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2010年10月28日 (木)

マカオの地形図

マカオ(澳門)Macau / Macao は、香港中心街から西へ60km、珠江の河口をはさんだ対岸に位置し、広州、香港などが立地する珠江デルタ(三角州)の一角を占めている。古くからの市街は、中国本土と地続きのマカオ半島 Península de Macau にある。南の沖合に浮かぶタイパ島(氹仔島)Ilha de Taipa とコロアネ島(路環島)Ilha de Coloane は、近年急速に開発が進んだところで、2島を隔てていた海が陸地化されて、実態は1つの島と化している。面積29.5平方km(2009年現在)という小さなマカオだが、世界遺産に登録された旧市街、音に聞こえたカジノなど、今や全域が観光地だ。

ここは長らくポルトガルの植民地だったが、1999年に中国に返還され、香港とともに50年間一定の自治が認められる特別行政区となった(下注)。官製地形図も、公開が制限されている本土と違って、外国人でさえ自由に購入することができる。作成している機関は、中国語で地圖繪製暨地籍局(暨は及びの意)、ポルトガル語で Direcção dos Serviços de Cartografia e Cadastro(略称DSCC)といい、測量・図化と地籍管理を行う部局だ。地形図はすでにデジタル化が完了し、発注すると、デジタルプリントしたうえ、エンボスのスタンプを押して送ってくれる。

*注 正式名は、中国語で澳門特別行政區(現地では香港同様、繁体字を使用)、ポルトガル語で Região Administrativa Especial de Macau。英語では Macao Special Administrative Region。

■参考サイト
地圖繪製暨地籍局(DSCC) http://www.dscc.gov.mo/
 英語版の場合、地形図リストは、トップページ > Services and Cost > Providing topography map

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1:20,000地形図

小規模なエリアとあって、縮尺1:20,000の地形図1面で全域をカバーする。上記の3地区は南北に並んでいるので、A0判用紙が縦長に使われている。1:20,000の地図記号はとてもシンプルだ。凡例を見ると、市街地は街道(道路)以外に、樓宇(建物)、木屋/棚屋(簡易建物)、興建中樓宇(建設中の建物)、公園/草地の区別しかない。注記も大通りや緑地、大きな施設などに限られていて、あくまで都市計画のベースマップといった仕様だ。

等高線は20m間隔とこの縮尺にしては粗いが、ていねいに段彩がかけられているので、地勢を明瞭に読み取ることができる。マカオ半島は元来、いくつかの小島が砂州によって大陸側と連結されたいわゆる陸繋島だった。核となった島は、市街地の随所に小高い丘となって残存している。また、タイパ島とコロアネ島には砂浜以外、平地がほとんどなかった(タイパ島は2つの島に分かれていた)。今から100年前には、マカオの面積はわずか11.6平方km、現在の4割ほどしかなかったのだ。山や丘が強調されたこの地図から、かつての原風景を想像してみたい(下注)。

*注 土地の拡張ぶりは、DSCCが製作した "The Evolution of the 20th century of Macao SAR(マカオ特別行政区の20世紀の発展)" に詳しく図示されている。この図はプリントの発注も可能。
http://www.dscc.gov.mo/dscc/engl/newthematic1.htm
また、DSCCのサイトで、1912年の実測図を含む古地図が閲覧できる。
http://www.dscc.gov.mo/dscc/engl/newoldmap.htm

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1:20,000地形図の一部
(c) 2010 Direcção dos Serviços de Cartografia e Cadastro

縮尺1:10,000、1:5,000は各地区1面ずつに分かれ、3面で域内をカバーする。等高線は10m間隔になるが、段彩は省かれている。市街地の描写は1:20,000と比べて格段に細かくなり、おそらく街路はすべて記載されているようだ。しかし、建物名称はせいぜい役所や大規模な公共施設が表示されるにとどまり、相変わらず街案内の用はなさない(下注)。

*注 この稿を読まれる方は先刻ご承知だと思うが、地形図に町歩きのガイドを期待するのは無理がある。商店や観光スポットの位置を調べるなら、その目的でデザインされた市販の旅行地図を用意したほうがよい。ちなみに筆者は、「地球の歩き方」マカオ編の添付地図が大変詳しいので気に入っている。

DSCCが開設するサイトを見ていたら、これら地形図シリーズのほかに、縮尺1:45,000の特別図が紹介されているのに気づいた。名称は「澳門特別行政區與周邊地區地圖(マカオ特別行政区及び周辺地区地図)」。英語サイトで "Macao Special Administrative Region, Zhuhai and Zhongshan city(マカオ特別行政区、珠海市及び中山市)"と表記されているとおり、隣接する本土の2市域を図郭に含めた大判(横77×縦105cm)のフルカラー地図だ。DSCCと広東省国土資源庁の合同編集、広東省地図出版社の刊行とクレジットされている。

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1:45,000澳門特別行政區與周邊地區地圖

特筆すべきは繊細なぼかし(陰影)を用いた地勢表現で、山地をまるで立体視しているような感覚を味わえる。また、マカオの区域は、等高線や市街地も上記1:20,000と同レベルの描写が施されて、詳しさが際立っている。片や本土の表現はより粗く、段彩はつけられているものの、等高線は50m間隔だ。主要街路が太く描かれ、道路番号も添えられているところを見ると、道路地図からの転用だろう。とはいえ、先述した官製地形図は中国本土をほとんどシルエット程度にしか扱っていないので、マカオとその後背地域との位置関係や交通網を知るには格好の地図だ。

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1:45,000澳門特別行政區與周邊地區地圖の一部
(c) 2010 Direcção dos Serviços de Cartografia e Cadastro

ちなみに、香港の測量局が刊行している1:300,000「香港與其鄰近地區」にも、マカオとその周辺が含まれている。珠江デルタの地理をより広範囲に把握したいと思う方には、こちらもお薦めしたい。

マカオの測量局に関する情報は、「官製地図を求めて」を読まれた方からご提供いただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。

■参考サイト
「官製地図を求めて-マカオ」 http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_macao.html

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2010年10月21日 (木)

新線試乗記-成田スカイアクセス

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ダイヤ改正告知

京成電鉄の社名のいわれは東京と成田空港を結んでいるからだ、と信じる人がいても不思議ではない。もとは成田山新勝寺への参詣鉄道だったことなど半ば忘れられるほど、京成と成田空港のイメージは固く結びついている。それはまた、紆余曲折を重ねた空港アクセス問題と、国の政策に振り回され続けた会社の歴史をも想い起こさせる。1978年の開港時点では京成が唯一の乗入れ路線だったにもかかわらず、最近の地図上ではJRのほうがメインルートで、京成本線は後から付け足されたように見える。会社としては悔しい思いの残る線形に違いない(下注)。

*注 説明するまでもないが、現在の東成田が、開港時の終着駅「成田空港」だった。

■参考サイト
成田空港付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/35.765700/140.386300
成田空港付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=35.7657,140.3863&z=15

しかし、今年(2010年)7月17日からそのメインルートに沿って、京成の新型特急電車が運行されることになった。正式には京成高砂以東の路線を成田空港線と呼ぶらしいが、走行ルートの愛称を成田スカイアクセスにして、都心~空港36分と大々的に宣伝している。地図も都内からほぼ直線的に成田空港を目指すように描かれ、これが鉄道アクセスの決定版だと言いたげだ。謳い文句の36分は日暮里~空港第2ビル間の所要時間で、起終点の京成上野~成田空港(以下、空港または空港駅)間は44分かかる。しかし、従来のスカイライナーはこの間を約1時間かけていたから、どのみち成田が近くなるインパクトは大きい。

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路線図(左下が成田空港)

時間短縮は、これまでの本線経由とは別の、バイパス新線が開通したことでもたらされた効果だ。京成高砂で分岐する既存の北総線を通り抜け、終点だった印旛日本医大(いんばにほんいだい)から空港第2ビルの手前の本線合流地点まで新たに線路が敷かれた。北総線内は最高時速130kmに改良され、新設区間では新幹線を除いて国内最速タイとなる同160kmで走行する。車両も山本寛斎氏がデザインした精悍なフェースの新型車(2代目となるAE形)が登場して、代替わりを強く印象付けている。

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N'EX特急券とライナー券

開通1か月後、成田空港を電車で往復してみた。海外渡航でもしない限り、関西から成田へ出かける機会はないので、往路はJR成田エクスプレス(N'EX)の新型E259系に初乗りし、新規開業区間の駅を訪ねた後、復路で新スカイライナーを試乗するというちょっと贅沢なプランを立てた。

新宿から1時間半、静かな車中でゆったり過ごして、今なお検問体制の解けない空港駅に降り立つ。自動券売機の前で確認すると、スカイアクセス線は本線より運賃、料金とも割高に設定されていることがわかる。空港~京成上野間はスカイアクセス線経由のほうが距離は短い(下注)のに、運賃+料金は2,400円、対する本線のシティライナーなら1,920円だ。さらに驚くのが新規各駅間の運賃で、たとえば空港から2駅目の成田湯川までなんと500円もする(営業キロ10.7km。空港第2ビル~成田湯川も同額)。北総線の高運賃はつとに有名だが、それに匹敵する水準だ。

*注 京成上野~成田空港間、スカイアクセス線経由64.1km、本線経由69.3km。

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新型スカイライナー
(日暮里駅にて)

運賃が異なるので、ホームも分かれている。空港駅では、改札を入ってすぐ、スカイライナーのホーム(4、5番線)へ降りる階段がある。降りずに直進すると正面にまた改札があり、本線方面のシティライナーや快速特急のホーム(2、3番線。4、5番線の上野方に設置)へ通じている。筆者が乗るつもりの、成田湯川に停まるアクセス特急(1番線)はそこでもなく、中間改札の手前で左にそれていかなければならない。スカイアクセス線はオレンジ、本線は青と、シンボルカラーで区別されているものの、列車種別の名称が紛らわしいこともあって、初めて来た者としては戸惑うことしきりだ。

アクセス特急は料金不要の一般特急で、印旛日本医大まで各駅、そのあとは主要駅のみ停車して羽田空港など京急線へ直通する(夕方以降は京成上野行き)。飛行機のシルエットを外装にあしらった新造車(3050形)だが、ロングシートの通勤型なので前面に張り付いてみた。かつて成田新幹線のために建設された複線幅の路盤の上を、JR成田線(空港支線)と1線ずつ分け合う形で進む。JRが狭軌で、砕石を敷いたいわゆるバラスト軌道なのに対して、こちらは標準軌で、コンクリート道床に枕木を固定した真新しい線路(弾性枕木直結軌道)だ。地方で見られるJRと私鉄の施設格差を逆転させたような光景が興味深い。途中の新根古屋信号場で停車している間に、向かいからE259系がやってきて、JRと対向待ちをしているような錯覚に陥った。

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JR E259系とすれ違う

成田湯川駅は成田ニュータウンの北端で、直下を交差するJR成田線との乗換連絡を考えた位置にある。しかし、JR側の動きはまだないようだ。発着は片道40分に1本で、駅の時刻表は閑散としている。整備された駅前広場から、成田駅行きのバスが空っぽのまま出発していった。とんぼ返りも芸がないので、地形図をにらんで、近くの外小代公園へ歩いてみた。西側の林が途切れる地点から、印旛沼を背に田園を疾走するスカイライナーの姿を捉えることができた。

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成田湯川駅正面
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印旛沼沿いを快走

空港に戻って、いそいそとスカイライナーの予約席に着く。ライバルのN'EX車両に比べると、車内の装いはかなりシンプルだが、短時間の旅なので多くは望むまい。JRとの並走区間に入ると、電車はさっそく速度を上げ始めた。車端のモニターが前面展望を映している。画面で隣の線路をE217系が先行するのに気づいたが、あれよという間に長い編成を悠々抜き去ってしまった。遠方の風景を眺めるだけでは俊足も漠然とした感覚でしかないが、これが時速160kmなのだ、と納得する。

成田湯川は一瞬で通過し、葦の育つ印旛沼のはろばろとした水辺を駆け抜けていく。この先は押しなべて台地を掘割った底を通るので、開放的な車窓を愛でるのは今しかない。速さに喝采したいが、名残り惜しくもある。しかし実は、最高速度を維持できるのはせいぜい7~8分間に過ぎないのだ。空港発車後12分の印旛日本医大で速度が鈍り、約30分後、都県境の江戸川を渡ればもはや徐行態勢にシフトする。後は下町の家並みをくねくねと縫っていく、ふだんどおりの行程だ。ゴールへ向かって刻々と遅くなる特急というのも、なんだが後味が悪いものだ。新スカイライナーの初乗りは、やはり往路にすべきだったかもしれない。

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(左)印旛沼付近 (右)もうすぐ印旛日本医大駅(アクセス特急にて撮影)

■参考サイト
京成電鉄 成田スカイアクセス
http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/skyliner/jp/
ウィキペディア「京成成田空港線」
http://ja.wikipedia.org/wiki/京成成田空港線
成田新高速鉄道整備事業  http://www.nra36.co.jp/

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2010年10月14日 (木)

新線試乗記-富山地方鉄道環状線

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路線図

明るくお化粧直しされた街路を、シックな塗装の新型路面電車(LRV)がしずしずと進んでいく。富山市の中心部、城郭風の博物館とお堀に臨む大手町の交差点に立つと、都市装置のみごとな整備ぶりに目を見張るばかりだ。

富山に出かける機会があったので、昨年(2009年)12月23日に開業した環状線に初乗りした。案内表示では単に「環状線」とされているが、これは富山駅前~丸の内~西町(にしちょう)を周回する3系統につけられた愛称だ。今回の開業区間はそのうちの丸の内~西町間940mで、正式名称は、富山地方鉄道富山市内軌道線富山都心線というそうだ(とても長いので、この稿では以下、「環状線」で通す)。かつて1973年まで、丸の内から南下し、旅籠町で左折して西町につながる路線が存在した。今回の新線は経由地が一部異なるが、往年の市内循環ルートの復活ということになる。

■参考サイト
富山市中心部の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/36.691600/137.211400

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新たに導入された
セントラム(シルバー)

市街地へのLRT導入が世界的なブームを呼んでいるとはいえ、日本の諸都市では既存路線の改良が関の山で、新線の開業を実現できたのは、富山市が唯一だ。しかも2006年の富山ライトレール、そしてこの環状線と立て続けで、波に乗っている印象がある。このあとも、JRの高架化が完成すればライトレールと市内軌道線の南北接続、さらに富山地方鉄道(以下、地鉄という)上滝線の市内軌道乗入れが構想されているそうだ。

どうして、これほど積極的な活用策が講じられているのかというと、それは「富山ライトレール」の項にも記したとおり、路線整備が、市の進めている都市再生計画の重要な柱建てになっているからだ。

そのため、環状線の新規区間では、徹底した上下分離方式が採用されている。線路や車両その他の整備費は全面的に市が支出し、それらの固定資産は市が保有して、地鉄に貸付ける形をとる。地鉄は運行を担当し、得られた運輸収入から市に施設使用料を支払う。地鉄には新たな減価償却費の負担が発生しないため、事業を採算に乗せることが可能になる。さらに既設線内でも、市が環状線電車の運行経費を保証しているという(下注)。手厚い支援体制は、路面軌道を都市活性化の基軸に据えるという先進的思想の表れだが、それを短期間で達成していく行政の手さばきにも感服してしまう。

*注 運営スキームについては、佐藤信之『富山の路面電車』「鉄道ジャーナル」2010年6月号104~111ページを参照した。

市内軌道線を乗り尽くしたいなら、市内電車・バスの1日フリーきっぷ(600円)を使うといいだろう。プラス200円で、ライトレールを範囲に加えた拡大版も売っている。筆者はまず2系統の終点、大学前まで往復し、架け替え中の富山大橋の様子を観察してから(これが完成すれば橋上は複線化される)、丸の内で降りた。富山駅前から南進してきた線路は、この電停の南側で左右に分岐する。右折する複線は大学前へ、左折する単線は環状線で西町方面へ向かう。環状線は左回りの一方通行で運行されているので、新設区間は全線単線だ。建設費もそれだけ節約できたことになる。

丸の内はもとからあった電停だが、新線内と同様に、ライトレールに似たスマートな屋根付きホームに全面改修されていた。待っていると、電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。「新富町を出ました」と言っているので、2駅前から案内があるようだ。電光掲示も出ている。市内軌道線は各系統とも日中10分間隔で、覚えやすいダイヤだ。

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環状線の分岐点、丸の内停留所

やってきた車両は全身黒づくめで、不敵な雰囲気を醸し出していた。2車体連接の低床車はライトレールと同型だが、こちらはセントラムCentramという愛称がつけられている。形式は9000形とされ、このブラックボディのほか、ホワイトとシルバーの3編成がある。車内は2人掛けのクロスシートが並び、広い窓を通して町の景色が堪能できる。とりわけ、丸の内から次の国際会議場前までは、整備された城址公園のお堀に沿って走るので、沿線で一番見栄えがする区間だ。

左回りのルート上で唯一、大手町交差点は右折になっている。しかし、優先信号らしく、一旦停止程度でスムーズに通過した。曲がるとすぐ、国際会議場前の電停だ。ここから750mほど続く、緩くカーブした南北方向の通りは、大手モールと呼ばれている。軌道敷と車道がインターロッキング舗装で一体化され、ヨーロッパの旧市街の石畳を彷彿とさせる。並木が大きく育てば、いい被写体になるだろう。クルマの通行は少ないし、歩道が広く取られているから、セントラムを降りて散策するのもよさそうだ。

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国際会議場前に進入

ずばり大手モールと名づけられた電停を出ると、左折して平和通りの中央に飛び出す。この通りは幅員がたっぷりあるので、単線の線路1本割り込ませる程度は全く問題がない。架線はセンターポール方式を採らず、道の両端からワイヤで吊っているが、電線のようには気にならないものだ。国道41号と交差して、グランドプラザ前に着く。道路の北側、アーケード街の総曲輪(そうがわ)通りとの間では、大和(だいわ)デパートなどが入居するフェリオ、その隣にガラス屋根のかかった多目的空間グランドプラザなどが完成して、以前のイメージは一新された。他にも、西町南西角にあった旧 大和の跡地など、再開発事業がいくつも予定されているそうだ。

400m直進すれば、左折して本線に合流する。曲線半径が小さいのだろう、電車は車輪を軋ませながら交差点を曲がっていく。新規開業区間は合流地点の西町が終点になっているが、ここの北行電停は交差点の南側にあるため、環状線の電車は西町に停車できない。そのため、グランドプラザ前が南富山駅前方面との乗換え電停と案内されている。本線に入ったセントラムは北へ進み、富山駅前を通って、また丸の内へと帰ってくる。1周3.4km、所要18分の市内周遊だ。

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平和通りを貫く新線、左がフェリオ

訪れた日は日曜だというのに、平和通りは車が行き交うばかりで、通行人の姿はまばらだった。人の流れから見ればここは裏通りなのだろうと一人合点し、フェリオや総曲輪通りも歩いてみたものの、休日でこの数だと、やはり商売には厳しいだろうと思わせる。さすがにグランドプラザでは多数の人が憩い、子どもの歓声が響いていたが、総体としては、沈滞した市街地の現状をまざまざと見た気がした。

セントラムに乗っていると、富山駅前から乗車した2人連れのご婦人の話し声が聞こえた。「これ(セントラムのこと)いいわね。楽だし、きれいだし。どうしてうちの町にないのかしら。」 ご婦人方は満足した様子で、グランドプラザ前で降りて行った。自家用車でロードサイドの大型店舗に行くのが習慣化している郊外居住者を市街地へ呼び戻すのは、容易なことではないだろう。しかし、列車で来る遠来の客に対しては、環状線セントラムが駅前で迎えてくれる。バスより明解で快適に利用できるこのシステムが、市の構想どおり人々を招き寄せる装置に育ってくれることを祈りたい。

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(左)富山大橋東詰にある鵯島信号所(2系統)。新橋梁完成後、廃止の予定
(右)2系統の終点 大学前
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1系統に導入された3車体連接タイプのサントラム

■参考サイト
富山地方鉄道 http://www.chitetsu.co.jp/
ウィキペディア 富山地方鉄道富山市内軌道線
http://ja.wikipedia.org/wiki/富山地方鉄道富山市内軌道線
富山市路面電車推進室
http://www.city.toyama.toyama.jp/toshiseibibu/romendenshasuishin/romendensha.html
富山市中心市街地活性化基本計画
http://www.city.toyama.toyama.jp/toshiseibibu/chushinshigaichi/chushinshigaichi.html

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2010年10月 7日 (木)

フィンランド カレリアの歴史と鉄道

Blog_karelia_map1 シベリウス Siberius の「カレリア組曲」の中にある「行進曲風に Alla Marcia」という小曲を好んで聴いてきた。スキップする反復リズムの上に、弦楽と次いで木管が明るく軽快なメロディを紡いでいく。途中で金管が士気を鼓舞するファンファーレを吹き鳴らし、冒頭の主題と何度かの交錯を経て、堂々たる終止を遂げる。

ヤン・シベリウスはいうまでもなくフィンランドの代表的作曲家だが、調べてみると、この曲のオリジナルは、1893年、カレリアの出身者で構成するヴィープリ学生協会 Wiipurilainen Osakunta(英:Viipuri Students’ Association)という学生団体の依頼で、カレリアの歴史劇のために創作された伴奏音楽だった。

■参考サイト
ヘルシンキ・スオミ人クラブ Helsingin Suomalainen Klubi によるシベリウス紹介サイト
http://www.sibelius.fi/

筆者はそのヴィープリ Viipuri という地名に聞き覚えがあった。以前、フィンランドの地図店から取り寄せた旧版地形図の復刻版が、まさにその都市を描いたものだったからだ。しかし現在、世界地図でフィンランドのヴィープリを探そうとしても、見つけることは叶わない。この稿では、激動の近代史に翻弄されて消えたヴィープリ、そしてカレリア地方を、鉄道の変遷とともにたどろうと思う。

Karelian Railway Network 1917 and Present
カレリアの鉄道網の変遷 (左)1917年 (右)現在

シベリウスが曲を書いた当時、フィンランド湾の港町であるヴィープリは、ヘルシンキに次ぐフィンランド大公国第二の重要な商工業都市として栄えていた。町はカレリア地峡 Karjalankannas(英:Karelian Isthmus)の西の喉元に位置していた(上図参照)。カレリア Karelia(フィンランド語ではカリヤラ Karjala)とは、現在のフィンランドとロシアにまたがる地域の名称で、そのうち大公国には、北カレリア Pohjois-Karjala、南カレリア Etelä-Karjala、ラドガ・カレリア Laatokan Karjala(英:Ladoga Karelia)、それに、ラドガ湖とフィンランド湾の間のカレリア地峡が含まれた。

ヴィープリはまた、交通の要衝でもあった。1856年、西のサイマー湖 Saimaa との間にサイマー運河 Saimaan kanava が開かれ、湖水地方との航行が可能になった。鉄道も、1870年にヘルシンキ~サンクトペテルブルク間の東西幹線(下注)、続いて北進するカレリア鉄道が完成し、支線の建設も順次進められていった。

*注 先に開通していたヘルシンキ~タンペレ Tampere 線のリーヒマキ Riihimäki 駅に接続したので、正式にはリーヒマキ~サンクトペテルブルク鉄道 Riihimäki-Pietari-rata。また、単にピエタリ鉄道 Pietarin rata とも言った。ピエタリ Pietari は、フィンランド語の聖ペテロで、サンクトペテルブルク(聖ペテロの都市)を指す。

しかし、20世紀前半はカレリアとヴィープリに厳しい運命を強いた。1809年以来、フィンランドはロシア帝国領の大公国とされていたのだが、自治権の扱いは皇帝が代わるごとに違った。とりわけニコライ2世は、1899年に前帝の融和政策を撤回する自治剥奪の宣言を出したため、国内の強い反露感情を引き起こした。そのような国民主義の高揚期に、カレリアの民間説話を編んだ叙事詩「カレワラ(カレヴァラ)Kalevala」は、フィンランド人の精神的な支えとなった。

彼らの悲願は1917年になって実る。この年の12月、ロシア革命に乗じて、フィンランドは独立を宣言した。しかし、東は社会主義政権となり、西ではやがてヒトラーが台頭してくる。1939年、第二次世界大戦のきっかけとなる独ソ相互不可侵条約が調印されたが、裏で交わされた秘密議定書で、フィンランドはバルト三国とともにソ連の勢力圏とされた。まもなくソ連のフィンランド侵攻が始まった。このいわゆる冬戦争で、フィンランドは果敢に抵抗した。しかし、スウェーデンが協力を拒否したために連合国の援軍が望めず、ヴィープリ陥落が必至の情勢となって、ついに講和を決断する。

1940年に結ばれたモスクワ講和条約は、ラドガ・カレリアとカレリア地峡、内陸のサッラSallaなど国土の1割をソ連に割譲するという過酷なものだった。その反動で、フィンランドはドイツ軍の駐留を認め、物資の援助を受けるようになる。1941年、ソ連を攻撃したドイツに対して、ソ連はフィンランド国内へ空爆を行ったため、フィンランドの対ソ戦が再開された(継続戦争という)。まもなくカレリア旧領を奪回したものの、その後は膠着状態となり、1944年にモスクワで休戦協定が結ばれた。カレリアの国境線は、これによってモスクワ講和条約で定めた位置に戻された。

1947年のパリ講和条約で最終的に国境が確定し、ヴィープリは、ロシア語でヴィボルグ Выборг / Vyborg と呼ばれるソ連の町となった。カレリアに住んでいたフィンランド人の大部分は本国に避難し、その跡をロシアやベラルーシ、ウクライナからの移住者が埋めた。

フィンランドの独立と第二次大戦による国境移動は、鉄道路線にも大きな影響を及ぼしている。先述のとおり、旧ヴィープリは鉄道の結節点だった。カレリアの大地を東西に貫くリーヒマキ~サンクトペテルブルク鉄道に対して、北カレリアのヨエンスー Joensuu に向けて、カレリア鉄道 Karjalan rata(ヴィープリ~ヨエンスー)311kmが、大公国時代の1894年に全線開通していた(上図左側が1917年独立当時の路線網)。

カレリア鉄道の途中駅アントレア Antrea(現カメンノゴルスク Kamennogorsk)からは、1892~95年に、サイマー湖畔のヴオクセンニスカ Vuoksenniska(現在はイマトラ Imatra 市内)へ支線が敷かれた。ここは古くからヴオクシ川 Vuoksi にあるイマトラの早瀬 Imatrankoski が名所で、裕福なサンクトペテルブルク市民に人気のある保養地だった。しかし、独立後はロシアからの来客が途絶え、代わりに、早瀬の落差を利用する水力発電で立地した工場のための貨物輸送が主となった。

同じく途中駅のエリセンヴァーラ Elisenvaara からはさらに2路線が分岐していた。一つは1908年に完成した、パリッカラ Parikkala 経由でサヴォンリンナ Savonlinna 方面へ行く路線で、サンクトペテルブルク~ヒートラ Hiitola 間の短絡線とともに、はるばるボスニア湾の港町ヴァーサ Vaasa まで通じるフィンランド横断ルートを構成していた。もう一つは独立後の1937年に全通したシンペレ Simpere 経由の支線で、先のヴオクセンニスカへ連絡した。

第二次大戦後、国境がカレリア鉄道の西側に固定されたため、これらの路線上には越境個所が生じてしまった(上図右側)。フィンランド人の一斉退去により新国境をはさむ旅客流動は激減し、鉄道の存在意義は極端に薄れた。

現在、最も北にある(旧)カレリア鉄道本線の越境地点ニーララ Niirala 前後は、貨物線としてのみ残る。エリセンヴァーラ~パリッカラ間は運行休止となり、フィンランド側ではレールも撤去された。エリセンヴァーラ~シンペレも廃線後、道路に転用された。カメンノゴルスク(旧アントレア)からの支線は残っているが、旅客列車は国境手前のスヴェトゴルスク Svetogorsk(旧エンソ Enso)までのようだ。かくして旅客列車が越境しているのは、ヘルシンキ~サンクトペテルブルクの幹線に限られている(下注)。

それに対してフィンランド側では、ヘルシンキ方面から直通できる新たなカレリア鉄道が、既存路線の欠損区間をつなぐ形で計画された。1966年に全通して以降、この地方の幹線機能を果たしている。

*注 2006年にヘルシンキ郊外のケラヴァ Kereva から、リーヒマキ Riihimäki を経由せずにラハティ Lahti へ短絡する高速線が開通した。さらに2010年12月から、現在5時間半かかるヘルシンキ~サンクトペテルブルク間を2時間短縮する高速列車アレグロ Allegro が運行を始める。

Blog_finland_20k_viipuri筆者の手元にあるヴィープリの旧版地形図は、1937~38年に作成された1:20,000の復刻版だ。読取りの便を図って、陸部に薄いアップルグリーン、水部に水色の地色をつけているが、原本は等高線が茶色、水部と地物が黒の、簡素な2色刷りだ。ヨーロッパに再び戦争の暗雲が漂い始めていた時期であり、有事に備えて編集が急がれたことだろう。

この地図は、フィンランドの国土測量局によってウェブ上でも公開されるようになった。「カレリアの地図 Karjalan Kartat」と題されたサイトがそれだ。1:20,000地形図 Topographical map は未作成のエリアがあるので、全域をカバーする1:100,000地形図と、縮尺非表示の「一般図 General Map」を併せて提供し、旧フィンランド領カレリアの姿を概観できるようにしている。

1:20,000地形図は、ヴィープリのような2色刷り以外に、水部に薄い青緑を入れた3色刷り、道路に赤の塗りを加えた4色刷りの図葉もあるが、どれも線描主体でドイツの旧1:25,000の雰囲気をもつ。共産主義ソ連と決別してからドイツとの関係が深まったので、実際に技術協力を得ていたのかもしれない。

それに比べて、1:100,000は道路を赤、水部を薄い青緑、そして一部の図では森林をクリームイエローに塗ったカラフルさが印象的だ。文字のデザインなどから見て、ロシア時代の原版(あるいは図式)を継承しているようだ。「一般図」は交通網と水系、主要集落、行政界だけを示した概略図だ。戦後の作成と見えて、変更後の国境線が描かれているが、旧国境も赤で加刷してある。

■参考サイト
カレリアの地図 http://www.karjalankartat.fi/
 説明は英語版あり。画面上部のイギリスの国旗のマークをクリック。

Blog_karelia_map_hp
「カレリアの地図」サイトイメージ

また、戦後ソ連が作成した地形図もウェブ上で見ることができる。参考までにヴィボルグ(ヴィープリ)周辺の1:100,000地形図を掲げておこう。周囲がカットされているため作成時期は不明だが、フィンランドが後にロシアから租借したサイマー運河 Сайменский канал やマリー・ヴィソツキー島 Малый Высоцкий(フィンランド語でラヴァンサーリ Ravansaari、下注)の境界が明示されているので、条約が締結された1963年以降であることは確かだ。ヴィボルグ市街地の範囲は、カレリア地図からほとんど拡大していない(右図はいずれも原図×60%。Map images courtesy of maps.vlasenko.net)。

Blog_karelia_map3
ヴィボルグ(ヴィープリ)

Blog_karelia_map4
サイマー運河の租借地

*注 1856年に開通したサイマー運河は、カレリアを含むフィンランド東部の発展に貢献したが、国境移動で東半分がソ連領となったため、使用できなくなった。1963年に締結された条約で、フィンランドがソ連領の運河地帯とフィンランド湾への出口にあるマリー・ヴィソツキー島を租借することになり、拡張工事を実施したうえで1968年に運用が再開された。

■参考サイト
サイマー運河(「水上交通」Merenkulku.fiのサイト)
http://portal.fma.fi/sivu/www/fma_fi_en/services/fairways_canals/the_saimaa_canal

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マリー・ヴィソツキー島 (図左上の網掛け部分)

★本ブログ内の関連記事
 旧ソ連軍作成の地形図 II
ソ連時代の地形図の閲覧サイトを紹介している

カレリア問題に関して、ウィキペディア英語版には次のように記されている。「ロシア、フィンランド双方とも、2国間にはいかなる未解決の領土紛争も存在しないと繰り返し表明してきた。フィンランドの公的立場は、平和的交渉を通して境界を変更することはあるが、ロシアが割譲地域を返還する、あるいは問題を議論する意思を示していない以上、当面表立って会談を持つ必要は全くない、というものである」。

フィンランドの世論調査では、返還を求めないという意見が過半を占める。返還された場合、割譲地域に居住しているロシア系の人々をフィンランド社会に取り込むことになる。そのために生じる社会的コストの多さを懸念しているからだという。

シベリウスに作曲を依頼したヴィープリ学生協会は今も合唱団として存続しているし、フィンランドの人々にとってカレリアが魂の故郷であることに変わりがない。しかし、その地が置かれた現実については、案外冷やかに受け止められているようだ。

■参考サイト
Wikipedia英語版「フィンランドの政治におけるカレリア問題」
http://en.wikipedia.org/wiki/Karelian_question_in_Finnish_politics

カレリアの1917年鉄道網の地図作成にあたっては、
http://www.rhk.fi/in_english/rail_network/statistics/
にある統計資料 "Finnish Railway Statistics 2010" 1.3 Sections of Line According to Date When Opened for Traffic を使用した。

★本ブログ内の関連記事
 フィンランドの鉄道地図

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