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2014年3月31日 (月)

フルカ山岳蒸気鉄道 III-ルートを追って

アルプスの十字路といわれるアンデルマット Andermatt に宿を取るなら、目指す保存鉄道はすぐ近くだ。朝食をゆっくり楽しんでから、MGB線(下注)9時37分発のフィスプ行き電車に乗っても、午前の便に間に合う。昨年(2013年)8月に現地を訪れたので、そのときのメモと写真をもとに、フルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke(以下、DFB)のルートを追ってみよう。

*注 MGBは、マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn の略称。ブリーク=フィスプ=ツェルマット鉄道 Brig-Visp-Zermatt-Bahn (BVZ) とフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn (FO) が2003年に合併して誕生した。

アンデルマットから西へ2駅、レアルプ Realp には9時50分に着いた。DFBの乗場までは少し距離がある。駅から左側の道に出て上流方向へ歩き、跨線橋を渡るのが早い。DFBのレアルプ駅は2面3線で、1番線に面して小ぢんまりした駅舎と、赤い客車を再利用したささやかなカフェがある。

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(左)DFBレアルプ駅 (右)発車案内、本日2便(右が筆者たちの乗る列車)

列車は要予約なので、旅行前に公式サイトの予約画面で済ませておいた(下注)。結構人気があるから、早めの行動がお薦めだ。ただ、残念ながら英語表記は不完全で、ドイツ語とのおつきあいを覚悟しなくてはならない。また、サイトには決済機能がついていない。送られてくる予約確認メールをプリントしておき、駅の出札窓口で提示して、切符を買うしくみだ。もちろんクレジットカードも使える。スイスパスなどの併用割引はないが、同伴する16歳までの子は1家族4人まで無料になる。

*注 予約は、公式サイト https://www.dfb.ch/ 左メニューのDampfbahn(蒸気鉄道) > Reservation

2013年の運行日は6月22日から10月6日まで。レアルプ発は1日2便で、このうち10時15分発は毎日、14時15分発は土・日曜のみの運行だ。また前者は、オーバーヴァルト Oberwald までこの列車に乗り通すコースと、グレッチュ Gletsch で休憩して次の区間列車(ただしディーゼル機関車が牽引)で残りの旅を続けるコースのいずれかを選ぶことができる。オーバーヴァルト側からは、グレッチュまでの区間運行を含めて1日4便が設定されている(下注)。

*注 2014年のダイヤではさらに増便が図られ、最繁忙期のレアルプ~オーバーヴァルト間は3往復になった。

発車5分前にようやく山手から1号機関車「フルカホルン Furkahorn」号が回送されてきて、ホームで待つ客車に連結された。ボディーは目の覚めるような青に塗られ、DFB 1と書かれた金色のプレートが誇らしげだ。何しろ、このHG 3/4形は、路線のルーツであるブリーク~グレッチュ間の部分開通に際して送り込まれ、FOの非電化時代を支え続けた由緒ある蒸機なのだ。

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(左)機関車の連結作業 (右)ホームは大賑わい

運転台側のプレートには、その来歴が刻まれている。1913年にブリーク=フルカ=ディゼンティス鉄道 Brig-Furka-Disentis Bahn(BFD、下注)に納入、1925年フルカ・オーバーアルプ鉄道が継承、1947年ベトナム(クロンパ~ダラット)へ売却、1993年フルカ山岳線に帰還。事実のみがさらっと記されているが、その波乱に富んだいきさつは、前回と前々回の記事を読まれた方ならご承知のとおりだ。

*注 保存鉄道の略称 DFB が、ブリーク=フルカ=ディゼンティス鉄道 BFD の逆綴りになっているのは偶然ではなく、相応の思いを込めた命名であるに違いない。

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(左)上のプレートは機関車改修に協賛した企業名、下は機関車の通称と来歴
(右)DFB 1号機、SLM社1913年製、アプト式

大賑わいのホームからレトロな客車に乗り込むと、座席は向い合せの4人掛けベンチで、背もたれには予約者の名が記されたシールが貼ってあった。予約サイトはもとより出札窓口でさえ座席指定の案内はなかったので、乗車人数だけ確定させて席は自由だろうと思っていたが、そうではなかった。指定されていたのは幸運なことに右側席。ローヌ氷河(後述するように実際は痕跡)は右の車窓に見える。ホームで機関車を見物していた人たちがそれぞれ自席に引き上げたころ、汽笛一声、列車はレアルプ駅のホームをゆっくりと離れた。

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(左)機関室 (右)出発前のスタッフたち
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(左)出発の時刻が迫る (右)車内はほぼ満席

DFBは、全線17.8kmのルートだ。起点レアルプ(標高1546m)から、最急勾配110‰の険しい坂道をアプト式ラックレールで上り、最高所の駅フルカ Furka(標高2163m)に達する。大陸分水嶺のフルカ峠を長さ1874mのトンネルで越え、今度は110‰の下り坂で往年の氷河観光スポット、グレッチュ(標高1762m)へ。さらにローヌ源流に沿って、終点オーバーヴァルト(標高1366m)に至る。

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DFB路線図 (c) DFB/Moser

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DFB周辺図(レアルプ~フルカ峠トンネル)
スイス官製1:50,000地形図ズステン峠 Sustenpass 図葉およびヌーフェネン峠 Nufenenpass の一部を使用。追記した駅の標高は、地形図記載の数値を採用した。そのため、上記路線図の記載値とは若干差異がある。

列車は、フルカ基底トンネルに突っ込むMGB線を左に見送った後、フルカ峠に通じる谷間を延々と上っていく。窓を開けると、石炭の燃えかすが容赦なく飛び込んでくるが、すぐに慣れてしまった。プレートガーダー(鋼桁)のヴィーラー橋梁 Wilerbrücke で、白濁した流れのフルカロイス川 Furkareuss を渡る。もとは5連の石造アーチ橋だったが、FO時代の1955年に、洪水で橋脚が倒壊したため、架け替えられた。このあたり、斜面の侵食が激しく、河原には大きな石がごろごろ転がっている。短いながらトンネルが3か所続くので、客は窓の上げ下ろしに忙しい。

長さ36mのシュテッフェンバッハ鉄橋 Steffenbachbrücke を渡る。まだ開通する前の1916年に、谷の上流から押し寄せた雪崩で流されてしまい、結果的に全通を10年も遅らせたという因縁の橋だ。以来、再度の被害を避けるために折畳み式の構造に替えられ、シーズンオフになると両岸に格納されてしまう。列車がくぐる鉄骨のやぐらは、作業用の滑車を吊るすためのものだ。

谷が広まり、ラック区間が途切れたところで停車。1992年にDFBが初めて定期運行を始めたときの終点ティーフェンバッハ Tiefenbach だが、今は側線に倉庫代わりの客車が1両ぽつんと置いてある。機関車に水の補給が始まった。勝手知った乗客がさっそく降りて、写真を撮っている。対岸では牛たちがのどかに草を食んでいた。もうだいぶ乗ったような気がしたが、まだ峠へのアプローチの半分しか来ていない。

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(左)谷川沿いに遡る (右)折畳み式のシュテッフェンバッハ鉄橋
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(左)ティーフェンバッハ駅 (右)最初の給水

10時35分発車。少し行くと、初めてFOらしい石造のアーチ橋(シュタインシュターフェル橋梁 Steinstafelviadukt)を渡った。谷は左側に移り、青草に覆われたのびやかな谷間を見下ろしながら走る。客室を出て左側に車掌室らしい誰も来ない一角を発見したので、しばらくそこから外を眺めていた。110‰の勾配は見るからに急で、登山鉄道と言われてもおかしくない。そのうち車掌氏がやってきて、次の駅で20分停車するので食事やトイレを済ませるように、と案内してくれた。

行く手に、峠のトンネルの入口が見えてきた。その手前にフルカ駅がある。標高2160mは、旧FO線の中でも最も高所にある駅だ。ここは7年間DFBの終点だったので、側線や転車台も残っている。時刻は11時ちょうど、駅の広場にはテントが張られ、テーブルと椅子が用意され、お腹を空かせた乗客を迎える準備が万端整っていた。列車が停まると、たちまち店の前には長い行列ができた。

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(左)石積みのシュタインシュターフェル橋梁 (右)フルカ峠が近づく
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(左)フルカ駅 (右)テーブルと椅子が客を待っている

11時 20分、再び動き出した列車は、すぐに長いトンネルに吸い込まれていく。大陸分水嶺を貫くトンネル(下注)は長さが1874mあり、闇から抜け出るのに10分近くかかった。排水のために東口から600mの間は2.5‰のわずかな上り勾配だが、残りは25~35‰で下っているので、煙に苦しめられることはなかった。

*注 峠の東側は北海に注ぐライン川 Rhein 水系、西側は地中海に注ぐローヌ川 Rhône 水系に属する。

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(左)フルカ駅舎は耐雪仕様 (右)フルカトンネルに突入
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(左)トンネル西口のムットバッハ・ベルヴェデール駅に停車 (右)列車交換があった

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DFB周辺図(フルカ峠トンネル~オーバーヴァルト)
スイス官製1:50,000地形図ズステン峠 Sustenpass 図葉およびヌーフェネン峠 Nufenenpass の一部を使用

出口にあるムットバッハ・ベルヴェデール Muttbach-Belvédère 駅では、短い停車の間にオーバーヴァルト Oberwald から上ってきた列車と交換した。ここから再び110‰の、今度は下り勾配が始まる。グレッチュの谷底を目指して、列車は足元を確かめるようにゆっくりと降りていく。途中に、フルカ峠道路と交差する踏切がある。鉄道休止中に道路が直線状に改修されたため、復活に際して交差部で勾配を緩和するようにルート変更を行った個所だ。

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(左)フルカ峠道路と平面交差 (右)もとは線路のほうが直線だったのだが…

車窓右手は典型的なU字谷で、古い絵葉書を見ると、ローヌ氷河が斜面を覆い尽くし、谷底にまで届いている(下記参考サイト)。これを沿線一番の名物にして、氷河急行 Glacier Express が運行されたのも当然と思わせる(下注)。しかし現在では、氷河がすっかり後退してしまい、乾いた岩場を早瀬が勢いよく滑り落ちているのが見えるだけだ。

*注 前々回に記したように、氷河急行は1930年、ブリーク~フィスプ間のメーターゲージ線開通を機に、ツェルマット~サン・モリッツ間で運行を開始した。1942年の電化まで、このHG 3/4形蒸機が牽引していた。

■参考サイト
Wikimedia - グレッチュから見た1900年ごろのローヌ氷河
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gletch_und_Rhonegletscher_um_1900.jpeg

草地に覆われていた東斜面とは違って、線路が張り付くU字谷の壁は、灌木が群生している。平たい谷底には針葉樹も見られる。西風が当たるこちらのほうが湿潤なのだ。雄大な山岳風景を楽しんでいるうちに、グレッチュGletschが近づいてきた。11時55分に到着。

グレッチュとは氷河を意味し、名の通り、迫力ある氷河が真正面に見える場所だった。1857年開業で最近再興されたローヌ氷河ホテル Hôtel Glacier du Rhône や、その別館だったブラウハウス Blauhaus(青い家の意)の建物が残され、人気の観光地だった昔をしのばせる。10年間西の終点として機能していた駅構内は、本線3本のほか、レアルプ方に転車台、オーバーヴァルト方に車庫と、設備が充実している。グレッチュで休憩するコースの参加者はここで途中下車することになる。

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(左)平たい谷の出口(写真奥)がグレッチュ (右)後退したローヌ氷河の跡
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(左)グレッチュ駅に到着 (右)グレッチュ休憩組の乗降がある

■参考サイト
Wikimedia - グレッチュからローヌ氷河方向の展望
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hotelsiedlung_Seiler_Glacier_du_Rhône_Gletsch.jpg

一方、終点まで直行する私たちを乗せた列車は、5分の停車中に給水を済ませ、間もなく動き出した。道路と交差したあと、スパイラルトンネルに潜っていく。ラック区間は下りの方がスピードを落として走るせいか、長さ548mの暗闇はけっこう長く感じた。

トンネルを抜けるとすぐにローヌ源流を渡って、線路は谷の右側に移る。白いしぶきを上げる川の周囲は、一転ピンク色の高山植物(エスパールゼッテ Esparsette?)の花畑に変わり、乗客は思わず歓声を上げた。森の中を縫うように下っていくと、木々の間から基底トンネルの西口が遠望できる。

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(左)最後の給水 (右)グレッチュを後に
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(左)スパイラルトンネルへ (右)線路沿いは高原の花畑

やがて行く手に広がる谷中の平地に、終点オーバーヴァルト駅の構内が見えてきた。旧線はまっすぐMGBの現在駅へつながっていたはずだが、DFBの線路は少し左にずれて、MGBの裏手に施設を設けている。12時25分、定刻に保存蒸機列車はホームに滑り込み、100年前のアルプス旅行を再現する旅は無事終わった。

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(左)基底トンネル西口を遠望 (右)終点が見えてきた
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(左)オーバーヴァルト到着 (右)帰路の準備完了

本稿は、"Reiseabenteuer am Rhonegletscher - Dampfbahn Furka-Bergstrecke" Eisenbahn Kurier Themen 45、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
フルカ山岳蒸気鉄道(公式サイト) http://www.dfb.ch/

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 フルカ山岳蒸気鉄道 I-前身の時代
 フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり
 MGBシェレネン線と悪魔の橋
 ブリエンツ・ロートホルン鉄道 II-ルートを追って

2014年3月24日 (月)

フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり

新トンネルの開通で放棄されたフルカ峠越えの路線が、蒸機運転の保存鉄道として全線復興するまでには、長い道のりがあった。1981年から2010年まで約20年の歩みをかいつまんで紹介しておこう。

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フルカ峠越え路線概略図
(太線が旧線=現DFB、
破線は新線トンネル=現MGB)

当初、旧線の施設はできるだけ早く撤去して、線路跡を道路として再利用する予定だった。手始めに、東口のレアルプ Realp 駅構内で、旧線との接続部が切断された。基底トンネルで自動車陸送 Autoverlad(下注)を行うに当たり、車両の進入をスムーズにするためだった。ほかはとりあえず現状のまま年を越したものの、翌夏から、踏切のラックレールの取り外しや、道路改修に伴う線路の切断が実施されていった。

*注 自動車陸送(アウトフェアラート)は、特定の区間で自動車を専用貨車に載せて輸送するシステム。いわばカーフェリーの陸上版。スイスではフルカ越えのほか、レッチュベルク Lötschberg、シンプロン Simplon、アルブラ Albula、フェライナ Vereina など各地のアルプス横断ルートで実施されている。

山岳線を残して観光に活用すべきだという声はもとからあったが、連邦政府は施設の劣化を理由に、また路線の所有者であるフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn(以下、FO)も新線と並行することを理由に、消極的な姿勢を崩さなかった。それに対して、ルツェルン鉄道博物館に集う愛好家たちが、委員会を組織して活動を始める。彼らの目標は、撤去の中止と蒸気機関車による運行再開で、この主張は新聞の報道によって、広く一般市民の共感を呼んだ。

1983年8月6日にグレッチュ Gletsch で決起集会が開かれ、12月には、保存運動の母体となるフルカ山岳線協会 Verein Furka-Bergstrecke (VFB) の設立に漕ぎつけた。協会はさっそくFOと交渉に入り、1984年7月にFOが撤去の方針を撤回し、協会は復旧作業に着手することで合意に達した。ただし、路線再建に失敗した場合は、撤去の遅れで生じた損害をFOに補償することになっており、協会にとっても大きな決断を伴うものだった。

展示会や講演会、あるいはメディアを通じて活発な募金活動が行われる一方、沿線ではボランティアが線路の補修に従事し始めた。ところが、州政府は愛好家団体による運営に不安を抱き、保証能力のある代表者を求めてきた。そこで1985年に、株式会社組織のフルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke AG (DFB AG) が設立される。こうして協会が路線運営のためのボランティアや資金を提供し、株式会社が連邦の正式認可を受けて運行主体となるという関係ができあがった。

なお、後年(2005年)、グレッチュ~オーバーヴァルト Oberwald 間の復旧に際して、基金の運営に当たるフルカ山岳線財団 Stiftung Furka-Bergstrecke (SFB) が設立され、現在はこの財団と協会、株式会社の3者がフルカ山岳線を支えている。

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HG 3/4形 1号機

路線再開にはさまざまな課題があったが、中でも特記すべきはラック式・粘着式併用の蒸気機関車の調達だ。まず白羽の矢が立ったのは、旧フィスプ=ツェルマット鉄道 Visp-Zermatt-Bahn (VZ) 所有のHG 2/3形だった。1965年に廃車となり、クール Chur のとある学校の校庭に展示されていたが、1989年に整備が完了した。「ヴァイスホルン Weisshorn」号と命名され、第1期開業時(レアルプ~ティーフェンバッハ Tiefenbach)の運行を支えた。

一方、かつてフルカ峠を走ったHG 3/4形10両(1~10号機)は、すべて姿を消していた。1947年にベトナムに渡った4両以外はスイスに残ったのだが、5、6、7号機は後に解体されてしまい、10号機は雪崩に巻き込まれて廃車となった。現存するのは、ブロネー=シャンビー保存鉄道 Museumsbahn Blonay-Chamby で稼働中の3号機と、ブリークで静態展示されている4号機だけだった。

ベトナムの4両(1、2、8、9号機)については、今も現地に放置されているという噂があった。4両の就任先は、避暑地ダラット Dalat へ上っていたラック式鉄道(下注)だが、ベトナム戦争で線路が寸断されて運行できなくなった。さらに停戦後は、幹線の復旧を優先させるために、支線の資材が撤去され、転用されてしまった。

*注 このダラット・タップチャム鉄道 Da Lat - Thap Cham Railway については、本ブログ「ベトナム ダラットのラック式鉄道」に詳述。

協会は、現地の関係機関に照会の文書を送ったが、消息は明らかにならなかった。ところが、1985年にベトナムから帰国した地震学者マイヤー=ローザ博士 Dr. Dieter Meyer-Rosa が、噂を証明する写真を提供した。機関車はスクラップにされることなく、ダラットで眠っていたのだ。1988年6月に2人の調査員が現地に赴き、改めて調査を実施した。その結果、HG 3/4形を含めて過去にスイスとドイツから送られた13両のうち、8両の所在が判明した。その中で改修可能なものは4両のみで、残りは大破しているため、部品の供給源とみなされた。

あの戦争をかいくぐり、奇跡的に生き延びた機関車を故郷へ帰還させたい。「スイスへ帰ろう Back to Switzerland」と題された運動が、大きな盛り上がりを見せた。ベトナム政府当局との長期にわたる粘り強い交渉の末、1990年4月にようやく、機関車4両を含む購入契約がまとまった。輸送作業と経費はすべて協会側が負担することになっていた。しかし、問題はそれからだった。

ダラットは、標高1500m前後もある高原上の町だ。鉄道の駅があるタップチャムは平地で標高わずか26m、この高低差に加えて距離も108kmある。先述のとおり線路はすでになく、羊腸の山道を下るしか方法がなかった。作業チームは8月9日から、ロシア製トラック2台とスイスから持ち込んだ16輪のトレーラーを使って仕事にとりかかった。

機関車は1両ずつ山麓のソンファまで降ろし、また次を取りに戻るという繰返しだった。雨季で道はすぐにぬかるみ、橋には重量制限がかかり、行政当局は無謀な計画に怒って通行妨害に出た。それでも考えうる限りの対策を講じながら、どうにか10日以内に移送を終えることに成功した。残りは平坦な道だが、途中の渡河地点では、古い鉄道橋に改めて線路を敷いて機関車を渡した。タップチャム駅からは、サイゴン(ホーチミン市)の軍港へ向かうベトナム国鉄の特別列車に輸送を託した。

こうして港にたどり着いた総重量250トンの貨物は、9月20日にドイツの貨物船に積み込まれ、43年間過ごした異国を離れた。40日余りの航海を経てハンブルク港に到着し、今度はドイツ連邦鉄道の貨車で故郷へと運ばれた。1990年11月3日、「スイスへ帰ろう」運動の成果を示す催しが、ルツェルンの鉄道博物館で開催された。ベトナム帰りの機関車は、支持者たちの前で誇らしげに公開されたのだった。

この時帰還したHG3/4形1号機と9号機は、その後ドイツのマイニンゲン Meiningen にある整備工場へ移され、旧2号機の部品で補いながら修復を受けた。そして1号機「フルカホルン Furkahorn」は1993年6月から、9号機「グレッチュホルン Gletschhorn」は同年8月から、再びフルカ山岳線で走り始めた(下注)。

*注 このほか、ブリークのHG3/4形4号機も修復を受けて、2007年に現役復帰した。

■参考サイト
Aktion «Back to Switzerland» https://www.dfb.ch/index.php?id=337

着々と旧線の改修を進めていたフルカ山岳蒸気鉄道に対し、1990年3月に連邦政府から鉄道事業の認可が下りる。最初に開通したのはレアルプ~ティーフェンバッハ間3.7kmで、1992年7月11日から運行が始まった。翌93年7月には、峠のトンネルの東口にあるフルカ Furka まで3.3kmが延長された。

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地形図で見るレアルプ Realp 周辺の線路の変遷
(左から) 1.旧線の現役時代 (地図は1965年版) 
2.基底トンネルの開通で、旧線は切断され休止 (1986年版)
3.DFBとして復活し、1552m標高点付近に基地設置 (1993年版)
4.線路が北へ延長され、現在の起点駅新設 (1999年版)
スイス官製1:25,000地形図ウルゼーレン Urseren 図葉の一部を使用

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フルカ峠トンネル

次のフルカ~グレッチュ間5.9kmの再開は、1996年を目標にしていた。しかし、解決すべき課題が多く、最終的に2000年7月までずれ込んでいる。

最大の難関は、峠を貫くフルカトンネルだった。長さが1874m(下注)あり、建設から80年が経過しているため、使用に耐えうるかどうかは蒸気鉄道の将来を大きく左右した。1986年に行われた調査で、霜の作用による浮上がりやモルタルの剥離が見られるものの、全体の強度は保たれていると診断された。1998年からの修復作業は、全長の半分、約900mにも及んだ。

*注 トンネルの長さは、1915年の貫通時には1853mだったが、1925年のポータル延長工事で1874mになった。

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フルカ峠道路との交差
「E」はラック区間終了を、
「A」は同じく開始を表す標識

さらに、トンネルを出てグレッチュへ降りる途中にあるフルカ峠道路との交差個所も難題だった。もとは踏切だったが、鉄道休止中に線路敷を一部削って道路が整備されたため、そのままでは線路を復元できなかったのだ。望ましいのは立体交差だが、多額の工費が必要になる。

行政当局との協議で、平面交差にはするものの、ラックレールを設けないことになった。ラックレールは通常のレール面より高いため、道路面にハンプ(突起部)が生じ、特に二輪車の通行には危険を伴うからだ。その代わり、踏切の周辺で線路の勾配を若干強めておき(110‰→118‰)、交差部では粘着式(=ラックレール不使用)の30‰勾配で通す工事を実施した。遮断機の設置は、列車本数が少ないため免除された。

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地形図で見るフルカ峠道路踏切の線路の変遷 (上から)
1.旧線の現役時代。交差部では線路が直線、道路はカーブ(地図は1965年版)
2.旧線休止後、道路が改修され直線化(1980~81年版)
3.DFB復活後、線路はカーブ、道路は直線のまま(1999年版)
スイス官製1:25,000地形図ウルゼーレン Urseren およびヴァル・ベドレット Val Bedretto 図葉の一部を使用

グレッチュへの延長は、蒸気鉄道にとって一つの到達点だった。フルカ駅止まりの時代、利用者は起点レアルプに戻るしか選択肢がなかったが、グレッチュなら、グリムゼル峠 Grimselpass やヌーフェネン峠 Nufenenpass を経由するポストバスや観光バスとの連絡で、行動圏を一気に拡大できる。当然、営業的な貢献も大きい。

最後に残ったグレッチュ~オーバーヴァルト間4.9kmは、2006年に起工式が挙行された。この間には、長さ578mのスパイラルトンネルや、ローヌ川(といってもまだ谷川)を渡る橋梁がある。

問題となったのは、オーバーヴァルト駅の手前で生じる幹線道路との交差だ。本来の旧線は道路をオーバーパスしていたのだが、道路が新線のトンネルの上を乗り越す形に改修されたため、旧線復活に際して平面交差とせざるをえなくなった。そこでラックレールを可動式にして、ふだんは道路面より下げておき、列車が通過する時だけ無線制御で上昇させる機構が考案された。

終点は、既存MGB線の東側に、乗降場と転車台を含む設備が造られた。2010年8月にこの区間が開通を果たし、フルカ峠を越えるレアルプ~オーバーヴァルト間17.8kmは、保存蒸気鉄道として全面的に復活した。旧線の廃止から数えて29年目、保存鉄道の運行開始から18年目のことだった。

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オーバーヴァルト駅

次回は、全通した蒸気鉄道に乗る。

本稿は、"Reiseabenteuer am Rhonegletscher - Dampfbahn Furka-Bergstrecke" Eisenbahn Kurier Themen 45、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
路線図は、SBB Network map Switzerlandの一部を使用した。(C) SBB http://www.sbb.ch/
使用した地形図の著作権表示 (c) 2014 swisstopo.

■参考サイト
フルカ山岳蒸気鉄道(公式サイト) http://www.dfb.ch/

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 ベトナム ダラットのラック式鉄道

2014年3月16日 (日)

フルカ山岳蒸気鉄道 I-前身の時代

スイスアルプスの真っ只中、標高1300~2100mの高地を貫いて、ラック式蒸機が走るメーターゲージ(1000mm軌間)の保存鉄道がある。越える峠の名を採って、フルカ山岳蒸気鉄道 Dampfbahn Furka-Bergstrecke (DFB) というこの鉄道は、かつて「氷河急行 Glacier Express」も通った由緒ある路線を、廃線後、20年かけて全線復活させたものだ。まだ蒸機が主役だった時代の山岳旅行を彷彿とさせる貴重な鉄道のプロフィールを、3回に分けて紹介したい。今回は、保存鉄道の前身である普通鉄道(BFD、FO)の生い立ちと廃止の経緯について。

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グレッチュ駅

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万年雪の高峰が連なるアルプス中央部で、ローヌ川 Rhone/Rotten とライン川 Rhein の源流域が東西に伸びる回廊を成している(下注)。ここに鉄道を通そうとする動きは、20世紀に入って本格化した。回廊の西側にあるヴァレー州 Valais/Wallis は、フランスとイタリアを結ぶ街道筋であり、フランスとの繋がりが強い。1910年に設立されたスイス・フルカ鉄道会社 Compagnie Suisse du Chemin de fer de la Furka、いわゆるブリーク=フルカ=ディゼンティス鉄道 Brig-Furka-Disentis Bahn (BFD) に出資したのも、大半がフランスの資本家だった。

*注 回廊を形成するライン川の源流は、正確にはロイス川 Reuss(さらにその支流のフルカロイス Furkareuss、オーバーアルプロイス Oberalpreuss)とフォルダーライン(前ライン)川 Vorderrhein。

最初の開通区間は、ブリークBrigからローヌの谷を遡り、オーバーヴァルト Oberwald を経てグレッチュ Gletsch までの46.2kmだ(右下図参照)。着工から3年後の1914年6月に開通した。グレッチュは、19世紀半ばからローヌ氷河 Rhonegletscher の展望地であるとともに、グリムゼル峠を越えてマイリンゲン Meiringen へ、フルカ峠を越えてアンデルマット Andermatt へ通じる結節点にもなっていた。

■参考サイト
Wikimedia - グレッチュから見た1900年ごろのローヌ氷河
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gletch_und_Rhonegletscher_um_1900.jpeg

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旧FO(現MGB)と周辺の路線図

開通式は、グレッチュに今も残るローヌ氷河ホテル Grand Hotel Glacier du Rhône で催された。招待された来賓たちは3本の列車に分乗して現地に向かったが、手前のスパイラルトンネルの中で最後の一列車が脱線してしまった。乗客は徒歩で闇の中から脱出し、なんとか式典に間に合わせたという。

フルカ峠の下をトンネルで貫く工事も並行して行われていたが、標高2100m以上の深い山中での作業は予想以上に過酷だった。イタリアから集められた作業員たちは寒さと資材不足、さらには岩や雪の崩落にも悩まされた。トンネルは1915年9月に貫通したものの、翌年5月に今度は、峠の東側のシュテッフェンバッハ橋梁が雪崩で押し流されてしまう。難工事が続いて資金はすでに底をついており、橋梁再建の見込みは立たなかった。ブリーク~グレッチュ間の運行は継続されていたが、第一次世界大戦とそれに続く不況で需要は細り、1923年12月、鉄道会社はついに破産手続きに追い込まれた。

最初の企てはこうして潰えてしまったのだが、路線はそのまま放棄されたわけではない。フィスプ=ツェルマット鉄道 Visp-Zermatt-Bahn(VZ、下注)の経営者が主導した新会社が、事業を引き継いだからだ。出資金の大半は連邦政府が拠出し、沿線の各州、自治体、民間人も参加した。これがその後長らく路線の運営者となるフルカ・オーバーアルプ鉄道 Furka-Oberalp-Bahn(以下、FO)だ。

*注 フィスプ=ツェルマット鉄道は、フィスプ Visp と、マッターホルンの麓にあるツェルマット Zermatt を結ぶ鉄道路線。後のBVZだが、この時点ではフィスプ~ブリーク間は未開通。

公的資本が投入されたのは、このルートが、観光路線であるとともに軍事的な重要性を秘めていたからに他ならない。なぜならアルプス地域は、祖国防衛のための「レデュイ Réduit」計画において、要塞地域と目されていた。南と北の平野部からの侵攻に対して、東西方向の補給線が確保できるかどうかは、死命を制する問題になる。

FOは、未開通区間の修復と仕上げに全力を注いだ。アンデルマット以西はフィスプ=ツェルマット鉄道、以東はレーティッシェ鉄道 Rhätische Bahn (RhB) の支援を受けた。破壊されたシュテッフェンバッハ橋梁は、冬は分解して格納する組立て式の鉄橋に置換えられた。1925年10月に試運転列車がブリーク~アンデルマット~ディゼンティス Disentis 間を通しで走り、冬の運休期間を経て、1926年7月に開通式が執り行われた(下注)。

*注 ディゼンティス以東は、レーティッシェ鉄道が1912年に開通させ、1922年には電化も完了させていた。

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オーバーアルプ峠

運行はフィスプ=ツェルマット鉄道に委託され、この関係は1960年まで続いた。初期は一日4本の列車が運行され、全線を4時間半以内で結んだ。また、1930年6月にブリークとフィスプの間にメーターゲージの連絡線が開通(下注)すると、ツェルマットとサン・モリッツを結ぶ「氷河急行」がFO線経由で走り始めた。列車名は、沿線随一の観光地だったローヌ氷河にあやかったものだが、この企画は予想以上の人気をさらった。峠の前後区間が降雪のない夏場のみの運行だったにもかかわらず、FO所属の10両の蒸機はこの年延べ20万kmを走り、20万4千人以上を輸送したという。

*注 これにより、現在もあるブリーク~ツェルマット間全線が開通したのだが、ブリーク=フィスプ=ツェルマット鉄道 Brig-Visp-Zermatt-Bahn/Chemin de Fer de Brigue-Viège-Zermatt (BVZ) への改称は、ずっと遅れて1962年6月になる。なお、2003年にFOとBVZは合併して、マッターホルン・ゴットハルト鉄道 Matterhorn Gotthard Bahn (MGB) となった。

FOにとって、運営上解決すべき大きな課題が二つあった。一つは電気運転への転換だ。石炭燃料を国外に依存するスイスは、第一次大戦中、輸入価格の高騰で苦しんだ経験から、自前の水力発電を利用する鉄道電化を推進していた。フルカ越えの路線再建に際しては直流電化も検討されたものの、コストの点から見送られていた。しかし、ナチスの台頭で国際情勢が再び緊迫の度を深めてくると、軍事利用をも見越して、FOにも電化工事の予算が回るようになる。レーティッシェ鉄道と同じ交流11000V、16 2/3 Hzが採用され、1941年5月にアンデルマット~ディゼンティス間、1942年7月にはブリーク~アンデルマット間の電化が完成した。電気機関車の導入で列車の速度向上も図られた。

そのあおりを食らったのは、蒸気機関車だ。活躍していたHG 3/4形10両のうち、戦時の非常用として8両が残されたものの、第二次大戦が終結すると4両が売却され、1947年にフランス経由でベトナム(当時はフランス領インドシナ)へ送られていった(下注)。

*注 この機関車が1990年にスイスへ帰還する過程については、本ブログ「フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり」で詳述。

もう一つの、そして最大の課題は、峠をはさむ区間の通年運行だ。FOは二つの険しい峠を越えていくが、このうちアンデルマットの東にあるオーバーアルプ峠 Oberalppass は、電化と同時に設置されたスノーシェッド(雪覆い)のおかげで、早い段階で冬場も運行できるようになっていた。一方、西側のフルカ峠 Furkapass はさらに雪が深く、10月中旬から翌年6月中旬まで、なんと半年以上も運休を余儀なくされた。単に列車を止めるだけではない。雪崩や雪の重みによって設備が破壊されるのを避けるために、上記の橋梁取り外しはもとより、ほぼ15kmにわたって架線を巻取り、約300本の架線柱も撤去する。そして雪解けが進むのを待って復元するという手順が、毎年繰り返されたのだ。

フィスプ=ツェルマット鉄道への業務委託が1960年に終了すると、FOは自前ですべての作業を行わなければならなくなった。高地を走る線路の保守費用に加えて、冬期運休に伴う旅客数の季節変動が激しく、路線の収益性は乏しかった。さらに1963年6月、除雪作業中に雪崩に巻き込まれ、数名の犠牲者を出す事故が発生した。FO線を通年運行させることは、鉄道会社だけでなくヴァレー州住民にとっても、もはや悲願となっていた。

■参考サイト
FO時代のフルカ峠越え、Wikimedia所載写真2点
「フルカ・オーバーアルプ鉄道を走る氷河急行、3両目と4両目にレーティッシェ鉄道の1等車が組み込まれている」(撮影地はフルカ~ティーフェンバッハ間)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Trains_du_Furka_Oberalp_02.jpg
「1970年代の氷河急行、グレッチュにて」(背後にローヌ氷河が見える)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Trains_du_Furka_Oberalp_03.jpg

峠前後のラック式区間を一掃する長さ15.4kmのフルカ基底トンネル Furka-Basistunnel が着工されたのは、1973年のことだ。地質が悪く、予定の4倍もの工費を投じる難工事の末、1981年4月にトンネルは貫通した。

基底トンネルを経由する新線は、次のサマーシーズンに開通すると告知が出された。長年の夢が叶うと同時にそれは、55年間続いた旧線での運行が今年限りとなることを意味した。名残りを惜しむ人々が押し寄せ、峠を越える列車は、例年にない賑わいを見せるようになった。

急増した乗客に対処するために、臨時列車が設定された。峠の勾配区間は牽引定数が小さく、3本の列車を5分間隔で続行させるという、登山鉄道並みの応急策が採られた。珍しいその様子を撮影しようと、中間の各駅ではカメラを構えた人々が列をなした。山の秋が深まる9月には、ブームが最高潮に達した。車両不足から、ブリーク~オーバーヴァルト間ではブリーク=フィスプ=ツェルマット鉄道の車両を融通してもらい、シェレネン線(ゲシェネン~アンデルマット)はバス代行になった。それでもさばききれず、とうとうスイス国民は、ラジオやテレビを通じて、フルカへの鉄道旅行を見合わせるよう要請されたという。

しかし、世紀の喧噪も終わる日が来る。1981年10月11日、多くの関係者に見送られながら、最終列車が峠を後にした。やがて雪が線路と施設を覆い尽くし、FO旧線は予定どおり永遠の冬籠りに入った。

鉄道の復興の過程については次回に。

本稿は、"Reiseabenteuer am Rhonegletscher - Dampfbahn Furka-Bergstrecke" Eisenbahn Kurier Themen 45、Klaus Fader "Zahnradbahnen der Alpen" Franckh-Kosmos Verlag, 1996、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
路線図は、SBB Network map Switzerlandの一部を使用した。(C) SBB http://www.sbb.ch/

■参考サイト
フルカ山岳蒸気鉄道(公式サイト) http://www.dfb.ch/

★本ブログ内の関連記事
 フルカ山岳蒸気鉄道 II-復興の道のり
 フルカ山岳蒸気鉄道 III-ルートを追って
 MGBシェレネン線と悪魔の橋
 ブリエンツ・ロートホルン鉄道 I-歴史

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