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2008年9月25日 (木)

オーストリアの1:50,000地形図

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1:50,000地形図表紙
グロスグロックナー図葉
(左)旧図 1985年修正
(右)新図 2002年版

ヨーロッパの中央部に位置するオーストリアは、アルプスを擁する国らしく、スイスと並んで美しく見栄えのする官製地形図を刊行している。特に、高度によって森林、裸地、岩場、氷河などと変化する山岳地域の描写は、精緻なグラフィックと印刷技術で、民間地図会社の追随を許さない高いクオリティを誇っている。

しかし、スイスのように駅の売店や土産物屋にも置いてあるほど普及してはおらず、地図の種類も限定されているなど、ユーザーからは少し距離があるように感じられる。スタイルも独自様式で、著しく縦に長い用紙、グリニッジ基準でない図郭など、ハプスブルク王朝以来の古い規格がそのまま受け継がれてきた。GPS時代に入ってようやくその伝統の殻を破る動きが見られ、地形図事情はいま、転換期を迎えている。同国の測量局である連邦度量衡測量制度庁 Bundesamt für Eich- und Vermessungswesen(略称 BEV)の新旧の地形図を比較しながら、どのように変化したのかを2回にわたって見てみよう。

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グロスグロックナー付近の
地形図画像
(BEV Austrian Map online)

写真左側は旧来の1:50,000地形図153番「グロスグロックナー Großglockner」だ(大文字では GROSS...と表記)。同国の最高峰、標高3798mのグロスグロックナー山が擁する大氷河を図郭の中央に据えた、シリーズで最も美しい地形図の一つだった。一応まだ現役なので、「だった」と書くのは早いかもしれない。しかし、すでに3227という図番を付した新しい地形図(写真右側)が出回っていて、このほうがサイズは一回り大きい(12×19cm)。新図の刊行は2002年から始まり、当初2008年に完了の予定だったが、現行のカタログでも未刊行の地域が残っている。全面出揃うまでは、両者並行して販売されるようだ。

旧図は、緯度経度とも15分ずつに区分した縦長の図郭で、これは同国の区分図に共通する規格だった。1:50,000は全部で213面だが、図郭内にわずかでも領土がかかれば刊行対象にしたため、ほとんど他国領という図葉がかなり存在した。筆者が海外の地形図を買い始めた1980年代、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアなど東側諸国の詳細地形がかいま見られるオーストリアの地形図は、新鮮で貴重な存在だった。

グリニッジ基準でない図郭については、少し説明が要る。地形図の図郭に記された経度はグリニッジ基準なのだが、欄外の縮尺の下には「フェロからの経度=グリニッジからの経度+17度40分00秒」という注釈がある。これは、同国の測地網(連邦測地網 Bundesmeldenetz = BMN)が、西アフリカ沖のカナリア諸島にあるフェロ島 Ferro(スペイン語ではエル・イエロ島 El Hierro、どちらも鉄を意味する)を通る子午線から起算しているからだ。フェロ島はヨーロッパ世界の西端だったので、フェロ0度は、1884年の国際子午線会議でグリニッジに決まる以前には、広く使われていた。その名残りがここにある。

ドイツと同じように、1つの図葉に複数の異なる版があることも特徴としてあげられよう。「道路着色版 Ausgabe mit Straßenaufdruck」は、主要道を赤、地方道を黄に塗って、道路網を判別しやすくしたものだ。しかし、通常店頭に置かれているのはこれではなく、道路を塗らない代わり、登山道 Wanderweg に赤の実線を添えて目立たせた「登山道強調版 Ausgabe mit Wegmarkierungen」だ。

前者は日本の大多数の地形図のように平たいままで売っていたのに対して、後者は折ってコンパクトサイズにしてあった。さらに透明ケースに収めていたのは、トレッキングなど野外への持出しを想定していたからだろう。しかし、この版の赤い線は際立つがゆえにかえってうるさく、鑑賞用途には向かない。筆者は、発行元に直接、道路着色版と指定して注文していた。

それでは、新図はどう変わったのだろうか。道路着色版と登山道強調版の2種類があることに変わりはないが、表紙が多色刷りになったことで、掲載範囲を示す地図(1:500,000図から等高線を抜いたもの)がずっと明瞭に読み取れる。拡げてみると、図郭が緯度12分、経度20分で区分した横長型で、1枚でカバーする範囲が広くなったこともあって、第一印象は確かに違う。

カタログによると、投影図法も、ガウス・クリューゲル図法からUTM(ユニバーサル横メルカトル)図法に変更したとしている。しかし、UTM図法というのは、ガウス・クリューゲルの投影法に、経度6度ごとのゾーン化など準則を整えたシステム総体をいうのであって、地形図1面を見る限り、特に表現に変化が生じているわけではない。さらに、地図記号も境界線の強調などを除いて旧図をおおむね踏襲しているので、第一印象にもかかわらず、実は内容は瓜二つなのだ。強いて言うなら、独自の測地網から国際準拠の測地網に移行したことを示す1kmグリッド(方眼)が全面にかかっているのが、目に見える最大の相違点だろう。

ただし、利用者向けの改良はほかにもあって、たとえば掲載範囲は、本来の図郭より縦横とも1分だけ拡張してあり、隣接図葉と図上2cm程度の重複を持たせている。地名が図の端で無造作に切断されていたりするが、広域地名を除いて隣の図ではフル表記で読めるはずだ。また、凡例や説明文がドイツ語と英語の併記になったのもありがたい。国際的な観光国にもかかわらず、旧図の表記はドイツ語だけで、外国人が使うことをあまり考慮していなかったからだ。

最後に、地形図の購入方法についても変更がある。最近までBEVは所内での直販とともに国内外への郵送も行っていたが、合理化で、販売をウィーンのフライターク・ウント・ベルント社 Freytag & Bernt(F&B)に委託してしまった。F&B社のオンラインショップでは官製図を扱っていないので、書面(FAXかEメール)で発注しなければならない。ユーザーに対する商品としてのアピール度は向上したので、次は販売方法について、もう一段の改善を望みたいところだ。

【追記 2011.10.17】
その後、官製地形図の販売方法は改善された。BEVのサイトにオンラインショップが開設され、F&B社のオンラインショップでも取扱うようになった。利用するなら、英語版が用意されているF&B社に分がある。下記参考サイトで紹介している。

■参考サイト
連邦度量衡測量制度庁 BEV http://www.bev.gv.at/
オーストリアの地形図の種類、入手方法などについては「官製地図を求めて-オーストリア」にまとめた。
http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_austria.html

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2008年9月18日 (木)

台湾 阿里山森林鉄道を地図で追う

台湾中部にある阿里山(現地読みはアーリーシャン)は、雄大な山岳風景を満喫できる観光地として知られる。阿里山とは一個の山名ではなく、大塔山、對高山、祝山などのピークに囲まれた一帯を指す地名だが、南北に連なる山並み全体の名称、阿里山山脈としても使われている。ここに、軌間762mm(2フィート6インチ)のナローゲージ、阿里山森林鉄道(正式名は阿里山森林鐵路)がある。本線の嘉義~沼平間の延長は72.7km。最急勾配62.5‰、最小曲線半径40mの厳しい線形で、支線の祝山線を加えると、麓の平野から山上まで実に2421mもの高度差を上る世界屈指の登山鉄道だ。

全体図
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日本時代(日治時期)の1906年に、豊かな森林資源を開発する目的で建設が始められた鉄道は、1914年に阿里山(現 沼平)まで到達した。続いて林場線と呼ばれるいくつもの支線が建設され、鉄道は毎日、大量の伐採木を嘉義の北門駅にあった製材所に運び込んだ。特にベニヒ(台湾紅檜)は腐りにくいことから珍重され、巨木が日本の社寺建築に多く用いられた。しかし、1960年代までには適材が枯渇してしまい、林業は振わなくなる。

一方、観光や登山の基地としての阿里山は、戦前、すでに台灣八景の一つに選ばれたように、早くから注目を集めていた。鉄道開通後まもなく、労働者や山村の住民のために、貨物列車に客車をつなげた混合列車が編成され、一般人も利用するようになった。林業から観光業への転換が図られる中、森林鉄道は、山にアプローチする唯一の交通手段となり、1970年代の最盛期、1日5~6往復の旅客列車を走らせても、ほとんど満席状態だったという。

ところが、1982年に麓からの自動車道路(阿里山公路)が開通したことで、その地位は、瞬く間にバスやマイカーに奪われてしまう。鉄道なら3時間半近くかかるところを、バスは2時間少々で着き、便数や運賃も優位だったからだ。鉄道を運営する林務局嘉義林区管理処は、乗車効率を上げるため、最終的に本線の定期列車を1往復に絞りきった。その代わり、クルマが入れない阿里山周辺を観光用に開放する政策をとり、1983年から眠月線、1986年から祝山線で旅客列車の運行を開始した。狙いは当たって、両線とも本線以上の利用者を呼び寄せた。

長らく国の機関の管理下にあった森林鉄道は、今年(2008年)6月、BOT方式により民営に移された。運営会社のサイトによると、今年7月に起きた台風災害から復旧する9月からは、本線も3往復に増便するとしている。有名な鉄道ゆえに、ウェブサイトに旅行記が多数あがっているので、車窓や車両のことはそちらに譲り、ここでは地形図で驚異の登山鉄道のルートを追ってみよう。地形図は日本時代の陸地測量部発行1:50,000を使用する。

図1: 竹崎~交力坪
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縦貫線と接続している嘉義から14.2km先の竹崎までは平地線で、牛稠溪の谷中平野に沿って田園の中を坦々と進む(地図は省略)。竹崎で、登山鉄道の常として機関車を後尾に付け替えた列車は、発車後まもなく牛稠溪の鉄橋を渡り、いよいよ登坂を開始する。図1でルートを見ると、阿里山から西に長く延びる支脈の裾に取り付き、尾根まで一気に駆け上がっていく。見やすいように、引用した地形図では尾根筋を薄茶色の帯で塗ってみた。濃く太い帯は支脈本体だ。

獨立山ループ Dulishan Spiral
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途中にある獨立山ループ(右図参照)はこの鉄道の最大のハイライトで、張出し尾根に対し、とぐろを巻くようにして高度を稼ぐ。設計者が険しい山を前に、どう克服しようかと思案していたところ、木陰にカタツムリが這っているのを見つけ、その形からインスピレーションを得たという「伝説」があるそうだ。三重のスパイラルは世界でも類を見ないもので、しかも最後は8の字に回っている。あまりに複雑すぎて、縮尺1:50,000では糸が絡まったようにしか表現できていない。先ほど通過したスイッチバック式の樟腦寮駅が何度も車窓に現れるので、乗客も回転していることを実感する。

第13号隧道で主尾根の下を潜り抜けると、まもなく尾根上に位置する標高904mの梨園寮駅だ。竹崎から直線で7kmしか隔たっていないのに、巧みなルート設定によって777mも上ってきた。このあと、東に向かって主尾根が高度を増していくので、しばらく線路は北側斜面の襞を忠実になぞって走る。交力坪駅の前後では、左の車窓に比高500mの深い谷を俯瞰できる。

図2: 水社寮~十字路
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中間部は両端の見せ場のはざまで、大方の乗客は窓の外に関心を示さなくなるらしい。しかし、ルート選定の跡は興味深い。図2でわかるように、東西に走る主尾根を何度も横断しているのだ。水社寮駅でくびれた尾根の上に乗ったかと思うと、第25号隧道で尾根の南側へ、26号で北側へ、27号でまた南側へ出る。奮起湖駅を出た後も、比較的長い第32号隧道で再び北側へ抜ける。

わざわざこのようなことを繰り返すのは、左右に張り出す尾根筋を大きく迂回せずにさばくための工夫だろう。その奮起湖は鉄道の補給基地であり、駅弁や周辺の竹林でも知られている。車庫にはこの路線で活躍したシェイ型機関車が保管されている。

十字路駅は、南北の麓の村をつなぐ峠道と鉄道が交差することから名づけられた。現在は、ライバルの阿里山公路が最も接近する場所でもある。最初に尾根上に出た梨園寮からここまで23.9km走って630m上ったので、平均勾配は26.4‰だ。その前の竹崎~梨園寮が平均45.2‰だったのに比べれば緩い坂道といえる。特に一つ手前の多林駅とはほとんど高度差がなく、十字路の鞍部を越すのを待つ踊り場のような区間になっている。

図3: 屏遮那~山頂
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十字路を過ぎると、急勾配が復活する。待避線がスイッチバック式の屏遮那駅を経て、塔山の険しい山肌が迫る第一分道(廃駅)で、線路は行き止まりとなる。図3で引用した旧版地形図には「だいいちすいっち」と駅名が記されている。鉄道最後のハイライトである阿里山火車碰壁、4段連続スイッチバックの始まりだ。現地のサイトでは「之の字形に前進」とうまく表現していた。次の折り返し、第2スイッチは1kmほどで現れるが、3番目の転回はトンネルを介したループ、4番目も二萬平駅前後で180度転回するので、進行方向は変わらない。

さらに2.5km上り詰めると神木駅で、ここが第3スイッチに当たる。線路沿いにあった直径4.7m、樹齢3000年以上というベニヒが、神木と崇められて阿里山の名所になっていたが、落雷で焼け、1998年、ついに切り倒されてしまった。列車は、ここでバックすると、いよいよ阿里山駅に到着だ。標高2216m、クルマで上ってきてもこの近くで降ろされるので、辺りは人通りが多い。本線の戸籍はもとの阿里山駅だった沼平までだが、本線列車はここが終着だ。ただし、1999年の大地震で阿里山駅が損壊してからは、ごく最近まで沼平へ運行が延長されていた。

阿里山駅からは、眠月線が北方へ延びている。1915年に開通し、林場線としては14.3kmの長さがあるが、そのうち10.6kmの石猴まで、蒸機(のちDL)牽引の観光列車が走っていた。1999年の大地震で損壊してから、長らく不通だったが、さきごろ復旧工事が完了したと伝えられる。ルートは阿里山山脈の西側斜面に沿っており、張り出した尾根を長短のトンネルで越えていく。

一方、眠月線の途中、十字分道からは、鉄道の最高地点、標高2451mの祝山まで行く祝山線が分岐している。玉山山脈に昇るご来光を見に行く人のために1986年に開通した新線だが、バスが走る林道を廃止して、鉄道に置き換えたものだ。旧版地形図には描かれていないので、衛星画像と現地の地図を参考にルートを記入した。

阿里山起点で6.3kmの長さがあるが、祝山は沼平駅から直線で1kmしか離れていない。それで、行きは列車で上り、帰りは徒歩で下るという選択肢もあるようだ。他に、水山線が建設中だが、これも昔、沼平からさらに南へ延びていた林場線の一部を、観光用に活用するのだという。阿里山森林鉄道は、今も意気盛んな登山鉄道なのだ。

■参考サイト
臺灣鐵路管理局-阿里山森林鐵道(中国語) http://www.railway.gov.tw/tw/Alishan/page.html
阿里山國家風景區 http://www.ali-nsa.net/

使用図葉:
陸地測量部1:200,000帝国図 嘉義 1934(昭9)製版
陸地測量部1:50,000地形図
 竹崎、阿里山、新高山、以上1927(昭2)測図、中埔 1927、1929(昭2、4)測図
獨立山ループ線概略図は、台湾官製1:25 000地形図「竹崎」およびGoogle空中写真を参考に作成した。

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2008年9月11日 (木)

台湾 台東線(現 花東線)を地図で追う

全体図
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台湾島を一周する鉄道、いわゆる環島鉄路のうち、東岸の花蓮市と台東市の間はかつて軌間762mmのナローゲージで、西岸の路線網と接続しない孤立路線だった。台東線と呼ばれたその鉄道は、花蓮港~台東間175.7km、日本時代(台湾で言う日治時期)の1917~39年に順次開通した。

この区間は、島の背骨に相当する中央山脈の東側に、それより低い海岸山脈が並列する。山脈が落ち込む海岸線は平地が乏しい。その代わり、両山脈に挟まれた細長い谷、いわゆる花東縦谷が天然の通路となり、台東線もそこを通過する。急流が中央山脈から削り取った岩屑が堆積し、縦谷は大規模な扇状地と流路の不安定な氾濫原で覆い尽くされている。

旧版地形図に描かれた大蛇のように乱流する自然河川と、その脇をか細げに延びる狭軌鉄道のコントラストが、ダイナミックな風景を想像させ、早くから筆者の心を躍らせてきた。

しかし、1982年に、台湾の標準ゲージでJR在来線と同じ1067mmへの改軌が完成して、地形図上の姿もずいぶんと様変わりした。というのも、改軌に際して、ルート変更を含む大幅な線路改良が実施されたからだ。旧線の最急勾配25‰、最小曲線半径100mがそれぞれ15‰、300mに緩和されたほか、スピードアップのために重軌条化や一部複線・高架化の工事が現在も進められている。

そこで、日治時期の地形図に記録された旧線をたどりながら、新線でどのように変貌したかを見ていこうと思う。なお、以下の画像は、陸地測量部発行の1:50,000地形図に対して、衛星画像や現地の地図帳を参考に、花東線となった現路線を加筆したものだ。

図1:
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ピンクの線が台東線=旧線、ブルーが花東線=新線を示す。旧線上にある1910年開業の花蓮港駅(のち花蓮)は市街の海寄りにあり、さらに海岸へ伸びている。この図は1929(昭和4)年測図(花蓮港図葉)で、1939年延長の東花蓮港支線は描かれていないので、およそのルートを書き加えた。一方、新線は一部、製糖軌道跡を利用して市街北部を通過し、延長上に花蓮新站(「站」は駅の意)が新設されている。この図ではずいぶん郊外のように見えるが、現在は駅の周囲もすっかり市街地化した。旧線は1982年まで運行されており、吉安駅で北迴線に接続していた。図の左下に消える台東線は、やがて花東縦谷に入っていく。

図2:
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壽豐溪の渓口は、みごとな扇状地が発達している。旧版地形図では、きれいな扇形に開いた等高線がよくわかる。旧線は溪口~南平間で、扇状地の扇頂付近まで遡り、鉄橋をできるだけ短くしていたが、新線は長さ1598mの河底隧道(トンネル)で短絡する。溪口、林栄両駅のスイッチバック式ホームも解消された。

なお、現在では緑の線で示したような堤防の整備で、流路の固定化が進んでいる。しかし、トンネルはもとの川幅をカバーする長さがあるので、氾濫のリスクが想定されているのかもしれない。橋梁ではなくトンネルを採用した理由は、川が上流から大量の砂礫を供給し続けて発達中の扇状地では、河床が掘削される懸念がないからだ。逆に橋梁なら、砂礫の蓄積で河床が上昇するのを見越して桁高を設定するため、アプローチに勾配が必須となる。

図3:
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萬里橋溪の北の山際を回る鳳林~萬榮間では短絡化工事が行われた。萬里橋溪の鉄橋も架け替えて複線化されるようだ。萬榮~光復間の馬太鞍溪は河底を通る2356mの光復隧道に切り替わったが、不必要なほど長い理由も、旧図に重ねると合点がいく。光復には製糖工場があり、製糖鉄道が台東線に並行していた。このあと富源~瑞北間の富源溪も新しい橋梁で直線化されているが、図は省略する。

図4:
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その富源溪は南へ流れ、瑞穂駅の東で北流してきた秀姑巒溪に合流して、海岸山脈を断ち切る形で太平洋に出て行く。川の流れはここから逆を向き、線路も上り勾配に転じる。秀姑巒溪の左岸(西側)は台地のへりの急斜面が迫っているので、旧線は台地のくびれた部分を、難工事の末、線内最長1166mの掃叭(サッパ)隧道で抜けていた。

新線は2840mの自強隧道を設けているが、図で一号・二号隧道としたのは、2本が連結されて見かけは1本になっているからだ。なお、台東線沿線は戦前、入植地が点在し、多くは和風の地名がつけられた。戦後、それらは中国風に改名されていったが、今も名残りがある。この図の瑞穂、舞鶴もその例だ。

図5:
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樂樂渓が縦谷に出てくる玉里~東里間でも、2007年に大規模な路線変更が完成した。玉里駅から南へ直進すると、合流前の2つの荒れ川に架橋することになるため、旧線は、駅を出てすぐルートを大きく左に振り、早めに渡っている。改軌後も旧線ルートで運行されていたので、ナロー時代の風情を残す貴重な区間だった。しかし、渡河前後の線形が悪く、今回、直線ルートに改められた。新線の両駅間は6km以上あり、台東線唯一の複線区間となった。

【追記 2009.7.17】
廃線跡のうち玉里~旧安通駅間は、残したレールの外側を舗装し、全長5.7kmのサイクリングロード「玉里自行車道」として整備された。2009年1月23日から供用されている。

図6:
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駅弁で有名な池上駅を過ぎると、標高320m前後の台東線最高地点を通過する。池上原野は、新武路溪(卑南溪)が作った大きな扇状地で、現在は整備された農場と上質米が獲れる水田が広がる。地名のもとになった大坡池が扇端にあり、昔より面積は縮小したが、今も伏流水で満たされている。南に流れる卑南溪が古い扇状地を侵食し、両岸で10m以上の高低差が生じており、列車で台東方面に向かうと、橋の手前は切り通しで、対岸に渡ると築堤上に載る。右岸(西側)の取付け部は改軌新線も急曲線だったため、海端駅を南に少し移動させてまでルートの再変更が行われた。

その先、關山~鹿野間の旧線は小さな扇状地をいくつも横切り、線形が悪いため、曲線改良が実施され、鹿寮溪の橋梁も新設されている(地図は省略)。

図7:
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鹿野~台東間は旧線ルートから大きく離れて、別線が新設された。下刻が進む卑南溪の右岸には、台東までの間に小黄山山里渓谷という険しい断崖が5kmも続く。旧線はそれを避けて西に回りこみ、鹿野断層が作った谷あいを20~25‰の勾配で上り下りしていた。15km以上にもなる峠越えの途中にあった稲葉(のち嘉豐)と日奈敷(のち檳榔、図8の範囲)の両駅は、地図には表示がないがスイッチバック式だったという。

それに対して新線は、卑南溪沿いに一気に台東をめざしている。断崖に穿たれた山里一号~七号隧道を抜けると、花東線の終点、台東駅はまもなくだ。なお、峠近くの初鹿尾(はしかを)の駅名は、卑南族の地名、パシカウ(漢字で北絲鬮)を採ったもので、のちに初鹿に改名された。同様に日奈敷の原名はピナスキで、漢字で檳榔樹格と当てたところから、のちに檳榔となった。

図8:
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新線の台東駅(台東新站)は、南迴線と直通できるように郊外に造られた。旧市街から見ると、空港より遠い場所で、駅前はまだがらんとしている。2001年までは、南迴線と旧線の交差地点に設けられた連絡線を経由して、旧 台東駅(台東舊站)まで列車が運行されていた。線路はその先、台東海岸の貨物駅(地図にはない)まで延びている。馬蘭駅に集結する特種鉄道の記号は製糖鉄道で、駅前に工場が立地している。

こうしてみると、渡河地点や峠道などを中心に、全線にわたって改良の手が入ったことがわかる。旧線時代の終わりごろ、特急列車、光華号特快は狭軌にもかかわらず最高時速75kmを出し、3時間あまりで花東間を駆け抜けたそうだ。現在では155.7kmに短縮された新線を、特急自強号で最速2時間12分、各停でも3~4時間で縦断する。

■参考サイト
台湾鉄路管理局 http://www.railway.gov.tw/
花東縦谷国家風景区 http://www.erv-nsa.gov.tw/
 縦谷の観光局サイト。日本語ページも充実している。

使用図葉:陸地測量部1:50,000地形図
 新城、花蓮港、鳳林、抜子、玉里、加走灣、以上1929(昭4)測図
 里攏、都鑾山、臺東、以上1928(昭3)測図

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 台湾の旧版地形図地図帳 I-日治時期

2008年9月 4日 (木)

台湾の旧版地形図地図帳 I-日治時期

百聞は一見に、と謂われるとおり、過去に作られた地図は、土地の歴史を遡る上で文字資料を補う重要な語り部だ。近代測量が導入されて130年余、この間に作成された地形図には、行政区分、交通網、公共施設、土地利用その他、人が土地に刻んだ足跡が何層にもわたって記録されている。太平洋戦争が終結する1945年以前、日本は台湾、千島樺太、朝鮮半島、旧満州などでも測量活動を実施し、地形図を作成していた。また、戦時下で外国製の地図を応急的に編集した作戦用地図が、太平洋、東南アジア地域などを対象に多数存在する。膨大な地図群は、総括して「外邦図」と呼ばれている。

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1:50,000 高雄 1928年測図

このうち、台湾は日清戦争後の1895年から1945年までの50年間、日本が統治していた。この期間を台湾史では日治時期という。当時、1:50,000の縮尺で製作された地形図シリーズには、以下のものがある(清水靖夫「台湾の地形図類」地図情報24巻3号, 2004, p.20による)。

・「台湾五万分一図」
 陸地測量部混成枝隊により、1895年測量、1903年製版。102面(後に2面追加)。一部の山岳部を除き全島について作成された、台湾史上最初の地形図。等高線(「水平曲線の等距離」と表現)は20m単位。これをもとに「仮製二十万分一」が編集された。

・「五万分一蕃地地形図」
 台湾総督府民生部警察本署により、1907~16年測量、1911~24年製版・発行。上記地形図未作成の図葉を含む台湾島の東半をカバーする。標高は尺単位で、等高線は100尺ごと(1尺30.3cmで、ほぼ1フィート)。急峻な山岳部では500尺単位の計曲線のみ、および未測の部分が残る。

・「(正式)五万分一地形図」
 陸地測量部により、1925~44年にかけて1:25,000地形図から編集図化。110面。本土と同じ水準の地形図で、1:25,000未作成の地域は地上写真測量を併用するなどしたが、中央山脈の一部に欠図が残り、ついに全島完成には至らなかった(上図はその1枚)。

これらの地形図は戦前、軍事上秘図とされたもの以外、市販されて一般市民の利用に供された。しかし、日本が領土権を放棄してまもなく、台湾では、大陸から渡ってきた国民党政権と戦前から住む本省人との間に大きな混乱が生じ、鎮圧のために戒厳令が発布されるに至る。地形図の頒布も禁じられて、一部の関係者しか閲覧できなくなった。台湾の測量局は旧版図を使って軍用地形図を編集していたが、一般市民の目に触れるものではなかった。

日本でも戦災で地図原版が失われ、印刷図は各所に散在してしまっていた。旧版地形図の全貌が明らかになったのは、1982年に学生社から刊行された「台湾五万分の一地図集成」によってだった。軍事施設設置のため非公表だった澎湖群島の一部を除いて、110面の完全復刻が果たされ、正式図の存在しない地域は、蕃地地形図や台湾五万分一図で代用された。

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一方、台湾でも昨年(2007年)、上河文化社から「日治時期五萬分一臺灣地形圖新解」が刊行された。学生社版が地形図1葉をまるごと複製していたのに対して、原図の図郭にこだわらず、同社が別途刊行する同じ縮尺の「台灣地理人文全覧圖」の図郭に合わせたのが、最大の特徴だ。「全覧圖」については、台湾の現在を描く優れた地図帳として以前紹介したことがある(本ブログ「台湾の1:50,000地図帳」参照)。上下2巻の分冊になっているが、「地形圖新解」は、これを見開き136図の全1冊に収めている。さらに、衛星画像のアトラス「台灣衛星影像地圖集」を参照すれば、図郭を同一にした台湾地図帳三部作が揃う。

「地形圖新解」の序文によると、編集に当って考慮したのは、実用性、使いやすさ、検索のしやすさだ。両者とも地図には1kmグリッド(方眼)が付されており、これを基準にすれば、地点を絞って70年前と現在を厳密に照合できる。新旧の図で共通する三角点や地物を重ね合わせると、間違いなく一致するそうだ。原図は黒1色刷りだが、「地形圖新解」では、集落に紅、集落名に黄、主要道に黄土、水部に青などの塗色を置いている。より多くの人の注意を引くために、単色の地図に生気を起こすのだと説明している。

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第63図虎尾・斗六の一部
©上河文化社 2007 (画像は同社サイトより取得)

両者を見比べると、発達した市街地や道路・鉄道の整備状況など、変貌のすさまじさには驚きを禁じえない。同時に、3世代を遡った日治時期に対する興味がむくむくと湧き上がるのを感じる。現代図だけでもまだ見ぬ土地への関心に応えてくれるが、そこに歴史の持つ厚みを加えるのが旧版地形図集だ。

なお、使用された地形図は、学生社版との間で若干異同がある。学生社版では台湾五万分一図や蕃地地形図による代用や、山地の未測地域が目立ったが、「地形圖新解」では多くが正式地形図に置き換えられている。前者の刊行から25年を経る間に資料の発掘が進んだということだろう。しかし、学生社版で無欠の図が採用されているのに、「地形圖新解」で一部欠図となっているものもあり(枋山図葉の北半分、台南南部図葉の南半分)、必ずしも前者を完全に補うわけではない。

上河文化社は自社書籍の通信販売をしており、日本への発送もしてくれる。

■参考サイト
上河文化股份有限公司「臺灣地形圖新解」
http://www.sunriver.com.tw/map_13.htm
上河文化社の以下のページで、地図帳三部作を精細なサンプル図で比較できる
http://www.sunriver.com.tw/map_01_show.htm

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