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2016年10月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

秋深まる北海道にやってきた。コンターサークルSによる2016年秋・道内の旅はほぼ毎週、精力的に挙行されている。なかでも10月16日の舞台は、廃止予告が発表されたJR夕張(ゆうばり)支線の沿線だというので、私も札幌に宿をとって参加させていただいた。「夕張支線に乗り、夕張鉄道跡、旧 夕張線跡などを歩く」と、本日は夕張尽くしの日程なのだが、路線の名称がどれも似ているので混同しそうだ。先に説明しておこう。

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鹿ノ谷駅で夕張行き下り列車を見送る

「夕張支線」というのはJR石勝線の一部で、新夕張~夕張間16.1kmをつなぐ現役路線のことだ。現在、普通列車が1日5往復運行されている。しかし、去る8月17日にJR北海道から、利用者の激減と施設の老朽化を理由に、廃止に向けて地元と協議を進めていく旨の発表があった。

それに対して二つ目の「夕張鉄道(線)」というのは、かつて存在した私鉄路線だ。函館本線の野幌(のっぽろ)を起点とし、室蘭本線の栗山を経由して、夕張本町(ゆうばりほんちょう、開通当時は新夕張)を終点とする53.2kmの鉄道だった。1930年に全線開通し、石炭産業の最盛期には、夕張から札幌方面への短絡路線として賑わった。しかし石炭産業の斜陽化に伴い輸送量が減少し、旅客営業は1971年に栗山~夕張本町間で廃止、1974年3月に残る野幌~栗山間も廃止となった(下注)。地元では夕鉄(ゆうてつ)と呼ばれているので、以下ではこの略称で記す。

*注 貨物輸送は、北海道炭礦汽船に譲渡後の1975年3月末に廃止。なお、夕張鉄道株式会社はバス会社として存続している。

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夕鉄開業当初の夕張本町(当時は新夕張)駅構内
「開業記念写真帳」夕張鉄道, 1930年。画像はWikimediaより取得

3つ目の「夕張線」は、現在のJR夕張支線だが、1981年の石勝線開通以前の、追分(おいわけ)~夕張(初代)間43.6kmだった国鉄時代の名称だ。終点の夕張駅は、路線短縮を伴って二度移転している。また、最盛期には複線化されていたので、その痕跡も残っている。これが夕張線「跡」の意味するところだ。

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1971~72年の1:200,000地形図
夕張鉄道(夕鉄)が図の中央を東西に走る。夕張線は、追分駅(図中央下端)から分岐する室蘭本線の支線だった。

朝10時05分、堀さんと札幌駅で会い、スーツケースの客が目立つ新千歳空港行きの快速エアポートに乗車した。夕張へ行くには、千歳か南千歳で乗り換えなければならない。千歳駅では4分接続だ。しかし、ホームが変わるため、堀さんとエレベーターの昇降を待っているうちに、夕張行きの気動車が出てしまった。

万事休すかと観念しかけたが、気を取り直して時刻表を調べると、列車は南千歳の次の追分駅で12分も停車している。後から来る特急に道を譲るためだ(下注)。「追分なら遠くないですよ」と堀さんが言う。駅前に出て客待ちタクシーに、30分以内で行けるか聞いてみると、「20分あれば」との頼もしい返事だ。意を決して乗り込むや、年配の運転手氏は「日曜なので、遅い車がいるんですよ」とぶつぶつ言いながら、地道を爽快に飛ばしてくれた。

*注 2016年夏の豪雨で石勝線には不通区間があり、このときは臨時ダイヤが組まれていた。特急は来なかったのだが、普通列車はいつもどおりに停車していた。

予告どおり追分駅前には、列車発車の10分前に到着した。タクシー代がウン千円かかったものの、棄権のダメージを回避することができてホッとする。さっき捕り逃した夕張行きは、ホームにおとなしく停まっていた。車内に入ると、ざっと5割を越える乗車率だ。「けっこう乗っていますね」と感心しながら、車端のロングシートに腰を下ろす。廃止宣告があったので、惜別乗車の客が増えているかもしれない。

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(左)タクシーを駆って追分駅へ (右)取り逃がしたキハ40はおとなしく停まっていた

追分を発車すると、石勝線は夕張川の谷のほうへ向かう。堀さんはこの沿線を過去に何度も歩いたことがある。「左側に並行する低い尾根は、一見変哲のないものですが、実は太平洋斜面と日本海斜面を分ける中央分水界なんです」「この先、夕張川の川床で、須佐と同様の互層が縦になって露出している場所がありますよ。軟らかい砂岩の部分が削られて、すだれのように水が落ちています。滝ノ上という地名の由来もわかるでしょう」。マンツーマンで地理講義を聴きながらの贅沢な列車旅だ。

川端駅ではさらに二、三十人の集団が乗車して、通路にも立ち客が並んだ。不思議に思ってその一人に「どこまで行かれるんですか」と尋ねると、「いや、滝ノ上まで一駅だけ乗るんです」。車窓から、堀さんが言っていた千鳥ヶ滝の前の道路で、車が数珠つなぎになっているのが見えた。竜仙峡の紅葉が見ごろを迎え、見物客が殺到しているようだ。一つ手前の駅で車を降りて、道路の渋滞を列車でスキップするのは、確かに賢明な選択だ。JRとしても臨時収入が入るが、ここはまだ石勝線の本線区間で、残念ながら赤字に悩む夕張支線ではない。

新夕張でミドリさんが乗ってきた。車を提供してくれる人たちは、鹿ノ谷(しかのたに)まで先回りするそうだ。列車は、これから夕張支線に入っていく。引き続き谷間とはいえ、むしろそれまでより空は開ける。ローカル線の列車にはのろのろ走るイメージを抱きがちだが、一部で25km/hの速度制限(下注)があったほかはスムーズで、意外に速いと見直した。

*注 JR北海道の資料によると、区間唯一のトンネルである稚南部(わっかなんべ)トンネルは、経年の進行と漏水のため、速度制限が実施されている。

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(左)鹿ノ谷駅に到着 (右)このサボも見納めか
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がらんとした鹿ノ谷駅待合室に集合

鹿ノ谷駅前に集合したのは、堀さん、真尾さん、ミドリさんほか総勢8人。まずは、鹿ノ谷から夕鉄の廃線跡を南へたどることになった。

夕張支線は、夕張川とその支流、志幌加別川(しほろかべつがわ)の谷を忠実に遡ってくる。それに対して夕鉄は、石狩平野から東進し、低い分水嶺を越えて夕張に達する短絡ルートを選択している。しかし、問題はこの間にある200m以上の高低差だ。夕鉄は20‰勾配や3本のトンネルに加えて、谷を巡るオメガカーブ、三段式スイッチバックといった技巧を駆使して、これを克服していた(下図参照)。

山越えのハイライト区間は、路線が廃止された後も18kmのサイクリングロードに再整備され、訪れる人々を楽しませてきた。だが、トンネルの老朽化が進んで、山中の区間が2000年5月に閉鎖されてしまい、現在通行できるのはトンネルの手前までらしい。

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夕鉄現役時代の1:50,000地形図(1967年)
山中の錦沢に三段式スイッチバックとオメガカーブ、平和~若菜間にも大規模なオメガカーブが見られる

鹿ノ谷駅から南へ約2kmの間、サイクリングロードは夕張支線の東側を並走している。ただし、夕張線旧構内の外側を通っているため、すすきの原の陰になって、鹿ノ谷駅のプラットホームからは見えない。私たちは駅のはずれで線路を渡って、サイクリングロードに出た。路面はアスファルト舗装され、自転車がすれ違うことのできる広さが保たれている。駅を離れると夕張支線と同じようにまっすぐ伸びていて、なるほど線路跡らしい。薄日の差す中、黄金色や辛子色に色づいた木々が縁取る小道を、気持ちよく歩いていく。

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廃線跡のサイクリングロード
(左)鹿ノ谷駅構内を出ると夕張支線に沿う (右)葉を落としたサクラ並木が続く

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夕張支線周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

まもなく旧 営林署前駅。踏切の下手にある片流れ屋根の旧 駅舎は、きれいに改装されているがまだ健在だった。さらに進んでいくうちに、隣を走る夕張支線との間隔は徐々に開き、高低差も生じてくる。旧 若菜駅では、半ば雑草に埋もれてプラットホームが残っていた。車両4~5両分の長さがある立派なものだ。Oさん曰く「混合列車が走っていたので、長さが必要だったんでしょう」。

堀さんの著書「続 北海道 鉄道跡を紀行する」(北海道新聞社、1999年、pp.129-142)に、コンターサークルで同じルートを歩いた記録があり、若菜駅跡の写真も載っている。1996年の撮影と思われるが、廃材がホームの上に所狭しと置かれているものの、まるで廃止直後のようなさっぱりした姿だ(下注)。それから20年の歳月は、側面の石積みが露出していなければ見逃しかけるほどに、風景を一変させてしまった。

*注 堀さんとコンターサークルの夕鉄跡訪問記は、「北海道 地図を紀行する 道南・道央編」北海道新聞社, 1988, p.112以下にもある。このときはサイクリングロード整備前だった。

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旧 若菜駅
(左)右下の踏切は今も「若菜駅前通り踏切」を名乗る
(右)長いプラットホーム跡が残っていた

少し先でサイクリングロードは左にカーブしていき、右から上ってきた片側1車線の舗装路と合流する。廃線跡は一旦この道路に吸収されてしまうが、200mほど先でまた右に分かれる小道があった。ここが若菜~平和間のオメガカーブの起点になる。小道は明るい林の中に延びているが、そう長くは続かない。夕張支線と道道38号夕張岩見沢線をオーバークロスする虹ヶ丘跨線橋(下注)の上に出るからだ。その後は、平和運動公園の緑の芝生とグラウンドを避けるように、右に急旋回して地平まで下っていく。

*注 夕張支線の陸橋部分の銘板には「虹ヶ丘跨線橋」、道道をまたぐ部分には「にじがおかはし」と書かれていた。なお、夕鉄時代の名称は、若菜邊跨線橋。

地形図を見ると、運動公園付近でサイクリングロードはくねくねと細かい曲線を重ねていて、一見して廃線跡ではないことがわかる。「ここには大築堤があったはずなので、崩されてしまったのは惜しいですね」と私。平和砿業所の跡地に運動公園が完成したのは1994年6月なので、先述の「続 鉄道跡を紀行する」の探索は、この迂回路ができて間もないころのことだ。「真新しくて味わいがなかった」という感想が文中に残されている。

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オメガカーブの一部を成す直線路が明るい林の中を延びる
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(左)虹ヶ丘跨線橋 (右)JR夕張支線をまたぐ
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(左)陸橋の先は廃線跡が消失、サイクリングロードは右へ迂回
(右)平和砿業所跡に整備された運動公園

車で先回りしていた堀さんたちと合流して、広い芝生で昼食にした。サッカーの試合を遠目に見ながら、私が赤飯おにぎりを食べていると、真尾さんが目ざとく「甘納豆が入っているでしょう」と言い当てる。「そうなんです。知らずに買ったので、包みを開けてびっくりしました。これ北海道の名物ですか」「小豆の赤飯も食べますが、甘納豆もふつうにありますよ」。小豆と違って、甘納豆はご飯を炊いた後に加えるので、赤い色つけには食紅を使うのだそうだ。

運動公園のはずれで、サイクリングロードは廃線跡に戻る。志幌加別川を渡る橋梁は長いカーブの途中で、築堤の続きだったため、けっこう高い位置に架かっている。橋桁は朱色のガーダーで、もとの鉄橋を転用したもののようだ。橋の左側を見下ろすと、平和鉱業所の専用線跡とおぼしいコンクリート桁の橋も残っている。通れるところまで行ってみたい気はしたが、時間の制約もあったのでここで引き返した。

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志幌加別川を渡る
(左)橋梁はオメガカーブの途中に (右)平和鉱業所専用線の橋桁が残る

行程の後半では、鹿ノ谷駅から北へ向けて谷を遡る。駅のすぐ北に架かる第五志幌加別川橋梁のたもとまで、車に乗せてもらった。かつてここには3本の鉄道橋が並んでいた。今も現役なのは夕張支線の1本だけだが、すぐ隣(西側)に開通当時の旧橋が残っている。橋脚は、現役がスマートな煉瓦積みなのに対して、右の旧橋はがっちりと組まれた隅石が特徴的だ(下写真参照)。色合いも褐色とスレート色で好対照を成している。複線だった時代は両方が使われていたはずだが、単線に戻すにあたって、築年の新しい方が選択されたのだろう。放棄されたとはいえ、旧橋も川の直上のガーダー2連が架かったままで、往時の面影をよく伝えている。

一方、3本目は夕鉄のそれだ。他の2本から少し東に離れた位置に橋台が残されている。イギリス積みの煉瓦の表面を覆っていたモルタルが朽ちかけて、哀れを誘う。橋桁は撤去済みだが、その跡に1本の白樺の木が根を張っている。廃墟の上に天を指してすっくと立つさまは、どこかクロード・ロランの描く古典画を連想させ、思わずカメラを向けてしまった。

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(左)夕張支線の第五志幌加別川橋梁。左が現役、右は旧橋
(右)夕鉄の橋台には1本の白樺がすっくと立つ

その旧橋の袂からサイクリングロードが北へ延びている。先に行ったOさんを追って、ミドリさんと私も、夕張支線に沿う小道を夕張駅のほうへ歩いていった。道の右手は、旧版地形図で炭住が整然と並んでいたエリアだが、南半分は新しい団地に変わっている。やがて直線コースの先に、雪山をイメージしたホテルマウントレースイの巨大な建物が姿を現した。裏手のスキー場へ来る客を当て込んだリゾート開発の象徴的施設だ。夕張支線もその一翼を担うことが期待されたのだが、列車で訪れるスキー客が実際にどれほどいたのだろうか。

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(左)終点夕張駅の横には巨大なホテルが (右)ホーム1本きりの終着駅

夕張駅前に全員が集合したところで、最後に旧 夕張駅を車で見に行くことにした。前述のように夕張駅は2度移転している。最も奥にあった初代夕張駅の開業は、1892(明治25)年だ。最盛時には、蒸機が石炭を満載した貨車の長い列を次々と運び出し、乗り降りする大勢の客で駅も賑わったことだろう。しかし今、現地には駅舎はおろかプラットホームすら跡形もなく、前にだだっ広い空き地が残されているばかりだ。

空き地はヤードの跡で、駅の移転後は石炭の歴史村という観光施設の駐車場に転用されていたらしい。それにしても広いので、「こんなに駐車場が必要だったんですか」とKさんに聞くと、「歴史村も一時はけっこう流行ってましたからね。私も来ましたよ」。盛時の炭鉱が人々の記憶に新しい間は、十分な集客力があったのだ。

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(左)初代夕張駅(現 夕張駅の写真展示を写す) (右)石炭の歴史村のモニュメントを望む

続いて、2代目の駅跡に移動した。2代目は初代の1.3km南に造られ、1985年10月13日に開業している。初代の駅が町から遠く不便なため、貨物輸送がなくなった後、商業の中心地に移されたのだ。夕鉄の終点である夕張本町駅もここにあったので、14年の空白を経て鉄道駅が帰ってきたとも言える。

案内された駅跡は、市役所や市民会館と、道道の築堤とに挟まれた谷間のような場所だった。生い茂る草に覆われ、駅の面影は全く失われている。隣接する市民会館も、耐震診断の費用が捻出できずに閉鎖されてしまったらしい。表に回ると、ガラスの破損を防ぐためか、壁一面にベニヤ板が打ち付けられていた。駅前通りの建物の壁には、名作映画の色あせた看板が目に付く。町おこしの一環で映画祭が開かれているからだそうだが、それだけで華やかな時代を想像するのは難しかった。

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道路の築堤と市民会館に挟まれた2代夕張駅跡

せっかく町の中心に駅が来たというのに、2代目が使われたのはごく短期間に終わった。5年後の1990年12月26日に、マウントレースイスキー場に隣接する現駅へ再移転したからだ。これによって夕張支線はさらに0.8km短縮され、初代から見れば2.1kmも南へ後退した。実は変遷があまりに急なため、2代夕張駅は国土地理院の地形図に記録される機会がなかった(下注)。地形図ファンにとっては幻の駅ということになる。

*注 1:25,000地形図「夕張」図幅は、1984(昭和59)年修正測量の次が1994(平成6)年。それを資料に編集された1:50,000地形図「夕張」図幅も、1985(昭和60)年修正の次が1995(平成7)年で、1985年10月~1990年12月の間に存在した2代目の位置は反映されていない。

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夕張駅の移転と路線短縮
(左)初代夕張駅のあった頃(1977年)
(右)再移転後の現駅(1994年)。参考に、2代目駅の位置を加筆

旧駅探訪を終えて、3代目となる現 夕張駅前に戻る。記念写真の後、列車組は16時31分発の上り列車を待った。駅舎は風見鶏の時計塔をつけたメルヘンチックな建物なのだが、無人で切符は売っておらず、駅舎からホームへ通じていたはずの扉も閉鎖されていた。私にとって、これが夕張支線最後の乗車になるだろう。そう思うと名残惜しさはあるものの、通行止めのサイクリングロード、更地に還った初代駅、うら寂しい市街地と目の当たりにした景色がよみがえり、重い気持ちもいっしょに抱えての帰路になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図夕張(昭和52年改測、平成6年修正測量)、5万分の1地形図夕張(昭和42年編集)、20万分の1地勢図夕張岳(昭和47年修正)、札幌(昭和46年修正)及び地理院地図(2016年10月20日現在)を使用したものである。

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