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2016年6月25日 (土)

新線試乗記-札幌市電ループ化

札幌市電のミッシングリンクが埋められる日が、ついにやって来た。2015年12月20日、駅前通に敷設された真新しい線路に、営業運転の電車が走り始めたのだ。路面軌道の新設は、駅前延伸のケースを別にすると、2009年の富山市内環状線以来(下注1)とあって、これに乗らないわけにはいかない。コンターサークルS(下注2)の席でそのことを話したら、堀淳一さんが「札幌に住んでいても乗る機会がないから、一緒に行きましょう」と、案内してくださることになった。以下は、今年(2016年)5月に堀さんと敢行した試乗の記録だ。

*注1 富山市内の環状線については「新線試乗記-富山地方鉄道環状線」参照。
*注2 コンターサークルSについては「コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡」参照。

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西4丁目電停から駅前通に出てきた電車

札幌市電は1960年代が最盛期で、総延長が25kmあった。しかし1972年の冬季オリンピック開催に向けて地下鉄の整備が始まると、それと引換えに次々と廃止されていき、1974年には現在の8.5kmまで縮小してしまった。最後に残された路線(成り立ちから言うと3路線の部分接合)は、上辺が右に突き出た縦長の矩形をしているのだが、地下鉄南北線と並行するために廃止となった西4丁目~すすきの間だけが途切れている。そのわずか400mの失われた環が今回接続されて、めでたく環状線として再生されたのだ。

■参考サイト
西4丁目電停付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/43.058900/141.352100

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路線図。右上の西4丁目~すすきの間が新設区間
札幌市交通局リーフレット「路面電車のループ化で変わること」より

三越前でタクシーを降りて、さっそく西4丁目の電停(正式には停留場)へ向かった。以前、この電停は1本の線路を2本のホームがはさみ、電車は折返し運転されていたと思うが、今は外回り(下注)専用だ。ホームが拡幅され、白塗りのしっかりした屋根と横壁も設置されている。

*注 路面電車はクルマと同じく左側通行なので、駅前通を南下するほうが外回り。

一方、内回り線の乗場はこの南1条通ではなく、直交する駅前通の4プラ(4丁目プラザ)前に移された。駅前通では、軌道が道路の中央でなく、サイドリザベーションと言って両側の歩道に寄せて敷かれている。それで、電停も歩道に直結だ。乗降に際して信号待ちや車道の横断が不要になり、便利で安全性も高まった。道路脇だと冬は雪がたまるので、軌道上や路肩にはロードヒーティングも入っているらしい。

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西4丁目電停
(左)外回りホームは元の位置で全面改修 (右)内回りホームは駅前通の4プラ前に移設

電停にやってきたのは、広告を巻いた旧型電車だった。札幌にもポラリスと名付けた新しい低床連接車(A1200形)が導入されているが、まだ3編成で断然少数派だ。「低床車が入るといっても、1年に1編成ですから」と堀さん。時刻表によると、1時間に片道1本程度しか走っておらず、平日日中に巡りあえる確率は1/7に過ぎない。旧型車は乗降ステップの段差が大きく、踏面も狭いので、お年寄りには大変だ。手間取るばかりか、降り口では転倒の危険もぬぐえない。新型車は最終的に11編成まで増備されるそうだが、行政が事業の採算性を気にかけるあまり、不便の解消がなかなか進まないのは問題だ。

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低床連接車ポラリス

扉が閉まり、出発の準備が整った。しかし、路面電車用の黄色の右折信号が表示されず、交差点に出るのにだいぶ待たされた。ぐいっと大回りして、南行車線の最も左側につける。新設区間では、片側3車線のうち左端の1車線が軌道敷に転用され、クルマは通行禁止の措置が取られた。荷捌き停車やタクシーの客扱いもできなくなり、その機能は東西の通りに移されている。

それで電車の進路に支障物は見当らない。大きく成長した街路樹の葉陰を滑らかに走り始めたが、すぐに狸小路(たぬきこうじ)の停留場が見えてくる。札幌を代表するアーケード街の前なので、乗降が少なからずあった。ここでも信号に引っかかる。「信号が多いですね」と言うと堀さんが、「一つ一つの通りが広いので、そのたびに信号で停められるんです」。それに歩車分離式のため、信号1個の待ち時間自体も長いのだ。

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駅前通を北上する内回りの車内から

外回りは駅前通の出入りが右折になるので、とりわけこの区間の通過に時間がかかる。後日、西4丁目電停のそばで、信号の切替えパターンを観察してみた。外回りの乗降が完了した段階で、南1条通(電車が待機している東西の通り)の信号が青だったとする。進む順番として次は電車だと思いたいが、残念ながら、先に駅前通(南北の通り)が青になる。それから車道が全赤に変わるとともに、歩行者信号が全青(スクランブル)になる。

もうこれで発車するだろう、と誰しも思うが、そうではないのだ。また南1条通の青、駅前通の青、歩行者の青と、ひととおり繰り返され、その後ついに電車の黄色矢印が出る。結局この車両は、交差点前にスタンバイしてから、優に6分は待たされていた。これは極端な例かもしれないが、少なくとも狸小路が目的地の人は、西4で降りて歩いたほうが早く着くに違いない。優先信号を再考できないものかと思ったことだ。

南東角に立つニッカウヰスキーのローリー卿に見守られながら、電車はすすきの交差点で右折して、月寒通へと進む。すすきの電停は、従来どおり道路の中央に両方向のホームがあるが、環状化に伴い2線に拡張された(下注)。また、西側の折返し用中線にも別の乗場が設けてあり、後日見たら、貸切電車専用停留場の札が掛けてあった。ポラリスの貸切もできるらしい。

*注 従来は、西4丁目と同じ折返し2面1線の構造だった。

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(左)すすきの交差点を曲がる (右)すすきの電停はもとの位置で2面2線に改修

新設区間はここまでだ。「降りて写真を撮りますか」と聞かれたので、「せっかくですからまず全線に乗りましょう」と、既設区間に踏み込んだ。広い月寒通はすぐに左折して、西7丁目通を南下する。「この辺に住んでいた頃は、これに乗って大学へ通ってました」と堀さんは目を細める。市電沿線には母校もあって、若い頃の思い出がたくさん詰まっているのだろう(下注)。車窓からはほとんど見えないが、中島公園や創生川もすぐ近所だ。

*注 「地図の中の札幌-街の歴史を読み解く」(亜璃西社、2012)の224ページ以下に、堀さんの札幌市電の思い出が綴られている。

幌南小学校前電停を過ぎると、軌道は右へ曲がる。そして藻岩山を左前方に眺めながらしばらく進み、また右折すると電車事業所前電停だ。「ここから車庫にいる電車が見えますよ」と教えていただいた。この後は、福住桑園通を北上する。「西側は住宅街ですから、単調な駅名が多いんです」。学校名や直交する通り名が付された東側に比べて、西側は、西線何条というナンバー電停が続く。かつてこちらは別の系統で、お古の電車が回されていたそうだ。

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(左)既存区間の南西端、電車事業所前電停 (右)車庫に集う車両群

師範学校付属小の跡地を突っ切る西15丁目の斜めの道を経て、南1条通に帰ってきた。商業施設が増えてきたように思ったら、もう振出しの西4丁目電停に着くところだった。ループツアーを無事終えて、再び駅前通を南へ去っていく電車を見送った。堀さんが「新しいルートはどうでしたか」と尋ねる。「全然違和感がなくて、昔からあったように見えます」と答えると、堀さんは笑いながらも、「ここまで来るのが大変だったんですよ」としみじみと言った。

札幌市の資料によると、今回のループ化は、中心市街地の活性化に寄与する公共交通政策の一つのステップで、今後も札幌駅方面や創生川以東、桑園地域などへ軌道の延伸を検討していくのだそうだ。欧米の都市では一般的な施策だが、日本ではクルマ中心の固定観念や財源捻出のハードルが高くて、なかなか実現しない。札幌のメインストリートに進出した路面電車がショーウィンドーの役割を果たし、人々の気づきを喚起してくれるといいのだが。

■参考サイト
札幌市交通局 https://www.city.sapporo.jp/st/

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2016年6月19日 (日)

新線試乗記-仙台地下鉄東西線

緑に囲まれた国際センター駅の建物は、ガラス張りのフリースペースが広く取られ、開放感にあふれている。2階東側のテラスに出ると、ご丁寧にもお立ち台まで用意してあった。聞いていたとおり、ここからは広瀬川をまたぐ東西線が遮るものなく俯瞰できる。しばらくすると、対岸の木立の陰から側面にライトブルーの帯を通した2000系電車が現れた。真新しい橋梁の上をほとんど音もなく近づいてくる。そして前面を飾る三日月のラインを一瞬光らせた後、滑るように足もとの駅構内へ消えていった。

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広瀬川橋梁を渡ってくる2000系電車(国際センター駅2階テラスから)

仙台市営地下鉄東西線は、八木山動物公園~荒井間の13.9kmで、2015年12月6日に開業した。名前が示すように、仙台市内を東西に貫く路線だ。訪れたのは今年(2016年)6月、開業時のフィーバーはとうに治まって、ふだんどおりの日曜の午後だった。券売機で地下鉄の一日乗車券を買ったら、土・日・祝日は620円の特別価格になっている。これだけで何度も乗り降りするのはなんだか恐縮だ。起点は西側の八木山動物公園駅だが、今回は東側の荒井駅から、途中下車もしながら、八木山動物公園のほうへ向かうことにしよう。

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(左)開業を知らせるパンフレット (右)路線図、ライトブルーが東西線

荒井駅の周りはまだ開発中だ。駅正面(南側)にはバスターミナルがあり、住宅やマンションも建つが、北側には農地が広がっている。地図で見ると仙台東部道路がすぐ東を走っていて、市街地の東端にいることがわかる。ホームは地下にあり、線路はその後地上に出て、車両基地に続いている。駅舎は新幹線の駅さえ思わせる立派な2階建てだ。大震災とその復興の記録を展示した3.11メモリアル交流館が開いていたので、しばらく見学させてもらった。

スタジオ風のしゃれた天井のコンコースを降りて、上り電車に乗る。土休日の日中も南北線と同じ7分30秒間隔の設定で、15分もあれば中心部に着けるのだから便利だ。しかし4両編成の電車に、客は数えるほどしか乗っていない。

■参考サイト
荒井駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/38.244900/140.948400

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荒井駅 (左)駅舎 (右)1階コンコース
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荒井駅 (左)駅の周りは開発途中。左奥に車両基地がある
(右)せんだい3.11メモリアル交流館の展示室

2000系車両は全長16.5m(中間車)、全幅2.5m、都営大江戸線などとほぼ同じ小断面、リニアモーター方式の車両だ。南北線を走る1000系は全長20m(同)、全幅2.9mあり、そちらから乗換えると確かに狭く感じる。ところが、おもしろいことに床下の線路幅は東西線の方が広い。南北線の軌間がJRと同じ1067mmであるのに対して、東西線は標準軌の1435mmを使っている。

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2000系電車
(左)側面はホームドアに隠れない位置にアクセントを施す (右)車内はやや狭い

3つ目の薬師堂駅で降りてみた。駅名に合せたのか、地上出入口が和風のデザインだ。ここも屋根付きのバス乗り場が接していて、公共交通の接続改善が図られている。東北貨物線をくぐったところにある陸奥国分寺跡の薬師堂を見ようと思ったのだが、広い境内にひと気はなく、物寂しい雰囲気だった。

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薬師堂駅の和風出入り口とバス乗り場
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(左)薬師堂仁王門 (右)ひと気のない薬師堂境内

次の連坊(れんぼう)駅は寺町らしい地名で、仙台一高前でもある。ライバル校の仙台二高は国際センター駅から歩いて数分だから、図らずも東西線で簡単に往来できるようになったわけだ。エスカレーターがやたらと長いのは、一部で民地の下を通ることもあって、線路の位置が深いのだろう。

ルート図を見ると、ここから青葉通一番町までは直角カーブを繰り返し、まるであみだ籤をたどるようだ。中に半径105mという最急曲線も何か所か含まれている。宮城野通りの下を貫くJR仙石線との競合を避けたのかもしれないが、せめて新寺通りを直進すれば、楽天スタジアムへの足にもなったのにと残念に思う市民もいることだろう。とはいえ、線形が悪い割には、乗り心地がいい。急カーブにありがちな車輪がレールと摺れる不快音がほとんど聞こえてこない(下注)。

*注 異音が少ないのは、急曲線対策として国内のリニア地下鉄初となるボギー角連動リンク式操舵台車を用いているからだという。(「仙台市営地下鉄東西線が開業」鉄道ジャーナル2016年4月号p.128)

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連坊駅 (左)一高前のエレベーター出入口 (右)駅名の由来を記す特設案内板

仙台駅で車内の客が一斉に入れ替わった。やはりJRと地下鉄とバスが集中する公共交通の一大結節点だ。静かな時が流れていたこれまでの駅構内とうってかわり、コンコースを歩く人の流れも速くて激しい。急に都会に放り出されたような気がして、ちょっと面食らう。

ここでは、地下化されたJR仙石線の下を地下鉄南北線がくぐり、その南北線の下を東西線が交差している。東西線の線路の深さは推して知るべしだ。JR仙台駅から来ると地下鉄の東改札を入ることになるが、手前に東西線のホームへ降りる長いエスカレーターがあった。南北線のエスカレーターはその奥になる。慣れれば何でもない話だが、南北線に乗ろうとしてうっかり東西線に行ってしまいそうだ。

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地下鉄仙台駅東改札
正面が東西線ホームへ降りるエスカレーター、南北線は奥へ進む

東西線が地上に顔を出す大町西公園~国際センター間は、駅を出て歩いてみた。桜の名所でもある西公園は、整備工事で閉鎖中だった。ならばと広瀬川を渡る大橋の上に立ち止まり、北側に見えるスマートな鉄道橋を渡ってくる2000系を待つ。運転間隔が短いから、チャンスはすぐにやってくる。

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地下鉄広瀬川橋梁を大橋から望む

大橋の西のたもとから国際センター駅へは、川沿いに桜の小径(こみち)という名の気持ちのいい散歩道が延びている。鉄道に乗りに来ていることをつい忘れてしまいそうだ。冒頭でこの駅の2階にあるお立ち台のことを書いたが、線路の直上にあるため、架線を支える太いビームがいささか目障りだった。視点は少し下がるものの、むしろこの小径からの方が車両をきれいに捉えることができる。

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国際センター駅 (左)ガラス張りの駅舎 (右)改札の中にも緑が見える
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桜の小径から見た広瀬川橋梁

次の川内(かわうち)と青葉山は、東北大学のために造ったような駅だ。これまで仙台駅からバスで優に20分はかかった山の上のキャンパスまで、電車は10分足らずで駆け上がってしまう。そのために、この間には57‰(水平距離1000mで57m上がる)という急勾配があるのだが、乗っていてもモーターの唸りが特別高まることもなく、坂の気配はほとんど感じなかった。

青葉山駅のホームもかなり深くて、キャンパスのど真ん中にある地上出入り口までエスカレーターを何度も乗り継がなければならない。昼夜を問わず学生の姿がある理系学部の敷地とはいえ、さすがに日曜日は閑散としている。ホームまで降りるのに階段の段数を数えたら、205段あった。親切にも途中に休憩用のベンチが用意されている。

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青葉山駅 (左)土壁を模した階段の壁面 (右)地上出入り口はキャンパスの中に

上り電車は終点に着く直前に、竜の口渓谷をまたぐ。青葉山と八木山を分けている深い谷だ。本来ならここに架かる竜の口橋梁は沿線随一の眺めになるはずだが、残念ながら期待に応えてはくれない。その理由は、橋がダブルデッキトラスと言って、線路の上に道路が被さる二重構造のトラス橋だからだ。さらに、現場は森に阻まれて外からの眺望が利かず、接続道路も開通の見通しが立っていない。車窓からは谷の斜面のうっそうとした森が垣間見えるが、それだけだ。トラスが視界をよぎり、あっという間にまた闇に閉ざされる。

到着した八木山動物公園駅では、ホームのエレベーター乗場に、さっそくお目当ての表示を見つけた。「136.4m(軌条面)、日本一標高の高い地下鉄駅」と、動物公園の最寄駅らしくキリンやライオンやペンギンたちのイラストとともに記されている。改札階の床にも動物の足跡が描かれ、雰囲気を盛り上げる。

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八木山動物公園駅 (左)ホームにある「標高日本一」のイラスト (右)コンコース

地上1階はバスターミナルだが、特にバスに用事のない人は、エレベーターで一気に5階まで上がることをお奨めしたい。そこは大規模な駐車場の屋上で、動物公園の西口に平面で接続している。反対側は展望テラスになっていて、八木山の斜面全体に広がる住宅街とかなたの仙台平野が一望になる。透明フェンスにホームと同じイラストがあった。ホームで見たときはまるで実感が伴わなかったが、ここに立って初めて「日本一」の意味するところが腑に落ちた。

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屋上テラスは仙台平野を見晴らす展望台

■参考サイト
仙台市交通局-地下鉄 http://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/
八木山動物公園駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/38.243000/140.843400

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2016年6月13日 (月)

コンターサークル地図の旅-晩生内の三日月湖群

5月22日朝、札幌駅8時ちょうど発の特急「スーパーカムイ3号」に乗り込んだ。江別を過ぎ、夕張川の鉄橋を渡れば、車窓はすっかり田園地帯だ。遠くに浮かぶ雪の山並みを背景に、田植えの時期を迎えた石狩平野を列車は北へ向かってひた走る。

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(左)特急「スーパーカムイ」の車窓から見る田園地帯 (右)滝川駅に到着

コンターサークルSは札幌がホームグラウンドで、この時期は隔週で北海道各地の「地図の旅」を実践している。本日は、石狩川右岸(西岸)に残る三日月湖(下注)を巡ることになっていて、私も初めて参加した。集合場所は、札沼(さっしょう)線の晩生内(おそきない)駅だ。この路線は札幌駅が起点だが、なかなか乗る機会がない。せっかく行くなら全線を乗り通してみようと、函館線で滝川(たきかわ)まで行き、そこから札沼線の終点新十津川(しんとつかわ)へ回ることにした。本題に入る前に、このささやかな終点駅の話題を差し挿ませていただこう。

*注 河跡湖(かせきこ)とも呼ばれ、蛇行する川が氾濫や侵食作用などで流路を変えた後、旧河道に取り残された湖や池を指す。日本語では月に例えるが、英語ではオクスボウレイク oxbow lake(オクスボウは、牛を牛車につなぐU字形の軛(くびき))、フランス語ではブラモール bras-mort(死んだ腕=淀んだ支流)とさまざまだ。

滝川駅から新十津川駅へは、石狩川橋経由で4km強に過ぎない。徳富(とっぷ)川にかかる昔の鉄橋を見たかったので、手前の新十津川橋でタクシーを降りた。橋は、札沼線が新十津川からさらに北の石狩沼田まで走っていたときの遺構だ。今は水路管を渡しているが、南側のガーダー(橋桁)2連と橋脚に鉄道時代のものが残っている。若緑に囲まれた朱色の橋は、背景の青空と雪山に眩しく映えていた。

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水路橋に転用された旧札沼線の徳富川橋梁
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(左)南側のガーダー2連と橋脚は鉄道時代のもの (右)線路の代わりに水道管

しかし残っていたのは橋だけだ。南に続いているはずの築堤はおろか、用地自体が宅地に整えられ消失している。まだ新しい住宅地の中を、徒歩で新十津川駅へ向かった。

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新十津川橋の左に旧線跡の水路橋がある(1:25,000「地理院地図」に加筆)

鉄道ファンには周知の話題だが、札沼線の末端、浦臼(うらうす)~新十津川間は、今年(2016年)3月のダイヤ改正で、列車が1往復まで極少化されてしまった。従来朝、昼、夕と3本設定されていたのが、朝の1本だけになったのだ。新十津川駅では、気動車キハ40が1両きりで9時28分に到着し、9時40分に折返していく。それがその日の最終列車になる。

当然、駅は寂れて人影もないように想像してしまいがちだ。ところが、かえって希少性が増したのか、記念乗車がブームになっている。列車がホームに入ると、小さな駅は降りた客で時ならぬ賑わいを見せた。駅舎はもちろん無人だが、きれいな記念スタンプが置いてあるし、役場まで行けば到達証明書ももらえるらしい。多くの人は折返し乗車のようで、上り列車にも15~6人が乗車していた。普段からこの乗車率なら、列車を削減されずに済むのだろうに。

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(左)新十津川駅は時ならぬ賑わい (右)駅構内を南望
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1日1本の列車を満開のチューリップが迎える
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(左)待合室に掲げられた究極の時刻表 (右)駅の記念スタンプ

のどかそのものの田園風景の中を、気動車はトコトコ走る。1時間半かけて列車の終点、石狩当別まで乗って、そこで北上してきた堀さんたちと合流した。

晩生内駅も、簡易な造りということでは新十津川と変わらない。砂利引きの狭いホームに降り立ったのは、もちろんサークルのメンバーだけだ。参加者は堀さん、真尾さん、Oさん、車でやってきたミドリさんほか全部で9名。ここ数日、北海道は高温注意報が出されるくらいの暑さで、今日も札幌の最高気温は28度。雲一つない快晴はありがたいが、朝晩まだ肌寒いだろうと用意してきた上着は、一度も出番がなかった。

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(左)晩生内駅に到着 (右)北へ去る気動車を見送る

駅の小さな待合室で地形図を広げ、これからの道順を確認する。駅の南にある西沼、東沼を経て北上し、後は行けるところまで行こうということになった。地図の上では大小の差はあれ皆同じような三日月形をしているが、それぞれどんな表情を持っているのだろうか。ミドリさんの車で先行する堀さんを見送って、私たちは歩き出した。

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晩生内周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

踏切を越え、線路と並行する国道275号線の歩道を南へ約600m、左折すると広めの農道(三軒屋農道)が石狩川のほうへ延びている。道がカーブすると同時に、右手に弓なりに横たわる池が見えた。吹き越す強い風が水面を細かく波立たせ、沼を縁取る疎林の枝葉を揺らしている。地形図によれば西沼だが、道の脇の案内板には「三軒屋沼」と書かれている。三軒屋というのは、沼のある旧河道に囲まれた袋状の土地で、確かにそこには今も3軒の農家がある。

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(左)「松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む」の案内板
(右)農道の旧河道横断地点。右(画面外)に西沼がある。遠方のアーチは美浦大橋

案内板によれば、「三軒屋沼は、石狩川の屈曲した河道が氾濫時に取り残されて出来た三日月形の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る、自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では昭和7年から15年までで17回を記録し、その都度農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。(中略)人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は、自然形成的な三日月湖が多くあります。」

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農道から西沼を見る

石狩川の三日月湖は、河道の直線化工事に伴ってできたとばかり思い込んでいたが、水流の作用によるもののほうが多いのだ。付近の旧版1:50,000地形図を見比べてみよう。西沼・東沼の場合、明治末期の図【図1】ではまだ石狩川の蛇行する分流として描かれる(下注)が、大正期【図2】になると明確に川と切り離されている。しかし、沼はほぼつながって、旧河道そのものだ。三軒屋沼と一括りにされていたとしても不思議ではない。2つの沼に分かれたのは水位が低下したからで、現在の水面は目測する限り、周囲の田んぼの面より10m近く低くなっている。

*注 図1は明治28年式図式と明治42年式図式が混在する仮製図のため、石狩川と三日月湖の位置や面積は、大正期の正式図(基本図)に比べて、必ずしも正確とはいえない。

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【図1】 明治末期
1:50,000地形図「奈井江」 1909(明治42)年部分修正測量、1911(明治44)年改版
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【図2】 大正期
1:50,000地形図「砂川」 1916(大正5)年測図
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【図3】 昭和30年代
1:50,000地形図「砂川」 1959(昭和34)年修正測量

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ビニールハウスに出入りする線路(?)

農家の前を通ったら、ビニールハウスに線路のようなものが出入りしているのを見つけた。ハウスで育てたイネの苗床を運び出すための装置らしい。パイプを組み合わせた簡易な軌道のパーツが傍らに積んである。これをつないでハウスの中まで延ばしていくようだ。「鉄道模型と同じですね」と、鉄道ファンでもある真尾さんと私は嬉々としてカメラを向けた。

農道は馬蹄形の旧河道を、東沼の上でもう一度横断する。西沼では築堤だったが、東沼には三軒屋橋が架かっている。西沼と同じ出自ながら、東沼は林に囲まれていないからか、のっぺりとして風情に欠けるのが難だ。休憩場所としてはいま一つだが、時刻はとうに正午を回っている。ベンチ代わりの橋の欄干にもたれて、持参の弁当を広げた。通るのは農作業車ぐらいなので、何ら気にすることはない。

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(左)のっぺりとした東沼 (右)東沼に架かる橋(三軒屋橋)の上で昼食

橋を渡りきったところで、農道は二手に分かれる。私たちは北へ向かった。地方道との交差点にさしかかると、道路標識に「美浦渡船(みうらとせん)右へ1.7km」と記されている。聞けば、石狩川に唯一残っていた伝統の渡船で、道内でも最後だったそうだ。黄色の大アーチが遠くからも望める美浦大橋の開通によって、2011年限りで廃止となった。

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美浦渡船を指し示す道路標識

前を歩いていたOさんが振り向いて、「ではここで失礼します」と言う。コンターサークルの旅は途中参加も離脱も自由だとは知っているが、ここは平野のど真ん中だ。「どこへ行くんですか」と聞くと、「橋を渡って茶志内駅まで歩きます。なに、8kmぐらいですから」とのこと。

東へ進むOさんの後ろ姿を見送って、残りの面々は北上し続けた。途中で草の小道にそれて、月沼のほうへ降りていく。堀さんとミドリさんも合流した。月沼は、三軒屋で見てきた沼に比べればかなり可愛らしい。「でも小さいから、月の形がよくわかります」とミドリさん。

明治期の図でも本流から離れた場所にぽつんと描かれているから、かなり古い時代の忘れものだろう。逆に言えば、沼としては大先輩ということだ。西端は長年の泥が堆積して湿地のようになり、それを通してみる対岸の飄々とした木立が一幅の絵になっている。おじいさん沼の全体像を確かめたくて、沼際のあぜ道に上ってみたが、かえって眺めは平凡だった。

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月沼の眺め (左)岸のカラシナが彩りを添える (右)一部は湿地状に

さらに北へ800mほど進めば、ウツギ沼が右側にある。農道からはよく見えないので、小川に沿う小道を下っていく。これはまさに沼らしい沼だった。明治期には月沼よりよほど堂々と描かれているのに、今はやせ細って見る影もない。ヨシやヤナギが藪状にひしめき合い絡み合って、水辺に張り出している。おまけに小さな虫が多数飛び回って、私たちを悩ませた。

写真を撮ろうとするが、見通しが今一つだ。「逆光だし、反対側から見たほうがよかったんじゃないかな」と真尾さん。下の写真は、藪の切れ目で身を乗り出して、かろうじて撮ったものだ。他の人たちは諦めて先へ行ってしまったが、ここまで来たのだから隣の新沼も見てみようと、有志でそちらに足を向けた。

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半分藪化したウツギ沼

新沼は、周辺で一番大きな沼で、名前が示すように誕生も比較的新しい。大正期でさえまだ大きくうねった川の一部で、昭和34年図【図3】でようやく、川の短絡によって取り残された状況が描かれる(下注)。広い空の下、なみなみと水を湛えた若い沼の水面を見つめていると、平野を悠然と曲流していた頃の石狩川の光景が目に浮かぶようだ。できるものなら上空を舞いながら、心ゆくまで眺めていたいと思う。

*注 1:50,000「砂川」図幅は、大正7年図から昭和34年図までの間に、鉄道補入や資料修正版が数回刊行されたが、地形は修正されなかったため、地形図を追うだけでは新沼誕生の時期を絞り込めない。

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石狩川の曲流の記憶をとどめる新沼
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新沼中央部のパノラマ

とはいえ、そろそろいい時間になってきた。幹事役の真尾さんが地形図で帰りのルートを確かめる。「ここからだと晩生内に戻るより、一つ先の札的(さってき)のほうが近そうです」。札沼線札的駅に着くころには、陽もいくぶん傾いて、真昼の暑さは消え去っていた。無人のホームに立ち、北から降りて来る列車をしばらく待つ。鉄道防風林の隙間を縫って吹く風はことのほか涼しく、紫外線に晒されてほてった肌を優しく冷ましてくれた。

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(左)帰り道にカラシナの群落 (右)駅へ向けて歩く
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(左)札的駅ホーム (右)歩き旅お疲れ様でした

地図を携えて北海道の大地を歩くのは、堀さんの著書で繰り返し読んできた旅行記そのものだ(下注)。私にはまるで、その中の登場人物になったような一日だった。札幌に戻ってからの打ち上げの席で、道内の旅に参加した感想を聞かれた。実感をこめて、「北海道に移住しようかなと思いました」と話すと、「歓迎しますよ」と皆に真顔で言われた。

*注 堀さんの晩生内周辺の訪問記は、「地図の風景 北海道編 I」そしえて, 1979, pp.105-110、および「北海道 地図を紀行する 道南道央編」北海道新聞社, 1988, p.159以下にある。

掲載の地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図奈井江(明治44年改版)、砂川(大正5年測図、昭和34年修正測量)、2万5千分の1地形図晩生内(平成26年4月調製)を使用したものである。

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2016年6月 5日 (日)

コンターサークル地図の旅-枕瀬橋と天竜の交通土木遺産

5月5日は舞台を静岡県西部に移し、今は浜松市に含まれる天竜の交通土木遺産を訪ねる。風は終日強かったが、今日も好天に恵まれた。集合場所が西鹿島(にしかじま)駅だったので、私は東海道線の新所原(しんじょはら)駅から、天竜浜名湖鉄道(以下、天浜(てんはま)線)の単行気動車に乗って出かけた。この路線は、浜名湖の北側を回っていく。朝の光をきらきら撥ね返す湖面といい、線路際の木々がつくる濃緑のトンネルといい、車窓に展開する瑞々しい光景に心が洗われる。

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天浜線の気動車、二俣本町にて
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天浜線の車窓 (左)三ヶ日駅付近の湖面(猪鼻湖) (右)都築駅に停車

西鹿島は、この天浜線と、新浜松から来る遠州鉄道(遠鉄)の連絡駅だ。堀さん、今尾さん、石井さん、相澤さん、外山さんがすでに到着して、道順を打合せている最中だった。後で木下さん親子も合流したので、私を含めて総勢8名。本日も堀さんの私的小旅行の位置づけなのだが、コンターサークルSの公式行事となんら変わらない賑やかな旅になった。

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本日の集合場所、西鹿島駅

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1:200,000地勢図浜松(1981(昭和56)年編集)の一部に加筆
市町村名等は現在とは異なる

もともと堀さんが行くおつもりだったのは、都田川を渡る枕瀬橋(まくらせばし)だ。渓谷の中に素朴な木組みの橋が架かっているという。3台のクルマに分乗して、まずはそちらに向かった。

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枕瀬橋周辺の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

西鹿島駅からは西へ10kmもない。車内で世間話をしているうちに、早や橋の入口、大平(おいだいら)地区まで来てしまった。この辺は河岸段丘上に人家と耕地が点在し、川は比高約30mの谷底を流れている。柿畑の脇に車を停めさせてもらい、クルマ1台がやっと通れる細い道を川の方へ降りていった。まもなく雑木が頭上にかぶさってきて、道はヘアピンカーブで向きを北に変える。段丘崖を刻んだ急な下り坂だ。木漏れ日が路面でちらちらと踊り、すでに水音が木立を通して耳に届いている。100mほど進んだところにその橋があった。

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枕瀬橋、西側から撮影

長さは40mほどだろうか。川面からコンクリートの橋脚がすっくと立ち、そのうえに木組みの桁が架かっている。見るからに安定感があるのは、おそらく各橋脚から斜めに延びて、桁をしっかり支えている頬杖(ほおづえ)材のせいだ。それが3つ並んで、緑の谷間に心地よいリズムを刻んでいる。

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(左)枕瀬橋側面 (右)橋桁を支える頬杖材

「床板に比べて欄干がやけに新しいですね」と私が言うと、堀さんも「写真ではこんな欄干はなかったと思いますが」。どうやらこれは最近の改修らしい。以前は流れ橋のように、足を踏み外さない程度のごく低い欄干だけだった。「ここは小学生のマラソンコースになっているらしいです」と石井さん。危険防止の目的としても、橋が醸し出していたはずの風情は半ば損なわれてしまった気がする。

吹き越す強風に帽子を飛ばされそうになりながら向こう岸に渡ると、橋のたもとに銘板が取付けてあった。意外にも建造は1986(昭和61)年3月と新しい。古い地形図にも描かれているから、もちろん架け直されたのだろう。「昔からあったとすると、こういう木組みの技術者はどこから来たんでしょうか」。今尾さんが答える。「森林鉄道の橋梁にもこういう構造があります。ここから木曽にかけては林鉄の宝庫ですからね」。

谷間から段丘上の人家は全く見えない。都田川の豊かな流れとうっそうと茂る斜面林に囲まれて、深山の気配さえ漂う不思議な場所だった。

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(左)橋上から北望、うっそうと茂る斜面林 (右)同 南望
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橋のたもとで記念写真(左写真は外山さん撮影)

昼食を新東名の浜松SAでとり、午後は天竜区(旧 天竜市)へ移動して、付近の交通土木遺産をいくつか巡ることにした。

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二俣周辺の1:25,000地形図(2015(平成27)年3月調製)に、訪れた地点を加筆
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上記地形図を2倍拡大
左円内:鳥羽山を穿った4本のトンネル(左から国道、歩道、鉄道、旧道=鳥羽山洞門)
右円内:周囲と異なる光明電気鉄道跡の斜め地割(道路と宅地の列)

一つ目は、国道152号線の鹿島橋(かじまばし)だ。浜松市のサイト「浜松情報Book」にはこう紹介されている。「1937(昭和12)年に完成した全長216.6m、幅員6mの当時としてはモダンなトラス橋。現存する戦前最大スパン(102m)の上曲弦カンチレバートラス橋であり、全国的にも貴重な例」。カンチレバートラスというのは、橋脚から両側にトラスを延ばし(=カンチレバー、片持ち梁)、それで中央部の桁を吊る構造だ。これによって、スパンを長く取ることが可能になる。

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優美な姿が印象的な鹿島橋

場所は西鹿島駅のすぐ北で、山中を流れてきた天竜川が浜松平野にまさに飛び出そうとする位置に架かっている。「下流側には歩道橋があるので、本来の姿が見えにくくなっています」という外山さんのアドバイスで、私たちは上流側左岸に移動した。午後はこちらが順光になる。橋を渡っているときは気がつかなかったが、トラス橋なのに吊橋のような、クラシックで優美な姿に目を奪われる。堤防の上から全貌を、川べりから仰角で、とみな思い思いにカメラを向けた。

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直線の中に混じる曲線が建築美のポイント

東隣には、天浜線の鉄橋(天竜川橋梁、長さ403m)が並行している。こちらはよくある下路ワーレントラスなので、被写体としては平凡だ。「列車があれば絵になるんだがなあ」と念じたら、本当に列車が渡ってきた。

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天浜線の天竜川橋梁を列車が渡る

国道は鹿島橋を渡った後、直線で鳥羽山隧道に突っ込んでいく。しかしこれは1942(昭和17)年に開通したルートで、それまで街道は右にそれて、旧トンネルを通っていた。鳥羽山洞門という古めかしい名がついている。実は私は今朝、天浜線を二俣本町まで乗り越し、徒歩でこのトンネルを経由して西鹿島へ戻っていた。「クルマでも抜けられますよ」と伝えたものの、念には念を入れて、一番車幅の広い相澤号が先頭に立つ。内部は狭い歩道が切ってあるが、まったく問題なく通過できた。

反対側に出た後、クルマから降りて改めて観察する。トンネルは、1899(明治32)年の開通から120年近い歳月を耐えてきた。煉瓦造のポータルは表面が黒ずみ、一部は草生していて、扁額の文字ももはや読み取りがたい。内部もアーチの補強材が当てられて痛々しいが、中央部だけはオリジナルの煉瓦積みが露出していた。「雰囲気ありますね」「この煉瓦、今にも落ちてきそう」と、はしゃぐ声が洞内にこだまする。

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鳥羽山洞門
(左)北口ポータル、入口付近は補強材が入る (右)中央部は煉瓦積みが露出

続いて、今尾さんの案内で天浜線天竜二俣駅へ向かった。駅の近くに、光明(こうみょう)電気鉄道の痕跡があるというのだ。天浜線(旧 国鉄二俣線)ができるより前に存在した私鉄で、東海道線の中泉(現 磐田)駅から天竜川左岸を北上し、光明村船明(ふなぎら)を当面の終点に見据えていた。1928(昭和3)年に田川、2年後に二俣町まで開通し、そのとき手前のこの位置に、阿蔵(あくら)駅を設けた(後、二俣口に改称)。しかし、投資に見合うだけの需要がなく、1935(昭和10)年にあっけなく廃止されてしまった。

下の地形図は、その光明電鉄の記載がある貴重な版だ。阿蔵駅以南では現在の天浜線と同じルートを通っているが、これは電鉄廃止後、2本のトンネルを含めて用地がそっくり転用されたからだ。ちなみに、鳥羽山をくぐるトンネルは鳥羽山洞門、その南の「天龍橋」は後に鹿島橋に代を譲ることになる1911(明治44)年開通の吊橋だ。また、遠鉄のかつての終点、遠州二俣駅は、現在の西鹿島駅より少し北に位置している。その東側は、分流していた天竜川の広い河原だったこともわかる。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1930(昭和5)年鉄道補入)

昼下がりの天竜二俣駅構内は、がらんとして人気がなかった。西端には、そこだけ斜めの地割があり、数軒の住宅が建っている。南側からは宅地の土留め程度にしか見えないが、北側に回ると階段が続いているではないか。明らかにプラットホームの跡だ。光明電鉄の名は皆さん初耳だったようで、今尾さんが概要を説明する。「なんとか開通したものの、電気代が払えなくて送電を停められてしまったんです」。「短命の鉄道だったんですね。でも後世まで、電気代滞納って言われるのはかわいそう」と石井さん。

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がらんとした天竜二俣駅構内、左のキハ20と後ろのナハネ20(寝台車)は保存車両
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光明電鉄阿蔵駅の遺構
(左)舗装道が線路跡。左は一見、宅地の土留めのようだが…
(右)反対側(北)から見ると階段が残り、ホーム跡とわかる

この先で山の端を抜けていた短い阿蔵トンネルは民有地内で、見ることが難しいというので、別の路線、佐久間(さくま)線の跡へ回ることにした。こちらは一度も列車が走らなかった、いわゆる未成線だ。国鉄二俣線遠江二俣(現 天浜線天竜二俣)から飯田線中部天竜に向けて計画された路線だが、1980(昭和55)年の国鉄再建法で工事が中止され、開通は夢物語になってしまった。下の地形図は、まだ佐久間線が工事中だったころの版だ。

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二俣周辺の旧版1:25,000地形図(1975(昭和50)年修正測量)

阿蔵川に沿って住宅街の道を遡ると、玖延寺の手前で、上空を佐久間線の立派な高架橋が横切っていた。光明電鉄に比べてこちらは比較的新しい遺跡だ。放置されて35年以上になるとはいえ、トンネルも築堤もしっかり残っている。草を踏み分けて南側の白山トンネルの入口まで行ってみると、フェンスで閉ざされているものの、微妙な空隙があった。廃トンネル探索の達人である石井さんと外山さんは、血が騒ぐらしい。「でも、きょうはコンターサークルなのでやめておきます」と二人で笑った。

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(左)佐久間線の築堤 (右)フェンスで閉鎖された白山トンネル北口

盛りだくさんの見学を終えて、朝出発した西鹿島駅に戻る。ここで解散。堀さんと私は遠鉄で新浜松へ、今尾さんは天浜線で掛川へ、あとの5人はそれぞれの車で帰宅の途に就いた。遠鉄の電車に乗るのは久しぶりだ。改札を入りながら、「遠鉄って名前は、遠いところへ行く感じがしますね」と私が言うと、「近鉄のほうが、よっぽど遠くへ行ってますよ」と、すかさず堀さんが混ぜ返した。

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図二俣(昭和5年鉄道補入、昭和50年修正測量、平成27年3月調製)、伊平(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
浜松情報Book(鹿島橋) http://www.hamamatsu-books.jp/
ふじのくに文化資源データベース(鳥羽山洞門)
http://www.fujinokunibunkashigen.net/

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