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2016年5月28日 (土)

コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水

数日前の天気予報では、確実に雨具が必要とされた今日5月4日。確かに昨夜はひどい嵐で、大粒の雨が宿の窓ガラスを激しく叩いていた。しかし目が覚めたら、窓の外はもう眩しい青空が広がっている。お天道様も私たちの旅を祝福してくれているようだ。

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巴川分水点

コンターサークルSの正式行事で、巴川(ともえがわ)の谷中分水を見に行く。場所は愛知県奥三河地方、今は新城(しんしろ)市に含まれるが、かつては南設楽郡作手(つくで)村だったところだ。標高が500m以上ある高原上の浅い盆地を、巴川が貫いている。面白いことにこの川は、1本の連続した水路にもかかわらず、平たい谷の真ん中で水流だけが二手に分かれているのだ。一方は北進して最後は矢作川(やはぎがわ)に注ぎ、もう一方は南進して豊川(とよがわ、下注)に合流する。その分水する現場をこの目で確かめようというのが、本日の歩き旅の目的だ。

*注 市名は「とよかわ」だが、川の名は「とよがわ」。

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作手盆地周辺の1:200,000地勢図に、矢作川・豊川の分水界等を加筆

豊橋からJR飯田線の特急「伊那路1号」にのんびり揺られ、10時33分に新城駅に着いた。駅の待合室に集まったのは、堀さんをはじめ、真尾さん、大出さん、相澤さん、石井さん、外山さん、私の7人。さっそく3台の車に分乗して、現地へ向かった。

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(左)特急「伊那路1号」で新城駅へ (右)駅の待合室で本日の行程を打合せ

新城の町がある豊川平野の北側には、本宮山を主峰に、山が屏風のように連なっている。それを攀じ登る国道301号線は、ヘアピンカーブが連続する手ごわい山道だ。見上げる高さにあった新東名の高架橋が、いつのまにか眼下に沈んでしまう。作手盆地は、この山並みの上に載るいわば天空の別天地だ。

籠瀬良明氏の解説(下注)によれば、この場所はもとは海面からそう高くない盆地で、水を湛えた沼が広がっていた。水の出口は二つあり、北と南へ流れ出ていた。その後、地面の隆起か、海面の下降によって、小盆地周辺は海面から500mの高さに変わっていった(=隆起準平原)。しかし、「造物主が水の入った大皿を一方へ傾けないようバランスを保ちながら、慎重に持ち上げた」ので、水が南北に流れる状態は保たれた。やがて沼は湿原になり、人の手が入って水田に整えられたが、この巴川だけは、もとのまま盆地の水を二方に流し続けているのだという。

*注 「地図の風景」中部編II 愛知・岐阜(そしえて、1981年) p.42~43

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作手盆地の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

峠の後もしばらく山道が続く。2つ目の峠を過ぎてようやく、のどかな農村風景が広がってきた。作手盆地に入ったのだ。連休中とあって、目星をつけていた道の駅は、クルマがひっきりなしに出入りしている。満杯の駐車場に、私たちもなんとか空きを見つけることができた。郷土の名産品を商う売店も大賑わいだ。

売店の裏手を、くだんの巴川が走っている。正確に言えば、豊川水系の巴川だ。雨後の濁り水を集めて、流れに勢いがある。真尾さんが言う。「この川に沿って行けば、1kmほどで分水点のはずです」。私たちは地形図を片手に、農道を北へ向かって歩き始めた。

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(左)道の駅を起点に豊川水系巴川を遡る (右)雨の後の濁り水を集めて

田んぼになみなみと水が張られ、初夏の強い日差しを撥ね返している。耕運機を操る人影が動き、エンジン音が山裾にこだまする。岸に植えられた名残りの八重桜を愛で、青草を食むヤギたちを眺めながら行くうちに、足もとの川幅はみるみる細くなっていった。

観察すると、その原因は左右から注ぎ込む用水路にあるようだ。つまり、本流よりも周囲の山から用水路を通じて流れてくる支流のほうが、集水域がはるかに広い。それによって巴川の水量が維持されているのだ。実際、地形図で「市場」の地名注記がある辺りまで来ると、本流も細い溝のようになってしまった。直線化され、水田より2m以上掘り下げてあるので、自然の川ではもちろんない。

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(左)岸を彩る名残りの八重桜 (右)やがて巴川は細い溝に

水路が北東から北へ向きを変える地点まで来ると、いよいよ水の量が減ってきた。石井さんの車で先回りしていた堀さんも合流して、じっと目を凝らす。白鳥神社から南東に延びる農道との交点に橋がかかっていて、その南側では、まだ南向きのわずかな水の動きを認めることができた。北側には、水路にコンクリートの枡が切ってある。東側から道の下をくぐって水がたっぷり流れ込んでいるのだが、その大部分はなんと北へ出ていくのだ。というのも南側の水路には砂が堆積していて、枡の水位がある程度高くならないと、そちらに水が流れていかないらしい。「分水点はここということですね」。一同顔を上げて、本日の調査の成果を確かめ合った。

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橋の下の枡が現在の分水点
大部分の水は北(手前)へ
残りは南へ

豊川・矢作川分水点と書かれた大きな看板が、100mほど先に立っている。ささやかな公園もこしらえてあった。説明板によると、ここは昔、大野原湿原といって作手村で最も広い湿原だった。泥炭の層が、深いところで4mも堆積している。水の流れが一定しなかったために、すぐそばの祠が祀ってある場所にあった橋は乱橋(みだればし)と呼ばれていたのだそうだ。

せっかくの「分水」公園だが、実際の分水点とは位置がずれてしまっている。しかし、それを言い咎めても意味がない。なぜなら、小さな水路として存在する巴川は、おそらく水田の造成過程で湿原から水を抜くために掘られたもので、分水点もそのとき人工的に生じたはずだからだ。人手が入る前は、湿原全体が境目のあいまいな分水「面」を構成していたと考えていいのではないだろうか。

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(左)分水点ではなくなった「分水」公園
(右)遠方の橋が現在の分水点。水は北(手前)へ流れている
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白鳥神社東方から北望。矢作川水系巴川が北(奥)へ流れ去る

とそこへ、農道をこちらに向かってきた軽自動車の窓から手を振る人がいる。木下さんと息子のキリ君だ。総勢9人となった一行は、近くの白鳥神社の境内を借りて、持参した昼食を広げた。堀さんは昔、当地を訪れていて、そのことは「誰でも行ける意外な水源・不思議な分水」(東京書籍、1996年、p.197~201)に記されている。久しぶりに再訪しようと思った理由は、「近所にもう1か所、行ったことのない谷中分水があるから」だというので、午後はそちらへ足を向けることになった。

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(左)白鳥神社正面 (右)境内で昼食休憩

白鳥神社の前の道をまっすぐ東へ進むと、作手鴨ヶ谷(つくでかもがや)という集落に入る。集落の位置する谷は巴川本谷から延びる支谷のように見えるのだが、実は反対側(東向き)に下っている。ということは、その間に矢作川・豊川を分けるもう一つの分水点があるはずだ。

行ってみたところ、道が南東へ曲がるあたりはまだ上り坂だった。ところが、地形図で538m標高点の打ってあるY字路まで行くと、左に分岐する道は明らかに下っている。田んぼの段差も同様だ。そればかりか、標高点のすぐ西で、宅地と林を載せた高まりが谷を横断していた。ちょうどそこは地形図でも、等高線が最もくびれている場所に当たる(下注)。鴨ヶ谷の谷中分水は、景観上も明瞭な分水「界」を成していたのだ。

*注 ちなみに、分水界周辺の535m補助曲線は、西側では閉じているのに、東側は開いたまま途切れている。明らかに描画ミスだ。

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(左)宅地の載る高みが鴨ヶ谷分水界 (右)道端に咲いていたシャガの花

林の裏(西側)の、道路から草の道を少し降りた先に、小さな湿原が残っていた。一面、背の高いヌマガヤで覆われ、ひょろりと立つハンノキの枝が吹き通る風に揺れている。「北海道みたいだなあ」と北海道に住む真尾さんが感心する。案内板によれば、この鴨ヶ谷湿原は、かつて大野原湿原の一部だったのだそうだ。すると、さっきの巴川分水点を含めて、作手盆地を埋め尽くしていた大湿原の貴重な生き残りということになる。

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(左)鴨ヶ谷湿原 (右)今も山からの水をたっぷり含む

案内板を見ていた誰かが「湿原植物のクサレダマってありますけど、可愛い花に似合わない名前ですね」とつぶやいた。堀さんが苦笑しながら「腐れ玉じゃないですよ。草レダマです」。なら、レダマって何だろうというので、さっそく木下さんが持参のポケット植物図鑑を広げた。漢字で書くと連玉なのだそうだ。「腐れどころか、優雅な名前じゃないですか」と頷き合う。

人とクルマで溢れかえる道の駅とは違って、ここには私たちのほか誰もいない。旅の最後に、思いがけなく本当の別天地を見つけたような気がした。

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湿原を吹き渡る風にハンノキの枝が揺れる

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図豊橋(昭和56年編集)、2万5千分の1地形図高里(平成19年更新)を使用したものである。

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2016年5月18日 (水)

コンターサークル地図の旅-寒川支線跡

2016年ゴールデンウィークの「地図の旅」は、いつもと違う形で始まった。本日5月3日は、コンターサークルSの行事ではなく、堀さんの私的小旅行という位置づけになっている。「興味と意志のおありの方はどうか御同道下さい」というのが、主宰を退いた堀さんの、メンバーに対する気遣いであることは百も承知しているが、ここではサークルの旅と同じ流儀で書くことをお許しいただきたい。

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寒川支線の線路が残る公園で

JR相模線寒川(さむかわ)駅11時42分集合、旧寒川支線(下注)の跡を歩く、というのが本日の行程だ。茅ヶ崎駅で東海道線から1番線の小ぢんまりしたホームに回ると、ブルー2色の帯を巻いた205系が停まっていた。

*注 正式には国鉄相模線(当時)の一部だが、「寒川支線」あるいは「西寒川支線」の通称で呼ばれていた。

相模線にはほとんど乗ったことがない。メモを繰ると1981年7月が最初で最後、もはや大昔の話だ。この路線の電化はかなり遅くて1991年だから、まだキハ35系あたりがガーッと轟音を振りまいて走っていた時代だ。茅ヶ崎までの間、何を思っていたかは覚えていないが、ユーミンの「天気雨」を口ずさみながら、ディーゼルカーに揺られてきた淡い記憶がある。

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(左)茅ヶ崎駅1番線で発車を待つ (右)寒川駅到着

今や往時をしのばせるものすらない電車の車内に、堀さんの姿を見つけた。「廃線跡の旅なので、来ないわけにはいきませんでした」と、まずご挨拶する。寒川まではほんの8分、車窓をゆっくり眺める間もなく到着だ。ここも立派な橋上駅に改築されている。改札を出たところで、石井さんが待っていてくれた。

コンコースの腰壁には、タイミングのいいことに、「茅ヶ崎-寒川間開通95周年の歴史」と題した写真パネルが展示されている。寒川の木造駅舎や懐かしいディーゼルカーの交換風景の傍らに、これから行く西寒川駅が現役だった頃の写真もあった。

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寒川支線の現役時代をしのばせる写真パネル

現在のJR相模線は、相模鉄道が1921(大正10)年に開業した茅ヶ崎~川寒川間6.4kmがルーツだ。翌1922年に、相模川から採取する砂利の運搬を目的に、寒川~四之宮間で1.9kmの支線が開業した。これがいわゆる寒川支線となる。本線の方は1926(大正15)年から順次延伸され、1931(昭和6)年に橋本まで全通している。

以来、支線では貨物だけを扱っていたが、沿線の軍需工場へ作業人員を輸送するために1940(昭和15)年から旅客営業を開始した。1944(昭和19)年には、四之宮駅の廃止統合に伴って、西寒川が終点になる。旅客輸送は戦後いったん中断したものの、1960(昭和35)年に再開され、国鉄末期の合理化策で1984(昭和59)年3月末限りで廃止されるまで、細々と続けられたのだ。

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寒川駅構内の支線跡 (左)西側は更地化 (右)東側は側線と車輪が残る

高架駅舎の窓から見下ろすと、相模線の線路の南側に、草生した細長い空き地が延びている。東半分は草に埋もれているが、使われていない側線も見え、これが寒川支線の痕跡なのは疑いない。地上へ降りてみると、一部アスファルトで固められたレールの上に、ぽつんと1対の車輪が置いてあった。片付けるのを忘れるはずはないから、何かの記念物だろうか。

一行3人で、西へ歩き出す。今日はやや強い風が吹いている。湿度も高めで、歩くと汗ばんでくるが、足を止めるとちょっと寒い。駅構内の終端は大山踏切で、ここでも線路の南側に空地が残っていることを確認した。せっかくなら線路跡を歩きたいが、鉄道用地だし、片方向20分間隔で電車が来るからそうもいかない。踏切の先でも、立ち並ぶ民家が線路の眺めを遮っていて、堀さんはもどかしそうだ。

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寒川~西寒川間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
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寒川支線現役時代の1:25,000地形図 1976(昭和51)年改測

産業道路(県道46号相模原茅ヶ崎線)と立体交差するところで、ようやく線路に出会えた。寒川支線はここで本線と分かれる。支線自体、左へカーブしているけれども、地図の上では、本線のほうが反向曲線で無理やり離れていくようだ。「寒川支線の方が本線に見えますね」と私が言うと、「もともと砂利を運ぶために造ったようなものですから」と堀さん。

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(左)支線が分かれる地点。本線は右へ、支線は左へ
(右)大門踏切を隔てて寒川神社の社森と鳥居が

大門踏切の向こうに寒川神社に続くこんもりとした社森と、それに半分隠れるようにして一の鳥居が見える。相模国の一之宮まではまだ1kmもあるのだが、早やここから参道が延びているとは知らなかった。残念ながら寒川支線はそれに背を向けるように、南西へ向かう。

大門踏切前交差点の南側は、どの地形図でも廃線跡が消失したように描かれている。しかし、現地には「ゲート広場」と記されたミニ公園があった。二方を道路に挟まれた三角形の小区画だ。ゲートというのは大門にあやかったか、あるいは緑道の門という意味なのだろうか。

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(左)緑道の手前にゲート広場 (右)一之宮緑道入口

というのも、ここから長さ900mにわたって、廃線跡を転用した一之宮緑道が始まるからだ。一之宮はこの付近の地名だ。廃線跡を自転車道にする例は多いが、ここは緑道と称するだけあって、カツラの並木とツツジの植栽が施されている。舗装もアスファルトではなく、インターロッキング仕様だ。歩いているのは私たちだけだが、自転車はよく通るし、子どもたちの遊び場にも使われていた。「こういう整備された廃線跡はお好きですか」と堀さんに聞くと、「好きというより、この線には乗ったことがあるので、来てみたかったんですよ」との答。

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堀さんは、昔から寒川支線に興味をひかれていたらしい。「地図から旅へ」(毎日新聞社、1975年)に収められた訪問記は、次の文章で始まる。「延長わずか1・5キロで、途中駅もないという超ミニサイズの上、終点の西寒川が一見、相模平野のまっただ中の、こんな短い線をわざわざ建設する必然性を疑わせるような、変哲のない場所であることが、そのゆえにいっそう私の好奇心をさそったのである」(同書p.168)

茅ヶ崎駅から乗った西寒川直通の列車で、車掌のアナウンスが行先をくどいほど繰り返すことに、堀さんは苦笑する。そればかりか寒川駅では車掌が車内に回ってきて、残っていた2人きりの乗客に「西寒川ですか」とわざわざ念を押したそうだ。終点に着くと、折返しまでの間、この親切な車掌と話が弾み、写真のポーズをとってもらうなど、心温まるひとときを過ごした。その記憶が、堀さんの心にひときわ深い印象を残しているに違いない(下注)。

*注 「地図の風景」関東編I 東京・神奈川(そしえて、1980年)にも寒川支線の記事がある(p.148「都市化のなかの超ミニ・過疎レール 西寒川」)。

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(左)クルマの来ない緑道は子どもたちの遊び場 (右)公園入口を限る車輪のオブジェ
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本日の記念撮影

緑道の中間部は一之宮公園という名で、住宅街の中の憩いのスペースになっている。入口に、レールの断片と一対の車輪がオブジェとして置いてあった。にぶく光る頑丈そうな車軸を「これ、本物かな?」と眺めていると、堀さんがやにわに腰を下ろした。顔を上げてにこりとしたところを、石井さんがすかさず写真に収める。

公園内には、緩くカーブした線路が200mほど残されている。レールの継ぎ目や朽ちかけた枕木からして、もとからあった線路のようだ。「枕木に埋め込んである輪っかは何のためですか」と石井さんが尋ねる。堀さんも私もさんざん線路を見てきたはずだが、妻面に見える鉄製の輪のことは知らなかった。後で石井さん自ら調べたところでは、割れ止めリングといって、枕木が乾燥して割れて、レールを固定した犬釘が浮いたりするのを防ぐためのものだそうだ。

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(左)案内板も駅名標風に (右)草取り作業お疲れ様です

その枕木を文字どおり枕にして、猫が一匹まどろんでいた。カメラを向けると、逃げ出すどころか、撮ってと言わんばかりに起き上がってポーズをとる。そろそろお昼どきだ。「ここらで休憩しましょう」とめいめい持参の昼食を広げた。すると、さっきの猫に続いて数匹の猫が興味深げにこちらへ近づいてくる。近所では見かけない顔ぶれだから、様子を窺いに来たのかもしれない。突然、上空で厚木基地のほうへ向かう軍用機が爆音を轟かせて、昼下がりの静寂を破った。

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朽ちかけた枕木を枕がわりに

緑道は、あと500mほど住宅街を走ったあと、小さな公園に突き当たって終わる。八角広場という名称は、中央にある噴水池にちなんだようだが、残念ながら噴水はもう出ておらず、浴場の廃墟のような不思議な雰囲気を醸し出している。ここが西寒川駅の跡だ。線路の断片が同じように残され、その延長線上に、「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の大きな碑があった。駅ができた訳を伝えているのだ。

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(左)緑道後半は住宅が両脇に迫る (右)終点手前の踏切跡
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(左)八角広場が緑道の終点 (右)西寒川駅跡を示す碑

「地図の風景」に、堀さんが撮影した当時の駅の写真が載っている。現実と見比べようとしてみるが、面影がどこにもなく、同定すらままならない。「ホームはレールの東側に一面あるだけで、西側はレールのすぐわきから雑草が伸び放題に伸び、あちこちに水たまりのある人かげのない空地が、それに続いていた。」(「地図から旅へ」p.172)。あれから40年が経ち、すっかり変貌してしまった西寒川駅跡は、堀さんにどんな思いを残しただろうか。

帰りは、八角公園前の停留所から、寒川駅南口行きのバスに乗った。通勤通学客のいない休日の午後とはいえ、乗客は私たちだけで、こちらもいささか心もとなかった。

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八角広場全景、右奥はバス停

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寒川~西寒川間の1:10,000地形図。緑色に塗られた区間が廃線跡の緑道

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図藤沢(平成18年更新、昭和51年第2回改測)、伊勢原(昭和48年修正測量)及び1万分の1地形図寒川(平成12年編集)を使用したものである。

■参考サイト
さむかわ さわやか ちょこっと ウォーキング http://samukawa-k.jimdo.com/

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2016年5月14日 (土)

ヴィーゼンタタール鉄道 II-廃線跡の自転車道

「シュライツの三角形からテューリンゲンの海へ Vom Schleizer Dreieck zum Thüringer Meer」。沿道の案内板は、廃線跡の自転車道ルートをそう表現する。少し謎めいたキャッチコピーで、土地に通じた人ならともかく、遠来の者には説明が必要だ。

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モクレン属の花咲く5月、自転車道の終点ザールブルク市街

シュライツの三角形(シュライツァー・ドライエック Schleizer Dreieck)とは、ドイツで最も古い歴史をもつストリートサーキット、公道コースのことだ。自転車道の起点となるシュライツ Schleiz の町の郊外を巡り、地図上でおよそ三角形に見えるのでこう呼ばれる。テューリンゲンの海(テューリンガー・メーア Thüringer Meer)も、内陸部のテューリンゲン州では見つけようがないが、代わりにザーレ川の総合開発で築かれたいくつかのダム湖がある。その湖畔が自転車道の目的地だ。

全長14.3kmのオーバーラント自転車道 Oberlandradweg は、かつての鉄道の跡をたどって、三角形と内陸の海とをつないでいる。まずは、もとの路線の歴史を追ってみよう。

話は1920年代、エルベ川第二の支流であるザーレ川 Saale の上流部で、ダム建設の計画が動き出したところから始まる。ザーレ・カスケード Saalekaskade(下注)と呼ばれるダム群は、電源開発はもとより、エルベ川の水位を安定させて、洪水の抑制と船の通年航行を可能にすることを目的としていた。1930~40年代に全部で5基のダムが完成するのだが、中でも大規模なものの一つがブライロッホダム Bleilochtalsperre だ。堤高65m、堤長205mの重力式ダムで、2億1500万立方mの貯水量は未だにドイツ最大を誇っている。

*注 カスケード Cascade(ドイツ語ではカスカーデ Kaskade)は本来、滝が連続する場所のこと。ブライロッホダムの下流には、もう一つの大規模なダム、ホーエンヴァルテダム Hohenwartetalsperre がある。

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ブライロッホダム
Photo by Christian Fleck from wikimedia.

ブライロッホダムの建設工事は1926年から32年にかけて行われ、それに伴い、資材や作業員を輸送する鉄道が必要とされた。近隣の自治体はこれを、長らく構想段階にとどまっていたシュライツ以遠の鉄道延伸を実現する絶好の機会と捉えた(下注)。さっそく国や民間の出資も得て、建設と運行に当たるシュライツ軽便鉄道株式会社 Schleizer Kleinbahn AG が設立される。

*注 シュライツまでは、すでに1887年に標準軌の路線が開通していた。現在は、保存鉄道として運行されている。本ブログ「ヴィーゼンタタール鉄道 I-赤いレールバスが行く」参照。

路線は、シュライツからザールブルクに至る15.2kmだ。軽便鉄道(クラインバーン Kleinbahn)とはいうものの、貨物の直通を前提に、標準軌(1435mm)が採用された。また、33‰の急勾配があるため、直流1200Vで電化までされていた。建設工事のほうは順調に進み、1930年6月に全線が開通している。

この本線とは別に、途中のグレーフェンヴァルト Gräfenwarth で分岐して、ダムの工事現場近くのグレーフェンヴァルト ダム貨物駅 Gräfenwarth Sperrmauer Gbf に至る長さ2.7kmの貨物支線も造られた。この路線はザーレダム株式会社 Saaletalsperren AG の所有だったが、シュライツ軽便鉄道が施設を借りて旅客列車を運行した。

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1991年当時の路線図
シェーンベルクからシュライツを経てザールブルクまでが一本の路線として描かれている
"Eisenbahnen in Deutschland Streckenkarte DB DR 1:750,000" Deutsche Bundesbahn, 1/1991 に加筆

下の地形図は、ドイツがまだ東西に分かれていた1980年代にバイエルン州が作成した1:50,000地形図だ。東ドイツ領内は戦前の資料に拠っているため、軽便鉄道の本線、支線がともに描かれている。本線はヴィーゼンタ川の谷を離れ、緩やかに波打つ高原を越えて、湖畔のザールブルクまで延びる。それに対して支線は、ダムへ通じる工事用道路にずっと並行していたことがわかる。

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シュライツ=ザールブルク線周辺の1:50,000地形図
バイエルン州測量局1:50,000 L5536 Schleiz 1986年版

ダムが完成すると工事輸送は一段落したが、今度はその威容を一目見ようと多数の人が押しかけた。鉄道は、休む間もなく夏場の観光輸送に奔走させられた。支線では、シーズン中20分間隔で列車を出すほどの盛況ぶりだったという。しかし、第二次世界大戦の勃発により、ブームはたちまち終わりを告げた。戦後も支線では旅客輸送の再開がなく、線路は1968年に撤去されるに至る。

一方、本線たるザールブルク線では、1949年の国有化後も運行が続けられた。だが、車両の老朽化により電気運転は1969年に終了し、代わりに導入されたレールバスが跡を引き継いだ。そして、ドイツ再統一後の1995年には貨物列車が、1996年6月には旅客列車が休止となり、1998年、こちらも路線廃止の手続きがとられた。

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軽便鉄道で使われた小荷物電動車(GT1、DR時代はET 188 521)
ドレスデン交通博物館蔵
Photo by HeizDampf from wikimedia. License: CC-BY-SA-2.0-DE

使われなくなった線路はしばらく放置されていたが、2008年の終わりにシュライツ市がDBから用地を購入し、再整備を開始した。終端区間の部分開通を経て、全線の工事が完了したのが2010年5月、こうして廃線跡はオーバーラント自転車道として生まれ変わることになったのだ。

では、そのルートをたどってみることにしよう。下の地形図に、写真の撮影場所を数字で示しているので参考にしていただきたい。

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オーバーラント自転車道周辺の1:50,000地形図
旧東独官製1:50,000 M-32-60-B Schleiz 1982年版、M-32-60-A Ranis 1987年版に加筆

起点は、ヴィーゼンタタール鉄道の終点シュライツ・ヴェスト Schleiz West 駅だ。線路は、中心街に通じるゲーラ通り Geraer Straße の直前で途切れている。交通量の多い通りを横断すると、スーパーマーケットの駐車場に挟まれた道路(これも廃線跡)が続き、その先で歩道が突如自転車道に切り替わる。

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1 シュライツ・ヴェスト駅。線路はゲーラ通りの手前で途切れている

しばらくは、ヴィーゼンタ川の穏やかな流れや川岸を縁取る林を右に見ながらの一本道だ。谷に沿って緩く蛇行しつつ、わずかに下っていく。快適に走れる区間だけに、道路との交差点では自転車道側に柵が設けられ、注意喚起も怠りない。

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(左)2 スーパーマーケットの駐車場脇から始まる自転車道
(右)3 ヴィーゼンタ川沿いに延びる一本道。道路との交差に安全柵

やがて、水車小屋を改造したグリュックスミューレ Glücksmühle というガストホーフ Gasthof が見えてくる。宿泊は扱っていないが、レストランは営業しているようだ。古い地図を見ると、周辺には水車小屋が点在している。往時は、すぐ近くに鉄道の停留所(グリュックスミューレ=メンヒグリュン Glücksmühle-Mönchgrün)もあった。

緑が一段と深まる谷を大きく左に回り込む頃、右手にアウトバーンA9号線を通す築堤が現れる。本来、線路はアウトバーンを高架橋で乗り越していたのだが、廃止後、道路の拡幅工事のために撤去されてしまった。それで自転車道は手前で廃線跡から右にそれて、アウトバーンの高架下へもぐっていく。その後、線路のあった高みまで戻るため、短いながらも急な上り坂が待っている。

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(左)4 右前方に水車小屋を改造したグリュックスミューレ
(右)5 アウトバーンをくぐった後の急坂。右端に廃線跡の築堤が見える

上りきると間もなく、地方道を横断する。一時その側道に納まるものの(下注)、またすぐに廃線跡に復帰して森に入っていく。視界が開けたところからは、このルートでは珍しい、野原を貫く直線路だ。右手に現れる広場はメッシュリッツ Möschlitz 停留所跡で、素朴な屋根付きベンチで休憩もできる。

*注 地方道の改良に伴う直線化で、線路敷が失われたことに伴う代替措置。

左にカーブしながら上っていくと、また森に囲まれ、ブルク Burgk の村に通じる道路を横断する。これで全行程のおよそ半分まで来たのだが、それまでののどかな景色を引き裂くように、左手に採石場が出現するのは、いかにも興醒めだ。かなりの面積で丘が切り崩されている。

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(左)6 野原を貫く直線路。ベンチのある場所がメッシュリッツ停留所跡
(右)7 ブルク村へ行く道路を横断

また、野原に出たあたりがルートのサミットで、標高は511m。後は下りの片勾配だ。いったん坂が緩んだところに、グレーフェンヴァルト Gräfenwarth の駅跡がある。駅舎が残っているものの、売却されて民家になっている。ダムへ通じる貨物支線はここで右手に分岐していた。

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(左)8 民家になった旧グレーフェンヴァルト駅舎
(右)9 管路で里道の下をくぐる

管路で里道の下をくぐった後は、再び下り坂になり、そのままヴェッテラタール橋 Wetteratalbrücke の上に踊り出る。ダム湖の入江を一跨ぎする橋はかつて鉄道との併用橋だったが、2001~02年に改修されたため、線路の痕跡は残っていない。

この先は、湖畔に展開するキャンプ場やマリーナを眺めながらの平坦な行路になる。残念ながら、湖岸へ行く小道と交わるところで、廃線跡の旅は終わりだ。ザールブルク駅まで残り数百mだが、私有地に入るため通行できなくなっている。駅舎も民家に転用されてしまったらしい。

湖のほとりのザールブルク市街地まで1kmほどは、交差するこの小道をたどることになる。

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10 ブライロッホダム湖畔に広がるキャンプ場
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(左)11 湖畔の牧草地を貫く平坦路
(右)12 しかし残り数百mを残して、廃線跡の旅は終わる
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(左)13 ザールブルク市街は湖に向かって下っていく
(右)ブライロッホダム湖畔

掲載した写真は、注記したものを除き、2013年4~5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T. 氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
Bahntrassenradwege.de-Oberlandradweg
http://www.bahntrassenradwege.de/index.php?page=oberlandradweg

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2016年5月 8日 (日)

ヴィーゼンタタール鉄道 I-赤いレールバスが行く

東西に分断されていたドイツが再統一を遂げたとき、東部ではまだ多数のローカル線に旅客列車の姿が見られた。だがそれに続く25年の歳月は、地方の町や村に奉仕していた名も無き小路線を、時刻表地図から次々と消し去ってしまった。東部のザクセン州とテューリンゲン州にまたがる地域を走っていたヴィーゼンタタール鉄道 Wisentatalbahn も例外ではない。

しかし嬉しいことに、その後路線は、支援者たちの尽力によって保存鉄道として蘇った。今もシーズン中の週2回、ノスタルジックな風情の赤いレールバスが人々の笑顔を載せて行き来している。今回はこのささやかなローカル線を旅してみよう。

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ミュールトロフ城をバックに走るレールバス

ヴィーゼンタタールとは、ヴィーゼンタ川が流れる谷(ドイツ語でタール Tal)のことだ。珍しい川の名は、かつて流域にヨーロッパバイソン(同 ヴィーゼント Wisent)が生息していた記憶を今に留めるものだという。草食のバイソンがのっそり現れてもおかしくないような緩やかな緑の谷間を、川は蛇行を繰り返してゆったりと流れ下る。

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ヴィーゼンタ川のほとりを馬車が行く
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シェーンベルク(フォークトラント)駅

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ライプツィヒ Leipzig からプラウエン Plauen を経て、ホーフ Hof へ南下するDB幹線がある。その途中駅シェーンベルク(フォークトラント)Schönberg (Vogtl)(下注1)が、ヴィーゼンタタール鉄道の起点だ。周りに小さな集落しかない寂しげな無人駅だが、ここから2本のローカル支線が出発する。一つは、南西へ走るシェーンベルク=ヒルシュベルク線 Bahnstrecke Schönberg–Hirschberg(下注2)。旅客列車はとうになくなり、不定期の貨物列車が終点の手前にある製材所へ走るだけになっている。

*注1 同名の駅と区別するため、地域名のフォークトラント Vogtland の略記 Vogtl を添えるのが正式名。
*注2 シェーンベルク=ヒルシュベルク線は19.9km、1890年開通、1994年に旅客営業廃止。

もう一つが、西へ走るヴィーゼンタタール鉄道で、起終点の名を採って正式名をシェーンベルク=シュライツ線 Bahnstrecke Schönberg–Schleiz という。延長14.9km、標準軌の支線として1887年に開通した。

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1995年版DB路線図
中央(番号545)が
ヴィーゼンタタール鉄道
"Übersichtskarte für den Personenverkehr"
Deutsche Bahn AG, 5/1995 に加筆

路線は、戦前戦後を通してシュライツとその近傍の貨客輸送を担っていた。しかし、利用者の減少で2006年12月9日、ついに定期旅客列車の運行が休止となる。それに抗するように、2007年6月から地元のヴィーゼンタタール鉄道振興協会 Förderverein Wisentatalbahn が特別列車を動かし始めたが、2008年11月には線路が閉鎖されてしまった。その後も、一部区間の再開・休止など紆余曲折があり、ようやく2013年9月から全線で保存列車の運行が可能になったのだ。

2016年のダイヤによると、運行日は3月~12月の第2、第4土曜、それに不定期でその他の土曜や日曜の設定もある。レールバスがシェーンベルク~シュライツ・ヴェスト Schleiz-West 間を1日4往復し、所要時間は片道45分だ。

DB線を運行するフォークトラント鉄道 Vogtlandbahn の気動車に乗れば、北のゲーラ Gera から1時間、東のプラウエンからだと途中乗継ぎを含め約20分で、シェーンベルクに着く。ヴィーゼンタタール鉄道の赤いレールバスは、隣にもう入線しているはずだ。保存鉄道の場合、利用者の多くは自家用車かバスで拠点駅までやってくる。DBを乗継いで来る旅行者は少ないから、長く停まる必要はないのだろう。写真を撮る間もあらばこそ、すぐに発車の合図がある。切符は車内で売ってくれる。

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シェーンベルク駅にレールバスが現れた
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フォークトラント鉄道の最新気動車と並んで停車
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(左)レールバスの運転席 (右)この日の車内は満員御礼

駅を出ると、ホーフ方面の幹線を左に、さらにヒルシュベルク支線も左に分けて、すぐに草生した線路の単独行になる。列車は森を抜け、畑地をかすめてゆっくりと走っていく。線路はほとんど下り坂だ。支線は谷を上っていくものという先入観があるからか、ちょっと不思議な感覚に襲われる。実はさっきの幹線は尾根筋を通っており、ヴィーゼンタタール鉄道のルートは川下へ向かっている。そのため、起点シェーンベルクの標高が514mで最も高く、終点シュライツは80mほど下って431mになる。

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シェーンベルク周辺の1:50,000地形図
旧東独官製1:50,000 M-32-60-B Schleiz 1982年版に加筆

一つ目の停車駅が、ミュールトロフ Mühltroff だ。村の入口に位置し、駅舎も残るとはいえ、今は棒線の停留所に過ぎない。線路はこれから州境を越えて、ザクセン州からテューリンゲン州に移る(下注)。鉄道の終点シュライツはテューリンゲン州にあるが、わざわざザクセン側から線路が延びているのには少し訳がある。歴史を振り返ってみよう。

*注 ミュールトロフはザクセン王国領だったが、東独時代の1952年にゲーラ県 Bezirk Gera の区域に入れられた。そのため、再統一後もいったんテューリンゲン州となり、1992年4月に改めてザクセン州に区域替えされた。現在の自治体名はパウザ=ミュールトロフ Pausa-Mühltroff。掲載の地形図は東独製につき、ミュールトロフの東に境界線が引かれているので注意。

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ミュールトロフ駅にて
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ミュールトロフ城とレールバス

19世紀まで、テューリンゲンの地には小さな領邦が乱立していた。シュライツは、ロイス=シュライツ侯の本拠地すなわち王宮都市だったが、1848年に欧州を席巻した革命の嵐のさなか、弟系ロイス一族の間で領土統合が進められ、ゲーラを首都とする弟系ロイス侯国 Fürstentum Reuß jüngerer Linie(ロイス=ゲーラ侯国 Fürstentum Reuß-Gera ともいう)が誕生した。

世は鉄道建設ブームに沸いており、財力のあるドイツ諸邦は、独自に鉄道会社(邦有鉄道)を設立して、領内の路線網を着々と拡張していた。東隣のザクセン王国もその例に漏れない。もちろん弟系ロイス侯国も領内の都市を連絡する鉄道を欲していたが、弱小国のため、資金調達の目途が立たなかった。シュライツは長らく、近隣の路線網から取り残される日々をかこった。

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シュライツ周辺の1:50,000地形図
旧東独官製1:50,000 M-32-60-B Schleiz 1982年版に加筆

結局、この町に通じる鉄道の検討が本格的に始まったのは1880年代になってからだ。東30kmにあるプラウエン Plauen 市から、既成線のシェーンベルクを起点とする路線の提案があったのだ。プラウエンはザクセン王国の西端に位置しており、邦は違うが隣接するシュライツ周辺の経済権益を取り込もうと狙っていた。その頃、北方のトリプティス Triptis からプロイセンの資本で支線を延長する構想があり、それが実現すれば、プラウエンは有望な市場をみすみす失うことになる。市はザクセンの国会に訴えて、建設計画の認可を引き出すことに成功した。

一方、侯国ではザクセンの進出に対して反対意見も挙がったものの、必要資金の半額近くをザクセンが負担するという好条件を拒めるはずもなかった。1885年に両邦間で協定が締結され、翌年、王立ザクセン邦有鉄道 Kgl. Sächsischen Staatseisenbahnen により着工、1887年6月、ついにシュライツは待望の鉄道開通を祝うことができたのだった。

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ヴィーゼンタの河畔を行く(ミュールトロフ近郊)

州境を越えても畑と森の風景が続く。右の車窓にいっときレッサウダム Talsperre Lössau の湖面が顔をのぞかせるのが唯一の変化だろう。時刻表にはミュールトロフと終点の間に4つの停留所が記載されているが、すべてリクエストストップ(乗降があるときのみ停車)だ。ヴィーゼンタ川の浅い谷の中を左右に曲がりくねるうちに、前方に工場やシュライツの家並みが見えてくる。

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(左)シュライツ旧駅へ分岐するポイントを渡る(振り返り撮影)
(右)旧駅との連絡用に設けられたシュライツ停留所、旧駅のすぐ北にある。

列車はポイントの手前でやおら減速し、右へ転線する。ここで直進すればシュライツ旧駅で、元来そこが鉄道の終点だ。駅舎や機関庫、側線を含む構内線路などは今も保存されているが、列車の発着はなくなった。どうして旧駅は放棄されてしまったのか(下図参照)。

1930年にザーレ川 Saale に建設するダムの資材輸送用として、ヴィーゼンタタール鉄道を延長させる形で、シュライツから河畔のザールブルク Saalburg まで新線が建設された(下図の中央。下注1)。このときシュライツでは、旧駅の手前300mで右に分岐する連絡線が造られ、直通列車は旧駅を経由しなかった。代わりに、市街地により近い場所に別の駅が設置された。駅ははじめ、軽便鉄道駅 Kleinbahnhof と言ったが、後にシュライツ・ヴェスト(以下、西駅という。下注2)に改称されている。

*注1 この路線については次回紹介する。
*注2 対するシュライツ旧駅は「国鉄駅 Staatsbahnhof」と呼ばれた。

1996年にこのシュライツ=ザールブルク線 Bahnstrecke Schleiz–Saalburg が廃止され、バスに転換されるに当たり、列車とバスの乗継ぎ施設(公共地域旅客輸送インターフェース ÖPNV-Schnittstelle)が整備されることになった。その設置場所として、利便性に勝る西駅が選ばれたのは自然の成り行きだろう。それ以来、ヴィーゼンタタール鉄道の全列車は西駅を終点とするようになり、残された貨物輸送も翌年廃止されたため、旧駅の機能は完全に停止してしまったのだ(下図右)。

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シュライツ駅周辺の路線変遷
1887年 シュライツ駅開業
1930年 シュライツ軽便鉄道(のち、DR シュライツ=ザールブルク線)と軽便鉄道駅(のち、西駅)が開業
1996年 ザールブルク線廃止に伴い、西駅が終点に

保存鉄道もこの西駅が終点だ。旧駅の設備を利用して蒸機牽引の観光列車を走らせる構想もあるそうだが、まだ実現していない。現在保存運行を担っているのは、1950~60年代に製造されたレールバスだ。使用車両は一定しておらず、2013年の撮影時には、頬の膨らんだDR(東ドイツ国鉄)VT2.09形が使われていた。

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DRで活躍したレールバスVT2.09形

ポイントから連絡線に入れば、終点はもうすぐだ。ヴィーゼンタ川とその畔を縁取る林に沿って大きくカーブした後、列車は棒線に簡易な片側ホームを付けただけの西駅に到着する。先述のとおり、かつて線路はさらに14km先の湖に臨むザールブルクまで続いていた。その跡地は数年前に、気持ちのいい自転車道に転用された。ザールブルクへは路線バスの便もあるのだが、レールバスで持ち込んだ自転車を駆っていくのも一興だ。

次回はこの廃線跡をたどってみよう。

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(左)パーク・アンド・ライドも整備した西駅だったが…
(右)現在はプラットホームのない側で乗降

掲載した写真は、2013年4~5月に現地を訪れた海外鉄道研究会のS. T. 氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
ヴィーゼンタタール鉄道振興協会 Fördervereins Wisentatalbahn
http://www.wisentatalbahn.de/

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