2017年6月28日 (水)

ニュージーランドの1:250,000地形図ほか

前回紹介した1:50,000のほかにも、ニュージーランドにはいくつかの地形図シリーズがある。縮尺の大きいものから順に紹介していこう。

1:25,000

1:25,000は、1マイル1インチ地図である NZMS 1 と重なる時期に、NZMS 2 シリーズとして、ごく一部の地域で製作されたに過ぎない(下注)。製作期間は1942年から1960年代半ばまでで、少し間が空いて1972年に出た S83-5 Burnham 第2版が最後の更新となった。その後は刊行されていない。

*注 これとは別に、北島のオークランド Auckland では仕様の異なる NZMS 2A シリーズ(1940~51年)が、同じくワイオウル Waiouru では NZMS 2B シリーズ(1940~59年)が刊行されていた。

図郭は、NZMS 1 のそれを縦横3等分した東西15km×南北10km、地勢表現は50フィート間隔の等高線による。NZMS 1 と異なり、密集していない市街地に黒抹家屋の記号が使われており、建物の並び方を読み取ることができる。街中に点々と置かれた赤色は郵便局の位置を示し、Ptの注記も Post Office with Telephone の略だ(下注)。また、街路にかなりの密度で張り巡らされた市電の線路も、鉄道ファンとしては興味深い。NZMS 1 では併用軌道の記載が省略されてしまうから、貴重な図化資料といえる。

*注 凡例によれば、Ptは電話のある郵便局 Post Office with Telephone、PTは郵便・電話局 Post & Telephone Office、Pのみは郵便局、tのみは電話局を示す。

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25,000図の例 ウェリントン市街(1952年8月初版)
Sourced from NZMS 2 Map N164/2 Wellington. Crown Copyright Reserved.

1:250,000

1950年代からの歴史をもつ1:250,000は、現在も更新が維持されている。初代シリーズは NZMS 18 と呼ばれ、1958年から1982年にかけて製作された。図郭は東西180km×南北120kmで、26面で全土をカバーした。地勢表現は、500フィート間隔の等高線にぼかし(陰影)を併用しているが、NZMS 1が未整備だったために等高線が描かれないエリアも散見される。

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250,000図表紙
(左)旧表紙 Christchurch 1982年版 (右)新表紙 Auckland 1997年版

1969年のメートル法採用をきっかけに、ニュージーランドでは1977年から新たなシリーズへの切替えが始まった。1:50,000の NZMS 260 シリーズに対して、1:250,000には NZMS 262 のシリーズ名が与えられた。図郭は東西200km×南北150kmに拡大され、18面で全土をカバーする。1985年に刊行が完了し、その後1998年まで更新が続けられた。

等高線間隔は100mで、ぼかし(陰影)も掛けられているが、NZMS 18 と同じ事情で、1:50,000の整備が間に合わずに等高線が省かれた図葉がある。その代替として、ハイライト(光の当たる側)に橙色、シャドーに灰色を置いて陰影を強調する2色法が試みられた。ここに自生林 Native Forest を表す青みを帯びた緑のアミが加わると、美的にも優れた図ができあがる。

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250,000図の例 トンガリロ山群
1980年初版は等高線がなく、2色陰影法で地勢を表現する
Sourced from NZMS 262 Map 6 Taranaki. Crown Copyright Reserved.
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同 1987年第2版で等高線が入れられた
Sourced from NZMS 262 Map 6 Taranaki. Crown Copyright Reserved.

地図記号は1:50,000のそれを簡略化したもので、デザインは共通だ。小縮尺で実形が表せなくなるためか、空港・飛行場には専用記号が設定されている。さらに国際空港 International airport には赤の、地方空港 Domestic airport には黄色の、それぞれ塗りが加わる。地物の記号でも、各種電波塔、送電線、灯台など、飛行中の目標または障害物に関わるものが取り上げられているのが興味深い。

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Topo250表紙
Auckland 2015年版

このNZMS 260 は、2009年にニュージーランド測地系2000に基づく NZ Topo250 へ一斉に切り替えられ、現在はこのシリーズが流通している。Topo50 と同じく用紙寸法が縮小かつ縦長化されたので、図郭は東西120km×南北180kmとなり、それに伴い、面数は31面に増加した。

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1:250,000の3世代比較 オークランド
(左)NZMS 18 1977年版 マイル・フィート表示、道路は橙1色、注記はセリフ書体で、海に等深線が入る
(中)NZMS 262 1997年版 メートル表示、国道は赤、注記はサンセリフに
(右)Topo250 2015年版 地図表現はNZMS 262を踏襲、ぼかしは薄目に
Sourced from maps of NZMS 1 Wellington, NZMS 260 Wellington and Topo50 Wellington. Crown Copyright Reserved.

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500,000図表紙
North meets South 1988年版

1:500,000

大判用紙を使用し、かつ地図の方位を適宜傾けることによって、1:500,000(NZMS 242 シリーズ、下注)はわずか4面で全土をカバーする。1面に、東西400km×南北500kmという広大な面積が収まる。図名は土地鑑がないとややわかりにくいが、実質上、Further North=北島北部、The North=北島主部、North Meets South=南島北部、The South=南島南部と考えるといいだろう。

*注 NZMS 242 としてはもう1面、フィジー諸島 Fiji Islands 図葉があった。

前身は1949~73年に刊行された NZMS 19 シリーズ(全7面)で、1976年から NZMS 242 に切り替えられた。後には Coast to Coast というシリーズの愛称もつけられている。LINZの資料では最終更新が1995~96年とされ、現在の公式サイトでダウンロードできるのもこの版だ。

地勢表現には、300m間隔の等高線(低地では150mのラインも)、段彩(高度別着色)、繊細なぼかし(陰影)の3種の手法が駆使されている。その効果を妨げないように植生表現では、自生林にアミではなく、より隙間の多いパターンが使われている。また、居住地名の注記は、読み取りやすいボールド体(太字)で強調される。ニュージーランドの地形図はどれも美しいのだが、中でもこれは出色の出来栄えと言えるだろう。この図版を利用して、航空図(NZMS 242A)も製作されている。

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500,000図の例 サザンアルプス中央部(1996年部分修正版)
Sourced from NZMS 242 Map 4 the South. Crown Copyright Reserved.

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1,000,000図表紙
South Island 1989年版

1:1,000,000(100万分の1)

1:1,000,000(NZMS 265 シリーズ)は、1980~89年の間に製作され、北島と南島の2面がある。この縮尺では等高線が省かれ、段彩とぼかしで地勢が表される。段彩は、海の深度にも用いられている。残念ながら、ぼかしは粗く、また暗めのトーンのため、山地はともかく、平野部がひどく沈んで見える。せめて道路網や市街地に明色を配すればよかったのだが、前者は薄茶色、後者は黒のアミで、アクセントにもなっていない。1島が1面に収まるという長所はあるものの、地図表現は1:500,000に劣ると言わざるを得ない。なお、裏面には、地名索引が印刷されている。

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1,000,000図の例 クライストチャーチ周辺(1989年版)
Sourced from NZMS 265 Map of the South Island. Crown Copyright Reserved.

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2,000,000図表紙
New Zealand 1996年版

1:2,000,000(200万分の1)

北島と南島を1面に収める1:2,000,000は、シリーズ名 NZMS 266 として1984年に製作され、1986年と1996年に改訂版が出た。地勢表現は段彩と繊細なぼかしによるが、地色が明るいので、上に載る道路網も容易に識別できる。市街地に黄色を配したのも効果的だ。また、文字サイズが小さくなるものの、自然地名も豊富に盛り込まれている。総合的に見て1:500,000を凝縮したような完成度を保っており、ニュージーランドの地理的な全体像を知りたいというときにお薦めできる地図だ。

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2,000,000図の例 南島中央部(1996年版)
Sourced from NZMS 266 Map. Crown Copyright Reserved.

最後に、ニュージーランドの地形図の入手方法だが、紙地図(オフセット印刷図)は、ニュージーランド国内の主な地図商で扱っている。また、LINZの特設ウェブサイトで、閲覧およびデータダウンロードが可能だ。地図商およびウェブサイトのリストは、「官製地図を求めて-ニュージーランド」にまとめている。

なお、ニュージーランドの官製地形図は、クリエイティブ・コモンズ表示3.0国際ライセンスに従い、旧版と現行版にかかわらず無償利用が可能となっている。その際、LINZは次の著作権表示を付すことを求めている。
"Sourced from [product name]. Crown Copyright Reserved"

■参考サイト
Land Information New Zealand (LINZ)  http://www.linz.govt.nz/

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2017年6月24日 (土)

ニュージーランドの1:50,000地形図

ニュージーランドは、2つの大きな島と周辺の小島から成る国だ。北島は本州の約1/2、南島は同じく約2/3の広さがあり、雄大な自然美で冒険好きの人々を惹き付けてきた。代表的な景観を挙げれば、北島ではトンガリロ国立公園やタラナキ山(エグモント山)に代表される際立った風貌の火山群、南島では背骨を成すサザンアルプスの氷河や、西岸の険しいフィヨルドだろうか。変化に富んだ地形はまた、それを写し取る地図に対する興味をも刺激し続ける。

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南島、ミルフォードサウンド
Photo by Wikikiwiman from English Wikipedia.

同国の地形図はかつて土地測量局 Department of Lands and Survey が製作していた。1987年の組織変更で、測量・土地情報局 Department of Survey and Land Information に改称され、1996年からはニュージーランド土地情報局 Land Information New Zealand、略称 LINZ となって今に至る。LINZは、ウェブサイトでの全面公開や二次利用の許諾など地図利用の制限緩和を進めるかたわら、採算的には厳しい紙地図(オフセット印刷図)の供給も維持している。多様なニーズに応えようとするニュージーランドの地形図事情について、3回にわたり紹介したい。

ニュージーランドの本格的な地形図作成は、まだイギリスの自治領だった1930年代に始まる。軍事戦略問題を研究する帝国防衛委員会 Committee of Imperial Defence が、全国の詳細な地形図の開発を政府に求めていた。その背景には、アジア・太平洋圏への進出拡張を図る日本に対する強い警戒があった。

航空写真測量による最初の1マイル1インチ地形図(略してワンインチマップ 1 inch map と呼ばれる)は、1939年に刊行されている。これはイギリスの方式に倣った、実長1マイルを図上1インチで表す縮尺図だ。分数表記では1:63,360とされる。NZMS 1(下注)と呼ばれたシリーズは、1947年の国家独立後も作成が続けられ、1975年に360面で全土をカバーした。更新はその後も1989年まで行われた。

*注 NZMS は New Zealand Mapping Service の略。ニュージーランドの政府刊行地図は「NZMS+シリーズ連番」の形で体系化されている。1マイル1インチ地形図は、図郭が東西45km×南北30kmの範囲、地勢表現は100フィート間隔の等高線とぼかし(陰影)による。

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1マイル1インチ地形図の例 南島カイアポイ Kaiapoi 周辺
Sourced from NZMS 1 Map S76 Kaiapoi. Crown Copyright Reserved.

同国では1969年にメートル法が採用されたが、そのときはまだ、NZMS 1が南島のフィヨルド地方で完成していなかった。そこで、当面このシリーズで全土を覆うことが優先されたという。しかし並行して、メートル法による新しい地形図の研究も進められた。NZMS 1の完成から間もない1977年には、縮尺1:50,000による新シリーズ NZMS 260 の刊行が開始されている。これは1997年に296面で全土をカバーし、2007年まで更新が続けられた。

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NZMS 260シリーズ表紙
(左)旧表紙 Wellington 1986年部分修正版
(中)Topomapロゴ入り Taumarinui 1987年版
(右)新表紙 Te Anau 2000年版

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Topo50表紙
Wellington 2014年版

NZMS 260は足掛け30年間使われたなじみ深いシリーズだったが、2009年に、デジタル編集技術の進歩と新測地系採用を反映したNZ Topo50 シリーズ451面に切り替えられた。縮尺は同じく1:50,000だ。地域座標系NZGD49を使用していたNZMS 260に対し、Topo50は、世界測地系WGS84に基づくニュージーランド測地系2000 New Zealand Geodetic Datum 2000 (NZGD2000) で投影されている。そのため、両者はグリッド位置がずれており、互換性がない。

ニュージーランドでも昨今、利用の大勢はオンラインに移行しているが、冒頭で述べたように、新シリーズ Topo50 でも紙地図の供給が継続されたことは注目すべきだろう(下注)。しかも図郭は、NZMS 260が東西40km×南北30kmの横長判なのに対して、Topo50は縦長の東西24km×南北36kmと1面でカバーする面積が小さく、その分、面数は25%も増加した。

*注 対照的に、官製旅行地図(ハイキング地図)の印刷版は廃止された。旅行地図は稿を改めて紹介の予定。

在庫管理の手間がかさむにもかかわらず小判化を断行した理由は明らかでないが、表紙に記されている「エマージェンシー・サービス使用 Used by New Zealand Emergency Service」という語句が一つのヒントになる。南オーストラリア州などでも見られるように(下注)、消防や災害救助といった公共分野では紙地図の需要があり、それに応える形で刊行が維持されているようだ。紙寸や折りをコンパクトにしたのも、現場に向かう狭い車内での扱いやすさを考慮した可能性がある。

*注 南オーストラリア州ではエマージェンシー・サービスの名を冠した地図帳が刊行されている。「オーストラリアの地形図-南オーストラリア州」参照。

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Topo50およびTopo250索引図の一部
Topo250(1:250,000、黒枠の範囲)の図郭を縦横5等分したのがTopo50の図郭(緑枠)

では、1:50,000の仕様を詳しく見てみよう。地勢表現は、20m間隔の等高線にぼかし(陰影)が併用されている。等高線は茶色ではなく道路の塗りと同じ橙色で、サザンアルプスなどに見られる氷河と万年雪のエリアでは青に変わる。平野部では10mの補助曲線も用いられる。

地勢を際立たせるぼかしの技法は、1960年代にNZMS 1シリーズの図式改訂で初めて採用されたものだ。NZMS 260までは比較的濃いアミで立体感が強調され、見栄えがしたが、Topo50ではやや控えめになった。色彩では、植生のミントグリーンに、道路記号の塗りとして鮮やかな赤と橙が加わる。この2色の帯は明瞭なアクセントとなって図を引き立てている。

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同国最高峰クック山 Mt. Cook
NZMS260では、氷河が青の等高線とぼかしで美しく描かれる
Sourced from NZMS 260 Map H36 Mount Cook. Crown Copyright Reserved.
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北島東岸マウント・マウンガヌイ Mount Maunganui、陸繫島と砂州上の市街地
Sourced from NZMS 260 Map U14 Tauranga. Crown Copyright Reserved.

地図記号では、まず道路の路面状態を3種に分類するのが目を引く。通常は舗装か未舗装かの2パターンしかないが、ここではアスファルト sealed、マカダム舗装 metalled(砕石舗装のこと、さらにタールで固める場合もある)、未舗装 unmetalled と分けている。また、1車線橋梁 one lane bridge、渡渉地 ford などの記号もあって、原野を貫く一本道といったアウトバックの典型風景を彷彿とさせる。

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Topo50凡例 道路・その他

鉄道記号は、複線に旗竿形、単線に太い線が充てられて、やや違和感があるが、路線そのものが少なく、かつ複線区間は北島の都市部に限られている。そのほか、パイプライン pipeline(地中 underground と地上 above ground の別あり)、送電線 power line(鉄塔 on pylons と電柱 on poles の別あり)、電信線など、線状に延びる施設が細かく分類されているのも特色だ。

水部には、青と赤の×印を用いた冷泉 cold spring/温泉 hot spring の記号がある。また、大型の赤い×印が噴気孔 fumarole、それを〇で囲むと地熱採取孔 geothermal bore を表す。いずれも、活発な火山活動を前提にした記号だ。

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Topo50凡例 水部・植生

Topo50は1インチ地図から数えて3代目のシリーズだが、各シリーズの間で地図表現はどのように変化してきたのか。同じウェリントン Wellington 図葉から、都市と郊外(海岸、山地)のエリアを抜き出してみた(下図参照)。それぞれ左/上は1インチ図であるNZMS 1、中央がNZMS 260、右/下がTopo50だ。

NZMS 1とNZMS 260は、用いられる縮尺や単位(マイル・フィート/メートル)だけでなく、見た目もかなり異なる。特に目立つのは市街地の表現だろう。NZMS 1では、密集していない市街地で、道路と総描家屋をひとまとめにしたような特異な描き方をするが、NZMS 260では灰アミに変わる。実はどちらもイギリス流で、本家の図式改訂が持ち込まれた形だ。また、注記フォントは、セリフ書体(先端に飾りのある)からサンセリフ(飾りのない)になり、鉄道や道路など交通路の記号は太く強調されて、図上での視認性はかなり良くなった。

これに比べて、NZMS 260からTopo50へは、地図デザインも記号も軽微な変更にとどめられ、親和性が高い。ただしよく見ると、都市図ではTopo50 のほうが施設の注記(Schs=学校、Hosp=病院、Substn=変電所など)が充実している。郊外図でも、ウェリントン図葉では海岸の崖(海蝕崖)や山地の沢など、Topo50のほうが情報量が多く、目立たないところで改良の手が加えられているようだ。

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ウェリントン市街
(左)NZMS 1 1974年版 (中)NZMS 260 1983年版 (右)Topo50 2016年版
Sourced from maps of NZMS 1 Wellington, NZMS 260 Wellington and Topo50 Wellington. Crown Copyright Reserved.
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テラウィティ岬 Cape Terawhiti 周辺(ウェリントン西方)
(上)NZMS 1 1974年版 (中)NZMS 260 1983年版 (下)Topo50 2016年版
Sourced from maps of NZMS 1 Wellington, NZMS 260 Wellington and Topo50 Wellington. Crown Copyright Reserved.

■参考サイト
Land Information New Zealand (LINZ)  http://www.linz.govt.nz/

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 オーストラリアの地形図-連邦1:100,000
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2017年6月11日 (日)

コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)

まだ雪のベールのかかる鳥海山の荘厳な姿に感嘆しながら、羽越本線で秋田へ移動してきた。コンターサークルS 春の旅も、きょう5月5日が最終日だ。用意した地形図は1:25,000「岩見三内(いわみさんない)」。雄物川の支流の一つで、秋田市東部を流れる岩見川の中流域を描いている。

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羽越本線の車窓から見た鳥海山

日本の1:25,000地形図は、全部で4,400面以上もある。それで、鉄道、主要道路、あるいは著名な山や湖などが図郭に入っていないと、見てもすぐに印象が薄れてしまう。率直なところ、「岩見三内」もそうした括りの図幅だった(下注)。ところが、お題に挙がったのを機にじっくり眺めてみると、興味深い題材がいくつも見つかる。他のメンバーも各々関心のあるテーマを持ち寄ったので、思いがけなく盛りだくさんの地図の旅になった。

*注 ただし、現在の「岩見三内」図幅は、図郭が拡大されたので、大張野駅前後の奥羽本線が顔を覗かせている。

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秋田市周辺の1:200,000地勢図(平成5年編集)に加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

朝10時、秋田駅の東西連絡通路の一角に集まったのは、堀さん、真尾さん、丹羽さん、私の4人。駅前から2台の車で出発した。秋田市街を抜けて、県道28号秋田岩見船岡線を東へ。太平山の南斜面を水源とする太平川(たいへいがわ)に沿って、緩やかな谷を遡る。

まず、私のリクエストで、地主(じぬし)という集落で車を止めてもらった。ここに謎の地形があるからだ。現行地形図(下の左図)を見ると、地主の南を、太平川がまっすぐ西へ流れている。それと同時に、集落の西から北にかけて弧を描く土の崖と、一つ北の谷につながる鞍部(=風隙)も読みとれる。これは、かつて太平川が北へ蛇行していたことを示す証拠のようだ。それが、何らかのきっかけで西の谷へ流れ込むように変わったとすれば、西の谷による河川争奪があった、ということになる。

ところが、大正元年の旧版図(下の右図)を取寄せてみたら、驚いたことに、旧流路が実際に細々と残っているばかりか、太平川の本流には、長さ150mほどの隧道が描かれているではないか。石灰岩地形でもない限り、川が器用に地中を抜けていくとは考えにくい。どうやら自然の力による河川争奪ではなく、人間が水路を掘って流路を付け替える、房総半島で言う「川廻し」が行われたようだ。

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地主の「川廻し」
(左)平成18年更新図 (右)大正元年図、太平川の隧道と北行する旧流路が描かれる

しかし、謎はまだ残る。大正時代は隧道だったのに、なぜ今は青天井の谷になっているのか。地図の間違いでなければ、何か理由があるに違いない。

さっそく川岸の農道に出てみた。太平川は水制から先で早瀬となって、勢いよく正面の小渓谷へ落ちていく。雪解け水が混じる今は、思った以上に水量が豊かだ。一方、右手の水田の向こうでは、砥の粉色の地肌をところどころに覗かせた崖が緩い曲線を描く。もとは川の外縁、いわゆる攻撃斜面だったことをしのばせる。

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地主の「川廻し」 (左)太平川の堰 (右)隧道崩壊によって生じた小渓谷

60代とおぼしき男性が、近くの畑で作業をしていた。「あの川は昔、トンネルでしたか」と尋ねると、一瞬驚いた顔を見せながら頷いた。「確かに、子供のころはトンネルだった記憶がある。この地区は建設業をやっている人が多かったので、田を拡げるために自分たちで掘ったと聞いている。だが、山が脆いんで、崩れてしまったんだ」。

普段でもこの水量なら、大雨が降った後はきっと破壊的な水のパワーが生じるに違いない。柔らかい粘土層に掘られたトンネルは、早晩崩壊する運命にあったのだろう。謎解きをしてくれた男性に丁重に礼を言って、私たちは現場を後にした。

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旧流路は正面の土の崖沿いに右へ旋回していた。遠方に太平山を望む

地主のそれは、人の手による河川「争奪」だったが、次は、堀さんがめざしていた自然の争奪跡だ。野田集落の東、野田牧場へ上がる道で車を停めた。太平川は北から流れてきて、この付近で西へ向きを変えている。しかし、浅い谷が南へも続いている。つまり、ここでは野田集落を交点として、T字を寝かせた形で谷が広がっているのだ。そこで、昔は太平川が南流しており、後に河川争奪が生じて西へ流れるようになったという仮説が成り立つ。

典型的な争奪地形の場合、流路が変わると、水量が増した谷(野田のケースでは西の谷)では下刻が激しくなり、上流に向かって深い谷が形成されていく。ところが、野田の地形にはそうした展開が見られず、太平川は、ダイナミックな地形のドラマなど知らぬがごとく、終始ゆったりと谷を蛇行している。どうしてだろうか。

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野田の河川争奪
「風隙」~「繋沢」間が争奪前の谷筋

「地図の風景 東北編II 山形・秋田・青森」(そしえて、1981年、pp.115-117)で、籠瀬良明氏が成立過程を解説している。それによれば、その昔、太平川は南流していた(下図1)。しかし、野田の北東方からの崩壊、土石流、小扇状地といった土砂の押出しによって流れが遮られがちになり、一部が西の谷へ流れ込んだ(下図2)。この状況が続いて南側が閉ざされ、ついに全量が西へ流れるようになった(下図3)。つまり西の谷が力尽くで水流を奪ったのではなく、流路を塞がれた川が「自ら」西へ向きを変えた、というのだ。

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河川争奪の過程(解説は本文参照)
図1~3は「地図の風景 東北編II」p.117の図を参考にした

一段高い野田牧場へ上がれば、一帯を俯瞰できるのではないかと思ったが、斜面の植林が育ちすぎて視界がきかない。「南の谷頭がどうなっているか見たいんです」と堀さんが言うので、南の農道へ廻ることにした。谷頭(こくとう)は谷の最上流部のことで、そこでは水の力や風化作用によって、上流へ向けて谷が常に前進している。

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野田付近の180度パノラマ
右奥(北方向)に見える太平山から流れてきた太平川は、かつて左奥(南方向)へ流れていたが、河川争奪により現在は、正面の野田集落から奥(西方向)へ流れ去る

田んぼの先に、まだ冬の装いから目覚めていない雑木に囲まれて、深さが10m近くある窪地が姿を現した。これが谷頭だ。太平川に去られた南の谷(下注)では、下流の岩見川の基準面低下によって、谷頭の浸蝕力が強まっている。集水域がごく狭いのに、これだけの高低差を造る力があるとすると、将来、土砂の押出しとの闘いに打ち勝って、上流に谷を延ばしていき、最終的に太平川を奪い返すこともありうるのではないか(上図4)。そんな想像が脳裏をよぎった。

*注 無名の川だが、掲載の図では下流の地名を借りて「繋沢」としている。

上記「地図の風景」では、堀さんも共著者に名を連ねているが、「野田の河川争奪は籠瀬さんの担当だったので、私は来ていないんです。ようやく現地を見ることができてよかったです。」

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繋沢の谷頭
(左)旧流路(北方向)を望む、奥に太平山 (右)谷頭の上から南を望む
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谷頭を観察するメンバー

その南の谷に沿って県道を下りていくと、岩見川に三内川が合流するこの一帯の中心地、岩見三内だ。秋田駅西口からここまで、私たちが通ってきたルートでバス路線も維持されている。野崎の駐在所前の交差点にあるバス停は「貯木場前」。すでに新しい住宅が建ち始めているが、以前、道路の北側は、岩見川水系で産する木材を集積する岩見貯木場があった。貯木場には、奥羽本線の和田駅から森林鉄道(正式名「岩見林道」)が通じ、さらにここで三内支線が分岐して、北に広がる山林の中へ延びていた(下注、全体のルートは下図参照)。

*注 岩見林道(本線)29.4km、1923年開設、1967年廃止。三内支線24.9km、1921年開設、1967年廃止。大又支線13.4km、1933年開設、1967年廃止。その他延長線、分線がある。出典:林野庁「国有林森林鉄道路線データ」

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岩見三内の貯木場前バス停。正面奥の貯木場跡は払い下げられて宅地に

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秋田市東部の森林鉄道路線網、赤の矢印が岩見三内
1:200,000地勢図「秋田」(昭和35年編集)に加筆。原図は今尾恵介氏所蔵

私のもう一つのリクエストは、林鉄遺構の現状確認だった。三内支線は、貯木場から先で河岸段丘の崖際を走った後、上三内集落の北で三内川を渡っていた。その鉄橋は、平成18年更新図までは描かれているのに(下図参照)、2017年5月現在の地理院地図では消されている(下記サイト参照)。水害か何かで流失してしまったのだろうか。実態を自分の目で確かめたいと思った。

■参考サイト
上三内付近の1:25 000地理院地図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.728630/140.305000

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森林鉄道跡
1:25,000地形図(平成18年更新)に林鉄のルートを加筆
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1:25,000地形図(昭和13年修正測図)に描かれた林鉄のルート

私たちは一つ上流の小橋を渡って、廃線跡である農道からアプローチしたのだが、小橋の上から、遠くに朱色のガーダー橋が架かっているのが見えて、ホッとする。農道は、急曲線の築堤で鉄橋につながっていた。「トロッコは小回りが利くから、これぐらいのカーブは何ともないでしょう」「勾配はきつすぎるので、後で切り崩したのかもしれないですね」などと話しながら、軽便のレールを土留めに使った築堤を上る。

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上三内に残る三内支線の鉄橋

橋脚と橋桁(ガーダー)は、鉄道橋そのものだ。2連のガーダーの縦寸法が異なるのが気になるが、橋脚がそれに合わせて造られているので、もともと他からの転用品なのだろう。路面は一人分の幅しかないが、歩けるようにセメントを流し、簡易な欄干が取り付けてある。だが、橋の手前で、秋田市道路維持課のバリケードが通路を塞いでいた。通りかかった農作業帰りの女性に聞くと、「畑へ行くのに、車道は遠回りだからここを通ります。手すりが壊れて、通行止めになってますけど。直すのは来年になるらしいですよ。」

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縦寸法が異なるガーダー
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(左)鉄橋に向かう上流側の築堤 (右)築堤の土留めに古レールが使われていた

橋が地理院地図から消された理由は、それかもしれない。しかし、歩くには支障がなさそうなので、私たちも通らせてもらう。鉄橋の下を、緑味を帯びた水が川幅いっぱいに滔々と流れている。じっと見つめていると吸い込まれていきそうだ。対岸の築堤も切り崩されていたが、線路跡は明瞭で、集落から下りてくる小道と交差した後、緩いカーブを切りながら段丘崖の陰に消えていく。

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(左)鉄橋は対岸の農地へ行く歩道橋に (右)欄干の一部が破損
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三内川の上をそろりと渡る
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(左)築堤脇の神社。左奥に見えるバリケードの先が鉄橋
(右)反対側を望む。舗装道の右が廃線跡で、段丘崖の下へ続いている

築堤の脇に、八幡神社という小さな社があった。今日も天気に恵まれて、日なたはけっこう暑いのだが、見事な杉木立の下は、涼風が吹き通って心地よい。鳥居前の大きな石に腰を下ろして、昼食休憩にした。

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「ぼだっこ」おにぎり

朝、秋田駅のコンビニで見つけた「ぼだっこ」おにぎりを取り出す。中身を知らないまま買ったので、「これ何が入ってるんでしょうね」と皆も興味津々だ。私は漬物を想像していたのだが、かじってみたら、塩鮭の切り身が出てきた。後で調べると、ぼだっこの「ぼだ」は牡丹のことで、ベニザケの身の色から来ているそうだ。塩がよく効いているものの、梅干しや塩昆布と同じで、ご飯に添えればおいしく食べられた。「北海道で甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのを思い出しました」と私が言うので、真尾さんが丹羽さんにそのことを説明する(下注)。たとえコンビニであろうと、ご当地ものを探すのは楽しい。

*注 甘納豆の赤飯おにぎりを食べたのは、夕張での話。「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

真尾さんは、アイヌ語地名の痕跡を探している。このすぐ上流に岩谷山(いわやさん)という、おにぎり形の山がある。地元では三内富士とも呼ばれているようだが、「モイワと同じように、神聖な山を意味する「イワ」と関係があるんではないでしょうか」と真尾さん。麓の砂子渕集落まで車を走らせた。実際、太平山との関わりで「お山かけ」(山岳信仰)の対象になっているためか、自然の植生が残されている。ヤマザクラや芽吹いたばかりの木々が、パステル調のグラデーションで山肌を彩り、ことのほか美しい。

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パステル調のグラデーションが美しい岩谷山

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岩谷山周辺の1:25,000地形図

その後、大又川流域へ移った。岨谷峡(そうやきょう)を越え、山間の小盆地にある鵜養(うやしない)集落へ。ナイはアイヌ語で沢の意で、漢字で「内」と書かれて、北海道の地名には頻出する。さっき通ってきた三内などもおそらくそうだが、「養の字を当てたのは珍しいです」。地名を記したものはないかと探したら、バス停の標識が見つかった。バス会社が撤退してしまい、ジャンボタクシーが巡回しているようだが、小さな集落に、鵜養下丁、鵜養中丁、鵜養上丁と3か所もある。

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鵜養 (左)鵜養下丁のバス停標識 (右)陽光を跳ね返す用水

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鵜養周辺の1:25,000地形図

静かな山里で動いているものと言えば、そよ風のほかに足もとを勢いよく流れる用水路の水ぐらいだ。堰板のところで流れが膨らんで、初夏の陽光をちらちらと跳ね返している。目覚ましい光景に出会ったわけでもないのに、きょう一日の行程が脳裏に蘇り、満ち足りた気分になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩見三内(大正元年測図、昭和13年修正測図、平成18年更新)、20万分の1地勢図秋田(昭和35年編集、平成5年編集)を使用したものである。

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2017年6月 5日 (月)

コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群

コンターサークルS 2017年春の旅、本日5月3日は、山形県上山(かみのやま)周辺にある古い石橋群を訪ねる。

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吉田橋のたもとにて

イギリスの旅行家イザベラ・バード Isabella L. Bird が、山形の印象を故国の妹に書き送っている。「この地方は見るからに繁栄していますが、その繁栄はひとつにはこの立派な幹線道路から生まれているとわたしは思います」(「イザベラ・バードの日本紀行(上)」時岡敬子 訳、講談社学術文庫 p.330)。彼女が当地を旅したのは明治初期、1878(明治11)年だ。ちょうどその頃、初代山形県令に任じられた三島通庸(みしまみちつね)が、当地の殖産興業を図るために交通路の整備を強力に推し進めていた。

イザベラはこうも記す。「坂巻川ではうれしいことに、わたしが唯一目にした、完璧に堅牢な近代日本の建造物に出会いました。完成直前のすばらしく立派な石橋で、これははじめて見ました」(同 p.329)。木橋に代わる石造アーチ橋もまた、三島の土木事業の成果だった。彼女が絶賛した山形南方の常盤橋(ときわばし)はその後流失してしまうが、周辺では幸いにも、同じ時代に造られた石橋がいくつか残っている。

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かみのやま温泉駅に到着

山形駅から奥羽本線の普通列車で14分、かみのやま温泉駅で下車した。改札前に集まったのは、堀さん、石井さん、外山さん、真尾さん、私の5人。訪ねるべき石橋は6か所あり、場所は地図上でチェックしてある。「連休に入って道が混むかもしれないので、先に国道沿いを回りましょう」と順路を確認して、2台の車に乗り込んだ。

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上山周辺の1:200,000地勢図に、石橋の位置を加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す

堅磐橋(かきわばし)

目標の一つ目は、上山市川口にある堅磐橋。国道13号上山バイパスに合流してまもなく、左の脇道へ折れたところで車を停めた。白い花が満開のさくらんぼ畑をかすめる農道の先に、その石橋がある。もとは羽州街道旧道を通していた橋だが、前後をバイパス建設で塞がれてしまい、かろうじてこの農道で公道につながっている状態だ。

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堅磐橋は2連アーチの眼鏡橋

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上山市川口、中山周辺の1:25,000地形図に、堅磐橋と中山橋の位置を加筆

しかし橋自体は、2連アーチのいわゆる眼鏡橋(下注)で見応えがある。アーチを形成する迫石(せりいし)はもとより、壁石にも緩みがなく、現役に復帰しても十分通用しそうだ。下流側の勾欄(欄干)はコンクリートで更新されているが、上流側は切り石で、とりわけ控柱には迫力ある筆致で橋の名が彫り込まれている。

*注 二重アーチが川面に映って眼鏡橋に見えるのだが、一重アーチでも眼鏡橋と呼ばれるようだ。

傍らに上山市教育委員会が立てた案内板があった。「山形県令三島通庸の道路開さくと整備の積極的政策により、山形から米沢に通ずる国道の川口部落南端の前川に架橋された、当時としては珍しい石の橋である。石材は同橋上流山手の採石場と、同河川からも採取された凝灰岩で、明治11年1月着工、同3月竣功している。橋長14.30m、幅員6.60m、アーチの高さ約3.1m、河床部での径は約5.6m(後略)」(下注)

*注 日付と計測値は英数字に改めた。以下の石橋に関するデータも、地元の教育委員会が立てた案内板を引用している。

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堅磐橋 (左)赤湯方向を望む (右)橋の名が陰刻された控柱

三島に請われて洋画家高橋由一が描いた堅磐橋の石版画が残っている(下図参照)。山中としては不相応に幅広の橋の真ん中に、ぽつんと二人の通行人。画風が違うとはいえ、アンリ・ルソー  Henri Rousseau を連想させるような不思議な構図だ。イザベラ・バードが赤湯から山形へ抜けたのは竣功の年の7月で、彼女も画中の人物のように、できたばかりのこの橋を渡ったはずだ。

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高橋由一「南村山郡川口村新道ノ内大川ニ架スル堅磐橋ノ図」 山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/

タンポポの咲く川岸から、めいめい橋のほうへカメラを向ける。蜂が何匹か忙しそうに飛び回っているが、さくらんぼの花が目当てらしく、私たちにはまったく関心を示さない。いつのまにか石井さんと堀さんの姿が見えないと思ったら、石橋の上に車で現れた。堀さんが窓からにこやかに手を振る。シャッターチャンスを逃すまいと、皆またカメラを構え直した。

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石橋の上でフォトチャンス

吉田橋

想定どおり、中山の手前から国道が渋滞し始めた。「この先で車線が減るんですよ」と、このルートを通ってきた外山さんが言う。しかし、のろのろ運転に付き合ったのは少しの間で、南陽市に入るとすぐに左の旧国道へ。さらに小岩沢の集落へ通じる旧道へ折れたところに、1880年(明治13)年築の吉田橋がある。

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吉田橋

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南陽市小岩沢周辺の1:25,000地形図に、吉田橋と小巌橋の位置を加筆

橋は、県道238号原中川停車場線の一部で、地元の車が往き来する。130歳を超えてなお現役なのも、部材が劣化しにくい石橋ならではだ。最上流部で川幅が狭いので、単アーチで済ませているが、石の積み方は堅磐橋によく似ている。ユニークなのは、勾欄(欄干)の親柱と控柱に尖形の自然石が使われていることだ。上流側に刻まれた文字は、変体がなで「よした者(は)し」、下流側は漢字で「吉田橋」と読める。高橋由一もまったく同じように描いているから(下図参照)、オリジナルであるのは疑いない。

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吉田橋 (左)上山方向を望む (右)橋のたもとに立つ土木学会選奨土木遺産の碑
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高橋由一「東置賜郡小岩澤村新道ノ内前川ニ架スル吉田橋ノ図」 山形県立図書館所蔵
画像は同館デジタルライブラリーより取得 https://www.lib.pref.yamagata.jp/
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自然石を使った控柱の陰刻
(左)上流側「よした者(は)し」 (右)下流側「吉田橋」(橋の字は半ば埋没)

案内板によれば、「長さ約12.6m(7間)、高さ約8.8m(下注)、幅は約7.2m(4間)。下部はアーチ型(眼鏡型)、上部は両端に飾り石を配した欄干と、和洋折衷様式である」。吉田橋の名は、これを造った地元の石工、吉田善之助にちなむものだそうだ。発案者でも設計者でもなく、施工業者の名を遺すとは、粋な計らいではないか。

*注 上山市の橋の説明板では「アーチの」高さを示しているが、南陽市の説明板の「高さ」が何を指すかは不明。少なくともアーチはそれほど高くない。

すぐ隣を、奥羽本線(山形新幹線)の線路が通っている。平成のE3系つばさ号と明治の石橋を一つの構図に収めてから、次の目的地へ向かった。

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つばさ号と明治の石橋が一つの構図に

小厳橋(こいわばし)

踏切を渡って小岩沢集落の中へ入ると、三つ目の橋がある。といっても、前川に注ぐ支流(下注)をまたぐ小さな橋で、うっかり通過してしまいそうだ。1881(明治14)年完成。名称は小厳橋だが、地元では蛇橋(じゃばし)または蛇ヶ橋(じゃがばし)というらしい。アーチと勾欄でかなりの部材が後補されているため、色合いの違いが不自然に際立つ。「大水で壊れたんでしょうか」と石井さん。

*注 確かめるのを怠ったが、この支流が「小岩沢」なのかもしれない。

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小厳橋は小岩沢集落の中に。上山方向を望む
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石材の補修跡が目立つ (左)下流側 (右)上流側

中山橋

来た道を、上山市中山まで戻った。私が先行車でナビをしていたのだが、迷うことなくたどり着けたのは、あるウェブサイトで、マピオンに位置情報が示してあったからだ。しかし、中山橋だけは例外で、プロットされた地点に実際に架かっていたのは、何の変哲もないコンクリート橋だった。近くで農作業をしていた人に「架け直されたんですか」と尋ねると、「石橋ならここじゃなくて、村のパーマ屋の先だ」と、親切にも略図を描いて教えてくれた。

中山の集落に入り、道が下り気味になったところで、この人の言っていた「すとう美容室」が見つかった。その先で旧道が、西の山から流れ出るカラジュク川(下注)を渡っている。低い石の勾欄と教育委員会の立て札が目印だ。上山方面から来る人には、中山郵便局の100m南を目指していただきたい(地図は堅磐橋の項参照)。

*注 川の名は現地の案内板で知った。地形図にはこの川が描かれていないので注意。

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中山橋の側面。二重の迫石が特徴

谷はこれまで見たものより深く、かつ広いのだが、支流のため水量は多くなさそうだ。それで、石垣で固めた築堤を両岸から谷に張り出させて、流路を単アーチでまたいだ。路面の高さを得るためか、アーチの迫石は二重に組まれ、その上に壁石が厚く積まれている。

上流側に回ると、太い松の木が石垣に根を張っていた。石積みに沿って這い降りるかと思いきや、やおら起き上がって空に枝を広げている。「盆栽みたいな松ですね」と感心する。真尾さんは、脇道の土留めに古いレールが使われているのを見つけた。一方、下流側は崖が迫っていて写真が撮りにくいのだが、「こういう時のために最新兵器を持ってきてます」と、外山さんは大きな魚眼レンズを取り出した。

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中山橋 (左)赤湯方向を望む (右)盆栽のような松が趣を添える

使われている石材は、中山石と呼ばれる地元の凝灰岩だ。勾欄の親柱には変体仮名で、もう片側の控柱には漢字で、橋の名が刻まれている。堅磐橋と同じ1878(明治11)年の竣工、橋の長さ11.3m、全幅6.7m、アーチの高さ4.35m、川床部での径は5.85m。こうしてみると、羽州街道の石橋はいずれも幅7m前後で、現代の2車線道路に匹敵する広さを誇っている。明治初期の地方道としては確かに破格の存在で、イザベラ・バードが感心したのももっともだ。

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親柱・控柱の陰刻 (左)上流側「奈可やま者(は)し」 (右)下流側「中山橋」

新橋

1881(明治14)年に福島と米沢を結ぶ萬世大路が開通する以前、羽州街道は、福島県桑折(こおり)から七ヶ宿(しちかしゅく)経由で上山に出るルートを取っていた。その旧街道が金山峠を越えて山形盆地に降りたところに、楢下宿(ならげじゅく)がある。今では時が止まったように静かな村だが、かつては奥州13藩の参勤交代の折の宿場として賑わいを極めていた。村を通る街道は当時コの字形に曲がっていて、須川の支流である金山川を二度渡る必要があった。その橋が2本とも石造りで残っている。

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上山市楢下周辺の1:25,000地形図に、新橋と覗橋の位置を加筆

まず上流側にある新橋へ。楢下宿は、地形的に川の左岸(西岸)のほうが高いので、そちらから来ると、下り坂の途中で川を渡ることになる。橋面にもいくらか勾配がつけられているようだ。長さ14.7m、幅4.4m、アーチの高さ約4.4m、川床部の径約12m。道幅は中山橋などより狭く、一見、小橋の印象だ。しかし側面に回ると、広い径間で谷川を一気に跨いでいて、6つの橋の中では最もスケール感がある。

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緑に包まれた新橋

竣工は1880(明治13)年8月で、羽州街道が米沢回りに付け替えられる直前だ。しかし、主要道を外れることがわかっていたからか、建設費1000円余のうち、県から下りた補助金は300円のみだった。残りは地元で立替え、通行人や荷車から橋銭を徴収して回収したという。

村はひっそりとしていて、聞こえるのは金山川のせせらぎの音だけだ。古びた石橋に、欅の若葉が柔らかい影を落とし、見ごろを迎えたしだれ桜が淡い彩りを添えている。いつまでも眺めていたいと思わせる光景がそこにあった。

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新橋を渡る旧 羽州街道
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広い径間で谷川を一跨ぎ (左)上流側 (右)下流側

覗橋(のぞきばし)

すぐ下手、街道が金山川を渡り直す位置に覗橋がある。名称は眼鏡橋と同じく、外観からの着想だ。前後でまっすぐに伸びる道路のせいで、こちらは開放的な風景の中に架かっている。橋の竣工は1882(明治15)年。パリのポン・ヌフのように、名前に似合わず新橋のほうが古い。橋長10.8m、全幅3.5m、アーチの高さ約3.83m、川床部の径約8.44m。

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覗橋と、上手に建つ古民家山田屋

壁石には、自然石に近いものが使われている。工費は全額地元負担だったというから、費用節約の結果かもしれない。立て札には、橋脚がないため村民たちは不安がってなかなか渡らなかったというエピソードが記されているが、アーチの橋は、新橋で経験済みのはずだ。それとも、覗橋の造りがやや雑に見えるのが不安だったのだろうか。

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覗橋 (左)新橋に比べると多少無骨な造り (右)街道はこの橋を経て上山方面へ向かう

橋の上手で、山田屋という屋号で呼ばれる古民家が公開されている。石橋群の風情を堪能した私たちは、その軒下を借りて遅い昼食をとった。「「地図中心」(下注)にコンターサークルSの記事を書きました」と真尾さんが報告する。なんでも今号は、地図関係のサークルの特集らしい。オンライン地図で何でも済ませられる時代だが、紙地図で調べ、紙地図を手にフィールドに出る人々が各地で活動しているのは頼もしい。

*注 一般財団法人日本地図センター発行の月刊誌。言及しているのは2017年5月号(通算536号)の特集「地図に集う人達」。

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山田屋の軒下で昼食休憩

石橋のことに集中していたせいか、結局私たちは、楢下宿の保存建物も名物を売る店も、ほとんど見ないまま帰ってしまった。一般的な景勝地や観光施設に何ら執着がないのもコンターサークルSの旅らしい、と言えばそうなのだが。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図上山(平成28年7月調製)、同 羽前中山(平成26年7月調製)、20万分の1地勢図仙台(平成元年編集)を使用したものである。

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2017年5月27日 (土)

コンターサークル地図の旅-石井閘門と北上運河

集合時刻の10時16分、石巻駅に到着した列車から降りてくる人波を見回したが、堀さんの姿はなかった。改札で待っていた外山さんに告げる。「乗っておられないですね。この電車は仙石東北ラインなので、塩釜では停まる駅が違うんです」。

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石巻駅
(左)仙石東北ラインの特別快速が到着
(右)駅のあちこちに石ノ森章太郎作品のキャラクター像が

コンターサークルS 地図の旅2日目の舞台は宮城県石巻市。北上運河の石井閘門(いしいこうもん)を訪ねることになっている。北上運河というのは、石巻を流れる北上川(下注)と、鳴瀬川河口に計画された野蒜(のびる)港を結ぶ目的で、1881(明治14)年に開通した長さ12.8kmの運河だ。今も使える状態で残されていて、その東端に石井閘門がある。

*注 1934年(昭和9年)完成の治水事業により、北上川本流は東の追波(おっぱ)湾へ注ぐようになったため、運河が接続する川は現在、旧北上川と呼ばれる。

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石井閘門から北上運河を西望

堀さんは塩釜市内に宿をとっているのだが、仙石東北ラインの列車は仙台から東北本線を走り、宿の最寄りの仙石線本塩釜駅を通らない。「次の10時56分着が仙石線の各駅停車なので、それかもしれません」「少し時間があるから、下見がてら運河へ行ってみますか」ということで、外山さんの車に乗せてもらって、とりあえず石巻駅を後にした。目的地まで車なら10分もかからない。

駅前から街路を北西に進んでいくと、初めて渡る橋が、その運河をまたぐ蛇田新橋だ。右折して運河沿いに走れば、突き当たりに閘門が見えてくる。脇の空地に車を停めた。ドアを開けると、思いのほか風が強い。曇り空で日差しがないため、じっとしていると肌寒いほどだ。

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石巻駅から石井閘門にかけての1:25,000地形図に加筆

運河の閘門は、水位の異なる水路間に船を通すための施設で、いわば船用のエレベーターだ。それは主として、2基のゲート(門扉)とその間のプール(閘室)から成る。仕掛けの要は、プール内の水位調節だ。水位を船が入る側の水面に合わせ、入口のゲートを開ける。船がプールに入るとゲートを閉め、プールに水を注入(または排水)して、水位を船が出て行く側と同じにする。そして出口のゲートを開けるのだ。

石井閘門は、北上川と北上運河の間を往来する船の出入口であるとともに、運河の水量調節や農業用水の取水も兼ねる施設だった。名称の由来は地名ではなく、当時の土木局長の名だという。日本で最初の煉瓦造による西洋式閘門として、2002年には重要文化財の指定を受けた。

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(左)ゲートを支える頑丈な門柱部
(右)鋼製ゲートの背後は北上川だが、目下、新しい堤防と水門の工事中

ちょうど閘門のプールの上を、道路橋がまたいでいる。せっかくの景観を分断するのはどうかと思うが、橋上に立てば、閘門を正面から観察できる。閘門の全長は50.35m、プールは幅7.15m、高さの平均4.65m(現地の説明パネルによる)。ゲートを支える門柱は煉瓦造りで、プールの側壁は石積みになっている。側壁のところどころに十字の鉄製金具が埋め込んであるのが見えるが、「船をつなぐためのものでしょうね」と外山さん。

一方、ゲートには、もともと欅の木が使われていたが、1966(昭和41)年に耐久性のある鋼製に更新された。それもあって閘門には、130年を超える歴史から想像されるような古色感はなく、現役で動いている装置が放つ生気が感じられる。

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(左)ロープを巻取る装置のようだが… (右)側壁の十字金具

一通り観察したところで、石巻駅に戻った。次に着いた列車から堀さんが降りてきたので、一行3名で再度、石井閘門へ向かった。同じように橋の上から施設全体を眺めた後、プール際に設置された説明板のほうへ案内する。表面は施設の沿革、裏側には当時の設計図面や運河の見取り図が刻まれている。

写真に収めたいところだが、堀さんが、カメラの調子が悪いと言う。フィルムカメラなのに、「昨日からフィルムの回る音がしないんですよ」。外山さんが手に取って確かめた。「Eの表示が出ていますね。エラーではないでしょうか」。何枚かすでに撮ったのなら、ここでカバーを開けるわけにはいかない。それで撮影は諦めざるを得なかった。「皆さん撮ってられますから、必要な時には提供してもらいますよ」。

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説明板には設計図面と運河の見取り図も

隣接して設けられた運河交流館は、震災で損傷を受けて今も閉鎖中だ。目の前をゆったりと流れているはずの旧北上川も、白い工事用バリケードで閉ざされて見えない。今後の高水位に備えて、現在、堤防を嵩上げする工事が行われているのだ。堤高を標高約4.5mに揃える計画だが、閘門は3.5mしかない。それで、外側に別の高堤防を築き、運河に入るための水門を新たに設けるという。川に開かれた閘門の景観は変わってしまうが、文化財保存と水害防止を両立させるには、他に策がないのだろう。

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工事用バリケードに掲げられた堤防工事完成予想図

これで訪問の目的は果たしたが、後の予定は何も決まっていない。「どっちみち塩釜方面へ戻るので」と、外山さんの好意で、北上運河の流れを追って西へ走ってもらうことになった。

北上運河は、野蒜築港計画の関連工事として建設されている。明治の初め、東北地方の産業振興を図るために水運の整備が進められたとき、まず決定すべきは、内陸水路である北上川と外洋を接続する拠点港をどこに置くかだった。地元の人々は、河口の石巻が選定されることを望んだ。しかし、調査の依頼を受けたオランダ人技師ファン・ドールンは、川から流入する土砂の堆積を理由にその案を斥け、鳴瀬川河口の野蒜を最適地と結論付けた。そこで、石巻から野蒜港まで、船が、砂の溜まる港や波高い外洋を経由しなくて済むように、運河の開削が必要になったのだ。

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北上運河周辺の1:200,000地勢図に加筆

閘門付近では、運河の周りは今やすっかり市街地化している。左岸に遊歩道があるものの、なんとなく味気ない印象の風景が続く。仙石線を乗り越すあたりから、ようやく松林が見え始めた。国道45号線と分かれた後の道沿いにも、背の高い木立が残っている。しかし、潤いの感じられる水辺の景色は、定川との合流点までだった(下注)。

*注 北上運河のうち、定川以東を北北上運河、定川以西を南北上運河という。

この後、運河はなおも西へ延びているが、一帯は浸水被害を受けて、目下復旧工事の真っ最中だ。鳴瀬川の河口では、まっさらの堤防が立ち上がり、築港跡の記念碑はその上に移設されていた。煉瓦の橋台は見つけたが、周辺の市街地跡だったところは更地のままだ。釣り人で賑わったという突堤跡が、砂浜から切り離されて波に洗われている。

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野蒜築港跡の現状
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(左)新堤防に移設された築港跡碑 (右)波に洗われる突堤跡

明治の築港事業では、最重要工事であった港口の突堤が1882(明治15)年に完成した。ところがわずか2年後に、台風の直撃に遭う。襲う大波が東突堤の一部を押し流し、残骸で港も塞がれて使用できなくなった。当時、浚渫の技術は未熟だったし、緊縮財政の中で修復予算がつく目途も立たない。結局、事業は翌1885(明治18)年にあえなく放棄されてしまったのだ。

堀さんが言う。「オランダから来たファン・ドールンは、日本の自然がどういうものかわかっていなかったようです」。昨日訪れた花渕浜の外港はこの30年後に計画されたが、同じように台風で被災し、頓挫した。そして今回の地震と大津波だ。海から絶え間なく吹きつける強風の中で、私たちは、想像を超える自然の威力との果て無き闘いに、思いを馳せた。

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野蒜築港周辺の1:25,000地形図
(左)震災以前のようす(2007年更新)
(右)同じエリアの最新図(2017年5月画像取得)

本稿は、現地の説明パネルおよび宮城県教育委員会「宮城県の近代化遺産-宮城県近代化遺産総合調査報告書」平成14年3月を参考にして記述した。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図石巻(平成22年更新)、同 小野(平成19年更新)、20万分の1地勢図石巻(平成元年編集)および地理院地図(2017年5月27日閲覧)を使用したものである。

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2017年5月20日 (土)

コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡

「JR仙石線・多賀城駅10:19集合、バスまたは車~歩き、築港工事跡の探索。」
コンターサークルS 2017年春の旅、初日となる4月30日の案内文は、これがすべてだった。

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築港軌道の第四隧道跡

旅程の知らせが届くと、現地へ赴く前にひととおり、舞台となるエリアと観察テーマの下調べをするのだが、今回ばかりはまったく見当がつかない。多賀城(たがじょう)といえば、古代陸奥の国の国府が置かれた場所だが、築港工事なんてあっただろうか。それとも、伊達藩の貞山堀(ていざんぼり)掘削と何か関係のある話だろうか。結局手がかりを見つけられないまま、ミステリーツアーに参加する気分で多賀城駅に降り立った。

史跡のイメージが強い多賀城も、今や仙台のベッドタウンだ。仙石線は駅の前後で高架化され、すっかり都市近郊の雰囲気に変貌している。改札前には、堀さん、谷藤さん、丹羽さんがすでに到着していた。さっそく堀さんに今日の行き先を聞いてみたが、「いや私もよく知らないんです。山から石を切り出して港を築いた跡らしいですが」。私の後から石井さん、外山さんも現れて、参加者は6人になった。唯一事情を知っているという石井さんの先導で、車に分乗して出発する。

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仙石線多賀城駅の高架ホーム

多賀城駅前から産業道路(県道23号仙台塩釜線)に出て、一路東へ向かった。地図で軌跡を追うと、砂押川、貞山堀を渡って、車は七ヶ浜半島のほうへ進んでいく。そして菖蒲田浜の近くの、韮山(にらやま)の麓にある広い空地で停まった。

いいお天気で日差しは強いが、海辺は風が通ってちょっと寒いくらいだ。韮山は山より丘というほうが適切で、斜面は殺風景な法枠ブロックで固められ、頂部は平坦にされて住宅が建っている。前面は、海水浴場で知られた菖蒲田浜の海岸線だが、東日本大震災で一帯が津波に襲われた後、高い堤防が新たに築かれた。

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(左)改変された韮山の斜面。石切り場の面影はない (右)菖蒲田浜の海岸線

石井さんが資料を配りながら説明する。「これは大正7年(=1918年)の河北新報の記事で、塩釜の築港工事のことが書かれています。近くの花渕浜(はなぶちはま)に外港が造られることになって、韮山から石を切り出して、軽便軌道で運んだんです。軌道の跡が少し残っているので、今日はそれを見ながら築港の場所まで行こうと思います」

1933(昭和8)年の1:25,000地形図を持参したが(下図参照)、そこに描かれる韮山はまだ宅地開発される前で、標高41.7mのいびつな円錐形をした山だ。それでも、すでに崖記号に囲まれ、東から南にかけて空地を従えている。石切り場だったと言われれば、なるほどそうだ。今は法面が大きく改変されて、当時の作業の痕跡などは見当たらなかった。

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花渕浜周辺の1:25,000地形図に加筆
破線が、米軍撮影空中写真を参考にして描いた軌道のルート
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花渕浜(花淵濱)周辺の旧版1:25,000地形図(1933(昭和8)年修正測図)に加筆
軌道関係の痕跡は、韮山の崖記号と花渕浜西方の直線路のみ

一行は東へ1km強のところにある高山の麓まで移動した。高山も海に面した小高い丘に過ぎないが、地元の谷藤さんいわく「明治の頃から外国人の避暑地だったので、ステータスは高いんです」。石井さんが、今通ってきた道路(県道58号塩釜七ヶ浜多賀城線)のほうを指差す。「あそこに切通しがありますが、道路が拡幅される前は、山側に独立して軌道の切通しが残っていたそうです」。行ってみると、道路の端より少し奥まったところに土の崖が露出している。これが軌道を通すために切り崩した跡らしい。

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(左)高山の西の切通し。軌道は、正面に見える土の崖から撮影者のほうへ直進していた
(右)道路の右側に残る土の崖が、軌道の切通し跡という

一方、私たちの背後には、それよりはるかに明瞭な痕跡が残されていた。高山の西側の低地は資材置き場になっているのだが、そこから山に向かって土の道が一直線に延びている。居座るブルドーザーが視界を遮るものの、地形から見てあの先が隧道になっているのは間違いない。

敷地に入らせてもらって進むと、一面雑草に覆われた掘割が現れ、予想通り、突き当たりに暗い空洞が口を開けていた。入口は半分土に埋もれているが、確かに人が掘ったものだ。「軌道には4本の隧道があって、これが一つ目の隧道の西口です」。中を覗き込むと、素掘りながら馬蹄形の輪郭がしっかり残っている。しかし、水が溜まって入れそうになく、奥のほうはがらくたで埋まっていた。津波が運んできたもののようだ。反対側の東口も落盤のため入れないというので諦め、私たちは、軌道の終点である花渕浜へ向けて、車を走らせた。そこにも別の隧道が眠っているらしい。

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正面のブルドーザーが置かれている道が軌道跡。直進して背後の高山を隧道で貫く
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(左)第一隧道へ向かう掘割 (右)第一隧道西口、洞内はがらくたに埋もれている

高山を切通しで乗り越えると、道路は花渕浜の突き当たりで左折するまで、丘の間の低地を直進していく。昭和8年図にはこの道はないものの、同じ位置に田んぼの中を一直線に延びる小道(地図記号としては、道幅1m以上の町村道)が描かれている。この軌道を取材した「廃線跡の記録3」(三才ブックス、2012年)によると、軌道のルートをなぞるもののようだ。

大勢の客で賑わう「うみの駅七のや」を横に見て、花渕浜の港の奥へ進むと、狭い道路の両側に車が隙間なく停まっていた。何事かと思ったら、目の前の潮が引いた浜に人が散開して、一心に砂泥を掘っている。潮干狩りに来ているのだ。私たちも、辛うじて残っていたスペースに車を置かせてもらって、歩き出した。干潟には背を向け、崖ばかり眺め回していたので、貝を採りに来た人たちには不思議な集団と思われたに違いない。

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花渕浜港で潮干狩りを楽しむ人々

浜の背後は高く切り立った海蝕崖が続いていて、その一角に小さな矩形の暗がりが見える。これも崩れてきた土砂と茂みで、下半分は埋もれた状態だ。「三つ目の隧道ですが、途中で崩落しています。」それで観察はほどほどにして、東の崖に目を向けた。そっちはもっと大きな穴がうがたれている。

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(左)軌道の終点、花渕浜に到着 (右)第三隧道東口は矩形に造られていた
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東の崖に第四隧道が口を開ける

「あれが軌道末端の第四隧道で、ほぼ完全に残ってます」。堀さんにはぜひ見てもらいたい、と石井さんが力説するので、大小の石が転がる崖の際を、足もとに注意しながら進む。右裾を波にえぐり取られていることもあって、穴は最初、いびつな形状に見えていたのだが、正面に近づくにつれて形が整い、まもなくきれいな馬蹄形をした素掘りのトンネルが姿を現した。穴を通して見る青空とテトラポットが眩しい。

「みごとですねー」と皆、感嘆の声を上げる。隧道が掘られているのは主に半固結の砂岩層で、工事は比較的容易だったのかもしれないが、建設から100年もの間、崩壊も埋没もせずによく残っていたものだ。「滑りますから気をつけて」と声をかけ合いながら隧道を抜けると、そこは堤防の外側で、石だらけの浜の先に明るい外海が広がっていた。

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第四隧道 (左)正面に立つと、きれいな馬蹄形の輪郭が現れる (右)隧道の先は外海
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軌道終点の浜に転がる石は、韮山から運ばれて来たものか?

花渕浜の築港軌道が絡んだ塩釜の第一期築港事業は、1915(大正4)年に起工されている。塩釜湾を浚渫して内港を整備するとともに、花渕浜から船入島の間、松島湾に防波堤を築いて外港とする計画だった。外港の建設は1917(大正6)年に着工されたものの、わずか4年後に台風の高波で作りかけの堤防が損壊してしまい、未完のまま、1924(大正13)年にあっけなく中止となった。

配られた河北新報の記事は、着工の翌年にあたる1918(大正7)年10月30日付で、主任技師の伊藤氏に工事の状況を取材している。

「花淵防波堤工事は漸く基礎工事に着手したるのみにて、専ら七ヶ浜韮森より石材を採集し、之を軽便軌道に依(よ)り、花淵に運搬しつゝあり。先づ南防波堤より順序として工事に取懸(とりかか)る予定なるも、完成期の如きは殆ど見込立たず」(句読点筆者)。

韮森(=韮山)から軽便軌道で石材輸送が始まったものの、進み具合ははかばかしくないと、監督のぼやく声が聞こえる。続けて、

「塩釜の港修築工事は、大正十年度内には総工事完成する計画を樹(た)て、予算の如きもこの年度割に編成したるものなれども、昨今の如く労力払底にては、果して既定計画通り工事が進捗するや否や甚だ疑問なり云々」

工事の遅れは人手不足が原因だったようだ。解説しながら石井さんがつぶやく。「「疑問なり」の後に、わざわざ「云々」って書いてるので、伊藤さんのぼやきは、このあとも延々と続いたんだと思います」。

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花渕浜の旧版1:25,000地形図を拡大
青い円内が沖へ突き出た砂浜

もし外港が計画通り完成していれば、軌道は存続して、貨物を運ぶ臨港鉄道に姿を変えていた可能性がある。実際、上記「廃線跡の記録3」には、地元タウン誌の引用として、東北本線岩切から花渕浜港へ鉄道を通す構想があったことが記されている。

「古い地形図(昭和8年図、右図参照)に、寺山から沖へ出っ張っている砂浜が描かれてますよね。」と石井さん。「これは一つ前の測量図にはないんです。壊れた防波堤が放置されて、そのまわりに砂が溜まってたのかもしれません」。稼動期間が短すぎたために、地形図にはついに記録されることのなかった幻の築港軌道。しかし、その存在が思いもよらぬ形で図上に明瞭な痕跡をとどめたのだとしたら、興味深いことだ。

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【追記 2017.5.28】
先日発売された、今尾恵介 責任編集「地図と鉄道」(洋泉社、2017年6月)の114ページ以下で、石井さんがこの築港軌道について的確な記事を書いている。軌道跡が明瞭に写る米軍撮影の空中写真や、高山の西の切通し(記事では小豆浜公園近くの切通し)の撤去前の写真なども見られる。ご参考までに。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図塩竈(平成19年更新)、同 鹽竈(昭和8年修正測図)を使用したものである。
参考にした米軍撮影空中写真は、国土地理院所蔵のUSA-M201-56(1947年4月12日撮影)、USA-M174-228, 232(1952年10月31日撮影)。

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2017年5月13日 (土)

オーストラリアの地形図-タスマニア州 II

タスマニア州の第一次産業・公園・水・環境省 Department of Primary Industries, Parks, Water and Environment が2015年4月に作成した「タスマップ地形図作成 将来の方向性 TASMAP Topographic mapping Future directions」というパンフレットがある。その中でタスマップ(下注)の将来の方向性について、次の5項目が提案されている。

*注 現地の発音はタ「ズ」マップだが、タスマニアの慣用表記に合わせて、本稿ではタスマップと記す。

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「タスマップ地形図作成 将来の方向性」表紙

1.新たに1:50,000地形図シリーズを導入する
2.新たに1:50,000タスマニア マップブックシリーズを導入する
3.1:25,000、1:50,000、1:100,000、1:250,000基本図シリーズのデジタル版を導入する
4.1:25,000および1:100,000地図シリーズの現行版を保管し、今後改訂を行わない
5.1:250,000シリーズ、国立公園・観光・レクリエーション地図、タスマニア市街地図帳の保守・製作を継続する

この方針が出された背景には、オンラインマッピングやドライビング・ナビゲーションの急速な普及と技術的進化がある。その影響下で人々は、地図上の情報が常に最新であることを期待し、そのことが紙地図需要の低迷に拍車をかける一因になっている。地図製作・供給の現場はいずこも、この状況にどう対処していくべきかという共通の悩みを抱えているのだ。

前回紹介したタスマップの1:25,000地形図は全415面あるが、製作後の経過年数は平均20年で、40%は25年以上放置されている。1:100,000図40面でも、平均経過年数は10年だ。そして地形図は、点数が多い割に大して売れない。例えば、タスマップ1:25,000図で年間販売実績が100部を越えるのは、わずか14面に過ぎない。

それなら紙地図はもう不要かというとそうではなく、タスマニアでは例えば、エマージェンシーサービス組織や、人里離れた奥地を歩くブッシュウォーカーらに、まだ根強い需要があるという。それが紙地図の全面廃止ではなく、縮尺シリーズの整理という穏当な結論につながったようだ。

2015年の方針のなかで最も興味を惹かれるのは、1:50,000地形図シリーズを新たに導入するという点だ。縮尺1:50,000は、従来のタスマップの地図体系にはなかった。更新停止となる1:25,000図と1:100,000図の「最良の機能を結合して、より良質で適切な製品を提供する」というコンセプトで開発された1:50,000地形図とは、どのような中身なのか。さっそく、タスマップの販売サイトを通じて現物を取り寄せた。

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1:50,000地形図表紙
(左)TQ08 Wellington 第1版 2015年 (右)TM06 St Clair 第1版 2015年

上記パンフレットによれば、1:50,000地形図は80面で州全域(離島のマッコーリー島 Macquarie Island を除く)をカバーする。2015年に刊行がスタートしたが、優先的に1:25,000図が在庫切れのエリアや、需要が大きいエリアの図が刊行されていて、2017年3月現在の刊行面数は23面となっている。

図郭は1:25,000と同様にUTM座標区切りで、1面で東西40km×南北30kmのエリア(面積1200平方km)を収める。用紙寸法を拡大した効果もあって、これで1:25,000図(200平方km)の6倍の面積が描けることになり、その分、面数が減ってストックの維持コストも軽くなるはずだ。

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1:50,000索引図の一部(2017年3月現在)、緑の図葉が刊行済

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1:50,000の凡例

既存の1:25,000図と、内容を比べてみよう。地図表現では、配色に目立った変化はなさそうだ。等高線間隔は日本の1:50,000と同じ20mになったが、ぼかし(陰影)が付されているので、それがない1:25,000より地勢を感じ取りやすい。ただし、1:100,000図の明瞭なぼかしに比べれば控えめだ。植生は、1:25,000で8種に分類されていたものが4種に簡素化された。森林 Forest と低木林 Scrub の高さで2種に分け、ほかに植林地、果樹園・葡萄園を区別する。

地図記号では、市町村界 Local Government Area boundary がグレーの太線で存在を主張しているのに気づくが、これは1:25,000図式の踏襲だ。1:50,000ではさらにこの線に沿って市町村名が付された。建物関連では警察署、消防署、救急施設、州立エマージェンシーサービス、病院、郵便局といった公共サービス関連の記号がカラフルなデザインで目を引く。上述のように、こうした組織内での利用が意識されているのだろう。

業務用としてはともかく、個人の山歩きなどには使えるだろうか。セント・クレア湖 Lake St Clair 周辺の図を見てみると、主要な登山道は名称ともども網羅されていた。山小屋の場所と名称も記されている。少なくともタスマップが従来出している旅行地図(下注)に描かれる対象物は、きちんと転載されているようだ。なお、旅行地図のような耐水仕様の用紙ではないので、野外での本格的な使用には注意が必要だ。

*注 参考にしたのは、タスマップ刊行の "Lake St Clair Day Walks" 2016年版。

ところで、1:100,000もそうだったが、図名に必ずしも主要地名は使われない。明確な命名基準は知らないが、図郭の中央近くにある自然地名を用いることが多いようだ。州都ホバート Hobart が載る図葉は「ウェリントン Wellington」で、これは町の背後にあるピークまたは山地 range の名だ。その北隣の図葉「グリーン・ポンズ Green Ponds」は、目を凝らして探すとジョーダン川 Jordan River 支流の小河川の名だった。

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1:50,000図 市街地の例 TQ08 Wellington 2015年 表紙を拡大
© Tasmanian Government, 2017
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1:50,000図 山地の例 TM06 St Clair 2015年 表紙を拡大
© Tasmanian Government, 2017

方針の第2項目にあるとおり、1:50,000は1枚物の折図のほかに、地図帳(マップブック Map Book) としての刊行も予定されている。州全域を301図に分け、3分冊で刊行されるという。マップブックはすでにビクトリア州、南オーストラリア州で実例があるが、上記パンフレットでは2007年製作の旧版を置き換えると書いているので、企画自体はタスマニア州が先鞭をつけていたのかもしれない(下注)。

*注 残念ながら筆者は2007年版を実見したことがない。

一方、既存の1:25,000図と1:100,000図は、オフセット印刷としては在庫限りとなるが、直販サイト TASMAP eShop(下記参考サイト)でオンデマンド印刷による販売が継続される。また、これらを含むタスマップの各縮尺図は、同じ直販サイトでデジタルファイルのダウンロード販売も行われている。これにはGPSデバイスやGISソフトで使えるGeo TIFFファイルと、グーグルアース等で開くKMZファイルの2種類がある。オンデマンド印刷の価格が55オーストラリアドルときわめて高価なのに対して、ダウンロードの価格は1件当たりわずか2ドルだ。

*注 ちなみにオフセット印刷図は9.95ドル(2017年5月現在)。

■参考サイト
TASMAP eShop  https://www.tasmap.tas.gov.au/

また、タスマップには地図閲覧サイト LISTmap(タスマニア土地情報システム Land Information System Tasmania、下記参考サイト)も用意されている。ここでは、ベースマップとしてデジタル地図のほかに、1:250,000図と1:25,000図のラスタ画像を表示できる。画像はやや鮮明さに欠けるが、読図には支障がない。

■参考サイト
LISTmap  http://maps.thelist.tas.gov.au/

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LISTmap 初期画面
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地形図画像は右上の Basemaps ドロップダウンリストの "Scanned Maps" を選択
ちなみに "Topographic" はデジタル版地形図
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左端のスケールバーで縮尺を大きくすると、1:250,000画像が表示される
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さらに縮尺を大きくすると、1:25,000画像が表示される

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 オーストラリアの地形図-タスマニア州 I

 オーストラリアの地形図-連邦1:100,000
 オーストラリアの地形図-連邦1:250,000
 オーストラリアの地形図-ビクトリア州

2017年5月 7日 (日)

オーストラリアの地形図-タスマニア州 I

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オーストラリアの地図を眺めると、大陸の南東沖に逆三角形をした島が見つかる。タスマニア島 Tasmania(下注1)だ。大陸との比較で小さな島と思われがちだが、面積は約64,500平方km(下注2)と北海道の8割強の広さがあり、周辺の島嶼とあわせて一つの州を形成している。歴史的にも、大陸の東半を占めていたニューサウスウェールズからの分離が1825年で、他の植民地に一歩先んじており、早くから独自の行政体制を整えていたことが知れる。

*注1 1856年まではヴァン・ディーメンズランド Van Diemen's Land と呼ばれていた。Tasmania の実際の発音は、タズマイニアに近い。
*注2 周辺島嶼を含めたタスマニア州全体の面積は68,401平方km。

タスマニアはまた、地形図の分野でも他州をしのぐ技術と実績を有している。オーストラリアでは1:100,000以下の縮尺図は連邦の測量機関(現在はジオサイエンス・オーストラリア  Geoscience Australia)が担当する原則なのだが、タスマニアだけは例外で、1:100,000も1:250,000も州の測量機関によって独自の体裁で作られてきた。

しかし、地形図体系の見直しという世界レベルの大波は、ここタスマニアにも押し寄せている。その結果、2015年には思い切った方針転換が発表されるに至った。豊富なラインナップを誇ったタスマニアの地形図は、今後どうなっていくのか。2015年以前の体系と以後の体系について、今回と次回で概観してみたい。

タスマニア州の測量機関は、第一次産業・公園・水・環境省 Department of Primary Industries, Parks, Water and Environment のもとで2015年に設立されたランド・タスマニア Land Tasmania だ。それまでは情報・土地サービス局 Information and Land Services Division と称していた。

官製地図のブランドである「タスマップ(タズマップ) TASMAP」は、民間とは一線を画した高品質な地図製品をユーザーに認識してもらうとともに、組織変更による影響を避ける目的で、1973年に初めて導入された。このアイデアは他州政府にもすぐに取入れられて、ビクマップ VICMAP(ビクトリア州)やサンマップ SUNMAP(クイーンズランド州)が誕生している。

州全域(離島のマッコーリー島 Macquarie Island を除く)をカバーする最大縮尺図は1:25,000で、全部で415面ある。タスマップの公式サイトによれば、このシリーズは「行政や産業用および一般用途の重要な資料である。環境管理、緊急事態管理、農場設計、鉱物探査に使われる。また、ブッシュウォークやマウンテンバイク、乗馬などのレクリエーションのユーザーにもおなじみである。」

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1:25,000地形図表紙
(左)旧版 4038 Cradle 第1版 1986年 (右)新版 5225 Hobart 第4版 2008年

図郭はUTM(ユニバーサル横メルカトル)座標系で区切るもので、1面に東西20km×南北10kmの範囲を収める。地図用紙としてはかなり横長になる。これに対して1:100,000の図郭は、経緯度で区切る国際図に準拠しているため、両者の間には全く整合性がない。デジタル図で主流になったUTM座標系の図郭を早くから採用した先見性に驚かされる一方、各縮尺間で図郭や図番が体系化されていないため、地図を選ぶときに不便なのも事実だった(下注)。

*注 次回紹介するが、新1:50,000でもUTM座標系の図郭が踏襲されている。

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1:25,000索引図
図中の青枠が1:100,000図郭で、1:25,000図郭とは合わない
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1:25,000図の例 5225 Hobart 2008年
© Tasmanian Government, 2017

1:25,000図は、全国をカバーする大縮尺基本図として、1970年代後半から整備が始められた。上の表紙画像で左側の黄色地のものは2003年以前の旧版で、旧測地系 AGD66に基づいている。右側のタスマニアのレリーフ地図を強調したデザインは、2003年以降の新版だ。測地系が新しい GDA94に切り替えられたため、旧版との間に生じるずれを埋める必要があった。それで図面には、上縁および右縁に隣接図との重複部分が設けられ、いわゆる裁ち落としの体裁が取られた。

等高線は日本の1:25,000と同じ10m間隔で、地形の詳細とともに、所有地や土地区画などの地籍情報も表示されている。地図記号では道路を、常用として維持されるものと、利用制限のあるものに分類するのがユニークだ。前者は実線の記号、後者は破線が用いられる。また、舗装の有無は赤と橙の色で区別する。キャラバンパークやキャンプ場と並んで、公共トイレ、ごみ箱設置場所の記号が定義されているのもおもしろい。

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1:25,000図の凡例

残念ながら1:25,000は更新停止の断が下されたため、オフセット印刷図の販売も在庫限りで終了する。品切れになった図葉はオンデマンド印刷で対応するとともに、デジタルファイルでの供給もすでに実施中だ。なお、1:25,000はタスマニア土地情報システム Land Information System Tasmania (LIST) のベースマップとして、ウェブサイトでの閲覧も可能になっている(次回詳述)。

冒頭でも述べたように、1:100,000と1:250,000も州が連邦に代わって製作していた。「タスマップと地図作成の歴史 History of TASMAP and Mapping」(タスマップ公式サイト)はその経緯について、「連邦が1:100,000縮尺を採用したとき、タスマニアには包括的な航空測量計画と地図作成能力があった。そこで、全国シリーズの中でタスマニアの全ての地図を編集し印刷するという協定に至った。1:50,000地形図シリーズに置換えられた2015年まで、タスマニアはこのシリーズの製作を継続した。タスマニアを完全にカバーする小縮尺図は縮尺1:250,000で提供され、現在も維持されている」と述べている。

1:100,000は、州全域を41面でカバーする(マッコーリー島を除く、下注1)。かつては北東沖のフリンダーズ島 Flinders Island と周辺島嶼が4面に分かれていたが、1面にまとめられた。標準図郭は経度30分、緯度30分の縦長判だ。等高線間隔は20mで、繊細なグラデーションのぼかし(陰影)が入れられ、植生を表す緑の塗りとともに、地勢が美しく浮かび上がる。連邦製作の1:100,000に比べても、描画技術は一段上だ(下注2)。

*注1 8512 Maria 図葉が索引図から消えたため、入手できるのは40面。
*注2 連邦1:100,000との比較については「オーストラリアの地形図-連邦1:100,000」も参照。

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1:100,000地形図表紙
1:25,000の4桁図番と混同されないように、タスマニア1:100,000の表紙には図番の記載がない(背表紙にのみ記載される)。
(左)Derwent 第5版 1987年 (右)South Esk 第5版 2007年
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1:100,000図の例 8315 Pipers 2000年
© Tasmanian Government, 2017

連邦図とタスマニア図の相違点は、他にもある。表紙デザイン、地図の折り方、そして折ったときのサイズもそうだ。連邦図の折り方には変遷があるものの、折った状態では横10cm×縦25cmの縦長サイズだ。一方、タスマニア図は、縦長の用紙を横5ツ折、縦4ツ折にするため、横11.5cm×縦17.5cmとコンパクトサイズになる。

図名の付け方もおもしろい。連邦図は図郭内の主要地名を用いるオーソドックスな命名法だが、タスマニア図は都市や集落名ではなく、河川、湖沼、湾、山、岬、島といった自然地名を採用する。例えば、州都ホバート Hobart が載っているのは川の名から採った「ダーウェント Derwent」図葉で、都市はその河口にある。第二の都市ロンセストン Launceston も同じく川の名の「パイパーズ Pipers」図葉の範囲内だが、こちらはパイパーズ川の流域にはない。表紙の右上にその図葉に含まれる主要地名が列挙されているのは、直観的な図名でないことへの対策でもあるだろう。

連邦が1:100,000印刷図の改訂を停止したことに伴い、タスマニアも1:100,000の更新維持を断念した。

一方、1:250,000は、縮尺を連邦と揃えているものの、内容はタスマニアのオリジナル図と言い切ってよい。図郭からして連邦の標準を無視し、2倍近くある大判用紙を用いて、州全域をわずか4面でカバーする(マッコーリー島、キング島 King Island 等は挿図)。表紙デザインや折寸も独自なら、図式もほぼ独自仕様だ。

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1:250,000地形図表紙
(左)South East 第1版 1990年 (右)North East 第4版 2010年
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1:250,000索引図

等高線が100mと連邦図の50mに比べて粗いものの、ぼかしと段彩の組合せで補われている。かつては高度で色を分ける段彩だったが、現行版は色を緑から茶色へ連続的に変化させて、より滑らかな立体感を実現している(下図参照)。植生の表現は省かれており、地勢表現に徹する形だ。道路には道路番号とともに区間距離が添えられ、道路地図の機能も併せ持つ(下注)。注記は隣接図にまたがって配置され、4面を接合して大きな壁掛け図 Wall map にできるよう設計されている。

*注 1:100,000にも同じように区間距離が描かれている。

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1:250,000図の例
(上)North East 1980年(下)North East 2010年
© Tasmanian Government, 2017

ランド・タスマニアの発表によれば、1:250,000は今後も維持され、4年間隔で改訂されることになっている。またLISTでも無償のデジタル版として提供され、この点は連邦と歩調を合わせているようだ。

これが2015年以前の地形図体系だ。結局、既存縮尺では、1:25,000と1:100,000が廃止、1:250,000だけが存続ということになる。次回は、ランド・タスマニアが提案する地形図体系の今後の方向性について、新たに開発された1:50,000シリーズを含めて紹介したい。

■参考サイト
ランド・タスマニア  http://dpipwe.tas.gov.au/land-tasmania
タスマップ TASMAP  http://dpipwe.tas.gov.au/land-tasmania/tasmap

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2017年4月29日 (土)

オーストラリアの地形図-ノーザンテリトリー

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巨大な岩山で知られるウルル Uluru(英語名エアーズロック Ayers Rock)にカタジュタ Kata Tjuta(ジ・オルガズ The Olgas)、原生林と滝と断崖のカカドゥ Kakadu。大自然の中に彫り出された絶景は、オーストラリアの観光スポットとして必ず挙がる名だ。大陸縦断列車「ザ・ガン The Ghan」の運行に伴って、拠点都市ダーウィン Darwin やアリススプリングズ Alice Springs の地名を耳にすることも少なくない。これらはみなノーザンテリトリー Northern Territory(北部準州)の域内にある。

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ウルル(エアーズロック) 1:100,000特別図 Uluru-Kata Tjuta National Park 第2版 1996年 (×2.0)
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

ノーザンテリトリーは、大陸中央部の北半分を占めている。連邦直轄地として1911年に領域が確定されたのち、短い南北分割期間を経て、1931年に再合併されて今に至る。1978年に自治権を与えられたが、日本の4倍近い面積に対して人口はわずか24万人だ。

地図作成はインフラストラクチャ・プランニング・ロジスティクス省 Department of Infrastructure, Planning and Logistics の所管とされている。2000年当時の古いデータで恐縮だが、域内の地形図の種類とカバーする範囲は以下の通りだ。

1:1,000,000:連邦 AUSLIG(現 ジオサイエンス Geoscience)所管、全域をカバー
1:250,000:連邦 AUSLIG 所管、全域をカバー
1:100,000:連邦 AUSLIG 所管、全域をカバー、ただし内陸部は編集原図のコピーを提供
1:50,000:連邦 AUSLIG 所管(製作は王立オーストラリア測量隊 Royal Australian Survey Corps)、北岸(主に南緯17度以北)およびスチュアート・ハイウェー Stuart Highway(=南北縦貫道)沿線で作成

他に1:25,000はダーウィン地域 Darwin Area、キャサリン Katherine、アリススプリングズおよびマリー川地域 Mary River Region で、1:10,000がダーウィンおよびアリススプリングズで作られているとされる。

このうち連邦所管の地形図の多くはネット公開されているので、いつでも図上遊覧ができる。冒頭に挙げた地域を地形図で追ってみよう。

ウルルを描いた1:100,000図は、上に掲げた。この地域では、1:100,000区分図(5047 Mount Olga および 5147 Ayers Rock)が編集原図のコピーで頒布されているが、それとは別に特別図「ウルル=カタジュタ国立公園Uluru-Kata Tjuta National Park」が作られている。掲げた画像はその一部だ。ウルルの山体には濃いめのぼかし(陰影)がかけられ、ボリュームのある形状が浮かび上がる。西麓から頂上へ直登する登山道や、有名な夕景を眺める場所(図の左上に Sunset Viewing Areaと注記)も描かれている。

一方、カタジュタはウルルの西25kmに位置する。36個の岩山から成るといわれ、図上でもかなりの数の閉じた等高線が確認できる。同じ1:100,000特別図の一部だが、こちらは50%縮小で表示しているので、距離感覚にはご注意を。

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カタジュタ(ジ・オルガズ) 1:100,000特別図 Uluru-Kata Tjuta National Park 第2版 1996年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

トップエンド Top End(下注)にあるカカドゥ国立公園からは、ジムジム・フォールズ Jim Jim Falls とツイン・フォールズ Twin Falls の周辺の1:100,000地形図を切り出してみた。図右下はジムジム・フォールズの部分を2倍拡大したものだ。この一帯は比高200m前後の断崖が連なり、滝はそれを切り裂くように懸かっている。また、周辺を覆う薄緑のドットパターンは、密度が中程度の植生を表す。掲載範囲外には、植生の平均高2mという注記が見られる。

注:トップエンドは、ノーザンテリトリー北端の半島部分を指す。

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ジムジム・フォールズとツイン・フォールズ 1:100,000 5471 Jim Jim 1990年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

港町ダーウィンはノーザンテリトリーの州都で、最大の都市でもある。1:250,000旧図(1962年編集)では、湾に突き出した旧市街の傍らから、3フィート6インチ(1067mm)軌間のノース・オーストラリア鉄道 North Australia Railway(NAR、1976年休止)が内陸に延びる様子が描かれている。一方、新図(2004年版)の鉄道は、ザ・ガンが走る大陸縦断のアデレード=ダーウィン鉄道 Adelaide - Darwin Railway(図では ALICE SPRINGS DARWIN RLY と注記) だが、ダーウィン駅も通るルートもNARとは全く異なる。この図の範囲では、NARの廃線跡が道路として利用されているようだ。

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ダーウィンとその周辺 1:250,000 SD52-04 Darwin 1963年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0
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ダーウィンとその周辺 1:250,000 SD52-04 Darwin 2004年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

アウトバックのど真ん中に位置するアリススプリングズは、アデレード=ダーウィン鉄道の中継基地であり、ウルル=カタジュタ観光の出発地としても知られる。旧図は1958~62年の編集で、1968年に赤色で訂補が入った版だ。地勢の概観は、等高線を用いずぼかし(陰影)のみで表現されている。鉄道は、かつてアデレードとこの町を結んでいた1067mm軌間のセントラル・オーストラリア鉄道 Central Australia Railway だ。

一方、下の新図(2002年版)の地勢表現は等高線のみなので、旧図とは見かけが大きく異なる。40年の間に市街地は拡大し、アデレード=ダーウィン鉄道(gauge 1435mm と注記)も登場したが、駅の位置は動いていないようだ。

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アリススプリングズとその周辺 1:250,000 SF53-14 Alice Springs 1977年(1958, 62年編集、1968年修正)
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0
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アリススプリングズとその周辺 1:250,000 SF53-14 Alice Springs 2002年
© Commonwealth of Australia (Geoscience Australia) 2017. License: CC-BY 4.0

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2017年4月25日 (火)

オーストラリアの地形図-西オーストラリア州

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南オーストラリアが英語で "South" Australia であるのに対して、西オーストラリアは "Western" Australia になる。名称はスワン川植民地 Swan River Colony を改称した1832年から使われていて、南(1836年)よりわずかながら先輩だ。州は大陸の西側1/3を占めている。面積253万平方kmで日本の約7倍、世界でも2番目に大きな行政区だそうだ。約260万人の人口の約8割が、州都パース Perth と周辺の都市圏に集中する。オーストラリアの輸出量の6割近くを産出するという大規模鉱業もそこに地域本部を置く。

地形図を所管しているのは西オーストラリア州土地情報局 Western Australian Land Information Authority だが、「ランドゲート Landgate」というブランド名で呼ばれることが多い。それ以前は土地情報省 Department of Land Information (DLI) で、さらに遡れば1829年創立の測量総局 Surveyor-General's Office を起源とする歴史ある組織だ。

筆者は2003年にDLIに地図事情を問い合わせたことがある。当時、州製作の地形図は縮尺1:1,000,000(R313シリーズ)9面で全域をカバーしていたものの、1:100,000や1:250,000はなく、連邦 AUSLIG(現 ジオサイエンス Geoscience)の刊行図が案内されていた。より大縮尺の1:25,000や1:50,000は、パースを含む南西岸をかろうじて固める程度の刊行状況だった。

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地形図索引図の一部

それに比べれば、近年のランドゲート製品の充実ぶりは目を見張るものがある。地形図はWA トポ(トポ Topo は地形(図)を意味する Topographic の略)と呼ばれ、広大な州全域を1:25,000、1:50,000、1:100,000のいずれかでカバーしている。ここ10数年で整備されてきたので、座標系はすべてGDA94に統一されている。

縮尺別に見ていこう。まず1:25,000の製作範囲は、人口が集中するパースメトロ(都市圏)Perth Metro やサウスウェスト(南西地区)South West が中心だが、それだけでなく内陸部にも相当数が点在している。おそらく人が活発に動いているエリアはすべてカバーしているのだろう。図郭はUTMグリッドで区切られ、経度緯度とも7分30秒相当の範囲を収める。1:50,000のそれを縦横2等分したエリアだ。等高線間隔は地勢に応じて10mまたは20mになっている。

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1:25,000図(暫定版 provisional)の例
2034-II-SW Perth 2011年
© Western Australian Land Information Authority (Landgate), 2017

対して1:50,000の整備範囲は、南西部の1:25,000エリアの外縁に加えて、天然資源開発が盛んな北西部にも拡大されている。AUSLIGの同縮尺図とほぼ重なるので、その成果を引き継いでいるのかもしれない。図郭はUTM区切りで、経度緯度とも15分相当だ。改訂頻度は、パース都市圏は毎年、地方の中心地では2~5年毎とされている。

1:25,000、1:50,000図のないエリアでは、1:100,000が作成されている。

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1:50,000図の例
2434-4 Kellerberrin 2014年
© Western Australian Land Information Authority (Landgate), 2017

地図記号はどうか。1:50,000図で見ていくと、道路の記号は他州とさほど変わらない。国道 National Highway、主要道 Main Road とそれ以外(Minor Road など)とが色で分けられ、舗装の有無は実線か破線で区別される。興味深いのはその後で、建物記号では、固有のデザインが充てられるのは教会 Church と電波塔 Communication Tower だけだ。他は、点または矩形の単純形で片付けられてしまう。注記を伴いさえすれば、記号に凝る必要はないということだろうか。水部記号では、乾燥気候でふだん水は涸れている non-perennial ものらしく、すべて破線が使われる。同じ理由で、植生の記号がまったくない。

一方、土地利用は色の塗り分けで示され、市街地はレモンイエロー、工業地域はライラック、公園やゴルフ場はアップルグリーンだ。ゴルフ場はさらにミントグリーンを使ってコースが明示されている(上記1:50,000図ではケラーベリン Kellerberrin 市街地北方の小山の周囲に見える)。

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1:50,000の凡例

ランドゲートは、オフセット印刷図を全廃してしまった。現在、供給方法は地理参照型PDFファイル(CD焼き付け)か、オンデマンド印刷になっている。パース近郊フリーマントル Fremantle の地図商はそのショッピングサイトで、印刷図でも自社にある大判プリンタで出力するから速く届けられる、と言っている。販売店にとっては収納スペースも在庫チェックも不要なので助かるはずだ。にもかかわらず、1面あたりの価格が前者で12.39豪ドル、後者では26ドルというのはいささか高く、利用者にはデジタル化の恩恵があまり届いていない。

ランドゲートの地形図は、同局公式サイトからリンクしている "Map Viewer" という地図サイト経由で直接発注できるほか、西オーストラリア州の地図商でも扱っている。「官製地図を求めて-オーストラリア」の発注の項を参照。

■参考サイト
ランドゲート Landgate  https://www.landgate.wa.gov.au/
Map Viewer https://uat.landgate.wa.gov.au/bmvf/app/mapviewer/

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