« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年12月27日 (日)

ドイツのサイクリング地図-ADFC公式地図

Blog_germany_fahrradkarte1
葡萄山の自転車旅行
(c)ADFC/Marcus Gloger

2014年に実施されたEUの調査(下注)によれば、EU市民に聞いた「ふだんどの交通手段を最もよく使うか?」という質問に対して、自転車と答えた人の割合は、オランダの36%を筆頭に、以下デンマーク(23%)、ハンガリー(22%)、スウェーデン(17%)、フィンランド(14%)、ベルギー(13%)の順となっている。ドイツは7位の12%で決して高いとはいえない。しかし、ドイツの総人口はオランダの4.8倍もあるから、日ごろ自転車に親しんでいる人の実数ははるかに多いはずだ。

*注 "QUALITY OF TRANSPORT Report", Special Eurobarometer 422a, European Union, 12/2014

それを傍証するように、サイクリングルートや周辺情報を案内する自転車道専用地図(サイクリングマップ Fahrradkarte、下注)の種類は、他国にもまして豊富だ。全国規模でカバーしているものに限っても、筆者の知る範囲で3つのブランドがしのぎを削っている。

*注 ドイツ語で自転車はファールラート Fahrrad またはラート Rad、自転車道はラートヴェーク Radweg、サイクリング地図はファールラートカルテ Fahrradkarte。

一つ目はヨーロッパの旅行地図最大手のコンパス社 Kompass が刊行するシリーズ。縮尺1:70,000でドイツ全土をほぼ網羅する。二つ目はオーストリアのエスターバウアー出版社 Esterbauer Verlag が刊行する縮尺1:50,000~1:75,000のバイクライン Bikeline シリーズ、三つ目が今回紹介するBVAビーレフェルト出版社のシリーズになる。コンパス社は一般的な旅行地図も作っているが、後2社は自転車旅行に焦点を絞ったいわば専門店だ。

*注 このほか、各州の測量局あるいはそこから事業を引き継いだ民間会社が製作している「官製」旅行地図にも、自転車道の記載がある。本ブログ「ドイツの旅行地図-ライン渓谷を例に」参照。

とりわけBVAビーレフェルト出版社 BVA Bielefelder Verlag のサイクリング地図の特徴は、ドイツのサイクリング同好者のための組織「全ドイツ自転車クラブ Allgemeiner Deutscher Fahrrad-Club、略称ADFC」(下注)の公式地図 offizielle Karte に位置づけられていることだろう。ADFCとの共同編集を謳い、「サイクリストによってサイクリストのために von Radfahrern für Radfahrer」のモットーに従ってADFCが、調査したデータを提供し、内容を保証している。表記がドイツ語のみで外国人には使いにくいのが難だが、凡例(下の画像に和訳を付記)さえ理解すれば、読図に大きな支障はないはずだ。

*注 ちなみに、日本にも同様の目的で創設された「日本サイクリング協会」がある。

Blog_germany_fahrradkarte2
ADFC自転車旅行地図
「オーバーバイエルン/ミュンヘン」
2010年版表紙

同社の刊行地図のうち代表と言えるのが、縮尺1:150,000 の「ADFC自転車旅行地図 ADFC-Radtourenkarte」シリーズだ。ADFCのサイトによると、累計280万部以上と世界で最もよく売れているサイクリング地図だそうだ。野外への携帯を考慮して耐水・耐擦紙が使われている。体裁は片面印刷の折図で、27面でドイツ全土をカバーする。フーバー地図製作社 Kartographie Huber 製のベースマップは、5km間隔のグリッドが入り、等高線とぼかし(陰影)で地勢を表現している。森林を表す緑色(シャトルーズグリーン)に比べて市街地のグレーは控えめで、見る人を町から郊外に誘い出す効果が期待できそうだ。

Blog_germany_fahrradkarte2_index
ADFC自転車旅行地図 索引図

主要テーマである自転車道は、彩度の高い赤や緑を使って強調される(下の凡例参照)。赤色は長距離自転車道 Radfernweg などネットワークの骨格をなすルートで、中でもDルート D-Route(集合体としてDネッツ D-Netz)と呼ばれる全国規模の基幹ルートは、ピンクでマーキングされ、別格の扱いだ。他方、緑色は地域内に張り巡らされた補完ルートを示している。

ルート上には、修理工場、食堂、キャンプ場など沿線で利用できる施設のピクトグラムが置かれ、急な坂道には勾配に応じた注意表示もある。また、別添された冊子には、風景の美しい自転車道の紹介や、旅行案内所の連絡先、「ベット・ウント・バイク bett+bike」(ベッドと自転車の意)と呼ぶADFC提携宿泊施設のリストなどが簡潔にまとめられている。自転車での旅行計画を立てるなら十分な情報量といえるだろう。

Blog_germany_fahrradkarte2_legend
ADFC自転車旅行地図2010年版 凡例の一部(和訳を付記)

Blog_germany_fahrradkarte3
ADFC地域図
「バイエルンの湖沼群」表紙

しかし1:150,000という縮尺では、地図から実位置を特定するのはやや難しい。実際に自転車を駆って旅に出れば、もう少し詳しい情報が欲しくなる。縮尺1:50,000または1:75,000の「ADFC地域図 ADFC-Regionalkarte」シリーズは、そうした希望に応えるものだ。シリーズの既刊は60数点に上るが、全土をカバーしているわけではなく、川沿いなどの人気ルートや都市近郊の日帰りルートが中心の品揃えだ。

上記の旅行地図に比べて、同じエリアが2~3倍に拡大表現されているから、盛り込まれた情報の量が格段に違う。記載されている自転車ルートの数が多いし、おのおのの道路状況に関する情報も詳しい。凡例(下図参照)でおわかりいただけるように、静かに走れる道、中程度の交通量の道、クルマが多くて避けるべき道、玉石舗装や砂利敷きなどで走りにくい道、あるいは走れない道など、実走調査に基づく細かい仕分けには、ドイツらしい周到さが滲み出る。ADFCのサイトでは、サイクリング旅行のための頼りになる同伴者と紹介されているが、決して誇張ではない。

Blog_germany_fahrradkarte3_index
ADFC地域図 索引図
Blog_germany_fahrradkarte3_legend
ADFC地域図2013年版 凡例の一部(和訳を付記)

どちらのシリーズも8~9ユーロ(1ユーロ130円として1,040~1,170円)と手ごろな価格なので、机上のプランニングは旅行地図で、実地走行中は地域図で、というように使い分けるとなおいいだろう。

Blog_germany_fahrradkarte4
ADFC自転車旅行ガイド
「ライン自転車道中部」表紙

また、こうした大判のサイクリング地図とは別に、リング綴じの冊子も多数刊行されている、こちらは地図つきの自転車旅行用ガイドブックで、主に鉄道駅を起点にした日帰り旅行のための「ADFC自転車日帰り旅ガイド ADFC-Radausflugsführer」と、長距離自転車道を使った長旅向けの「ADFC自転車旅行ガイド ADFC-Radreiseführer」の2種類がある。

横長判で天綴じされ、専用ホルダーで自転車に装着すれば、実際に走りながらでも参照できるのが大きな特徴で、用紙も厚めの耐水・耐擦紙だ。地図はルート順にページ建てされていて、メインの縮尺は1:50,000か1:75,000だが、大きな町については縮尺1:15,000程度の市街図が挿まれている。ルート上の主要分岐点には道案内の説明文も用意され、初めての道でも迷わないための工夫がある。名所・見どころの紹介はガイドブックならではのもので、地図で位置を照合しながら、旅行プランを膨らませることができそうだ。

ビーレフェルト出版社のADFC地図は、日本のアマゾンや紀伊國屋などのショッピングサイトでも購入できる。"ADFC-Radtourenkarte"、"ADFC-Regionalkarte"などで検索するとよい。

コンパス社とバイクラインのサイクリング地図については次回

冒頭の写真はADFC公式サイト http://www.adfc.de/pressefotos/ で提供されている画像「Fahrradtour in den Weinbergen(葡萄山の自転車旅行)」を使用した。

■参考サイト
BVAビーレフェルト出版社 http://www.fahrrad-buecher-karten.de/
ADFC(全ドイツ自転車クラブ) http://www.adfc.de/
D-Netz  http://www.radnetz-deutschland.de/

★本ブログ内の関連記事
 ドイツのサイクリング地図-コンパス社とバイクライン
 ドイツの旅行地図-ライン渓谷を例に

 オランダのサイクリング地図
 デンマークのサイクリング地図

2015年12月12日 (土)

コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠

秋の「地図の旅」最終日9月23日は、昨日の続きで旧中山道を番場(ばんば)宿から南へ歩き、摺針峠(すりはりとうげ)を越える。

「此嶺の茶店より直下(みおろ)せば、(中略)湖水洋々たる中にゆきかふ舩(ふね)見へて、風色の美観なり」(木曽路名所図会 一坤より)。摺針峠は、中山道で江戸を発って以来、初めて琵琶湖と対面できる展望台だ。景勝の地としてつとに知られ、広重の作「木曾街道六拾九次、鳥居本」(下図参照)にも、望湖堂なる茶屋本陣の前で、帆掛け舟の浮かぶ内湖や琵琶湖の眺望を愛でる様子が描かれた。私たちもにわか旅人となって、「風色の美観」を体験してみたいと思っている。

Blog_contour1001
歌川広重「木曾街道六拾九次 鳥居本」
画像はWikimediaから取得 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kisokaido63_Toriimoto.jpg

Blog_contour10_map1
番場~鳥居本間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)

米原駅10時25分の集合時刻には、昨日も参加した堀さん、相澤さん、外山さん、私に加えて、出山さんが遠路駆けつけた。米原駅東口のタクシー乗り場に行くと、1台しか停まっていない。総勢5人なのでもう1台呼ぼうとしたら、運転手氏が「前に2人乗れますからどうぞ」。なんと前部座席にも3人掛けられるクルマだった。

Blog_contour1002
番場宿でタクシー下車。堀さん、出山さんはそのまま先回り

出山さんが堀さんをエスコートして車で摺針峠に先回りし、残りの3人は番場の四つ角で降ろしてもらった。きょうもいい天気で、陽射しは暑いくらいだ。中山道62番目の宿場町だった番場は、鉄道が通らなかったため、明治以降衰退してしまった。本陣や脇本陣の位置は民家の庭先に立つ小さな石碑が教えるだけで、もはや宿場の面影は残っていない。広めにとられた道幅だけが、往時の隆盛をしのばせる。

Blog_contour1003
中山道分間延絵図に描かれた番場宿
(番場宿碑のパネルの一部を撮影、原図は東京国立博物館所蔵)

左手に、史蹟蓮華寺(れんげじ)と彫られた石塔があった。「瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」「南北朝の古戦場」と、看板の宣伝文句もにぎにぎしい。タクシーの運転手さんがしきりに勧めていたのを思い出し、私たちも立ち寄ることにした。寺は左に入った道のどん詰まりにあるのだが、街道からはよく見えない。というのも、名神高速道路の高架と防音壁が寺のすぐ前を横切り、眺めを遮断しているのだ。これでは情緒も風情もあったものではない。昨日の醒井でもそう思ったが、無茶なことをしたものだ。

Blog_contour1004
(左)道幅の広い東番場、左端に本陣跡の碑、遠方の信号が四つ角
(右)蓮華寺入口、寺は名神の高架に遮られて見えない

名神をくぐると、ようやくモミジの古木にかしずかれた立派な勅使門が視界に飛び込んできた。相澤さんいわく「表塀の筋壁は格式を表していて、黄色の地に白筋5本というのは位が高いんです」。なるほど案内板の記す由緒には、聖徳太子の開基と伝え、花園天皇より菊の紋を下された、とある。横口から境内に回ると、気配を察して受付役の男性が出てきた。足もとの溝を指して、「この線から内側は有料ですので」。先を急ぐ私たちは一線を踏み越える余裕を持たなかったが、それでも何かと質問に答えてくれたこの方には感謝しなくてはいけない。

Blog_contour1005
蓮華寺勅使門
Blog_contour1006
(左)蓮華寺境内で話を聞く
(右)小川を渡ると西番場(もとの番場宿)、道幅が狭くなる

街道が小川を渡っても、まだ家並みは続いている。実は今通ってきたのは、米原湊が開かれてから造られた集落、東番場で、橋より上手の西番場と呼ばれる一帯が、それ以前の古い宿場があったところだ。道幅が心持ち狭くなり、どことなく鄙びた雰囲気が漂い始める。

右手に、北野神社の額を掲げた鳥居と参道が現れた。「地形図に載っている130.0mの水準点は、たぶん境内のどこかにあるはずです」。昨日の要領で探すまでもなく、それは本殿の脇に見つかった。マンホールで隠されるどころか、標石は剥き出しで、その前に一等水準點と彫られた平たい石板まで埋めてある。「これは収穫ですね」と3人で頷き合う。本殿の反対側には、大人二抱えもあるような切株が残されていた。今はあっけらかんとした境内だが、かつては大木が陰をつくるお社だったのかもしれない。

Blog_contour1007
(左)西番場の北野神社 (右)剥き出しの水準点標石

家並みが途切れたところで、名神の築堤が広くもない谷の真ん中に進出してきて、中山道は隅に追いやられる。高速道路建設のために移設されたのだ。谷が深まり、田んぼが消えたところで、また水準点の標識があった。獣避けのフェンスを隔てた丈の高い草むらの中だったが、藪漕ぎには慣れている外山さんが果敢に飛び込んだ。道をつけてもらって近づくと、建設省国土地理院の樹脂製プレートが埋め込まれた現代風の標石だ。四方を自然石で固めている。「これも名神建設のときに移転させられたのじゃないかな」と相澤さん。

Blog_contour1008
(左)名神築堤下の草むらに埋もれた水準点 (右)樹脂製プレートが埋め込まれた標石

街道はこれから小摺針峠(こすりはりとうげ)にかかる。築堤の際をずんずん上り始め、まもなくクルマがひっきりなしに行き交う高速道路の路面レベルを越えた。名神はこの鞍部をざっくり切通したうえで覆道化している。名称も、小摺針などという風流さとは程遠い「米原トンネル」だ。中山道の付替え道路はその直上を越えていく。谷底を上る間は風もなく暑かったが、峠の上には涼やかな風が吹き通っていた。クルマの走行音が響いてさえなければ、気持ちのいいハイキングコースなのだが。

Blog_contour1009
小摺針峠 (左)峠への上り坂 (右)車が行き交う谷間を下っていく

坂を下り、名神が左カーブで次第に遠ざかるところに、道標の立つ三叉路がある。中山道は右に折れ、すぐにまた摺針峠の急坂にさしかかる。坂下の小集落の入口で、磨針(すりはり)一里塚跡のささやかな石碑を見つけた。用字の異なる磨針の地名には、由来譚が伝わる。或る書生がいた。京都で学問が成就せず、失意のまま帰郷しようとこの地まで来たとき、斧を磨いている老婆を見かけた。聞けば、大事な針を折ってしまったので、磨いて針にするとの答え。書生は大いに感じ入り、京に引返して苦学を続け、ついに学問を究めたというのだ(下注)。

*注 この説は、今井金吾「今昔中山道独案内」(日本交通公社出版事業局, 1976年, p.332)に、日本名勝地誌の引用として記されている。同書によれば「地元ではこの書生を弘法大師とし、この老媼を神として祀ったのが摺針明神であったという」。

Blog_contour1010
(左)磨針一里塚跡碑 (右)摺針峠の集落

十数軒の集落の先に、サミットがある。現在の車道は峠を掘り割って勾配を緩めているが、その左側、一段の高みへ上っていく細道が旧道だ。元の峠の位置に、神明宮の扁額を掲げた石の鳥居が立っている。お社はささやかなものに過ぎないが、小高い境内に立つと確かに琵琶湖が見える。手前に広がる水田地帯も入江内湖を干拓したものだから、往時ははるかに眺めがよかったに違いない。

ここはぜひ展望写真を撮っておきたいところだが、あいにくフジテック社の背の高いエレベータ試験塔が、否応なしに視界に入ってくる。名神と言い、この高塔と言い、どうも旧街道の景観を壊す構築物が多すぎる。何とか写り込まないようにズームで撮影したのが下の1枚だ。それから、先客の夫婦に倣って境内のベンチに腰をおろし、少し遅めの昼食をとった。

Blog_contour1011
(左)摺針明神(神明宮)の鳥居と境内 (右)摺針峠の今。右の鳥居前を通る小道が旧道
Blog_contour1012
摺針明神から琵琶湖を望む。手前の田園はかつての入江内湖

先行している堀・出山ペアから、相澤さんの携帯に、峠下で休んでいる旨の連絡が入った。「わかりました。今からそちらへ向かいます」。摺針峠から麓へは、高度差約80mを一気に下らなければならない。現在の車道は北西に突き出す尾根を回って勾配を緩和しているが、昔はほぼ直降していた。その跡とみられる小道が残っている。上るのは大変そうだが、私たちは降りるほうだし、急斜面には親切にも手すりが付けられている。

Blog_contour10_map2
地形図で見る摺針峠
(左)並木を伴う旧道が描かれる(1893(明治26)年測図)
(右)現行図に旧道のルートを加筆(2011(平成23)年更新)

Blog_contour1013
(左)摺針峠のすぐ先で旧道は左の踏分け道へ (右)標石亡失(?)の水準点
Blog_contour1014
摺針峠下の旧道を行く

下山の途中でまた水準点の標識に出会ったが、肝心の標石が見当たらない。昨日からさまざまな設置スタイルを観察してきたが、本体の亡失は予想外だった。探している時間はないので、通過。旧道は尾根を折り返してきた車道には合流せず、右側の谷底へまっすぐ降りていく。麓の旧道と新道が交差する地点で、ようやくお二人の姿を発見した。車道を下ってきたと聞いて、外山さんがカメラのモニターで旧道の状況を報告する。

Blog_contour1015
堀・出山ペアとようやく合流

摺針峠の実見で目的を果たした一行は、米原駅に戻るべく、最寄の近江鉄道フジテック前駅に向かうが、私だけ単独行を許していただき、一つ彦根方の鳥居本(とりいもと)駅をめざした。旧道はいったん国道8号に合流し、矢倉川を渡った後、また左へ分かれる。この道が大曲りする角にあるのが、赤玉神教丸本舗を名乗る有川家の豪壮な邸宅だ。往還の旅人が争って買い求めたという健胃薬は、今も商われているらしく、大きな暖簾が風にはためいている。京都方から来れば街並みの突き当りに見え、広告効果は抜群だ。

Blog_contour1016
鳥居本宿、豪壮な構えの赤玉神教丸本舗有川家

わざわざ鳥居本へ足を延ばしたのは、赤い三角屋根のファサードが愛らしい鳥居本駅舎を見たかったからだ。無人化されて久しく、施設も老朽化が進むが、駅としてはいまだに現役だ。新幹線電車が高架線を高速で行き交う傍らで、古色を帯びた駅舎はひとり悠久の時を刻んでいるように見えた。

Blog_contour1017
近江鉄道鳥居本駅舎 (左)正面 (右)玄関と待合室
Blog_contour1018
鳥居本駅 (左)南望。新幹線電車が通過 (右)米原行き電車がやってきた

緩くカーブしたホームでしばらく待つうちに、線路を覆う雑草をかき分けるようにして、青い塗装の米原行電車がやってきた。がらがらのロングシートに腰を下ろす。次の停車はフジテック前駅、堀さんたち一行がこの電車の到着を待っているはずだ。天気に恵まれ、メンバーにも恵まれた4日間の歩き旅に、そろそろ終わりの時が近づいている。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図彦根東部(平成23年更新)及び2万分の1地形図彦根(明治26年測図)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点
 コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界
 コンターサークル地図の旅-中山道醒井宿
 コンターサークル地図の旅-寒川支線跡

2015年12月 5日 (土)

コンターサークル地図の旅-中山道醒井宿

コンターサークルSによる2015年秋「地図の旅」も3日目になる。9月22日は滋賀県に転じて、旧中山道の番場(ばんば)宿~醒井(さめがい)宿の間を歩く。醒井は昔訪れたことがあって、清らかな小川が街道に寄り添うように流れていたのを覚えている。あの潤いと落ち着きのある風情は今も残っているだろうか。歩きのゴールで待ち受けている光景を楽しみに、集合場所の米原駅までやってきた。

Blog_contour0901
醒井宿を貫いて流れる地蔵川

参加者は、堀さん、相澤さん、外山さん、私、それに飛び入り参加した相澤さんの友人Mさん。旧道を歩いている途中で木下さん親子も合流したので、最終的に大6小1、計7人のにぎやかな旅になった。番場までタクシーで行き、そこから醒井へ歩いていく予定だったが、堀さんは昨日もかなり歩いてお疲れのご様子。「醒井で町歩きしながら、みなさんの到着を待つことにします」とおっしゃるので、それならと、私たちはタクシーに頼らず、全行程を歩き通すことにした。

Blog_contour0902
(左)米原駅に到着 (右)堀さんとはいっときの別れ

Blog_contour09_map1
米原~醒井間の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

整備されたばかりの駅東口を出て、国道8号線を横断すると、そこは米原(まいはら)の旧市街だ。北国街道筋だった古い町並みのなかに、地蔵を祀る立派な祠が目につく。米原が栄え始めたのは、入江内湖から大葭(おおよし)堀を開削して、1603(慶長8)年に湊が開かれてからだそうだ。美濃や尾張から来た物資はここで船に積み込まれ、琵琶湖経由で大津方面へ運ばれるようになった。1611(慶長16)年には、町の北口に深坂越えの新道(深坂道)が開通し、中山道番場宿からのルートが確立した。

*注 米原の集落名は「まいはら」で、旧町名も「まいはら」だったが、市制にあたって駅名と同じ「まいばら」の読みに変更された。

下に掲げた2万分の1地形図は1893(明治26)年測図で、鉄道が舟運に取って代わろうとする時代を描いた貴重な図だ。鉄道の開業は1889年、測図のわずか4年前に登場したばかりだから、米原停車場の周りに集落は張り付いていない。鉄道の西側に広がる湖面は、琵琶湖本体から砂州で隔てられた内湖で、か細い水路が鉄道の下をくぐって町のほうへ延びている。これが開削された大葭堀だ。櫛形の荷揚げ場をもつ米原湊には、船と煙を象った汽舩渡の記号が見つかるから、船便もまだ盛んに利用されていたのだろう。

Blog_contour09_map2
鉄道開通間もない頃の米原周辺
(1:20,000地形図「彦根」「醒井村」図幅、いずれも1893(明治26)年測図)
Blog_contour09_map3
上図の米原集落を拡大、青の円内に「汽舩渡」の記号がある

私たちは米原の町を北に進む。まもなく、右中山道、左北陸道と豪快な字で刻まれた、石の道標が待ち構える三叉路にさしかかった。江戸末期の建立という道標の後ろには、弁柄格子の窓が残る旅館「かめや」が建ち、向いの軒先には昔懐かしい丸形ポストもある。「なかなか役者の揃った一角ですね」と、一同感心しながらひとしきり眺める。米原駅から歩き出したのは正解だった。

Blog_contour0903
(左)米原三叉路、旧 北陸道を望む (右)同 深坂道を望む
Blog_contour0904
三叉路に立つ分岐点道標

道標の指し示しているとおり、右手は番場宿に通じる深坂道で、急な坂道が切通しになり続いている。上りきると二車線道路(県道240号樋口岩脇線)に突き当たり、左に米原高校の校舎を見ながら、今度は谷を下っていく。残念ながら趣があったのは、深坂の上までだった。後は、この単調なクルマ道の端っこを、残暑の強い陽射しを浴びながら延々と歩かなければならなかったからだ。

ようやく番場の家並みが近づいてきた。四つ角にまた石の道標がある。指差しの絵の下に「米原 汽車汽船 道」と読めるから、先述の地形図の頃に造られたものだろう。その向いにも中山道番場宿と彫られた、おにぎり形の石碑が置かれているが、これはいかにも近年の作らしい。信号のある四つ角の右が宿場の中心になるのだが、その散策は明日のお楽しみとして(下注)、私たちはここで左に折れた。

*注 番場宿以南の歩き旅については、「コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠」参照

Blog_contour0905
(左)深坂道の切通し (右)番場四つ角の道標「米原 汽車汽船 道」

集落の出口で個人宅の庭先に、「大切にしましょう水準点」と標識が立っている。地形図で115.5mの数値が記されている水準点だが、測量士と日本列島を描いた特製マンホールでしっかり蓋されていた。開けて標石を確かめたいところだが、外山さんが言うには「ねじで止まっているから、無理ですね」。大切にしたいのはわかるが、管理がちと厳重すぎはしないか。

家並みが途切れた後、山際に沿う道にモミジの古木が並び、いっとき旧街道の風情が辺りに漂う。しかし、すぐに北陸自動車道の高架が現れて、のどかな旅景色を遮った。高架をくぐっていく手前に、一里塚の跡を示すモニュメントがあった。薄れかかった銘板によれば、久禮(くれ)の一里塚、江戸へ約百十七里、京三条へ約十九里。ただし、塚そのものは西100mの集会所付近にあったらしい。「距離を示すものを好きに動かしちゃだめでしょう」と私。

Blog_contour0906
(左)番場東口の水準点 (右)モミジの古木の並木道を行く
Blog_contour0907
(左)久礼一里塚碑 (右)旧街道には立派な構えの家も散見

三吉、樋口、河南(かわなみ)と地名は移るが、家並みはほぼ切れ目なく続いている。道幅は広めで、立派な構えの家も散見され、天下の大道だった昔をしのばせる。国道21号線の北側に出ると、家並みに開いた隙間から列車が走り去るのが見えた。米原以東の東海道線はJR東海のエリアなので、行き交う車両はみなオレンジの帯を巻いている。

畦道を鮮やかに彩る彼岸花を愛で、道路脇を静かに流れる用水路を追ううちに、青空に「恋はみずいろ」のミュージックチャイムが響き渡った。正午を知らせる合図のようだ。そろそろお昼にしましょうとは言うものの、街道筋では腰を下ろす場所もない。地形図を見ていた誰かが、「先の路地を右に入ったところに、お寺があるようです」。

Blog_contour0908
畦道を彩る彼岸花の群落

百寶山徳法寺と名乗るその寺は、予想に反して境内が狭かったが、本堂への上がり口をいっとき借用して、昼食を広げた。そこへ、クルマを近所に停めてきたという、木下さん親子も登場。元気なお母さんはもとより、息子のキリ君とも5月に伊豆長岡の歩き旅で会っている。彼は今、迷路にはまっているそうで、お絵かき帳に書いた自作の迷路で、私たちに果敢に挑戦してきた。

110.8mの水準点がこの附近にあるはずだと皆で探すと、何のことはない境内の片隅に、例の標識が立っている。番場東口と同じマンホール仕様で、やはり標石を拝むことはできない。ともあれ、ブロック塀に囲われて外の道からは見えないから、巡り会えたのは仏様のお導きかも。そう思い地形図を見ると確かに、水準点の記号はしばしば寺や神社のそばにある。理由は知らないが、おもしろい発見だった。

Blog_contour0909
(左)百寶山徳法寺 (右)境内の片隅にある水準点

おなかの虫をなだめたところで、再び中山道を歩き出す。やがて丹生川を渡る橋に出た。白い小石で埋め尽くされた河原に、透き通った水が流れている。丹生川の源流域は、霊仙山(りょうぜんざん)をはじめとする石灰岩の山々だ。濁りは石灰とともに沈殿して、上澄みがこうして流れ出るのだろう。

ただ、橋の前後の約400mは旧道を国道に整備した区間で、橋上を除いて歩道も脇道もない。通行量が多いうえ、信号が近くにないのかクルマの流れがなかなか途切れない。単に車道を横断するだけで、思いのほか時間がかかってしまった。キリ君は途中でつまずいて手を傷めたらしく、もう歩けないとぐずり始めた。やむをえずお母さんは、彼をクルマに乗せて、醒ヶ井駅へ直行することに。

*注 地名は醒井だが、JRの駅は「醒ヶ井」と表記する。

Blog_contour0910
(左)丹生川橋 (右)透き通った水の流れる河原

まもなく、左に分かれる旧道が現れた。養鱒場へ通じる県道(17号多賀醒井線)との交差点に、中山道醒井宿と書かれた碑が立っていた。ここからいよいよ中山道61番目の宿場町だ。まず右手に西行水という名の湧水があった。西行法師の伝説を秘めた冷たい清水が、岩の割れ目からこんこんと湧き出ている。水の中へ入らないでください、との立札を横目に、魚捕り網片手に子どもたちが走り回っていた。

Blog_contour0911
西行水 (左)岩の隙間から湧き出る (右)子どもたちは水遊びに夢中

駅前から来た道と合流するところで、小さな川を石橋で渡る。私の記憶に残っていた地蔵川だ。醒井宿が他の宿場町と違うのは、街道と地蔵川が並走し、その両側に家並みが連なっていることだ。石垣を組んだ川べりに並木代わりの古木が育ち、道の上に柔らかな木陰をつくっている。川の水源は裏山からの湧水で、丹生川に劣らず透明度が高い。涼やかに流れる水面には、白梅に似た小さな花をつけたバイカモ(梅花藻)がそよぐ。それをねぐらに、清流を好むハリヨという小魚が生息していると聞いた。

Blog_contour0912
中山道が地蔵川を渡る
Blog_contour0913
澄んだ水にバイカモそよぐ地蔵川
Blog_contour0914
(左)バイカモの花 (右)小魚はいるがハリヨではなさそう

了徳寺の御葉附銀杏(おはつきいちょう)は、街道筋からもひときわ目立つ大木なので、寄り道した。高さ12m、樹齢150年、扇の葉面に実が生る珍種だそうで、天然記念物に指定されている。道の右手、地蔵川の小橋を渡ったところには、旧 問屋場を復元した醒井宿資料館がある。案内板の説明によると問屋場とは、「宿場を通行する大名や役人に、人足・馬を提供する事務を行っていたところ」。醒井には全部で7~10軒あったそうだ。さっきから探していたハリヨを、とうとう見つけた。小魚は、資料館の小さな水槽の中で泳いでいた。

Blog_contour0915
(左)了徳寺、左奥に御葉附銀杏の木が見える (右)銀杏の樹陰で
Blog_contour0916
(左)問屋場を復元した資料館 (右)内部

最後の見どころは居醒(いさめ)の清水、地蔵川が生まれる場所だ。樹陰に覆われた小暗い池に石橋が渡してあって、その奥、下草が覆う石と石の間から、水がむくむく湧き出しているのがわかる。「これだけで水路が常時いっぱいになるというのは驚きですね」。なにしろ1日の湧水量は1万5千トンに上る。手を入れると思った通りの冷たさ。水温は年間を通じて12~15度だそうだ。居醒の謂れは、日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山の荒ぶる神の毒気にあたったとき、この水で高熱を癒したという故事から来ている。街道を歩き疲れて宿場に入った旅人たちも、清水でどんなにか癒されたことだろう。

とても趣のある場所というのに、あろうことか頭上に名神高速の無粋な擁壁が見える。高速道路は宿場町のすぐ裏手をかすめていて、かつて山の中腹にあった隣の加茂神社も、工事に支障するため、現在地に移転させられたのだそうだ。走行音はそれほど気にならなかったが、現代の感覚ではどう見ても無謀なルート設定だ。名神が建設された1960年代は開発事業優先で、こうした小さな自然にはあまり注意が払われなかったのだろう。大切な湧水が涸れなくてよかった。

Blog_contour0917
居醒の清水 (左)湧きだす現場 (右)水源の静かな池
Blog_contour0918
宿場の東端にある加茂神社

宿場の東端まで来たので、そろそろ駅へ引き返そうと思う。駅前へ通じる道筋には、ヴォーリズ建築の旧醒井郵便局が残され、観光案内所として活用されていた。開設は1915(大正4)年。列柱が支えるギリシャ神殿をモチーフにした外観で、宿場町の建物にしてはかなり大胆だ。玄関前には重要な小道具となる赤い丸形ポストも置かれているが、こちらは現役ではないらしい。

Blog_contour0919
(左)旧醒井郵便局 (右)丸形ポストがよく似合う

醒ヶ井駅の待合室で堀さん、木下さん親子と再び合流した。「だいぶお待たせしましたか」と聞くと、にこりとした堀さん。時間を気にしないまま歩いていたが、米原で別れてからもう3時間半が経過している。歩いた距離も約9kmまで延びた。

駅舎の隣で、醒井水の宿駅という地域振興施設が開いている。中の喫茶店の小さなテーブルに、本日の参加者全員が初めて揃った。居醒の清水を使って入れたというコーヒーで一息つく。堀さんからは「長い距離が歩けなくなってきたので」と、今回限りで歩き旅から引退する旨の宣言があり、これまで長い間旅を共にしてきたメンバーから、感謝と労いの言葉が発せられた。

Blog_contour0920
(左)JR醒ヶ井駅 (右)本日のメンバーが再び勢揃い

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図彦根東部(平成23年更新)及び2万分の1地形図彦根、醒井村(いずれも明治26年測図)を使用したものである。

■参考サイト
滋賀県公式サイト-近江歴史探訪マップ
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/katei/bunkazai/ohmirekishitanboumap/tanboumap4/
環境省-平成の名水百選
https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点
 コンターサークル地図の旅-胡麻高原の分水界
 コンターサークル地図の旅-中山道摺針峠

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

BLOG PARTS


無料ブログはココログ