力占領を開始した。鉄道では、兵士や軍事物資の集中輸送が実施された。30年をかけて築かれたフェン鉄道を中心とする路線網が、面目を果たした時期だった。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線
図中の枠は下の拡大図の範囲を示す

しかし、潜水艦による無差別攻撃などに反応したアメリカの参戦によって、ドイツは守勢に立たされていく。国内の混乱もあって1918年11月、連合軍との休戦協定に署名し、4年に及ぶ戦争は終結した。戦後処理のために1919年6月にヴェルサイユ条約が調印されたが、このことはフェン鉄道の運命を一変させた。第27条によりベルギーとの間の国境線が東に移動し、鉄道の沿線であるオイペン郡 Kreis Eupen とマルメディ郡 Kreis Malmedy がベルギーに帰属することになったからだ。

ベルギーでは新たに獲得した地域を、東部地方 Cantons de l'Est / Ostkantone と呼んだ。新国境はフェン鉄道のヴァールハイム Walheim とラーレン Raeren の間を通ることになったため、両駅は税関をもつ国境駅とされた。

ところが、ルートの北部には、まだドイツ領を通過する区間が残っていた。この帰属が次の課題として浮上したのだ。ヴェルサイユ条約第372条では、同じ国の2つの地域間の連絡鉄道が他国を横断するか、もしくはある国からの支線が他国に終点を持つ場合、稼働の条件は関係する鉄道管理者間の協定で定められるとしていた。したがって、フェン鉄道についても、ドイツ領に残っている区間を含めてベルギー側の運営とすることは可能だった。しかし、ベルギーはさらに踏み込み、条約によって得られた領土の南北を連絡するのだから、この鉄道敷地は自国領になると主張したのだ。

当時は自動車交通も未発達で、鉄道の果たす役割は絶大だった。また、戦争で中立を侵犯されたベルギーは、まだドイツに強い警戒心を持っていた。鉄道の運行を将来にわたって保証するには、敷地に対して主権を行使することが不可欠の条件だったのだ。

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飛び地付近の拡大図
図中の1~5がドイツ領の飛び地

条約の第35条には、経済的要因と交通手段を考慮しながら両国間の新たな境界線を調停する国際調査委員会の設置がうたわれている。鉄道管理者間で協定の条件に関して合意に達することができない場合、先述の第372条で、この委員会がその相違点を裁定するものとしていた。課題の処理を委ねられた委員会は、結局ベルギーの主張を認め、1921年11月に鉄道の敷地はベルギーに割譲されることになった。冒頭で述べたように、地形の起伏の関係で、線路はベルギーに移ったオイペン郡とドイツに残るモンシャウ郡の間を蛇行して走る。そのため、沿線ではドイツの領土が分断されて、いくつもの飛び地が生じた(下注)。

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コンツェン地内の最小飛び地(上の矢印、上図の番号3)と
ベルギー領に囲まれたドイツ領の道路(下の矢印、上図の番号4の上端)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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ドイツ領モンシャウを横断するベルギー領の線路(矢印はモンシャウ旧駅)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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同じ場所のドイツ官製1:50,000
ここでも鉄道(「貨物列車のみ」と注記)が国境記号を伴って描かれる
L5502 Monschau 1988年版
(C) GEObasis.nrw, 2016

*注 1922年に画定された飛び地は、その後、一部で帰属変更が行われた。詳細は以下の通り。

レートゲナー・ヴァルト Roetgener Wald (右図の2、変遷は下左図参照)
1922年11月 国境画定。中央部はベルギー領で、東西にあるドイツ領飛び地は貫通道路(258、399号線)でつながっていた。
1949年4月 貫通道路もベルギー領とされたことで、ドイツ領飛び地は完全に二分。
1958年8月 中央部と横断道路(258号線の西半分と399号線)がドイツに返還。南北道路(258号線の南半分)はベルギー領のままで、国内道路網と接続のない道路となっている。

ヘンメレス Hemmeres (ザンクト・フィートの南方にあった6番目の飛び地。下右図参照)
1922年11月 国境画定で線路用地がベルギー領とされたため、オウル(ウール)川 Our と鉄道に挟まれた土地がドイツ領飛び地に。
1949年4月 飛び地もベルギー領とされたため、ドイツ領飛び地は解消。
1958年8月 鉄道の区間廃止により、飛び地と線路用地がドイツに返還。

レートゲナー・ヴァルト
Roetgener Wald
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ヘンメレスHemmeres
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薄緑の部分が1922年確定のドイツ領
線路はベルギー領のため、西側に飛び地が生じた
地名はヘンマース Hemmers と表記
ドイツ官製1:25,000
3311 St Vith、3312 Bleialf(いずれも1895年版)

異例の措置は、ドイツ側の周辺住民を大いに当惑させた。当該区間には北からレートゲン(レートへン)Roetgen、ランマースドルフ Lammersdorf、コンツェン Konzen、モンシャウ Monschau(1918年にフランス語由来のモンジョワ Montjoie から改称)、カルターヘルベルク Kalterherberg の5つの駅が含まれていた。飛び地となった土地には農地や森林だけでなく、集落も立地している。鉄道の両側に住む者は踏切、すなわち国境を越えて行き来できるのか。アーヘンの産業地帯に通勤する住民は、鉄道を今までどおり利用できるのか、運賃はどの国の通貨で支払うのか。委員会はその調整にさらに1年を費やし、次のように取り決めた。

列車運行に関しては、

・ベルギー国鉄が全ての列車を運行する。
・各駅停車列車は、区間の両端で両国の税関検査を行う。
・通過列車あるいは通過車両は、区間走行中、施錠する(いわゆるコリドーアツーク Korridorzug)。

また、鉄道利用に関しては沿線住民に最大限の配慮を払った。

・鉄道敷地(ベルギー領)の通行や横断に関しては、ベルギーの警察や税関の審査を受けない。
・駅名は(沿線住民の言語である)ドイツ語とする。
・駅窓口に関するドイツの鉄道規則は、ベルギー国鉄でも準用する。
・区間各駅からドイツ国内へ向かう旅行者には、ドイツの国内運賃制度を適用する。
・運賃支払いは両国の通貨が使用できる。
等々。

これらの特別条項を盛り込んだ合意は1922年11月に成立し、フェン鉄道は正式に、北のラーレンから南で再び(新)国境を越えるシュタイネブリュック Steinebrück までが、ベルギー国鉄の路線となった。

続きは次回に。

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。

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2016年11月13日 (日)

イギリスの1:250,000地形図 II-歴史

1:250,000は、図上1cmで実長2.5kmを表す縮尺だ。しかし、そのルーツをたどれば、いわゆる「クォーターインチ地図 Quarter-inch Map」に行き当たる。これは図上1/4インチが実長1マイルに対応するもので、分数表示では1:253,440になる。

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1:250,000 クォーターインチ地図 第5シリーズD版
ハイランズ西部(1978年)の一部(×1.6)
© Crown copyright 2016

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クォーターインチ地図
第4シリーズ表紙
 1948年
image from The Charles Close Society site.

クォーターインチの初版刊行は、1888年のことだ。すでに1859年から1マイル1インチ図(1:63,360)をもとに編集作業が着手されていたのだが、情報量の不足から完成が遅れていた。しかもこの第1シリーズはデザイン、内容とも不評で、途中で改訂版である第2シリーズに切り替えられて、ようやく1918年に全土21面が揃った。

続いて1919年に始まった第3シリーズでは、精度の低いぼかし(陰影)に代えて、段彩を施した200フィート(61m)間隔の等高線が用いられ、道路網が太く強調された。下図でご覧のとおり、クォーターインチ図式の骨格はここで確立され、その後実に70年以上にわたって各シリーズに受け継がれていく。

1934年からの第4シリーズ全19面では、森林に緑色が配されるとともに、自動車旅行の一般化に呼応して、車内で扱いやすいように縦長の折図として販売されるようになった(右写真)。

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クォーターインチ地図 第3シリーズの例 図番4、右図は一部拡大(×2.0)
image from The Charles Close Society site.

現行版に直接つながるのは、第二次大戦後の1957年に始まる第5シリーズだ。というのも、ここで初めて他の欧米諸国に歩調を合わせて、縮尺が1:250,000に変更されたからだ(下注)。しかし、実際の縮尺の変化は小さかったので、シリーズの名称はクォーターインチ地図のままとされた。つまり、伝統的な測量単位(帝国単位)を名乗りながらも、中身はメートル系に置き換えられていたわけだ。全土を17面でカバーするこのシリーズは、1970年代まで改訂を加えながら刊行が続けられた。表紙のデザインは、他の縮尺と同様、途中で大きく変わったが(下写真)、1インチ地図の赤表紙に対して、青表紙とされた点は共通している。

*注 地図の縮尺表示には「1:250,000またはおよそ4マイル1インチ」と記された。

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クォーターインチ地図 第5シリーズ表紙
(左)A版、1962年 (中)C版、1966年 (右)D版、1978年

地勢表現には、さらに磨きがかけられた。段彩(高度別着色)は、低地では薄いミントグリーンだが、200フィートでクリームイエローに変わり、高度が上がるにつれて黄系から濃い茶系へと変化していく。それで、平地の多い図葉には爽やかな空間が広がる一方で、山地の卓越する図葉では険しい地勢が強調される。さらに、森林を表す明るいアップルグリーンの塗りが適度なアクセントを添える。

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クォーターインチ地図 第5シリーズの異版を比較。後の版ほど彩色の明度が向上する
(左)A版、クライド湾 1962年 (右)D版、ハイランド西部 1978年
© Crown copyright 2016

初期は暗めの色調だったが、版を重ねるごとに明度が上がり、美しい見栄えになっていった。実際に今年(2016年)、OS創設225周年を記念して出版された特別図「ハイランド西部 Western Highlands」で、第5シリーズ(D版、1967年、下注)がベースに採用されたことでも、その完成度の高さが窺える。

*注 同一シリーズ中の版 Edition の区別は長らく、Aから始まるアルファベットで(マイナーな改訂はアルファベットに数字を添えて、例:A2)、地図のコピーライト表示の近くに記されていた。ただし、2015年6月から、歴年表示のみに切り替えられている。

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ルートマスター表紙 1978年

長年親しまれたクォーターインチ地図だが、1978年に開始された新シリーズで、ついにその名が消える。新名称は、道を識る者というような意味の「ルートマスター Routemaster」とされた。形態の点で旧版と違うのは、地図が両面刷りになったことだ。全土を9面でカバーできるように図郭を拡張するかわりに、それを南北に2分割して、表裏に印刷している。用紙も、直前の旧版のおよそ横82cm×縦75cmに対して、123.5cm×48cmと著しい横長サイズに変わった。

これは縦の折返しをなくし、蛇腹状に畳んで扱いやすくする試みなのだが、ユーザーの反応は意外にも冷たかった。そこで、次の版では、同じ図郭のまま、片面刷りに戻されている。当然、用紙が約2倍大になるため、今度は、車中で使うにはかさばって困るという苦情が寄せられたそうだ。

地図図式にも目立った変化があった。実は第5シリーズでは高地の塗り色が濃くなりすぎて、小道や注記が見分けにくいという声が上がっていた。実際にはこの欠点は改版でかなり改善されていたのだが、ルートマスターではさらに思い切って段彩の色を薄くした。等高線の色も茶系から赤系に変えた。また、道路番号の文字はぼかしにかかる部分に白のマージンをつけるなど、細かい工夫もしている。その結果、両図を並べれば、まったく別の図のように見える(下図参照)。濃色の道路網が効果的に目に飛び込んでくる反面、地勢表現にメリハリが感じられなくなったのもまた事実だ。

なお、このルートマスター版を使って、OSブランドの地図帳「OSイギリス地図帳 Ordnance Survey Atlas of Great Britain」(1982年初版)、「OSイギリス道路地図帳 Ordnance Survey Road Atlas of Great Britain」(1983年初版)も制作されている。

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両者の印象の差は地勢表現の配色の大幅変更によるところが大きい
(左)クォーターインチ地図 第5シリーズC版 ウェールズ北部及びランカシャー 1966年
(右)ルートマスター A版 ウェールズ及びミッドランズ西部 1978年
 原図は堀淳一氏所蔵
© Crown copyright 2016

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トラベルマスター表紙 1993年

1993年からはシリーズ名称が、「トラベルマスター Travelmaster」に再び変更された。新名称には、ターゲットを旅行者一般に拡大する意図が込められたようだ。用紙寸法はそのままだが、図郭が一部変更されて、面数は8面に減っている。ただし、1:625,000の全国図がトラベルマスターの図番1に位置づけられたため、1:250,000図葉には2~9番が振られた。また、図面編集がデジタル化され、それに伴って図式も大幅に変更された。この図式が、多少手を加えながら、現在まで引き継がれているものだ。

2001年以降は、小縮尺図や旅行地図(集成図)が「トラベルマップ Travel Maps」の名でグループ化された。その上でシリーズごとの役割を改めて明確化するために、1:250,000は「ロード Road」と命名された(下注)。その際、図番が1~8番に振り直されたため、同じ図郭でもトラベルマスター時代とは1だけ図番がずれている。

*注 1:625,000全国図は「ルート Route」、旅行地図(集成図)は「ツアー Tour」と命名。

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OSロード 表紙 (左)2009年 (右)2016年

そして前回も触れたように、2010年1月の供給中止を迎えることになる。この背景には、当時のOSの組織内事情がある。1990年代に急速に進んだ地図のデジタル化で、広い作業スペースが不要になったため、OSは古い本部施設をたたんで、別の場所に移転する準備を進めていた。付随して、これまで200年以上内製してきた地図の印刷と出荷業務も、外部業者に委託する方針が決まる。ところがその際、見直しの対象に挙げられたのが小縮尺図で、費用対効果が低いとして、1:250,000と1:625,000全国図の刊行の取止めが発表されたのだ。

日本の1:50,000の例を引くまでもなく、印刷物としての地形図の供給見直しは世界的な趨勢だ。その中でむしろOSは、フランス国土地理院(IGN)などとともに、地形図に豊富な旅行情報を盛り込むことで、積極的に一般市民への浸透を図ってきた。そのパイオニアでさえ、時代の流れには逆らえなかったのか、と当時は残念に思ったことだ。それだけに、今回装いも新たに復活したOSロードには期待がかかる。この新地図が、車を運転する人にとどまらず、国土をくまなく知りたいと考える多くの層に受け入れられることを願いたい。

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新版では地勢表現(段彩とぼかし)が改善された
(左)トラベルマスターA版 イングランド南東部 1993年
(右)OSロード イングランド南東部 2016年版
© Crown copyright 2016

本稿は、Tim Owen and Elaine Pilbeam "Ordnance Survey: map makers to Britain since 1791", Ordnance Survey, 1992、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
イギリス陸地測量部(OS) http://www.ordnancesurvey.co.uk/
チャールズ・クロース協会 https://www.charlesclosesociety.org/
The Lez Watson Inexperience - Ordnance Survey Leisure Maps Summary Lists
http://www.watsonlv.net/os-maps.shtml

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 イギリスの1:250,000地形図 I-概要

2016年11月 6日 (日)

イギリスの1:250,000地形図 I-概要

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1:250,000
OSロード 表紙
図番6 ウェールズ及び
ミッドランズ西部

イギリス陸地測量部 Ordnance Survey(以下、OS)が刊行する地図のマーケティングは、伝統的に、対象となるユーザーごとに的を絞った形で展開されている。「OSロード Road」と通称されるように、1:250,000縮尺図には道路地図の性格が与えられ、ターゲットは自動車のドライバーだ。後で見るように地勢描写もしっかり施されているのだが、道路区分の強調、道路番号の明示、それにラウンドアバウトや急勾配など小縮尺にしては細かい情報も添えられるなど、ドライブ用途に傾斜した造りになっているのが特色だ。

ところがこのシリーズは、2010年1月限りで供給が中止されていた。今回このテーマを取り上げたのは、その消えた1:250,000が7年近い空白期間を経て、今年(2016年)9月に店頭に戻ってきたからだ。「ロード」の名称や、図郭・図番は中断前のものを引き継いでいるが、新版として最新情報が盛り込まれていることは言うまでもない。

それにしても、スマートフォンや携帯端末でデジタル地図が簡単に手に入る時代に、なぜいったん廃止した紙地図を復活させたのか。OSの担当者はこう語る。「デジタル地図は、A地点からB地点へ行く道を知るのにはすばらしいのだが、のんびり車を走らせたり、何か新しいものを見つけたりするときには制約がとても多い。OSロードを休刊してからも、紙地図の優れた点はテーブルの上に広げて学習したり計画を立てたりすることにあるのだという顧客の声を、私たちは絶えず耳にしていた」(下注)。

*注 "Ordnance Survey relaunches road maps", Ordnance Survey News, 14 September 2016 から翻訳引用

モバイル機器を使えば確かに便利だが、小さな画面で広域を見渡すには、縮尺を小さくせざるをえない。そうすると地図表現は概略になり、今度は細部を確認できなくなってしまう。地図ファンとしては、まだ紙地図は駆逐されるべきでないとしたOSの勇断を大いに喜びたいところだ。

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1:250,000 OSロードの一例 ウェールズ北部スノードニア周辺
© Crown copyright 2016

では、その新しい1:250,000「OSロード」の内容を見ていこう。名称の「ロード」というのは、もちろん道路(地図)の意味だ。しかし、アメリカの道路地図のように白地図に道路網と水系だけというのではなく、地勢が明瞭に描かれた「地形図」でもあり、交通網のほかにさまざまな旅行情報が入った「旅行地図」の性格も合わせ持っている。

地図記号は、各縮尺でほぼ共通のデザインが使われており、その点ではなじみやすいだろう。道路の重要度は、青・緑・赤・橙・黄という中塗りの色で表わされるが、主要道路については1:50,000などより若干幅を太くしてある。無骨な感もしないわけではないが、その効果で、道路網を図上で地勢表現などに煩わされずに、文字通りネットワークとして認識することができる。

さらに、道路番号に枠付きの大きな文字が使われ、サービスエリアは両車線/片車線、通年/期間限定と細かく分類されるなど、道路地図らしい配慮が随所に見られる。特に後者の分類は1:50,000などにはないものだ。興味深いのはラウンドアバウトで、この縮尺では省略されてもおかしくないところ、小さいながらもそれらしく描かれている。運転中のいい目印になるからだろう。

鉄道の記号については、標準軌がおなじみの太い実線だが、狭軌線は日本でいうところの私鉄記号ではなく、旗竿の塗りを省いた梯子のようなデザインが使われる。1:250,000図では最初からその形で、濃い段彩に紛れてしまわないための工夫だ。駅も律儀に表示されているので、都市やその近郊では赤い円(ライトレールは黄色の円)が集中して賑やかだ。ただし、駅名はごく一部を除いて、周辺の地名から推測するしかない。

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凡例 道路・鉄道の部

独立記号では、沖合にある発電用風車 Wind turbine の群が目を引く(一部は山地にも)。灯台も伝統的に描かれているが、今や目標物の地位を奪いそうな勢いだ。凡例には、太陽光発電施設 Solar farm という記号も登場している(ただし選択表示)。一方、陸上では、主に青色の記号で示されるさまざまな旅行情報が溢れている。修道院・大聖堂、水族館、ビーチをはじめ凡例に33個も並ぶ記号の列を見れば、旅行のヒントがいくつも掴めそうだ。

ちなみに保存鉄道 Preserved railway の記号は、長い路線の場合、起終点駅のそばに置かれていることが多い。1:25,000の同じ記号では蒸機が右に向かっているのだが、本図では逆に左向きにされている。

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凡例 旅行情報の部

次に地勢表現だが、等高線と段彩(高度別着色)、それにぼかし(陰影)も駆使して実感あふれる仕上がりになっている。「クォーターインチ地図 Quarter-inch map」を名乗っていた時代の、メリハリのついたグラフィックを参考にしたのかもしれない。その等高線は、おもしろいことに200フィート(約61m)間隔だ。1:25,000図や1:50,000図ではもちろんメートル刻みなのに、1:250,000には昔の等高線が大切に保存されているのだ(単に全面改版した場合にかかるコストの問題かもしれないが)。標高点はメートル値のため、等高線の高度値はメートル換算で記載してある。

段彩も少々ユニークだ。ふつうは等高線に沿って塗り分けるのだが、ここでは200フィートから600フィートあたりの境界がぼかされて、平野から傾斜地がじわりと立ち上がる様子がうまく表現されている。また、陰影をつけるぼかしも比較的繊細なもので、等高線では表現に限界のある地形の起伏をつぶさに捉えている。

1:250,000は、1993年からの描画作業のデジタル化(「トラベルマスター Travelmaster」シリーズ)の際に、図式が一変した。それまではどちらかというと大人しい印象のグラフィックだったのが、新図式では、太い描線、サンセリフの文字フォントの採用で、見た目にも濃くごわごわした図柄になってしまった。ぼかしもスクリーントーンを切って貼り付けたような品質で、失望したものだ。最新版もその図式を継承しているのだが、地勢表現が改良された(下注)ことで、印象はかなりいい方に変わった。筆者も久しぶりに全面揃えようという気になっている。

*注 中断前のロード図が手元にないため、その時点で改良されたのかは定かでない。

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凡例 地勢の部
等高線間隔は200フィート(約61m)

Blog_uk_250k_index
1:250,000 OSロード 索引図
8面で全土をカバーする

OSロードシリーズは、8面でイギリス全土をカバーする。各図郭は十分な重複があり、特に図番5「ミッドランズ東部及びアングリア東部 East Midlands and East Anglia」と図番8「イングランド南東部 South East England」は、いずれもグレーター・ロンドン Greater London を図郭に取り込むために大きく重なっている。

価格は5.99ポンド(1ポンド130円として779円)で、1:50,000などの中縮尺図(普通紙版8.99ポンド)よりお得な設定だ。日本のアマゾンや紀伊國屋書店などの通販サイトでも扱っているので、"OS Road Map"などで検索するとよい。

なお、OS公式サイトでは、1:250,000ラスタデータのTIFファイルも無料公開されており、ナショナルグリッド単位でダウンロードが可能だ(下記参考サイトのOS OpenData参照)。印刷物と同等の解像度とはいかないが、実用的には問題ないだろう。

次回は、1:250,000のたどってきた130年近い歴史について、旧版地図の画像を交えながら紹介してみたい。

■参考サイト
イギリス陸地測量部(OS) http://www.ordnancesurvey.co.uk/
OS OpenData https://www.ordnancesurvey.co.uk/opendatadownload/products.html
チャールズ・クロース協会 https://www.charlesclosesociety.org/

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