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2009年4月30日 (木)

フランスの道路地図帳-ミシュラン社

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ミシュラン
フランス道路地図帳
2005年版

旅とグルメのガイドブックで抜群の知名度を持つミシュラン Michelin は、フランスの道路地図の分野でも代表的存在に違いない。赤表紙のレストランガイド(ギド・ルージュ Guide rouge、レッドガイド)、緑の旅行ガイド(ギド・ヴェール Guide vert、グリーンガイド)に対して、橙色、後に黄色がミシュラン地図の目印だ。もっともそれはフランスの区分図に限っての話なのだが、売れ筋のフランス道路地図帳も代々、黄系統の表紙をまとっている。

そもそもタイヤ会社がなぜ、旅行書や地図の出版を兼業しているのだろうか。会社の起源は、フランス中部、クレルモン=フェラン Clermont-Ferrand の、農機具と子ども用のゴムボールを造る小さな工場だったそうだ。現在の社名は、1889年にミシュラン兄弟がその経営を引き継いだときに改称された。ミシュランは、ダンロップが先に実用化していた自転車の空気タイヤを着脱可能なものに改良したが、これを履いた自転車がレースで優勝したことから一躍注目を浴びる。時代は自転車から自動車の普及へと向かっていた。会社はゴムタイヤの製造でその波に乗り、海外に次々と工場を展開するまでに成長する。

最初のレッドガイドは、販売促進策の一つとして1900年に作成され、自動車旅行者向けに市街図やホテルリストを載せた35,000部が無料で配られた。これは好評を博したと見えて、地図に特化したシリーズの発刊が計画される。試作を経て、縮尺1:1,000,000(100万分の1)フランス地図4面が分売の形で出たのは1907年だった。続いて1910~13年には、フランス全土を47面でカバーする1:200,000道路地図が完成した(1919年、ヴェルサイユ条約によるアルザス、ロレーヌの帰属で1面増えて48面に)。さらにブリテン諸島、イベリア半島と、対象地域が国境を越えて拡大され、道路地図「カルト・ミシュラン Cartes Michelin」のブランドが確立していく。

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シャモニー付近
http://www.viamichelin.fr/web/Cartes-plansより

ミシュラン地図の第一の特徴は、色使いにメリハリがあることだろう。文字や道路のくくり(縁取り)に使われている黒色といい、主要道路を識別する赤色といい、彩度が高くて訴求力がある。ほかの地図でも同じだろうと思われるかもしれないが、並べてみればトーンの微妙な違いで全体の印象が変わることが理解されるはずだ。そのうえ道路網、特に主要道路は太く強調されているので、道路地図としての骨格を重視したデザインということができる。

それに対して、地図のベースをなす地勢表現については、省かれた等高線を補うように、山岳地域の起伏がぼかし(陰影)で描かれている。森林を表す緑の網掛けや淡いブルーの氷河と溶け合って、アルプスやピレネーの山並みが地図の背景として浮かび上がるしかけだ。

よく見ると、道路上の峠や分岐点にはかなりの頻度で標高点が打たれている。勾配も度合いに応じて3段階に表示されていて、自転車はもとより、クルマの馬力が小さかった時代には有用な情報だったことを想像させる。立体交差の高さ制限、橋などの重量制限の表示なども、他ではあまり見かけない注記だ。反面、レジャーや観光地に関する記号は小さくて目立たないので、全体として、クルマを走らせるために必要な情報を提供するという編集方針が見えてくる。

なお、筆者は2005年版をもとに記述しているが、最新版では、いわゆる黒抹家屋で描かれていた集落の表示が薄いピンクの網掛けに差し替えられ、まるで床屋に行ったかのように、さっぱりと垢抜けした印象になった。

ミシュランの道路地図帳 Atlas routier et touristique / Tourist & Motoring Atlas を買おうとして迷うのは、同じフランス全国版が何種類もあり、手に取らない限り、違いが分かりにくいことだ。さらに、フランス本国で刊行されたものとは表紙デザインが異なるイギリス刊行版もある。通常、判別のポイントは本のサイズ(判型)と縮尺なのだが、ミシュランの縮尺は昔から1:200,000と決まっているし、判型もフランスの2009年版ではA4に統一されている。カタログで見る限り、相違点は綴じ方とオプション記事の有無らしい。

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左から、スパイラル綴じ標準版、ハードカバー版、マルチフレックス綴じ版、ペーパーバック版、コンパクトスパイラル版

以下、フランス本国版で紹介すると、写真左端のスパイラル綴じ reliure spirale(定価15.90ユーロ)が最もよく売れているという標準版だ。2番目のハードカバー relié(29.90ユーロ)は観光やホテル・レストランの情報を付加した内容充実版。3番目のマルチフレックス綴じ multiflex(21.90ユーロ)は裏折りもできる特殊な綴じ方。4番目のペーパーバック broché(11.90ユーロ)は、他社に対抗するために内容を絞り込み、低価格を前面に出して、レサンシエル l'essentiel(エッセンスの意)と名づけている。右端のコンパクトスパイラル compact spirale(15.90ユーロ)は最前者と中身はおそらく同じだが、表紙に format boîte à gants(車内の小物入れに入るサイズ)とあるとおり、各ページを2つ折にして横幅を縮めたものだ。

地図自体はどれも同じ内容なので、筆者は4番目の低価格版で十分だと思う(写真は同社ショッピングサイトhttp://www.michelin-boutique.com/ より)。日本のサイトで購入するなら、アマゾンや紀伊國屋BookWebで"Atlas Routier France"か"France Motoring Atlas"を検索するとよい。検索結果には旧年版も混在しているので注意。また、ミシュラン地図はウェブでも閲覧することができるので、下記サイト viamichelin.com を参照されたい。

■参考サイト
viamichelin.com(英語版) http://www.viamichelin.com/
 mapタブで、オンライン版のミシュラン地図が検索できる。ただし、ミシュラン様式が見られるのは旧西欧諸国に限られ、なかでもフランスはもう一段、大きい縮尺が用意されている。

ミシュラン刊行物紹介
http://www.michelin.fr/(フランス語)または http://www.michelin.co.uk/(英語)
Cartes et Guides (Maps and Guides) > Cartographie

ミシュランガイド・地図収集家協会 ACGCM (愛好家サイト)
http://www.acgcm.com/

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2009年4月23日 (木)

ギリシャのラック式鉄道 オドンドトス

がりがりとラックを噛んで素掘りのトンネルを抜けると、断崖のどてっ腹に空けられたオーバーハングの異様な通路が待ち構える。頭上にのしかかる岩の塊におののきながら左の窓を覗き込めば、何十mもある奈落の谷底で早瀬がしぶきを立てている。まれに見るスリリングな車窓が展開するのは、ペロポネソス半島北部の山の中へ分け入るディアコフト・カラヴリタ鉄道 Diakofto - Kalavrita Railway だ。ギリシャ唯一のラック式鉄道であるこの路線は地元で、「鋸刃の(列車)」という意味のオドンドトス Οδοντωτός / Odondotos と呼ばれている。ここでもこの愛称に従おう。

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アテネからギリシャ鉄道の幹線で半島に渡り、コリンティアコス湾(コリント湾)Korinthiakos Gulf (Gulf of Corinth) に沿ってパトラ Patra 方面へ向かう。その途中に、ディアコフト Διακοπτό / Diakopto (Diakofto) の駅がある。オドンドトスはここから南へ、ヴライコス川 Βουραϊκος / Vouraikos の谷の中を標高714mの避暑地カラヴリタ Καλάβρυτα / Kalavrita まで行く、延長22.3kmの路線だ。山岳線のため750mmの狭軌が採用され、3.4km(3.6kmとする文献も)のアプト式ラックレールにより最急勾配1/6.9=145‰(175‰とする文献も)を克服する。1896年に開業したが、当初10ヶ月で完成すると見込んでいたところ、予想外の難工事で5年の歳月と見積りの3倍以上の費用を要した。その影響で、分水嶺を越えて半島中部のトリポリ Τρίπολη / Tripoli までの延長計画は実現しなかった。ちなみに、治安が不安定な時代で、工事現場の警備員は強盗団の襲撃に備えるのが任務だったそうだ。

登山鉄道でもないのに、ラックレールが必要なルートとはどのようなものなのだろうか。ウェブサイトを参照しながら、列車に乗ったつもりで追っていこう。

■参考サイト
Blog_odondotosrailway_hp 写真(カラヴリタ観光案内サイト)
http://www.ekalavrita.gr/EN/photos_odontotos.html

前方車窓ビデオ(Diakopto Kalavrita Rack Railway SPAP Odontotos)
http://www.youtube.com/watch?v=0gNMFeSZfNc
 極端なコマ落としにより、全行程を7分で見せる。後述するpoint A は2分付近、point B は4分40秒付近。

オドンドトスは東に向けてディアコフト駅を出発する。幹線に並行するのもつかの間、すぐに右にそれていき、果樹園の中を南へ直進する。両側から山が迫ってくると同時に、右手にはヴライコスの川原が見え隠れする。線路はカーブを繰り返しながら、緑多い谷間を縫っていく。やがて、空が広くなりやや開けた場所に出ると、大きな右カーブで支流を横切り、交換所(添付地図の表記は passing loop)に入る。ここまでが序盤だ。起点から5km以上進んだが、標高はまだ120m程度に過ぎない。

行く手を比高1000m以上の山塊がふさいでいて、この先しばらく並行する道がない。早や深山の気配が漂う中、ヴライコス川の最初の鉄橋を渡る。ラックレールに乗るために、時速は12kmにまで落ちる。切り立った灰色の断崖絶壁の際をぐいぐい上り始めてまもなく、右上から岩が覆いかぶさってきたかと思うと、列車は素掘りのトンネルに吸い込まれる。その出口が、冒頭に記した驚異のオーバーハングだ(添付地図 point A)。オドンドトスの紹介に必ず引用される見せ場なので、上記サイトの写真(中段右)やビデオでその迫力をご確認いただきたい。

その後も連続するトンネルをしのいで、再び鉄橋で川の左側(右岸)へ移る。はるか眼下で泡立っていた川床がいつのまにか線路のすぐ際まで上ってきているのに気づく。水の滑り落ちる勢いは激しく、間近で見ると恐ろしいほどだ。山肌はいかにも荒れていて、カーブを切るたびに落石被害を防ぐ短いトンネルが現れる。三度めの鉄橋を渡り、またも素掘りのトンネルを抜けたところで、第一の、そして最も長いラック区間は終わる。地図を読むと、開始点から2km強の間に300m近い高度をかせいだことになる。しかし、険路はまだ半ばだ。

ラックが外れてもけっこうな坂道で、川幅が細って岩が張り出し、小規模ながらオーバーハングもある。四度めの鉄橋を渡ったところで交換所(参考サイト、中段左の写真に末端が写る)、そして第二ラック区間の始まりだ。こちらは距離が短く、谷もいくぶん広まって緊迫感はないのだが、資料によると、この間に最急勾配175‰が存在するという。

ラックが再び去ると、もう一つの奇観にさしかかる。石灰岩の巨大な扉をヴライコス川が鋭く切り裂いていて、扉の隙間はわずか数mしかない。アルプスでシュルフト schlucht と呼ばれる地形に見られるものだ。これを突破するために、間の峡谷に橋をかけ、立ちはだかる岩壁にトンネルをうがっている。興味深いのは、左側に廃線トンネルと橋梁が残っていることだ。下流側から行くとあたかもこのトンネルに入っていきそうに錯覚するが、現在線はその手前で右にそれて、新しい鉄橋と長めのトンネルで通過していく(添付地図 point B、参考サイト上段3枚の写真)。

地形上の難所はこれでほぼ尽きるのだが、谷の勾配はなおきつく、六度めの川渡りの手前から短いラック区間を構えなければならない。距離的には全行程の半分に達したばかりだが、ラックの終端で標高はすでに580mを示している。

行く手にザフロル Zachlorou の民家が見えてきた。降りる支度をする乗客もいる。緑の木陰にたたずむ小駅から山道を1時間弱、約400mの高さを登ると、岩壁に築かれた修道院メガ・スピレオン Μεγα Σπήλαιον / Mega Spileon の威容に出会えるはずだ。駅の先にある鉄橋で、線路は川の右側(左岸)に移る。残り10kmの距離で上る高さは100mしかなく、まだ山肌が迫る個所は残っているものの、奥へ進むにつれて周りの山容もおだやかさを増していく。

運営者のサイトでは、オドンドトスの途中の停車駅は、先ほどのメガ・スピレオンと、この後、路線で唯一の下路トラス橋で最後の川渡りをした後にあるケルピニ Κερπινή / Kerpini の2つとなっている。全線の所要時間は1時間10分で、平日1往復、週末は3往復が設定されている。1958年と1967年に導入された車両が長らく使われていたが、2003年から始まった設備更新の一環で、スイスのシュタッドラーレール社 Stadler Rail 製の新型車に交換された。

終点カラヴリタは意外に大きな構えの駅舎を持っている(参考サイト下段の写真)。夏は避暑、冬はスキーの拠点としてなかなかの賑わいを見せる町だが、旅行者のほとんどは自家用車や大型バスでやって来る。カラヴリタは、ギリシャ現代史の幕開けの舞台だ。1821年3月25日、郊外4.5kmにある修道院アギア・ラヴラ Αγία Λαύρα / Agia Lavra で支配者オスマン帝国に対して企てられた反乱が戦争へと拡大し、1830年のギリシャ独立に結実した。3月25日は今も独立記念日として祝われ、この日翻った白地に青十字の反旗は国旗の意匠に取り入れられている。

道路事情が格段によくなった現代でも、19世紀のラック鉄道を維持し、改良しようという意思の原点は、もしかするとギリシャ人のこの土地に寄せる特別の感情に見出せるのかもしれない。

■参考サイト
Odontotos Rack Railway http://www.odontotos.com/
 ギリシャ語版紹介サイト
ギリシャ鉄道 http://www.ose.gr/
 ギリシャ語版  ΤΡΑΙΝΟΣΕ(車両運行会社 TRAINOSE)> Τουριστικά(旅行)> Οδοντωτός(オドンドトス)
時刻表(ディアコフト観光案内サイト)
http://www.ediakopto.gr/index.php/en/Time-table-of-Odontotos-train.html
ディアコフト付近のGoogleマップ 
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=38.1916,22.1993&z=15

このほか、Hagen von Ortloff, "Eisenbahn-romantik: Die faszinierende Welt der Schienen" Schlütersche Verlag, 2006 p.88-91 'Griechenland: mit der Zahnradbahn durch den Peloponnes' を参照した。

添付した路線図は官製1:50,000地形図を参考にしたが、より入手しやすいのは、アナーヴァシ社 Anavasi の旅行地図だ。Topo50シリーズ(縮尺1:50,000)8.2 " Chelmos - Vouraikos "に、オドンドトスの全区間が収まる。

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2009年4月16日 (木)

ギリシャ ピリオン鉄道

陽光きらめく波静かな内湾を見下ろしながら、機関車に牽かれた小柄な列車が、のんびりとオリーブの林を縫っていく。2006年9月の「世界の車窓から」で紹介された素朴な風情の狭軌鉄道は、筆者の心に深い印象を残した。ナレーションの記憶を頼りに地図を当たり、それがギリシャ中東部テッサリア地方、エーゲ海から山地を一つ隔てたパガスティコス湾沿いを走る、軌間600mmの観光鉄道であることを知った。

ギリシャ鉄道 Οργανισμός Σιδηροδρόμων Ελλάδος / Organismos Sidirodromon Ellados (OSE) が運行しているこの路線の正式名は定かでない。英語の文献には The Little Train of Pelion(ピリオンの小列車)と紹介されていることが多いが、ここでは仮に「ピリオン鉄道」としておこう。

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参考サイトによると、ハイシーズンの7~8月は毎日、9~10月は土日と休日に運行しており、アノ・レホニア Άνω Λεχώνια / Ano Lechonia(Anoは上の意)11:00発、途中、アノ・ガゼアス Άνω Γατζέας / Ano Gatzeas とオグラ Ογλά / Ogla で休憩して、ミリエス Μηλιές / Milies 到着は12:35だ。帰りはミリエス16:00発、アノ・レホニア17:00着となっている。運賃は往復で13ユーロだ(「地球の歩き方」A24 ギリシャ編p.14にも同鉄道の紹介があるが、運行日の記載が異なるので、乗車される方は現地での再確認をお勧めする)。現在は郊外の集落が起点だが、かつてはそうではなく、地域の中心都市ヴォロス Βόλος / Volos に発着する、小規模ながらも立派な地方鉄道だった。前回の記事とも一部重複するが、その生い立ちを記してみたい。

ギリシャの鉄道ブームは1880年代に起こり、ペロポネソス、アッティカなどギリシャ各地で相前後して建設の槌音がこだました。テッサリア鉄道もその一つで、港町ヴォロスから内陸のラリッサとカランバカへ通じる主要路線を一気に仕上げた。その後10年ほど遅れて手がけたのが、ピリオンへの支線だった。

しかし通過予定地は、標高1000mを越す山地の斜面で、平地が乏しく点在するのは小さな村ばかりだ。国の補助金がなく、輸送量も多くは期待できないため、ドコーヴィル Decauville と呼ばれる軽規格を採用して、建設費を抑えた。設計者の一人として、イタリア人のエヴァリスト・デ・キリコ Evaristo de Chirico が迎えられた。彼はあのシュルレアリスムの画家ジョルジョ・デ・キリコ Giorgio de Chirico の父親で、ジョルジョは一家がヴォロスに滞在中に生まれ、ここで少年時代を過ごすことになる。

ヴォロスとレホニアの間13kmは、1895年に開通した。路面鉄道と線路を共用することで、市街を縦断してヴォロス駅へ乗入れたので、メーターゲージ線との連絡も万全だった。この区間は町を抜けると小さな岬(Ακρ. Γορίτσα / Cape Goritsa)の波打ち際を進む。次いで、山から押出して海まで達した扇状地に載っていく比較的平坦な行路だ。

1903年にはさらに16kmを延長して、ミリエスまでの29kmが全通した。山地が海岸に迫るこの区間は、細かい山ひだを忠実になぞりながら上るので、最小半径30m、最急勾配28‰(30‰とした資料もある)という険しい道のりになった。この坂道をもくもくと煙を吐きながら時速25~30kmでゆっくりと登る列車に対し、人々は親しみを込めてムズリス Μουτζούρης / Moutzouris、「煙たい(列車)」と呼んだ。

機関車にとっては難路でも、乗客は煙さえ我慢すればすばらしい眺めを満喫できた。張り出した尾根の斜面では蒼い海原が視界いっぱいに広がり、谷を渡るときは重厚な石造りのアーチ橋が景色に華を添える。カーブした線路が載る上路トラス橋が一つ混じっているが、これは後年(1917年)の建造だ。

懸命に上りきった終点ミリエス駅は、標高約280mに達する。りんごの木を意味する地名のとおり、山手をりんごと栗の木々、谷側をオリーブの林に囲まれた古く静かな村だ。しかし、線路は手前の森の中で止まっているので、18世紀の教会がある中心部へは、急な坂道を登っていかなければならない。駅には簡素ながらも転車台が設置され、機関車はここで向きを変えてつなぎ直され、復路の出発を待った。

計画では、鉄道はさらに山を越え、エーゲ海を眼下に望むピリオン最大の村邑ザゴラ Ζαγορά / Zagora まで延長される予定だったが、資金不足で着工には至らなかった。ザゴラへの道程は遠く険しく、どのみち実現は困難だったに違いない。唯一の公共交通機関として地域開発に貢献した小鉄道だが、いずこも同じ自動車の普及によって採算が悪化し、ついに1971年6月、運行休止に追い込まれた。

しかし、復活を求める運動は地道に続けられていた。残存する施設に歴史的な価値が認められ、1985年に文化財に登録されたのも一つの成果といえる。それだけでなく、海岸線が複雑で美しい海景に事欠かないギリシャでも、ピリオン鉄道のようにみごとな展望をもつルートは貴重だ。

1990年代に入り、観光資源としての再生計画にゴーサインが出される。文化財指定が幸いして、旧状が保存されていた後半の区間で、駅舎や橋梁の修復や線路の敷設が行われた。そして1996年、アノ・レホニアとミリエスの間で、列車の運行が再開されたのだった。かつて5両あった蒸機のうち2両は残存しているが、沿線火災の危険を排除するためにディーゼル機関車に切替えられている。時速20kmで素晴らしい眺望をゆっくり堪能できるとあって、週末は予約必須の人気だという。

ピリオン鉄道にはさらなる構想がある。ヴォロスまで全線の再興だ。すでに2004年からヴォロス市街に接したアナヴロス Άναυρος / Anavros(古代ギリシャ神話でイアソンがサンダルをなくしたという小川がある)からアグリア Αγρία / Agria までの海岸線でも整備が終了し、列車が走り始めている。次はアグリア~アノ・レホニア間を接続することになるのだろう。ケンタウルス族の故国として、神話ゆかりの地であるピリオンの山々に、往年の列車の響きが蘇るのを人々は心待ちにしている。

■参考サイト
鉄道の公式サイトは存在しないが、以下のサイトで概略がつかめる。
ギリシャ鉄道 http://www.ose.gr/
 ギリシャ語サイトに比較的詳しい紹介がある(英語版はない)
 ΤΡΑΙΝΟΣΕ(車両運行会社TRAINOSE) > Τουριστικά(旅行)> Πήλιο(ピリオン)
Pelion Nature-Tradition-Legend-Culture
http://www.leventis-hospitality.gr/catalogue/
 観光パンフレット(英語版)の中に "Little Train of Pelion" のページがある。

Ferienhäuser in Pilion http://www.pilion-direkt.de/trenaki.html
 "Fahrplan(時刻表)" から、鉄道の運行スケジュールにリンクしている(ドイツ語)
Youtube  Greek Pelion railway video
http://www.youtube.com/watch?v=yPljYIMZXHg
 石造りアーチ橋の俯瞰や、狭軌がカーブする上路トラスの映像を含む。
アノ・レホニア付近のGoogleマップ 
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=39.3264,23.0547&z=15

Blog_anavasi_pelion ちなみに、ピリオン鉄道が掲載されている最大縮尺の地図は、アナーヴァシ社 Anavasi のTopo25 "Central Pilion" 1:25,000だ。10m間隔の等高線が入っているので地形図としても使える。同社のショッピングサイトで購入できる。アナーヴァシ社については、本ブログ「ギリシャの旅行地図-アナーヴァシ社」を参照。

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 ギリシャ 失われた4線軌条
 ギリシャのラック式鉄道 オドンドトス
 ギリシャの旅行地図-アナーヴァシ社
 ギリシャの旅行地図-ロード社

2009年4月 9日 (木)

ギリシャ 失われた4線軌条

Blog_volos_map ギリシャには、メーターゲージ(軌間=線路幅1m)の列車が独占的に活躍していた地方がある。地中海に突き出たペロポネソス半島と、今回のテーマであるギリシャ中東部のテッサリア Θεσσαλία / Thessalia (Thessaly) だ。長らくメーターゲージ王国だったペロポネソスは現在、1435mm標準軌への変更と交流電化が進行中で、すでに首都アテネ Αθήνα / Athina (Athens) から半島北岸のキアト Kiato 間の改軌が完成している。その先も、西海岸のピルゴス Πύργος / Pyrgos までが計画に盛り込まれているそうだ。

一方、北の王国テッサリアは、ペロポネソスよりも早く、2001年までに改軌の波に洗われてしまった。その過程で一時期、ヴォロス Βόλος / Volos の町に軌間の異なる3つの鉄道が乗り入れていたことがある。2種の軌間を合流させる3線軌条はおろか、3種を1本の線路に集約した4線軌条まで存在していた。このユニークな饗宴はどのようにして形成され、なぜ解消してしまったのだろうか。その背景をさぐるために、少し視点を引いて、この地方の鉄道網の変遷を俯瞰してみたい。

Blog_thessalianrailways ギリシャの鉄道は1869年、アテネとその外港ピレウス Πειραιάς / Peiraias (Piraeus) 間9kmの開通で幕を開けるが、議論の末、線路幅(軌間)1mのいわゆるメーターゲージが採用された。当時のギリシャは国土が今の4割ほど(ラミア以南とキクラデス諸島)の小国で、産業も未発達であり、輸送量は小さくても、建設コストが抑制できるほうが有利と考えられたのだ。

初期の鉄道の起点は、港に置かれるのが常だ。建設資材の陸揚げはもとより、長距離輸送の主役であった海運と連絡をとるのが使命だからだ。テッサリア地方の場合、エーゲ海から回り込んだパガシティコス湾の奥に位置するヴォロスがその場所となった。1881年、この地方がオスマン帝国の支配から解放され、ギリシャに併合されると、まだ人口5000人足らずだった村の港から、内陸の諸都市へ向けて鉄道建設が始まる。

まず1883年に、フランス資本のテッサリア鉄道 Σιδηροδρόμι Θεσσαλίας / Sidirodromi Thessalias が、ヴォロスから、地方の中心都市ラリッサ Λάρισα / Larisa (Larissa) までの61kmを完成させた。ついで1884年には途中のヴェレスティノ Βελεστίνο / Velestino で分岐して西方へ向かう路線に着手する。数次の延伸を経て、1886年に、いまは世界遺産メテオラの玄関口となっているカランバカ Καλαμπάκα / Kalambaka までの142kmを全通させた。狭軌鉄道網の完成とともにヴォロスの町も発展を遂げる(図の1段目参照)。

一方、アテネから北をめざした国鉄幹線は、バルカン半島の鉄道網に接続することを視野に入れて(当時マケドニア地方はまだトルコ領)、標準軌を採用していた。路線は、テッサリアの内陸部を南北に貫いて1907年、ラリッサに到達する。メーターゲージとの連絡は、ラリッサと、ヴォロス~カランバカの中間にあるパレオファルサロス Παλαιοφάρσαλος / Paleofarsalos の2ヶ所で行った(図2段目)。幹線の開通は、テッサリアの物流が海運から内陸の鉄道経由へと移行するのを促し、これ以降、線区相互の接続の改善が重要な課題になっていく。

テッサリア鉄道の標準軌化を求める声は早くからあり、1920年から始まったカランバカ以北、コザニ Κοζάνη / Kozani までの延伸工事(未成に終わる)もそれを想定して行われていた。しかし、世界恐慌とその後の政治混乱、そして第二次世界大戦と続く内戦のために一向に進捗しないまま、1955年に会社は倒産し、事業は国鉄に引き継がれた。ラリッサ~ヴォロス間の標準軌化工事が完了するのは、ようやく1960年のことだ(図3段目)。

改良方法も興味深い。ラリッサ~ヴェレスティノ間は旧線を単純に改軌したが、ヴェレスティノ~ヴォロス間はカランバカ方面へメーターゲージの直通列車を走らせるために旧線をそのまま残し、新たに標準軌の別線を建設した。この間には標高140mほどの峠がある。ヴェレスティノから峠までは新線を旧線に腹付け(すぐ脇に新設)したが、峠から下るルートは旧線の線形が悪く、新線は山側を迂回させたうえで大きな逆S字カーブを切って、ヴォロスへ降ろした。旧線と合流するヴォロス駅構内の前後では、3線軌条が生じた。

ところで、ヴォロスの東には、標高1000mを越えるピリオ山地(ピリオン Πήλιο / Pilio (Pelion))が横たわる。山地は半島状に長く連なり、エーゲ海とパガシティコス湾を隔てている。時代は戻るが、テッサリア鉄道は1895~1903年の間に、この地域の足となる軌間600mmの小鉄道(いわゆるピリオン鉄道、下注)を敷いた。ヴォロス市内を走る路面鉄道に一部乗り入れながら郊外へ延長し、ミリエス Μηλιές / Milies まで29kmの路線としたものだ。これもヴォロス駅が起点だったので、その結果、3種の異なる軌間を走る列車が顔をそろえることになった。

*注 ピリオン鉄道については、本ブログ「ギリシャ ピリオン鉄道」で詳述。

港へ向かう一部区間では、3つの軌間が線路を共用する4線軌条が存在しており、証拠写真をウェブ上で見ることができる。饗宴は、標準軌が到来した1960年から11年間続いたが、自動車交通の普及に伴って小鉄道が1971年に休止されたことで終焉を迎えた。

■参考サイト
ヴォロス市内の4線軌条 http://apostolos.fotopic.net/p44916155.html
*注 その後このサイトに接続できなくなったため、あらかじめDLしておいた画像を下に掲載させていただく。

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ヴォロス市内の4線軌条 (c) Dimopoulos Apostolos

その後、ギリシャの幹線網整備は、1981年に加盟した欧州共同体(EC、現EU)からの財政支援を受けて再開された。メーターゲージのヴォロス~カランバカ間のうち、南北幹線と接続するパレオファルサロス以西を標準軌に転換する計画が決まり、2000年4月にカルディッツァ Karditsa、2001年1月に残るカランバカまでの全線が改軌された。

それに対して、幹線の東側のヴォロス~ヴェレスティノ~パレオファルサロス間は、改良の対象から外されてしまった。ヴォロスと幹線間の連絡機能をもっぱらラリッサに奪われて、輸送量の少ないローカル線と化していたからだ。そしてこの区間は廃止となり、ヴォロス駅の狭軌設備も2001年内に撤去された(図4段目)。

これが、テッサリア地方における鉄道の120年間にわたる栄枯盛衰の略史だ。かくして、ヴォロスに姿を見せるのは、標準軌の列車だけになった。しかし、地域の動脈であったかつての路線が完全に見捨てられてしまったわけではない。1996年からミリエスへ行く小鉄道の一部区間で、観光列車の運行が始まり、ゆくゆくはヴォロスまで全線を再建する予定になっている。ヴェレスティノ付近に残存するメーターゲージ線でも、愛好家たちがレールカーで特別運転を実施しているそうだ。

いったんは公式時刻表からも消え去った異軌間の列車だが、今、港町から少し足を延ばせばわけなく再会を果たすことができる。
(ピリオン鉄道については次回詳述する。)

■参考サイト
ギリシャ鉄道 http://www.ose.gr/
 英語版 "History" > "The Railway of Thessaly (STh)"
Wikipedia ドイツ語版「テッサリア鉄道 Thessalische Eisenbahnen」
http://de.wikipedia.org/wiki/Thessalische_Eisenbahnen

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2009年4月 2日 (木)

朝鮮半島 金剛山電気鉄道を地図で追う

朝鮮半島中央部、日本海に面した金剛山(韓国語ではクムガンサンと読む)は、そそり立つ奇岩と清冽な瀑布渓流の織り成す景観が四季を通じて見事で、半島有数の観光地として知られている。金剛山は最高峰、毘盧峰(標高1638m)のことをいうと同時に、周辺の山地と海岸あわせて530平方kmを指す広域地名でもある。地区別に、山地の西側を内金剛、東側を外金剛、海岸一帯を海金剛と呼び習わしている。

全体図
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古来より経典にも読まれて誉れ高いこの山も、20世紀初めまで訪問者はわずかなものだった。観光地として脚光を浴びるのは、1930年代になってからだ。それを導いたのが1本の私鉄、金剛山電気鉄道だ。鉄道は軌間1435mm、直流1500Vの電化路線で、半島横断線の一つである京元線から東へ分岐する。1924年に金化まで部分開通したのを皮切りに順次延伸して、1931(昭和6)年、鐵原~内金剛間116.6kmが全通した。1934年11月改正の時刻表によれば、全線通しの列車は1日3往復、片道4時間20分前後で結んでいる。他に2往復の区間便が設定され、さらにシーズン中は、ソウル(当時は京城)から直通寝台列車が運転されたという。

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中臺里発電所

鉄道局の幹線がすべて蒸機運転だった時代に、このような田舎でなぜ、100kmを越える電化路線が実現したのだろうか。それは、会社のもう一つの柱が電力事業だったからだ。金剛山の北西30km、北漢江の上流に貯水池を建設し、黄海に向かって流れていた水を高低差の大きい日本海側に落下させて、発電機を回した。貯水池と導水路はいまも存在し、衛星画像で確認できる。電力は鉄道で自家消費するとともに、沿線やソウルにも供給していた。

会社は当初、世界恐慌後の経済情勢の影響を受けて、補助金頼みの苦しい経営を強いられた。全通を境に、観光地への足として注目が集まり、沿線の鉱山開発も成功して、旅客、貨物とも取扱高が大きく伸びていく。そして創立20年目の1939年には、単年度黒字を出すまでに成長した。

しかし、時代はまもなく暗転する。戦時体制下で企業統合が進む中、1942年に京城電気に合併、1944年には先端の昌道~内金剛間が不要不急として運行休止になった。1945年の日本撤退後、半島は北緯38度線で分割され、沿線は北に属することになるが、続く朝鮮戦争で施設の破壊を受けて、鉄道の機能は完全に停止した。確定した軍事境界線によって起点から1/3は韓国側、残り2/3は北朝鮮側に分断され、非武装地帯(DMZ)が無残にも廃線跡を横断している。

悲運の鉄道は、日本統治期に作成された地形図に在りし日の姿をとどめている。社史「金剛山電気鐵道株式會社廿年史」(1939年)とともに、起点の鐵原駅から順に追ってみよう。

電鉄が接続していた京元線は、ソウルから北上して日本海側の元山へ向かう朝鮮総督府鉄道局の路線(局鉄線)だ。鐵原(てつげん、韓国語でチョロン(チョルウォン))はその中間部、山中に開けた標高200m前後の盆地にある。1927(昭和2)年修正のこの地形図【図1左、駅と市街の拡大図は右2点】では、電鉄線の始端は京元線と約100mの距離を置いて並行しており、京元線との間の連絡線も描かれている。2年後の1929年、局鉄の駅舎が新築されたのに合わせて、電鉄の乗降場は局鉄構内に移設された(社史p.58)。駅は鐵原市街から3kmも離れた場所に設けられたため、駅前通りが直線で市街と結んでいた。

電鉄線はこの道路を斜めに横切った後、市街の東に最寄駅を置いている。その「げつかり(月下里)」駅は後に、鐵原方に0.4km移設され、四要駅と名乗った。次の大位里(たいいり)も同様に鐵原方に0.5km移され、東鐵原駅となった。なお、戦争後、京元線は鐵原の9.2km手前に新設された新炭里駅止まりとなり、以北は廃止されて施設は撤去された。鐵原市街自体もまた南に移転している。

図1
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鐵原~(旧)大位里間の地形図
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鐵原駅構内

東鐵原を後に、金剛山電気鉄道は針路を東北東に変えて、漢灘川(現在は漢灘江)が流れる谷中平野をほぼ一直線に進んでいく。貨物列車のために「上り勾配最急1/40なるを1/60に緩和」(社史p.71)した個所の一つであるささやかな鞍部を越えると、起点から28.8kmの金化だ【図2】。1924年8月、最初に開通した区間の終点になる。地形図では駅の西にまとまった市街が描かれているが、DMZに近接していたため、鐵原のように5km南西に移っている。線路跡はこのあと、漢灘川の支流、南大川の穏やかな谷を北上していき、この間にDMZを通過して北朝鮮側に入る。

図2
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金谷~金化間

また一つ小さな峠(地形図では中峙嶺)を越えた起点から51.0kmの金城までが、1925年12月、第2期の開業区間だ。ここまでは比較的平坦な行路だったが、北上を再開した先に、最初の山越え、屈坡嶺が待ち構えている。炭甘駅(地形図では、たんかんり)を出てすぐ、鉄道は東の谷へ大きく膨らむオメガカーブで高度をかせぎ、峠の直下を延長1880フィート(573m)のトンネルで抜けていく【図3】。

駅は起点から65.6kmの南昌道(1935年以降に開設されたため、この地形図には描かれていない)、ついで67.6kmの昌道と続く。付近で採掘した鉱産物の積出し駅となったことで、ここまでは戦時中も休止を免れた。

図3
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金城~屈坡嶺間
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南昌道駅での硫化鉄鉱の積込作業

ところで、鉄道の敷設許可申請書の段階では、鐵原から新安中里を通り化川里まで63マイル(101.4km)をまず敷設するとされていた。昌道からまっすぐ北に向かうルートだ(全体図参照)。しかし、この間には「北漢江の広流と扶老只嶺の難嶮」が存在するため、金剛山を最終目標とする限り工費、工期の点で最良の選択肢とはいえない。そこで、途中に同じような峻険があっても、化川経由より約14マイル(23km)の短縮となる現ルートに変更したのだという(社史p.56)。

化川は、昌道から北北東へ30km離れた小集落で、そのとおり建設されていれば、内金剛行きの列車はかなりの迂回を強いられたはずだ。なぜ、僻村の化川が目的地とされたのか。あえて詮索するなら、化川から東海岸と内金剛方面へ連絡道路が通じていたことや、会社が建設をもくろんでいた発電施設との関係が挙げられよう。建設補助金の獲得に関する裏事情があったのかもしれない。

かくして鉄道は昌道から東にそれて、北漢江の本流に出会い、縣里からはまた支流を遡っていく【図4、5】。だが今日、この区間を空から追った人は誰しも、想定外の現況を発見して当惑するに違いない。なぜなら、昌道の村から桃坡付近まで路線延長にして20km以上が、広大な湖の底に沈んでしまっているからだ。この湖は、北漢江に金剛川が合流する狭隘部を堰き止めたダムによるものだ。地図に湖面の推定位置(標高300m付近)を加筆してみた。社史にはこの間で北漢江を渡るガーダー橋の写真があるが、橋どころか周りの風景さえも、もう見ることができない。

図4
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昌道~縣里間、水没区域を加筆
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北漢江を渡る鉄橋
図5
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縣里~花溪間、水没区域を加筆

支谷は次第に深まり、起点から94.7kmの花溪を過ぎると、上り勾配がきつくなる。内金剛への近道として選ばれた斷髮嶺越えには、延長4554フィート(1388m)のトンネルが必要だった。地質はきわめて硬く、強力な削岩機を用いることで工事は能率よく進み、1年3ヶ月で貫通している(社史p.57)。地形図では、両端にスイッチバックが設けられているのが目を引くが、これで高度を上げなければトンネルの長さは2倍に延びていただろう【図6】。トンネル西側に設けられた五兩駅スイッチバックの、土工の跡も鮮やかな全景写真が社史に残されている。付近の勾配は1/20(50‰)もあったという。

*注 社史のスイッチバック写真のキャプションに海抜824mとあるが、これは誤りで、地形図ではせいぜい500数十m。全線で最も高所となるトンネル東口でも700mに届かない。

図6
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花溪~斷髮嶺~末輝里間
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五兩駅スイッチバック全景
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斷髮嶺隧道東口

難所を越えれば、右手に金剛川の谷の眺望が開ける。勾配をすべるように下りて、起点から108.0kmの末輝里に到着する。1930年にここまで開通したときは金剛口という駅名だったが、全通時に改称された。さらに内金剛への時間短縮を図るべく、金剛川を渡り、小さな峠を越えて東金剛川の谷に出る路線延長が実施された【図7】。鐵原から起算して116.6km、終点内金剛は、「瀟洒たる朝鮮風丹碧の色彩鮮麗なる」(社史p.164)駅舎を持ち、シーズンの人出に備えて広い島式ホームが用意されていた。内金剛の山並みを背景にした当時の写真がある。ソウルから到着した夜行から山男や参拝客がホームに降り立つ情景を、この絵に重ねてみたい。

図7
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末輝里~内金剛間
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内金剛駅

半島全域を巻き込んだ戦争によって、鉄道は歴史のかなたに消え、金剛山中に点在していた古刹の伽藍も荒廃し尽くした。1998年、現代財閥の手で韓国からの観光事業が開始されたが、東海岸からのアクセスのため、訪問できるのは外金剛と海金剛の一部に限られている(2008年7月以来中断)。山並みの向こう、70年前に列車が遊山客を盛んに送り届けていた内金剛は、今も多くの人々にとって遥かな幻のままだ。

■参考サイト
ウィキペディア韓国語版 終点内金剛駅の写真
http://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8C%8C%EC%9D%BC:Uchi-Kongo_Station.JPG

のりまき・ふとまきのホームページ 金剛山の昔話
http://www.norihuto.com/kumgang-old.htm
 金剛山観光開発の歴史を綴った詳細資料。この中に金剛山電気鉄道についてのページがある。
百年の鉄道旅行 金剛山電気鉄道
http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_053.htm

現代峨山金剛山観光 http://www.mtkumgang.com/ 日本語版あり
 金剛山観光の紹介ページ。風景写真、絵図もある。

使用図葉:
陸地測量部1:50,000地形図
 鐵原、金化、金城、以上1927(昭2)修正測図
 昌道里、末輝里、以上1933(昭8)修正測図
 内金剛 1935(昭10)修正測図
陸地測量部1:10,000地形図
 鐵原 1927(昭2)第2回修正測図

写真:「金剛山電気鐵道株式會社廿年史」金剛山電気鐵道, 1939(昭14)

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