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2015年6月 1日 (月)

コンターサークル地図の旅-江浦湾の旧隧道群

コンターサークルS「地図の旅」本州編2日目は、伊豆箱根鉄道駿豆線の伊豆長岡駅が起点になる。テーマは、駅の西方約4km、狩野川放水路の海への出口近くにある、名も無い古隧道を訪ねること。昨日の柏峠に引き続き、隧道研究家の石井さんが案内役を務めてくれる。

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長塚から多比へ通じる里道の峠に隧道が描かれている
(1:20,000地形図「韮山」「江浦」図幅、いずれも1894(明治27)年修正測図)

まずは旧版地形図で、隧道の位置を確かめておきたい。上図は放水路が影も形もなかった明治20年代の正式1:20,000地形図だ。内陸にある長塚の集落から海辺の多比(たび)へ通じる里道が、峠に隧道を伴って描かれている(青い円で囲った部分)。ここが私たちの目指すポイントなのだが、一見何でもないこの隧道には、いささか不自然な点がある。

一つは、前後の道が「荷車ヲ通セザル部」、つまり人しか通れない前近代的な道であること、二つに、標高がたかだか50~60mで、徒歩で難なく越えられる程度の峠であることだ。隧道や橋梁といった構造物を造るには高度な技術と相応の工費が必要で、おいそれと手掛けられるものではない。他に先駆けてここに隧道が存在したという事実の裏に、どんな必然性があったのだろうか。

三島駅で白地に青帯の駿豆線電車に乗換えれば、20分あまりで伊豆長岡駅だ。朝から曇り空で、午後一時雨の予報も出ていたが、それに臆することもなく、すでに多くの参加者が堀さんの周りに集っていた。石井さん、大出さん、丹羽さん、森さん、木下さん親子(息子さんは小学一年生)、それから私。まさに老若男女、合計8人。「途中道が混んでますから、すぐに出発します」と運転手さんにせかされながら、あたふたと沼津駅行きのバスに乗り込んだ。

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多比バス停で下車

青いトラスの千歳橋で狩野川を渡り、長岡温泉の狭い街路を、あみだ籤をなぞるように進んでいく。口野トンネルを出てすぐの交差点で、いよいよ海が見えてきた。バスはここで運転手の予言どおり渋滞に巻き込まれたものの、私たちの降りる多比の停留所は、もう次だ。

バス停に降り立った私たちは、石井さんの案内に従って、もと漁村だった小さな集落の中の道を山手へ歩き出す。すぐに分かれ道があった。右へ折れるのが口野方面への本道だが、私たちは左へ進む。家並みを縫う舗装道は次第に細くなり、いつしか狭い谷間を上る坂道へと変わっていった。それも、最後の住宅を過ぎると、早や踏分け道と化す。

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江浦湾付近の1:25,000地形図に、歩いたルートを加筆

枯葉が厚く積もり、しきりに足を取られるので、行軍をためらいかけていた時だ。左手の茂みの奥に、何か白いものが見えた気がした。「何かありますね」。絡み合う木の枝を掻き分けて近づくと、白く見えたのは岩の露頭に過ぎなかったが、その先に古墳の石室のような四角い空洞が口を開けていた。石の梁が渡されているのかと思ったが、そうではなく石を切り出した跡のようだ。

「たぶんこれです」と石井さん。えっ、これが隧道? 馬蹄形の坑口を想像していた一行は、にわかに信じられないようすで見つめる。内部に入ってもやはり四角い空間が続き、しかもけっこう横幅がありそうだった。地面には大小の石材が無造作に放置してある。なぜもっと合理的な形状にしなかったのだろう。

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(左)舗装道は山へ向かう (右)ついに細い山道と化す
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(左)石室のような空洞を発見 (右)実際は大人の背丈以上の高さがある

石井さんがここを調査したことがあるという友人に、電話で来歴を尋ねてくれた。それによると、この一帯は良質の石材が採れることで知られており、私たちがいる山も明治の初めに開発された石切り場だった。両側から掘り進んでいくうちに坑道が接近してきたので、経営者が通路として使うことを思い立ち、県に申請して1887(明治20)年に貫通させた。坑口を入って左手に立つ古い石碑が、その史実を証言しているという。つまり、これは初めから隧道として建設されたのではなく、坑道を転用したものだったのだ。それなら冒頭の疑問にも説明がつく。

しかし1902(明治35)年頃に南回りの新道(以下、旧県道と記す)が完成したため、隧道はしだいに使われなくなった。その後、昭和に入ってから再び石を切り出す作業場となり、その結果、現状の複雑な構造ができあがったのだそうだ。

*注 このことは、この友人の方のサイトに非常に詳細かつ丁寧に記述されている。あくなき探究心に敬意を表したい。なお、上に記した年代等はこのサイトから引用させていただいた。
http://yamaiga.com/tunnel/kutino2/main.html

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(左)内部も四角い空間 (右)由来を記した石碑

だんだん雲行きが怪しくなってきたので、山を下りることにした。集落まで戻った後、口野へ通じる歩道トンネルの入口に腰を下ろして、昼食をとる。このトンネル(多比第二隧道)こそ、石切り場ルートの役割を奪った旧県道の一部を成すものだ。1964(昭和39)年に海側に現 国道トンネルが開通するまで使われていた。近くにお住まいの方に聞けば、国道トンネルができたとき(下注)、用済みとなったこのトンネルはいったん塞がれたものの、あとで通学路として再整備されたのだという。

*注 県道沼津土肥線の一部が国道414号線に昇格したのは1982(昭和57)年だが、それ以前に実施された道路整備を含めて、ここでは表現を「国道」に統一する。

近代的な形状のポータルを観察すると、なるほど上部に古い石積みが一段分残されている。反対側で国道トンネルと合流しているため、車の騒音が大きく反響するのが難だが、内壁には小学校の卒業制作とおぼしき壁画が何年分も描かれ、このトンネルを大切にしている地元の人たちの気持ちが伝わってきた。

にわか雨が襲ってきたのを機に腰を上げ、バス停へ急ぐ。伊豆長岡駅へ帰る人もあれば、沼津駅へ出る人もあり、本日の地図の旅はここで自由解散となった。

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(左)多比第二隧道前で昼食 (右)にわか雨に急き立てられて戻る

石切り場の隧道の役割を奪った旧県道だが、1954(昭和29)年修正測量の旧版地形図を見ると、口野東方から江浦(えのうら、現行表記は江の浦)までトンネルを5本も連ねているのが特徴的だ。上述の歩道トンネルは実見できたが、あとの4本はどうなったのか。日を改めての再訪で確かめたことを補足しておこう。

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江浦湾岸に掘られた5本の旧隧道
(1:25,000地形図「韮山」、1954(昭和29)年修正測量)

歩きの起点は、長塚口のバス停にした。まずは、口野の切通しを見たかったからだ。国道から左に折れ、ラブホテルと鉄工所の前を過ぎたところで、早くも「通行止、落石の恐れあり」の看板が道を塞いでいた。予想はしていたが、全面封鎖ではなかったので突破する。半ば草むらに覆われた舗装道を上っていくと、まもなく深い切通しに差し掛かった。

おそらく隧道をうがつのにも匹敵する大工事だったに違いない。湿りを帯び、一部苔むした層状の岩壁が両側にそそり立ち、通る者を無言で威圧する。ぽつんと残るカーブミラーの先に回ると、大きな岩塊が道のまん中でぐしゃりと潰れていた。見上げると、壁の上方に岩と似た大きさの窪みがぽっかり空いている。これが通行禁止措置の原因らしい。

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口野切通し (左)口野方向 (中)長塚方向 (右)崩れた大岩が道を塞ぐ

切通しを抜けると道は一転下りになった。遠くに海を見遣りながら、三津(みと)方面から来る旧道と合流したところに御場隧道、長さ35mがある。旧県道の隧道群のうち最も東に位置するが、1962(昭和37)年の改築で2車線に拡幅が行われたらしく、昔の面影は残っていなかった。

隧道の北口は、「口野放水路」という名の交差点だ。狩野川からの分水がここで海に注ぐのだが、注目すべきは、放水路に架かる口野橋の上からの眺めだ。なんと8本ものトンネルが一望になる。試しにパノラマ写真を撮ってみた。画像にかなり歪みが生じてしまったが、なんとか「隧道が辻」の特異な全貌をご理解いただけるのではないだろうか。

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御場隧道 (左)東口 (右)西側はすぐ交差点
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「口野放水路」交差点の歩道橋から。放水路が左奥の湾に流れ込む
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「隧道が辻」のパノラマ
右から御場隧道、国道の口野トンネル、その脇に工事用の小トンネル(封鎖)、放水路の3本のトンネル、国道の多比第二トンネル+歩道用トンネル(ポータルは一体化)で計8本

橋の西側にある国道の多比第二トンネルは間口が広いが、入ってまもなく歩道用トンネルが右手に分岐する。先述のとおり、これが旧県道を構成していた長さ108mの(旧)多比第二隧道の改修後の姿だ。トンネルの途中で歩道だけ別ルートをとるというのは珍しい。

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多比第二トンネル
(左)内部で歩道用が分岐
(右)歩道用トンネル(旧 多比第二隧道)に描かれた卒業記念の壁画

多比の集落を通過し、多比神社をかすめて右斜めに坂道を少し上ると、3本目の(旧)多比第一隧道が現れる。長さは76m。東口はモルタルが吹き付けられ、そっけない外観だが、西口では精密な石積みのポータルと内壁の一部が往時のまま保存されている。歩道専用ではないが、めったに車も通らず、5本の隧道の中で最も風情がある一角だ。

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多比第一トンネル
(左)左が国道トンネル、右奥に旧隧道 (右)旧隧道の東口はモルタル塗り
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(旧)多比第一隧道西口は美しいポータルが残る

集落を通る道は、多比船越のバス停の前で国道と交差する。国道は張出し尾根を開削しているが、里道は海側で長さ30mの江ノ浦第二隧道をくぐっていた。ここも石積みのポータルが残り、通り抜けも可能だ。しかし、地山のほうは無残極まりない。国道で稜線を断ち切られた上、津波の際の避難所にすべく上部が平らにカットされたため、まるで鼠色のショートケーキだ。いくら隧道本体が無傷でも、この異様なシチュエーションはいただけない。

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無残な地山に開いた江ノ浦第二隧道

最後の江ノ浦隧道は、比較的遅くまで現役だった。私の手元にある1:25,000地形図(1974(昭和49)年修正測量)にも記載されている。それどころか、山側を切り通す国道が完成した後も、引き続き通行できたようだ。しかし今回訪れたら、すでに両側ともフェンスで閉鎖されていた。第二隧道ほどではないにしろ、取り残された小山にぽっかり空いた隧道というのは、存在意義を根元から否定されているようで哀れを誘う。

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江ノ浦隧道
(左)左へ入るのが旧道、白い家の奥に隧道東口がある (右)閉鎖された西口

ところで、印刷版地形図では長らく、御場隧道を除く4本の隧道の存在は無視されてきた。いくら総描だといっても、国道とかぶるほど近接してもおらず、相応の道幅もあるのに、まったく描かないのは不当だ。

そう思って現行「地理院地図」を見直したら、4本中2本(多比第一と江ノ浦)の記載が復活している(下記参考サイト)。自治体作成の基本図に基づいているので、これまでとは取捨選択の基準が違うようだ。それなら、多比第二の歩道トンネルも描いてもらいたいものだ。通しで歩いてみようという人が他にも現れるかもしれないから。

■参考サイト
多比付近の1:25,000地形図(地理院地図)
http://maps.gsi.go.jp/#15/35.050200/138.903200

掲載の地図は、陸地測量部発行の正式2万分1地形図韮山(明治27年修正測図)、同 江浦(明治27年修正測図)、国土地理院発行の2万5千分の1地形図韮山(昭和29年修正測量)、同 韮山(平成19年更新)を使用したものである。

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