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2009年8月27日 (木)

ベルギーの地形図地図帳

ベルギーの官製地形図は、図郭で区切った1枚もの(区分図)だけでなく地図帳としてもまとめられていて、全土をあまねく眺めようと思うときに重宝する。2009年現在、1:50,000と1:100,000の2種類があり、いずれもラノー出版社 Lannoo Editions が出版元になっている。

Blog_belgiumatlas1 このうち前者は、1:50,000地形図がデジタルデータベースから編集する新版にすべて置き換えられたのを記念して、2001年に出された(右写真)。タイトルは、「ベルギー地形図地図帳 Topografische Atlas België / Atlas Topographique Belgique」で、ベルギー国土地理院IGNのサイトによると、10万部を売り上げ、初めての試みとしては成功だった。どの国でも地図帳といえばふつう学習地図か道路地図であり、1:50,000のような大きな縮尺で、国じゅうの地勢や土地利用景が参照できる資料は目新しかったのだろう。

判型はA4より一回り大きい縦32cm×横25cm、358ページの上製本で、約300ページの地形図本編と33ページの地名索引が収められている。冒頭には8ページのイントロダクションが設けられ、地形図データベースの紹介、1:10,000図からの編集方法、新図式の特徴などが、オランダ語とフランス語で簡潔に説明されている。索引図は、地図帳の該当ページを示すものとは別に、区分図の図郭を表示したものも用意されていて、経年変化などの調査で旧図を参照するときに便利だ。

カラフルで詳細な描写が特徴の新図式については、以前にも少し紹介した(本ブログ「ベルギーの地形図」)が、地図帳に収載された地図と市販の区分図とでは、少し印象が異なる。というのは後者の等高線は無骨なほど太いのだ。等高線の間隔が5m(ただし平地は2.5m、山地は10m)で、起伏が比較的大きい南部では表示の密度が高いため、地物や地名表示と重なって見た目にうるさく感じられた。このような仕様にした理由は知らないが、地勢を強調する意図があるのなら、ぼかし(陰影)で表現した方がはるかに分かりやすいだろう。

この地図帳の第2版が、2008年12月に登場している。表紙は初版とは変わっていて、後述する1:100,000地図帳と共通性を持たせたようだ。地図は2002~07年に収集したデータから編集されたもので、問題の等高線は、サンプル図を見る限り、区分図と同じスリムなものになった。

また、DVD版の1:50,000ラスタデータも、北部(フランデレン地域)+首都 Vlaanderen en Brussel と、南部(ワロン地域)+首都 Wallonie et Bruxelles の2本に分けて、同じ出版社から発売されている。

Blog_belgiumatlas2 後者の1:100,000地図帳には、前身が存在する。これがいわばベルギー官製地図帳の元祖で、同じラノー出版社から1992年に刊行されたものだ(右写真)。判型は縦30.5cm×横24.5cm、地図本編102ページ、地名索引18ページで、既製の1:100,000地形図を使用しているが、残念なことに等高線だけは省いてあった。これを topographique(トポグラフィーク、地形表現のある)と称したのでは不当表示と指摘されかねないが、先行する隣国オランダのように、官製地図をベースにした精度のよさを主張したかったのだろう。

Blog_belgiumatlas3 その後、1:50,000版が出たことで、縮尺のより小さい1:100,000は役割を終えたかに思われたが、2008年にコンパクトな判型(縦22.5cm×横17.5cm)で再登場した(右写真)。タイトルも「Topografische Wegenatlas / Atlas Routier Topographique」に変わっていて、うまく訳せないが、地形図を使った、あるいは地形が分かる道路地図帳ということだ。用途を絞ることで、1:50 000との差別化を図ろうとしているらしい。同社からは2001年にも似た仕様の1:100,000道路地図帳が出ていたので、その後継ともいえるが、当時は topographique とは名乗らず、IGNとの連携もうたっていなかった。

今回の地図でもやはり等高線が省略されているが、代わりに地勢を表すぼかし(陰影)がつけられている。その点で topographique の看板には背いていないのだが、標高データがほとんどないので、土地の高度を知ることはできない。集落はくくり(縁取り)のないアプリコット色のベタ塗りで範囲を示す方式で、ベルギー官製としては新しい表現だ。先述の1:50,000地図帳(初版)で紹介されている1:100,000デジタル図化の試作品では、従来どおり黒抹家屋の記号も併用されていたのだが、それに比べると簡略化が徹底された。

一方で道路網はさすがに詳しく、地方の主要道まで道路番号が振られているし、鉄道との交差が平面(踏切)か立体かも分かる。しかし、最近の道路地図なら当然ついている旅行情報や市街の拡大図は皆無で、ドライバーの立場からは魅力的とは言いがたい。ミシュラン Michelin やブレー・フォルデクス Blay Foldex を袖にしてまで乗り換えるユーザーは少ないのではないか。この地図帳の意義は、区分図の更新が止まったままの1:100,000がデジタルフォーマットで復活したことをアピールする点にあるので、実用面での期待は、手軽さを含めて別のところに見出すべきだろう。

これらの地図帳は、IGNのサイトで購入できる(下記「官製地図を求めて」参照)。

■参考サイト
ラノー出版社(ラノーグループのサイト) http://www.lannoo.com/
 仏書の刊行はグループ内のラシーヌ出版社が行っている。
IGNによる1:100,000地形図地図帳の紹介(仏語版)
http://www.ngi.be/FR/FR1-17.shtm
「官製地図を求めて-各国地図事情 ベルギー」
http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_belgium.html

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2009年8月20日 (木)

ベルギー アン鍾乳洞トラム II

Blog_hansurlesse_map1
アン・シュル・レッス周辺図

アルデンヌ山中の鍾乳洞を見に行くトラムについて、前回は周辺の路線群とともにその歴史を追ってみた。1950年代に接続路線はすべて廃止され、アン・シュル・レッス Han-sur-Lesse ~アン鍾乳洞 Grottes de Han 線だけが唯一営業を続けることになった。路線廃止に伴ってSNCVから委託を受けていた運営会社が解散したため、新たに設立されたアン鍾乳洞地方鉄道会社 S.A. du Chemin de Fer Vicinal des Grottes de Han が委託契約を引き継いだ(2008年からは、鍾乳洞を運営するアン鍾乳洞会社 S.A. de la Grotte de Han の直営形式に変更)。

鍾乳洞線が残りえた理由はほかでもない、クルマという強敵を排除し、独占的な地位を守ることができたからだ。実際、列車の運賃は鍾乳洞の入場料に含まれており、周辺は自然動物保護区で立入りが制限されていることもあって、この列車に乗らない限り入洞することができない。とはいえ、1906年に登場したままの状態で、今日を迎えているわけではなく、この間に二度の大きな路線変更を経験し、存続の危機にも直面したことがある。

Blog_hansurlesse_map2
アン鍾乳洞周辺図

路線変更の一つは、1968年3月31日に終点側(鍾乳洞方面)のルートで実施された(右図参照)。前回紹介したように、終点は、創業者の意図で森と谷を眺望する山上に設定されたのだが、すでに1956年、数百mルートを短縮して、鍾乳洞の入口により近くなるように終点を移設していた。それでも訪問者は、下車してから山を歩いて下りなければならないことに変わりなかった。

そこで鍾乳洞会社は、アクセスを根本的に改良するために、洞窟入口前に駐車場を造成して、バスと車をそこまで引き入れようと考えた。計画が明らかになると、アンの町の人々は反対の声を上げた。路線を守る意図もあっただろうが、何よりも観光客が町を素通りしてしまうことが大きな問題だった。

その代案として建設されたのが、現行の路線だ。ルート中盤から180度回転して山を上っていた区間を廃止して、谷底に沿いながら洞窟入口に直接向かうように改めた。新線部分は1.7kmあるとされ、距離で見れば、全線の半分近くを置き換えた計算になる。地表の徒歩区間を最小限にしたことは、訪問者の負担を軽減するだけでなく、動物保護区の厳格な運用にも寄与しただろう。旧線は、終端部に車庫があったため、1969年のシーズンの終わりまで維持され、車庫が鍾乳洞出口付近の現在地に移設されてから廃止された。ちなみに、列車で見ることができなくなったアルデンヌの森の眺望は、動物を見て巡るサファリカーに乗車することで、今でも体験できる。

Blog_hansurlesse_map3 もう一つの路線変更は、起点の移転だ(右の拡大図参照)。創業時から使われたのは、教会前から北に延びる道沿いで、往時はここがロシュフォール Rochefort とウェラン Wellin を結ぶ軌道の中間駅だった。

古い地図を見ると、ここでは軌道はウェランに向かって右(西)側に寄せて敷かれていたようだ。本線からの客を受けた鍾乳洞線の列車は、教会前の交差点を右に曲がりながら、道路を斜めに横切り、今度は道路の左(南)側に張り付く。そして直後に左へ分岐して、専用線となる。鍾乳洞線としての道路併用区間はごくわずかだが、町の中心部で交差点を横断することや、単線のため車と逆方向に走ることなどが危険と指摘されていた。

そこで、1989年7月に路面区間を廃止して、道路の南側の公園に新たなループ線を設け、方向転換とともに乗降ができるように整備した。多客時に続行運転を行う場合は、このループ線に列車を直列に停車させている。

一方、存続の危機は路線の廃止というより、近代的な交通機関へ脱皮させてはどうかと問いかけるものだった。一つは、ケーブルキャビン téléphérique の運行で、ケーブルに吊るされた数人乗りのゴンドラが一定の間隔を置いて空中を行く。発表するや同じように強硬な反対運動に遭ったため、トラムと並行して運行するという譲歩案が示された。

これとは別に、路線の刷新のために電化計画が提案されているが、中でも、地上設備を大幅に簡略化できるGLT、すなわち誘導型軽快電車 Guided Light Transit は魅力的なものだった。架線からの直接受電またはディーセル発電でエンジンを回すハイブリッド型で、1本のガイドレールか、レールなしでも運行が可能とされた。ロシュフォールの国鉄廃線跡でガイドレール方式による走行試験が行われるなど、地域でも期待をかけられ、あわやトラムの置き換えかと噂された。

結局どれも実現することはなく、結果的に1930年代に製作されたトラムが引き続き稼動している。歴史遺産としての価値を考えれば、これはこれで貴重な存在だ。

さて、ここでトラムの話を一時中断して、鍾乳洞のシチュエーションを知るために、レッス川が創り出したアン付近の地形を概観しておきたい。先述したアンの地図では、路線の変遷とともに、1:10,000官製地形図を参考に20m間隔の等高線を書き込んだので、およその地形がわかるだろう。レッス川 Lesse は図の右下から流れてきて、ベルヴォーの裂け目 Belvaux Chasm(ベルヴォーは付近の地名)と注記した場所から地中に吸い込まれる。そして、図の中央にある洞窟出口 Exit of the Cave で再び地表に現れ、アンの町をかすめるようにして広い盆地に流れ出していく。

大昔、川は、標高180mの等高線が囲む谷を蛇行しながら、地表を北へ流れていたはずだ。そして図の右上で南西に方向を転じて、洞窟の出口付近で現在の流路に合していたと考えられる。しかし、川が取り巻く標高280mほどのボワーヌ森 Boine Forest は、しみこんだ雨水が石灰岩を溶かし込んで、胎内に無数の空洞が作られている。川の水はやがてそちらに流れ込むようになり、谷の表面を通らなくなった。

蛇行が激しくなると、攻撃斜面どうしが接近して、ついに流路が短絡してしまうことがある。この図でも、ベルヴォーの裂け目のすぐ北東に、古い蛇行跡と撓谷(じょうこく)丘陵が見られる。レッス川の流路変更はそれとは異なるタイプの短絡だが、このように地上から消える川は石灰岩地帯、いわゆるカルストでしばしば出現する。

公開されている鍾乳洞探索コースは、レッス川の流入口より少し下流の山腹に開いた洞窟入口 Entrance of the Cave から地中に入り、複雑に絡み合った洞内を巡ったあと、行程の最後の方でようやく川の本流に出会う。そして、地底湖を経て、レッス川とともに洞窟出口から地表に回帰する(図にある入口~出口間の点線は対応関係を示したもので、実際の径路を表してはいない)。

筆者は20数年前に一度このトラムに乗ったことがある。古い話で恐縮だが、本稿を締めるにあたって、当時のメモをもとにトラムで行った鍾乳洞見学を紹介しておきたい。

Blog_hansurlesse1
町のトラム乗り場
(左が教会)
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マロニエの並木道
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車庫前を通過
Blog_hansurlesse_leaflet
地底湖を行くボート
(当時のリーフレット)

「ロシュフォールから乗ったバスは、わずか数名の客を乗せてアンに着いた。アンのバス停を降りると、目の前に鍾乳洞入口ゆきのトラムが停まっている(注:当時はまだループが完成する前で、教会前の路上に乗り場があった)。切符は教会の向かいのインフォメーションで買うように言われた。鍾乳洞とサファリツアーを込みにした切符もあったが、時間の余裕がないので鍾乳洞だけにする。

指定された13時発は乗客が多かったらしく、続行運転になった。観光客を満載したオープントロッコを牽引するのは、ディーゼル動力の小さな機関車だ。教会前を出てまもなく通りをはずれ、緑の並木道(注:当時、マロニエ通り Rue des Marronniers は麗しい並木道だった。写真参照)をくぐって、山中へ入っていく。がたがたとよく揺れるが、少しの辛抱だった。

列車は山の中の、側線のあるところで停まった。山すそに小さな洞窟の入口があった。洞内はガイドが引率するので、ここでオランダ語班かフランス語班かを決めなければならない。英語班はないが、後で聞いたら英語のパンフレットももらえるそうだ。パリから来たというだけの理由で、フランス語のガイドに付いて、洞内へ出発した。

けっこう距離は長かった(注:洞内の歩行距離3km)。説明はほとんどわからないが、くらげや海草のような不思議な形の鍾乳石を眺めながらどこまでも歩く。手近な鍾乳石はあらかた折られているのが痛々しい。背丈の3倍はあるみごとな石の柱があって、ミナレー(注:ミナレット、モスクの尖塔)だと言っていた。

これだけなら日本の鍾乳洞と変わらないが、足が疲れた頃に大天井の空間に出た。なんとそこは地底のカフェだった。テーブルにつくと巨体のおばさんが飛んできて、注文をとって回る。要らないとは言えない迫力。カフェオレを頼む。一息ついてからしばらく進むと、ガイドさんが急に明かりを落とした。突然、暗闇のはるか上方に火が点った。それが風になびきながら下ってくる。男がたいまつを掲げて駆け下りてきたのだ。ガイドさんがひとしきり高さや何かをアピールしている(注:天井の高さ62m、幅145mの洞内最大の広間)。

まもなく地底の湖を行くボートの乗り場に出た(注:ボートは老朽化のため 2008年限りで廃止。歩行路を新設)。電動モーターで音もなく進むが、まるでジュール・ヴェルヌの世界だ。しかし、この舟旅はあっけなかった。洞の出口までものの5分もなかったからだ。やれやれと思ったそのとき、大きな爆音が洞内に轟いた。一行は度胆を抜かれた。大砲を放つのは、洞窟に反響させて悪霊を追い払う古いおまじないだそうだ。たいまつ男のパフォーマンスといい、これといい、鍾乳洞めぐりを一編のショーに仕立てるところが、日本と違ってあくどくもあり、面白くもあった。

ボートを降りると、出口に『ガイドをお忘れなく』と立て札があって、ガイドさんがチップを受け取っている。ここから歩いて町へ戻る。雲間から日差しがもれ始めた草原は、牛が草をはむのんびりした風景。狭い洞内をくぐってきた身には妙に新鮮に感じられた。」

Blog_hansurlesse_walkingmap アン・シュル・レッスの旅行地図は、ベルギー国土地理院IGNが刊行している(右写真、表紙は鍾乳洞出口近くのレッス川。現行第2版は表紙が異なる)。縮尺1:10,000の地形図で、裏面に市街地の拡大図もついている。

車でないと行けない場所のように見える(実際、ほとんど車か観光バスで来訪)が、首都ブリュッセルからの公共交通の便は意外に悪くない。2009年夏の時刻表によれば、ブリュッセル中央駅 8:37(毎日)発ルクセンブルク行きICで、ジュメル Jemelle 10:22着、駅前 10:29(土休日は 10:34)発ウェラン Wellin 行きTECバスで、アン 10:43(同 10:48)着。所要2時間強。帰りのTECバスは、アン発 16:17(水曜除く)、17:17(毎日)、18:17(毎日)など。ジュメルでブリュッセル行きICに接続している。

国鉄SNCB時刻表番号162:ナミュール Namur ~ルクセンブルク Luxembourg 線、TECバス29系統:ジュメル Jemelle ~グリュポン Grupont 線を参照。

■参考サイト(再掲)
アンのトラム(個人サイト) http://www.tramdehan.net/
 本稿のウェラン路線群の歴史は、このサイトの記述を参考にした。
アン鍾乳洞(観光局サイト) http://www.grotte-de-han.be/
 英語版あり。洞内の案内やオンライン予約がある。
アン・シュル・レッス付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=50.1245,5.1890&z=15

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2009年8月13日 (木)

ベルギー アン鍾乳洞トラム I

Blog_hansurlesse1 ベルギー南部のアルデンヌ山中に、鍾乳洞を見に行くトラムが走っている。延長わずか4km足らず、遊戯施設にさえ見えてしまうささやかな施設だが、かつてベルギー全土で活躍していたメーターゲージ(1m軌間)の地方軌道 vicinal tram の系譜を引く貴重な存在だ。

同じ軌道でも前回紹介したキュストトラムは、海岸リゾート地帯を貫いていたがゆえに、現代的なLRT仕様へとみごとな進化を遂げた。対照的にこちらは当時のひなびた姿を保ったまま、観光地への足として生き延びている。奇跡ともいうべきトラムの過去と現在を、現地サイトなどの資料により2回に分けて紹介しよう。

*注 Les grottes de Hanを「アン洞窟」「アンの洞窟」と訳した資料もあるが、日本ではこのような洞窟を鍾乳洞と言い習わしているのでそれに従う。

Blog_hansurlesse_map1 トラムは、アン鍾乳洞トラム Tram des grottes de Han と呼ばれる。舞台は、北海に流れ下るマース川 Maas、フランス語でムーズ川 Meuse の支流であるレッス川 Lesse の中流域にある盆地だ。その一角に、アン・シュル・レッス Han-sur-Lesse(「レッス川に臨むアン」の意)という小さな町がある。町の中心部から山の裏側にある鍾乳洞の入口まで、洞内見物に出かける人々を運ぶのがトラムの日課だ。

いまは接続する鉄道のない孤立した小路線になってしまっているが、かつては広範な路線網に組み込まれて、幹線の列車で訪れる観光客をリレーする最終ランナーだった。

トラムの説明をするには、この地方の路線網の盛衰を振り返っておく必要があるだろう。右上の概略図をご覧いただきたい。この盆地に最初に敷かれた鉄道は、図中、右側を南北に横切っているナミュール Namur ~アルロン Arlon 線で、1858年のことだ。この路線はブリュッセルとルクセンブルクを最短距離で結ぶ標準軌の幹線だが、地形の関係で、盆地に点在する町からかなり離れた谷筋を通り、ジュメル Jemelle、グリュポン Grupont などの駅はまともな集落すらない場所に設けられた。

その後、1885年にSNCV(Société nationale des chemins de fer vicinaux 地方鉄道公社、オランダ語ではNMVB)が設立されて地方軌道の整備体制が確立すると、建設コストの面で有利な軌道敷設の機運が各地で高まりを見せる。ここレッス盆地でも、リュクサンブール Luxembourg 州に属する南部の町や村をグリュポン駅に接続する路線が提案され、1894年にウェラン Wellin ~グリュポン間が開通した。

一方、ディナン Dinant 州に属する盆地の北部では、ジュメルからレッス川沿いにウイエ Houyet を通り、ディナンに向かう標準軌線(図の上部を東西に走る)の建設が進んでいた。1880年のジュメル~ロシュフォール Rochefort 間の開業を皮切りに、1896年までにディナンに到達するのだが、これによって北部の中心であるロシュフォールの町から南下してウェランに至る軌道のプランが議論されることになる。

ウェランを目的地にしたのは既存の車庫や車両を共用できるからだが、もくろみの一つに、途中にあるアンへの観光客の獲得があったのは当然のことだ。案の定、1904年2月にウェラン~ロシュフォール線が開業すると、それまで馬車しかなかった鉄道駅からの交通手段が改善され、認知度が上がったこともあって、アンの町に旅行者が続々とやってきた。

しかし、急速な発展が町の人々を困惑させたのもまた事実だった。町から洞窟まではまだ数km離れていて、馬車か自動車で行き来したものの、田舎道は混雑し、農家は以前のように家畜を移動させることもかなわなくなってしまったのだ。陳情を受けて、その年の10月には、早くも鍾乳洞線の最初の計画が公表された。

計画は、町の中心を走るロシュフォール線から分岐して、背後の山を巻くように上ってフォール岩 Rochers de Faule に達するものだった。谷の山際にある洞窟入口に直接付けなかったのは、SNCVの委託を受けてロシュフォール線の運営会社を率いていたド・ピエルポン de Pierpont の意向だったと言われる。彼は、乗客にアルデンヌの谷と森を見下ろす眺めを提供しようとしていたのだ。「パノラミーク panoramique(展望のいい)」という愛称がつけられた路線は、1906年6月1日に開業し、道路問題は沈静化した。軌道の終点には、ローマ近郊の景勝地の名を取った「ル・ティヴォリ le Tivoli」という休憩所も設けられ、乗客はここで一休みしてから洞窟の入口へと山道を下っていった。

その後は、第一次大戦でのドイツ軍占領により4年間(1916~20年)、周辺の路線を含めて休止の憂き目に遭った以外、第二次大戦中も列車の運行は続けられた。開通時から活躍していたHL型蒸気機関車は、1935年以降、徐々にオートライユ Autorail(気動車)に置き換えられた(1957年に完全無煙化)。このとき導入された最古参の1台とともに、各地の軌道の車両更新や廃止に伴って引き取られた計6台が現役で、お客を載せたトロッコ客車をいまも引っ張っている。

その間に、周辺の路線には転機が訪れていた。戦後、自動車交通が普及して、道端軌道であるグリュポン線、ロシュフォール線、それに1908年開業のウェラン~グレード Graide 間を含むSNCVウェラン路線群 Groupe SNCV de Wellin の運営は不振を極めるようになる。1955年8月31日限りでついに旅客営業は廃止され、細々と続けられた貨物営業も1957年に止められた。

ウェランの車庫が使えなくなったため、鍾乳洞線の終点付近に新たに車庫が建設された。また、ロシュフォールで接続していた標準軌の国鉄ジュメル~ウイエ間も同じ運命をたどり、1959年に廃止された(ウイエ以西はベルトリクス Bertrix ~ディナン線の一部として存続)。

これらの廃止区間にはSNCV直営の代替バスが導入された。SNCVが言語圏別に分割されてTEC(ワロン地域交通会社 Société Régionale Wallonne du Transport)となってからも、29系統(ジュメル~ロシュフォール~アン・シュル・レッス~ウェラン~グリュポン)、166a系統(ジュメル~ロシュフォール~ウイエ)として運行が継続されている。

このような経緯で、鍾乳洞線はただ一つ、盆地の中に取り残された。接続する路線が姿を消し、時刻表にも載らなくなって、すでに50年が経過している。アン鍾乳洞は、日本で言えば秋芳洞のような存在で、ベルギー国内ではよく知られているが、国際的な知名度はさほどでもない。まして、そこを走っている小さな軌道の存在を知る人は少ない。鍾乳洞トラムはどのようにして今日まで存続したか、その身に降りかかった危機や改変を含めて、次回詳述しよう。

■参考サイト
アンのトラム(個人サイト) http://www.tramdehan.net/
 本稿のウェラン路線群の歴史は、このサイトの記述を参考にした。
アン鍾乳洞(観光局) http://www.grotte-de-han.be/
TEC(公式サイト) http://www.infotec.be/
  各路線の時刻表 horaires もある。
アン・シュル・レッス付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=50.1245,5.1890&z=15

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2009年8月 6日 (木)

ベルギー キュストトラム-地図に載らない世界一の軌道

Blog_kusttram ベルギーに、北海沿岸の主要都市を結んでいる電化・複線の鉄道路線がある。延長は68kmと、東海道線なら東京~大磯間にも相当する距離だ。夏のシーズン中は10分間隔で電車がしげく行き交い、300万人が利用する。このようなスケールを持っているのに、ベルギー国内の鉄道地図にも、1:50,000地形図にも載っていない。それが、キュストトラム Kusttram だ。オランダ語のKustは海岸、沿岸の意味なので、ベルギー沿岸軌道と訳されている(写真はパンフレット表紙)。

キュストトラムが地図に載らない理由は、国鉄の路線でないことと、1m軌間(メーターゲージ)のライトレールだからだ。以前紹介したベルギーの鉄道地図はどれも国鉄の路線図だったし、地形図も1:50,000の図式では軌道の記号そのものが設定されていない。

もちろん全ての地図が軌道のありかを無視しているわけではなく、これも以前紹介した本格的なヨーロッパ鉄道地図や1:20,000以上の大縮尺地形図では掲載の対象になっている(ミシュランの道路地図にもある!)。しかし、1:20,000の軌道の記号などは蜘蛛の糸のような微細線で、そのつもりで捜さない限り見逃してしまうから、やはり標準軌の鉄道に比べると、扱い方が軽いと言わざるを得ない。

Blog_kusttram_map キュストトラムの起点は、フランス国境間近のデ・パンネ De Panne だ。そこから東へ向かって点在する海浜リゾートやオーステンデ Oostende のような港湾都市を経由し、オランダ国境に近いクノッケ Knokke まで、ベルギーの海岸線をほぼカバーしている。SNCB(国鉄)線は内陸から沿岸の町を突き刺すように扇状に延びているが、扇の先端同士はトラムで連結されているのだ。デ・パンネ、オーステンデ、ブランケンベルヘ Blankenberge、クノッケの4か所で、国鉄の駅前に停留所があり、利便性も抜群だ(ただし、クノッケは駅前広場の北側の大通りを渡った先)。

今では特別な存在とさえいえるトラムだが、かつては、国内に網の目のように張り巡らされた郊外軌道の一つに過ぎなかった。その沿革は19世紀に遡る。

北海沿岸の路面軌道は、オーステンデを起点にして東西に広がっている。最初に開通したのはオーステンデの西、ニーウポールト=スタット Nieuwpoort-Stad までで1885年のことだ。ただし、この路線は内陸の街道筋をたどる別の線であり、海岸に近接する現路線は1897年、オーステンデ(皇帝桟橋)Oostende (Keizerskaai)~ミッデルケルケ=バート Middelkerke-Bad 間に始まる。また東側では、1886年にブランケンベルヘまで通じているが、これもオーステンデ近郊で、海岸に沿う路線が1905年に新設されている。

その後、海浜の保養地開発に伴って軌道の延伸が繰り返された結果、1908年に東側のオーステンデ~クノッケ間が、1926年には西側のオーステンデ~デ・パンネ間が全通した。さらに国境を越えてオランダ側への連絡線も造られた。電化も1909年から順次進められ、1930年に全線で完了した。

ところで、ベルギーの路面軌道は最初から国営の地方鉄道会社 Nationale Maatschappij van Buurtspoorwegen (NMVB) の手で建設されたものが多い。私鉄として開業した路線も段階的に統合されていき、第二次大戦直後の1945年に最盛期を迎える。当時の路線総延長は4815kmにも及び、標準軌鉄道を動脈とすれば、毛細血管のように地方の隅々に行き届いていた。しかし、1950年代になると、トラックやバス、自動車の普及に押されて、急激な衰退の道をたどることになる。1960年には最盛期の1/5の981kmにまで落ち込み、その後も減り続けて、1990年にはわずか110kmを残すだけとなった。

内陸の軌道網が壊滅していく中でもキュストトラムの運行は続けられたが、1970年代は1時間に1本しか走らない閑散線のままだったという。ところが、バカンスシーズンの道路渋滞を緩和するために軌道系交通機関を活用しようとする潮流に乗って、トラムは息を吹き返す。1980年前後に新たな連接車が大量に導入され、運行頻度の大幅な向上が図られる。1987年の時刻表では、すでにシーズンの日中は7~15分間隔に強化されている。

また、鉄軌道間の乗継ぎを改善するために、1998年、西端のデ・パンネの中心街で終わっていた軌道が3km先の国鉄駅まで延伸され、SNCBの列車と同一ホームでの乗換えが可能となった。並行して、停留所整備、パークアンドライド、電車優先信号など、快適性や速達性を追求する対策が次々と講じられていった。

現在、キュストトラムの路線は、1つの系統として見ると世界最長と言われる。70の停留所があり、全線を乗り通すと2時間20分強を要するが、都市の分布状況からしても短距離の利用が主だ。市街地の軌道はセンターリザベーション(道路中央に設けられた専用路)化され、郊外に出ると道路際の専用線になる。中央部を低床化した現代的な連接車が、海からの風を切ってさっそうと走り去る姿は見るからに頼もしい。

終点の線路はループ(オランダ語でケールリュス keerlus)になっていて、到着したトラムはぐるりと回って折り返す。途中にも区間運転用に数か所、ループや三角線が設けられている。これは、NMVB時代の旧型車両が、電動車の後ろに付随車を最大3両つなぐ構成で、運転台が一方にしかなかったことに由来する。全線複線のメリットで、乗降扉も片側だけ設けられていた。その後は両端に運転台、両側に乗降扉がある一般的な車両が導入されている。

かつての運営会社NMVBの路線網は連邦主義の厳格化で言語圏別に分割され、1991年にフラマン語圏は、フランデレン運輸会社「デ・レイン」Vlaamse Vervoersmaatschappij "De Lijn" に引き継がれた。キュストトラムは、ヘント Gent やアントヴェルペン Antwerpen のトラムとともにデ・レインが運営する軌道事業の一つとなった。デ・レインは2007年に、西フランデレン州 West-Vlaanderen の交通網充実のための意欲的な将来計画(ネプチューン計画)を発表している。

わがトラムの関連では、2014年までの向こう7年間に、軌道強化と停留所のアクセシビリティの改善を図り、混雑区間で運行本数を増やす。次の7年間(2014~22年)で、さらなる運行頻度と速度の向上に投資を行う。そして4つの路線、すなわちコークセイデ Koksijde からフェルネ Veurne 方面、東岸 Oostkust ~ブルッヘ Brugge 間、オーステンデ~ブルッヘ間、デ・パンネまたはフェルネ~フランスのダンケルク Dunkerque 間の新設をめざす、としている。

1番目は海岸と国鉄駅をつなぐ短い新線だが、2番目と3番目は国鉄線と競合し(あるいは転換?)、4番目は旅客運輸が廃止された国境越えを復活させるものだ。果たして10数年後には、この地方にどのような鉄道地図が描かれるのだろうか。

■参考サイト
キュストトラム http://www.dekusttram.be/
 トップページで降車ボタンを押すと次のページへ。画面最下部にメニューがある。路線図は Kusttram-route、時刻表は Dienstregeling
キュストトラムの写真集 http://www.kusttram.eu/foto's.htm
デ・レイン http://www.delijn.be/
 トップページ > Reisinformatie > Netplannen en perronindelingen にバスを含む路線図が多数ある。キュストトラムのルートはページ下部、West-Vlaanderen の段の"Algemeen netplan West-Vlaanderen" に表示されている0系統(赤の破線)。
デ・レインのネプチューン計画 http://www.delijn.be/nieuws/archief/neptunusplan.htm

デ・パンネ駅付近のGoogleマップ
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=51.0777,2.6010&z=17
 画面中央の駅前駐車場を取り囲んでいるループ線がキュストトラム。南辺が始発駅。 東西に延びる鉄道は国鉄SNCB。

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