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2009年11月 5日 (木)

樺太 豊真線を地図で追う

サハリン、日本名 樺太(からふと)は、南北約950kmもある大きな島だ。1905年のポーツマス条約、いわゆる日露講和条約によって南半分に当たる北緯50度線以南が割譲されてから1945年のロシアによる占領まで、日本の鉄道が走った舞台でもある。

Blog_hoshinsen_minimap 徳田耕一氏の「サハリン-鉄路1000キロを歩く」(JTBキャンブックス、1995)によると、最初の路線は1906年に、南岸の大泊(おおどまり、後の楠渓町駅、開通当時は和名改称前でコルサコフと称した)から豊原(同 ウラジミロフカ)間に敷かれた軍用の軽便鉄道だそうだ。1910年に内地と同じ1067mmに改軌、その後着々と延伸が進められて、1943年の国有鉄道化のときには路線延長が694.8kmに達していた。路線網の骨格をなすのが、大泊から鈴谷平野を経て島の東側を北上する東海岸線(国有化後は樺太東線)と、西岸に沿う西海岸線(同 樺太西線)、そして東西連絡の目的で建設された豊真(ほうしん)線だ。豊真という名称は、列車の起終点である豊原と真岡の地名を取ったもので、1925~28年にかけて開通し、延長は83.9kmあった(豊原~手井間)。

豊原は現在、ユジノサハリンスクЮжно-сахалинскとしてサハリン州の州都だが、当時も樺太随一の町で(1937年に市制施行)、豊富な森林資源を背景に製紙工場などが立地していた。一方、西海岸の真岡は、対馬海流と寒風を遮る山脈のおかげで、冬の間流氷に閉ざされる大泊港に代わる不凍港の一つとして利用価値が高かった。両者を結ぶ鉄道の建設は、産業のさらなる発展に貢献するものと大いに期待された。しかし、この間には西樺太山脈とその支脈が横たわっているため、それをどのように克服するかが計画の焦点だった。その結果、豊真線は、長い連続勾配やスパイラル(ループ線)を備えた樺太きっての山岳路線として知られることとなる。そのようすを当時の地形図で追ってみたい。

全体図
Blog_hoshinsen_map0

上の全体図は1935(昭和10)年発行の1:200,000帝国図だ(以下の説明は地名を新字体で表記)。図の右端に豊原町がある。豊真線は南北に延びる「本線」、すなわち東海岸線から分岐して、しばらく北進した後、最初の山越えにかかる。滝の沢駅のすぐ西で峠のトンネルを抜けて、留多加(るたか)川の上流域を下っていくが、二股(ふたまた)で進路を転じて二番目の峠道に挑む。宝台(たからだい)信号所の先で峠を越えたあと、スパイラルを経て海岸の手井(てい)に降りていき、西海岸線に合流して真岡に到達する。真岡駅の手前から港への支線が確認できる。

山越えの区間を詳しく見るために、1:50,000地形図を参照しよう。最初の山越えは、豊原から2つ目の鈴谷(すずや)駅と次の奥鈴谷駅のほぼ中間、線路が北西に向きを変えるあたりから始まる【図1、図2】。20~25‰の急勾配が16kmほども続き、貨物列車を牽引する蒸機にとっては胸突き八丁の難所だったに違いない。並行する道路(豊真山道)から大きく北にはずれていることからもわかるように、これでも勾配を抑えるために直登を避けて、いわゆる高巻きのルートを採っている。張り出す尾根を切通しや計8個のトンネルでさばきながら、山襞をくねくねと縫っていくのはそのためだ。そして上り坂の終盤は、大きなS字カーブを描いて高度を稼ぐ。接続道路のない奥鈴谷はもとより、峠の手前の滝の沢も周囲に人家はなく、列車交換や補給のために設けられた駅だった。

なお、終戦直前の1945年7月、小沼~奥鈴谷間が開通したことにより、豊原~奥鈴谷間が廃止されたという(ウィキペディア日本語版「豊真線」による)。地形図には表されていないので、空中写真をもとにして図1にルートを加筆したが、これでわかるように、近くを走っていた既存の川上線とつなぐことで豊真線の短絡化を図ったのだ。未完に終わった西海岸線と同様、戦況が緊迫するなかで、調達困難なレールなどの資材を国境付近の軍事路線に転用するのが目的だったと思われる。その後、ソ連時代になってもとのルートに戻されたため、この区間は廃線となった。

また、引用した地形図には短絡線分岐地点の線路の北側に、築堤と切通が描かれている。一見旧線跡のようだが、この区間の開通が1928年、地形図の測図はわずかその1年後だ。単純に線路改良とみなすには無理があるものの、真相は不明だ。

図1
Blog_hoshinsen_map1
図2
Blog_hoshinsen_map2

本論に戻ろう。滝の沢駅は標高407mと、この路線のみならず樺太全体で最も高い地点にある駅だった。道路は南にそれて標高523mの春日峠を乗り越えていくが、鉄道は長さ1km弱のトンネルで西に抜け、混合樹林に埋め尽くされた中野川の脇を、小刻みなカーブを繰り返しながらひたすら下っていく【図3】。左から大曲川と道路が合流する頃には、谷も少し開けて中野駅に着く。峠の前後は駅間距離が長く、1930(昭和5)年5月の「汽車時間表」(日本旅行協会)によると、奥鈴谷~滝の沢間は13.4km、滝の沢~中野間は12.9kmもあって、いずれの区間も列車は30~40分を要している。

図3
Blog_hoshinsen_map3

まもなく中野川の蛇行が始まって、流域の勾配が緩くなったことを知らせる。清水駅を経て、一帯の行政区である清水村の中心、逢坂(おうさか)に立ち寄るために、榊原峠の南側を短いトンネルで抜ける【図4】。逢坂駅は集落の中心から7~800m離れているが、すでに駅前集落が形成されつつある。

道路はそのまま西へ進んで熊笹峠を越えるのだが、線路は南へ向きを変えて、逢坂川に沿って下る。清水川が合流して留多加川と名を改めた二股駅付近は、谷幅が1km以上にもなって、山中ながら車窓に広々とした眺めが展開したはずだ。標高も128m(駅北の標高点による)まで下がってきた。しかし、のどかな風景もここまでで、西海岸に出るためには、二つ目の山越えを準備しなければならない。

図4
Blog_hoshinsen_map4

留多加川を渡るところで、ルートは大きく東側にたわんでいる【図5】。不自然な迂回に見えるが、等高線を読むと、二股の集落が載っている河岸段丘から一段下に降りようとしているようだ。横断する際の土工量を減らすためだろう。話はそれるが、地形図ファンなら、すぐ南の沼倉沢の谷が河川争奪を受けて、留多加川に短絡していることに気づくはずだ。谷頭に池があり、断ち切られた断面がぽっかり空いた、いわゆる風隙(ふうげき)になっていることで判断がつく。線路はかつて沼倉沢の上流だったはずの谷に沿って上っていく。

この沢登りは前者ほど深くはなく、峠の手前にある宝台駅(地形図では信号所、1933年に駅に昇格)まで二股から9.1km、峠の下を抜けるトンネル入口の標高も約240mに過ぎない。しかし、峠の向こう側には、当線の名物となったスパイラル、いわゆる宝台ループ線が控えている【図6】。線路は直線状に尾根を2本串刺しにしてから、反時計回りに降りていく。上下の線路が立体交差する地点では、上部側を上路トラスの鉄橋にして、トンネルから出てきたばかりの下の線路を斜めにまたいでいた。このような凝った線形にしたのは、1.5kmほどの直線距離で100m以上ある高低差を一気にかせぐためだ。ループ線そのものの延長は1643m、高低差約36mという(「サハリン-鉄路1000キロを歩く」による)。

これで急勾配は去り、あとは手井川に沿ってゆっくり下っていく。池ノ端駅は地名の由来である貯水池より1km以上も川上で、集落も見当たらない。これも列車交換用に設けられたのだろう。地図に樺工貯水池とあるのは、真岡にある樺太工業(のち合併して王子製紙)の製紙工場のための用水池だ。線路はその北側を抱き込むように通過し、まもなく海岸線に出て、西海岸線との乗換え駅手井に到着する。真岡へは海岸沿いにもう1駅だ。

図5
Blog_hoshinsen_map5
図6
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先述の汽車時間表では、豊原~真岡間86.9kmに4往復の旅客列車が設定されていて、途中、中野と手井にだけ停まる最速列車で所要2時間58分、各駅停車は4時間以上を費やしている。ソ連時代になっても運行は続けられたが、1970年に最狭部のアルセンチェフカАрсентьевка(真縫)~イリインスクИльинск(久春内)間に北部横断線が開通すると、東西交通の主流はそちらに移行した。急勾配の連続もさることながら、トンネルの断面が狭軌限界のため、大陸の広軌用車両を台車だけ狭軌に交換しても通行できないことが、貨物列車の運行には致命的だったからだ。

ペレストロイカが進んだ1989年以降は外国人観光客のツアー列車にも開放されていくが、1994年、トンネル内で落盤が発生して通行不能に陥る。時すでに地域の旅客輸送は機動性のあるバスに置き換えられつつあったため、結局復旧の手が入ることなく中間部は放棄されてしまったという。

■参考サイト
ウィキペディア 豊真線 http://ja.wikipedia.org/wiki/豊真線
ウィキペディア 宝台ループ線 http://ja.wikipedia.org/wiki/宝台ループ線

ソ連時代の地形図に描かれた豊真線は、下記で紹介している。
本ブログ「ロシアの鉄道を地図で追う」 サハリン島のループ線
http://homipage.cocolog-nifty.com/map/2008/05/post_b431.html

使用図葉:
陸地測量部1:200,000帝国図 豊原 1935(昭10)年製版
陸地測量部1:50,000地形図
 豊原、小沼、以上1929(昭4)測図
 逢坂、瑞穂、樺太眞岡、廣地、以上1930(昭5)測図

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