ウィーン南駅でリュブリャーナ行きEC「エモナEmona」号に乗り込んでから、1時間足らず。すでに左側の車窓にはアルプスの前山が連なり、その中腹にときおり架線柱や高架橋のアーチが見え隠れする。これからあそこへ上っていくのだと思えば、自然に心が躍る。パイヤーバッハ=ライヒェナウPayerbach-Reichenauの駅を見送ると、長い橋梁でシュヴァルツァ川Schwarzaを渡りながら180度方向を変えて、いよいよゼメリングSemmeringの難所にさしかかった。
*Semmeringの日本語表記は、標準ドイツ語風の「ゼメリング」「ゼンメリング」、地元風の「セメリング」「センメリング」などさまざまだが、ここでは日本ユネスコ協会連盟のHPに従う。
ゼメリング鉄道Semmeringbahnは、ウィーンWienからグラーツGraz方面へ向かうオーストリア国鉄ÖBBの南部鉄道Südbahnが、分水嶺を越える区間の呼称だ。日本語で「~鉄道」というと、会社名を連想しがちだが、ドイツ語のBahnは路線名の感覚で使われている。
峠道はウィーン側、つまり東斜面が特に険しい。麓のグログニッツGloggnitzの標高が439mであるのに対して、路線の最高地点は898mで、450mもの高低差がある。この間の距離は直線で10kmしかないが、勾配を22~25‰に抑えるため、迂回によって3倍近い29kmに引き延ばされている。線路はできるだけ地形に逆らわず、R190mの急曲線を入れて山襞を忠実になぞる。そびえ立つ断崖と深い峡谷の間には、峠下のゼメリングトンネル(単線並列)を含めて16本のトンネルと、2層アーチのカルテリンネKalte Rinne橋に代表される16の高架橋が築かれている。列車は、荘重な構築物に敬意を払うかのように、時速60kmでゆっくりと通過していく。
■参考サイト
ゼメリング峠付近の地形図画像(BEV Austrian Map online)
http://www.austrianmap.at/amap/index.php?setTo=1%7E585924%7E420150%7E589168%7E416790%7E%40587559%7C418478%7E0%7ELAM_WGS84
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ゼメリング峠付近の空中写真(Multimap.com)
http://www.multimap.com/s/ea3atUpB
南部鉄道は、首都ウィーンとアドリア海の港町トリーストTriest、すなわち現イタリア領のトリエステTriesteを結んでいた路線だ。皇帝フランツ1世の弟ヨハンがこの路線の建設を強く望んだので、「ヨハン大公鉄道Erzherzog Johann-Bahn」とも呼ばれる。ゼメリングはルート中、建設が最も難しいとされた区間だった。すでにグログニッツ以東は1842年、西側のミュルツツーシュラークMürzzuschlag~グラーツGraz間は1844年に開通し、その間の峠道は、最大12頭立ての馬車で中継していた。
この時代、まだ長い山岳路線の実績はなく、歯軌条(ラック)式か索道でなければ天下の険を越えることができないと思われていたという。命を受けたカール・フォン・ゲーガCarl von Ghegaは、大規模な土木工事を起こす傍ら、勾配に強い機関車の開発競争を進めた。難工事で尊い犠牲者を出しながら、1854年、ついに開通にこぎつけた。この区間を特に他と区別して呼ぶのは、それだけ工学的にも戦略的にも画期的な事業だったことの証しで、その後、ゼメリングの名は、蛇行しながら山を上る鉄道の代名詞にさえなった。
ゼメリング鉄道は最初にアルプスを越えた鉄道として紹介されることが多い。しかし、この表現から、氷河を戴く大山脈が列車の行く手を阻んでいるように想像したなら、それは無邪気な勘違いだ。この付近はフランス南東部から延々と続いてきたアルプスの東の果てで、周囲のピークもせいぜい1500m程度まで下がっている。峠の標高は984mに過ぎない。路線と山地の位置関係を知るために、広域図を描いてみた(右図)。濃く塗った山地は厳密な標高データに拠ってはおらず、概略であることをご了解願いたいが、鉄道が通過するのは山脈の末端で、アルプス「横断」とは呼べないことが明らかだ。当時は、東に広がるハンガリー平原も帝国領内だった。仮にルートをもう少し東に寄せれば、山越えに伴う艱難辛苦も必要なかったはずだ。なぜ、ゼメリング鉄道はわざわざアルプスを越えなければならなかったのだろうか。
以下は筆者の推論だが、答えの鍵となるのは、やはり提唱者のヨハン大公だろう。宰相メッテルニヒに疎んじられた彼は中央を離れて、後半生をオーストリア南東部、シュタイアーマルク州の発展に捧げている。州都グラーツには、彼が収集品を寄贈したことから、その名にちなんでヨアネウムJoanneumと通称される州立博物館がある。彼はまた、この町に学校や研究所、銀行や保険会社を設立し、州内で製鉄所や金属加工場の経営を行い、エルツベルクErzbergの鉄鉱山やケフラッハKöflachの炭鉱にも関与した。1851年には州都の市長に選出されている。鉄道の誘致は、彼にとって地域振興の大きな柱だったに違いない。
トリエステは、帝国が領土を減らした1860年代以降、自国領に残された貴重な海港として発展し、国内では「世界への窓」に例えられた。しかし、鉄道が構想された19世紀半ばまでは、アドリア海への到達が悲願というほどではなかったと言う説もある。それは1851年、北海沿岸のハンブルクからプラハを経由して、ウィーンまで鉄道が通じていたからだ。工業化が進展していた西欧諸国との交易には北回りのほうが距離的に有利で、期待をもって迎えられた。それに対して、580kmも離れ、港が未整備だったトリエステへ、莫大な費用を投じて鉄道を延ばす目的は、軍事以外にはあまりなかったというのだ。
南部鉄道のルートをたどると、当時スロベニアの東部に及んでいたシュタイアーマルク州Steiermark(図中、緑の点線で囲んだ領域)を見事に貫いていて、大公の意図が如実に表れている。確かに、グラーツが実質的な目的地だったとすれば、ゼメリング経由が最短ルートになる。しかし、高度差の克服という技術上の難題を背負ってまで、峠越えに固執した理由はそれだけではないようだ。遠回りになっても建設が容易なハンガリー平原には、出たくても出られない事情があったのだ。
ハンガリーは16世紀以来、段階的に帝国に編入されてきたのだが、たびたび独立運動を起こしては鎮圧にあっていた。1848年にはフランス2月革命の影響を受けたブダペストでの蜂起が大規模化して、急進的な独立派が実権を握るなど、不安定な情勢がとみに強まっていた。その反乱軍は翌年降伏し、1867年にはアウスグライヒAusgleich(和議)により二重帝国として自治権が拡大されるのだが、産業の生命線を通過させるには、リスクが大きすぎただろう。そのうえ現在オーストリアの東端にあるブルゲンラント州Burgenlandは、1921年になってハンガリーからオーストリアに割譲された土地で、19世紀の境界線はもっと西寄りにあった(図中、赤の点線)。つまり、鉄道を難なく敷けるような平地はオーストリア側には存在しなかったのだ。
それから150年が経ち、エモナ号は今、ゲーガが造ったとおりのルートを走り抜けている。ゼメリング鉄道は、鉄道初期の課題の解決に貢献したことが評価されて、1998年、世界遺産に登録された。第1次大戦のころにはもう迂回線の構想があったというし、長大な基底トンネルでバイパスする工事も着手されているが、いまのところ、現役引退の予定は示されていない。
■参考サイト
Wikipediaドイツ語版
http://de.wikipedia.org/wiki/Semmeringbahn
魔の山ゼメリングZauberberg Semmering http://www.semmering.or.at/
ゼメリング鉄道写真集
http://www.eisenbahnen.at/bilderalben/semmeringbahn.shtml
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