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2016年7月31日 (日)

ダグラスの馬車軌道に未来はあるのか

140年もの間、マン島 Isle of Man の首都ダグラスのプロムナードを走ってきたダグラス・ベイ馬車軌道 Douglas Bay Horse Tramway (下注)に今、転機が訪れている。

*注 ダグラス馬車鉄道と呼ばれることも多いが、ここでは tramway を軌道と訳した。同 軌道の詳細は「マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道」参照。

島に残る主な古典的鉄道4本のうち、蒸気鉄道、マンクス電気鉄道、スネーフェル登山鉄道の3本は1978年に国有化(下注)されたが、馬車軌道だけは1900年にダグラス市が買収して以来、一貫して市営で運行されてきた。ところが、2015年12月に厩舎移設のために市議会に提出された資金計画が、慢性的な運営赤字への批判と重なって紛糾し、とうとうトラムの運行を中止するという提案が採択されてしまったのだ。国が乗り出して2018年まで運行が継続されることになったものの、近々予定されるプロムナードの全面改修工事と絡んで、将来的な見通しはまだ示されていない。

*注 本稿で「国」「政府」という場合、イギリスではなく「マン島自治政府」を指している。

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ダグラスのプロムナードを行く(2007年8月撮影)

ことの発端である厩舎というのは、もちろん運行の主役である馬たちがねぐらにしている場所だ。1891年からの古い建物で老朽化しており、ストラサラン Strathallan の軌道終点にある同じく改修が必要な運行拠点に統合して、敷地は売却するという構想が練られていた。そのための改築費用およそ290万ポンドは、30年の市債を発行して確保する予定だった。ところが、議会の審議の中で、トラムの運行で生じている年26万3千ポンドの赤字に、この返済負担が上乗せされることが問題視された。

議会関係者はこう述べている。「議会は常にダグラスの納税者の最善を考えて行動しなければならない。馬車軌道の運行を続けることは、翌会計年度だけでなく近い将来においても、納税者に受入れがたいレベルの重荷を背負わせることになる。」「議会も、馬車軌道の運行に対して島内や世界中から寄せられる愛情を認めてはいるが、こうした背景がある以上、残念だが馬車軌道は存続できない。」(ダグラス市議会ニュース 2016年1月21日)。

運行終了の決議は今年(2016年)1月27日に行われた。あと3か月もすれば次のシーズンが始まるという時期で、しかも今年は開通140周年の記念行事が計画されている。馬車軌道は島の重要な観光資源の一つであり、将来のあり方よりも、まず当面の対策を急ぐ必要があった。決議の当日に、市議会と関連の政府部局、保護団体の代表者による会議が持たれ、問題を調査するための委員会が立ち上げられた。

3月24日になって、政府の社会基盤省 Department of Infrastructure から、2016年のシーズンは同省が馬車軌道の運行の責を果たすと、公式発表があった。つまり、市が放棄した運行事業を国が肩代わりするということだ。しかし、国から特別の支出はないため、持出しとなる費用は、他の保存鉄道を含めた運営予算の中から捻出しなければならない。そこで、運行費用の削減と増収を目標とする計画が実行される。ハイシーズンでも月曜を運休日として、馬や要員の運用を減らす一方で、増収のために運行期間が拡大され、昨年5月11日~9月13日だったものが4月30日~11月30日になった。

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馬車軌道の時刻表リーフレットが経営者の交代を物語る
(左)2015年、右肩にダグラス市議会 Douglas Borough Council の文字
(右)2016年、左下にマン島鉄道 Isle of Man Railways(国有鉄道) の文字

実は、この難しい一件がなくても、馬車軌道は一時休止になる予定だった。プロムナードを全面改修する計画が進行しており、本来なら2015年を全面運休して工事を行い、140周年の2016年に華々しく再開される運びだったのだ。計画図面では、現在道路の中央に敷かれている複線の線路が、海側の歩道の脇に寄せて単線化され、途中に「列車交換」するための待避線(パッシングループ)が設けられている。景観は今とかなり変わってしまうが、乗降の際の安全性が高まるとともに、自動車の通行も円滑になるとされた。

しかし、調整が難航して2015年の着工が見送られ、市議会で紛糾したことで、工期はさらにずれ込むことになる。この不透明な状況下で、4月12日に改修計画の修正案が公表された。そこには、馬車軌道の準備を除外した上で、「馬車軌道の将来が保証されるならば、運行をヴィラ・マリーナ Villa Marina ~ダービー・カッスル Darby Castle 間とする申請が別途提出される」と書かれていた。裏を返せば、存続する場合でも、中心街で交通量が多いヴィラ・マリーナ以南には線路を敷かないと言っているのだ。

今月(2016年7月)のマン島議会で本件が審議されることになり、成り行きが注目されたが、23日付のブリティッシュ・トラムズ・オンライン British Trams Online は次のように報じた。

「長時間の討論と修正提案を経て、ティンヴァルド Tynwald(マン島議会)は今週、マン島鉄道 Isle of Man Railways(国有鉄道)が今後2年間(2017~18年)ダグラス・ベイ馬車軌道を運行し続け、一方で今後のより詳細な問題については、軌道の長期にわたる将来のために社会基盤省が準備することを承認した。議論された当初の提案は、プロムナードの改修工事の一部として軌道全線を再敷設することに何ら言及のないものであったが、議論の間に修正が加えられ、シー・ターミナルからダービー・カッスルの全区間に単線の軌道を完全に再敷設することへの言及が見られた。」

つまり、2018年までは運行され、改修工事後も区間短縮はしないということが、なんとか保証されたようだ。

さらに提案には、国が正式に馬車軌道の経営を行うとともに、市から運行に用いる施設設備を買い取る(=国有化する)旨の内容が含まれている。ただし同時に経営の見直しが図られ、車両については、現存の25両中11両のみを引継ぐという。このうち7両を運行の中核部隊とし、4両は「保存 museum」車両として特別行事にのみ使用する。市の所有に残される14両は、遠からず処分される運命にある。

また、厩舎と車庫は、2年間現状のまま使用するが、その後の統合改築については議論が継続される。プロムナード改修計画に軌道工事が含まれていないため、施設の移転改築を含めた工費の見積額は540万ポンドに上る。巨額の資金をどのように工面し、返済していくのかが議論の最大の焦点になるのは間違いない。

馬車鉄道の存続危機が全英に伝わり、今年はマン島の鉄道遺産を訪れる人が急増しているそうだ。シーズン前半、7月3日までの馬車軌道の乗客数は22,173人で、昨年同期比7,707人、率にして52%も増えたという。また、運行コストの縮小も報告されている。特需が後押しした面はあるが、政府がとった再建策も一定の効果を生んでいるのだろう。

保存鉄道の支援団体も、保存鉄道行政が一本化される今回の措置には協力を惜しまないとする。しかし一方で、オリジナルの厩舎と車庫を建て替え、ルートを変更し、車両をスクラップにして、馬車軌道のいったい何を維持しようとしているのか、という疑問の声も上がっている。マン島議会の寛大な決定で一息ついたとはいうものの、何も知らずに仕事にいそしむ馬たちを前に、馬車軌道とその経営者の悩みはかつてなく深い。

■参考サイト
ダグラス湾馬車軌道友の会 Friends of Douglas Bay Horse Tramway
http://www.friendsofdbht.org/
IOM Today  http://www.iomtoday.co.im/
ダグラス市公式サイト(ニュース) http://www.douglas.gov.im/index.php/news
マン島政府公式サイト(ニュース) https://www.gov.im/news/
ブリティッシュ・トラムズ・オンライン http://www.britishtramsonline.co.uk/

★本ブログ内の関連記事
 マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス馬車軌道

2016年7月23日 (土)

サンマリノへ行く鉄道

長靴形をしたイタリア半島の東の付け根に近いところに、その国はある。地図で見ると、国土はイタリアの中にぽっかり浮かんでいて、似た境遇のバチカン市国などとともに、エンクラーヴェ Enclave(包領)と呼ばれる特異な地理環境の独立国だ。正式国名をサンマリノ共和国 Serenissima Repubblica di San Marino(下注)といい、アドリア海沿岸のリミニ Rimini の町から内陸へ約10km走ると、その国境に達する。豊かに波打つ丘陵地を突き破るようにそそり立つティターノ山 Monte Titano、その上に、古くからある町の城壁が見えるはずだ。

*注 イタリア語の発音に従えばサン・マリーノだが、外務省の表記に倣ってサンマリノと記す。

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サンマリノ市街のあるティターノ山を遠望
Photo by Annunziata at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

現在、この国に公共交通機関だけで向かおうとすると、FS(旧 イタリア国鉄)線でリミニまで行き、駅前で路線バスを待つしかない。しかし、第二次世界大戦で中断されるまで、リミニ駅の1番線にはサンマリノ行きの電車が停まっていた。白と空色のツートンカラーをまとう車体を見れば、誰しも目的地の国旗を思い浮かべたに違いない。

路線はリミニ=サンマリノ線 Ferrovia Rimini-San Marino といい、31.5kmの長さがあった。国鉄線の一つであり、2国間を連絡するという意味で国際路線でもあったが、軌間はイタリアのメーターゲージである950mm軌間で、幹線との直通は想定されていなかった。急勾配路線のため、最初から直流3000Vで電化され、TIBB社の子会社カルミナーティ・エ・トセッリ Carminati & Toselli 製の電車4両、AB01~04が運行を担った。

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復元された電車AB03
Photo by Aisano at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

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サンマリノに鉄道が通じたのは古い話ではない。建設認可は1913年に下りていたものの、話が進んだのは、ムッソリーニのサンマリノ公式訪問がきっかけだ。1927年に二国間協定が締結され、建設費は全額イタリア政府の資金で賄われることになった。翌28年12月から建設工事が始まり、4年後の1932年6月、市民の歓喜に包まれて開通式が挙行された。

しかし、鉄道が市民に貢献した時間はあまりに短かった。というのも、第二次世界大戦末期の1944年6月26日、連合軍によって空爆の標的にされたのだ。サンマリノは1920年代からイタリアの影響でファシスト政権下にあったとはいえ、戦争に対しては中立を宣言していた。しかしドイツ軍が越境して備品や弾薬を集積しているという誤った情報が伝わり、攻撃の対象になった。鉄道施設が破壊されたため、7月4日から全線で運行が停止した。列車が来なくなったトンネルはイタリアから逃れてきた人の臨時の避難所になり、チフスが流行した秋には、車両も患者を収容するためにあてがわれた。

戦後、鉄道復旧の要望は多々あったものの、当局の動きは鈍く、部分的な修復が行われるにとどまった。道路整備が優先された時代であり、後述するように線形の制約が大きいこの路線には将来性を見出せなかった、というのが本音だろう。そのうち1958~60年に、イタリア側で道路用地に転用するために線路の撤去が始まり、市民の一縷の望みも絶たれた。結局電車は12年間走っただけで、2両は博物館の展示品になり、2両は他の鉄道に売却されてしまった。

路線の起点リミニ国鉄駅は標高3m、一方、終点のサンマリノ駅は標高643mだ。この大きな高低差をレールと車輪の粘着力だけで克服するために、ルートはすこぶる変化に富んでいる。地形的に見ると、平地に直線を引いただけのリミニ~ドガーナ Dogana 間、山の裾野を蛇行しながら上るドガーナ~ボルゴ・マッジョーレ Borgo Maggiore 間、山本体にとりつき、ぐるぐる巻いていく最終区間の3つに分けられるだろう。いったいどんなところを走っていたのか、当時の地形図や空中写真で追ってみることにしたい。

*注 駅の標高は、同鉄道の保存団体「白青列車協会 Associazione Treno Bianco Azzurro」の資料に拠ったため、地形図記載の標高数値とは若干の相違がある。

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リミニ=サンマリノ線路線図

第一区間(リミニ~ドガーナ)

リミニを出て約1.2km、最初の停留所リミニ・マリーナ Rimini Marina までは、アンコーナ Ancona 方面の国鉄幹線に沿って走る。リミニ・マリーナにはこの路線の車庫と修理工場が置かれ、運行の拠点になっていた。構内は種苗園に転用されたが、駅舎は今も残されている。線路は右に大きくカーブした後、アウーザ川 Ausa の平たい谷をまっすぐ山をめざして進んでいく。

次のコリアーノ=チェラソーロ Coriano-Cerasolo 停留所の手前まで、直線が8km以上も続く。今は住宅や工場が点在しているが、当時は一面葡萄畑に覆われていた。3つ目の駅が、税関を意味するドガーナ Dogana(標高69m)だ。線路はすでにサンマリノ領内に入っているが、地名が示すように、道路はここで国境を越えてくる。車窓景観としては、実質的に2kmほど先のメリーニ橋 Pont Melini が転換点になる。

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ドガーナ~ドマニャーノ間の1:25,000地形図
イタリア官製1:25,000 109-IV-NO Montescudo(1948年改訂版)

第二区間(ドガーナ~ボルゴ・マッジョーレ)

メリーニ橋で正面に見える丘の上の村は、セラヴァッレ Serravalle という。線路は左手から回り込み、町の真下をスパイラル(ループ線)で一周巻いて、標高135mのセラヴァッレ駅に達する。今は丘全体がすっかり宅地に埋まっているが、湾曲した街路の一部はスパイラルの廃線跡を転用したものだ。駅の手前にあるサンタンドレアトンネル Galleria Sant' Andrea(長さ258m)は通り抜けることができ、その先に旧セラヴァッレ駅舎も修復されて残っている。

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セラヴァッレ付近のルート。図中×印のトンネルは通行不可(以下同じ)
空中写真はGoogle Mapより取得(2016年7月)

線路はこの後、ティターノ山の裾野を舞台に、のた打ち回るような軌跡を描いて上っていく。第二区間の平均勾配は30‰あり、半径100mの急カーブによる折返しもたびたび現れる。折り返すごとに視点が上昇して、車窓の見晴らしもよくなっていったことだろう。幸いにも、セラヴァッレの少し上手から、リジニャーノトンネル Galleria Lisignano(長さ246m)を経て次のドマニャーノ Domagnano 停留所(標高315m)の手前までは、自転車道として整備されており、当時の車窓を追体験できる。

ヴァルドラゴーネ Valdragone 停留所(標高393m)をやり過ごす頃には、目の前に、ティターノ山の絶壁が威嚇するように立ちはだかる。まもなく共和国のメルカターレ Mercatale(ショッピング街)、ボルゴ・マッジョーレだ。駅の標高は493mで、高度でいえば全体の3/4まで来たことになる。

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ドマニャーノ~サンマリノ間の1:25,000地形図
イタリア官製1:25,000 108-I-NE S.Marino(1949年改訂版), 109-IV-NO Montescudo(1948年改訂版)

第三区間(ボルゴ・マッジョーレ~サンマリノ)

現在は、もと駅前から右手に少し上ったところにロープウェーの乗場があり、空中を伝ってサンマリノの町へ一気に着地できる。しかし、鉄道はそうはいかなかった。山裾に取り付き、裏側に回り込んで高度を稼がなければならず、平均勾配は40‰に達した。実はティターノ山は、表と裏で表情が違う。人を寄せつけない険しさを見せる表(東)側に対して、裏(西)側は比較的緩やかな斜面で、サンマリノの市街もそちらに展開しているのだ。

ボルゴ・マッジョーレ駅の先にあった道路をまたぐ高架橋は解体されたが、その先のボルゴトンネル Galleria Borgo(長さ173m)とモンタルボトンネル Galleria Montalbo(長さ186m)は遊歩道に活用されている。線路はそれからすぐ、第二のスパイラルであるピアッジェトンネル Galleria Piagge(長さ515m)に突入するが、これは現在通行できない。

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ボルゴ・マッジョーレ付近のルート
空中写真はGoogle Mapより取得(2016年7月)

次の1km強の間は、アペニーノの支脈モンテフェルトロの山並みをはるかに望みながら、斜面に忠実に沿って走る区間だ。最後にモンターレトンネル Galleria Montale の中で半回転して、サンマリノ駅に到着する。

駅前広場 Piazzale della Stazione は名称ともども健在だが、ロータリーは鉄道廃止後に拡張されたものだ。当時の駅舎は、現在の広場の南半分を占めており、その南側の駐車場になっている区画に、1面2線の発着ホームや車庫等が配置されていた(下の空中写真に、駅舎等の配置を書き添えてある)。施設はすべて取り壊され、跡形もない。広場の西に面するホテルジョリ Joli のレストランが、旧駅 Ristorante Vecchia Stazione を名乗っているのがせめてもの慰めだ。

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サンマリノ駅付近のルート
空中写真はGoogle Mapより取得(2016年7月)

最近サンマリノでは、鉄道を一部復活させようという動きがある。2012年が鉄道開通80周年に当たることから、それに向けて、保存団体である白青列車協会が中心になり計画が進められた。まず、駅の200m南にあるモンターレトンネルの前後、距離にして800mの区間で、線路の復元工事が実施された。架線柱はオリジナルの様式を再現し、直流480Vに減圧されはしたものの、架線も張られた。その間にサンマリノの博物館に保存されていた電車AB03が全面改修を受けて、現地に復帰したのだ。

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復元区間の起点に電車が配置され、当時を彷彿とさせる
Photo by Aisano at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

この事業はサンマリノ政府の支援を受けていて、次の段階ではボルゴ・マッジョーレまでの延長を検討していると伝えられる。すでに廃線跡の大半は車道や遊歩道に転用されており、前進は容易ではないだろうが、開通すれば新たな観光資源としての活用も期待できる。短命に終わった鉄道だけに、国旗色の電車に再び山を上らせるという夢が、サンマリノ市民の誇りとして実現することを祈りたい。

(2006年2月28日付「サンマリノへ行く鉄道」を全面改稿)

■参考サイト
リミニ=サンマリノ ある国際鉄道の日々
Rimini - San Marino  Una Ferrovia Internazionale di Ieri
http://www.clamfer.it/02_Ferrovie/Rimini/Rimini-San%20Marino.htm
リミニ=サンマリノ線 LA FERROVIA RIMINI- SAN MARINO
http://www.ferrovieitaliane.net/ferrovia-rimini-san-marino/
Structurae - Rimini-San Marino Railway
https://structurae.net/structures/rimini-san-marino-railway
 廃線跡に残る構造物の写真多数
サンマリノ:鉄道の旧線跡 San Marino: il vecchio percorso della ferrovia
http://www.viaggi-lowcost.info/cosa-fare/san-marino-vecchio-percorso-ferrovia/
ferrovie.it(イタリア鉄道情報サイト) http://www.ferrovie.it/portale/

2016年7月11日 (月)

カールス鉄道-百年越しの夢の跡

何の変哲もないローカル線が、思いもよらぬ来歴を秘めていることがある。ヴェーザー川上流の小さな港町で行止りになる16.4kmの支線は、その名をカールス鉄道 Carlsbahn と言った。すでに廃止され線路も撤去されているが、そのルートは昔、ドイツが統一される前に存在したヘッセン選帝侯国にとって非常に重要だった。その証拠にこの鉄道は、1840年代というかなり早い時期に、同国で最初に開通した路線なのだ。それがなぜ、発展することもなく消えてしまったのだろうか。その経緯と現況を探ってみよう。

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カールス鉄道最大の遺構、ダイゼルトンネル

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ヘッセン選帝侯国 Kurfürstentum Hessen、略してクーアヘッセン Kurhessen は、19世紀のドイツ中部にあった領邦だ(下注)。カッセル Kassel(当時の綴りは Cassel)が首都で、そのためヘッセン=カッセルという呼称もある。いうまでもなく内陸国で、外海との交易は北海に注ぐヴェーザー川 Weser に頼っていた。船は河口から450kmこの川を遡って、ミュンデン Münden(現 ハン・ミュンデン Hann. Münden)の港で荷を下ろす。ここで川が二手に分かれて水量が減るため、荷船は上流へ進めなかったのだ。

*注 ダルムシュタット Darmstadt を首都とするヘッセン大公国 Großherzogtum Hessen は別の領邦。

しかしハン・ミュンデンは、名前がハノーファーのミュンデン Hannoversch Münden を意味するとおり、隣国ハノーファー王国 Königreich Hannover の領地だ。荷揚げされた物資には、カッセルへ送られる前に王国によって関税が課された。喉元を他邦に押さえられた形のクーアヘッセンにとっては、ミュンデンをバイパスする交通路を開拓することが、かねての宿願になっていた。

自国にも、ヴェーザー川に面する唯一の港町がある。カールスハーフェン Karlshafen というその町は、ヘッセン=カッセル方伯だったカール1世が、1699年にユグノー教徒の入植地として創設した由来をもっている(下注)。願いを達成する方法はただ一つ、ここを陸揚げ港にすることだったが、カッセルへは、ディーメル川の谷を遡り、鞍部を越えて、40~50kmの陸路を克服しなければならない。

*注 プロテスタントのユグノー教徒は、カトリックから迫害を受け、母国フランスを脱出して多くがドイツ各地に移住していた。町は創設当時ジーブルク Sieburg という名だったが、1717年にカールスハーフェン(当時の綴りは Carlshaven)に改称されている。現在の正式名称はバート・カールスハーフェン Bad Karlshafen。

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バート・カールスハーフェンのヴェーザー川

カール方伯はこの間に運河を開削しようとしていた。1710年に発表された計画は、さらに南へ延長してラーン川Lahnに接続し、結果として首都カッセルを南北物流の中心にするという壮大なもので、後にカール方伯運河 Landgraf-Carl-Kanal と呼ばれるようになる。しかし港から順次着工したものの、カッセルどころか途中の鞍部までもたどり着かないうちに、カールは亡くなった。指導者を失った計画は、未完のまま放棄されてしまう(下注)。

*注 1730年の彼の死までにホーフガイスマー Hofgeismar 近くのシェーネベルク Schöneberg まで完成しており、後述のように、ルート上には水路や水門などの遺構が存在する。

クーアヘッセンを含む近隣諸邦の間で東西連絡鉄道の建設構想が持ち上がったのは、それから1世紀を隔てた1840年のことだ。今度はハレ Halle ~カッセル~ヴェストファーレン Westfalen を結ぶというもので、各邦が領内に建設した路線をつないでいくことになっていた。クーアヘッセンは、これこそカールの遺志を実現するまたとない機会と考えた。それに、鉄道建設に必要な資材や設備は船で運ばれてくるため、いずれにしても港まで線路を延ばす必要があったのだ。

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19世紀半ばのヘッセン北部における河川と鉄道の位置関係
ハノーファー王国領の河港ミュンデン Münden を避けるために、カールスハーフェン Carlshafen (Bad Karlshafen)~カッセル Cassel (Kassel) 間の鉄道が計画されたことがわかる

決定したルートは次のようなものだった(上図参照)。カッセルから北上して、ヒュンメ Hümme(現 ホーフガイスマー=ヒュンメ Hofgeismar-Hümme)に至る。そこで分かれて一方は東西連絡のために西へ進み、もう一方は北上を続けてカールスハーフェンで河港に臨む。後者がカールの鉄道を意味するカールス鉄道と呼ばれるようになるのは、ごく自然なことだ。最初は馬車鉄道で計画されたが、後で蒸気機関車を導入することが決まった。

工事はカールスハーフェンから始まり、南へ進められた。ヒュンメを経てグレーベンシュタイン Grebenstein(仮駅)までが1848年3月30日に完成し、クーアヘッセンで最初の鉄道になった(下注)。引き続き、カッセルへの延長線が同年8月18日に開通、ヒュンメから西へ、邦境を越えてヴァールブルク Warburg に接続したのは、3年後の1851年2月だった。

*注 開通式は1848年4月3日に挙行された。ちなみにこの経緯は、中山道鉄道の資材運搬のために敷設され、東海地方で最初に開通した武豊線(正確には武豊~熱田間)に似ている。

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開通間もない頃のカールスハーフェンの1:25,000地形図
ヘッセン選帝侯国作成 1857年版

ついに実現した念願の短絡路だったが、残念なことに、鉄道が思いどおりの効果を発揮した期間はごく短かった。どうしてだろうか。

クーアヘッセンは当時すでに、プロイセンが主導するドイツ関税同盟 Deutscher Zollverein の一員だった。そこへ1851年にハノーファー王国も加わったことで、両邦間にあった関税障壁が解消されてしまったのだ。船のコストが安くなり、荷揚げは再びカッセルにより近いミュンデン港で行われるようになった。さらに決定的だったのは、1856年にゲッティンゲン Göttingen、ミュンデンを経てカッセルに至るハノーファー南部鉄道 Hannöversche Südbahn が全通したことだ。水量の季節変化に影響を受けがちな川船に比べて、速くて安定した輸送が可能になった。ヴェーザー川の水運は大打撃を受け、カールス鉄道を利用する貨物も、域内発着のわずかな量に絞られてしまった。

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1960年代のカールスハーフェン左岸駅の眺め(ディーメル・エコ歩道の案内板の写真)

川で行止まる路線では発展が見込めないと、カールスハーフェン以遠への延長が画策されたが、資金不足のため、一向に話が前に進まない。そうするうちに1878年、ヴェーザー川対岸にゾリング鉄道 Sollingbahn が開通し(下注)、進出の余地さえ奪われてしまった。ゾリング鉄道にもカールスハーフェン駅が設けられたので、併存していた時代は、そちらを右岸(レヒテス・ウーファー Rechtes Ufer, r.U.)駅、カールス鉄道のほうを左岸(リンケス・ウーファー Linkes Ufer, l.U.)駅と呼んだ。

*注 ゾリング鉄道は、オットベルゲン Ottbergen ~ノルトハイム Northeim 間64.0kmで、カールス鉄道が狙っていた東西連絡を先に実現した。この路線は現在も運行中。

カールス鉄道は、カッセルへの直通列車の増便など地元の需要をこまめに拾いながら、第二次大戦後もなんとか命脈を保った。しかし、所詮ローカル線の域を出ず、戦後、自動車交通の興隆で不採算路線が整理される局面になると、抗うすべはなかった。1966年9月25日、最後の旅客列車が運行されて、カールスハーフェン駅は閉鎖された。トレンデルブルク Trendelburg にあった砂利採取場のために、ヒュンメとの短区間が貨物線で残されたが、これも1986年9月に終了し、ついに全線が廃止となった。

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カールス鉄道周辺の1:50,000地形図
ニーダーザクセン州測量局1:50,000 L4322 Höxter 1996年版
ヘッセン州測量局1:50,000 L4522 Hannoversch Münden 1992年版

カールス鉄道の線路はまもなく撤去され、今は多くの区間が、ディーメル自転車道 Diemelradweg、ディーメル・エコ歩道 Eco Pfad Diemel として活用されている。根元のヒュンメから見て行こう。

ヒュンメへは、カッセル市内からレギオトラムRT1(旧RT3)系統が通っている。レギオトラム RegioTram というのは、市内の路面を走るトラムがそのままDB鉄道線に乗り入れて郊外まで足を延ばすサービスだ。アルストーム Alstom 社製の白い低床車レギオツィタディス RegioCitadis がその役を担っている。カッセル中央駅に設けられた専用ホームから乗込むと、40分弱で終点ホーフガイスマー=ヒュンメ Hofgeismar-Hümme 駅に到着する。ここがカールス鉄道廃線跡探索の起点だ。

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ホーフガイスマー=ヒュンメ(旧 ヒュンメ)がカールス鉄道の分岐駅

地図を見ると、ヒュンメ駅前後で線路が不自然な馬蹄形に曲がっている。西から張出す山脚を回り込むという理由もあるにせよ、ヒュンメでの分岐を前提にしたルート設定なのは間違いない。廃線跡は、駅の北側で右にカーブしていく並木の小道だ。目の前に広がるブライテ・ヴィース Breite Wiese の盆地は、大雨が降るたびに、トレンデルブルクの狭い谷に阻まれた水が溢れて地面を覆った。洪水を避けるために線路は、盆地を最小限の距離で横断し、東の山際に沿ってシュタンメン Stammen 集落の東側を抜けていく。

一方、自転車道のほうは、ヒュンメの集落を貫いた後、エッセ川に沿った小気味よい直線路を使うが、これは廃線跡ではなく、未完となったカール方伯運河の側道だ。左側の窪みが運河の跡になる。古地図には、並行する3列の水路が描かれているが、中央が運河で、両側は排水用の水路だ。洪水の際に、運河航行に与える影響を和らげるための工夫だそうだ。

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(左)ディーメル・エコ歩道の案内板
(右)未完に終わったカール方伯運河の側道を行く。左側の窪みが運河跡
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案内板の古地図。ブライテ・ヴィース(右半)に3列の直線水路が描かれている

さて、トレンデルブルク付近からは、自転車道が廃線跡に載ってくる。ディーメル川の谷に忠実に従って、線路は大きく蛇行している。道端にはトレンデルブルクの旧駅舎が残っているが、今は銀行の支店だ。村の中心部は、狭まる谷を窺う丘の上にある。

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(左)トレンデルブルクの旧駅舎。線路跡は標識柱の後ろ、青い柵に沿って左へ入る小道
(右)トレンデルブルクの村が丘の上から谷を見下ろす
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ディーメル川の谷越しにダイゼルベルク Deiselberg を望む
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廃線跡はディーメル川に沿って下る

2つ目の山脚ケッセルベルク Kesselberg を回り込むところに、最も重要な遺構が存在する。カールス鉄道唯一のトンネルだった長さ202mのダイゼルトンネル Deiseler Tunnel だ。長らく放置されていたが、再整備のうえ2014年に通れるようになったばかりだ。案内板には「ヘッセン最古の鉄道トンネル、蝙蝠の楽園、夏の半年間(4~10月)、自転車と歩行者に開放」と書かれている。

自転車道からそれ、標識に従い坂道を上ると、南口にたどりつく。森の中に、赤い砂岩で築かれたポータルが静かにたたずんでいる。扁額はないものの、両側に太い付け柱が立ち、洞口はアーチ環を重ねて輪郭を強調したデザインだ。小鉄道には不釣合いな威厳を放つ姿は、当時の人々の鉄道に託した思いをよく表している。

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ダイゼルトンネル (左)南口 (右)再整備が終わったトンネル内

ヴュルマーゼン Wülmersen 停留所跡の手前で、ホルツァペ川 Holzape という小川を横断する。ここに架かる3連の石のアーチも、見逃せない遺構の一つだ。このあたりからは、谷を囲む斜面がしだいに高さを増し、自転車道は川端の緑濃い林の中を行くようになる。ヘルマースハウゼン付近にも、川を短絡する形で運河(ケーゲルスグラーベン Kegelsgraben)や水門が残っている。

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ホルツァペ川を渡る3連アーチの石橋

ディーメル川に沿う緩い左カーブを流していくうちに、目的地のバート・カールスハーフェンに近づく。川岸にあった駅の構内は、そっくりマリー・デュラン学校 Marie-Durand-Schule の校地に転用されている。校庭の一角に静態展示されているのは、DBで走っていたVT2.09形のレールバスだが、雨ざらしのため塗装の傷みが目につく。

駅前からは、その名もカール通り Carlstraße という広い通りがヴェーザー川の方へ延びている。往時は貨物線がこの通りを川べりまで進み、埠頭に並行する荷揚げ用側線に接続していた。貨物線と側線は直交していたため、貨車は2基の転車台で向きを変えて相互に行き来した。

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カールスハーフェン(左岸)駅跡に建つ学校の校庭にレールバスが

町の中心部はハーフェン Hafen(港)と呼ばれて、広い船溜まりがそのまま保存されている。周辺一帯はバロック様式を引き継ぐ白壁の建物が立ち並び、田舎町らしからぬきりっと引き締まった風情が美しい。南側のひときわ目立つ建物は、もと税関 Packhaus で、市役所や観光案内所が入居している。

傍らのカフェで少し休憩した後、ヴェーザー川をまたぐ橋で対岸に渡れば、DB線(ゾリング鉄道)のバート・カールスハーフェン駅(下注)まで、ほんの500mほどだ。平日はおよそ1時間ごとに、北ヘッセン交通連合 Nordhessischer VerkehrsVerbund (NVV) のRB85系統の列車が停車する。これに乗って東の終点ゲッティンゲンまで行くと、旅の起点カッセルへ戻る列車を捕まえられる。

*注 NVVのRB85系統は、ゲッティンゲン~オットベルゲン Ottbergen 間を運行する。

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(左)カールスハーフェンの旧税関、前の船溜まりは水が抜かれて工事中
(右)白壁の建物が立ち並ぶヴェーザー通り Weserstraße
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対岸のバート・カールスハーフェン(旧 カールスハーフェン右岸)駅

掲載した写真は、2015年5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T. 氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
北ヘッセン交通連合 http://www.nvv.de/
カッセル郡エコ歩道 http://www.eco-pfade.de/

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2016年7月 3日 (日)

新線試乗記-北海道新幹線で函館へ

「この列車は13時31分発、北海道新幹線新函館北斗(しんはこだてほくと)行きです。」東京から乗り通してきた「はやぶさ13号」の車内にアナウンスが流れた。何気なく聞いてはいても、北海道新幹線ということばの響きが新鮮で、耳に残る。

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(左)東京駅に新函館北斗行き「はやぶさ13号」が入線
(右)開業を知らせるJR東日本のパンフレット

今、列車は新青森駅に停車している。京都駅を出たのは朝7時半で、東京で30分弱の乗継ぎ時間をとったとはいえ、すでにお昼を回った。新函館北斗まではトータルで7時間かかる計算だ。ずっと座りづめで、そろそろお尻が痛くなってきたが、日本海側を走る特急「白鳥」や寝台の「日本海」で1日がかりの長旅をしていたころに比べれば、贅沢な悩みかもしれない。

北海道新幹線の新青森~新函館北斗間148.8kmは、2016年3月26日に開業した。上下各13本の列車が設定され、両駅間は最短61分になった。運用車両は、東北新幹線で使われてきたE5系とJR北海道所有のH5系だ。どちらも基本的に同じ仕様で、明るい緑と白のツートンをまとっているが、側面の帯はE5系のピンクに対して、H5系はご当地色のラベンダーを巻く。

新青森を発車した後も、アナウンスは続いた。「これから青函トンネルを通り、チューリップの春を迎えた北海道へと参ります」。乗車したのは5月20日、春到来の北の大地を想像して心が弾む。6年前に東北新幹線が新青森まで延びた時、駅の北方にある車両基地へ去っていくはやぶさを見送りながら、新幹線が見る夢はまだ当分続くと思った。その夢に現実が追いついたのだ。線路が右手に分かれていき、その車両基地が車窓をよぎった。

*注 東北新幹線の新青森延伸については、本ブログ「新線試乗記-東北新幹線、新青森延伸+レールバス見学」参照

線路は、津軽半島の東岸を北上する。右手には水が張られた田んぼが続き、その向こうにJR津軽線と沿岸集落、それから青い陸奥湾を隔てて夏泊半島の山々がくっきりと見えている。それはまるで新旧交通路の交代劇をなぞるようだ。集落の手前の線路には、ほんの2か月前まで函館をめざす特急列車の姿があったし、30年前にはあの海を国鉄の青函連絡船が行き交っていたから。

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新青森から津軽半島東岸を北上する
陸奥湾の向こうに夏泊半島、その左後方は下北半島のシルエット

しかしこの眺めも長くは続かない。海峡に達するまでに両手に余る数のトンネルが控えている。闇と明かりをいくつか過ぎたところで、電車は減速し始めた。狭軌との合流地点にさしかかったらしい。

青函トンネルを含む「海峡線」区間は、1988年の完成時から在来線として旅客・貨物の輸送に使われ続けてきた。特に貨物は大動脈で、北海道の産業にとって生命線になっている。新幹線の開通によって旅客輸送は完全に移行するが、貨物列車は依然在来線から乗入れてくる。高速ですれ違った場合、風圧がコンテナ貨物に与える影響が懸念されて、新幹線列車は時速140kmまで速度を落として走ることになったのだ。

在来線の線路が高架に上がってきて、シェルターの中で合流した。あっという間だった。新幹線は標準軌(1435mm)、在来線は狭軌(1067mm)と軌間が異なるので、この区間はレールが3本並ぶ3線軌条に改築されている。素人目には珍しい光景程度の感覚だが、その開発と保守作業の舞台裏は想像以上に大変らしい。

JR北海道のサイトによれば、3線軌条に対応するため、1台19億円のレール削正車をはじめ特別仕様の作業車を揃えた。また、地上設備は12か所の3線分岐器(ポイント)のほか、限界支障報知、レール破断検知、饋電区分制御など特殊な装置を開発して設置した。日常作業でも、線路の点検個所が1.5倍に増える上に、貨物列車が深夜早朝に走行するため、実質2時間弱しか確保できない。また、レールが近接する側は作業がしにくく、冬はこの部分に氷塊がはさまって分岐器の不転換(ポイントが切り替わらない)が起こらないよう警戒する必要があるのだそうだ。

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(左)狭軌の在来線が合流 (右)3線軌条で青函トンネルへ

はやぶさ13号は、中間にある2駅にも停車する。一つは本州側の奥津軽いまべつ、在来線時代の津軽今別駅だが、全面屋根のかかった立派なホームに変身していた。知らぬ間に発車する。

しばらくしてまたアナウンスがあった。「これから青函トンネルに入ります。右側に赤い鳥居と展望台が見えましたら、次が青函トンネルです」。新幹線にはビジネスライクな印象を抱いていたが、「スーパー白鳥」と同じような観光案内が続いているのは嬉しい。とはいえ、トンネルに突入しても、「入りました」のアナウンスと、トンネルを紹介する電光掲示が流れるのみで、窓が一斉に曇ったりはしない。昼間だからか貨物列車のすれ違いもなく、53.85kmの闇を走り抜ける25分間はひたすら静かに過ぎていく。

10年以上も前、ここの竜飛海底(たっぴかいてい)駅で降りたことを思い出した。あのときは斜坑に設置されたケーブルカーで龍飛崎まで上がり、津軽海峡を眺めながら、北端まで来た感慨にふけったものだ。残念なことに新幹線の工事開始に伴って、駅は閉鎖されてしまった(下注)。

*注 現在も龍飛崎の青函トンネル記念館やケーブルカー(斜坑線)は利用可能だが、地上からしか行けない。

次に地上に顔を出すのは、知内町湯ノ里付近で、左の車窓に、瑞々しい春の山々と初めての北海道の集落が見える。二つ目の中間駅が木古内(きこない)だ。ここは後刻、在来線の列車で訪れた。新幹線開業と同時にJRから切り離され、道南いさりび鉄道という第3セクターの運営になったが、キハ40が担う通勤通学の風景は変わらない。

山側の新幹線駅舎が威容を見せつけているが、本来の正面である海側に立ついさりび鉄道の駅舎も建て直されている。内装には木材を多用して、昔の学校の廊下を思わせるところがおもしろい。正面入口から新幹線に乗ろうとすると、いったん在来線をまたいで降りて、地表にある新幹線の改札を入り、再び3階相当のホームへ上ることになる。もちろん地元の人は、ダイレクトに山側の駅舎へ回るだろうが。

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木古内駅 (左)新幹線ホームの駅名標 (右)在来線側の駅舎も新築

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木古内駅 (左)在来線側の改札入口 (右)在来線は道南いさりび鉄道に転換された

木古内を出てから2km半ほど、新幹線は海岸沿いに走る。しかし、防音壁に阻まれて、海はほとんど見えない。新幹線は建設の時代が下がるほど平地の用地取得が難しくなってトンネルが増え、さらに最近の新幹線は防音対策が厳重で、少しでも家並みがあるとたちまち高い壁でブラックアウトにされてしまう。

終点まであと13分。トンネルをいくつか抜けると、南向きに広がった函館平野に出る。アナウンスが「函館山がご覧になれます」と告げるのだが、実際は例の防音壁によって、細切れの眺めしか得られない。在来線のときは、湾を隔てて島かと見まごう函館山がどんどん大きくなり、終点の近いことを教えてくれた。あの感動を味わうことは難しい。

100名定員の広い車内に、もう数組しか乗っていない。前にいた中年グループの一人が、軽く伸びをしながら「は~るばるきたぜ函館へ」と口ずさんだ。東京から4時間乗ってきたのだとしたら、歌い出したくなる気持ちもわかる。まもなく車体が左に傾き始め、右手に横津岳の西麓が近づいてくる。車両基地の建物群が横に並び、はやぶさ13号は新函館北斗駅の真新しいホームに滑り込んだ。

■参考サイト
新函館北斗駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/41.904700/140.648600

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新函館北斗駅
(左)E5系が並ぶ (右)右側に線路増設スペースがある。上階コンコースはガラス張り

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新函館北斗駅 (左)駅舎と駅前広場 (右)2階改札内、在来線は右へ

この駅は、もと渡島大野(おしまおおの)という無人駅で、函館駅から17.9kmの距離にある。札幌に直通する新幹線として、在来線のようにスイッチバックするわけにはいかないとしても、立地はかなり遠い。用地買収や線形の制約があったのだろうが、せめて七飯駅に接続しておけば、下り優等列車が使っていた藤代線も活用できたのにと思う。

それで函館との連絡は、733系電車による「はこだてライナー」が担うことになった。首都圏から訪れる旅行者にも違和感のない新型車両なので、受け入れ態勢としては万全だ。3両編成で、おおむね下りの新幹線と10分程度の接続時間で発車する。走りもいたって軽快で、五稜郭までノンストップの便なら最速15分で函館に着く。

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733系はこだてライナー (左)新函館北斗駅で発車を待つ (右)車内広告も開業を祝う

ただ、10分接続は結構忙しい。乗り遅れると、次の列車は森方面から来る単行気動車ということがままある。筆者がホームにいたときも、「エーッ、1両!」とスーツケースを引いた旅人風の夫妻が呆れて声を上げた。冷房はないし、走りものろいのに加えて、時間帯によっては結構混むので、旅の第一印象を損ねないかちょっと心配だ。

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森方面から来た単行気動車。乗降口にステップがあり、大荷物の人には辛い

そのキハ40に揺られて函館駅に到着した。いうまでもなく函館市の主たる玄関口だが、新幹線開通で本州方面を結んでいた特急がいっさい消えてしまった。交通の結節機能を、新幹線駅に半分譲り渡した格好だ。札幌方面の特急「北斗」が従来どおり発着しているとはいえ、改築された立派な駅舎と長距離列車用の長いプラットホームが、心なしか手持無沙汰に見えた。

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函館駅到着 (左)0キロポストのオブジェ (右)駅舎正面

さて、北海道新幹線に乗ってみて、印象はどうだったか。憧れの北海道に上陸したというのに、車窓から海峡も函館山も大して見えず、在来線のような楽しみは得られなかった。記念の初乗りはともかく、乗ること自体が旅の目的にはなりそうにない。

移動ツールとしての利用はどうか。新函館北斗までなら、到達時間は1時間早くなった。東京から列車が海を越えて直通するという心理的効果も無視できない。団体旅行だと新駅の前から観光バスを出して、そのまま目的地に向かえる。レンタカーもしかり。信号の多い市内の道を走らなくていいから好都合だ。一方、筆者のように函館市内へ行く個人客は、どのみち在来線に乗換えなくてはならない。ライバルとなる空港は市街に近く、羽田へ1時間20分で飛んでいく。駅が空港より立地が悪いようでは、闘う前からすでに競争力に疑問符がついてしまう。

目下JR北海道は、JR東日本とも連携しながら、イベントを打ったり割安な乗車券を売り出すなど、観光需要の喚起に懸命だ。新幹線はこの後札幌まで延伸される予定だが、開通は2031年と、15年も先の話になる。道央に出れば何らかの展開が期待できるとしても、それまであの厄介な線路施設を延々と維持していかなくてはならないのだ。悲願の新幹線とは知りながらも、一筋縄ではいかない重い荷物を預かったものだと思わざるを得ない。

■参考サイト
JR北海道-北海道新幹線特設サイト http://hokkaido-shinkansen.com/
JR北海道-青函トンネル http://www.jrhokkaido.co.jp/seikan/

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 新線試乗記-東北新幹線、新青森延伸+レールバス見学
 新線試乗記-北陸新幹線、金沢延伸 I
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 北海道の新線
 新線試乗記-札幌市電ループ化

 コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群
  1日1往復になった札沼線新十津川駅のレポートを含む

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