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2019年4月20日 (土)

新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I

東日本大震災の未曾有の津波で線路が寸断され、長らく不通になっていた宮古(みやこ)~釜石(かまいし)間が、2019年3月24日、8年ぶりに復旧した。もとはJR山田線の一部だったが、第三セクターの三陸鉄道に移管され、復旧済みの北リアス線、南リアス線とともに「リアス線」を構成しての再出発だ。新生リアス線は盛(さかり)から久慈(くじ)まで163.0km、JR以外では最長の路線になる。

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閉伊川(へいがわ)を渡るリアス線の気動車

さっそく4月初めに初乗りを試みた。せっかくの機会なので、移管区間だけでなく、三陸海岸を北から南へ乗り通したい。日程の都合で、BRTで運行されているJR気仙沼線(陸前戸倉~気仙沼間が三陸海岸に沿う)は割愛せざるを得なかったが、八戸から気仙沼まで、営業距離にして271.6kmを2日かけて旅してきた。

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三陸鉄道リアス線とその周辺の鉄道路線図

朝9時21分、八戸で「はやぶさ」1号を降りた。新幹線改札を出て、JR八戸線の発着ホームへ向かう。4月にしてはかなり冷える日で、断続的に降る雪が風に舞っている。停車しているのはE130形の2両編成、ローカル線も車両更新が進んで、ずいぶん快適になったものだ。定刻に発車すると、鈍色の空と雪景色の中、列車は時速40kmでとろとろと走っていく。

鮫(さめ)駅で、後から来る久慈行きに乗り継ぐとまもなく、ウミネコの大群が岩場を覆う蕪島(かぶしま)が見えてきた。ここからは太平洋の大海原が旅の友になり、左の車窓に砂浜と岩礁が交互に現れる。

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(左)雪が舞う八戸駅に停車中の八戸線E130形気動車
(右)車内、各ボックスに1組は乗っている
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(左)ウミネコの島、蕪島を車窓に見る
(右)サミットの侍浜駅では冬に逆戻り(後方を撮影)

陸中八木を過ぎると、線路が徐々に高さを増してきた。列車は海岸を離れ、トンネルを立て続けにくぐって、小さな谷に分け入る。周りは銀世界に戻り、サミットの侍浜(さむらいはま)駅では雪も激しくなって、あたかも雪中行軍の様相になった。坂を下って、久慈駅到着11時46分。乗客は入れ替わりがあったものの、終点まで乗り通した人も多かった。

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久慈駅 (左)八戸線ホーム (右)JR駅舎

この久慈駅で、三陸鉄道(以下、三鉄)リアス線と接続する。ホームは駅舎側の1・2番線をJR、線路を隔てた3番線を三鉄が使っているが、駅舎は両者別々だ。JRから三鉄へ乗り継ごうとすると、まず構内踏切を渡ってJR駅の改札からいったん表へ出る。そして三鉄駅に回り、跨線橋を渡って3番線へ、という回りくどいルートを強いられる。お年寄りや荷物のある人には、決して優しくない迂回路だ。中間改札のように、歩く距離をもっと短縮する方法を考えるべきではないだろうか。

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三鉄久慈駅舎
(左)正面玄関 (右)掲示物が所狭しと貼られた出札窓口

朝ドラ「あまちゃん」のロケ地にもなった三鉄の駅舎の中は、ポスター、色紙その他掲示物が所狭しと貼られている。公式サイトでは見つけにくいお得切符も、いろいろ売られていることがわかった。たとえば、

リアス線全線フリー乗車券」 土休日に発売、2日間有効 6,000円

1日フリー乗車券」 土休日のみ1日間有効、3区間に分けて発売。盛~釜石2,500円、釜石~宮古2,300円、宮古~久慈2,500円

片道途中下車きっぷ」 通年発売、片道切符だが途中下車ができる。価格は同区間の普通乗車券と同じ、たとえば盛~久慈間3,710円(有効2日)。ほかに盛~宮古(有効1日)、釜石~久慈(同2日)、宮古~久慈(同1日)の設定あり

ただ、これらのお得切符は自販機では扱っていない。そのため、有人窓口が閉まっている時間帯は買えないから、注意が必要だ(下注)。

*注 2019年4月現在、三陸鉄道の公式サイトには新線の情報がほとんどない。お得切符についても「最新情報」の過去項目に埋もれている。

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久慈駅南方の三鉄車庫、リアス線が右奥に延びる

片道途中下車きっぷを作ってもらい、駅舎内のそば屋「リアス亭」で売っている1日20食限定の名物「うに弁当」(1,470円)も運よく入手して、乗車準備はすべて整った。ホームに出ると、白地に赤青の帯を引いた2両編成の気動車が客待ちしている。2両編成の車内は、八戸線より乗客は減って、座る人のないボックスもある。宮古~久慈間は従来の北リアス線(下注)だが、ざっと見渡したところ、大半が地元客ではなく旅行者のようだ。通学を除けば、日常の移動で列車が使われることは少なくなってしまった。

*注 三陸海岸の北部は、地形としては隆起海岸であって、リアス海岸(沈水海岸)には該当しない。

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(左)久慈駅リアス線ホーム
(右)36-700形の車内、人のいないボックスも散見
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リアス線開通を祝うヘッドマークとステッカー

12時08分発車。列車は最初山間部を走り、トンネルで小さな峠を越える。雪が降りしきる中、陸中野田で列車交換があった。野田玉川まで来ると高度がかなり上がり、松林の間から覗く海は遥か下になる。線路は荒波が洗う海岸線を避けて、段丘面を渡っていくが、深く切れ込んだ谷が随所で行く手を阻んでいる。

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陸中野田で下り列車と列車交換

それを一気に跨ぎ越す橋梁の一つが、長さ302mの安家川(あっかがわ)橋梁だ。PCトラスの壮大な鉄橋は、大海原を俯瞰する北リアス線屈指のビュースポットにもなっている。車内に案内のアナウンスが流れ、列車は徐行どころか、1~2分橋の上で停車して、ゆっくり眺める時間を与えてくれた。

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安家川橋梁を渡る(後方を撮影)

堀内(ほりない)駅を出ると、もう一つの絶景、長さ176mの大沢橋梁にさしかかる。夏ばっぱが大漁旗を振って春子を見送った小さな浜が、眼下に見える。ここも同じように停車してくれるから、名シーンを思い返す時間はたっぷりある。一方、山側には国道45号線のアーチ橋、堀内大橋が架かっている。その橋のたもとから鉄橋を渡る列車をねらうのが、あまちゃん以前から、三鉄の鉄道写真の定番だ。この列車も誰かのカメラの被写体になったかもしれない。

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大沢橋梁からの太平洋の眺め
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国道の堀内大橋を通して、春まだ浅い山里が見える

旧 北リアス線の見どころは、だいたいここまでだろう。国鉄久慈線時代の終点だった普代(ふだい)を出ると、まるで地下鉄かと思うようなトンネルの連続区間に突入するからだ。三鉄の長大トンネルのベスト3、すなわち北から順に、普代トンネル(4,700m)、小本トンネル(5,174m)、真崎トンネル(6,532m)がこの間に集中している。

車窓に目を向けても自分の顔しか映らないので、久慈から手を付けずにいた「うに弁当」の包みを開けた。鮮やかな色の蒸しウニが表面を埋め尽くし、ご飯が見えないのは確かに感動的だ。そのご飯もウニの煮汁で焚いたものだという。旬には少し早いからか、ウニはほぐし身のようなものだったが、それでもほおばると、口の中が濃厚な香りで満たされた。ネット情報によれば、リアス亭で作り売りしているのは、夏ばっぱのモデルになった人だそうだ。

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三鉄名物「うに弁当」
(左)三鉄久慈駅舎の「リアス亭」で販売 (右)包みを開ければうに尽くし

宮古駅には13時54分に到着した。製鉄所やラグビーで知られた釜石に比べて、全国的な知名度がやや劣るとはいえ、宮古は岩手県の三陸海岸で最大の町だ。駅も中心街に隣接していて、川向うに町が離れた釜石駅より活気がある。

宮古~釜石間が移管されたが、今も宮古駅は、JR山田線盛岡方面との接続駅だ。久慈駅と同じように、JR駅舎の隣に三鉄駅舎が建っている。しかし扉が閉まり、張り紙がしてあった。読めば、移管を機に業務をJR駅舎に移したという。なるほどJR駅正面の表札をよく見ると、三鉄とJRのロゴが仲良く並ぶ。三鉄はJRの駅業務を受託したので、みどりの窓口も今までどおり開いている。

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宮古駅
(左)JR駅舎はこの春から三鉄と共同使用 (右)もとの三鉄駅舎は閉鎖

JRに乗継ぐ乗客は、いったん外改札で三鉄内の精算をして、改めて駅舎内の改札からJRの乗車券で入るように誘導される(逆も同じ)。それでも、JR駅内での移動なので、久慈駅のような大回りにならない。JRと接続する他の駅もこうすればいいのに、と思う。

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宮古駅構内、奥の車両はキットカットの応援ラッピング車
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宮古駅構内につどう車両群、三鉄車の他に山田線を走るJR車両も

さて、宮古で接続列車に乗れば、暗くなるまでに気仙沼までたどり着けるのだが、今日は釜石で泊ることにしている。それで列車を1本遅らせて、駅の周りを観察することにした。開通から2週間近く経ち、お祝い気分もすっかり抜けた後かと思ったが、そうでもない。

駅には、岩手日報が無料配布した3月24日付の開業特集号がまだ残っていた。当該区間の宮古、陸中山田、大槌、釜石の4駅で配り、それぞれの表紙をつなげると続き絵になるというものだ。見開きページに、自作の応援メッセージを掲げた沿線の人たちの笑顔が溢れている。また、跨線橋でつながっている駅裏の市民交流センターでは、開通を記念して新旧の鉄道写真のパネル展示が行われていた。見入っている人はもう誰もいなかったが、行きずりの者にも、復旧の日を迎えた高揚感と熱気の余韻が伝わってくるようだ。

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(左)市民交流センターの鉄道写真展示
(右)岩手日報の開業特集号

とこうするうちに、釜石行き列車の出発時刻が近づいてきた。そろそろ駅に戻らなくては。

次回は、その開通区間を旅する。

■参考サイト
宮古駅付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.639850/141.947300

三陸鉄道 https://www.sanrikutetsudou.com/
同 リアス線特設ページ https://www.sanrikutetsudou.com/rias-line/

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 新線試乗記-仙石東北ライン
 新線試乗記-仙台地下鉄東西線

 2019年開通の新線
 新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間

2019年4月14日 (日)

新線試乗記-おおさか東線、新大阪~放出間

おおさか東線は、既存の城東貨物線を利用して、新大阪駅と関西本線(愛称 大和路(やまとじ)線)の久宝寺(きゅうほうじ)駅を結ぶ20.3kmのJR路線だ。2008年3月15日に、南側の放出(はなてん)~久宝寺間が先行開通していたが(下注)、今回、北側の新大阪~放出間が完成して、2019年3月16日に開業の日を迎えた。関西での新線開業は、2009年の阪神なんば線以来10年ぶりだ。

*注 放出~久宝寺間については「新線試乗記-おおさか東線、放出~久宝寺間」参照。

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淀川橋梁を渡るおおさか東線の普通列車
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おおさか東線(新大阪~久宝寺)は図中央の「F」で示されたルート

新大阪では、地上の2番線がおおさか東線の発着に充てられた(下注1)。同じホームの反対側1番線には、関西空港から京都へ向かう特急「はるか」が入ってくる。このホームを捻出するために、長い間、発着番線の移設工事が続いていたのも昔話になってしまった(下注2)。

*注1 奈良行き直通快速は1番線を使用する。
*注2 このホームはもと特急「はるか」と北陸方面の特急「サンダーバード」が発着し、11、12番線を名乗っていた。

訪れたのは月曜日。エスカレーターを降りると、久宝寺行き普通列車、うぐいす色の201系ロングシート車が停車していた。奈良まで長征する1日4往復の直通快速のほかは、すべてこの各駅停車だ。車両は関西本線(大和路線)で見慣れているが、側窓の下半分が「おおさか東線全線開業」のシールで覆われているところがいつもと違う。それに編成中1か所だけ、若草山を背景に興福寺五重塔と鹿の群れをあしらった、ささやかなラッピングシールが貼られている。さらに、後で目撃したが、八尾市の市制70周年を兼ねた開業記念ヘッドマークをつけた編成もあった。

カメラやスマホを手にした人が入れ代わり立ち代わり車両の前に立つのは、新線らしい光景だ。一方、車内は落ち着いたもので、早や普段使いで乗っているように見える。6両編成、15分間隔の頻発運行で、ロングシートがそこそこ埋まる程度の乗客数がある。昼間でこれなら、朝夕は混むのだろう。放射状路線ほどの集中度はなくても、市街地を通る環状ルートにはやはり潜在需要があるようだ。

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(左)新大阪駅のおおさか東線ホーム 1番線は直通快速、2番線は各駅停車
(右)ささやかな全線開業のラッピング
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沿線の八尾市提供のヘッドマークをつけた列車も

発車時刻が来たので、その普通列車に乗り込んだ。新大阪を出ると、右手の東海道本線(JR京都線)と並行に、まずは京都方へ進む。感覚的には上り列車だが、新大阪が起点なので、下りになるという。しかし列車番号は偶数、すなわち上りの番号を付けている。それでかどうか、駅の案内では敢えて上り下りに言及しない。

すぐに東淀川駅だが、おおさか東線にはホームがなく、あっさりと通過する。神崎川のトラス橋(上神崎川橋梁)を渡り終えたところで高架に駆け上がり、同時に右に旋回して東海道線をまたいだ。最初の停車駅、南吹田(みなみすいた)はこの急曲線の途中にある。駅の北側に広場が造成され、かつて灌漑に用いたドンゴロス風車のモニュメントも設置されて、今回開業した新駅の中で最も力が入っている。

駅を出ると、再度神崎川を渡るトラス橋だが、まだ曲線は続いていて、内側の線路脇にR280(半径280m)の標識が見える。渡り終えたところで、吹田操車場から来る線路と合流した。これが本来の城東貨物線で、今通ってきた急曲線の線路は、既得の土地に新しく建設されたものだ。

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南吹田駅
(左)新規開業駅で唯一駅前広場がある (右)ドンゴロス風車のモニュメント
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急曲線の神崎川橋梁を渡ってくる電車
南吹田駅ホームから撮影

新幹線の高架をくぐり、阪急の千里線と京都線をまたぐと、JR淡路(あわじ)に停車する。駅の設備は高架下にあるが、周囲は住宅街で、駅前広場を設ける余地はない。300mほど西へ歩くと阪急の淡路駅で、こちらは今、立体化工事のまっ最中だ。完成すれば阪急が、逆にJRの上空を乗り越すようになる。

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JR淡路駅
(左)高架下に駅舎を配置 (右)ホームは比較的余裕がある

おおさか東線の沿線風景のハイライトは、何と言っても淀川を渡る長さ611mのトラス橋だろう。1929(昭和4)年の架橋で、小ぶりの下路ワーレントラスを18個連ねたさまは壮観だ。正式名称は淀川橋梁というのだが、左岸の地名にちなみ、地元では赤川(あかがわ)鉄橋の通称で親しまれてきた。複線仕様で造られた橋に対して、貨物線は単線だったので、空いている片側が長らく、両岸をつなぐ生活道路として利用されていたからだ。

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淀川橋梁は沿線風景のハイライト
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回送の電気機関車も渡る

新線の着工前に一度、実際に歩いて渡ったことがある。あくまで仮橋の扱いとあって、路面は鉄板敷き、高欄は木組みの簡易な造りで、幅はわずか1.8mと人がすれ違える程度の広さしかなかった。バイクは通行不可で、自転車も降りて渡るよう立札があるものの、距離が長いので従っている人は誰もいない。さらにジョギングコースにしている人も少なからずいるようで、生活に溶け込んだ橋の存在を感じることができた。

淡路駅で降りたついでに、久しぶりに川の堤を上ると、旅客新線を通すというのに、鉄橋は上塗りが剥がれ、赤白まだらの、まるで廃橋のような姿で使われていた。再塗装に予算が回らなかったか、まだ必要ないと判断されているのかはわからないが、新しく架けられた他のトラス橋に比べると、ちょっとみすぼらしい(下注)。

*注 赤川鉄橋の北詰にあった亀岡街道踏切は廃止され、すぐ脇にアンダーパスが造られていた。

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淀川橋梁の現在と過去
(左)複線が敷かれた橋梁 (右)赤川仮橋があった頃(2013年3月撮影)

淀川を渡り終えれば、次は城北公園通(しろきたこうえんどおり)だ。すぐ南で交差する街路の名を採っているのだが、公共交通としては市バスしかなかったエリアにとって、待望の鉄道駅だ(下注)。西側の小さな商店街には蕪村通りの名があった。旧 毛馬村が与謝蕪村の生誕地であることにあやかっているのだが、このあたりで昔の風情を偲ぶのは難しい。

*注 ただし、城北公園通を通る市バス(大阪シティバス34号系統)は梅田に直結し、かつ頻発しているので、鉄道より便利なのは間違いない。

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城北公園通駅
(左)自転車置き場はすぐ満杯になりそう (右)蕪村通り商店街にも祝いの横断幕が
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高架の足回りは貨物線時代のまま

しばらくは直線区間だが、先頭車両のかぶりつきで見ていると微妙に曲がっていて、定規で引いたような南区間とは様子が違う。南区間はかつて、近鉄大阪線を乗り越した後、地上を走っており、旅客線化に伴い複線高架を新たに立てた。それに対して、北区間はもともと築堤上の単線で、基本的に腹付けにより複線化したので、まっすぐとはいかなかったのだろう。ちなみに大阪市都島区と旭区の境界も、この線路の東側に沿って引かれており、こちらはみごとに直線的だ。

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微妙に曲がる線路、城北公園通駅ホームから南望

JR野江(のえ)は、京阪の野江駅に近いが、家が建て込んで互いに見通せない。京阪とJRを乗り継ごうとする人はふつう京橋駅まで行くから、実害はないのだろう。ホームにいたら、目の前をごうごうと貨物列車が通過した。結構長いコンテナ貨物で、改めてここが貨物との共用であることに気づく。

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JR野江駅
(左)京阪駅は奥へ200m (右)開業を知らせる幟もあちこちに

左から片町線(学研都市線)の複線が近づいてきた。鴫野(しぎの)~放出(はなてん)の1駅間は両線が並走する区間だ。鴫野ではホームがまだ路線別だが、その後、片町線上り線(木津方面)がおおさか東線の複線を乗り越して、左外側に移る。これで方向別配線となり、放出駅では、新大阪から四条畷方面、また久宝寺から京橋方面が同一ホームで乗り継ぎできるようになる。さらに放出の先で、片町線下り線(京橋方面)が右外側からおおさか東線をまたいで、X字交差が完成するのだ。歴史の古い片町線が新参路線を乗り越す形にしているのは、貨物列車の走行ルートに極力勾配を入れない配慮だろう。

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(左)ときに貨物列車も通過、JR野江駅にて
(右)新規区間の南端、放出駅

放出では3分停車する。その間に隣のホームに片町線の区間快速が到着して、乗客の移動があった。なるほど、この停車は単なる時間調整ではなく、両線の列車を接続させるための待ち時間のようだ。日中は両線とも15分間隔の運行なので、上下ともこうした乗継ぎが可能なダイヤになっている。尼崎駅の絶妙な相互接続のノウハウが、ここにも移植されているとは知らなかった。

放出から先は既存区間だが、11年ぶりに足を踏み入れて、全線通しの初回乗車を楽しんだ。新大阪を発って34分で、電車は終点の久宝寺に到着した。

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久宝寺では奈良行き列車(左側)に同一ホームで接続

奈良方面へは、ここで関西本線(大和路線)の列車に接続しているし、先述の直通快速も1日4往復ながら走る(下注)。それで駅貼りのポスターも、「直結!おおさか東線、新大阪に奈良に」をアピールする。とはいえ、新幹線沿線から奈良へは、京都で近鉄奈良線に乗り換えるルートがとうに確立している。西から新大阪止まりの「みずほ」などで来る人も、数少ない直通快速の時刻に合わせて行動する人はほとんどいないに違いない。

*注 直通快速はこれまで放出からJR東西線経由で尼崎へ向かっていたが、おおさか東線全通を機に新大阪へ行先が変更された。

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新大阪と奈良の直結を
アピールするポスター

その意味でおおさか東線は、今のところ観光客よりも通勤通学客の期待を背負ってスタートしたと言うべきだろう。新大阪を通る東海道線(JR京都線・神戸線)は、今や私鉄を凌駕して京阪神間の旅客輸送における大動脈となっている。そこに直接接続する意義は大きいし、朝夕混雑を極める大阪駅や梅田駅での乗換えを回避できるのもメリットだ。将来的には、梅田貨物駅跡地で整備中の、いわゆる「うめきた新駅」まで運行が延長される予定だというから、その傾向はさらに強まるだろう。

一方、観光客を呼び込むには、直通快速の利便性向上が鍵になる。しかし、すでに大阪環状線内から大和路快速が15分間隔、京都からのJR奈良線みやこ路快速も30分間隔で走っている。それほどの高頻度ダイヤが、おおさか東線にも適用される日が来るとは思えないのだが。

■参考サイト
淀川橋梁付近の1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.688100/135.563200

★本ブログ内の関連記事
 新線試乗記-おおさか東線、放出~久宝寺間

 2019年開通の新線
 新線試乗記-三陸鉄道リアス線 I

2019年3月 4日 (月)

ペストリングベルクの登山トラム II-ルートを追って

リンツ中央駅 Linz Hbf の地下ホームを出発した市内トラムは、すぐに地表に上がり、目抜き通りのラントシュトラーセ Landstraße(ラント通り)を軽やかに走り続けた。リンツのトラムは、4本ある市内系統のすべてが中央駅で束になり、ドナウ川を渡った先のルードルフシュトラーセ Rudolfstraße で再び分離するまで、ルートを共用している。この間は系統番号を気にせずに乗れるので便利だ。

繁華街のタウベンマルクト Taubenmarkt から、その昔、旧市街の南門があった狭い街路(シュミットトーアシュトラーセ Schmidtorstraße)をゆっくり通り抜けると、街の中心ハウプトプラッツ Hauptplatz(中央広場)の広い空間に出た。50系統を名乗るペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn のトラムは、ここが始発になる。

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ハウプトプラッツにペストリングベルク鉄道のトラム(改造旧車)が到着
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リンツの市内トラムはすべてボンバルディア製シティーランナー Cityrunner
(左)第一世代 (右)第二世代

オーストリアで最も大きな都市広場に数えられるハウプトプラッツは、それを取り囲む建物の透明感のあるたたずまいが印象的だ。北側がドナウ河畔へ開いていることもあって、街の名を冠したモーツァルトの交響曲第35番の、気高さと明るさが融合した曲想にふさわしい。もっともあの標題はリンツ滞在中に作曲されたことにちなむだけで、音楽で直接、街の雰囲気を描写しているわけではないのだが。

中心に立つシンボリックな聖三位一体柱を背にして、トラムの停留所(以下、電停)がある。市内1~4系統は東側の相対式ホームに発着し、ペストリングベルク鉄道は西側に専用のホームと折り返し線を与えられている。

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(左)ペストリングベルク鉄道の専用ホーム
(右)山に向けて出発するトラム(夕刻撮影)
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リンツ周辺の地形図に主な鉄軌道ルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

8時30分発の便は、504号車だった。平日朝の郊外行きとあって、まばらな客を乗せてほぼ定刻に出発する。まずは、1~4系統の走る本線に入り、長さ250m、幅30mの道路併用橋、ニーベルンゲン橋 Nibelungenbrücke でドナウ川を渡った。広い通りはルードルフシュトラーセ Rudolfstraße との交差点までだ。1・2系統の軌道を右に分けた後は、道幅が狭まり、すぐに急角度で左折する。

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ドナウ川を渡る橋の上から、朝日に輝くペストリングベルク巡礼教会が見えた

次はミュールクライスバーンホーフ Mühlkreisbahnhof(ミュールクライス駅)で、ÖBBミュールクライス線 Mühlkreisbahn のターミナル前になる。ドナウ左岸(北側)の山中に分け入るこの標準軌ローカル線は、珍しいÖBBの孤立線で、事実上、市内トラムが中央駅との連絡機能を果たしている(下注)。なお、電停の名はこの駅の昔からの通称で、正式駅名はリンツ・ウーアファール Linz Urfahr という。

*注 以前は右岸の西部本線 Westbahn に接続する貨物線(リンツ連絡線 Linzer Verbindungsbahn または港線 Hafenbahn と呼ばれた)が存在したが、2015年12月に一部区間が廃止され、翌年、ドナウを渡っていた道路併用橋とともに撤去された結果、ミュールクライス線は完全に孤立線となった。

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ミュールクライス線の列車
機関車牽引のほか、新型気動車(ジーメンス製デジロ Desiro)も導入

気動車が留め置かれたミュールクライス線の構内を右手に眺めながら、ラントグートシュトラーセ Landgutstraße に到着する。ここが市内トラム(3・4系統)の終点だ。狭いホームの左側がその折返し用で、軌道は終端ループにつながっている。右側がペストリングベルク行きだ。ちなみに、反対方向、ハウプトプラッツ行きホームは前方のラントグート通りを渡った先で、少し距離がある。

いうまでもなく、この電停は2008年までペストリングベルク鉄道との乗換場所だった。市内トラムが終点にしているのもそのためだ。前方の踏切の先に、2本の小塔をもつレトロな旧駅舎(ウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr)が、ペストリングベルク鉄道博物館 Pöstlingbergbahn-Museum として、当時と変わらぬ姿で残されている。

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ラントグートシュトラーセ電停で発車を待つ(夕刻撮影)

少しすると踏切の警報器が鳴り出し、山を下ってきた対向トラムが建物の陰から現れた。ここはもともとミュールクライス鉄道の踏切だが、直通化に際して、ペストリングベルクのトラム横断にも連動するように改修されたのだ。

この列車と交換する形で発車した。ここから軌道は単線になる。ミュールクライス線と平面交差する直前でいったん停止する。そして、ひときわ幅広に見える標準軌線をさしたる衝撃もなしに横断し、旧駅から出てきた軌道(旧 本線)に合流した。

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(左)対向トラムが現れた (右)標準軌のミュールクライス線と平面交差

同じようにペストリングベルクをめざす道路、ハーゲンシュトラーセ Hagenstraße を渡った後は、いよいよ本格的な坂道にかかる。前面展望を楽しもうとかぶりつきに立っていたが、急勾配が始まると、足が地面に強く押し付けられるように感じられた。

トラムは、緑の濃い住宅街の間を縫うようにして上っていく。乗降客のない電停は停まらないから、最近(2009年)開設のシュパーツガッセ Spazgasse は静かに通過した。どこのトラムもそうだが、途中駅で降りたいときは、ドアの取っ手についている降車ボタンを押して知らせる決まりだ。

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ハーゲンシュトラーセを横断すると坂道が始まる 写真はハウプトプラッツ行き

ホーエシュトラーセ Hohe Straße に名を変えた車道を再び横切ると、ブルックナーウニヴェルジテート Bruckeruniversität(ブルックナー大学)に停車した。登山鉄道区間に3か所ある列車交換場所の一つ目で、近くにアントン・ブルックナー私立大学 Anton Bruckner Privatuniversität がある。リンツゆかりの作曲家の名を冠したこの大学が2015年に移転してくるまで、電停はメルクールジードルング Merkursiedlung という名だった。

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森に溶け込むようなブルックナーウニヴェルジテート電停

ブルックナーもさることながら、ここでは、鉄道のクラシカルな雰囲気を強調する小道具の数々に注目したい。一つはホームの待合室だ。頭上を覆う森に溶け込むようなピーコックグリーンの濃淡で塗り分けられ、切妻の板張りはユニークな放射模様を描いている。駅名標はそれと対比をなすキャロットオレンジで、スクロール装飾の凝った額縁に、フラクトゥール文字で名が記される。照明灯もまた、19世紀のガス灯を思わせるデザインだ。

同じ小道具が他の電停にも見られるが、両側のホームに存在するのはここだけで、加えて山上方面のホームには、105‰の勾配標(下注)も初めて現れる。

*注 105‰は設計図上の、いわば平均勾配で、実際は微妙な増減がある。

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電停の愛すべき小道具たち
(左)駅名標と待合室 (右)ガス灯風の照明

リンツ動物園 Zoo Linz 最寄りのティーアガルテン Tiergarten(動物園)電停まではわずかに180mの距離しかない。その後少しの間は、斜面に開かれた畑の中をうねるように上っていく。森や家並みに遮られることなく、山頂の巡礼教会と走行中のトラムが一つの構図に収まる撮影適地なのだが、用地が生垣に囲まれているので、車体の下半分が隠されてしまうのが残念だ。

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トラムと巡礼教会が一つの構図に収まる(ティーアガルテン~シャブレーダー間)

シャブレーダー Schableder は登山区間のほぼ中間にある電停で、列車交換が可能だ。周辺は坂道が少し落ち着く踊り場のような場所なので、宅地が広がり、どことなく開放的な雰囲気がある。

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(左)開放的な雰囲気のシャブレーダー電停
(右)105‰が582m続くことを示す勾配標が建つ
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シャブレーダー電停を後に105‰(平均)の坂を上り始めるトラム

電停を出たところで、再び105‰の勾配標を見つけた。582m続くとあるからまさに胸突き八丁で、トラムはゆらゆらと蛇行しながら高度を稼いでいく。大きく右にカーブしていく築堤のところで、左手にドナウ川の深い渓谷が一瞬見えた。直後に通過するホーアー・ダム Hoher Damm という電停名は、高い堤という一般名詞から来ている。

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ホーアー・ダム電停付近の急坂、遠くにドナウ対岸の山が見える

珍しく直線ルートの切通しを抜けると、その名もアインシュニット Einschnitt(切通し)電停だ。下手に105‰の終点を示す勾配標があったが、その後も100‰などという表示が無造作に現れるから、坂が緩むという感覚はほとんどない。オーバーシャブレーダー Oberschableder が、最後の列車交換場所になる。木々の間から今度は右の車窓が少し開けて、朝もやに霞むドナウ左岸の新市街が望めた。下界との標高差はすでに200mほどになっている。

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最後の列車交換場所、オーバーシャプレーダー電停
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朝もやに煙るリンツ新市街

再び坂道になり、森の斜面を上っていく。ペストリングベルク・シュレッスル Pöstlingberg Schlössl は同名の山上ホテル兼レストランの最寄り電停だが、知らない間に通過していた。

トラムが大きく左にカーブすると、前方に石組みの二重アーチが見えてくる。終点のペストリングベルク駅(下注)だ。2線2面の構内は、標高が519mに達する。軌道は、1830年代に築かれた軍事要塞の第4塔を貫き、反対側で止まっている。トラムがくぐった二つのアーチは、いったん壊した周壁の位置にわざわざ造り足されたものだ。待合室やトイレも、塔内部の部屋割りを利用しているのがおもしろい。

*注 終点につき駅と記したが、施設は無人で、正式には Haltestelle(停留所)の扱い。

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このカーブを曲がれば終点が見えてくる
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要塞の塔を改造したユニークな造りのペストリングベルク駅

さて、山頂は鉄道開通に合わせて行楽地に開発されている。駅の出入口から左へ進むと、第5塔の天蓋を利用したリンツ市街を一望する展望台、右に進むと、1906年開業のグロッテンバーン Grottenbahn(洞窟鉄道)という子ども向けの遊覧鉄道がある(下注)。最後に山上にそびえる巡礼教会の扉を開けて、敬虔なひと時に浸ることができれば、ペストリングベルク小旅行の目的は十分に果たされる。

*注 本物の洞窟ではなく、要塞の第2塔に造られた小さな遊園地。

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 ペストリングベルクの登山トラム I-概要

2019年2月27日 (水)

ペストリングベルクの登山トラム I-概要

ペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn

1898年開通、2009年5月 改軌およびハウプトプラッツへの延長

(2008年3月まで)
ウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr ~ペストリングベルク Pöstlingberg 間 2.9km
軌間1000mm、直流600V電化、最急勾配116‰、高度差255m

(2009年5月から)
ハウプトプラッツ Hauptplatz ~ペストリングベルク Pöstlingberg 間 4.14km
軌間900mm、直流600V電化

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かつての始発駅(右奥)の前を通過するペストリングベルク鉄道のトラム(改造旧車)
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市内を走るトラムが、登山鉄道に変身する。高台の住宅地へ上っていく程度のものなら他の都市でも見られるが、このトラムはそれとは違う。本気で山上の展望台をめざし、最大116‰というとてつもない急勾配を力強く上っていくのだ。しかも登山鉄道なら半ば常識の、ラックレールとピニオン(歯車)の助けを借りることはない。オリジナル区間が2.9kmと小規模ながら、ペストリングベルク鉄道 Pöstlingbergbahn は、他にはないプロフィールを備えた路線だ。

舞台は、オーストリア第3の都市リンツ Linz。工業都市のイメージが強いが、ドナウ川の右岸(南側)に沿って気品漂う旧市街がある。川は街の西を限る山地に渓谷を刻んだ後、この前に出てくる。河岸のテラスに立ち、川向こうに目をやると、ひときわ高いピークと、そこに2つの尖塔をもつバロック様式の教会がそびえている。ペストリングベルク巡礼教会 Wallfahrtskirche Pöstlingberg だ。鉄道は、旧市街のハウプトプラッツ Hauptplatz(中央広場)からドナウを渡り、山を上ってその教会のすぐ下まで通じている。

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ドナウ川越しに望むペストリングベルク、山頂に巡礼教会がそびえる

今でこそ市内トラムの路線網に組み込まれて50系統を名乗っているが、鉄道は10年ほど前(2008年)まで独立した路線だった。なぜなら、市内トラムの900mm軌間に対して、若干広いメーターゲージ(1000mm軌間)を採用したため、乗入れが不可能だったのだ。山を上るには強力な電動機を搭載する必要があり、そのスペースを台車に確保するために、敢えて軌間を別にしたのだという(下注)。

*注 世界的に見れば逆に、1000mm軌間は一般的で、トラムの900mmのほうが珍しい。この軌間は現在リンツと、ポルトガルのリスボン市電にしか残っていない。

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リンツ周辺の地形図に主な鉄軌道ルートを加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

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ペストリングベルク巡礼教会

そもそも、なぜここに鉄道が造られたのだろうか。しかもラック鉄道でなく、レールと車輪の摩擦力だけで走る粘着式鉄道として。

ペストリングベルクは、18世紀前半から巡礼者が訪れる聖なる山だった。当時は一帯が深い森に覆われていて、頂上に眺望の利く場所はなかった。ところが、1809年のフランスとの戦い(オーストリア戦役)で、オーストリアに侵攻したナポレオン軍は山頂に陣地を設営し、見通しを妨げる樹木を伐り払った。さらに1830年代にはオーストリア帝国の要塞が築かれ、より広いエリアが伐採された。それらをきっかけに眺望を楽しむ人々が上るようになり、山は行楽地の性格を強めていく。

そこに商機を見出したある技師が、1891年に山頂まで蒸気動力のラック鉄道を建設する構想を発表した。ルート設計が完成し、ウィーンの建設会社リッチュル Ritschl & Co. が参画したことで、構想は実現に向かうかと思われた。ところが、リッチュル社は一方で、リンツで電力業を興す事業組合にも名を連ねていた。その設立目的は発電所を造るだけでなく、生成した電力の一部を利用して市内にトラムを走らせるというもので、ペストリングベルク線も併記されていた。

全体の採算性では、後者のほうが手堅いのは自明のことだ。また、電動車ならラックレールに頼らずに上れる。こうして技師の構想を一部借用しながらも、電気トラムの登山鉄道が建設されることになった。事業を推進するために、リンツAGリーニエン Linz AG Linien(リンツ株式会社公共交通部門、現在の運行組織)の前身であるリンツ=ウーアファール軌道・電力会社 Tramway- und Elektrizitäts-Gesellschaft Linz-Urfahr (TEG) が設立された。

山頂には1830年代の要塞施設が放置されていたが、会社はそれを買収し、望楼跡に、鉄道駅とともに展望台、ホテル・レストランなど観光施設を整備した。約10か月の工事期間を経て、ペストリングベルク鉄道は1898年5月に開業式を迎えた。

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かつての要塞を改造したペストリングベルク駅

後に高級住宅街となるペストリングベルク山麓も、当時はまだ開発が進んでおらず、会社は行楽客の需要しか見込んでいなかった。それで車両も、オープンタイプのいわゆる「夏電車 Sommertriebwagen」6両のみでスタートしている。しかし、初年の運行が12月まで続いたことから、オープンデッキつきの密閉型車両が2両追加で調達されて、1900年から通年運行に移行した。

クリーム色をまとう2軸の古典電車は、特徴的な機構を備えていた。一つは、トロリーポールの集電装置だ。先端部分は最初ホイールだったが、第一次世界大戦後、スライダーシュー(摺り板)に交換されている。

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(左)トロリーポールで集電していた旧車(1999年8月、ウーアファール登山鉄道駅で撮影)
(右)開通当初はポールの先端がホイールだった(鉄道博物館の展示品を撮影)

もう一つは制動装置で、ケーブルカーに見られるような非常ブレーキを装備していた。レール圧着ブレーキ(ドイツ語ではツァンゲンブレムゼ Zangenbremse(プライヤーブレーキの意))といい、ブレーキシューをプライヤーのようにレールの頭部側面に押し付ける仕組みだ。レールの断面もそれに適応した楔形をしていた(下の写真と図参照)。また、踏切などでは、これが通過できるようにレールの両側に溝が掘られている。

問題はレールの分岐部で、トングレールを用いる通常の分岐器が使えないため、レール片を水平移動させる特殊な分岐器(シュレップヴァイヒェ Schleppweiche、引き摺り分岐器の意)が設置された。同じ理由で、レールが交差するフログ(轍叉)の部分は回転構造になっている(ヘルツシュレップ Herzschlepp)。

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非常時に楔形レールに作用するレール圧着ブレーキ(鉄道博物館の展示品を撮影)
右はその図解
Photo by Dralon at wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
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特殊な分岐器シュレップヴァイヒェを設置
踏切ではレールの両側に溝が切ってあった(1999年8月、車内から撮影)
右はその図解

鉄道は、常識を超えるような急勾配を上っていく。1983年には、世界で最も険しい粘着式鉄道としてギネスブックに登録されたこともあるほどだ(下注1)。しかし、これを上回るリスボン市電網のデータ(下注2)が知られるようになり、現在の公式サイトは、「今もなお世界で最も険しい粘着式鉄道に数えられている」と、控えめな表現になっている。

*注1 ペストリングベルク鉄道の公式パンフレット(2015年3月版、リンツAGリーニエン発行)による。
*注2 Railserve.com の鉄道世界記録のリストによると、最急勾配はリスボン市電網の13.8%(138‰)とされている(28E系統のサンフランシスコ舗道 Calçada de São Francisco の併用軌道に存在)。
https://www.railserve.com/stats_records/highest_steepest_railroads.html

その勾配の最大値は、長い間105‰(水平距離1000m当たりの高低差が105m)と言われてきた。設計図上はそのとおりで、現地に建っている勾配標も105を超えるものはない。しかし近年の精密測量で、それが平均値に過ぎず、実際にはホーアー・ダム Hoher Damm 付近で116‰に達することが明らかになった。現在、これが公式の最急勾配とされている。

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(左)105‰の勾配標、"388"はその勾配が続く距離(388m)を示す
(右)ホーアー・ダム付近の急勾配を降りてくるトラム

110年間不変のスタイルで走り続けてきたペストリングベルク鉄道が、敢えて長期に運休してまで大改造されることになったきっかけは、2005年1月24日にシャプレーダー停留所 Haltestelle Schableder 付近で発生した脱線事故だった。古いシステムの安全性が議論の焦点となり、その結果、鉄道近代化のための計画が練られた。

目的は運行の安全性を確保し、保守作業の効率性を高めることだが、同時に、リンツの新しい観光需要の発掘も期待された。旧式の運行は2008年3月24日に終了し、続く14か月の工事期間を経て、開通111周年の2009年5月29日に新たな運行が開始された。

では、従来と何がどう変わったのだろうか。最大の改良点は、軌道を市内トラムと同じ900mmに改軌して、市内中心部への直通を可能にすることだった。旧市街のハウプトプラッツ(中央広場)にある停留所が新しいターミナルとされ、ペストリングベルク鉄道のトラムはここから山頂へ直通する。

市内軌道網と接続するために、山麓の旧 起点駅であるウーアファール登山鉄道駅 Bergbahnhof Urfahr は廃止された。そして駅直前の地点から、最寄りのトラム停留所であるラントグートシュトラーセ Landgutstraße(下注1)まで、新たに軌道が延ばされた。このルートは、標準軌のÖBBミュールクライス線 Mühlkreisbahn を横断する必要があり、そこに異軌間同士の平面交差が設けられている(下注2)。また、ハウプトプラッツには、ホームを兼ねた専用の折返し線が設けられた。

*注1 市内トラム3系統(2016年から4系統も)の起終点。
*注2 実はペストリングベルク鉄道開業当初もトラムとの乗換の便を考慮して、ミュールクライス線をまたいだ南側に、山麓駅が設けられていた。しかし、ミュールクライス線との交差部に設置した特殊な可動式ポイントの操作が煩雑過ぎたため、翌年、この交差を廃止して北側にウーアファール登山鉄道駅を造ったいきさつがある。

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ÖBB ミュールクライス線との平面交差
ペストリングベルク鉄道のトラムは、左手前から右に折れて、平面交差を渡り、右奥へ進む
左奥の建物はもとの始発駅であるウーアファール登山鉄道駅
右奥の、気動車が多数見える構内は ミュールクライス線の起点、リンツ・ウーアファール Linz Urfahr 駅

改軌によって、車両の調達または改修も必要になった。新車としてボンバルディア社のマウンテンランナー形(下注)が発注され、2009年に501~503号車の3編成、2011年に追加の1編成(504号車)が就役した。これは100%低床の3連節車で、定員は座席33+立席55と、旧車(22+16)に比べて2.3倍の輸送力を擁する。また、旧車についても1940~50年代製のVIII、X、XI号車が、台車交換による改軌や集電装置のパンタグラフ化を含め、必要な改修を受けて再デビューした。

*注 ボンバルディアのウィーン工場(もとローナー・ヴェルケ Lohner-Werke)製。

軌間の統一で、レールや分岐器も一般的な形状になったため、これらの車両には、非常ブレーキとして電磁吸着ブレーキが設置されている。

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(左)ペストリングベルク鉄道の新車、504号車は2011年に就役した追加編成
(右)バリアフリーに対応した100%低床の車内

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(左)土・日・祝日には、改造された旧車(写真はXI、VIII号車)も2両連結で走る
(右)デッキ付きで、寒冷期には新車より快適かもしれない

直通化の開始で、対の小塔と外壁のハーフティンバーが印象的なウーアファール登山鉄道駅は、本来の役割を失った。嬉しいことに建物と構内は原形のまま保存され、2008年5月にペストリングベルク鉄道博物館 Pöstlingbergbahn-Museum として再生されている。

2面2線の頭端型線路は、片方が900mmに改軌され、本線に接続された。もう片方は1000mmのままで、車庫につながっている。車庫には、改造の対象から外れた旧車のうち、開業当初から在籍する「夏電車」I号車(1898年製)と、閉鎖形のXII号車(1950年製)が動態保存されており、構内に新旧2種の軌間の車両を並列して展示することも可能になっている。博物館は、冬季を除く土・日・祝日のみ開館する。

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ペストリングベルク鉄道博物館を訪問
(左)旧 ウーアファール登山鉄道駅を転用した施設
(右)2面2線のホームも健在、左がもとの1000mm軌間、右は改軌されて 900mmに
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駅舎と向かい合う車庫を見学させてもらう
左2線は900mm軌間の改造車(日曜につき出払っていた)、右1線は1000mmの非改造旧車が休む
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美しく保たれた非改造旧車だが、もう山に上ることはできない
(左)開業当初からの最古参「夏電車」I号車
(右)閉鎖形XII号車、前面のフックは自転車を吊り下げるためのもの(900mm改造車では撤去されてしまった)

さて、ペストリングベルク鉄道の現在の運行状況はどうなっているだろうか。列車は30分間隔で運行されている。ただし、土・日・祝日の10~17時の間は、上述の改軌された旧車が2両連結で間に投入されるため、つごう15分間隔となる。そのほか、沿線のアントン・ブルックナー私立大学 Anton Bruckner Privatuniversität の開講日は朝7時30分~9時の間、ハウプトプラッツ~ブルックナー大学間の区間便が運行されている。全線の所要時間は、山上方面21分、山麓方面19分だ。

ちなみに運賃は、従来どおり他の系統とは別建てなので注意を要する。停留所にある券売機やオンラインショップで、片道券または往復券が買える。リンツ中央駅から出発する場合は、ペストリングベルク鉄道往復と市内中心ゾーン24時間乗車が可能な「エアレープニス(体験)チケット Erlebnisticket(旧名 ペストリングベルク鉄道コンビチケット Pöstlingbergbahn-Kombiticket)」を買っておくと便利だ。また、リンツ・カード Linz-Card の3日券には、ペストリングベルクを往復できる特典がある(1日券は不可)。

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リンツ市内トラム路線図の一部
太線がトラムのルートで、50系統ペストリングベルク鉄道は緑で示されている
© 2019 LINZ AG

次回は、ハウプトプラッツから山頂まで、登山鉄道が走っていく風景を追ってみよう。

■参考サイト
ペストリングベルク鉄道(リンツAG公式サイト)
https://www.linzag.at/portal/de/privatkunden/freizeit/grottenbahnpoestlingberg/poestlingberg/#

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 マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道

2019年2月17日 (日)

シュネーベルク鉄道再訪記

ウィーン滞在中、良く晴れた日を狙って、標高2076mのシュネーベルク Schneeberg へ出かけた。山はウィーンの南西65kmにあり、2000mを越えるピークとしてはアルプス山脈の東の端に位置する。麓の村からその山を上っていくシュネーベルク鉄道 Schneebergbahn というラックレールの登山鉄道に乗ることが、遠出の目的だ。

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ÖBBの気動車(左)からの客を受けて、山上へ向かう列車(右)
プフベルク駅にて、背景はシュネーベルク山

実は19年前に一度、この鉄道に乗ったことがある。しかし、あいにく天候に恵まれず、列車は上っていく途中で濃霧に包まれてしまった。むろん山上からの見通しはまったくきかなくて、真夏というのにめっぽう寒かったことを覚えている。それで、再訪するなら好天でなければ意味がなかった。

鉄道の沿革等については、旧稿「オーストリアのラック鉄道-シュネーベルク鉄道」を参照していただくとして、今回は旅の一部始終を記していこう。

朝のウィーン中央駅から、7時58分発のEC(ユーロシティ)エモナ Emona 号に乗り込む。リュブリャーナ行きのエモナは以前も使った列車だが、まだ健在で、前方の数両はスロベニア国鉄のコンパートメント車両が使われている。ウィーン・マイドリング Wien Meidling で大勢の客を拾った後、葡萄畑の中を滑るように走ると、次の停車駅はもうウィーナー・ノイシュタット Wiener Neustadt だ。列車を乗換えなくてはならない。

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ウィーン中央駅のエモナ号
水色帯の車両はスロベニア国鉄のもの

この先は、プフベルク線 Puchberger Bahn と呼ばれるÖBB(オーストリア連邦鉄道、いわゆる国鉄)のローカル線になる。2両連接の気動車が、登山鉄道の待つプフベルク・アム・シュネーベルク Puchberg am Schneeberg 駅(以下、プフベルク駅と記す)との間をつないでいる。緑の平野が尽きると、小さな峠を、軽便鉄道のような急カーブ急勾配の線路で越えていく。のどかな風景のまま、9時24分、終点に到着した。

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(左)ウィーナー・ノイシュタット駅でプフベルク線の連接気動車に乗換え
(右)車内
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シュネーベルク鉄道周辺図

プフベルク駅はすっかり新しくなっていた。2015年に完成した増築駅舎の1階に、スーベニアショップを兼ねたチケットカウンターが置かれ、上階は小さな鉄道ミュージアムになっている。構内を見回すと、左手に建つ旧来の木造車庫とは別に、右奥に新建材で造られた車庫兼修理工場がある。稼働中の車両はこちらに移され、木造車庫は主に使われていない機関車や客車の置き場になっているという。

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プフベルク・アム・シュネーベルク駅
(左)左が新しい増築駅舎、右の旧駅舎は管理棟に
(右)増築駅舎1階のチケットカウンターに並ぶ人の列
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プフベルク駅構内、正面奥が新しい車庫兼修理工場

登山鉄道の切符は、ÖBBとは別だ。昔なら出札窓口に駆け込むところだが、いまどきの乗車券はネット予約ができるから、あらかじめ購入し、印刷してある。公式サイトには、始発9時00分の次が10時30分発と書かれていたので、それに乗るつもりだ。

ところがカウンターのモニターを見ると、30分間隔の発車になっている。しかも直近の9時30分発はもとより、次発、次々発と2本先まですでに満席だ。今買おうとすれば、11時発しか空いていない。ÖBBの気動車から降りたのは30人に満たなかったので、この盛況ぶりは意外だった。国際的な観光地ではないものの、シュネーベルクは相変わらず地元の人気スポットなのだ。実際、駅の周辺にはクルマがずらりと駐車してあり、客の多くが自家用車やマイクロバスでここまで来ている。

予約した10時30分発を待つ間、近くの公園に置かれている小型蒸機を見に行った。標準軌の小型機関車(92.2220、1898年製)で、かつてプフベルク線を走り、22号機「クラウス Klaus」と呼ばれていたものだ。それから駅に戻って、2階ミュージアムを見学する。当時の写真や資料類が展示されていて、床続きのテラスにも出られる。そこから標準軌とラックレールが並ぶ駅構内や、青空に映えるシュネーベルクを眺めているうち、改札開始のアナウンスが流れた。

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(左)近くの公園に置かれていた標準軌の小型蒸機
(右)駅構内の記念碑「1895~1897年に造られたラック鉄道の製作者レオ・アルノルディを記念して」
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開通120周年を記念する駅舎2階ミュージアムの展示

団体客に交じってぞろぞろとホームに出ると、ラックレールに対応した連接気動車「ザラマンダー Salamander」が入ってきた。前回乗りに来た時はまだ導入されたばかりで、地域に生息するサンショウウオを模したという濃緑地に黄斑の大胆な塗装には衝撃を受けたものだ。先頭には、山上へ貨物を届けるための小さなトレーラーを伴っている。ザラマンダーの鼻先にいつもくっついて走るので、その名も「ザラマンダー・ベイビー Salamander-baby」だ。気動車が3編成揃ったことで、かつて活躍した蒸気機関車は完全に脇役に退いてしまった。5両あるうち、動けるのはもはや2両で、7~8月の日・祝日に懐古列車 Nostalgiezug として使われるだけになっている。

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(左)ホームに列車が入線 (右)貨物を運ぶザラマンダー・ベイビー

ザラマンダーの車内は、通路をはさんで3人掛けと2人掛けのシートが向い合せに並んでいる。予約は定員管理をしているだけで、席は決まっていない。ほとんどの区間で、進行方向左側に眺望が開けるのだが、南向きなので陽光をまともに浴びることになる。一般客は眩しさを敬遠するようで、難なく左端の席をとることができた。

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車内(帰路の撮影につき座席には余裕がある)

やがて汽笛が短く鳴り、シュネーベルクに向けて発車した。列車はプフベルクの村里を縫った後、ヘングスト Hengst というシュネーベルクの前山に取りつき、その山腹をおもむろに上っていく。ブナや針葉樹の森が延々と続く。時刻表にはヘングストタール Hengsttal(起点から1.160km)とヘングストヒュッテ Hengsthütte(同 4.523km)という停留所が記されているが、どちらもリクエストストップらしく、列車は停まらなかった。

それに対して、シュネーベルクの山塊を目前にしたバウムガルトナー Baumgartner(同 7.360km)では、すべての列車が停車する。蒸機ならここで給水するのだが、その必要がないザラマンダーにも5分の休憩時間が与えられる。この間に乗客は列車から降りて、休憩所で売られているブフテルン Buchteln という、パン生地にジャムなどを混ぜて焼いた菓子を買い求めるというのが、お決まりの行事だ。しかし、おやつの時間には中途半端なのか、この列車では名物を手に入れた人は少なかった。

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(左)プフベルクの盆地から山中へ
(右)バウムガルトナー停留所、正面に山上の教会が見える(いずれも帰路撮影)

停留所を後にして、鞍部に築かれたホーエ・マウアー Hohe Mauer(高い石垣の意)を渡る。俄然勾配が急になり、後ろにつく動力車のエンジン音がひときわ高まる。それとともに視界が大きく開け、ヘレンタール Höllental の谷を隔てて、隣に横たわるラックス Rax 山塊も姿を現した。2本のトンネルを介したS字ループをじりじりと回り切れば、もう山上の台地だ。

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(左)終盤は隣のラックス山塊が姿を現す
(右)トンネル出口の雪囲い、線路はこの中に
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最後のカーブを回って山上の台地に出る

かつて山上の終点は、エリーザベト教会 Elisabethkirche の前だった。終点といっても嵩上げされたホームも屋根もなく、あるのは乗員が待機するための小屋だけだった。2009年に山の家 Berghaus の前に新しいホームが完成し、これに伴い線路は、山の家への引込み線を利用して133m延長された。

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エリーザベト教会の前を通過

一方、貨物の受け渡し所だけは、旧駅跡に残されている。列車はそこでいったん停車し、ザラマンダー・ベイビーから手早く荷物の積み下ろしが行われた。そして教会の前を通過し、おもむろに新駅に入っていく。11時10分着、所要40分の列車旅だった(下山する列車は38分)。ホームは、アーチ形の屋根とアクリルのパネル壁に覆われ、悪天候のときでも乗降に支障がない。出札など駅の機能は、山の家の中に設けられている。

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山上旧駅跡
(左)配線は残存するが片方は使われていない
(右)ザラマンダー・ベイビーから貨物の積み下ろし
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山上新駅
(左)車庫のような新駅、右奥は従来からある山の家
(右)新駅は全天候型ホーム

しばらく山上を散歩した。エリーザベト教会は修復工事中で入れないが、麓から山の目印になっているだけに、裏庭に回ると下界の眺望がみごとに開ける。波打つ山地に囲まれて明るい緑の横縞を描く牧野に、集落の屋根が点々と浮かんでいる。ひときわ密集しているのがプフベルクの村で、登山鉄道の始発駅も見える。遠方はかすんでいるものの、シュタインフェルト Steinfeld と呼ばれるウィーン盆地南部の広がりが感じられる。

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ヴァックスリーガーから東を望む。右端がプフベルクの村

眺望が利く東側に対して、西側はヴァックスリーガー Waxrieger というコブ山が目の前に立ちはだかり、シュネーベルクの主峰を隠してしまう。ここまで来たからにはその稜線を拝みたいので、ヴァックスリーガーへの山道を上った。駅との比高は80m、さほど時間はかからない。十字架のそびえる頂に立つと、抜けるような青空のもと、期待通りホッホシュネーベルクの大パノラマが展開した。

左のクロスターヴァッペン Klosterwappen(標高2076m)から右のカイザーシュタイン Kaiserstein(同 2061m)まで、長く続く灰白の稜線がシュネーベルクのピークだ。駅から延びる登山道は、左から山小屋ダムベックハウス Damböckhaus の前を通過し、ハイマツの群落が散らばる山腹をジグザグを描きながら上っていく。数人ずつ、稜線に載る山小屋フィッシャーヒュッテ Fischerhütte をめざして歩いていくのが見える。山頂までは3km程度で、みな比較的軽装備だ。

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ヴァックスリーガーから西を望む
正面右がシュネーベルクの主峰、クロスターヴァッペンからカイザーシュタインにかけての稜線。左手前から延びる登山道がジグザグに上っていく
左後ろの蒼い山塊はラックス山

帰りの列車も予約してあるのだが、あまりにいい天気なので、一つ下のバウムガルトナーまで歩いて降りようと思う。山上駅との標高差は400mほどだ。道標に1時間とあったので高を括っていたが、急坂なうえに小石の転がるザレ場が随所にあり、歩きにくい山道だった。かなり下ったところで踏切を渡り、後はホーエ・マウアーに沿って林道を降りる。

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山上から見下ろすバウムガルトナー停留所では、列車の交換中
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山上からバウムガルトナーへ降りる登山道
(左)随所にザレ場があり、足を取られる (右)目的地がはるか右下に
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(左)ラックレールの踏切を渡る
(右)ホーエ・マウアー区間に設置された、突風による脱線転落を防ぐ護輪軌条

それでもバウムガルトナーでは、発車時刻まで20分ほど余裕があった。当然、名物のシュネーベルク・ブフテルン Schneeberg-Buchteln を試さなければならない。フィリングは、マーリレ Marille(アプリコットジャム)とポヴィドル Powidl(スモモのムース)の2種から選べる。マーリレとビールを注文して、テーブル席でいただく。けっこう歩いたので、ビールの炭酸がことさら喉にしみる。甘酸っぱいジャムの味を楽しみながら、ブフテルンにかかっている粉砂糖がシュネーベルクの雪を表していたことに改めて気づいた。

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バウムガルトナー停留所にて
(左)ホームに隣接するテーブル席 (右)雪を表す粉砂糖のかかった名物ブフテルン

そろそろ列車がやって来る頃だ。先に到着したのは、麓から上ってきたザラマンダーだった。まもなく山上からの列車が向かいの山腹に現れ、その姿がじわじわと大きくなってくる。シュネーベルクを背景に直線のホーエ・マウアーを降りてくる列車風景は、シュネーベルク鉄道の写真の定番だ。これがヴィンテージ蒸機だったら、なお絵になるのだが。

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ホーエ・マウアーを降りてくるザラマンダー
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バウムガルトナーでの列車交換

■参考サイト
シュネーベルク鉄道(公式サイト) http://www.schneebergbahn.at/

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2019年2月 9日 (土)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 II-現況

ウィーン中央駅の東口からヌスドルフ Nussdorf まで、市電D系統のトラムが乗り換えなしで連れていってくれる。時間は45分ほどかかるが、どのみち降りるのは終点なので、リング通り Ringstraße に建ち並ぶ豪壮な建物群を眺めながら、観光気分でのんびり乗っていればいい。

ほとんど数字に置き換えられてしまったウィーン市電の系統名のなかで、D系統は頑なに昔の英字名を残している。まるで登山鉄道へのアクセスルートとして造られた由緒を誇るかのようだ。国鉄(オーストリア連邦鉄道 ÖBB)のヌスドルフ駅前で左折し、町なかの狭い坂道を少し上ると、終点のベートーヴェンガング Beethovengang(下注)が見えてくる。トラムは終端ループを一回りしてから、停留所の前に停まる。

*注 この地名を忠実に転写すれば「ベートホーフェンガング」になるが、後述のように作曲家ベートーヴェンにちなんだ名称なので慣用読みに従う。

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終点ベートーヴェンガングに停車中のD系統トラム
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ヌスドルフ~グリンツィング間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
数字は各写真の撮影位置
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

このループに囲まれたレモン色の塗り壁の建物こそ、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の起点だったヌスドルフ旧駅舎だ。他の駅舎がすべて取り壊されたなか、今はなき登山鉄道を記念する建造物として、唯一完全な形で遺されている。現在は、アインケーア・ツア・ツァーンラートバーン Einkehr zur Zahnradbahn というレストラン(下注)が入居している。午前中でまだ食事には早かったが、主人らしき人に中を見たいと言うと、快く応じてくれた。

*注 店の名は、御休み処「ラック鉄道館」といった意味。

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[1] ヌスドルフ旧駅舎の正面玄関

ホールにはテーブルが並んでいて駅の面影はないが、壁に、ラック鉄道のルート図や機関士の肖像写真などが掲げてある。突き当りの扉の外はホームだったはずだが、テラス席が占領していた。生垣の向こうは市電のループ線で、ラック列車が来なくなった後も、トラムが代役を務めてくれているようだ(下注)。

*注 登山鉄道が稼働していた当時は、路面軌道は駅前で行き止まりになっており、終端ループはなかった。

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(左)旧駅舎のホーム側、今はレストランのテラス席に
(右)レストランの看板は当時の写真をあしらう
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(左)旧駅舎内部
(右)最終列車に乗車した機関士の肖像写真、右の壁には制帽が掛かる

駅舎を辞して、周囲を観察する。東側の、かつて機関庫があった場所は、集合住宅が建っている。一方、市電線路を挟んで西側には、一見あずまや風の施設がある。男子小用の公衆トイレなのだが、これは当時からあるものだそうだ。個別便器のない掛け流し(?)方式で、確かに古そうに見える。ちょうどループを回ってきたトラムがその前で停まったと思ったら、乗務員氏が降りてきて中に駆け込んだ。

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(左)当時の公衆トイレが今も現役
(右)トラムも臨時停車!

駅前の道から山手に向かって、インターロッキングが施された廃線跡がまっすぐ延びている。その名もツァーンラートバーンシュトラーセ Zahnradbahnstraße(ラック鉄道通りの意)なので嬉しい。機関車になったつもりで、緩い坂を上っていく。もとは複線が敷かれていたから用地幅は広いのだが、すぐにシュトラーセとは名ばかりの遊歩道になり、周りは雑草が生い茂る。

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(左)[2] ラック鉄道通りが山手へ延びる
(右)[3] 遊歩道は将来、並木道になるのだろう

最初に横切る車道は、エロイカガッセ Eroicagasse(英雄小路の意)だ。道の西側は、ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタット Heiligenstadt 地内なので、通りの名が交響曲第3番の標題から来ていることは容易に想像がつく。ちなみに、すぐ右手を流れる小川、シュライバーバッハ Schreiberbach に沿って、市電の停留所名にもなったベートーヴェンガング Beethovengang(ベートーヴェンの小径)が延びている。交響曲第6番「田園」の曲想が練られたという名所だ。行ってみると、ナイチンゲールもカッコウも鳴いていなかったが、木の枝に茶色のリスがいて、一心に木の実をかじっていた。

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(左)[4] 小川に沿うベートーヴェンの小径
(右)[4] 小川に接する築堤の擁壁は鉄道時代のものか?
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一心に木の実をかじるリスを目撃

この小径とエロイカガッセとの交差点の標識を写真に撮る人は多いのだが、すぐ近くにあるラック鉄道通りとエロイカガッセの交差点標識に気づく人はいるのだろうか。ともかく、英雄の冒頭主題を口ずさみながら、廃線跡をさらに上流へ歩いていく。右手の広場に、列車を象った木製遊具が置かれていた。ベートーヴェン公園 Beethovenpark の一角なのだが、子どもたちにとっては花より団子、楽聖より汽車ポッポだろう。

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(左)[5] ベートーヴェンの小径とエロイカガッセの交差点は観光名所
  (語頭の 19. はウィーン19区を意味する)
(右)[6] ラック鉄道通りとの交差点もすぐ近くに
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[7] ベートーヴェン公園の一角にある列車形の木製遊具

ここで線路は、カーレンベルガー通り Kahlenbergerstraße を乗り越していた。かつての跨道橋は、煉瓦積みの橋台だけが残っている。複線を支えていたので、幅広の構造物だ。橋桁は撤去されて渡れないため、いったん築堤から降りて、通りを平面横断する。見通しが悪いから、クルマには要注意だ。

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[8] カーレンベルガー通りの跨道橋橋台 (左)北側から (右)南側から

すぐに廃線跡に戻るも、周りの森がますます茂ってきて、上空を覆ってしまう。100年も経てば空地が自然に還ってしまうのも当然だが、一人で歩くのはいささか心細い。と思っていたら、いくらも行かないうちに突然森が開け、住宅地の中へ飛び出した。廃線跡は、それを貫く道路として完全に再生されてしまっている。道路名も変わって、ウンタラー・シュライバーヴェーク Unterer Schreiberweg(下シュライバー道の意)だ。勾配はすでにけっこうきつく、7~8%(70~80‰、下注)あったようだ。

*注 以下の文中で示す線路勾配は、ヌスドルフ旧駅舎内に掲げられている地図に記載の数値(%表示)による。

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(左)[9] 廃線跡は森の小道に
(右)[10] 突然開けて住宅街へ

起点で西へ向けて出発したルートは、いくつかの曲がり角を経て、今は北西、ウィーンの森の方向に針路を変えている。勾配はさらに険しくなり、10%に達する。アキレス腱に堪える坂道を、ジョギング姿の若者が軽々と追い抜いていった。右手の家並みがとぎれると、カーレンベルクの裾野を埋め尽くした葡萄畑が見え始める。グリンツィング Grinzing のホイリゲで出されるワインの葡萄も、ここで栽培されているのだ。

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(左)[11] グリンツィング駅跡を振り返る
(右)[12] 勾配路の周囲は敷地の広い高級住宅地
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[13] カーレンベルクの裾野を埋め尽くす葡萄畑
その先に山上の送信塔やホテルが見える
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グリンツィング~カーレンベルク間の地形図に鉄道のルート(薄赤)を加筆
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

田舎道と斜めに交わる位置の手前に、グリンツィング駅があったはずだが、それらしき痕跡はなかった。急坂はこのあと6%まで緩む。次のクラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl 駅との間は短く、約700mしかない。全線の中間に位置するこの駅では、山を上る機関車に水が補給された。駅舎は第二次大戦後に取り壊され、現在は市民プール(クラプフェンヴァルドルバート Krapfenwaldlbad、略してクラーヴァ Krawa)の駐車場に利用されている。

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[14] クラプフェンヴァルドル駅跡は市民プールの駐車場に

さて、麓から廃線跡をたどってきた人は、おそらくここで道を間違える。というのも、駐車場の上手から、車道に並行して一見線路敷のようなインターロッキングの小道が延びているからだ。しかし、ほんとうの廃線跡は、車道から右45度の方向に離れていく。地図でなら一目瞭然だが、現地ではいくつもの分かれ道が見え、しかも真のルートは茂みに埋もれかけている。道が途中で行き止まりにならず、山手へまっすぐ続いていたら選択は正しい。

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(左上)[15] 駐車場上手の分かれ道、矢印が廃線跡
(左下)[16] さらにY字路あり
(右)[17] 踏み分け道になった廃線跡

山にとりつく区間のため、勾配は再び10%に高まる。茂みの合間から、緑の縞模様を描く葡萄畑越しに、目指すカーレンベルクの教会やホテルの建物が見えた。右後ろには、遠くドナウ本流とノイエ・ドナウ Neue Donau の2本の帯が光り、それをはさんで高層ビルが2棟、背比べをしている(下注)。いつのまにか、かなりの高さまで上ってきたことに気づく瞬間だ。

*注 川の右がミレニアムタワー Millennium Tower 、左がドナウシティのDCタワー DC Tower。

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[17] ドナウ川とウィーン新市街の高層ビル群を望む

踏み分け道の緩い左カーブはいかにも線路跡で、800mほど行けば、2車線道のヘーエンシュトラーセ Höhenstraße(高地通りの意)と合流する。今上がってきた小道は可動柵で通せんぼされているが、これはクルマの進入を防ぐためのもので、徒歩であれば問題ない。実際、犬の散歩をしている人に会ったし、山岳スポーツ情報のサイト「ベルクフェックス Bergfex」にも、廃線跡歩きのルートとして描かれている(下注)。

*注 https://www.bergfex.com/
"Auf den Spuren der Zahnradbahn auf den Kahlenberg" を検索。(検索語句は「ラック鉄道跡をカーレンベルクへ上る」の意)"

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[18] ヘーエンシュトラーセとの合流地点
(左)小道側には車止めの柵がある (右)反対側から見たところ

この先の廃線跡は、勾配が3~4%と緩むこともあり、残念ながら2車線道に上書きされてしまった。歩道がないし、カーブも多いので、歩くのは危険だ。「ベルクフェックス」の地図に従い、車道の山側に別途設けられた小道に退避する。

小道は、広葉樹の森を縫う気持ちのいい散策路だった。車道とほぼ並行しており、かつ多くの区間でそれより高みを通っているので、廃線跡の観察も可能だ。さっきの踏み分け道から打って変わって、気持ちに余裕が出てきたのか、ウィンナワルツ「ウィーンの森の物語」でツィターが奏でる、あの鄙びた響きのメロディーが口をつく。

2車線道が、線路跡らしい緩いカーブで東へ方向転回し始めたところで、小川を渡った。他でもない、ベートーヴェンガングのリスの木の下を流れていたシュライバーバッハの源流だ。道路下は溝渠で、側面に上塗りしたモルタルが剥がされ、鉄道時代の煉瓦積みを露出させてあった。

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(左)[19] ウィーンの森の散策路
(右)[20] 溝渠に鉄道の煉瓦積みが露出

ズルツヴィーゼ Sulzwiese のバス停を通過し、散策路はなおも蛇行しながら上る廃線跡の車道についていく。やがて車道の反対側に、駐車場のような細長い空地が現れる。これが最初のカーレンベルク駅跡だ。前回記したとおり、登山鉄道が1874年に開業したとき、ライバル会社が山頂を押さえていたため、ここに仮の終点を置かざるを得なかった。この会社を買収するまで、たった2年の暫定措置だった(下注)ので、痕跡は何もなさそうだ。

*注 駅廃止後も、複線から単線になる信号所としての機能は残っていた。

車道が左へそれていく一方、直進している舗装道が廃線跡だ。旧駅から先は単線だったので、車1台が通れる程度の幅しかない。ちなみにこの道は、山頂に送信施設をもつオーストリア放送協会 ORF の私道で、入口に立つ標識には「当分の間任意通行を許可します。ただし事情を問わず利用は自己責任です(下注)」と記されている。

*注 原文は以下のとおり。 "Bis auf Widerruf freiwillig gestatteter Durchgang. Die Benützung erfolgt jedoch in allen Fallen auf eigene Gefahr."

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(左)[21] 蛇行しながら上る車道が廃線跡
(右)[22] 旧駅跡の空地から、直進する廃線跡を望む

森の中を緩いカーブで上っていくうち、赤白に塗り分けた送信塔が見えてきた。道を直進すると、金網で閉ざされた送信施設の専用区域だ。ここが終点カーレンベルク駅の跡なのだが、立ち入ることはできない。左手に進むと、送信塔と並んで、ラック鉄道会社が客寄せのために造ったシュテファニー展望塔 Stefaniewarte が建っている。今日は平日なので、塔の周りには人影もなかった(下注)。

*注 展望塔入口のプレートによれば、開館は5月から10月の、土曜12~18時と日・祝日10~18時(ただし好天時のみ、また10月は17時まで)。

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[23] ひと気のないカーレンベルク山頂、送信塔の後ろにシュテファニー展望塔が立つ

小道を下ると、カーレンベルク山上広場に出る。正面に聖ヨセフ教会、右手に私立ウィーン・モジュール大学 Modul University Vienna の施設、その奥はホテルで、大学との間に展望テラスが広がる。少し遠目ではあるが、ドナウの両岸に拡がるウィーン市街地が一望になる。目を凝らすと、フンデルトヴァッサーのデザインした有名なシュピッテラウの清掃工場の煙突の奥に、旧市街のシンボル、シュテファン大聖堂の尖塔も見えた。

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[24] テラスからのウィーン市街展望

ところで、山上まで来たからには、テラスの手前に置かれているラック鉄道の記念物を忘れてはならない。幅広のずんぐりした車体に華奢な車輪、妻面にカーレンベルク・ラック鉄道 Zahnradbahn Kahlenberg と書かれているとおり、かつて走っていた客車のレプリカだ。スイスのリギ山によく似た形の車両があるが、カーレンベルクも、同じニクラウス・リッゲンバッハの設計だから偶然ではない。

レプリカが据え付けられた当初は、車内が鉄道写真の展示室になっていたそうだが、今や荒れ放題で、天井がつっかえ棒に支えられているのも痛々しい。ともかく、山上でラック鉄道の面影を偲べるものは、これが唯一だ。

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[25] カーレンベルク山上広場に展示(というか放置)された客車のレプリカ

山上広場をテラスと反対側へ進むと、広い駐車場と、その片隅に下界へ降りるバスの乗り場がある。大学施設があるおかげで、38A 系統のバスがわりと頻繁に出ている。途中グリンツィングで降りれば38系統のトラムで、終点ハイリゲンシュタット駅前まで乗ればUバーン(地下鉄)で、それぞれ旧市街に戻ることができる。

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2019年2月 4日 (月)

ウィーンの森、カーレンベルク鉄道跡 I-概要

カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn

ヌスドルフ Nussdorf ~カーレンベルク Kahlenberg 間5.5km
軌間1435mm(標準軌)、複線(下注)・非電化
リッゲンバッハ式ラック鉄道、最急勾配100‰、高度差314m
1874年開通、1922年廃止

*注 カーレンベルク旧駅~カーレンベルク新駅間0.6km(1876年の延長区間)のみ単線

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グリンツィング駅から、ヌスドルフへ下るルートを望む(1910年ごろ)
Photo at de.wikipedia
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今回は、オーストリアの首都ウィーンの郊外に昔あった登山鉄道、カーレンベルク鉄道 Kahlenbergbahn の話をしたい。それは、19世紀後半に各地に出現した同種の観光鉄道のなかでも、草分け的存在だったという点で特筆される。ヨーロッパで初めてラック式の登山列車が走り出したのは、1871年5月、スイス中部のリギ山に上るフィッツナウ・リギ鉄道 Vitznau-Rigi-Bahn(下注)だが、その3年後、1874年3月にこの鉄道は開業している。現存するブダペストのラック鉄道(1874年6月開業)よりわずかに早く、ハプスブルクの帝都が呼び込んだ斬新なアトラクションは、好奇心旺盛な市民の耳目を引いたに違いない。

*注 フィッツナウ・リギ鉄道については本ブログ「リギ山を巡る鉄道 II-フィッツナウ・リギ鉄道」参照。また、ブダペストのラック鉄道については同「ブダペストの登山鉄道と子供鉄道」で言及している。

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ウィーン周辺の1:200,000地形図(BEV 1:200,000 48/16 Wien 1982年)
茶色の枠は下図1:50,000の範囲を示す
© BEV, 2018

まず、鉄道があった場所を確認しておこう。上図はウィーン市周辺を描いた1:200,000地形図だ。市街の西から北にかけてウィーンの森 Wienerwald と呼ばれる山地(下注)が広がっている。それがドナウ川 Donau に落ち込むところに、肩を並べる二つのピークがある。東側がレオポルツベルク Leopoldsberg、西側がカーレンベルク Kahlenberg で、いずれもウィーン市街やドナウの流れを展望する景勝地として知られたところだ。鉄道はそのカーレンベルクの山頂へ上っていた。

*注 「ウィーンの森」という語の響きから、森林公園のようなものをつい想像してしまうが、実際は長さ45km、幅20~30kmの広がりがある山地の名称。

鉄道の起点は、南麓のヌスドルフ Nussdorf(下注)にあった。ルートはまず西へ進み、シュライバーバッハ川 Schreiberbach とネッセルバッハ川 Nesselbach の間の葡萄畑が広がる山脚にとりつく。少しずつ北へ針路を修正しながら上り続け、グリンツィング Grinzing、クラプフェンヴァルドル Krapfenwaldl を経て、森の尾根筋に接近する。その後、ズルツヴィーゼ Sulzwiese 付近で180度向きを転じて、尾根伝いにカーレンベルクに至った。

*注 ヌスドルフは1999年まで Nußdorf と綴った(小文字の場合)が、新正書法に従い、現在は Nussdorf が正式表記。

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カーレンベルク鉄道と斜路リフトのルート
Image from bergfex and OpenStreetMap, License: CC BY-SA

ではなぜ、ここにいち早く登山鉄道が造られたのだろうか。歴史をひも解くと、きっかけは1873年に開催されたウィーン万国博覧会だ。来客向けの呼び物にするために、当時スイスで実用化されたばかりのラック鉄道に白羽の矢が立ったのだ。1872年3月に、発明者のニクラウス・リッゲンバッハ Niklaus Riggenbach が加わったコンソーシアムから帝国商務省に、事業計画が提出されている。同年8月に認可が下り、着工に向けて準備が始まった。

しかし通常の鉄道とは認可条件が異なり、政府の優遇措置、とりわけ土地収用の特権が受けられなかった。そのため、地主に売却を渋られたり、土地転がしに遭うなど買収交渉が難航した。資金不足のために、再調達さえ必要になった。結局、着工は1873年5月までずれ込み、工事を急いだものの、万博の会期中には間に合わなかった。開業できたのは1874年3月7日で、博覧会が終了して5か月後だった。

*注 ちなみにこの1873年ウィーン万博(和暦では明治6年)は、明治維新後の日本が初めて公式参加した国際博覧会で、岩倉使節団が見学に訪れている。

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旧ヌスドルフ駅前のラック鉄道記念の木彫りレリーフ
ただし実物ではなく写真パネルが嵌めてあった

さらに、山上には一足早く到達したライバルがいた。ドナウ河岸からレオポルツベルクの北斜面を上ってくる斜路リフト Schrägaufzug、すなわちケーブルカー(下注)で、ラック鉄道の工事がもたもたしている間に、1873年7月、オーストリア登山鉄道会社 Österreichische Bergbahngesellschaft がさっさと開通させたものだ。同社はさらにカーレンベルクの眺めのいい一等地も買い占め、万博の客を当て込んでホテルを建てた。そのため、遅れてきたラック鉄道は山頂まで入ることができず、駅をその手前600mの位置に設けなければならなかった。

*注 斜路リフトは長さ725m、勾配34%。レオポルツベルクへのケーブルカー Drahtseilbahn auf den Leopoldsberg とも呼ばれた。

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レオポルツベルクへの斜路リフト全景(1873年)
Photo at wikimedia

しかし成功裡に終わった万博の熱気が冷めるとホテルの客足が落ち、オーストリア登山鉄道会社は経営難に陥る。機に乗じて、カーレンベルク鉄道会社は1876年、同社を買収した。そして競合する斜路リフトを廃止し、その代わりにラック鉄道を標高484mの山頂まで延長した。これでようやく5.5km全線が完成し、ラック蒸機が推す登山列車が、上りは30分、下りは25分で山麓との間を結んだのだ。

線路は麓からカーレンベルク旧駅まで複線で敷かれていたが、延長区間は単線とされた。開通当初はまだラック鉄道用の分岐器(ポイント)が開発されておらず、遷車台(トラバーサー)を設置して車両の入換を行った。

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グリンツィング駅に停車中の列車、背景はカーレンベルク山頂(1875年)
Photo at wikimedia

機関車は6両在籍していた。同種の多くの鉄道のように、スイス・ヴィンタートゥールにあるSLM社(スイス機関車機械工場 Schweizerische Lokomotiv- und Maschinenfabrik)から納入された蒸機だった。一方、客車は18両が用意され、一部は革張りシートを設置した1等コンパートメントを備えていた。夏は側窓なしの形で運行され、冬はガラス窓が嵌め込まれた。機関車は客車を最大3両連れて山を上り下りした。ラック式特有の揺れと衝撃が激しく、試乗したウィーンっ子の間で、さっそく「ガックン列車 Ruckerlbahn」とあだ名がついたという。

また、鉄道は水源の乏しい山上へ水の輸送も請け負っており、そのためのタンク車2両が常備されていた。

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ヌスドルフ駅構内(1875年)
Photo at wikimedia
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カーレンベルク山上広場に置かれているラック鉄道客車のレプリカ

全線開通後、鉄道会社は積極的な旅客誘致策を講じた。ヌスドルフはウィーン旧市街から北へ5km離れている。そこで、この間に連絡のための路面軌道を造ることにしたのだ。1885年1月に認可を得て、ショッテンリング Schottenring(リング北辺)からヌスドルフまでの路線が開通した。当時、市街地はまだ馬車軌道だったので、ショッテンリングから市境(現 リヒテンヴェルダープラッツ Lichtenwerderplatz)までは馬が牽き、そこで客車は路面用の蒸気機関車に引き継がれて、ヌスドルフまで走破した。ちなみに、このルートは現在もウィーン市電D系統の一部として残っている。

さらに、1887年には山頂に、皇太子妃シュテファニー・フォン・ベルギエンの寄贈により、シュテファニー展望塔 Stephaniewarte が建てられた。駅のすぐ横にそびえる高さ22mの塔の上からは、ウィーン盆地はもとより、晴れた日には南東のライタ山地 Leithagebirge、南西のシュネーベルク Schneeberg も見渡せた。これは話題となり、この年、ラック鉄道は26万人を超える利用者を呼び込むことに成功する。だがその後、記録が破られることは一度もなかった。

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山頂に建つシュテファニー展望塔

1911年に鉄道会社は再建計画を練り、鉄道を電化するとともに、資金捻出のために沿線の住宅地開発をもくろんだ。しかし後者は、森に悪影響を与えるとして市の同意を得られず、電化工事の認可も、1914年の第一次世界大戦勃発により実現しないままになった。

戦争中も運行は続けられたが、敗戦により事態は大きく変わった。中欧に君臨した帝国が解体され、オーストリアは人口650万人の小さな内陸国になってしまったのだ。産業基盤が失われ、食糧も自足できず、深刻な不況が国を襲った。蒸機に頼る鉄道は石炭不足で運行すら難しくなった。車両整備もままならず、故障が相次いだ。

軌道資材を他の必要な鉄道に回すことになり、まず複線の片方が撤去された。そして1919年9月をもって、定期運行は休止となった。水の輸送だけは1922年4月まで維持されたが、その時点で、48年間続いたラック鉄道の命運は尽きた。線路は1925年までに撤去され、車両も老朽化していたため、すべて廃車処分された。

さて、カーレンベルクから列車の走る姿が消えて、すでに100年近くが経過している。現在、その跡はどうなっているのだろうか。

起点のヌスドルフ駅舎は鉄道施設の中で唯一現存し、レストランが入居している。また、駅とウィーン市街との連絡のために造られた路面軌道も、市電D系統の一部として健在だ。それに対して、ラック鉄道の廃線跡は、多くが車の通る道路に転換されてしまい、橋台や溝渠が断片的に残存するに過ぎない。中間駅クラプフェンヴァルドルの跡は駐車場と化し、山上駅跡は、シュテファニー展望塔がひとり空しく護り続けている。

昨年(2018年)9月にウィーンを訪れる機会があったので、廃線跡を実際に歩いてみた。次回はその状況をレポートしよう。

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旧ヌスドルフ駅舎の前にさしかかるウィーン市電D系統のトラム

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2019年1月14日 (月)

コンターサークル地図の旅-袋田の滝とケスタ地形

国分寺崖線を巡った翌日11月25日は、一気に茨城県北部まで飛んで、名勝「袋田の滝(ふくろだのたき)」を訪れた。それだけならただの物見遊山なので、ついでに滝周辺の山地に現れているケスタ地形を観察しようと思う。

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第一観瀑台から見た袋田の滝

ケスタというのは、スペイン語由来の地形用語(下注)で、層を成す岩石の硬さの違いで断面が非対称の波形になった山地のことだ。もう少し説明すると、緩やかに傾斜している地層で、硬い岩層と比較的軟らかい岩層が交互に重なっていた場合、前者は後者に比べて侵食されにくい。そのため、長い間風雨に曝されるうちに、後者が露出しているところが先に流失し、前者のところは残る。断面で見ると、片側(軟らかい岩が侵食された跡)が急斜面で、反対側(残った硬い岩)が緩い傾斜という、片流れ屋根のような形の山地になる。これがケスタ地形だ。

*注 スペイン語の cuesta(原語の発音はクエスタ)は、坂、斜面を意味する名詞。

袋田周辺では、硬い岩がデイサイトの火山角礫岩、軟らかい岩は凝灰質の砂岩や頁岩で構成されている。下図に見える生瀬富士から月居山(つきおれやま)、そして422.7mの三角点にかけて続く南北の尾根が、侵食に抵抗する硬い岩層だ。尾根の西側に崖の記号が連なり、急斜面になっているのがわかる。図の中央を流れる滝川は、尾根の東側の準平原(旧 生瀬村)から水を集めて、このケスタの壁を突破する。その地点に、袋田の滝がかかっている。

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袋田の滝周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

この日、朝方は冷え込んだが、日が高くなるにつれ、秋らしい晴天になった。東京からの列車の便を考慮して、集合時刻は遅めに設定してある。私は水戸で前泊したので、朝、水郡線を常陸太田(ひたちおおた)まで往復してから、上菅谷(かみすがや)で袋田方面へ行く下り列車を待った。やってきた329Dはなんと4両編成。袋田の滝はとりわけ紅葉の名所で、見ごろになると多くの見物客で賑わうと聞いている。そのための増結なのだろうか。

水戸から乗ってきたのは今尾さんと真尾さん、それに袋田駅前に丹羽さんが車で来ていた。本日の参加者はこの4名だ。袋田駅到着10時31分。駅に置いてあったハイキング用のルートマップを手に、駅前広場から滝方面の茨城交通バスに乗った。終点の停留所は「滝本」という名だが、バスの方向幕に「袋田滝」と大書してあるから迷うことはない。

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(左)バンガロー風の水郡線袋田駅舎 (右)1日4往復の滝本行き路線バス

滝本バス停に降り立つと、観光バスや乗用車から降りた観光客がぞろぞろと歩いている。滝へは約600m、とりあえず私たちもその流れに乗って、滝へ向かった。途中で滝川を渡り、さらに土産物屋の軒に沿って進むと、袋田の滝の矢印標識が見えてきた。この先は山の急斜面を避けて、山腹に歩行者専用のトンネル(下注)が掘られている。

*注 袋田の滝トンネル、長さ 276.6m、1979年完成。

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滝本バス停に到着。後ろの山は生瀬富士
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(左)袋田の滝入口 (右)トンネルを歩いて観瀑台へ
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滝と観瀑台の位置関係
入口の案内板を撮影

入口で300円の入場料を払って、中へ。突き当りが第一観瀑台だ。滝は四段に分かれていて、ここからは最下段が真正面になる。遠近感が狂ってしまうのか、太鼓腹のように膨れた滝の壁が手を伸ばせば届くところに見える。水音とあいまって迫力満点だ。流量が思ったより少なく、上から三段目では水流が最もへこんだ所に集中してしまっているが、最下段に来ると一転、歌舞伎で投げる蜘蛛の糸のように細かく割かれ、ごつごつした岩肌を勢いよく滑り落ちていく。

*注 滝の高さ120m、幅73mと書かれていることが多いが、1:25,000地形図で見る限り、落差はせいぜい60~70m、幅も最大約50m(四段目)だ。後述する生瀬滝を合わせても高低差は120mには届かない。

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第一観瀑台、滝の最下段が正面に来る

「これは一枚岩ですか?」と誰かが問う。だが、滝の成因などを記した案内板は見当たらない。「観光案内だけでなく、地質的な解説もほしいですね」。後で大子町文化遺産のサイトその他を見ると、滝に洗われている岩を含む周辺の火山角礫岩はおよそ1500万年前、東北日本が海の底だった頃に火山活動で生じたものだと書かれている。

溶岩流が冷却固結した後に割れて礫となり、それが堆積したものが火山角礫岩だ。冷却する際に、収縮作用によって規則性のある割れ目、いわゆる節理が発達している。後に陸化し、川の流路に露出したとき、比較的軟らかいこれら節理や断層の部分が削られて、段差が拡がっていった。岩には大きな節理が四本走っており、それが四段の滝になった理由だそうだ。

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滝の下流を望む

惜しいことに第一観瀑台では、最上段が隠れてしまい、二段目もよく見えない。そのため、第二観瀑台が上部に造られていて、エレベーターで昇ることができる。ところが、乗り場に行くと、団体客の長い列が延びていた。他に上る方法はないので、おとなしく順番を待つ必要がある。「しかし、だいぶ時間がかかりそうですね」。私たちは行列を敬遠して、トンネルの途中から吊橋のほうへ折れた。

吊橋は、滝のすぐ下で川を渡っている。ゆらゆら揺れる橋の上から足を踏ん張りながら眺めると、斜め角度で見える滝の白糸もさることながら、その横にそそり立つ断崖の威圧感が際立つ。紅葉は盛りを過ぎたようだが、飾りがなくとも地形本体だけで見応えは十分だった。

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(左)滝川を渡る遊歩道の吊橋 (右)川床には滝壁と同じ岩質の巨岩が転がっている
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吊橋から見た滝と背後の断崖

この後、ケスタ地形を俯瞰しようと、月居山(つきおれやま)へ登る山道、月居山ハイキングコースに挑んだ。吊橋の下手にある鉄製階段が入口だ。「生瀬滝まで片道20分」と記された案内板を横目で見ながら上り始めたら、直登に近い心臓破りの階段道が果てしなく続いていた。「登山では、最初飛ばすと後で疲れが来るので、意識的にゆっくり上るのがいいんです」と今尾さん。途中、木の間を透かして滝が見える場所があったが、ゆっくり眺める余裕もなく上り続ける。かなり上ったところで左へ分岐する道があり、その後ほぼ水平に進むと、小さなテラスに出た。

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月居山ハイキングコース
(左)入口の鉄製階段 (右)直登に近い階段道を行く。背景は天狗岩
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木の間を透かして滝が見えた

そこが、生瀬滝(なませだき)の観瀑台だった。生瀬滝は袋田の滝の一段分ぐらいの規模(大子町サイトによれば、落差約15m)だが、同じように数段の段差がある。さきほどの観瀑台とは違って滝までは距離があり、遠くから俯瞰する形だ。ちょうどベンチが一脚あったので、腰を下ろして、滝見がてらの昼食タイムにした。

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生瀬滝遠望

真尾さんは飛行機を予約しているので、ここで引き返し、残る3名が階段道に戻って、月居山(つきおれやま)の前山を目指した。途中、山道を勢いよく駆け降りてくるジャージ姿の高校生とすれ違う。階段で足を滑らせても、平気なようすだ。「部活のトレーニングでしょうか」「足幅分もないような狭い階段をよく走れますね、忍者みたいだな」と感心する。

階段が終わってもなお、坂道は続いた。尾根に出ると眺望が開け、右手に滝川の谷を隔てて、秋の陽に照らされる生瀬富士が見えた。赤や橙に色づいた山肌はみごとだが、その間に不気味な断崖も見え隠れしている。南西向きのこの斜面が、ケスタの壁だ。

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断崖が見え隠れする生瀬富士を、尾根道から望む
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険しい道だが歩く人は多い

山道は要所ごとにポイント標識が立ち、よく整備されている。しかし、ようやく登りきった前山の山頂には何の案内板も見当たらず、拍子抜けした。標高は約390mに過ぎないが、近くに視界を遮る峰がないので、遠くまで眺望がきく。この後は急な下り階段だ。降りきる手前にあった朱塗りの月居観音(月居山光明寺観音堂)にお参りした。その下に鐘楼もあり、誰でも鐘をつけるようになっている。

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(左)月居観音の小さなお堂 (右)観音堂下の鐘楼で鐘をつく人

前山と月居山の間にある鞍部は月居峠と呼ばれ、生瀬から袋田へ通じる近世の山越えルートが通っていた。尾根伝いの登山道とは十字に交わっている。「どの道を行きましょうか」と私。直進すれば月居山頂だが、また険しい山登りを覚悟しなければならない。

「ケスタ地形の崖じゃない側も見てみたいですね」という提案に同意して、私たちは古道を東へたどり、水根地区へ降りていった。近世の重要路も、今や落ち葉が散り敷く一筋の踏み分け道と化している。20分ほどで水根橋のたもとに出た。ひっそりとした小さな集落を低山が取り巻いている。滝川の支流の一つである水根川の流れも、まだ静かなものだ。

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(左)落ち葉散り敷く月居峠古道 (右)旧道が通る水根橋

この橋を通っているのは、袋田へ抜ける国道461号線の旧道(当時は県道日立大子線)で、1976(昭和51)年に新月居トンネルが完成するまで、主要道として使われていた。月居山の主尾根を長さ273mの月居隧道で貫いているので、歩き通せば、片流れ屋根の地形を実感できるはずだ。

道路はすぐに坂道になり、切通しの中を通過していく。カーブの先に、隧道が見えてきた。その手前で上空を水路橋が渡っているのが珍しい(下注)。隧道はポータル、内部ともコンクリート覆工で、古さを感じさせないが、実は1886(明治19)年竣工で、130年以上の歴史がある。最初は内部が素掘りのままだったが、後年改修されたのだそうだ。ポータルも煉瓦か石積みだったはずで、そのままなら文化財になっていたに違いない。

*注 水路橋は道路を横切る川を通しているが、これもコンクリート製で、明治期のものではない。

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月居隧道東口 (左)切通しで隧道へ (右)水路橋が道をまたぐ

真っ暗闇の隧道を手探りで抜けると、ケスタの崖の山腹に出た。小さな集落が道路にへばりついているが、人の気配はなさそうだ。視界が開け、久慈川の谷にかけて黄や橙に色づく山並みが一望になった。崖の側でも一歩離れたら、もう穏やかな風景が広がっているのだ。旧道は、山襞に沿って曲がりくねりながら高度を下げていく。

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月居隧道西口は斜面の中腹に開いている
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旧道から展望する久慈川の谷にかけての山並み

途中から七曲りの山道を経由して、滝本の里に出た。駅まで歩いて戻ることにしたのだが、途中、ふじた食堂という店の前まで来たとき、「どうですか」と呼び止められた。おばあさんが店先で蕎麦を打っている。長い歩きで三人とも小腹がすいていたので、ためらうことはなかった。出されたのは、太めで長さも不揃いの素朴な手打ち蕎麦だったが、おいしくいただく。その後、蕎麦湯や肉厚の梅干しを賞味していたら、長居し過ぎて、危うく水戸へ帰る列車の時刻を忘れるところだった。

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素朴な手打ち蕎麦

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図袋田(平成28年調製)を使用したものである。

■参考サイト
大子町文化遺産 http://www.daigo-bunkaisan.jp/
茨城県北ジオパーク構想-袋田の滝ジオサイト
https://www.ibaraki-geopark.com/geosite/hukuroda/

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2019年1月 8日 (火)

コンターサークル地図の旅-国分寺崖線

コンターサークル2018年秋の旅の舞台は関東に移る。11月24日の集合場所は都内、中央線と武蔵野線が十字に交わる西国分寺駅だ。この駅の構造はちょっとおもしろい。後からできた武蔵野線(1973年開通)が地表付近を突っ切り、歴史的にずっと先輩の中央線(1889年開業、下注)は、それを避けるかのように掘割の底を通っている。なぜこのような配置になっているのだろうか。

*注 路線の正式名称は「中央本線」だが、本稿の記述は列車系統で使われる「中央線」に統一する。

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国分寺崖線に沿って歩く

それは、中央線が通過する地形に関係がある。武蔵野台地の地盤が、西隣の国立駅の手前で一段低くなっているのだ。その差は10m強。加えて東側にも、野川(のがわ)が削った谷がある。この高低差を緩和するために、中央線はここで地面を深く切り通し、線路の位置を下げて建設された。対する武蔵野線はそれをまたぎ越せればいいので、結果的に地表を通れることになる(下注)。

*注 ただし、武蔵野線の西国分寺駅以南は、地表を走っていた通称 下河原線の一部を転用したという事情も影響していよう。

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(左)西国分寺駅改札内コンコース 武蔵野線下りホームから撮影
 中央線のホームへはさらに左右の階段を降りていく
(右)国分寺の花沢橋から西望
 中央線は切通しを抜け、野川の谷を築堤で横断、再び切通しへ

本日のテーマは、この地盤の段差によって生じた斜面、すなわち段丘崖だ。中央線が突破している崖のラインは、立川市北部で顕著になり、およそ南東方向に大田区まで30km以上続いていて、国分寺崖線(こくぶんじがいせん)と呼ばれる。

武蔵野台地は、もともと多摩川により関東山地から運び出された砂礫が堆積してできた扇状地だ。その後、多摩川の流路が南遷する過程で側面が削られ、段丘が形成された。西国分寺駅が載る上位段丘の武蔵野面に対し、国立の市街地は一段低い立川面にある。その境目が国分寺崖線だ。ちなみに立川面と、多摩川の沖積低地との境にも段丘崖が存在し、こちらは立川崖線と呼ばれている(下図参照)。

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国分寺崖線と立川崖線の概略位置
ベースは1:200,000地勢図(2012(平成24)年要部修正図)

この日の午前10時、西国分寺駅の改札内コンコースに集合したのは、今尾さん、大出さん、中西さんと私の4名。午後に予定が入っている人が多いので、短時間で行けるところまで行くことにして、ルートを熟知している今尾さんの案内でスタートした。

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西国分寺~新小金井間の1:25,000地形図と陰影起伏図に、歩いたルートを加筆
(破線は単独行のルート)

まず、崖線に沿って流れ下る野川の源流に足を向けた。武蔵野線のガードをくぐって、府中街道を横断し、階段を降りて恋ヶ窪の谷底へ。旧道を北へ少し歩くと、恋ヶ窪用水の由来を記した案内板が立っていた。玉川上水(後に砂川用水)からこの低地を経て、崖線沿いの旧村へ引かれていた水路だ。住宅街にはさまれて右へ、その流れと小道が寄り添うように延びている。

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姿見の池に向かう恋ヶ窪用水

たどっていくと、まもなくこんもりとした林地が現れた。中央にカルガモが泳ぐ池があり、木橋の上から園児の一団が楽しそうにそれに見入っている。これは姿見の池といい、昭和40年代にいったん埋められたものを復元整備したものだ。水は、地下水位上昇に伴う浸水対策を兼ねて、武蔵野線のトンネルで湧く地下水を引き込んでいるという。谷戸(やと、下注)と呼ばれるこうした谷間の湿地は、宅地に向かないため、まさに日陰の存在だった。時代が変わり、それが市民の憩いの場として見直されているのだ。

*注 地域によって、谷津(やつ)、谷地(やち)などとも呼ばれる。

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姿見の池も蘇り、市民の憩いの場に

池から続く谷間を下流へ歩いた。黄色い電車が颯爽と走る西武国分寺線のガードをくぐり、日立中央研究所の森を限る高い塀に沿って進む。そこをねぐらにしているのか、烏が太い声で鳴き交わしている。姿見の池から来た水は研究所内の大池に注ぎ、再び流れ出て野川となる。その先を追うには築堤上を走る中央線を横断しなければならないが、「築堤を突っ切る道がないので、陸橋まで迂回します」と今尾さん。

マンション脇の坂を上って、中央線を乗り越える花沢橋を渡った。東隣の国分寺駅がもう目の前だが、この駅のホームも掘割の中にあり、複雑な地形の起伏が実感される。それから住宅街の中の階段を降り、崖をなぞる形で蛇行する道をたどった。「泉町という町名ですね」「昔はここにも湧水があったんでしょうね」。しかし、今は斜面までびっしりと宅地化され、道に面して車庫、その上に住居という構造の住宅が並んでいる。泉どころか緑も乏しい。

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(左)野川沿いの小道、斜面もびっしり住宅で埋まる (右)野川は深い溝の中

国分寺街道と交差する一里塚橋の手前まで来ると、野川は自らの狭い谷を離れ、広い下位段丘面(立川面)に出る。私たちは崖線沿いに東へ進んだが、反対側、西約1kmにある武蔵国分寺跡も必見だ(下注)。後日一人で訪れたが、古代人が崖線を意識してこの地を選んだことがわかった。

*注 府中街道と武蔵野線をはさんで東側には、国分尼寺跡もある。

それは、ちょうど国府から北へ延びる官道(東山道)が崖線を越えようとする位置にある。現場の案内板によると、伽藍は崖線を背にして、その南面一帯に配置されていたようだ。崖線の下からは今も清水が湧き出し、中の島に祠を祀る真姿の池を潤していた。昔はもっと多くの湧水があったそうで、寺の財源である水田経営にとっても有利な場所だっただろう。崖線周辺は雑木林が保存されていて、都市化以前の風景を想像させてくれるのもうれしい。

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武蔵国分寺跡、奥に見える林が国分寺崖線
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国分寺・国分尼寺の伽藍と崖線の位置関係図
現地案内板を撮影
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(左)中の島に祠のある真姿の池
(右)崖線沿いに残る雑木林は都立公園として保護されている

話を戻そう。

国分寺街道を横断して、さらに東へ進む。崖に沿うこの一車線道は「ハケの道」と呼ばれている。崖のことを、古語で「ハケ」というからだ。しかし、鉄道駅に近いので、泉町同様、斜面もすべて家やマンションの用地にされ、段丘の上下を長い階段が結んでいる。年配の女性が手すりにつかまりながら、それを上っていく。高低差がせいぜい15mとはいえ、「毎日これで駅へ通うとしたら、どうでしょうね」。地形的にはここも「ハケ」に違いないが、植生を剥がしてコンクリート張りにしてしまってはイメージが合わない。

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(左)国分寺駅へ向かう道が急坂で崖線を上っていく
(右)住宅街にも崖線の上下を結ぶ階段が

もちろん、国分寺跡にあったような崖線の雑木林と、湧水地いわゆるハケの水が見られる場所もまだいくつか残されている。一つは、今回訪問しなかったが、国分寺駅近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園だ。もとは岩崎家の別邸で、現在は都立公園になっている。湧水が注ぐ池が深い谷底にあり、段丘上に設けられた休憩所(紅葉亭)から見下ろすことができる。崖の落差を視覚的にも利用した劇場風の回遊式庭園で、コンパクトながら見応え十分だ。

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殿ヶ谷戸庭園、紅葉亭から崖下の次郎弁天池を俯瞰
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(左)崖を流れ落ちる滝 (右)崖を斜めに下る竹の小道

私たちは、その800mほど東にある新次郎池を見た。東京経済大学の敷地内で、林に囲まれた薄暗い窪地に小さな池があり、周囲の崖下5か所から湧水が流れ込んでいる。傍らの銘板によれば、かつてここにはわさび田があったといい、新次郎というのは、それを池を整備した時の東経大の学長の名だそうだ。湧水に手を浸してみる。「おっ、暖かいですね」。今日の最高気温は13度、もはや地下水のほうが暖かく感じる季節になっているのだ。

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林に囲まれた薄暗い窪地にある新次郎池
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(左)一つ一つの湧水は少量だが (右)池の堰を落ちるときはまとまった水量に

さらに200mほど進み、貫井(ぬくい)神社の前まで来た。石の鳥居をくぐると、色づき始めたモミジを映す大きな池がある。その上に架かる朱塗りの橋を渡り、水神様(市杵嶋姫命)を祀る本堂の前に出た。建物を囲むように水路が造られ、清水が流れている。湧出口があちこちにあるらしく、奥から手前へと見る見る水量が増えていくのには驚いた。

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水神様を祀る貫井神社、朱塗りの橋で池を渡る

新次郎池も貫井神社も、同じように段丘に食い込んだ形の窪地(下図参照)だ。かつては崖を侵食するほど豊かな湧水があったことを想像させる。都市開発が進み、地表がコンクリートやアスファルトに覆われると、降った雨は雨水管に直行してしまい、地中に浸透しなくなる。減少する地下水に連動して湧き出す水量も減り、すでに枯渇したものも少なくないそうだ。

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新次郎池と貫井神社附近の1:10,000地形図

最後に訪れたのは、新小金井街道の脇にある滄浪(そうろう)庭園。大正時代に実業家の別荘の庭として造られたもので、現在は小金井市が管理している。同じように段丘上に入口があり、崖下の湧水を引いた池まで降りていける。池の周りには針葉樹やモミジが鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い森を作っていた。ハケと呼ぶにふさわしい空間だ。「お屋敷の庭といっても相当広いですね」「市街地が拡大する前のものでしょうからね。残っていてよかったと思いますよ」。

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滄浪庭園入口
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崖を降りて池のほとりへ
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鬱蒼と茂る森に差し込む光

時刻を見たら、もう12時を回っている。どこかに食べる所があるだろうと手ぶらで来たので、崖線を巡る旅をここで切り上げ、武蔵小金井駅前に出た。昼食を共にして解散する。

改札で3人を見送った後、私はハケの道をさらに下流へ歩いてみた。中央線の駅勢圏から遠ざかるにつれ、風景は郊外色を帯びてくる。国分寺界隈とは違って、住宅地の間に少なからぬ面積の緑地が点在している。地形図に示した、はけの森緑地や美術の森がそうだ。小金井第二中学校の向かいには、個人宅の表札を掲げた大きなキウイ農園(はけの森果樹園)もあった。

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(左)美術の森 (右)はけの森果樹園のキウイ畑

やがて道は、はるかに広大な緑地、武蔵野公園に入っていく。土曜日とあって、子どもたちの歓声が広い谷間にこだましている。園地を貫く野川の流れは潤いというにはささやかだが、人工物が少ない風景は自然と心が落ち着く。晩秋の日は短い。午後3時を過ぎるともう、地面に落ちる林の影が長くなってくる。野川公園は北門をカメラに収めただけで、帰途に就くべく、私は新小金井駅に通じる崖線の坂を上っていった。

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武蔵野公園
(左)遠くから子どもたちの歓声が聞こえる (右)紅葉する公園の樹々
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(左)西武多摩川線の電車が野川を渡る (右)野川公園北門

掲載の地図は、国土地理院発行の1万分の1地形図国分寺(昭和61年編集)、2万5千分の1地形図立川(平成30年調製)、吉祥寺(平成30年調製)および20万分の1地勢図東京(平成24年要部修正)を使用したものである。起伏陰影図は地理院地図ウェブサイトより取得した。

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