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2013年1月19日 (土)

ワシントン山コグ鉄道 II-創始者マーシュ

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1880年ごろのワシントン山コグ鉄道
image from wikimedia

ワシントン山に上る鉄道の認可を得るために、シルヴェスター・マーシュ Sylvester Marsh はニューハンプシャー州議会へコグ機関車の模型を持ち込んだ。計画の説明を聞くか聞かないうちに、議場はどっと沸きかえった。機知に富んだ議員が有名なからかいの言葉を投げた。「彼には月へ行く鉄道を造らせたらいい。」

時は1858年、マーシュはすでに54歳だった。彼は、蒸気の力で最高峰の頂点を極めるという、当時としては前代未聞の事業に本気で挑戦しようとした。人生半ばを過ぎてから、なぜ私財を投じてまでこの計画に打ち込んだのだろうか。その理由を知るには、彼の前半生を俯瞰しておく必要があるだろう。

マーシュは1803年9月に、ニューハンプシャー州中部のキャンプトン Campton にある自営農場で生まれた。11人兄弟の9番目だったので、家業は継げず、19歳でボストンへ働きに出た。彼が身を投じたのは食料品や食肉の小売だった。商才があったとみえ、ボストン中心部に今もあるクインシー・マーケット Quincy Market が1827年に開業したとき、そこに店を構えた。しかし翌年には西を目指してオハイオ州アシュタビューラ Ashtabula に行き、さらに1833年にはイリノイ州シカゴ Chicago に移り住む。

今ではアメリカ第3の大都市であるシカゴも、当時はまだ小さなフロンティアで、人口わずか200人ほどだった。彼はこの土地で精肉業を営み続け、町の急速な発展とともに事業を拡張していった。1850年に地元新聞は、マーシュのブランドが有名で、加工場には蒸気動力の大規模な設備があると報じている。ところが彼はそれに飽き足りない。

この頃、シカゴはすでに、プレーリーを後背地に持つ世界有数の穀物の積出し港になっていた。ヨーロッパの大消費地に向けて貨物船で送り出すのだが、それには一つの問題があった。長い航海中にトウモロコシなどの穀物が腐敗したり、発熱で傷んでしまうのだ。マーシュは、加熱式の穀物乾燥機を考案して、この悩みに終止符を打った。新型装置の評価は高く、彼はその勢いに乗って、精肉業から穀物輸出の事業に転進する。乾燥機関連の特許権と穀物貿易は、彼にかなりの収入をもたらすことになった。

作業機械に対する彼の関心は今に始まったことではない。産業革命を牽引していた蒸気機関の応用技術に、彼は早くから熱中していた。シカゴに来る前に、オールバニー Albany で運行を始めた当時最新の蒸気機関車デウィット・クリントン号 DeWit Clinton にもわざわざ乗りに出かけている。11件の合衆国特許を取得する根っからの発明家で、急速に近代化する社会を率いていた先頭集団の一員だったのだ。

*注 デウィット・クリントン号は1831年にニューヨーク州で初めて運行された蒸気機関車。数か所の閘門を経由するエリー運河 Erie Canal の水運に対して、オールバニー Albany とスケネクタディ Schenectady の間を短絡するモホーク・アンド・ハドソン鉄道 Mohawk & Hudson Railroad(当時の名称)で使われた。

1855年、52歳で再婚したのをきっかけに、マーシュは仕事中心の実生活から引退することを決意する。そして、懐かしいボストン郊外へ戻ってきた。その後のエピソードは、コグ鉄道の前史としてよく語られる。

引退後の退屈さのため体調不良を起こしていた彼は、1857年、友人とワシントン山へ徒歩旅行に出かけた。晴れた8月の午後だったが、稜線の上で突然の嵐に襲われ、危うく遭難しかけた。なんとか山小屋にたどり着いた彼は、「もっと容易で安全に山を上るための何らかの手段」を提供することを使命と考えるようになったというのだ。数々の発明で事業の成功体験をもつ彼は、思いがけないところで見つけた新たな課題に夢中になり、結局後半生をこれに賭けることになる。

山を上る鉄道としてケーブルカー(英語でfunicular railway)の技術は知られていたが、ワシントン山では距離が長すぎ、ケーブルの自重を支えることすら困難だ。やはり蒸気機関車に自力で上らせるしかないと判断した彼は、技師の長男とともに、コグ(歯車)を装備した機関車とラックレールの構造について研究を始めた。

この種の機構は、1812年という早い時期に、イギリスのリーズ Leeds で実用化されていた。ジョン・ブレンキンソップ John Blenkinsop が、石炭を輸送する鉄道で板状レールの摩擦力を補うために使用したラックレールだ。平地を走る路線のため、後に不要であることがわかって普及しなかったが、マーシュはこれを登山鉄道に応用しようと考えた。模型を使って実験を繰り返し、1858年、ついに建設計画の認可を議会に申請した。

これが冒頭で紹介した議会での一幕につながる。それでも認可が下りたのは、実現が不可能であり、承認したところで実害はないと誰もが思ったからだという。それから5年ほどの空白を置いて、事業は本格的に動き出した。機関車の命綱となる制動装置やラックレールの改良、必要な土地の購入などを進める一方で、彼は実業家らしく、重要な交渉にも奔走していた。それはお客をどのようにしてここへ呼び寄せるのかという問題の解決策だった。

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19世紀 ワシントン山周辺の鉄道網

西麓が起点のコグ鉄道に対して、現在、ワシントン山頂には東麓から上ってくる有料道路もある。意外なことにこの道路の開通は、登山鉄道の全通より8年も早い1861年だ。もちろんまだ自動車は普及しておらず、乗合馬車による山頂観光を狙ったワシントン山馬車道路 Mount Washington Carriage Road として造られた。それが東麓に設けられた理由は、山の北東にあるゴーラム Gorham の町まで1851年に鉄道(下注)が通じていたからだ。ゴーラムから道路を使えば山頂まで26km(16マイル)しかない。マーシュの鉄道は、馬車道路と競合しないよう、西麓に拠点を置かざるをえなかった。

*注 セントローレンス河畔のモントリオール Montreal と大西洋岸ポートランド Portland を結んだセントローレンス・アンド・アトランティック(大西洋)鉄道 St. Lawrence and Atlantic Railroad。

山の西側で最も近い鉄道駅は42km(26マイル)離れたリトルトン Littleton だった。マーシュはそのボストン・コンコード・アンド・モントリオール鉄道 Boston, Concord & Montreal Railroad (BC&M) の社長ジョン・E・ライアン John E. Lyon に書簡を送った。初め「正気の沙汰ではない」と思ったというライアンだが、発明品の作動をマーシュが実証することを条件に、協力に同意した。

1866年に、西麓の基地に造った400m(1/4マイル)の線路で、列車の試走会が行われた。その日の主役は、現在マーシュフィールドの空地に展示されている1号機関車ヒーロー Hero、後のペパーザス Peppersass だった。「機関車はみごとに動いている。悲観論者や疑り深い者でさえ、走る列車に乗るのをためらわなかった。」 新聞記事が伝えるとおり、実演は成功を収め、出資者をはじめ集まった人々は、鉄道の実用性を確信した。

*注 本稿で用いた数値は原文のマイル、フィート表記をメートル法に換算したものだが、この試験線について、200m(660フィート)としている文献もある。

その後、線路工事は本格化した。ライアンが送り込んだ現場監督は、橋梁建設に携わった経験があり、全線にわたるトレッスルの構築に力を発揮しただろう。建設認可はすでに1回延長されており、1868年8月が最終期限だった。ヤコブの梯子まで完成したところで開通式が行われたのは、それに間に合わせるためだ。夏の終わりの3週間、運行が続けられたが、開通の体裁を整えるのが目的だったのを知ってか、2ドルの規定料金を払わずに乗った者もいたという。

頂上まで線路建設が完了したのは翌1869年で、7月3日に正式に旅客輸送が始まり、8月には当時のグラント大統領も訪れた。コグ鉄道の往復料金は3ドル、それに山麓駅まで連絡の駅馬車の運賃も別途必要だったが、快適な箱型客車で上る登山観光の人気は高かった。幌なしの乗合馬車を使うライバルの有料道路はすっかり利用客を奪われてしまい、自動車が一般化するまで劣勢に立たされたほどだ。

コグ鉄道は全線開通から数年間、山麓駅への連絡手段を駅馬車に頼っていたが、1874年にライアンのBC&M鉄道が、リトルトンの東のウィング・ロード Wing Road からフェービアン Fabyan まで待望の支線24km(15マイル)を開通させた。2年後の1876年に山麓駅まで延長され、コグ鉄道は初めて幹線鉄道網と接続されることになった。

さらに、1875年にはポートランド・アンド・オグデンズバーグ鉄道 Portland & Ogdensburg Railroad (P&O) が、南からクローフォード・ノッチ Crawford Notch を越えて通じたので、にわかにフェービアンは鉄道交通の十字路に位置づけられた。マーシュはそこにフェービアン・ハウス Fabyan House と呼ぶ大きなホテルを建設し、山を訪れる旅行者の足場を整えた。

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フェービアン・ハウスと大統領連山
image from The New York Public Library

人生3度目の成功を手にしたマーシュは、終生コグ鉄道の社長の座にあったが、しかしそれは名誉職のようなものだった。なぜなら、彼の保有株式の多くは、機関車の購入代金代わりに、すでに工場主に譲渡されていた。そのため、経営の実権はもう一人の大株主であるライアンが掌握していたのだ。このようなエピソードが伝わっている。ある団体がマーシュに、コグ鉄道の山頂施設を使いたいと要請したが、「私には会社を代弁する権限がない」という回答が返ってきた。そこで、ボストンへ行ってライアンに事情を告げたところ、即決で承諾が得られたというのだ。

コグ鉄道の正式開通から2年後の1871年に、スイスのリギ山にヨーロッパ初、世界で2番目のラックレールを使った登山鉄道(下注)が開通している。実は1867年に在米スイス領事が、まだ工事中だったワシントン山のコグを視察したことがあった。マーシュは求めに応じて、コグの図面や写真を無償で提供し、助言まで与えた。領事は本国に向けて熱心にレポートを返し、それがリギ鉄道の実現を後押ししたと言われている。また、1883年にはマーシュの方式を使って、メイン州マウント・デザート島 Mount Desert Island でグリーン山コグ鉄道 Green Mountain Cog Railway が開通している。

*注 二クラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach 考案の方式を使ったフィッツナウ=リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn。本ブログ「リギ山を巡る鉄道 I-開通以前」「リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道」で詳述。

彼が最初に考案したユニークな登山鉄道は、こうして世紀の変わり目をはさんで、各地の山岳ツーリズムを刺激する原動力となっていった。元祖ワシントン山コグ鉄道も、2度の世界大戦中の休止を除いて運行を続け、これまでに延べ500万人近くを山頂へ運んだ。マーシュが1884年12月、81歳で永眠したとき、会社は次のような告別の辞を捧げている。「ここに、事業を提案し起業した非凡で思慮深い仲間の喪失を憶える。その快適さへの関心と最終的な成功に対する確信は、逆境と順境とにかかわらず決して弱まることがなかった。」

本稿は、Bruce D. Heald, "The Mount Washington Cog Railway: Climbing the White Mountains of New Hampshire " History Press, 2011、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
地形図は、アメリカ合衆国官製1:250,000地形図 Lewiston(1947年版)を用いた。

■参考サイト
ワシントン山コグ鉄道(公式サイト) http://www.thecog.com/
ワシントン山コグ鉄道(旧サイト) http://www.cog-railway.com/
ワシントン山自動車道(公式サイト) http://mtwashingtonautoroad.com/
WhiteMountainHistory.org   http://whitemountainhistory.org/

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