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2015年1月31日 (土)

スイスの地形図-今昔シリーズ II

地図と航空写真で国土の過去と現在を比較する「今昔 Einst und Jetzt」シリーズの残る2点は、都市をテーマにしていた他の4点(前回の記事参照)とはかなり趣きを異にしている。どちらもスイスアルプスが舞台なのだが、1点は要塞地域に関する地図、もう1点は氷河の盛衰に関する地図だ。いずれも2013年に刊行された。

前者は表題を、「サッソ・サン・ゴッタルド-ゴットハルトの要塞地図 Sasso San Gottardo - Festungskartografie am Gotthard」とする。アルプスを越える主要な峠の一つ、ゴットハルト(下注)に焦点を当てて、かつて国土防衛のための要塞地域であったことを示す各種の地図と写真を集めたものだ。

*注 ゴットハルト Gotthard あるいはザンクト・ゴットハルト St. Gotthard はドイツ語表記。フランス語ではサン・ゴタール Saint-Gothard、イタリア語はサン・ゴッタルド San Gottardo。

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「サッソ・サン・ゴッタルド」表紙 (左)表面 (右)裏面

中面に配置された地図は数点ある。まず、この地域最初の近代測量図として、デュフール図Dufourkarteのための1:50 000測量原図(1851年)、それを同じ縮尺で刊行したジークフリート図 Siegfriedkarte(1872年)。ここまでは要塞化以前の地形図だが、その次に、要塞地図のための1:10,000測量原図(1891~92年)、そこから編集された1:10,000要塞地域特別地図 Spezialkarte der Festungsgebiete(1947年)と並んでいる。裏面には、原図の作成に用いられた空中写真や地上ステレオ写真のサンプルも掲載されている。

要塞地域特別地図「531e モット・バルトーラ Motto Bartola」図葉は、峠下のアイロロ Airoro からゴットハルト峠までを図郭に含んでいる。アルプス山中の大縮尺図という希少感もさることながら、雄大な南斜面に多数の軍事施設が描かれていて、ここをレデュイ作戦の要と定めた強い緊張感が伝わってくる。レデュイ Réduit(フランス語で要塞、砦の意)というのは、1880年代初めに連邦政府が作成した防衛計画のことで、アルプスを外国からの侵攻に対する最後の防衛線と定めたものだった。

ゴットハルト近辺では、1888年ごろからアイロロ Airolo とウルゼレン Urseren 地域で、要塞化に関連する地形測量が始まった。さらに、第一次世界大戦が始まると、砲兵隊が使用する正確な砲撃地図 Schießkarte の整備が必要になった。足場の悪い山岳地帯で迅速に作業を進めるために、正確に測量された地点から地形写真を一部重なるように撮影し、これをオートグラフ Autograph という解析機にかけて図化する地上写真測量法 Photogrammetrie の実験が行われた。この方法はゴットハルトで初めて応用され、その後しばらく、従来の平板測量方式に代わる地図製作の主要な技法になった。

第二次世界大戦でフランスがナチスドイツに降伏すると、スイスは一時、枢軸国側に完全に包囲されてしまう。外敵の侵攻がにわかに現実味を帯びるなか、配置された要塞群の強化とともに、作戦に必要な地図作成が急ピッチで進められた(下注)。大砲や弾薬は絶えず性能が改良されており、それに適応させようとすると、地図の範囲と種類は相当なものになる。想定されるあらゆる任務に備えるために、例えばゴットハルトの前線では50~70枚、重さ25kgの地図が必要とされ、1941~43年には43名が砲撃地図関連の業務に従事していたという。

*注 本ブログ「スイスの地形図略史 III-ランデスカルテ」にも関連記事がある。

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1:10,000平板測量図(要塞地図のための原図)1891~92年と
1:10,000要塞地域特別地図1947年の合成
(地図表紙の一部を拡大)

軍用図の作成には当時の最高水準の技術が注ぎ込まれていたのだが、成果はすべて「秘図 Geheim」として扱われた。機密が解かれ、一般に公開されるようになったのは、戦後60数年が経過した2009年のことだ。今昔シリーズは、軍用図とはどのようなものであったか、その一端を教えてくれる。

後者は、「氷と氷河 Eis und Gletscher」という表題とともに、「地図『最終氷期最盛期のスイス』、スイスの五大氷河の今昔」という副題が付されている。スイスアルプスの谷間を埋める氷河の過去と現在を、地形図で比較しようというものだ。

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「氷と氷河」表紙 (左)表面 (右)裏面

まず、表紙のある外面には、興味深い地図が展開されている。「最終氷期最盛期のスイス Die Schweiz während des letzteiszeitlichen Maximums (LGM)」、およそ21,000年前、最終氷期で氷床が最も拡大した時期のスイスの国土を再現する、縮尺1:540,000の地形図だ。解説を拙訳で引用する。

「『ヴュルム氷期 Würm-Eiszeit』として知られる最終氷期は、およそ115,000年前から11,500年前まで続いた。氷河はしばしばミッテルラント(中央高原)まで広がり、後氷期にアルプスの谷間へ後退した。およそ24,000年前に、スイスの氷河の面積は最大になった。ライン氷河 Rheingletscher は今日のボーデン湖地方全域を覆ってシャフハウゼン Schaffhausen に達し、ローヌ氷河 Rhonegletscher はレマン湖を覆い尽くしてゾロトゥルン Solothurn の先まで達した。アルプスの南側では、氷河舌の先端がアルプスのへりにある湖水地方の南まで届いている。『最終氷期最盛期のスイス』図は、この氷河の最大範囲を表示したものである。
最終氷期後期(20,000~11,500年前)になると、地球温暖化の結果、氷河は徐々に融けてアルプスの谷間へ後退し、続く後氷河期には、現在広がっている地域と1850年の最大値の幅で変動した。」

地図は、縮尺1:500,000地形モデルをベースにしているので、既存の1:500,000地形図と照合すると位置関係がよくわかる(下に引用した画像もそのように合成されている)。解説のとおり、ミッテルラントはほとんどが広大な氷床に覆われてしまい、地表が顔を覗かせているのは、およそエメンタール Emmental から下流のアーレ川流域とジュラ山地のみというありさまだ。一方、アルプスでは標高2000~3000m以上の高峰群が、氷床の上で骨格を露わにしているが、西の方はまだしも、東では氷床の厚みが増して、もはや山頂すら呑み込まれかけている。

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「最終氷期最盛期のスイス」図と1:500,000地形図の合成
(地図表紙の一部を拡大)

文字どおり凍りつくようなこの概観図に対して、中面では、アルプスの有名な氷河5か所、すなわち大アレッチュ氷河 Grosser Aletschgletscher、ガートマー谷のトリフト氷河 Triftgletscher, Gadmertal、下グリンデルヴァルト氷河 Unterer Grindelwaldgletscher、モルテラッチュ氷河 Morteratschgletscher、ツェルマットのゴルナー氷河 Gornergletscher の19世紀と現在の様子を地図と写真で比較する。

「世界規模における山岳氷河の劇的な後退は、地球の気候が、小氷期の終了このかた著しく変動していることを最も可視的に示すものの一つである。13世紀半ばから19世紀までの比較的寒冷な気候の期間を、小氷期という。この期間は、おおむね冬は非常に長くて寒く、夏は涼しく、氷河の成長を促す多量の降水があった。氷河の成長は、1850年に最高値に達した。それ以来、スイスアルプスではおよそ100個所の氷河が消失している。過去150年間でアルプス氷河は、表面積で1/3以上、量でたっぷり1/2を失った。最近数十年の著しい氷河後退は、景観に明瞭な痕跡を残している。」

解説が述べているとおり、19世紀半ばには麓の村に襲いかかる勢いだった氷河が、今や極端に瘠せ細り、谷の奥深くへ後退している。地図に取り上げられた5か所の中で、ここではベルニナ山群 Bernina gruppe 最大のモルテラッチュ氷河を挙げておこう。この氷河は1857年に、現在のレーティッシェ鉄道モルテラッチュ駅付近まであと100mというところまで進出した(ただし当時、鉄道は未開通)。しかし、それを境に衰退期に入り、すでに約2.3kmの長さを失ってしまった。年平均で17m、最大値を記録した2003年には77mも後退したのだそうだ。

下の3点の地図はスイストポの閲覧サイトから取得したものだが、並べると130年間のモルテラッチュ氷河の著しい変化に愕然とする。第二次大戦後の1950年でも、まだ駅から1kmの位置に舌端があったのに、2009年には、はるか南へ遠ざかり、かつ見る影もないほどボリュームが減退してしまった。U字谷を遡る登山道は、氷河が退いた跡に作られたもので、昔はなかったことがわかる。レーアプファート Lehrpfad(学習歩道)になっているこの道には、氷河の舌端があった場所を示す標識が点々と設置されており、それを追いかけながら、駅から現在の末端まで歩くと1時間近くかかる。

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(左)1:50,000地形図(ジークフリート図)
サン・モリッツ St. Moritz 1875年およびベルニナ Bernina 1877年
(中)1:50,000地形図(ランデスカルテ初版)ユリアーパス Julierpass 1950年
(右)同 2009年

このように今昔シリーズは、地表の状態を長年にわたって記録し続けている地形図ならではの、様々な利用法を提示している。今回紹介した2種は、解説が独・仏・伊・英の4か国語で表記されているので、読み解くのも比較的容易だ。これらは前回の図と同様、連邦地形測量所スイストポのオンラインショップ(英語版なら Maps > Historical Mapsのくくり)で扱っている。

使用した地形図の著作権表示 (c) 2015 swisstopo.

★本ブログ内の関連記事
 スイスの地形図-今昔シリーズ I

 スイスの地形図略史 II-ジークフリート図
 スイスの地形図略史 III-ランデスカルテ
 スイスの1:50,000地形図

2015年1月26日 (月)

スイスの地形図-今昔シリーズ I

ランデスカルテ Landeskarte と呼ばれるスイスの官製地形図のことはすでに記した(下注1)が、刊行元の連邦地形測量所スイストポ Bundesamt für Landestopographie Swisstopoは他にも興味深い地図出版物を世に送り出している。その一つが、地図と航空写真で国土の過去と現在を比較する「今昔 Einst und Jetzt」シリーズ(下注2)だ。今のところ6点刊行されているが、今回はそのうち主要都市の発展をテーマにした4点を見てみたい。

*注1 こうした区分図については、本ブログ「スイスの地形図-概要」「スイスの1:25,000地形図」などを参照。
*注2 本文ではドイツ語表記を掲げたが、仏語表記はHier et aujourd'hui、英語表記はOnce and Today。

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今昔シリーズ初代表紙 (左)ベルン 1995年版 (右)バーゼル 2000年版

シリーズの発端は、1995年に刊行されたベルン Bern 図葉だった。そのときは単発の企画ものかと思われたが、2000年にバーゼル Basel 図葉が追加され、2008年には既刊2都市の改訂版に加えて、ジュネーヴ Genève、チューリッヒ Zürich の2都市が、装いも新たに登場した。どの図葉も基本的な構成は同じで、都市とその周辺を対象に、19世紀中ごろの1:25,000着色測量原図と最新の1:25,000地形図、1930年代と現代の空中写真を、それぞれ対比させている。

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今昔シリーズ2代目表紙
左からベルン、バーゼル、ジュネーヴ、チューリッヒ いずれも2008年版

地図ファンとしては、とりわけ19世紀の測量原図が興味深い。これは当時、軍参謀本部長だったギヨーム=アンリ・デュフール Guillaume-Henri Dufour が指揮して、縮尺1:25,000(ジュラとミッテルラントおよびティチーノ南部)または1:50,000(アルプス)の精度で実施された地形測量、いわゆる「初期測量 Originalaufnahme」の成果だ。掲載されているものと同じチューリッヒの部分図が下記参考サイトに上がっているので、ご覧いただきたい。道路や鉄道は黒、集落は赤、川や湖は青、森は緑と明確に色分けされ、地勢は茶色の等高線で描かれている。精緻で見た目にも美しく、現代の地形図と比べても遜色のない出来栄えであることがわかるだろう。

■参考サイト
デュフール図のための1:25,000測量原図-チューリッヒ(1846~51年)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dufourkarte_Zürich.jpg

この原図をもとにして、スイス最初の近代測量による全国地形図、いわゆる「デュフール図 Dufourkarte」25面が製作されていくのだが、その際、広域が1面に収まるように縮尺は1:100,000に縮小され、等高線はケバ表現に変換され、刷り色は黒の単色になった(下注)。「スイス様式 Schweizer Manier」として諸外国でも高い評価を受けたことは理解しつつも、カラフルな現代の地図に慣らされた目には、測量原図のほうがずいぶんと判りやすく映る。

*注 デュフール図については、本ブログ「スイスの地形図略史 I-デュフール図」にあらましを記した。

デュフール図は最近、連邦地形測量所の公式サイトで画像公開され始め、容易にその全貌を知ることができるようになった。しかし、測量原図については、まだそこまでのサービスは提供されていない。その意味で、市街の範囲や郊外の道路網、集落分布、土地利用などを1:25,000という高い精度で比較できる今昔シリーズの存在は、今もってなかなか貴重なのだ。

では、測量原図には何が描かれ、何が読み取れるのだろうか。

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ベルン市街 測量原図(左)と最新図(右)の合成
(地図表紙の一部を拡大、以下同じ)

まず、ベルン図葉を見てみよう。この地域の測量原図(以下、旧図という)は、4都市の中で最も遅く1854年に製作されている。ベルンの町は、アーレ川 Aare が刻む深い谷で北、東、南の三方を囲まれた要害の地に発達した。西側だけは平地が続き、防衛上の弱点だったため、星形の堡塁が築かれた。旧図にもその一部が描かれている。

市街の範囲はまだ囲壁内にとどまっているものの、西縁ではすでに変化が見られる。すなわち、東から来た鉄道が、市街に接して行止りの構造(頭端式)の駅を設けているのだ。また、西方への路線延長に当たって、撤去された城壁の一部が鉄道用地に転用されたことが読み取れる。後にこの初代駅舎は、本線上の現在地へ移転することになる。なお、鉄道が開通したのは1858~60年なので、図中の鉄道記号は図面が完成してから補記されたものだ(他の3都市も同様)。

一方、郊外は小さな集落が点在するだけだ。土地利用について、旧図では軍事上の必要性から樹木で覆われているか否かだけを区別して描いているので、厳密には畑か牧場か、それとも原野なのかはわからないのだが、少なくとも囲壁を一歩出れば、遠く山裾まで見渡せただろうと想像できる。

最新図との比較で驚くのは、150年の時を隔ててなお、淡い緑に塗られた森の範囲にほとんど変化がないことだ(これも他の3都市に共通する)。雑木林も田園も根こそぎ宅地に変えたわが国とは違い、市街地化したのは牧草地か畑だったところで、森はしっかり保存されている。唯一の例外は、市街北西にある広大なブレムガルテン森 Bremgartenwald を貫通するハイウェーだ。市街地がすでに森の際まで達していたので、新たに道路を通す場所を確保できなかったのだろう。

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バーゼル市街

バーゼルの場合は、既成の測量図が存在したので、デュフールはそれを1:25,000に修正して利用した。シュタット(市街)は1836年、ラントシャフト(郊外)は1839年に完成している(下注)。市街地はライン川 Rhein の左岸に位置し、旧図では、いびつな形をした囲壁に護られている。四方から街に向かって道がまっすぐ延び、そこを通って物資が街に集積する様子が目に見えるようだ。

*注 バーゼル州は利害対立が原因で、1833年にバーゼル・シュタット Basel-Stadt とバーゼル・ラントシャフト Basel-Landschaft の「準州 Halbkanton」に分裂したまま、現在に至る。

ラインの対岸にあるクラインバーゼル Kleinbasel との間は、中橋 Mittlere Brücke で結ばれている。橋に添えられた764という数字は、フランス・フィート(ピエPied、1ピエ=0.324m)による標高値だ。一方、ラントシャフトの図の標高値は、メートル単位で記載されているという。左上のBahnhof(駅の意)の注記は、1844~45年に建設されたストラスブール=バーゼル鉄道 Chemin de fer de Strasbourg à Bâle の終着駅だが、今は存在しない。

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ジュネーヴ市街

ジュネーヴは、デュフールが育った町であると同時に、連邦地形局長として測量と地図作成を最初に指揮した記念すべき土地でもある。彼は既存の土地台帳をもとに追加測量を行って、1838年にジュネーヴ州地形図 Carte topographique du Canton de Genève 全4面を刊行した。掲載されているのはその一部だ。

町はレマン湖 Lac Léman からローヌ川 Rhône が流れ出す地点を押さえていて、旧図では、とりわけ今は無き星形要塞の立派さが目を引く。南を流れるアルヴ川 Arve の左岸にカルージュ Carouge の町があるが、連邦地形局のオフィスはここに設けられた。最新図ではすっかりジュネーヴ側から溢れ出た市街地と一体化してしまっている。

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チューリッヒ市街

チューリッヒの地形測量は1843~51年に、ヨハンネス・ヴィルト Johannes Wild の指揮のもとで実施され、その成果はデュフール図の原図(参考サイトは上述)になるとともに、州独自の1:25,000地形図として刊行された。後者は「ヴィルト図 Wild-Karte」と称される(下記参考サイト)。

■参考サイト
ヴィルト図のチューリッヒ北部(1848年)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wildkarte_Zürich_Nord.jpg
ヴィルト図のチューリッヒ南部(1848年)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wildkarte_Zürich_Süd.jpg

この町も、ジュネーヴ同様、湖からリンマート川 Limmat が流れ出す場所に築かれた。平地に連なる街の西側は、ジール川 Sihl と濠で二重の防衛線が張られていた。旧図には、葉脈のように小路が細かく入り組む市街地が精密に描かれていて、その赤色と周囲に散らばる庭園の緑との対比がひときわ鮮やかだ。

郊外のリンマート川沿いには、水車小屋 Mühle(図中では M..le と略記)や更紗染め工場 Kattundruckerei(Kttd. と略記)が並び、湖岸の丘陵地には一面、葡萄畑(薄いグレーの塗り面)が広がっている。それに比べて、湿地が残るジールフェルト Sihlfeld(ジール川沿いの原野)はまだほとんど手つかずだが、1847年開通のスイス北部鉄道 Schweizerische Nordbahn が一直線に横断し、やがて来る開発の波を予感させている。

都市を覆う1世紀半の時の隔たりを解き明かしてくれるこのシリーズは、連邦地形測量所スイストポのオンラインショップ(英語版なら Maps > Historical Mapsのくくり)で扱っている。
(2006年2月21日付「スイスの都市いまむかし」を全面改稿)

使用した地形図の著作権表示 (c) 2015 swisstopo.

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 スイスの地形図-今昔シリーズ II

 スイスの地形図略史 I-デュフール図
 スイスの地形図-概要
 スイスの1:25,000地形図
 スイスの新しい1:25,000地形図

2015年1月12日 (月)

MGBシェレネン線と悪魔の橋

アルプスの南へ行くSBB(スイス連邦鉄道)の優等列車に乗り、チューリッヒからだと1時間半もすれば、車窓はいよいよ深い山あいの風景に変わる。谷川を高い橋梁で渡り、スパイラルやジグザグループまで駆使して上り詰めたところが、ゲシェネン Göschenen の駅だ。目の前にアルプスを貫くゴットハルトトンネル Gotthardtunnel(下注)のポータルが2つ口を開けている。

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車窓から悪魔の橋を望む

*注 ゴットハルトトンネルは、1882年に開通した長さ15003mの鉄道トンネル。ゴッタルドと呼ばれることも多いが、これはイタリア語のGottardoから来ている。

SBBの列車はそのままこの長大トンネルに入ってしまうが、駅舎の外側では、アンデルマット Andermatt 方面へ行く列車が乗換え客を待っているだろう。今回のテーマは、この列車が挑むゲシェネン~アンデルマット間の鉄道路線の話だ。

路線は、マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn (MGB) に属している。しかし、この社名になったのは2003年と比較的新しく、それまではフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn (FO) と言った(下注)。筆者などは今でもその名に親しみを覚えるが、時代をさらに遡れば、FOの傘下に入ったのは1961年で、古くは「シェレネン鉄道 Schöllenenbahn」という独立した鉄道会社が運行していた。シェレネンというのは、鉄道が遡る谷の名だ。現在MGBでは個々の路線名をつけていないようだが、この稿では氷河急行が走る「FO本線」と区別するために、ゲシェネン~アンデルマット間を「シェレネン線」と呼ぶことにしたい。

*注 フルカ・オーバーアルプ鉄道とブリーク=フィスプ=ツェルマット鉄道 Brig-Visp-Zermatt-Bahn (BVZ) が2003年に合併してMGBが誕生した。

シェレネン線はメーターゲージ(軌間1000mm)で、交流11500V、16.7 Hzの電化路線だ。距離は短く、3.7kmしかない(下注)。ところが、標高は起点ゲシェネンの1106mに対して、終点アンデルマットでは1436mもある。330mの高度差をこの距離で克服するには、アプト式ラックレールを使った最急179‰という登山鉄道並みの急勾配が必要だった。MGBの路線群には随所にラックレール区間が見られるが、その中で最も急な坂道になる。

*注 "Eisenbahnatlas Schweiz" Verlag Schweers+Wall, 2012による。なお、MGBの公式サイトではAndermatt–Göschenen 3.5kmとある。

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MGBシェレネン線 周辺図
スイス官製1:50,000地形図 ズステン峠 Sustenpass 図葉の一部を使用

1882年に開通した標準軌のゴットハルト鉄道にも、今のルートの他に、アンデルマットまで上ってからトンネルを掘るという案があったらしい。しかし、通常のレール(粘着式)で達成するには、さらにいくつかの大ループを構える必要があっただろう。実際のところゴットハルト鉄道は、ロイス川の遡行をゲシェネンで諦めて、トンネルに潜り込んだ。川の上流を極めるという願いは、別の鉄道に託されることになる。

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シェレネン線の最初のプランはすでに1890年から発表されていたが、実現に向かったのは1903年に技師リヒャルト・チョッケ Richard Zschokke が提案したものだった。銀行のほか、電気機関車の製造元ブラウン・ボヴェリ社などからも出資を募って、1913年にようやく着工まで漕ぎつけた。当時、後のFO線であるフルカ鉄道 Furka-Bahn はまだ工事中だったが(下注)、アンデルマットで車両の乗入れができるように、仕様が調整された。ラックレールは同じアプト式とされ、アンデルマット駅の位置もFOの計画に則っている。唯一FOと異なるのは、最初から電気運転だったことで、直流1200Vが採用された。

*注 1914年オーバーヴァルト~グレッチャー間開業、1926年全線開業。

工事は、決して順調ではなかった。山間の悪天候に作業員不足が重なり、着手が遅れたところへ、翌1914年には第一次世界大戦が勃発して、もはや中断寸前にまで追い詰められた。しかし、ゴットハルトは要塞地域だったので、鉄道の戦略的重要性を認めた軍当局から支援を受けて、工事が続けられた。こうして、シェレネン鉄道は1917年7月に何とか開通を迎えたのだった。戦時中のため盛大な開通式典は許されず、ささやかな出発式だけが行われたそうだ。

運行は始まったものの、工事遅延に伴う大幅な予算超過が、会社の経営を圧迫していた。そのうえ戦争が終わると、軍事輸送が激減した。1919年は晩秋に大雪が降り、除雪に手元資金を使い尽くした会社は、12月に運行中止の決断を余儀なくされる。やむなく連邦郵政省が乗り出し、冬季の運行経費を肩代わりした。

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アンデルマット駅周辺の地形図
(左)シェレネン鉄道単独の時代。駅は現在と同じ位置にある(地図は1921年版)
(右)FO開通後(同 1965年版)
スイス官製1:50,000地形図アンデルマット Andermatt 図葉の一部(左)および1:25,000地形図ウルゼレン Urseren 図葉(右)の一部を使用

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シェレネン谷の地形図
スイス官製1:25,000地形図
ウルゼレン Urseren 図葉の一部を使用

事態が好転したのは、1926年に待望のFO線が開通してからだ。シェレネン鉄道は、SBBゴットハルト線とFOを結んで、予定していた連絡機能を果たせるようになった。1928年にはゲシェネンで、SBBとの間で貨物を受け渡す設備が完成している。再び世界大戦が始まると、燃料逼迫の憂慮から、蒸機運転のままだったFOの電化が推進された。電化方式は、直通するレーティッシェ鉄道の交流11500V 16,7 Hzに合わせることになった。それに伴い、シェレネン鉄道も、発注した電気機関車の納入を待って、1941年に直流から交流へ切替えられた。

戦争中はガソリン不足で好況を呈したものの、終戦により利用者数は再び落ち込んだ。代わりに台頭してきた自動車交通との競争に喘ぐようになるのは、小規模の鉄道路線が共通して受けた試練だ。シェレネン鉄道も収益が思うように上がらず、1956年から赤字に転落していく。そして1961年、苦境に陥った鉄道はついにFOと合併する道を選び、ほぼ50年の歴史を自ら閉じた。車両はすでに共通運用が進んでいたが、ブルーグレーとクリームの独自色だった車両は、FOの赤一色に塗り変えられた。それ以来、シェレネン線はFO(現 MGB)の一路線として運行されている。

SBBゲシェネン駅は、谷間に造られたにしては構内が広々としている。ホームに降り立って周囲を見回しても、乗換えるべきアンデルマット Andermatt 方面の列車はどこにもいない。それもそのはず、シェレネン線の乗り場は、駅舎の前(SBBホームから見ると裏側)にあるのだ。地下通路を渡って再び地上に上がると、駅舎の軒先を間借りしたような小さなホームで、小振りの赤い列車(下注)が待っているはずだ。

*注 乗車した2013年当時、シェレネン線の列車はアンデルマットからブリーク Brig、フィスプ Visp へ直通しており、ディゼンティスへ行く旧FO線よりも本線のように扱われていた。乗客の流動に沿った措置かと思われたが、2015年の新ダイヤではアンデルマット乗換えに戻ってしまった。

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(左)SBBゲシェネン駅、正面はゴットハルトトンネル
(右)駅舎の前にあるMGBシェレネン線のゲシェネン駅
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(左)簡素な車内 (右)ブリーク~ゲシェネン直通のサボ(帰路写す)

ゲシェネンを発車すると、すぐにラックレール区間が始まる。ゴロゴロと低い音を立てながら、SBBの広いヤードの脇をぐいぐい上っていくので、SBBの線路とはたちまち高低差がついてしまう。左に、ロイス川が現れる。青白い雪解け水が、河原に転がる白い大岩の間を勢いよく流れ落ちている。ゴットハルトトンネルのポータルを左に見送ると、列車は車輪をきしませながら右に転じて、いよいよシェレネン谷の遡行にとりかかる。谷壁は両側とも仰ぐ高さにまで切り立ち、岩肌が剥出しの荒々しい姿を見せている。これからの行路が尋常なものでないことは、誰もが感じるところだ。

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(左)発車するとたちまち急坂に (右)ゴットハルトトンネルのポータルを見送る
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ゲシェネン駅遠望

二つ目の橋を渡って再度川を左にすると、まもなく列車は、落石や雪崩を避けるシェッド(覆道)に入ってしまう。途中にあるシュタインレケーア Steinlekehr 信号所では、しばしば列車交換がある。しばらくシェッドとトンネルが続くが、その中で列車はゆっくりと、しかし着実に高度を上げていく。これがどれぐらいの急勾配かは、横を走る道路が追いつくためにヘアピンカーブを何度も重ねているのを見れば一目瞭然だ。最後の長い暗闇の間に、カメラを用意しておこう。闇を抜けた途端、車窓左側に有名な悪魔の橋が見えるからだ。

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(左)カーブと勾配の難路 (右)大岩が転がるロイス川
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(左)シェッド(覆道)が連続 (右)シュタインレケーア信号所で列車交換

垂直に切り立つ深い谷間に、みごとなアーチ橋が2本架かっている。これが悪魔の橋だ。そのうち上方にあるスパンの長いほうが3代目、1958年に建設された2車線の道路橋だ。下にあるのは2代目、1830年に造られた石造橋で、谷間に石垣を高く積んで足場を造り、高いアーチで谷川をまたぎ越している。とすると、初代の橋はどこにあるのか。

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(左)悪魔の橋、上が3代目、下が2代目。左下の遊歩道を行くと橋のたもとに出られる
(左)上流から望む

初代は1595年に、それまでの木橋に替えて造られたのだが、1888年の嵐で崩壊して、今は左岸に基礎だけがわずかに残っている。見るからに険しい渓谷に人の手で橋を架けるのは大変な困難を伴った。土地の伝説によると、ある日、村人の前に悪魔が現われてこう言ったそうだ。「橋を造ってやろう。その代り、最初に橋を渡った者の魂は俺がいただく」。彼らは取引を受け入れた。

3日後、できあがった橋の向こう側に悪魔が座り、報酬を待っていた。村人たちは一計を案じ、人間の代わりにヤギを一匹送り出した。「約束が違うぞ」。激怒した悪魔は、橋を壊そうと大岩に手を掛けた。そのとき小さな老女がやってきて、石に十字架を刻んだ。十字架を目にした悪魔は、とたんに投げる方向を見失った。岩はゲシェネンから遠くない谷間に落ち、それ以来そこにあるという。

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ゲシェネン付近の地形図。図上方に Teufelstein(悪魔石)の注記がある
スイス官製1:25,000地形図ウルゼレン Urseren 図葉の一部を使用

大岩は、実際にゲシェネンの高速道路の脇に存在し、悪魔の石 Teufelsstein と呼ばれている(下注)。もとはここから127m離れた場所にあったのだが、高速道路建設の用地と重なるため、1973年に現在地に移されたのだ。重さが2000トンもあり、曳家の要領で移動させるのに30万スイスフランもの費用がかかった。完成したゴットハルト道路トンネルで事故が多発したため、地元の人々は石を動かしたせいだ、と噂したそうだ。

*注 地形図には Teufelstein(悪魔石)とあるが、本稿では下記観光局のサイトに従い、Teufelsstein(悪魔の石)と表記する。

■参考サイト
アンデルマット=ウルゼレン谷観光局公式サイト-悪魔の橋(英語版)http://www.andermatt.ch/en/erlebnisse/schoellenen/Teufelsbruecke
 
初代悪魔の橋の絵
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Teufelsbrücke_UR.jpg
二代目悪魔の橋とシェレネン沿線の空撮(1934年)
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:2.Brücke_1934.jpg
移設前の悪魔の石
http://de.wikipedia.org/wiki/Datei:Teufelsstein_alt.jpg
移設後の悪魔の石
http://www.panoramio.com/photo/9673154

悪魔の橋を後にして、列車は三たびロイス川を渡る。道路併用の大きなシェッドを出るところで、長く続いたラック区間がようやく終わる。右手車窓に、周囲を高い山に囲まれたウルゼレン Urseren の盆地が広がるようになれば、終点アンデルマットはまもなくだ。

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(左)ディゼンティスからの線路と合流 (右)アンデルマット駅

■参考サイト
マッターホルン・ゴットハルト鉄道(MGB)公式サイト
http://www.matterhorngotthardbahn.ch/
Die schmale Spur - Die Schöllenenbahn
http://www.schmalspur-europa.at/schmalsp_73.htm
Andermatt-Urserntal Tourismus http://www.andermatt.ch/

使用した地形図の著作権表示 (c) 2015 swisstopo.

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