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2014年11月11日 (火)

ブリエンツ・ロートホルン鉄道 I-歴史

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ゲルトリート信号所での列車交換

旅行者を見晴らしのいい山頂へ案内してくれる登山鉄道は、スイスアルプスの観光シーンに欠かせない存在だ。先駆けとなったリギ鉄道をはじめ、この種の鉄道の多くは蒸機運転でスタートしたが、20世紀前半までにほとんどが電化工事の洗礼を受けた。今や蒸気機関車が定期運行を担っているのは、ベルン州のブリエンツ・ロートホルン鉄道 Brienz Rothorn Bahn (BRB) だけになってしまった(下注)。

*注 ラック式蒸機による定期運行ということなら、ほかにフルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke(本ブログ「フルカ山岳蒸気鉄道 I-前身の時代」ほか2編で詳述)があるが、これは峠を乗り越えていく「山越え鉄道」に類する。

電化が進んだのは、輸入に依存する石炭燃料に対して、自給可能な水力を利用した電源開発が、国策として奨励されたことと関係する。電気運転への切替えで輸送力が高まり、無煙化に伴って旅の快適度も向上した。アルプスの展望台はあちこちにあり、それぞれ集客上はライバル同士なので、旧来の運行方式では明らかに不利な戦いを強いられるはずだ。それでもBRBが蒸機を温存してきた理由はどこにあるのだろうか。いつものように歴史を紐解くことで、その疑問に答えていこうと思う。

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1871年に開通したリギ鉄道の商業的成功によって、スイス国内では登山鉄道ブームに火が付いた。さまざまなプランが雨後の筍のように提案された中に、ブリエンツァー・ロートホルン Brienzer Rothorn へ上るラック式鉄道の構想があった。ブリエンツァー・ロートホルン(下注。以下、ロートホルンと記す)は、インターラーケン Interlaken の北東20kmにある山だ。標高2350m、エメンタールアルプス Emmentaler Alpen の最高峰で、眼下のブリエンツ湖と雄大なアルプスを一望にできる場所として人気があった。

*注 ブリエンツァー・ロートホルンは、ブリエンツの赤い尖峰という意味。ロートホルンと呼ばれる山が他にもあるため、地名を冠して区別したもの。

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ブリエンツ・ロートホルン鉄道周辺図
スイス官製1:50,000地形図インターラーケン Interlaken 図葉の一部を使用

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ブリューニック線がブリエンツ止りの時代の地形図
スイス官製1:50,000地形図ブリエンツ Brienz 図葉(1905年版)の一部を使用

路線は、湖畔の村ブリエンツ Brienz を起点に、アプト式ラックレールを使って山を上り、山頂直下のロートホルン・クルム Rothorn Kulm に達するというものだった。出だしは順調で、1889年12月に建設及び運行の認可が下り、翌90年5月には鉄道会社が設立された。社債の募集に対して予定の3倍、株式には87倍もの申込みがあったという。

工事は同年8月初めに着手され、気候の厳しい冬場も続けられて、91年末までにほぼ完了した。1892年6月の開通式には、SLM社製のH 2/3形蒸気機関車4両と、開放式客車と箱型客車各2両が勢揃いして、遠来の招待客を迎えた。会社では、年間少なくとも12,000人の利用者を期待していたが、思いのほか現実は厳しく、1年目は6000人に届かなかった。そのため翌年、早くも資金繰りに行き詰り、あえなく会社は倒産してしまう。

*注 SLM社の正式名称は、ヴィンタートゥール・スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiven und Maschinenfabrik Winterthur。蒸機製造部門は2000年に分社化され、現在DLM蒸気機関車機械工場 Dampflokomotiv- und Maschinenfabrik DLM を名乗る。

経営権が工事を請負った建設会社の手に移った後も、利用者数は伸び悩んだ。なぜ、当初の見込みが外れてしまったのか。理由の一つはアクセスの悪さだ。ブリエンツには、登山鉄道が開通する4年前の1888年に、ルツェルン方面から鉄道が到達していた。現在のツェントラル鉄道ブリューニック線 Brünigbahnだ(下注)。しかし、ブリエンツ以西へ延長されたのは28年も後の1916年で、それまでインターラーケンとの間は蒸気船による湖上連絡に頼っていた(右図参照)。

*注 ブリューニック線は、1888年 6月にジュラ・ベルン・ルツェルン鉄道 Jura-Bern-Luzern-Bahn がアルプナッハシュタート Alpnachstad ~ブリエンツ間を開業したのが始まり。翌89年、ルツェルンまで延長。

理由のもう一つは、アルプスにより近い展望台が次々と開発されたことだ。1895年にはインターラーケンの近くにシーニゲ・プラッテ鉄道 Schynige Platte-Bahn が開通し、1898年には、ユングフラウ鉄道 Jungfraubahn も一部区間で運行が始まった(下注)。ベルン方面からの観光客は主としてそちらに流れ、湖を渡ってまでして訪れる人は少なかったのだ。

*注 ユングフラウ鉄道は1898年に、クライネ・シャイデック Kleine Scheidegg からトンネルに入る直前のアイガーグレッチャー Eigergletscher までの区間で暫定開業した。ユングフラウヨッホ Jungfraujoch まで延びたのは1912年。

それでも1900年に新会社が設立された頃から、利用者の増加傾向が定着する。年によっては5万人を超えるほどになった。しかし、山岳鉄道の宿命で線路や施設の改修費がかさみ、さらに悪天候による運行不能が相次ぐなどで、収益は容易に改善しなかった。1911年、BRBは再び経営難に陥り、その後、経営者が転々とする。さらに1914年に第一次大戦が勃発すると、観光需要が激減してしまい、その年の運行は8月初旬で早々と中止になった。結局鉄道は、そのまま長い休止期間、ドイツ語の慣用句で言う「いばら姫の眠り Dornröschenschlaf」についてしまう。

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ブリューニック線ブリエンツ駅の今昔
(左)開通当時(125周年記念掲示より) (右)2014年8月

1918年に木材搬出のために、中間駅のプランアルプ Planalp まで貨物輸送が復活したものの、戦争が終結しても全線再開の見通しは一向に立たなかった。それどころか、屑鉄価格の高騰を背景に、施設の売却を求める株主もいて、廃止の決断は時間の問題と思われた。

しかし、地元ブリエンツ村は、あくまで再開を求める姿勢を崩してはいなかった。1920年代後半になって、チューリッヒの資本家たちが山頂ホテルの再興を企てたことから、事態はにわかに動き出す。村からの拠出金で、荒廃した路盤の修復工事が開始された。傷んだ駅舎の改修、古くなった整備工場や車庫の設備更新も行われた。さいわい、休止中も最低限の保守作業が続けられたおかげで、車庫に留められていた車両の状態は比較的良好だった。こうして1931年6月、ついに鉄道は16年間の深い眠りから目覚めることができたのだ。

結果は、関係者の予想以上だった。全通済みのブリューニック線を通じて観光客が押し寄せ、戦前の記録はたちまち塗り替えられた。まもなく輸送力不足が指摘され、対策を立てる必要に迫られた。この頃までに近隣の登山鉄道は続々と電化に踏み切っていたが(下注)、復活に資金を費やしたBRBには追加の大規模投資を行う余裕がない。当面、運用車両の増強でしのぐことにして、1933年と36年に、計2両の新造蒸機(6、7号機)と客車が発注された。既存の旧形機4両(2~5号機)は、高出力の過熱式に改造された。

*注 1907年にアルト=リギ鉄道が電化、その後、1909~10年にヴェンゲルンアルプ鉄道、少し間を置いて、1937年にフィッツナウ=リギ鉄道とピラトゥス鉄道も電化を完了した。

戦後、ようやくBRBでも動力近代化の検討作業が始まった。沿線で雪崩が頻発するため、地上設備の必要な電化案は退けられ、ディーゼル化をめざすことになった(下注)。スイス南部のモンテ・ジェネローゾ鉄道 Ferrovia Monte Generoso と前後して、1950年代に初めて気動車5両が導入されている。

*注 電化されたフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn(現 マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn)の旧フルカ峠区間では、雪崩対策として、冬は運行を休止して架線と架線柱を撤去し、春に復元する作業を毎年繰り返していた。

それと並行して、鉄道の将来を左右する議論も巻き起こった。旧式の蒸気鉄道を一掃して、最新のロープウェーに転換するというものだ。1958年の年次株主総会では全会一致で、運行効率の良いロープウェーの建設計画をまとめるよう決議がなされている。しかし、途中のプランアルプへの交通手段がなくなるとして地元は反対に回り、蒸機運転への人気の高まりを察知して、会社も積極的には動かなかった。1970年、最終的にロープウェー案は撤回された。

ロープウェーに関しては、別の論争もあった。現在、BRBとは反対側(北側)の斜面をロートホルン山頂まで上ってくるロープウェーがある。これは1971年に開通したゼーレンベルク=ロートホルン ロープウェー Luftseilbahn Sörenberg-Rothorn だが、建設計画が発表されると、BRBは真っ向から反対を唱えた。なぜなら、北側には鉄道アクセスこそないが、車で来る客にとってはむしろ近道で、営業上、深刻な脅威になると考えたからだ。連邦当局はいったん申請を却下したものの、今度は推進する立場のゼーレンベルク村から強い抗議を受ける。結局、輸送損害が立証された場合は補償するという条件を付して、計画は逆転認可されることになった。BRBは、ここでは新たな現実との妥協を余儀なくされた。

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(左)湖に面するブリエンツの町(BRB車窓から撮影)
(右)山脈の北側ゼーレンベルク村。左下をロープウェーが上ってくる

ロープウェー問題が決着すると、次に浮上してきたのは、車両の老朽化という課題だ。古い蒸気機関車を延命させるためにも、代替機の導入が必要だった。1970~80年代にディーゼル機関車計3両(Hm 2/2形9~11号機)が調達され、仕業準備の時間が短縮できる利点を生かして、早朝・夜間の定期運行や臨時の資材輸送に使われてきた。

さらに、90年代に入ると、油焚きの新型ラック式蒸機が登場する。これもSLM社が開発したもので、外見は旧来機と変わらないが、客車2両を推し上げる能力をもち、缶(かま)焚き役の機関助士を不要とする画期的なものだった。

開通100周年である1992年にH2/3形試作機1両(12号機)が納入され、高評価を得たことから96年に2両(14、15号機、下注)が追加された。各機関車にはそれぞれ記念のプレートが掲げられている。12号機は地元ベルン州 Kanton Bern の、14号機はブリエンツ村 Gemeinde Brienz の、そして15号機はこの年にブリエンツと姉妹都市になった静岡県金谷町(広域合併で現在は島田市)の紋章だ。

*注 13号は欠番になっている。

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(旧)金谷町の町章を掲げる15号機

1992年の試作機は、BRBのほか、モントルー=グリオン=ロシェ・ド・ネー鉄道 Chemin de fer Montreux–Glion–Rochers-de-Naye (MGN) とオーストリアのシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn にも各1両が納入されていたが、MGN機はその後2005年にBRBが買取り、16号機になった。現在、定期運行の主役はこれら新型蒸機が担っている。

ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、長い休止期間があったために電化の潮流から取り残された。しかし、逆に蒸気運転の希少価値を看板に掲げることで、単なる山頂への輸送手段にとどまらず、観光アトラクションとしての地位を獲得することに成功した。筆者は昨年、この鉄道に乗車してその魅力を体感する機会があったので、次回それを詳しく見ていきたい。

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BRBの広告ポスター

この記事は、Florian Inäbnit "Schweizer Bahnen, Berner Oberland" Prellbock Druck & Verlag, 2012、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
使用した地形図の著作権表示 (c) 2014 swisstopo.

■参考サイト
BRB公式サイト http://www.brienz-rothorn-bahn.ch/
DLM AG(機関車製造会社) http://www.dlm-ag.ch/
ブリエンツ自治体公式サイト http://www.brienz.ch/
狭軌鉄道ヨーロッパ(ファンサイト)http://www.schmalspur-europa.at/

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