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2009年4月 2日 (木)

朝鮮半島 金剛山電気鉄道を地図で追う

朝鮮半島中央部、日本海に面した金剛山(韓国語ではクムガンサンと読む)は、そそり立つ奇岩と清冽な瀑布渓流の織り成す景観が四季を通じて見事で、半島有数の観光地として知られている。金剛山は最高峰、毘盧峰(標高1638m)のことをいうと同時に、周辺の山地と海岸あわせて530平方kmを指す広域地名でもある。地区別に、山地の西側を内金剛、東側を外金剛、海岸一帯を海金剛と呼び習わしている。

全体図
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古来より経典にも読まれて誉れ高いこの山も、20世紀初めまで訪問者はわずかなものだった。観光地として脚光を浴びるのは、1930年代になってからだ。それを導いたのが1本の私鉄、金剛山電気鉄道だ。鉄道は軌間1435mm、直流1500Vの電化路線で、半島横断線の一つである京元線から東へ分岐する。1924年に金化まで部分開通したのを皮切りに順次延伸して、1931(昭和6)年、鐵原~内金剛間116.6kmが全通した。1934年11月改正の時刻表によれば、全線通しの列車は1日3往復、片道4時間20分前後で結んでいる。他に2往復の区間便が設定され、さらにシーズン中は、ソウル(当時は京城)から直通寝台列車が運転されたという。

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中臺里発電所

鉄道局の幹線がすべて蒸機運転だった時代に、このような田舎でなぜ、100kmを越える電化路線が実現したのだろうか。それは、会社のもう一つの柱が電力事業だったからだ。金剛山の北西30km、北漢江の上流に貯水池を建設し、黄海に向かって流れていた水を高低差の大きい日本海側に落下させて、発電機を回した。貯水池と導水路はいまも存在し、衛星画像で確認できる。電力は鉄道で自家消費するとともに、沿線やソウルにも供給していた。

会社は当初、世界恐慌後の経済情勢の影響を受けて、補助金頼みの苦しい経営を強いられた。全通を境に、観光地への足として注目が集まり、沿線の鉱山開発も成功して、旅客、貨物とも取扱高が大きく伸びていく。そして創立20年目の1939年には、単年度黒字を出すまでに成長した。

しかし、時代はまもなく暗転する。戦時体制下で企業統合が進む中、1942年に京城電気に合併、1944年には先端の昌道~内金剛間が不要不急として運行休止になった。1945年の日本撤退後、半島は北緯38度線で分割され、沿線は北に属することになるが、続く朝鮮戦争で施設の破壊を受けて、鉄道の機能は完全に停止した。確定した軍事境界線によって起点から1/3は韓国側、残り2/3は北朝鮮側に分断され、非武装地帯(DMZ)が無残にも廃線跡を横断している。

悲運の鉄道は、日本統治期に作成された地形図に在りし日の姿をとどめている。社史「金剛山電気鐵道株式會社廿年史」(1939年)とともに、起点の鐵原駅から順に追ってみよう。

電鉄が接続していた京元線は、ソウルから北上して日本海側の元山へ向かう朝鮮総督府鉄道局の路線(局鉄線)だ。鐵原(てつげん、韓国語でチョロン(チョルウォン))はその中間部、山中に開けた標高200m前後の盆地にある。1927(昭和2)年修正のこの地形図【図1左、駅と市街の拡大図は右2点】では、電鉄線の始端は京元線と約100mの距離を置いて並行しており、京元線との間の連絡線も描かれている。2年後の1929年、局鉄の駅舎が新築されたのに合わせて、電鉄の乗降場は局鉄構内に移設された(社史p.58)。駅は鐵原市街から3kmも離れた場所に設けられたため、駅前通りが直線で市街と結んでいた。

電鉄線はこの道路を斜めに横切った後、市街の東に最寄駅を置いている。その「げつかり(月下里)」駅は後に、鐵原方に0.4km移設され、四要駅と名乗った。次の大位里(たいいり)も同様に鐵原方に0.5km移され、東鐵原駅となった。なお、戦争後、京元線は鐵原の9.2km手前に新設された新炭里駅止まりとなり、以北は廃止されて施設は撤去された。鐵原市街自体もまた南に移転している。

【図1】
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鐵原~(旧)大位里間の地形図
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鐵原駅構内

東鐵原を後に、金剛山電気鉄道は針路を東北東に変えて、漢灘川(現在は漢灘江)が流れる谷中平野をほぼ一直線に進んでいく。貨物列車のために「上り勾配最急1/40なるを1/60に緩和」(社史p.71)した個所の一つであるささやかな鞍部を越えると、起点から28.8kmの金化だ【図2】。1924年8月、最初に開通した区間の終点になる。地形図では駅の西にまとまった市街が描かれているが、DMZに近接していたため、鐵原のように5km南西に移っている。線路跡はこのあと、漢灘川の支流、南大川の穏やかな谷を北上していき、この間にDMZを通過して北朝鮮側に入る。

【図2】
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金谷~金化間

また一つ小さな峠(地形図では中峙嶺)を越えた起点から51.0kmの金城までが、1925年12月、第2期の開業区間だ。ここまでは比較的平坦な行路だったが、北上を再開した先に、最初の山越え、屈坡嶺が待ち構えている。炭甘駅(地形図では、たんかんり)を出てすぐ、鉄道は東の谷へ大きく膨らむオメガカーブで高度をかせぎ、峠の直下を延長1880フィート(573m)のトンネルで抜けていく【図3】。

駅は起点から65.6kmの南昌道(1935年以降に開設されたため、この地形図には描かれていない)、ついで67.6kmの昌道と続く。付近で採掘した鉱産物の積出し駅となったことで、ここまでは戦時中も休止を免れた。

【図3】
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金城~屈坡嶺間
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南昌道駅での硫化鉄鉱の積込作業

ところで、鉄道の敷設許可申請書の段階では、鐵原から新安中里を通り化川里まで63マイル(101.4km)をまず敷設するとされていた。昌道からまっすぐ北に向かうルートだ(全体図参照)。しかし、この間には「北漢江の広流と扶老只嶺の難嶮」が存在するため、金剛山を最終目標とする限り工費、工期の点で最良の選択肢とはいえない。そこで、途中に同じような峻険があっても、化川経由より約14マイル(23km)の短縮となる現ルートに変更したのだという(社史p.56)。

化川は、昌道から北北東へ30km離れた小集落で、そのとおり建設されていれば、内金剛行きの列車はかなりの迂回を強いられたはずだ。なぜ、僻村の化川が目的地とされたのか。あえて詮索するなら、化川から東海岸と内金剛方面へ連絡道路が通じていたことや、会社が建設をもくろんでいた発電施設との関係が挙げられよう。建設補助金の獲得に関する裏事情があったのかもしれない。

かくして鉄道は昌道から東にそれて、北漢江の本流に出会い、縣里からはまた支流を遡っていく【図4、5】。だが今日、この区間を空から追った人は誰しも、想定外の現況を発見して当惑するに違いない。なぜなら、昌道の村から桃坡付近まで路線延長にして20km以上が、広大な湖の底に沈んでしまっているからだ。この湖は、北漢江に金剛川が合流する狭隘部を堰き止めたダムによるものだ。地図に湖面の推定位置(標高300m付近)を加筆してみた。社史にはこの間で北漢江を渡るガーダー橋の写真があるが、橋どころか周りの風景さえも、もう見ることができない。

【図4】
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昌道~縣里間、水没区域を加筆
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北漢江を渡る鉄橋
【図5】
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縣里~花溪間、水没区域を加筆

支谷は次第に深まり、起点から94.7kmの花溪を過ぎると、上り勾配がきつくなる。内金剛への近道として選ばれた斷髮嶺越えには、延長4554フィート(1388m)のトンネルが必要だった。地質はきわめて硬く、強力な削岩機を用いることで工事は能率よく進み、1年3ヶ月で貫通している(社史p.57)。地形図では、両端にスイッチバックが設けられているのが目を引くが、これで高度を上げなければトンネルの長さは2倍に延びていただろう【図6】。トンネル西側に設けられた五兩駅スイッチバックの、土工の跡も鮮やかな全景写真が社史に残されている。付近の勾配は1/20(50‰)もあったという。

*注 社史のスイッチバック写真のキャプションに海抜824mとあるが、これは誤りで、地形図ではせいぜい500数十m。全線で最も高所となるトンネル東口でも700mに届かない。

【図6】
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花溪~斷髮嶺~末輝里間
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五兩駅スイッチバック全景
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斷髮嶺隧道東口

難所を越えれば、右手に金剛川の谷の眺望が開ける。勾配をすべるように下りて、起点から108.0kmの末輝里に到着する。1930年にここまで開通したときは金剛口という駅名だったが、全通時に改称された。さらに内金剛への時間短縮を図るべく、金剛川を渡り、小さな峠を越えて東金剛川の谷に出る路線延長が実施された【図7】。鐵原から起算して116.6km、終点内金剛は、「瀟洒たる朝鮮風丹碧の色彩鮮麗なる」(社史p.164)駅舎を持ち、シーズンの人出に備えて広い島式ホームが用意されていた。内金剛の山並みを背景にした当時の写真がある。ソウルから到着した夜行から山男や参拝客がホームに降り立つ情景を、この絵に重ねてみたい。

【図7】
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末輝里~内金剛間
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内金剛駅

半島全域を巻き込んだ戦争によって、鉄道は歴史のかなたに消え、金剛山中に点在していた古刹の伽藍も荒廃し尽くした。1998年、現代財閥の手で韓国からの観光事業が開始されたが、東海岸からのアクセスのため、訪問できるのは外金剛と海金剛の一部に限られている(2008年7月以来中断)。山並みの向こう、70年前に列車が遊山客を盛んに送り届けていた内金剛は、今も多くの人々にとって遥かな幻のままだ。

■参考サイト
ウィキペディア韓国語版 終点内金剛駅の写真
http://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8C%8C%EC%9D%BC:Uchi-Kongo_Station.JPG

のりまき・ふとまきのホームページ 金剛山の昔話
http://www.norihuto.com/kumgang-old.htm
 金剛山観光開発の歴史を綴った詳細資料。この中に金剛山電気鉄道についてのページがある。
百年の鉄道旅行 金剛山電気鉄道
http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_053.htm

現代峨山金剛山観光 http://www.mtkumgang.com/ 日本語版あり
 金剛山観光の紹介ページ。風景写真、絵図もある。

使用図葉:
陸地測量部1:50,000地形図
 鐵原、金化、金城、以上1927(昭2)修正測図
 昌道里、末輝里、以上1933(昭8)修正測図
 内金剛 1935(昭10)修正測図
陸地測量部1:10,000地形図
 鐵原 1927(昭2)第2回修正測図

写真:「金剛山電気鐵道株式會社廿年史」金剛山電気鐵道, 1939(昭14)

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コメント

 突然失礼いたします。私も鉄道と地図を趣味としております M.ITO と申します。ときどき拝見させていただいておりました。
 金剛山電気鉄道の跡は Google Earth や Google Maps で最近の航空写真でかなり追うことができますので、ご参考までに幾つかのポイントを後者のアドレスでご紹介します。あるいは山下様はご存じかとも思いましたが、これをご覧の方々に情報提供ということでご容赦ください。

鉄原駅
http://maps.google.com/?ie=UTF8&ll=38.2706,127.194128&spn=0.013949,0.026822&t=h&z=15
ダム湖に呑み込まれる廃線跡
http://maps.google.com/?ie=UTF8&ll=38.538222,127.853447&spn=0.003474,0.006706&t=h&z=17
断髪嶺西側
http://maps.google.com/?ie=UTF8&ll=38.579708,127.929654&spn=0.006945,0.013411&t=h&z=16
断髪嶺東側
http://maps.google.com/?ie=UTF8&ll=38.597872,127.966604&spn=0.006943,0.013411&t=h&z=16

コメントありがとうございます。
Googleの衛星画像は、確かに現地の事情を知る上で大変貴重な資料ですね。
私も記事に添付する地図を描くときによく参照しています。
北朝鮮エリアはかなり詳細な画像が見られますし、開発が遅れている分、金剛山電気鉄道の廃線跡も明瞭にたどれました。
画像のアドレスも提供してくださって感謝です。

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