2019年6月19日 (水)

グムンデンのトラム延伸 III-トラウンゼー鉄道

トラウンゼー鉄道 Traunseebahn

グムンデン・ゼーバーンホーフ Gmunden Seebahnhof ~フォルヒドルフ・エッゲンベルク Vorchdorf-Eggenberg 間 14.9km
軌間1000mm、直流600V電化(ゼーバーンホフ~エンゲルホーフ間)、直流750V電化(エンゲルホーフ~フォルヒドルフ・エッゲンベルク間)
1912年開通、1990年旧 ゼーバーンホーフへ延伸、2018年グムンデン路面軌道と直通化

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運転士自らポイントを転換
フォルヒドルフ駅にて
 

トラウンゼー鉄道 Traunseebahn は、正式にはグムンデン=フォルヒドルフ地方鉄道 Lokalbahn Gmunden–Vorchdorf という。名のとおり、トラウン湖畔のグムンデンと、その北東10km強にある田舎町フォルヒドルフを結ぶメーターゲージ(1000mm軌間)の電化路線だ。この地方の主要な交通企業であるシュテルン・ウント・ハッフェルル Stern und Hafferl 社が運行を担ってきた。

終点のフォルヒドルフ・エッゲンベルクでは、標準軌支線のフォルヒドルフ鉄道 Vorchdorferbahn(下注)に接続し、それを通じて、ランバッハ Lambach でウィーン~ザルツブルク間の幹線である西部本線 Westbahn にも連絡している。それで路線図では、西部本線からグムンデン方面に延びる支線のようにも見える。しかし、2回の乗換えを要するため、そのような利用は一般的ではない。路線の主な役割は、フォルヒドルフとその周辺からグムンデンに向かうローカル需要に応じることで、それが建設の目的でもあった。

*注 正式名はランバッハ=フォルヒドルフ・エッゲンベルク地方鉄道 Lokalbahn Lambach–Vorchdorf-Eggenberg。

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グムンデン周辺の鉄道路線の位置関係
オレンジがトラウンゼー鉄道
 

最初にこのルートで計画されたのは、グムンデンからフォルヒドルフを経てさらに東のペッテンバッハ Pettenbach に至る電化鉄道で、1895年のことだ。グムンデン路面軌道が前年(1894年)に開通しており、当然この軌道との接続が想定されていた。しかし、これは予備認可を得たものの、着工には至らなかった。

他方、フォルヒドルフでは、1903年に上述のフォルヒドルフ鉄道が開通し、1908年には同じ西部本線の沿線都市ヴェルス Wels と結ぶ路線構想も浮上していた。そのため、商圏の縮小を案じたグムンデン市が自ら鉄道建設に乗り出し、その結果、1912年3月に開業したのがトラウンゼー鉄道だ。初期の保有車両は電動車2両と付随車2両で、通常4往復、市の立つ日は5往復の列車が走った。

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かつてのトラウンゼー鉄道
グムンデン鉄道史の展示パネルより
 

グムンデン側の起点は、市街の川向うにあるトラウンドルフ Traundorf に設けられた。古い馬車鉄道(下注1)の終点から少し上手で、駅を出て間もなく、その馬車鉄道から転換された標準軌の国鉄ランバッハ=グムンデン地方線 Lokalbahn Lambach–Gmunden(下注2)と合流する。そして、エンゲルホーフまで2km足らずの間、両者は3線軌条でルートを共有した。

*注1 1836年にグムンデンに到達したブドヴァイス=リンツ=グムンデン馬車鉄道 Pferdeeisenbahn Budweis–Linz–Gmunden。
*注2 ランバッハ=グムンデン地方線は1884年に国有化。当時はまだ馬車鉄道を継承した1106mm軌間だったが、1903年に標準軌に改軌された。トラウンタール線 Trauntalbahn の別称もある。

連絡する2本の鉄道がいずれも標準軌だったにもかかわらず、トラウンゼー鉄道が1000mm軌間とされたのはいうまでもなく、グムンデン路面軌道への乗入れに備えてのことだった。しかし、トラウン川への架橋と市街地横断という難工事を伴うため、延長計画はこの時代には実現しないままとなった。

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旧型車 ET23 112(1954年 SWS製)
 

国鉄ランバッハ=グムンデン地方線(以下、ÖBB線)は、1988年に旅客輸送を終了した。それを受けてトラウンゼー鉄道は1990年に、開業以来のトラウンドルフ駅から、ÖBB線の終着駅だったゼーバーンホーフ(湖岸駅)Seebahnhof に起点を移した(下注)。両線ともランバッハにつながっているので、代替輸送の役割を付与されたのだろう。当時まだÖBB線の貨物輸送が残っていたので、3線軌条の延長工事も併せて行われた。

*注 別途、トラウンドルフ駅近くの本線上に、代替となるトラウンドルフ停留所が開設され、2014年まで使われた。

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グムンデンの路線網と駅の変遷
 

とはいえ、ゼーバーンホーフもグムンデン中心街から見れば川向うだ。また、終点のフォルヒドルフは人口7000人ほどの町に過ぎず、需要の掘り起こしには限界がある。それでトラウンゼー鉄道は最近まで、主に単行の旧形電車が1時間に1本走る程度の、のどかなローカル線だったのだ。

前回の続きで、路線の起点であり、路面軌道との接続点でもあるグムンデン・ゼーバーンホーフから、ルートに沿って変貌ぶりを見ていこう。

トラウンゼー鉄道のターミナルとなって以降も、ゼーバーンホーフは、ほとんどÖBB線時代のまま使われていた。1999年に訪れたときには3線軌条の標準軌側レールはもはや錆びていたから、貨物列車の運行も実質終了していたのだろう。その後、共用区間のÖBB線は2009年2月に正式に廃止され、トラウンゼー鉄道専用となった。

2014年の大改修で、ゼーバーンホーフの旧駅舎はホームもろとも撤去され、新たにトラウンシュタイン通りの北側に島式ホームと待合所が設置された。見かけも運行上ももはやターミナルではなく、中間電停だ。湖に突き出していた構内は、2018年10月現在、更地になっている。

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ゼーバーンホーフ電停
(左)広めのホームが敷地の余裕を物語る
(右)反対側はトラウン湖に臨む
  道路の先が旧駅跡で、現在は更地に
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1999年のゼーバーンホーフ(湖岸駅)
構内は3線軌条が敷かれていた
 

ゼーバーンホーフを後にすると線路は単線になり、右に左にカーブを切りながら、勾配を上っていく。枕木もメーターゲージ用に交換されたので、3線軌条を思い出させるものは残っていない。坂の途中にあったトラウンドルフ電停は廃止され、新たにシュロス・ヴァイヤー Schloss Weyer とレンベルクヴェーク Lembergweg の各電停が開設された。

旧 共用区間はエンゲルホーフ Engelhof で終わるが、同じようにÖBB線の駅とホームが撤去され、2面3線の中間ターミナルに再生された。日中10~20分間隔、毎時4本(土日は3本)のダイヤはここまでで、以遠では2本が間引かれて30分間隔(土日は1時間間隔)となる。西側の1面1線に、そのエンゲルホーフ止まりの列車が発着する。

ちなみに、ÖBB線の駅名はエンゲルホーフだったが、トラウンゼー鉄道の電停はそれと区別するためにエンゲルホーフ・ロカールバーン Engelhof Lokalbahn(ロカールバーンは地方鉄道の意)を名乗っていた。現在、電停や車内の表示はエンゲルホーフ・バーンホーフ(エンゲルホーフ駅)Engelhof Bahnhof になっている。

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エンゲルホーフを発つグムンデン駅行きトラム
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エンゲルホーフ電停
(左)2面3線の中間ターミナル、左1線は折返し用
(右)折返しホームに区間便が停車中
 

直進していたÖBB線(下注)に対して、トラウンゼー鉄道は右へ曲がり、トラウンシュタイン山を右手に仰ぎながら、畑と森の間を走っていく。木製の架線柱に直吊りのか細げな架線、線路の枕木も大半は木のままで、のどかな周囲の景色にしっくり溶け込んでいる。電停の設備だけは更新されているが、リクエストストップのため、乗降がなければ停まらない。

*注 2018年10月現在、駅構内の北端から先ではÖBBの線路が残されている。

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(左)中間の電停も改修済
(右)トラウンシュタイン山を仰ぎながら行く
 

やがて再び上り勾配となり、標高530mほどのサミットに達する。車窓右側にラウダッハ川 Laudach の谷が俯瞰でき、後はこれに沿って下っていくことになる。日中は、近くのアイゼンガッテルン Eisengattern 電停で列車交換が行われるが、倉庫の裏手のような殺風景な場所で、相手が到着すると合図もなく出発した。

坂を降りきったところでラウダッハ川を渡り、道路脇を進めば、左カーブの先にもう、フォルヒドルフ・エッゲンベルク Vorchdorf-Eggenberg 駅の留置された電車群が見えてくる。グムンデン駅から約40分、ゼーバーンホーフから25分の小旅行の終点だ。

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(左)アイゼンガッテルンで列車交換
(右)ラウダッハ川の谷を下る
 

フォルヒドルフ・エッゲンベルクは、運行を司るシュテルン・ウント・ハッフェルル社にとって重要な拠点になっている。十分広い構内にメーターゲージと標準軌の留置側線が何本も並び、側線からつながる車庫兼整備工場も二種の軌間に対応して、大型だ。貨車も含め、新旧さまざまな形式が留置されているが、トラムのホームから駅舎へ通じる通路はその側線を横断していくので、気兼ねなく観察ができる。

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フォルヒドルフ・エッゲンベルク駅構内
左側はメーターゲージ、右側は標準軌車両
 

標準軌の設備はいうまでもなく、この駅に接続しているフォルヒドルフ鉄道のためのものだが、真新しいグムンデントラムの連接車とは対照的に、こちらはまだ1950年代製の車両が現役だ。次回は、軌間は広いのに車両は旧形という、このフォルヒドルフ鉄道について詳述する。

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 グムンデンのトラム延伸 I-概要
 グムンデンのトラム延伸 II-ルートに沿って

2019年6月 5日 (水)

グムンデンのトラム延伸 II-ルートに沿って

グムンデン路面軌道 Straßenbahn Gmunden の変貌ぶりには目を見張るものがある。車両や運行形態だけでなく、それを支える施設設備もすっかり新しくなった。いったい、どのように変わったのか。起点のグムンデン・バーンホーフ(グムンデン駅)Gmunden Bahnhof から順に、沿線風景と併せて見ていくことにしよう。

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グムンデン・バーンホーフ電停
右のÖBB線ホームに平面で接続
 
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グムンデン周辺の地形図に鉄軌道ルートを加筆
赤色の線がグムンデン路面軌道で、
列車は橙色のトラウンゼー鉄道に直通する
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

ÖBB(オーストリア連邦鉄道)のザルツカンマーグート線に接続するトラムの乗り場は、かつて狭い駅前広場の向かい側にあり、並木の木陰の、屋根も側線もない簡素なターミナルだった。2014年7月に完成した改良工事で、それはÖBB駅の横に移設され、島式ホームをもつ1面2線の頭端駅になった。ホームには大きな屋根が架けられ、雨に濡れずに駅の待合室まで移動できる。ÖBB駅も同時に改修され、真新しい駅舎とホームが出現して、昔の面影は完全に消えた。

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グムンデン駅前
(左)旧 電停跡は道路に
(右)並木の木陰にあった旧電停(1999年撮影)
 

ホームを後にして、軌道はすぐ右に折れる。このカーブも以前は半径40mの急曲線だったが、線路移設によりやや緩和された。トラムは、正面にトラウンシュタイン Traunstein(標高1691m)の峨峨たる岩山を眺めながら、バーンホーフ通り Bahnhofstraße の右側に沿う専用軌道を走っていく。

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(左)グムンデン駅を出発
(右)バーンホーフ通りに沿う専用軌道
  背後の岩山はトラウンシュタイン
 

最初の停留所(以下、電停)は、待避線のあるグムンドナー・ケラミーク Gmundner Keramik だ。ケラミークは製陶所のことで、名産のグムンデン陶器を作る会社の工場が近くにある。2005年まで市街地寄り(車庫前)にあったクラフトシュタツィオーン(発電所)Kraftstation 停留所と路線途中の待避線を廃止して、代わりに設置されたのがこの電停だ。

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(左)グムンドナー・ケラミーク電停
(右)火力発電所跡に建つ時計塔
 

すぐ前に道路のロータリーがあり、バーンホーフ通りはまっすぐ旧市街へ下る。一方、軌道はそれに従わず、右前方に分岐する片側1車線のアロイス・カルテンブルーナー通り Alois-Kaltenbruner Straße に沿って南へ迂回する。線路が2本右へ分かれ、板戸に吸い込まれていくのが見える。開通当初からあるトラムの車庫だ。ただ手狭なため、連節車は、トラウンゼー鉄道の終点フォルヒドルフ Vorchdorf にある車両基地に拠点を置いている。

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開通当初からあるトラム車庫
 

縦断面図によれば、グムンデン駅からここまで緩やかな上りで、車庫付近が標高485m、ルートのサミットだ。通りを横断して左側に移ったところから、一転急な下り坂が始まる。やや鄙びた風景の中、ローゼンクランツ Rosenkranz 電停(下注)を過ぎると、線路に一段と勾配がつき、トラムは道路と離れて、転がるように段丘の斜面を降りていく。このあたりからいよいよ正面に、トラウン湖の水面が見え隠れするようになる。

*注 正式名称は、ローゼンクランツ/オーカーアー・ジードルング Rosenkranz/OKA-Siedlung。

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(左)アロイス・カルテンブルーナー通りに沿って南下
(右)トラウン湖が見え始める
 

待避線のある次の電停は、テニスプラッツ Tennisplatz だ。コート9面を擁する伝統あるテニスクラブの前にあり、連節車の車体長に合わせて、2008年に改修された。直通化後のパターンダイヤでは、ここで列車交換することが多い。

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テニスプラッツ電停で列車交換
 

ところでこの路線には、オーストリアではペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn(下注)の116‰に次ぐ100‰という、粘着式鉄道屈指の急勾配があることにも注目したい。それはテニスプラッツ電停から、坂下にあるシュテルン・ウント・ハッフェルル Stern und Hafferl 本社前までの区間で、設計図上は94.7‰のところ、1992年の再測量でそれを上回ることが判明したのだ。それで、グムンデン路面軌道は「世界最険かつ最小の路面軌道 die steilste und kleinste Straßenbahn der Welt」だった。

*注 ペストリングベルク鉄道については、「ペストリングベルクの登山トラム I-概要」「ペストリングベルクの登山トラム II-ルートを追って」で詳述。

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100‰の急勾配
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(左)架線柱の傾きで急勾配を実感
(右)シュテルン・ウント・ハッフェルル本社前を通過
 

本社前で専用軌道は終わり、その先は、狭い街路をすり抜けていく併用軌道区間となる。さすがに車は湖方面の一方通行だが、トラムは上下ともここを走る。電車とのすれ違いがやっとの道幅にもかかわらず、路上駐車が多いのには呆れるばかりだ。途中に、街路の名を採ったクーファーツァイレ Kuferzeile 電停がある。この区間では民家が接近しているため、2007年までに振動を軽減するマススプリング装置を軌道下に埋設する工事が行われ、そのとき、電停のホーム延長と嵩上げも実施された。

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(左)軌道以外は路上駐車スペース?
(右)クーファーツァイレ電停
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軒先をかすめて通る最狭区間
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(左)おまけに見通しも悪い
(右)点滅信号が車にトラム接近を警告
 

隘路を通過後は右側の視界が急に開けて、湖岸の遊歩道エスプラナーデ Esplanade が見えてくる。軌道は車道の左端(山側)に分離されているものの、街路と一体のため、溝付きレールが使われている。ベツィルクスハウプトマンシャフト(郡役場)Bezirkshauptmannschaft 電停を通過すれば、次が、1975年から43年間トラムの終点だったフランツ・ヨーゼフ・プラッツ(フランツ・ヨーゼフ広場)Franz-Josef-Platz だ。

手前で、軌道は左右に分岐して複線になる。西行き(グムンデン駅方面)はかつての終点電停に停まるが、東行き(フォルヒドルフ方面)は湖側に新設された専用ホームに入る。直通化に先立って、2015年に整備された施設だ。ホームの反対側にはバスが発着し、平面で乗継ぎできるようになっている。

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フランツ・ヨーゼフ・プラッツの東行き専用ホーム
反対側にはバスが発着
 

ここは湖畔の公園、フランツ・ヨーゼフ広場の前だ。天気が良ければ途中下車して、エスプラナーデのベンチに腰を下ろし、ザルツカンマーグートの蒼い山並みと、陽光跳ねる湖面をのんびりと眺めるのもいいだろう。その一角には、直通運転の開始を記念して、19世紀から現在に至るグムンデンの鉄道史を繙く解説パネルも立てられている。

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トラウン湖畔のエスプラナーデ
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トラウン湖のパノラマ
エスプラナーデから南望
 

さて、フランツ・ヨーゼフ・プラッツの電停を出発すると、トラムは昨年(2018年)9月に開通したばかりの新設区間に入っていく。ある意味で、ここは通行上の難所だ。

道幅は2車線分あるのだが、軌道が複線になるので、街路をほぼ占有してしまう。そのため、車は軌道上を走るしかない。しかもこの通りは州道120号線の一部になっていて、交通量が多い。訪れた日も、トラムは長い車列の間に挟まれ、護送状態で走っていた。最も混むのがグラーベン Graben の交差点で、左折車(下注)を通すためにトラムも長い信号待ちを余儀なくされる。

*注 いうまでもなく右側通行なので、左折するには対向車線を横切る必要がある。

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新設区間のグラーベン交差点を行く
 

テアーターガッセ(劇場小路)Theatergasse をさらに100m進むと、右手に湖岸に面した広場が開ける。グムンデンの中心部、ラートハウスプラッツ(市庁舎広場)だ。アップルグリーンでアクセントをつけた、優雅な柱廊玄関をもつ市庁舎が西側に建っている。1975年までは、ここが終点だった。

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ラートハウスプラッツ電停
背後はグムンデン市庁舎
 

前回述べたように、1970~80年代は路面軌道にとって試練の時期だった。自動車の増加で、併用軌道は円滑な交通の妨げになっていると考えられた。当時、軌道は全線単線で、市街地では片側(山側)に寄せて敷かれていた。市庁舎広場に向かうトラムは道路の左側を通行するため、対向する車と正面から向き合うことになる。これは渋滞の原因となるばかりか、危険でもあった。それで、グラーベンへの新しい交通信号設備の導入をなかば口実にして、1975年6月、フランツ・ヨーゼフ・プラッツ~ラートハウスプラッツ間 230mは廃止されたのだ。

今回、路線復活にあたって、併用軌道となるフランツ・ヨーゼフ・プラッツ~ゼーバーンホーフ間に複線を敷いたのは、対向車との鉢合わせを避けるためであろうことは想像に難くない。トラムも車も同じ方向に動くことで、少なくとも規則的な通行は保証される。停留所では、トラムの後ろについた車列も待ちを余儀なくされるが、公共交通優先の原則ではそれも承知の上だ。

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(左)左折車で渋滞する街路
(右)前後を車列に挟まれての走行
いずれも車内後方から撮影
 

さて、ラートハウスプラッツを出たトラムは、アーケードのある狭い街路(カンマーホーフガッセ Kammerhofgasse)をそろそろと進む。袋小路のような一角で、旧市街の東口であるトラウン門 Trauntor がぽっかりと口を開けている。併用軌道は道路とともに手前で左右に分かれ、急なカーブでこの二連のアーチに吸い込まれていく。

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トラウン門をくぐる
 

門をくぐった先はトラウン橋 Traunbrücke だ。ちょうど湖からトラウン川が流れだす地点で、突然車窓に広がる明るくのびやかな湖畔の景色に、乗客の目は奪われる。橋は長さ94.1m、幅14mあり、併用軌道を通すために、約2年の工期をかけて架け替えられたばかりだ。旧来の橋は一直線だったが、新橋梁は拡幅のうえ、わずかに湖側にカーブを描くようになった。

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トラウン橋の上は沿線随一の絶景車窓
 

対岸トラウンドルフ Traundorf に渡りきると、軌道はまもなく右折してトラウンシュライン通り Traunsteinstraße へ入る。そこにクロスタープラッツ Klosterplatz 電停がある。通りの中央に設置された島式ホームの、両端を反り返らせた屋根が特徴的だ。2018年9月の開通区間はここまでで、その先、ゼーバーンホーフとの間は、電停の改築と併せて、2014年12月に先行開通していた。

グムンデン・ゼーバーンホーフ(グムンデン湖岸駅)Gmunden Seebahnhof の歴史は古く、1871年に遡る。もともと蒸気鉄道の開通(下注)に際して、航路との接続を図るために設けられた湖岸の終着駅だ。1990年からは、3線軌条化してトラウンゼー鉄道 Traunseebahn(正式名:グムンデン=フォルヒドルフ地方鉄道 Lokalbahn Gmunden–Vorchdorf)の終点として使われてきた。

*注 ブドヴァイス Budweis(現在のチェスケー・ブジェヨヴィツェ České Budějovice)~リンツ Linz ~グムンデン間の馬車軌道の一部区間を、後年蒸気鉄道に転換したランバッハ=グムンデン地方鉄道 Lokalbahn Lambach–Gmunden(トラウンタール鉄道 Trauntalbahn)。1988年旅客営業廃止、南半のオーバーヴァイス Oberweis ~ゼーバーンホーフ間は2015年に廃止手続が取られ、軌道は撤去された。

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(左)クロスタープラッツ電停
(右)グムンデン・ゼーバーンホーフでトラウンゼー鉄道に直通
 

直通化事業により、駅は島式ホームをもつ電停に生まれ変わった。昔の面影はすっかり消え、広めにとられたプラットホームが唯一、入換側線を擁して敷地に余裕のあった旧駅をしのばせる。名目上はグムンデン路面軌道の終点なのだが、今や全列車がトラウンゼー鉄道に直通するようになり、実態はふつうの中間電停だ。とはいえ、この先は単線に戻るため、しばしばここで列車交換が行われる。トラムは対向列車を迎えた後、大きく右にカーブを切りながら、トラウンゼー鉄道の勾配路を上っていく。

次回はこのトラウンゼー鉄道を紹介する。

■参考サイト
シュテルン・ウント・ハッフェルル  https://www.stern-verkehr.at/
トラウンゼートラム  https://www.stadtregiotram-gmunden.at/
グムンデン路面軌道支持者協会  https://www.gmundner-strassenbahn.at/

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2019年5月29日 (水)

グムンデンのトラム延伸 I-概要

グムンデン路面軌道 Straßenbahn Gmunden

グムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof ~ グムンデン・ゼーバーンホーフ Gmunden Seebahnhof 間 4.2km
軌間1000mm、直流600V電化、最急勾配100‰
1894年開通、2018年ゼーバーンホーフへ延伸、トラウンゼー鉄道と直通化

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湖岸への急坂を下るグムンデンのトラム
 
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グムンデン Gmunden は、オーストリアの湖水地方であるザルツカンマーグート Salzkammergut の入口に位置する町だ。トラウン湖 Traunsee の水運を操り、古くは上流のハルシュタット Hallstadt などから産出する岩塩の取引で栄えた。19世紀に入ると、イシュル Ischl(バート・イシュル Bad Ischl)に次ぐ帝国の避暑地となり、湖を見下ろす斜面には上流階級のヴィラ(別荘)が建ち並んだ。町は今も湖畔リゾートの雰囲気を漂わせていて、夏には、白地に緑縞を描いた名産の陶器を並べる市が立つ。

その市街地を、昨年(2018年)9月からグムンデン路面軌道 Straßenbahn Gmunden の連節トラム(下注)がさっそうと走り抜けるようになった。かつてトラムは、旧市街の手前のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ Franz-Josef-Platz(フランツ・ヨーゼフ広場)を終点にしていた。ÖBB駅との間わずか2.3kmを細々と往復し、世界最小の路面軌道と自称していた。19年前に初めてこの町を訪れた時、標識が1本立つだけの停留所に、デュヴァーク Duewag 製の古ぼけたボギー単車がぽつんと客待ちしていたのを思い出す。

*注 2016~17年にフォスロー・キーペ  Vossloh Kiepe  社製の低床連節車トラムリンク Tramlink V3 形 8編成が導入された。

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フランツ・ヨーゼフ・プラッツに停車中の旧車 GM 10
系統幕の「G」はグムンデンを意味する
(左)オリジナル色(1999年撮影)
(右)グムンデン・ミルクのラッピング(2014年撮影)
   海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供
 

それが今や、湖の対岸に終点のあったトラウンゼー鉄道 Traunseebahn(下注1、正式名:グムンデン=フォルヒドルフ地方鉄道 Lokalbahn Gmunden - Vorchdorf)と線路がつながり、町をはさんで東西約19kmを乗り換えなしで結ぶ。時刻表番号も、従来の174からトラウンゼー鉄道の番号である161に統一され、全体を「トラウンゼートラム Traunseetram」と呼ぶようになった。直通化だけではない。定員90名の旧型単車は、定員175名の低床5車体連節車に完全に置き換えられ、1時間2本きりだったダイヤは4本に倍増された(下注2)。主要な停留所もバリアフリー仕様に改造されている。

*注1 鉄道名は「トラウンゼー鉄道」とするが、地名は「トラウン湖」と記すことにする。
*注2 うち2本はグムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof ~エンゲルホーフ Engelhof 間の運行。

トラウンゼートラムの開通(直通運行)を祝う行事は、9月1日に町を挙げて行われた。その日から2週間は無料の試乗期間とされ、多くの市民が直通トラムの初乗りを楽しんだ。

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低床連節車トラムリンクV3
 

2014年に先行開通していた区間を含めても、新たに建設された軌道は1kmにも満たない距離だ。しかし、州道120号線になっているトラウン橋の前後は代替路が少ないため、かねてから交通のボトルネックになっていた。そこに輸送能力のある鉄軌道が出現する効果は大きく、実際に利用してみても快適さ、便利さを体感する。たかが1kmでも、町にとっては画期的な交通ルートの誕生なのだ。

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グムンデン周辺の地形図に鉄軌道ルートを加筆
赤色の線がグムンデン路面軌道で、
列車は橙色のトラウンゼー鉄道に直通する
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA
 

グムンデン路面軌道が、グムンデン電気地方鉄道 Elektrische Lokalbahn Gmunden (ELGB)  として開業したのは今から125年前、1894年8月のことだ。市民が蒸気機関車の走行に伴う騒音や臭気を嫌ったため、名称が示すとおり、最初から電車が導入された。オーストリアでは3番目の電気鉄道だった(下注)。大都市のウィーンやリンツでも、市内線に電車が登場するのは1897年以降だから、いかに時代を先取りしていたかが想像できる。

*注 オーストリア初の電化鉄道はメードリング=ヒンターブリュール地方鉄道 Lokalbahn Mödling–Hinterbrühl で、1883年開業(最初から電化されており、架線集電では世界初)、1932年廃止。2番目のバーデン路面軌道 Straßenbahn Baden は1873年に馬車軌道で開業、1894年7月から順次電化されたが、現存しているのはウィーン地方鉄道 Wiener Lokalbahn が走る短区間のみ。

このように歴史はきわめて古いが、規模は最初からささやかなものだった。国鉄のグムンデン駅前(グムンデン・バーンホーフ Gmunden Bahnhof)と市庁舎広場(ラートハウスプラッツ Rathausplatz)の間、路線延長はわずか2.54kmに過ぎない。1877年に開通した国鉄ザルツカンマーグート線 Salzkammergutbahn(下注)のグムンデン駅が、湖岸の市街地から2km離れた丘の上に設けられており、その連絡が目的だったからだ。

*注 当初は勅許を得た私有ルードルフ皇太子鉄道 k.k. privilegierte Kronprinz Rudolf-Bahn (KRB) が建設し運行した。それで、駅もルードルフスバーンホーフ(ルードルフ駅)Rudolfsbahnhofと呼ばれていた。鉄道は経営不振のため、1880年代に国有化。

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(左)現在のグムンデン・バーンホーフ電停
(右)現在のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ電停
 左端の"CAFE"前が旧来の電停で、現在はグムンデン駅方面の乗り場
 

すでにグムンデンでは、対岸のトラウンドルフ Traundorf に、岩塩を運ぶ馬車軌道から転換された蒸気鉄道(下注)があり、1871年には航路に接続するゼーバーンホーフ(湖岸駅)Seebahnhof も開設されていた。とはいえ、これはあくまでローカル支線だ。方や、ザルツカンマーグート線は亜幹線の位置づけで、ウィーンからの直通列車も走っていた。保養客の取り込みをバート・イシュルと競っていたグムンデンとしては、市街地と結ぶ交通手段の確立が喫緊の課題だった。

*注 ランバッハ=グムンデン地方鉄道 Lokalbahn Lambach–Gmunden、後にトラウンタール鉄道 Trauntalbahn とも呼ばれた。1859年までに開業、1988年に旅客輸送を廃止。現在は一部区間で貨物輸送のみ行われている。

都市の近代化に熱心だった市長のもとで建設が計画され、事業の遂行はシュテルン・ウント・ハッフェルル Stern und Hafferl 社に委ねられた。同社はすでに近隣で、760mm狭軌のザルツカンマーグート地方鉄道 Salzkammergut-Lokalbahn(ザルツブルク~バート・イシュル、1890~94年開通)や、ラック式登山鉄道のシャーフベルク鉄道 Schafbergbahn(1893年開通、下注)を手掛け、交通企業としての実績を挙げていた。

*注 この2本の鉄道については、本ブログ「ザルツカンマーグート地方鉄道 I-歴史」「オーストリアのラック鉄道-シャーフベルク鉄道」で詳述。

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トラウン門をくぐって旧市街に入るトラム
 

半年の工期を終えて、鉄道は開通式の日を迎えた。朝の試運転を行っている間、町では、電車の通行に慣れさせるために、乗馬や馬車牽きに使われる馬が通りに沿って多数繋がれていたという。鉄道に電気を供給するため、沿線に石炭火力発電所が建設されたが、電力の一部は市内にも送られ、ガス灯を電灯に置き換えていった。

先述のように、路線は地方鉄道 Lokalbahn として開通している。しかし、オーストリアがナチスドイツに併合された1938年からドイツ国内の建設・運行規程が適用されたことで、路面軌道 Straßenbahn に分類されることになった。実際、併用軌道は全長の2割弱で、他は車道と分離されたいわゆる道端軌道だが、戦後も路面軌道として扱われ(下注)、名称もそれに準じている。

*注 旧車の前面の系統幕に、グムンデンを意味する「G」の文字を掲げていたのはその名残。

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エスプラナーデに立つグムンデン鉄道史の展示パネル
「1894年 グムンデン路面軌道の開通」
 

二度の大戦でも、路面軌道は大きな被害を受けずに走り続けてきたが、その運営が順風満帆だったわけではない。とりわけ1960~80年代は衰退に向かう時代だった。1961年に新聞輸送が廃止された。1975年には自動車交通を優先させるために、旧市街のフランツ・ヨーゼフ・プラッツ~ラートハウスプラッツ間0.2kmが休止となり、運行区間が短縮された。1978年には車掌が乗務しないワンマン運行に切り替えられ、1989年にはついにバス転換案が表面化している。

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同 展示パネル
上2枚はラートハウスプラッツ電停、
下1枚はフランツ・ヨーゼフ・プラッツ電停
 

退勢が反転したのは、軌道の将来に危機感を抱いた人々の熱意が行政を動かした結果で、それがなければ軌道はとうに過去帳入りしていたかもしれない。この年、路面軌道存続を求める請願に6000人以上の市民が名を連ねた。それに応える形で、市によってグムンデン路面軌道支持者協会 Verein Pro Gmundner Straßenbahn という名の推進団体が設立されたのだ。

協会はまず、路面軌道に対する市民の関心を呼び覚ますことに努めた。車庫まつりや古典電車運行など、次々と市民参加のイベントを仕掛けた。各電停にある古風な駅名標も、昔の様式にならって協会が1994年に新たに設置したものだ。

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古風な駅名標も支援策の一つ
 

2000年代に入ると、協会が中心となって、軌道を延長しトラウンゼー鉄道と直通させるための計画が具体化されていった。その間に、フライブルクやインスブルックから低床車を借りて、既存区間で試験走行も実施された。周到にまとめられた計画案は2003年、市議会に上程され、全会一致で可決された。

協会はその後も広報活動や資金調達など、さまざまな分野で計画の遂行を支援していて、こうした足かけ30年に及ぶ熱心な活動が、路面軌道を復調に導いたのは疑いのないところだ。これまでに実施されたさまざまな更新と新設の内容については、次回、グムンデントラムの走行ルートを追いながら見ていくこととしよう。

■参考サイト
シュテルン・ウント・ハッフェルル  https://www.stern-verkehr.at/
トラウンゼートラム  https://www.stadtregiotram-gmunden.at/
グムンデン路面軌道支持者協会  https://www.gmundner-strassenbahn.at/

★本ブログ内の関連記事
 グムンデンのトラム延伸 II-ルートに沿って
 グムンデンのトラム延伸 III-トラウンゼー鉄道

 ペストリングベルクの登山トラム I-概要
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2019年5月22日 (水)

コンターサークル地図の旅-上根峠の河川争奪

2019年コンターサークル春の旅、5月19日は西へ飛んで、広島県の上根峠(かみねとうげ、下注1)を訪ねた。広島から三次(みよし)へ向かう国道54号線の途中にある標高267mのサミットだ。

ここに降った雨は、北側で簸川(ひのかわ)から江の川(ごうのかわ)を経て日本海へ、南側で根の谷川(ねのたにがわ)から太田川(おおたがわ)を経て広島湾へ流れ下る(下注2)。つまりここは、日本海斜面と瀬戸内海斜面を隔てる中央分水界になっている。

*注1 「かみねだお」「かみねのたお」とも言う。「たお」は「たわ」「とう」などとともに、中国地方で峠を意味する地名語。ちなみに、堀淳一氏も『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)の100~104ページで、上根峠を取り上げている。
*注2 簸川は「簸ノ川」、根の谷川は「根谷川」とも書かれる。居住地名の表記は「根之谷」。

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国道54号上根峠
 

しかし、馬の背を分ける形の分水界をイメージするなら、実景とはかなり違う。国道バイパスを北上していくと、峠の手前では、急坂で谷間を上り、トンネルと高い橋梁で山脚を縫っていく山岳道路だ。ところが、峠に出たとたん、まわりは嘘のように穏やかな谷底平野に変わる。片方にしか坂がない「片坂」になっているのだ。

これは後述するように、簸川の上流域を根の谷川が侵食し、水流を奪い取ってしまったことから生じた。奪った川と奪われた川の侵食力の差が目に見える形で現れたのが、片坂だ。上根峠は、明瞭な形状とスケールの大きさから、こうした「河川争奪」の典型地形の一つとされている。

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上根峠周辺の1:25,000地形図に歩いたルート等を加筆
 

集合場所のJR可部線可部駅まで、広島駅から電車で出かけた。11時10分、予定時刻に西口バスターミナルに集まったのは、今尾さん、相澤夫妻、私と、今尾さんの友人で地元在住の竹崎さんと横山さんの計6人だ。

相澤夫妻はクルマで現地へ先行し、残る4人は、駅前を11時25分に出る広電バス吉田出張所行き(上根・吉田線)に乗った。広島バスセンターから国道54号を北上してくるこのバス路線は、上根峠の手前の上大林まで30分毎、吉田まで1時間毎で、そこそこ頻度は高い(ただし土日は減便)。郊外路線としては頑張っているほうだろう。

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(左)227系で可部駅に到着
(右)行程を打ち合わせ
 

きょうは薄陽の差すまずまずの天気だ。九州ではすでに雨が降っているのだが、広島はぽつりと来た程度で、傘の出番はなかった。バスは10人ほどの客を乗せて、可部街道(旧 国道54号、現 183号)を北へ走っていく。

根の谷川の谷は、次第に深まりを見せる。バスは上根バイパスを通らず、旧 国道(現 県道5号浜田八重可部線)に回る。「走っていくと壁がどーんと現れるんですよ」と竹崎さんが予告したとおりだった。行く手を塞ぐように、高い斜面森が目の前に出現し、道は左へ大きく曲がった。これが片坂の谷壁に違いない。私たちは、旧 国道がヘアピンカーブを切って谷壁に手を掛ける手前の、根の谷停留所でバスを降りた。

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(左)上根バイパスが峠へ上っていく
(右)根の谷バス停で下車
 

待っていた相澤夫妻と合流し、西から流れてくる渓流の岸まで降りる。小さな滝が涼しい水音を立てていた。魚の遡上を阻んでいるので、魚切(うおきり)滝というそうだ。「これくらいなら、元気のいいのは滝のぼりするんじゃないかな」と相澤さん。

川沿いに、潜龍峡ふれあいの里という名の小さな公園が造られている。ちょうど作業をしておられた方に声をかけられた。訪れたわけを話すと、「ここが珍しい地形だとは知らなくて、子どもの頃は魚切滝で泳いでました」という。「学校にプールがなかったので、上根(峠の集落)の子はここまで降りてきたんです」。公園の一角には、復元された石畳がある。「あの道(旧 国道)ができる前、石畳を敷いた県道がここから上がってたそうです」。そのうえ、歩く参考になればと、近辺のガイドマップを全員にいただいた。

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魚切滝を通過
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潜龍峡ふれあいの里で、地元の方に話を聞く
 

出発が遅かったので、すでに正午を回っている。公園のあずまやで昼食をとってから、再び歩き出した。これから比高80mある片坂の峠を上るのだが、クルマの通る旧 国道ではなく、霧切谷(きりぎりだに)の近道を行くつもりだ。「霧切谷は歩けますが、大雨で崩れたところがあるから気をつけてください」と、その方に見送られて、公園を後にする。

少しの間、根の谷川の左岸の里道を下っていく。谷間にこだまする鳥の鳴き声を、「オオルリですよ」と相澤さんが即座に言い当てる。この道は昔の街道のようだ。その証拠に、下流で橋を渡って大きくカーブした道の脇に水準点(標高179.5m)があった。傍らに国土地理院の標識が立ち、標石も頂部に円い突起のついた美品だ。「小豆島の花崗岩が使われています」と今尾さん。

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(左)復元された旧県道の石畳
(右)旧県道の水準点
 

そばに小橋が架かっていて、霧切谷入り口と記してある。後で坂上で見た案内板によれば、三次方面から流れてくる朝霧が、谷を吹き上がる暖かい気流で消えることから、霧切の名があるそうだ。踏み入れると、落ち葉が散り敷いた険しい山道で、あの方の警告どおり、沢水が道を押し流した箇所があった。しかし、崖側に手すりが講じてあったので難なく突破し、10分あまりで片坂を上りきる。

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(左)霧切谷入口
(右)落ち葉散り敷く山道
 

峠の手前の旧国道脇には「上根河床礫層」の露頭があった。雑草がはびこってはいるが、土の崖に大小の粒石が露出しているのがわかる。「礫層は傾斜が緩いと流れてしまうので、垂直が最も安定してるんです」と横山さん。案内板によれば、同じ礫層が根の谷川両岸の山地に分布しており(下注)、争奪される以前、簸川の流域がさらに南へ広がっていたことを示すものだという。

*注 右岸(西側)の礫層は左岸より20mほど標高が高く、これは上根断層による変異と考えられている。

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上根河床礫層の露頭
 

それでは、簸川と根の谷川の間で起こったという河川争奪とはどのようなものなのだろうか。その過程を地図上に描いてみた(下図)。

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上根峠の河川争奪過程
矢印は流路の方向を表す
 

中国山地には、北東~南西方向のリニアメント(地形の直線的走向)が数多く見られる。国道54号が走る根の谷川から簸川にかけての谷筋もその一つで、ここには上根断層と呼ばれる断層が走っている。簸川は、かつて白木山(しらきやま)を源流とし、起伏の緩やかな老年期山地を北へ流れていた。それに対して、南下する根の谷川の流路は短く、したがって急勾配だ。さらに断層によって劣化した岩盤が、川の下刻作用を促した【上図1】 。

根の谷川の旺盛な谷頭侵食は断層に沿って前進し、やがて古 簸川の流域に達した。水流が奪われ、根の谷川に流れ込むようになった(現 桧山川)【上図2】。

侵食はなおも北へ進み、ついに上根以南の水流もすべて奪ってしまう【上図3】。それにより簸川の被争奪地点、今の上根周辺には、水流のない平たい谷、いわゆる風隙(ふうげき)が残った。一方、根の谷川は流量の増加で下刻作用がいっそう強まり、潜龍峡や霧切谷と呼ばれることになる深い渓谷を作ったのだ。

*注 上図は、徳山大学総合研究所「中国地方の地形環境」http://chaos.tokuyama-u.ac.jp/souken/gehp/index2.html、多田賢弘、金折 裕司「上根峠の河川争奪と上根断層」日本応用地質学会 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009798321
等を参考に作成

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旧国道(現 県道5号)のサミットは上根集落の中に
 

旧 国道が坂を上り切ったところに、その上根の集落がある。広島側は明らかに下り坂だが、三次側は平坦な道がまっすぐ続いており、勾配が感じられない。まさに片坂だ。峠下から山道を歩いて上ってくると、景観の激変が実感される。

中央分水界を横切る位置には、かつて郵便ポストが立っていた。すでに廃止され、現物は移設されているが、立て看板がその記憶を伝えている。「分水嶺ポスト:ポストの屋根右側に降った雨は日本海へ、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。また、戦争中に出征兵士をこの場所から見送ったことから、『泣き別れのポスト』とも言われています」。すぐ隣に上根峠のバス停があるから、遠くへ行く人を見送る場所でもあったのだ。

旧国道のポストに対して、新国道にも国土交通省が立てた「分水嶺」標識があるというので、行ってみた。北行き車線と南行き車線それぞれに設置されているが、デザインは別だ。しかし、どちらも分水嶺を左右対称の形に描いてあるのが惜しい。せっかくの珍しい片坂地形なのだから、それを図でも強調してほしいところだ。

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分水嶺ポスト跡
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新国道の分水嶺標識
(左)北行き車線は幾何学的
(右)南行き車線はイラスト風
 

標識の足もとの水路は、谷の凹部を流れており、現在の簸川の源流に相当する。上流へ後を追っていくと、国道をまたぐ陸橋のたもとで左へ90度曲がって東を向き、山手の寺(善教寺)へ向かう道に沿っていた。一方、寺の南側の浅い谷の小川は、空中写真によれば、霧切谷を通って根の谷川へ落ちている。ということは、陸橋と寺を結ぶ東西の線が、現在の中央分水界のようだ。

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(左)簸川源流の水路
(右)寺へ上るこの里道周辺がおそらく分水界
 

さて、上根峠探索のついでに、もう1か所行ってみたい場所があった。古 簸川の流域は峠を境に争奪されてしまったが、実はかつての上流部で、根の谷川やその支流の侵食がまだ達していないところがある。すでに根の谷川流域に取り込まれているものの、山の中腹に古い平地が残っているのだ。礫層露頭の説明板にある、上根と同じ礫層が分布しているのはそうした場所だ。

私たちは、そのうち最も近い平原(ひらばら)へ足を向けた。霧切谷を横切って、森の中のほぼ等高線と並行に延びる1車線道を歩いていく。20分ほどで視界が開けて、数軒の民家と、その前に平たい田んぼが広がっていた。猫の額どころかけっこうな広さで、根の谷川から比高120mの高みに載っているとは思えない。「なるほど平原ですね」と、地名の由来に思わず納得する。

ちなみに、峠より南にありながら、ここは安芸高田市八千代町(旧 高田郡八千代町)で、行政的には上根と一体だ(下注)。昔の人も、ここがもと簸川流域であることを意識していたのだろうか。

*注 根の谷川右岸の本郷などとともに、大字は向山(むかいやま)で、上根からの視点でつけられた地名のように思われる。

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平原の古 簸川上流域
 

平原から根の谷川の谷へ降りる道は、森の中の落ち葉に埋もれた、霧切谷よりさらに滑りやすい山道だった。しかし道筋は明瞭で、昔は平原の集落とバス道路を結ぶ近道として使われていたのだろう。谷へ降りたところに、上大林のバス停がある。クルマのところへ戻る相澤夫妻を見送って、私たちはここで15時10分に来る帰りのバスを待った。

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(左)根の谷川へ降りる山道
(右)上大林の集落が見えてきた
 

掲載の地図は、国土地理院発行の20万分の1地勢図広島(昭和62年編集)および地理院地図を使用したものである。

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2019年5月15日 (水)

コンターサークル地図の旅-中央本線鳥沢~猿橋間旧線跡

東京駅から午前中に1本きりの大月直通快速に乗って、西へ向かう。2019年5月3日、コンターサークルS春の旅の2日目は、中央本線鳥沢(とりさわ)~猿橋(さるはし、下注)間の旧線跡を歩くことになっている。東京から比較的近く、かつ未整備のままで野趣に富むため、マニアの好奇心をくすぐるルートだ。

*注 猿橋の駅名は、1918(大正7)年まで「えんきょう」と読ませた。

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消失した御領沢橋梁
右の畑が橋梁に続く築堤跡
 

昨日の午後から好天が続き、車内にも眩しい日差しが届く。三鷹で特快に追い抜かれた後、駅ごとにハイカー客や部活姿の高校生が次々と乗り込んできた。高尾以遠でE233系10両編成は余裕の輸送力だと思うが、それでも立ち客が結構見られる。

中央本線が、八王子から小仏(こぼとけ)峠を越えて山梨県の大月まで開業したのは1901~02(明治34~35)年のことだ。以後、西へ順次延伸されていき、電化も戦前のうちに(1931(昭和6)年)、甲府まで到達している。しかし、複線化はずっと遅れ、高尾以西では1960年代にようやく始まった。

1968(昭和43)年9月20日に完了した鳥沢~猿橋間の複線化では、急カーブが存在する既存線を放棄して、まったく別の複線新線が建設された。桂川の深い谷を長さ513m、高さ45.4mの新桂川橋梁で一息にまたいだ後、長さ1222mの猿橋トンネルで河岸段丘をクリアするという、非常に大胆なルートだ。

それに対して旧線は、国道20号線と同じく北へ迂回していた。鳥沢駅を出てしばらくは左岸の山際を行き、中小4本のトンネルで山脚をしのいだ後、桂川の峡谷を渡る。日本三大奇橋の一つに数えられる猿橋が一瞬見られるので有名な車窓だった。ルート切り替え後、地表に出ていた旧線跡は大部分が転用されたものの、トンネルや橋梁の遺構は今も随所に眠っているという。

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鳥沢~猿橋間の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
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旧線が描かれた1:25,000地形図(1929(昭和4)年)
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拡大図に旧線の位置を緑で加筆
消失した施設は破線で描いた
 

この日、鳥沢駅の小ぎれいに改築された駅舎に集合したのは、大出、中西、森さんと私。サークルメンバーの中でも「鉄分」が濃いめの四人衆だ。駅前からは国道へ出ずに、細道を西へ歩き出す。線路際の祠の前に跨線橋があり、その上に立つと、旧線が右へ分岐するようすがよくわかった。

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(左)鳥沢駅西方、旧線跡(小道の左側)が右へ分岐
(右)廃線跡(画面左の空地)でもと機関士の方に話を聞く
 

少しの間、小道が緩やかにカーブしながら延びている。この左側(南側)が旧線跡で、やがてアパートや戸建て住宅の列に変わる。歩いていると、畑仕事をしていた人が顔を上げて、「どこへ行かれる」と尋ねる。目的を話したら、なんとその方はもと国鉄の機関士で、現役時代、EF64を甲府まで運転していたという。

道は国道に向かって急勾配で降りていくが、この上にかつて、曲弦下路トラスで谷を一気にまたぐ御領沢橋梁がかかっていた。「こっちの橋台はもうないが、向こう側(猿橋方)はまだ残ってるよ」と、この先の廃線跡のようすをいろいろと教えてくださった。

国道を横断し、対岸の踏み分け道を上ると、確かに草むらの陰に石積みの橋台が見つかった。谷からは相当な高さがあり、その規模が実感される。山際を続く廃線跡は、また畑や宅地に転用されていた。旧道がそれと交わるところはクランク状に曲がっていて、踏切だったことがわかる。

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御領沢橋梁
(左)東側橋台(中央の石垣付近)は消失
(右)西側橋台は残存
 

線路跡はたどれないので、並行する国道の縁を歩いていく。300mほどで、遊具やベンチが置かれた小さな公園に上がる小道があった。忘れられたような公園から、いかにも廃線跡然とした草むした空地が延びている。それは進むにつれて、次第に浅い切通しに変わった。

行く手を阻む倒木をかわしながら、なんとか一つ目のトンネルである富浜第一隧道(長さ120m)の東口にたどり着く。堅牢な石積みのポータルに護られるように、馬蹄形の坑口がぽっかり口を開けている。一応フェンスで塞いであるものの、一部が壊れていた。地元の人も近道に使っていたというとおり、内部の路面は乾いていて歩きやすい。石組みや煉瓦の天井もしっかりしていて、列車が行き交っていた半世紀前を想像しながら通過した。

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(左)遊具が置かれた小公園
(右)草むした廃線跡
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富浜第一隧道
(左)東口 (右)内部はまだ堅牢な状態を保つ
 

廃線跡の濃厚な雰囲気は、西口を出たとたん、残念ながら消えてしまう。次の富浜第二隧道(同 113m)へ向かっていた線路敷が、高く土盛りされて、小向地区の公民館敷地に転用されたからだ。隧道の東口もそれと運命を共にしたので、やむをえず旧道を迂回する。

ほの暗い竹沢の谷の中に回り込むと、目の前に石造りの橋台が突き出ていた。谷の反対側には、林を透かして高い橋脚も見える。どちらも竹沢橋梁の遺構だ。中西さんの姿がないと思ったら、橋台横の急斜面を熊笹につかまりながらよじ登っていく。しばらくして戻ってきたので聞くと、「富沢第二隧道のポータルが残ってます」と、カメラのモニターを見せてくれた。次の宮谷隧道(同 253m)の東口も竹沢の橋脚の先に見えるが、まともな道がない斜面で、探索は難しい。

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竹沢橋梁
(左)東側橋台 (右)谷間にそびえ立つ橋脚
 

この谷には、もう一つ見ものがある。1912(明治45)年竣工の八ツ沢発電所第三号水路橋だ。こちらは現役の施設で、上野原にある八ツ沢(やつさわ)水力発電所へ水を導いている。土木技術史上の価値が認められ、重要文化財に一括指定された発電所関連施設の一部だ。踏み分け道を伝って谷底まで降りてみると、水槽のような躯体をずんぐりした煉瓦アーチが支えていた。スマートな鉄道橋に比べればずいぶんと無骨だが、水の重量を受け止めるには必要な構造なのだろう。

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八ツ沢発電所第三号水路橋
(左)100年以上現役の水路橋
(右)煉瓦組みのアーチで支える
 

再び国道脇の狭い歩道を歩いて、宮谷隧道の西口へ。ネットに挙げられている先人のレポートによれば、道路の擁壁の上にポータル左上部がかろうじて残っているそうだが、雑草に覆われてよくわからなかった。次の大原隧道との間には、かつて高い築堤が一直線に延びていたという。しかし、国道レベルまで切り崩された上、現在はコンビニの駐車場やバス車庫の用地に転用されて、面影はまったくない。

大原隧道(同 364m)の東口は、国道の脇の斜面にある。親切にも斜面の上からトラロープが垂れ下がっていて、それを頼りにポータルの位置までよじ登ることができた。内部の状態も良さそうだが、フェンスがあるうえに、誰も照明を持っていないので、おとなしく国道を行くことにする。

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(左)築堤は切り下げられ、コンビニやバス車庫に転用
(右)林の陰に残る大原隧道東口
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大原隧道
(左)東口 (右)内部はカーブしている
 

隧道の西口は、猿橋へ通じる旧道へそれるとまもなく見えてくる。といっても、旧道の真下を抜けているので、道路から見えるのはポータルの最上部にある笠石と壁柱(ピラスター)頂部の飾り石だけだ。注意していないと見過ごすだろう。「居酒屋食堂 仙台屋」の横手から覗かせてもらうと、立派なポータルがあった。この隧道は内部が閉塞しておらず、遊歩道化する計画もあったというが、今は放置されたままだ。

隧道の先はすぐに桂川の深い峡谷で、第二桂川橋梁の橋台が両岸に残る。とりわけ西側のそれは住宅の土台に使われている。つまりこの住宅は崖際に建っているのだが、これほど頑丈な土台はないと思う。その後、廃線跡は国道を横切り(下注)、猿橋の町裏を通って現在線に合流するが、もはや遺構はないようだ。

*注 現 国道は旧線廃止後に建設されたので、当時踏切があったわけではない。

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大原隧道西口
(左)ポータル最上部が道路際に露出
(右)道路の下に西口がある
 

廃線跡探索からは脱線するが、古来の名所である甲斐の猿橋も見ておきたいと思う。ここは、富士山から流下した溶岩流により一時堰き止められた桂川が、その封鎖を突破した地点だ。激しい下方侵食により、長さ100m、高さ30mの目もくらむ峡谷が形成されている。

川幅が最も狭まるという点で架橋の適地なのだが、木橋を渡すには支間が広すぎる。そこで、両岸から刎木(はねぎ)と呼ばれる柱を少しずつ谷の上へせり出し、その上に橋桁を置いた。桁や梁についているミニチュアのような屋根は、雨水による腐食を防ぐためだという。

猿橋のすぐ上流には、車が通れる旧道の橋が架かっている。そこから見下ろすと、長さ30.9m、幅3.3mの古橋は、形状のユニークさといい、シチュエーションの壮観さといい、なるほど奇橋と賞賛されただけのことはある。ただし、これは1984年に、現代の技術を用いて架け直されたものだ。刎木はまるごと木材ではなく、H鋼に木の板を張り付けてあるのだそうだ。

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(左)甲斐の猿橋を渡る
(右)並行して架かる八ツ沢発電所第一号水路橋(画面中央)と国道橋
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橋の下は高さ30mの峡谷
 

猿橋近隣公園のあずまやで昼食にした。連休中、観光地はどこも大賑わいだが、ここは静かで、しばらく4人で談笑に耽る。「こんなに遺構が残っているとは思いませんでした」と森さん。「保存状態がいいのも驚きです」。明治期の官営鉄道施設は堅牢に造られていて、風化に耐え、今なお枯淡の美を保つものが多い。それを訪ね歩くのも、廃線跡趣味の醍醐味の一つだ。

大出さんが、近くの大月市郷土資料館に旧線関係の資料があるというので、行ってみた。猿橋の古い写真も展示されていて、そのうちの1点に旧線の鉄橋を渡る列車の姿が写っていた。通過の一瞬を捉えたものか、それとも後で描き足されたのか。今どきの観光列車のように、鉄橋の上で停車して、眺める時間を与えてくれるとは思えないが。

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(左)刎木で支える構造
(右)刎木のモチーフでデザインされた猿橋駅

この後は、猿橋駅から下り電車に乗り、二駅先の初狩(はつかり)駅を訪れた。急勾配が連続する中央本線には、通過式スイッチバックがたくさん造られたが、その中で初狩には唯一、当時の配線が残されている。そのようすを見ようというのだ。

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初狩駅付近の1:25,000地形図
(上)2015(平成27)年図 (下)1929(昭和4)年図
 

降り立ったのは、上下線に挟まれた狭い島式ホームだった。カーブの途中のため、プラットホームの中間線に、カントに見合う段差があるのが珍しい。このホームは25‰勾配の本線上にあるが、かつては甲府方に引き出された平坦線に設けられていた。その旧構内は保線ヤードに転用され、レールを運ぶ作業車両が休んでいる。一方、構内踏切を渡った先の木造駅舎はもとのままだ。東京方には、加速のために5‰の上り勾配のついた引出し線があるが、こちらは採石場に通じていたので、石材の積出しに活用されているそうだ。

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初狩駅
(左)昔ながらの駅舎
(右)上下線のホームに段差
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初狩駅のスイッチバック
(左)甲府方、旧ホームは撤去されて保線ヤードに
(右)東京方、引出し線に5‰の勾配
 

駅は無人で、私たちと一緒に電車を降りた人たちもすぐにどこかへ消えていった。山あいの駅構内には動くものもなく、時が停まったようだ。おりしも静寂を破って、甲府方からE353系の特急「あずさ」が現れ、本線をさっそうと滑り降りていった。その後を追ってくるはずの普通列車で、私たちも東京へ戻るつもりだ。

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上り本線をE353系が通過
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図大月(平成27年調製)および上野原(昭和4年測図)、大月(昭和4年測図)を使用したものである。

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2019年5月 9日 (木)

コンターサークル地図の旅-鬼怒川瀬替え跡と利根運河

取手(とりで)駅から、関東鉄道常総線のディーゼルカーに乗って北上した。列車は最高時速80kmで疾走する。全線非電化にもかかわらず、途中の水海道(みつかいどう)までは堂々たる複線で、まっすぐ延びる線路の上に、遮るもののない大空が広がっている。都市近郊路線としては他に得難い風景だ。

2019年5月2日、コンターサークルS春の旅1日目は、常総線の小絹(こきぬ)駅が集合場所だった。小さな駅舎の改札前に集ったのは、中西さん、丹羽さんと私の3人。初めに、鬼怒川(きぬがわ)の瀬替え、すなわち流路付け替えの跡を見に行く。

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寺畑北方の小貝川分流跡
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常総線小絹駅
(左)ユニークな妻面をもつ駅舎
(右)乗ってきた列車を見送る
 

鬼怒川は、日光国立公園の一帯を水源とする主要河川だ。栃木県と茨城県西部を貫流し、守谷(もりや)の西で利根川に合流している。しかしこれは、江戸幕府による利根川東遷事業で瀬替えされた結果で、以前はつくばみらい市(旧 谷和原(やわら)村)寺畑で、小貝川(こかいがわ)と合流していた(下図参照)。そこから下流では、今の小貝川が鬼怒川の河道だったのだ。

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鬼怒川旧河道(瀬替え跡)と利根運河周辺の河川の位置関係
基図に1:200,000地勢図(2010~12年)を使用
 

17世紀、新田開発と水運の改良を目的として、鬼怒川を常陸川(ひたちがわ、下注)に短絡させる新たな流路の開削が計画された。両者の間には比高10mほどの猿島(さしま)台地が横たわっている。約8kmの新流路の東半は台地に入り込む支谷の一つを利用し、サミットの板戸井(いたとい、現 守谷市)で台地を深く切り通した。1629(寛永6)年に工事は完成し、翌年、旧流路が締切られて、鬼怒川は小貝川と完全に分離された。

*注 1654年の赤堀川通水の成功と、その後の拡幅により最終的に利根川本流となる。

この瀬替えによって、鬼怒川と小貝川の間には約1kmの廃河道が残されることになった。その現状を確かめようというのが今回の目的だ。

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鬼怒川旧河道周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちは、かつて鬼怒川が小貝川と合流していた伊奈橋をめざした。地形図を手に、駅から最短経路となる里道をたどる。空は曇りがちながら、暑くも寒くもなく、歩くには申し分ない日だ。このあたりは台地と谷地(低地)が入り組んでいて、道も少なからず上り下りがある。20分ほどで小貝川の堤に出た。

橋の南側が、かつての合流地点になる。堤防に面して水門があり、「四ヶ字(しかあざ)排水樋管」と記した立札が付いていた。堤の内側に目を移すと、水門に通じる水路が見え、住宅地の中の四角い池につながっている。これらはみな河道の名残と考えていいのではないか。水路のそばに矩形の石碑が立っているが、碑文は残念ながら摩滅寸前で、「治水?生」(3文字目は不明)という題字以外、判読できなかった。

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(左)小貝川と伊奈橋
(右)四ヶ字排水樋管
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(左)住宅地の四角い池を東望
(右)水路のそばの石碑
 

中西さんが地形図を指差しながら、「この蛇行水路が気になります」という。寺畑の北方にある、常総市とつくばみらい市の境界に沿った水路のことだ。南側に、連続する崖の記号を伴っている。「鬼怒川と小貝川をつないでいた水路でしょうか」「流水方向が手がかりになるかもしれない」と、寄り道することにした。

代掻きを済ませた田んぼの間の、ぬかるむ農道を歩いていくと、地図のとおり、攻撃斜面に相当する高さ2~3mの崖の連なりが現れた。崖下は、一部が湿田になっているほか、一面芦原に覆われて、残念ながら水流はまったく見えなかった。「蛇行のカーブがきついところを見ると、本流ではなく、小貝川の分流かもしれませんね」と丹羽さん。おそらく、下妻から水海道にかけて多く見つかる乱流跡の一つなのだろう。

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小貝川分流を縁取る農道にて
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小貝川分流に沿う低い崖の連なり
 

鬼怒川の河道跡に戻る。先ほどの四角い池から西側は盛り土されて、西ノ台の住宅街の一部になり、緩やかにカーブする道路だけが、流路の中心線を保存している。約300m西で住宅街が途切れた後は畑地となり、それが常総線の低い築堤まで続く。

国道294号線の両側では、河道跡のほとんどが埋め立てられ、ロードサイド店の駐車場になっていた。間に残された水路がさきほどの中心線の延長上にあるようだが、今や水たまり同然で、顧みる人もない。とはいえ、これが400年前の川の痕跡だとすれば、よくぞ残ったという感慨も湧いてくる。

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(左)河道跡をなぞる街路のカーブ
(右)駐車場に挟まれた水たまりのような水路
 

その西には、旧道が載る高さ4~5mの築堤が延びている。河道跡と直交する形状から見て、鬼怒川を瀬替えしたときの締切堤防に違いない。鬼怒川は河川敷の一段低いところを流れているはずだと、河畔林まで分け入ってみた。しかし、藪が鬱蒼と生い茂って、見通しがほとんど利かない。カメラに一脚を取り付けても、藪の背のほうがはるかに勝る。隙間からかろうじて水面を透かし見ただけで、現場を引き揚げざるを得なかった。

河川敷の畑の木陰で、昼食休憩にする。ちょうどそこに、畑の持ち主の方が農具を持って現れた。聞けば、この河川敷は私有地で、昔は毎年水に浸かった。今でも数年に一度は、冠水するのだという。広い堤外地は、遊水地の役割を果たしているのだろう。同時に、洪水は新しい土を置いていくから、作物の育ちはいいに違いない。

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(左)旧道が載る締切堤防
(右)藪から透かし見る鬼怒川の川面
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木陰のある河川敷の畑、背景は締切堤防
 

午後は、利根川の対岸に導水口がある利根運河(とねうんが)へ移動する。丹羽さんが早引けついでにと、車で送ってくれた。

利根運河は、利根川と江戸川を接続している約8kmの運河で、1890(明治23)年に開通した。その目的は、海の難所である犬吠埼沖を避けるために、東北地方と江戸(東京)を結ぶ東廻り航路で利用されていた内陸水運ルートの改良だ。銚子から関宿(せきやど)まで利根川を遡上した後、江戸川を下るのが従来ルートだが、距離が長く、一部に浅瀬もあって、輸送効率が悪かった。そこで、これをショートカットする運河の掘削が計画された。

オランダ人の土木技師ムルデルの監督のもと、民間会社が建設し、通行料を取って運営した。しかし、栄えた時期は短く、近隣で相次いで開通した鉄道(下注)に貨客を奪われ、内陸航路はじりじりと衰退していく。そして1941(昭和16)年、台風に伴う増水で堰や堤が壊れて経営が行き詰まり、施設は国有化された。交通路の役目を終えた運河は、一時、首都圏の水需要を賄う導水路に活用されたものの、その機能もすでになく、今は産業遺産として保存されている。

*注 1896年に日本鉄道土浦線(後の常磐線)田端~土浦間が開通、1897年には総武鉄道(同 総武本線)が錦糸町から銚子まで通じた。

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利根運河周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆
 

私たちが着いたのは、利根川の取水口から1km西にある運河水門だ。空を覆っていた雲はすっかり消え去り、初夏の眩しい日差しが降り注いでいる。朝から着ていたジャケットも、もう必要ない。帰る丹羽さんにお礼を言って、運河の北岸を江戸川のほうへ歩き始めた。

高堤防の上に、細い道が緩いカーブを描きながら、延々と続いている。あずまやの前で、春日部から自転車で来たという人に声を掛けられた。ここまで20数kmあるが、車道を走らなくて済むので、よくサイクリングするのだという。「運河駅まで歩くの? まあ5kmだね」とよくご存じだ。

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利根運河
(左)運河水門 (右)細々とした水量
 

運河は戦後、利根川の洪水を江戸川へ逃がす分派機能を託され(下注)、それに伴い、堤防の拡幅と嵩上げが行われた。このため、運河の幅は80~90m(天端間)、堤高は約5mと、見た目にもかなりのスケール感がある。ところが底の水路は細々としたもので、葦の茂みの間に水質が悪化しない程度の量が流されているに過ぎない。下流では周辺からの流入があり、さすがに水かさが増すが、それでも子どもの膝まで届かない深さだ。汽船が通っていたとは信じられないが、もちろん昔はもっと水位が高かった。利根運河碑の説明板によれば、開通当時は河底幅が18mしかない代わり、平均水深は1.6mあったそうだ。

歩き始めのうちは、堤の下が田んぼの広がる谷津(やつ)、すなわち谷間の低地だったのだが、進むにつれて地盤が上がり、いつのまにか堤よりもまだ上に斜面が続いている。鬼怒川の新河道と同じように、運河は、下総(しもうさ)台地を深く掘り割って造られたからだ。しかし、人工水路でありながら、水辺には低木も茂り、その部分だけフレームに切り取れば自然河川と変わらない。

*注 正式名称は「派川利根川」だったが、地形図では常に利根運河と注記されている。

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堤防上から見た風景
(左)三ヶ尾の谷津
(右)周囲からの流入で少しずつ水かさは増す
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自然河川のように低木が茂る
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堤の上は東京理科大キャンパス
野田線の鉄橋が見えてきた(アーチのあるのは歩道橋)
 

5kmの距離は長そうに思えたが、二人で鉄道のよもやま話をしながら歩いたら、もう運河を渡る東武野田線(アーバンパークライン)の鉄橋が近い。流山街道の西側は親水公園に開放されていて、子どもたちが水遊びをしていた。運河の上空には、色とりどりの鯉のぼりが五月の風を受けて泳いでいる。たなびく姿が水面に映って、その数以上に賑やかに見えるのがおもしろい。

時代の要請に次々と応じたあげく、実用的役割を失ってしまった運河だが、今はこうして、人々が憩うやすらぎの水辺として余生を送っている。水路の生涯もさまざまだ。背景の鉄橋を電車が通過するのを記念写真に収めて、ささやかな水路巡りの旅を終えた。

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運河の上空で鯉のぼりが泳ぐ
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水面に映る鯉のぼり、背景は野田線の電車
 

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図守谷(平成17年更新)および20万分の1地勢図千葉(平成22年修正)、東京(平成24年要部修正)、水戸(平成22年修正)、宇都宮(平成22年修正)を使用したものである。

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2019年5月 1日 (水)

紀州鉱山軌道の楽しみ方

紀伊半島の山中を、ささやかなトロッコ列車が走っている。軌間2フィート(610mm)、走行距離は約1kmに過ぎないが、1日6往復の設定がある。しかし、鉄道事業法に基づくものではないため、市販の時刻表や鉄道路線図には一切載っておらず、知る人ぞ知るという存在だ。

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山あいの湯ノ口温泉駅にトロッコ列車が到着
 

三重県南端に近い熊野市の内陸部(旧 南牟婁(みなみむろ)郡紀和町)、熊野川支流の、瀞峡(どろきょう)で知られる北山川の左岸に、それはある。今は観光用に運行されているが、もとは鉱山軌道だった。

この地区では古くから小規模な採鉱が行われていて、1930年代に、石原産業が本格的な鉱山を開いた。採掘場は北山川の支谷に沿って点在し、鉱石から銅などの有用鉱物を選別する選鉱場が、紀和町中心部の板屋(いたや)に置かれた。軌道はこの間を結ぶもので、鉱石と作業員・資材の輸送を担っていた。鉱山の名から「紀州鉱山軌道」と呼ばれているが、メインルートの板屋~惣房間だけでも5.5kmあり、険しい山中のため、大半がトンネルだった(下図参照)。

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紀州鉱山軌道周辺の1:25,000地形図(1976年)に
軌道関連事項と新国道のルートを加筆
 

1940~50年代、紀州鉱山(石原産業紀州事業所)は、銅の生産量で国内有数の規模を誇った。しかし、1963年の貿易自由化後は、海外産に押されて採算が悪化していき、1978年、約40年の歴史に幕を降ろした。軌道もまた、それと運命を共にした。

鉱山は地域の基幹産業だ。その撤退という大きな試練に直面して、町は、観光開発に将来を託そうとした。鉱区の中心、湯ノ口地区は地名が示すとおり、昔は温泉が湧く土地だった。鉱山開発の影響で長らく枯渇していたが、閉山1年後に行ったボーリングで地中の源泉が発見され、温泉として再興された。

ただそこは鉱山軌道がなければ秘境同然の場所で、アクセスに難がある。それで、軌道の一部を利用して、利用客を温泉の前まで送り届ける計画が練られた。起点は、国道311号線からほど近い小口谷(こぐちだに)とされた。そこには鉱山のズリ捨て場があり、再開発用の空地には事欠かなかったからだ。

1987年に小口谷~湯ノ口間でトロッコ列車の試験運行が始まり、1989年からは通年で運行されるようになった。さらにその翌年、小口谷に、瀞流荘(せいりゅうそう)という新たな宿泊施設がオープンした。設備の整ったその施設に宿泊し、トロッコで湯ノ口温泉に通うというユニークなオプションが可能になった。

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瀞流荘駅に停車中のトロッコ列車
 

それから早や30年が経つ。温泉施設は近年改築され、装いを新たにしたが、トロッコ列車は当時のまま健在だ。マッチ箱のような小さな2軸木造客車がトンネルの中をゴトゴトと走り、湯浴みの客を運ぶとともに、鉱山軌道ありし日の面影を今に伝えている。

昨年(2018年)夏、この軌道に乗る機会があった。前夜、瀞流荘に泊り、ゆっくり朝食をとって、9時55分発二番列車の客となった。乗り場は宿の山側にあり、地名の小口谷ではなく、「瀞流荘」駅を名乗っている(下注)。ここはかつて操車場や修理工場がある鉱山軌道の拠点だったので、谷間に広い跡地が残されている。線路の手前は駐車場に使われ、奥は特産品の加工場になっているようだ。

*注 グーグルマップでは「トロッコ電車 小川口駅」と注記されている。

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瀞流荘駅
(左)駅舎 (右)出札窓口
 

木造平屋の駅舎で切符を売っている。運賃は、大人片道270円、往復540円、また、湯ノ口温泉の入浴券つき往復券が860円だ。さらに、トロッコと瀞流荘・湯ノ口温泉入浴が1日フリーパスになる「熊野湯めぐり手形」もある(下注)。これは、宿泊客の場合、往復運賃と同額の540円(宿泊しない場合は1080円)で買え、実質的に入湯が無料になる。瀞流荘に泊るなら、これ以上の選択肢はない。

*注 「熊野湯めぐり手形」は、瀞流荘のフロントでも購入できる。

駅舎を出ると、線路を2本はさんだ、屋根付きの相対式ホームがあった。右も左も山の斜面で、線路はトンネルに潜っている。天井が低いかまぼこ形をした、しかし複線仕様のトンネルだ。左の板屋側のトンネル(二号隧道)の中を覗くと、鉄格子の奥に車両らしきものが見え、車庫として使われているようだ。列車が進む右側は、加工場へ行く道路と交差し、谷川を渡ってすぐ三号隧道に入る。

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瀞流荘駅前後のトンネル
(左)板屋側の二号隧道は車庫代わりに
(右)湯ノ口側の三号隧道入口
 

乗るべき客車は、すでにホームに据え付けられていた。江ノ電色に塗られた2軸車の5両編成だ。茶室のにじり口並みの小さな引き戸を開け、腰をかがめて入る。内部は狭いながらも四方にベンチがあり、座布団が敷いてある。窓にはガラスが嵌っているが、鉱山軌道時代は、隙間を空けて板を貼っただけの、いわゆる無双窓だったそうだ。夏場はともかく、さすがにそれでは温泉帰りの客は乗せられまい。

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(左)機関車が機回しされてきた
(右)客車内部
 

機回しされてきた機関車が前に付けられた。台車の上に大きな平箱を載せた車両で、箱の中を見せてもらうと、多数のバッテリーが配置されている。これは実際に鉱山軌道で使われていた蓄電池式電気機関車で、いわば貴重な動態保存機だ。

かつて鉱山軌道の本線系統は、架空線が張られ、直流600V、パンタグラフ集電の電気機関車が活躍していた。一方、坑道内では、スパークによるガス爆発を避けるため、蓄電池式が使われていた。軌道復活に当たっては、架線設備の再建を要さない後者で、客車を牽引することになった。広告媒体などで「トロッコ電車」という表現を目にするが、実態はこういうことだ。

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蓄電池式電気機関車
(左)後部に運転台、直接制御器がある
(右)前部の蓋を開けると蓄電池の列が
 

私たちのほかにもう1~2組の同乗者を載せて、列車はほぼ定刻に出発した。走行する全線で複線の線路が残されているものの、1編成が往復するだけなので、単線で足りる。このときは隣の線路が途中で外されて、何か工事をしているようすだった。

ルートはみごとに直線で、微かな上り坂だ。三号隧道は長さが300mある。天井に照明があり、にじみ出る地下水で、側壁が鈍く光っている。トンネルを抜けると、大嶝(おおさこ)と呼ばれた明かり区間を、少しの間走る。地形図で見ると、北山川が接近しているが、木々に隠され、車窓からは見えない。次の五号隧道は730mと長く、途中で下り坂に転じる。

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走行区間の大半を占めるトンネル
(左)かまぼこ形の断面、全線複線
(右)中間部の短い明かり区間
 

10分ほどで湯ノ口温泉駅に到着した。ホームは沢をまたぐ鉄橋の上にあり、線路は左に急カーブしながら、閉鎖された六号隧道へ向かっている。駅舎の代わりに、片流れ屋根のかかった待合ベンチがある。ここも鉱山軌道のジャンクションの一つで、かつては機関庫その他の施設が建ち並び、三角線をはじめ多数の側線が谷を埋めていた。その後跡地は転用され、温泉施設と滞在用のコテージやバンガローの敷地になった。

折り返し列車の発車は10時55分で、50分ほど間がある。源泉かけ流しの湯ノ口温泉で、露天風呂に浸かる時間を確保しているのだ。もっとゆっくり過ごしたいなら、1本見送って次の列車(12時35分発)にすることもできる。1日6往復は、ほどよい列車本数だろう。

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湯ノ口温泉駅
(南端から瀞流荘駅方を望む)
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(左)湯ノ口温泉
(右)軌道構内の跡地に並ぶ温泉のバンガロー
 

鉱山軌道の楽しみはこれにとどまらない。トロッコと同じ軌道上を、レールバイク(軌道自転車)でも走ることができるのだ。レールバイクは2人で漕ぐが、電動アシストなので大して力は要らない。また、後ろに2人乗りの付随車(ベンチシートと呼んでいる)をつければ、計4人まで同時に移動できる。

アクティビティの要素もあって、実のところ、狭いトロッコ客車に揺られるよりはるかに開放的で爽快だ。料金は湯ノ口1往復で2,600円、ベンチシートはプラス640円だが、試してみる価値は十分ある。ただし、1台しかないので、瀞流荘への事前予約が必須だ。また、一人だけでは乗れない。

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レールバイク
(左)後ろに2人乗りのベンチシートを付けることができる
(右)電動アシストのマウンテンバイク2台を固定接続
 

出発時刻は決まっていて、行きはトロッコ発車の15分前、帰りは10分前だ。ということは、もたもたしていると、後ろからトロッコが追ってくるわけで、漕ぎだす前に、「もしトンネル内で立ち往生したら、後から来る列車にライトで合図してください」と注意を受けた。もちろん、ふつうに漕げば心配は無用で、トロッコが発車する頃には終点に到着している。

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鉱山軌道を自転車で疾走
 

鉱山軌道の楽しみの延長として、場所を少し移動すれば、当時の珍しい車両や鉱山施設跡を目にすることも可能だ。

瀞流荘から2kmほどの板屋地区に、1995年開館した紀和鉱山資料館がある。ここには、各種車両が静態保存されている。まず前庭にあるのが、パンタグラフ集電の電気機関車610号機が有蓋人車(客車)、鉱車(貨車)各1両を牽く形の「列車」だ。鉱車の上に索道搬器も吊ってある。隣の、簡易転車台から延びる軌道には、蓄電池式機関車230号機と軌道自転車が据え付けられている。屋根が架けられているものの、戸外のため、表面に錆が回り始めているのが痛々しい。その中で人車だけは美しく塗り直され、中に入って、例の無双窓からの景色を追体験できる。

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紀和鉱山資料館前庭の展示車両
(左)鉱車と有蓋人車、上空に索道搬器
(右)架空線式電気機関車610号機
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(左)「列車」には立派な屋根が架けられている
(右)簡易転車台に接続された蓄電池式機関車と軌道自転車
 

館内には、蓄電池式機関車229号機、同415号機、鉱車、作業員を運んだ無蓋人車などの展示がある。人形を使って当時の鉱山作業の様子が再現されており、そのセットの一部という扱いだ。そのほか、紀州鉱山の動静が記録された社内紙「石原紀州」の貴重なコレクションも閲覧に供されている。

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資料館内部の展示車両
(左)蓄電池式機関車と鉱車
(右)坑夫を乗せた無蓋人車
 

板屋には選鉱場があり、鉱山軌道で運ばれてきた鉱石を処理していた。案内板によれば、総面積2200坪、高さ75mで日本第二の規模、完成当時の処理量は1日1000トンで東洋一だったという(下注)。その跡は、資料館から山手へ歩いて数分のところにある。倉庫や修理工場が建っていた平地は、公共施設用地に転用されてしまったが、山の斜面を利用した選鉱場跡が、建物を撤去した状態で朽ちるがままにされている。

*注 ちなみに、選鉱場で純度を高めた精鉱は、全長14.7kmの索道で山を越え、紀勢本線阿田和駅で貨物列車に積まれた。

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板屋選鉱場跡の廃墟
 

敷地内は通常立入禁止で、麓からの観察になる(下注)が、斜面にそびえるコンクリートの梁と柱、這い上がるインクラインのレールや階段など、見上げる廃墟の景観は、巨大なだけにかえって寂寥感を誘う。

*注 熊野市観光公社が年1回開催しているツアーに参加すれば、立入禁止区域の選鉱場上部や坑道を探索できる。

傍らには、鉱山軌道の一号隧道が口を開けている。複線の線路も残されているが、鉄格子の扉が閉まっている。このトンネル(一号・二号隧道)の反対側の出口は、「瀞流荘」駅のある小口谷だ。

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(左)インクライン跡
(右)一号隧道入口、内部には鉄格子扉が
 

最後に、この地への交通手段を書いておこう。

瀞流荘に泊る場合は、JR紀勢本線の熊野市駅まで送迎バスを出してくれるので、宿泊予約の際に確認するとよい。

公共交通機関で行く場合は、熊野市駅前から、熊野市バス「熊野古道瀞流荘線」(三重交通に運行委託)に乗る。資料館および選鉱場跡は「板屋(鉱山資料館前)」下車、トロッコ乗り場は終点「瀞流荘」下車だ。所要時間は約50分、1日4往復(2019年4月現在)しかないので、発車時刻には要注意だ。下記サイトに路線図と時刻表がある。

熊野市バス http://www.city.kumano.mie.jp/kurasi/kumanosi_bus/

本稿は、名取紀之「紀州鉱山専用軌道-その最後の日々」RM LIBRARY 212, ネコ・パブリッシング, 2017年、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。
掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図瀞八丁、大里、伏拝、本宮(いずれも昭和51年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
熊野市観光公社 http://kumano-kankou.com/
瀞流荘 https://www.ztv.ne.jp/irukaspa/
紀和鉱山資料館 https://kiwa.is-mine.net/

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 立山砂防軌道を行く
 黒部ルート見学会 I-黒部ダム~インクライン
 黒部ルート見学会 II-黒四発電所~欅平

2019年4月25日 (木)

お知らせ:ブログ更新を再開します

本ブログが利用している「ココログ」のシステム改修の後、しばらく更新を中断していましたが、システム上の不具合が解消されつつありますので、更新を再開しました。

なお、システム側の仕様変更により、従来の表示と異なるところがあります。

1.画像の原寸拡大
 従来、本文中のサムネイル画像をクリックすると、原寸画像がポップアップしていましたが、今後更新する記事では、新規タブに表示されます。

2.スマホでのPC形式の表示
 スマホではPC形式の表示ができなくなりました(「過去の記事一覧」を除く)。PCに比べて画面の横幅が短いため、サムネイル画像やキャプションの右端が途切れる障害が発生します。

3.スマホ表示の広告
 スマホでブログを表示すると、最初に全面広告が表示されます。これはアフィリエイトではなく、「ココログ」の強制的な仕様です。

本ブログをお読みくださっている方々にはご不便をおかけしますが、ご理解をお願いいたします。

新線試乗記-三陸鉄道リアス線 II

久慈で買った途中下車きっぷを見せて宮古駅の改札を入ると、1番線に2両編成の列車が停車していた。三陸鉄道リアス線の今回開通区間(便宜上「中リアス線」と呼ばせていただく)を行く釜石行きだ。造りに特段変わったところはないのだが、車内に入ると、どこかおろし立ての匂いがする。それもそのはず、これは開通に合わせて新たに調達された車両だ。運転台の側壁に「平成31年 三陸鉄道」と製造元の「新潟トランシス2019」のプレートがついている。

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開通に合わせて調達された新造車両
(左)釜石駅にて
(右)今年の製造・調達を示すプレート
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三陸鉄道リアス線とその周辺の鉄道路線図
 

宮古発16時13分。同僚の車両が留め置かれた構内を後にして、列車は閉伊川(へいがわ)を渡った。そして、磯鶏(そけい)、新駅の八木沢・宮古短大と、一駅ずつ停まっていく。陽が傾き始めた時刻とあって、各駅で乗降客がある。断崖が続く北部の隆起海岸や、複雑な南部のリアス海岸に比べれば、宮古と釜石の間は地形がそれほど厳しくなく、人口も張り付いているのだ。

かぶりつきで見ていると、PCまくらぎが敷かれ、軌道が強化されているのがわかる。しかし、1970年代以降に造られた南北のリアス線とは違って、こちらは戦前、1935~39(昭和10~14)年の開通だ。曲線やアップダウンが多く、そのせいか速度は一向に上がらない。並行する道路を走る軽四輪にも、軽々と追い抜かれてしまう。

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夕暮れの閉伊川橋梁(宮古~磯鶏間)を渡る
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被災個所は軌道を強化して復旧
(左)閉伊川橋梁 (右)織笠~岩手船越間
 

津軽石(つがるいし)からは、重茂(おもえ)半島との間に開けた低地帯を南下する。太平洋が広がっているはずの東の方角に、屏風のような山並みを見るのは、ちょっと不思議な感覚だ。自衛隊のレーダー基地がある十二神山(じゅうにじんやま)は、標高が731mある。

祭の神(さいのかみ)峠をトンネルで抜けると、列車は山すそを下っていく。陸中山田は、その名のとおりJR山田線の当初の目的地だ。東日本大震災で駅は周辺の市街地もろとも大破したため、建て直された。次の織笠(おりかさ)駅も、集落の高台移転に伴って、1kmほど陸中山田寄りに移された。

印象的なのは、駅のホームや沿線で、列車に手を振る親子連れを見かけることだ。まだ開通から日も浅いので、どの幼児たちの目も輝いている。震災から8年、考えてみればこの年齢の子が物心ついた時には、すでに列車の往来は途絶えていた。彼らにとって、風を切って走る列車は初めて見る光景なのかもしれない。

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岩手船越駅、 家族連れに見送られて
 

小さな岬の波板崎を回ると、今度は船越半島の付け根の低地(いわゆる船越地形)が見えてくる。ここでも海岸に高い防波堤が造成され、景色が一変している。三陸のおよそ浜という浜で、類似の工事が完了したか、進行中だ。

その岩手船越で下り列車と対向した。ふと目にした駅名標に、本州最東端の駅と書いてある。朝からずっと東に海を見ながら南下しているので、あまり実感が沸かないが、位置としてはそうなのだ。遥けくも来つるものかな、という感慨が一瞬脳裏をかすめた。海食崖が続く四十八坂海岸では、しばらく比高50m前後の高みを縫って走る。松林の間から垣間見える船越湾ののどかな風景に、心が安らぐ。この穏やかに見える海がときに豹変するとはとても信じられない。

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(左)本州最東端の駅 (右)ふだんの船越湾
 

吉里吉里(きりきり)の後、同名のトンネルを経て、列車は大槌(おおつち)へ降下していった。津波で橋桁が流出した大槌川橋梁は架け直され、左の河口に巨大な防潮堰が出現している。大槌の改築された駅舎の屋根は、ひょうたん島をイメージしているのだそうだ。線路の海側は草ぼうぼうの空地が広がるが、山側は、区画整理された土地にすでに新しい住宅が建ち並んでいる。それは隣の鵜住居(うのすまい)駅の周辺でも同様だった。

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(左)大槌川河口の巨大な防潮堰
(右)ひょうたん島形の屋根を載せる大槌駅舎
 

両石湾の深い入江を一瞥した後、列車は内陸に入っていき、中リアス線内で最長の釜石トンネル入口でサミットに達する。トンネルの闇から出ると、左へカーブし、まもなく花巻からきたJR釜石線の線路が右に寄り添う。仲良く甲子川(かっしがわ)をガーダー橋で渡れば、もう釜石駅の構内だ。

釜石駅は乗り場が5番線まであり、かつての隆盛をしのばせる。1・2番線の島式ホームは釜石線の花巻方面、3・4番線は中リアス線の宮古方面(3番線には釜石線の表示もある)、少し離れた5番線が南リアス線の盛方面だ。駅舎との間は地下道で結ばれているが、JR駅舎へ通じるルートと三鉄のそれへ通じるルートが地下で分岐しているのがおもしろい。三鉄線で着いたら三鉄の改札を出なければならないが、初めての人は戸惑うこと必至なので、分岐点に係員が立って案内している。

■参考サイト
釜石駅付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.273400/141.872550

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(左)釜石駅に到着
(右)地下道で分岐してJR駅と三鉄駅へ
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釜石駅
(左)JR駅舎 (右)三鉄駅舎
 

宮古で開通記念の企画は見届けたつもりだったが、駅近くのローソンへ行くと、レジの前に「さんてつ応援パン」なるものが置いてあった。150円。包装がトリコロールの列車デザインなので、つい手が伸びた。生地は少し甘じょっぱく、フィリングは鶯豆と、岩泉牛乳入りのホイップクリームだ。

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車両デザインのさんてつ応援パン 

釜石で1泊し、翌日も引き続き列車で南下する。釜石から盛(さかり)まで、従来、南リアス線と呼ばれていた区間だ。7時43分発の列車は単行で、乗り込むと、旅行者らしき男性が一人だけだった。学休期間とはいえ、朝の時間帯でこの閑散ぶりは厳しい。

南リアス線のうち、国鉄時代からあったのは、盛線と呼ばれた南半分の盛~吉浜(よしはま)間で、北半分の吉浜~釜石間は1984年の三鉄発足と同時に開通したものだ。釜石駅の発着ホームが、離れ小島のような配置になっているのが、その辺の事情を物語る。

開通が遅れたのは、工事の困難さもさることながら、需要が見込めなかったことが最大の理由だろう。釜石の南側はリアス海岸の険しい地形が続き、湾奧に小さな集落が点在しているに過ぎない。1970年に国道45号線の改良工事が完成するまでは、つづら折りの難路しかなく、陸の孤島と言われていたところだ。その上、古くは南部藩と伊達藩の境界、現在は釜石市と大船渡市の境界(下注)で、交流圏も異なっている。

*注 南部と伊達の藩界は、平田(へいた)~唐丹(とうに)間の石塚峠を通る尾根筋に置かれたが、現在の市境は唐丹と吉浜の間の鍬台(くわだい)峠を通る尾根筋にある。

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(左)離れ小島のような釜石駅「南リアス線」ホーム
(右)堂々たる高架線を行く(釜石~平田間)
 

海に突き出た尾根を長大トンネルで串刺しにしていくルートのため、列車に乗っていると、明かり区間より闇のほうが長い。海岸風景をゆっくり見たいので、眺めに定評のある吉浜で途中下車することにした。サクラの花びらをちりばめ、窓を眼に見立てたスマイル顔のラッピング駅舎(下注)が迎えてくれた。

*注 車両ラッピングとともに、ネスレ日本の復興支援プロジェクトによる。

跨線橋を渡って、山手の集落の間の小道を釜石方へ歩く。県道に合流し、なお500mほど進むと、見晴らしのいい場所が見つかった。駅から歩いて約10分のところだ。線路の後ろに広がる吉浜湾が、薄雲を透して降り注ぐ陽光をやわらかく受け止めている。釜石行きの列車が通過するのをカメラに収めて、駅に戻った。

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吉浜駅
(左)駅舎正面にサクラ・アートのラッピング
(右)キャットウォーク(?)の跨線橋
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吉浜湾を望むビュースポットにて
 

次の列車では、三陸駅から一人二人と乗ってきて、地域交通の一端を担っていることをうかがわせた。国道が大峠経由で盛へ短絡するのに対し、列車は海岸沿いに綾里(りょうり)へ迂回し、こまめに客を拾っていく。最後のトンネルを抜けると、大船渡(盛)市街が見えてきた。盛川の鉄橋を渡り、右カーブを終えたところで、隣に1車線のアスファルト道路が並行し始める。大船渡線BRTの走行路だ。両者はそのまま盛駅構内へ入っていった。

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(左)大船渡線BRTの走行路と並行
(右)盛駅3番線に到着
 

9時21分、盛駅3番線に到着。3番線といっても、1・2番線は線路が剥がされ舗装路にされてしまったため、実態は棒線同様の寂しい存在だ。跨線橋も残っているが、ホームの南端から平面でJR駅舎へ渡れるので、あまり用をなしていない。他の接続駅もそうだったように、JRと三鉄の駅舎が隣り合わせに建っている。ただ、三鉄の切符は運転士が集め、BRTも車内精算なので、改札業務は行われていない。

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(左)盛駅舎、右がJR、左が三鉄
(右)駅前にある三陸鉄道の起点碑
 

盛駅の東側には、側線が並ぶ広い構内がある。貨物専業の岩手開発鉄道が使っていて、石灰石を輸送するホッパ車が長い列をなすさまは壮観だ。構内を横断する長い跨線橋の上に立つと、黒装束の貨車の群れの中に、三鉄車両のまとうトリコロールが鮮やかに浮かび上がる。

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ホッパ車の群れの中で際立つトリコロール
 

さて、鉄路はここで惜しくも途切れていて、気仙沼方面へ向かうにはBRTに乗り継がなければならない。BRTという言葉はまだ耳慣れないが、バス・ラピッド・トランジット Bus rapid transit、すなわちバスを使った高速輸送システムのことだ。鉄道に比べて軽量、低コストの公共輸送機関として近年採用例が出始めた。

大船渡線BRTの場合、使われている車両は普通の低床バスだが、一般道だけでなく線路敷を再整備した専用道も走り、運賃は鉄道と共通だ。専用道では制限速度50km/hで、お世辞にもラピッドとは言えないが、鉄道時代に比べて運行本数は確かに多くなった。

ところがこのダイヤ、なぜか三鉄との接続をあまり考慮していない。そのため、盛では1時間30分の待ちぼうけを食らった。旅行者はともかく、こうした乗継ぎをする地元客は稀なのだろうか。そして10時50分、クルマならとうに気仙沼に着いている時刻に、ようやく三陸海岸を南下する旅が再開できたのだった。

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気仙沼方面のBRTが盛駅を出発
 

■参考サイト
三陸鉄道 https://www.sanrikutetsudou.com/
JR東日本-気仙沼線・大船渡線BRT
https://www.jreast.co.jp/railway/train/brt/

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2019年4月20日 (土)

新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I

東日本大震災の未曾有の津波で線路が寸断され、長らく不通になっていた宮古(みやこ)~釜石(かまいし)間が、2019年3月24日、8年ぶりに復旧した。もとはJR山田線の一部だったが、第三セクターの三陸鉄道に移管され、復旧済みの北リアス線、南リアス線とともに「リアス線」を構成しての再出発だ。新生リアス線は盛(さかり)から久慈(くじ)まで163.0km、JR以外では最長の路線になる。

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閉伊川(へいがわ)を渡るリアス線の気動車
 

さっそく4月初めに初乗りを試みた。せっかくの機会なので、移管区間だけでなく、三陸海岸を北から南へ乗り通したい。日程の都合で、BRTで運行されているJR気仙沼線(陸前戸倉~気仙沼間が三陸海岸に沿う)は割愛せざるを得なかったが、八戸から気仙沼まで、営業距離にして271.6kmを2日かけて旅してきた。

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三陸鉄道リアス線とその周辺の鉄道路線図
 

朝9時21分、八戸で「はやぶさ」1号を降りた。新幹線改札を出て、JR八戸線の発着ホームへ向かう。4月にしてはかなり冷える日で、断続的に降る雪が風に舞っている。停車しているのはE130形の2両編成、ローカル線も車両更新が進んで、ずいぶん快適になったものだ。定刻に発車すると、鈍色の空と雪景色の中、列車は時速40kmでとろとろと走っていく。

鮫(さめ)駅で、後から来る久慈行きに乗り継ぐとまもなく、ウミネコの大群が岩場を覆う蕪島(かぶしま)が見えてきた。ここからは太平洋の大海原が旅の友になり、左の車窓に砂浜と岩礁が交互に現れる。

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(左)雪が舞う八戸駅に停車中の八戸線E130形気動車
(右)車内、各ボックスに1組は乗っている
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(左)ウミネコの島、蕪島を車窓に見る
(右)サミットの侍浜駅では冬に逆戻り(後方を撮影)
 

陸中八木を過ぎると、線路が徐々に高さを増してきた。列車は海岸を離れ、トンネルを立て続けにくぐって、小さな谷に分け入る。周りは銀世界に戻り、サミットの侍浜(さむらいはま)駅では雪も激しくなって、あたかも雪中行軍の様相になった。坂を下って、久慈駅到着11時46分。乗客は入れ替わりがあったものの、終点まで乗り通した人も多かった。

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久慈駅
(左)八戸線ホーム (右)JR駅舎
 

この久慈駅で、三陸鉄道(以下、三鉄)リアス線と接続する。ホームは駅舎側の1・2番線をJR、線路を隔てた3番線を三鉄が使っているが、駅舎は両者別々だ。JRから三鉄へ乗り継ごうとすると、まず構内踏切を渡ってJR駅の改札からいったん表へ出る。そして三鉄駅に回り、跨線橋を渡って3番線へ、という回りくどいルートを強いられる。お年寄りや荷物のある人には、決して優しくない迂回路だ。中間改札のように、歩く距離をもっと短縮する方法を考えるべきではないだろうか。

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三鉄久慈駅舎
(左)正面玄関
(右)掲示物が所狭しと貼られた出札窓口
 

朝ドラ「あまちゃん」のロケ地にもなった三鉄の駅舎の中は、ポスター、色紙その他掲示物が所狭しと貼られている。公式サイトでは見つけにくいお得切符も、いろいろ売られていることがわかった。たとえば、

リアス線全線フリー乗車券」 土休日に発売、2日間有効 6,000円

1日フリー乗車券」 土休日のみ1日間有効、3区間に分けて発売。盛~釜石2,500円、釜石~宮古2,300円、宮古~久慈2,500円

片道途中下車きっぷ」 通年発売、片道切符だが途中下車ができる。価格は同区間の普通乗車券と同じ、たとえば盛~久慈間3,710円(有効2日)。ほかに盛~宮古(有効1日)、釜石~久慈(同2日)、宮古~久慈(同1日)の設定あり

ただ、これらのお得切符は自販機では扱っていない。そのため、有人窓口が閉まっている時間帯は買えないから、注意が必要だ(下注)。

*注 2019年4月現在、三陸鉄道の公式サイトには新線の情報がほとんどない。お得切符についても「最新情報」の過去項目に埋もれている。

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久慈駅南方の三鉄車庫、リアス線が右奥に延びる
 

片道途中下車きっぷを作ってもらい、駅舎内のそば屋「リアス亭」で売っている1日20食限定の名物「うに弁当」(1,470円)も運よく入手して、乗車準備はすべて整った。ホームに出ると、白地に赤青の帯を引いた2両編成の気動車が客待ちしている。2両編成の車内は、八戸線より乗客は減って、座る人のないボックスもある。宮古~久慈間は従来の北リアス線(下注)だが、ざっと見渡したところ、大半が地元客ではなく旅行者のようだ。通学を除けば、日常の移動で列車が使われることは少なくなってしまった。

*注 三陸海岸の北部は、地形としては隆起海岸であって、リアス海岸(沈水海岸)には該当しない。

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(左)久慈駅リアス線ホーム
(右)36-700形の車内、人のいないボックスも散見
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リアス線開通を祝うヘッドマークとステッカー
 

12時08分発車。列車は最初山間部を走り、トンネルで小さな峠を越える。雪が降りしきる中、陸中野田で列車交換があった。野田玉川まで来ると高度がかなり上がり、松林の間から覗く海は遥か下になる。線路は荒波が洗う海岸線を避けて、段丘面を渡っていくが、深く切れ込んだ谷が随所で行く手を阻んでいる。

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陸中野田で下り列車と列車交換
 

それを一気に跨ぎ越す橋梁の一つが、長さ302mの安家川(あっかがわ)橋梁だ。PCトラスの壮大な鉄橋は、大海原を俯瞰する北リアス線屈指のビュースポットにもなっている。車内に案内のアナウンスが流れ、列車は徐行どころか、1~2分橋の上で停車して、ゆっくり眺める時間を与えてくれた。

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安家川橋梁を渡る(後方を撮影)
 

堀内(ほりない)駅を出ると、もう一つの絶景、長さ176mの大沢橋梁にさしかかる。夏ばっぱが大漁旗を振って春子を見送った小さな浜が、眼下に見える。ここも同じように停車してくれるから、名シーンを思い返す時間はたっぷりある。一方、山側には国道45号線のアーチ橋、堀内大橋が架かっている。その橋のたもとから鉄橋を渡る列車をねらうのが、あまちゃん以前から、三鉄の鉄道写真の定番だ。この列車も誰かのカメラの被写体になったかもしれない。

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大沢橋梁からの太平洋の眺め
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国道の堀内大橋を通して、春まだ浅い山里が見える
 

旧 北リアス線の見どころは、だいたいここまでだろう。国鉄久慈線時代の終点だった普代(ふだい)を出ると、まるで地下鉄かと思うようなトンネルの連続区間に突入するからだ。三鉄の長大トンネルのベスト3、すなわち北から順に、普代トンネル(4,700m)、小本トンネル(5,174m)、真崎トンネル(6,532m)がこの間に集中している。

車窓に目を向けても自分の顔しか映らないので、久慈から手を付けずにいた「うに弁当」の包みを開けた。鮮やかな色の蒸しウニが表面を埋め尽くし、ご飯が見えないのは確かに感動的だ。そのご飯もウニの煮汁で焚いたものだという。旬には少し早いからか、ウニはほぐし身のようなものだったが、それでもほおばると、口の中が濃厚な香りで満たされた。ネット情報によれば、リアス亭で作り売りしているのは、夏ばっぱのモデルになった人だそうだ。

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三鉄名物「うに弁当」
(左)三鉄久慈駅舎の「リアス亭」で販売
(右)包みを開ければうに尽くし
 

宮古駅には13時54分に到着した。製鉄所やラグビーで知られた釜石に比べて、全国的な知名度がやや劣るとはいえ、宮古は岩手県の三陸海岸で最大の町だ。駅も中心街に隣接していて、川向うに町が離れた釜石駅より活気がある。

宮古~釜石間が移管されたが、今も宮古駅は、JR山田線盛岡方面との接続駅だ。久慈駅と同じように、JR駅舎の隣に三鉄駅舎が建っている。しかし扉が閉まり、張り紙がしてあった。読めば、移管を機に業務をJR駅舎に移したという。なるほどJR駅正面の表札をよく見ると、三鉄とJRのロゴが仲良く並ぶ。三鉄はJRの駅業務を受託したので、みどりの窓口も今までどおり開いている。

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宮古駅
(左)JR駅舎はこの春から三鉄と共同使用
(右)もとの三鉄駅舎は閉鎖
 

JRに乗継ぐ乗客は、いったん外改札で三鉄内の精算をして、改めて駅舎内の改札からJRの乗車券で入るように誘導される(逆も同じ)。それでも、JR駅内での移動なので、久慈駅のような大回りにならない。JRと接続する他の駅もこうすればいいのに、と思う。

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宮古駅構内
奥の車両はキットカットの応援ラッピング車
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宮古駅構内につどう車両群
三鉄車の他に山田線を走るJR車両も
 

さて、宮古で接続列車に乗れば、暗くなるまでに気仙沼までたどり着けるのだが、今日は釜石で泊ることにしている。それで列車を1本遅らせて、駅の周りを観察することにした。開通から2週間近く経ち、お祝い気分もすっかり抜けた後かと思ったが、そうでもない。

駅には、岩手日報が無料配布した3月24日付の開業特集号がまだ残っていた。当該区間の宮古、陸中山田、大槌、釜石の4駅で配り、それぞれの表紙をつなげると続き絵になるというものだ。見開きページに、自作の応援メッセージを掲げた沿線の人たちの笑顔が溢れている。また、跨線橋でつながっている駅裏の市民交流センターでは、開通を記念して新旧の鉄道写真のパネル展示が行われていた。見入っている人はもう誰もいなかったが、行きずりの者にも、復旧の日を迎えた高揚感と熱気の余韻が伝わってくるようだ。

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(左)市民交流センターの鉄道写真展示
(右)岩手日報の開業特集号
 

とこうするうちに、釜石行き列車の出発時刻が近づいてきた。そろそろ駅に戻らなくては。

次回は、その開通区間を旅する。

■参考サイト
宮古駅付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.639850/141.947300

三陸鉄道 https://www.sanrikutetsudou.com/
同 リアス線特設ページ https://www.sanrikutetsudou.com/rias-line/

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