2009年11月 5日 (木)

樺太 豊真線を地図で追う

サハリン、日本名 樺太(からふと)は、南北約950kmもある大きな島だ。1905年のポーツマス条約、いわゆる日露講和条約によって南半分に当たる北緯50度線以南が割譲されてから1945年のロシアによる占領まで、日本の鉄道が走った舞台でもある。

Blog_hoshinsen_minimap 徳田耕一氏の「サハリン-鉄路1000キロを歩く」(JTBキャンブックス、1995)によると、最初の路線は1906年に、南岸の大泊(おおどまり、後の楠渓町駅、開通当時は和名改称前でコルサコフと称した)から豊原(同 ウラジミロフカ)間に敷かれた軍用の軽便鉄道だそうだ。1910年に内地と同じ1067mmに改軌、その後着々と延伸が進められて、1943年の国有鉄道化のときには路線延長が694.8kmに達していた。路線網の骨格をなすのが、大泊から鈴谷平野を経て島の東側を北上する東海岸線(国有化後は樺太東線)と、西岸に沿う西海岸線(同 樺太西線)、そして東西連絡の目的で建設された豊真(ほうしん)線だ。豊真という名称は、列車の起終点である豊原と真岡の地名を取ったもので、1925~28年にかけて開通し、延長は83.9kmあった(豊原~手井間)。

豊原は現在、ユジノサハリンスクЮжно-сахалинскとしてサハリン州の州都だが、当時も樺太随一の町で(1937年に市制施行)、豊富な森林資源を背景に製紙工場などが立地していた。一方、西海岸の真岡は、対馬海流と寒風を遮る山脈のおかげで、冬の間流氷に閉ざされる大泊港に代わる不凍港の一つとして利用価値が高かった。両者を結ぶ鉄道の建設は、産業のさらなる発展に貢献するものと大いに期待された。しかし、この間には西樺太山脈とその支脈が横たわっているため、それをどのように克服するかが計画の焦点だった。その結果、豊真線は、長い連続勾配やスパイラル(ループ線)を備えた樺太きっての山岳路線として知られることとなる。そのようすを当時の地形図で追ってみたい。

全体図
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上の全体図は1935(昭和10)年発行の1:200 000帝国図だ(以下の説明は地名を新字体で表記)。図の右端に豊原町がある。豊真線は南北に延びる「本線」、すなわち東海岸線から分岐して、しばらく北進した後、最初の山越えにかかる。滝の沢駅のすぐ西で峠のトンネルを抜けて、留多加(るたか)川の上流域を下っていくが、二股(ふたまた)で進路を転じて二番目の峠道に挑む。宝台(たからだい)信号所の先で峠を越えたあと、スパイラルを経て海岸の手井(てい)に降りていき、西海岸線に合流して真岡に到達する。真岡駅の手前から港への支線が確認できる。

図1
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図2
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山越えの区間を詳しく見るために、1:50 000地形図を参照しよう。最初の山越えは、豊原から2つ目の鈴谷(すずや)駅と次の奥鈴谷駅のほぼ中間、線路が北西に向きを変えるあたりから始まる【図1、図2】。20~25‰の急勾配が16kmほども続き、貨物列車を牽引する蒸機にとっては胸突き八丁の難所だったに違いない。並行する道路(豊真山道)から大きく北にはずれていることからもわかるように、これでも勾配を抑えるために直登を避けて、いわゆる高巻きのルートを採っている。張り出す尾根を切通しや計8個のトンネルでさばきながら、山襞をくねくねと縫っていくのはそのためだ。そして上り坂の終盤は、大きなS字カーブを描いて高度を稼ぐ。接続道路のない奥鈴谷はもとより、峠の手前の滝の沢も周囲に人家はなく、列車交換や補給のために設けられた駅だった。

なお、終戦直前の1945年7月、小沼~奥鈴谷間が開通したことにより、豊原~奥鈴谷間が廃止されたという(ウィキペディア日本語版「豊真線」による)。地形図には表されていないので、空中写真をもとにして図1にルートを加筆したが、これでわかるように、近くを走っていた既存の川上線とつなぐことで豊真線の短絡化を図ったのだ。未完に終わった西海岸線と同様、戦況が緊迫するなかで、調達困難なレールなどの資材を国境付近の軍事路線に転用するのが目的だったと思われる。その後、ソ連時代になってもとのルートに戻されたため、この区間は廃線となった。

また、引用した地形図には短絡線分岐地点の線路の北側に、築堤と切通が描かれている。一見旧線跡のようだが、この区間の開通が1928年、地形図の測図はわずかその1年後だ。単純に線路改良とみなすには無理があるものの、真相は不明だ。

図3
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本論に戻ろう。滝の沢駅は標高407mと、この路線のみならず樺太全体で最も高い地点にある駅だった。道路は南にそれて標高523mの春日峠を乗り越えていくが、鉄道は長さ1km弱のトンネルで西に抜け、混合樹林に埋め尽くされた中野川の脇を、小刻みなカーブを繰り返しながらひたすら下っていく【図3】。左から大曲川と道路が合流する頃には、谷も少し開けて中野駅に着く。峠の前後は駅間距離が長く、1930(昭和5)年5月の「汽車時間表」(日本旅行協会)によると、奥鈴谷~滝の沢間は13.4km、滝の沢~中野間は12.9kmもあって、いずれの区間も列車は30~40分を要している。

図4
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まもなく中野川の蛇行が始まって、流域の勾配が緩くなったことを知らせる。清水駅を経て、一帯の行政区である清水村の中心、逢坂(おうさか)に立ち寄るために、榊原峠の南側を短いトンネルで抜ける【図4】。逢坂駅は集落の中心から7~800m離れているが、すでに駅前集落が形成されつつある。

道路はそのまま西へ進んで熊笹峠を越えるのだが、線路は南へ向きを変えて、逢坂川に沿って下る。清水川が合流して留多加川と名を改めた二股駅付近は、谷幅が1km以上にもなって、山中ながら車窓に広々とした眺めが展開したはずだ。標高も128m(駅北の標高点による)まで下がってきた。しかし、のどかな風景もここまでで、西海岸に出るためには、二つ目の山越えを準備しなければならない。

図5
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図6
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留多加川を渡るところで、ルートは大きく東側にたわんでいる【図5】。不自然な迂回に見えるが、等高線を読むと、二股の集落が載っている河岸段丘から一段下に降りようとしているようだ。横断する際の土工量を減らすためだろう。話はそれるが、地形図ファンなら、すぐ南の沼倉沢の谷が河川争奪を受けて、留多加川に短絡していることに気づくはずだ。谷頭に池があり、断ち切られた断面がぽっかり空いた、いわゆる風谷になっていることで判断がつく。線路はかつて沼倉沢の上流だったはずの谷に沿って上っていく。

この沢登りは前者ほど深くはなく、峠の手前にある宝台駅(地形図では信号所、1933年に駅に昇格)まで二股から9.1km、峠の下を抜けるトンネル入口の標高も約240mに過ぎない。しかし、峠の向こう側には、当線の名物となったスパイラル、いわゆる宝台ループ線が控えている【図6】。線路は直線状に尾根を2本串刺しにしてから、反時計回りに降りていく。上下の線路が立体交差する地点では、上部側を上路トラスの鉄橋にして、トンネルから出てきたばかりの下の線路を斜めにまたいでいた。このような凝った線形にしたのは、1.5kmほどの直線距離で100m以上ある高低差を一気にかせぐためだ。ループ線そのものの延長は1643m、高低差約36mという(「サハリン-鉄路1000キロを歩く」による)。

これで急勾配は去り、あとは手井川に沿ってゆっくり下っていく。池ノ端駅は地名の由来である貯水池より1km以上も川上で、集落も見当たらない。これも列車交換用に設けられたのだろう。地図に樺工貯水池とあるのは、真岡にある樺太工業(のち合併して王子製紙)の製紙工場のための用水池だ。線路はその北側を抱き込むように通過し、まもなく海岸線に出て、西海岸線との乗換え駅手井に到着する。真岡へは海岸沿いにもう1駅だ。

先述の汽車時間表では、豊原~真岡間86.9kmに4往復の旅客列車が設定されていて、途中、中野と手井にだけ停まる最速列車で所要2時間58分、各駅停車は4時間以上を費やしている。ソ連時代になっても運行は続けられたが、1970年に最狭部のアルセンチェフカАрсентьевка(真縫)~イリインスクИльинск(久春内)間に北部横断線が開通すると、東西交通の主流はそちらに移行した。急勾配の連続もさることながら、トンネルの断面が狭軌限界のため、大陸の広軌用車両を台車だけ狭軌に交換しても通行できないことが、貨物列車の運行には致命的だったからだ。

ペレストロイカが進んだ1989年以降は外国人観光客のツアー列車にも開放されていくが、1994年、トンネル内で落盤が発生して通行不能に陥る。時すでに地域の旅客輸送は機動性のあるバスに置き換えられつつあったため、結局復旧の手が入ることなく中間部は放棄されてしまったという。

■参考サイト
ウィキペディア 豊真線 http://ja.wikipedia.org/wiki/豊真線
ウィキペディア 宝台ループ線 http://ja.wikipedia.org/wiki/宝台ループ線

ソ連時代の地形図に描かれた豊真線は、下記で紹介している。
本ブログ「ロシアの鉄道を地図で追う」 サハリン島のループ線
http://homipage.cocolog-nifty.com/map/2008/05/post_b431.html

使用図幅:
陸地測量部1:200 000帝国図 豊原1935(昭10)年製版
陸地測量部1:50 000地形図
豊原、小沼、以上1929(昭4)測図
逢坂、瑞穂、樺太眞岡、廣地、以上1930(昭5)測図

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2009年10月29日 (木)

ルクセンブルクの地形図

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2002年度版カタログより

ルクセンブルクLuxembourgは、正式名をルクセンブルク大公国Grand-Duché de Luxembourgといい、中世以来ネーデルラントと総称されて関係の深かったベルギー、オランダとともに、ベネルクスBenelux三国を構成している。周囲をフランス、ベルギー、ドイツに囲まれ、面積は2,586平方キロと、神奈川県(2,416平方キロ)程度という小さな内陸国だ。

注:Luxembourgの日本語表記については、在日大使館の公式サイト(下記)では「ルクセンブルグ」とされているが、本稿では一般的な「ルクセンブルク」を採った。なお、フランス語読みはリュクサンブール。

国土全体を見渡すと、中央を東西に貫く川がある。ライン川の支流モーゼル川Moselに流れ込むジュール川Sûreで、ルクセンブルクの大地に降った雨は大方この川へ集まってくる。そして、地勢もこのあたりを境に変化する。南側はフランスのロレーヌ地方につながる緩やかな丘陵が広がるのに対して、北側は、標高500m前後のアルデンヌ高地が深く侵食されて、襞のような谷間ができている。主要道路は見晴らしのいい尾根筋を走るが、坂道に弱い鉄道はそうもいかず、細かく蛇行する谷底をすり抜けるようにして進む。そのような様子が、この国の地形図を眺めるとよくわかる。

小国とはいえ、ルクセンブルクの官製地形図の体系は隣接する大国にも決して見劣りしない。作成元である地籍・地形管理局Administration du Cadastre et de la Topographieのサイトに簡単な紹介がある。

「(管理局は)ルクセンブルク大公国の全土をカバーする地形図作成に責任を負っている。縮尺1:25 000の最初の地形図は、フランス国土地理院との共同作業によって1954年には実現されていた。その後、読み易さを高めるために縮尺が1:20 000に変更された。ここから1:50 000、1:100 000、そして1:250 000地図が編集された。地図はすべて空中写真をベースにして、写真測量法により製作されてきた。改訂の頻度は平均10年だった。コンピュータの進歩で、ディジタル方式の基図の需要が急速に増してきた。これを受けて本局では、ディジタルデータベースをもとにして1:20 000、1:50 000、1:100 000のそれぞれ新版を製作する数か年計画を実行に移した。」このように、ルクセンブルクの地形図製作は、戦後一貫してフランス国土地理院IGNが請け負っていて、そのことは地図にも注記されている。

それでは、縮尺の小さなものから順に内容を紹介していこう。1:250 000はA3版のごく簡易なものだ。交通網、水系、植生(森林)、行政界が表示されているが、地勢表現はない。1991年以来更新されず、継続が放棄されたかと思っていたが、2009~10年に修正版を刊行すると予告が出た。しかし、この程度のサイズなら販売するまでもなく、ウェブ上で公開するほうが利用者にとっては便利だろう。

Blog_luxembourg_100k 1:100 000も全国を1面でカバーする。100×110cmの大判用紙を使用した折図で、地名索引は別刷りになっている。右写真は筆者の手元にある1987年修正版だ。当時はフランスの図式をそっくり適用していたので、表紙が異なるものの、色使いを含めてもう一つのフランス1:100 000地形図とでもいうべき体裁だった。余白には首都東郊のキルシュベルクKirchbergにあるヨーロッパ・センターCentre Européen(EUの諸機関が立地)の見取図が配されて、同国が国際的に果たしている役割を強調していた。

1:100 000の最新作である2006年版を実見したことがないので、地図商のサイトを当たってみたところ、どうも図式が一変しているようだ。集落の記号がいわゆる黒抹家屋からベタ塗りの総描に置き換えられたのはフランスの新図と同じだが、肝心の等高線が消えてしまい、地勢の表現はぼかし(陰影)だけになっている。旅行情報ははるかに充実したようだが、断片的な画像で見た限り、まるで市販の道路地図と変わらず、地形図としての機能は半減してしまった。

Blog_luxembourg_50k 1:50 000は、1970年代までフランスと同じ東西0.40gr、南北0.20grの範囲で区切った図郭で(grはグラードと読む。下記「フランスの1:25 000地形図」参照)、全土で10面を要した。その後、大判用紙を充てて、南北2面でカバーするように改められた。ここでもフランスの図式が準用されていて、地勢表現は10m間隔の等高線とぼかしを併用している。手元にある1993年版(右写真はその表紙)は黄、緑、青、黒の4色刷で比較的地味な色調だが、2000年版からはプロセスカラー化(CMYKの4色)されている。ハイキングルートが表示され、表紙もカラー写真を配するなど、かなり改良が加えられた一方で、フランスのような目障りなグリッド(方眼)は付されなかった。かつてのドイツのように通常版と旅行情報付加版Édition touristiqueが並行して刊行された時期もあったが、直近の2007年版は後者に一本化されたようだ。

1:20 000は、冒頭の引用にもあったように既存の1:25 000を単純拡大したものから始まっている。4色刷りで、図郭は1:50 000を4等分し、30面で全国をカバーしていた。筆者が当地を旅した1988年は1:20 000が出始めた頃で、市内の書店の地図売場にまだ1:25 000の旧版(1979年版など)がたくさん残っていた。

Blog_luxembourg_20k_ct 拡大版1:20 000は、その後1998~2000年にかけてディジタル図化による新版全21面に置き換えられた(写真左側は表紙、右側は索引図のついた裏表紙)。TCシリーズSérie TCと称したこの新図もフランスIGNの手で作られたものだが、図式デザインは、フランスの1:25 000新図式をもとにしつつも、より明解な印象だ。等高線は5m間隔で、ぼかしも加えられているが、ごく薄い。道路や鉄道の記号はフランスとほぼ同じだが、プロセスカラーの利点を生かして、独立建物が市庁舎、農業用、工業用、公共用、商業用、その他と6色に分類され、市街地はかなりカラフルになった。植生も針葉樹林、広葉樹林などを緑のトーンを微妙に変えて、ていねいに塗り分けている。

このような美しい地形図にもかかわらず、今ではCD-ROMのみの供給になってしまった。もとの21面をシームレスに見ることができて価格12ユーロというのは格安だが、紙地図の廃止は鑑賞派としてはすこぶる残念だ。

Blog_luxembourg_20k_r現在、この縮尺による紙地図は、RシリーズSérie Rという旅行情報付加版Édition touristiqueしかない(写真左側はRシリーズの表紙、右側は索引図のついた裏表紙)。こちらの用紙はさらに大判で、10面で全土をカバーする。ベースマップは上記の1:20 000そのものなのだが、旅行情報を引き立たせようとややグレーがかった色調にしたため、クリアな持ち味が減殺されてしまった。ちなみにRシリーズというのはrégionaleの頭文字を採ったものだ。1990年代に出た前身の旅行図シリーズ(6面で中断)が、区分図に対して集成図のような意味合いで「地方図Carte régionale」と名乗っていたのを引き継いでいる。

これらの地形図は、作成元に書面で直接発注するか、欧米の主要地図商から入手できる。

■参考サイト
地籍・地形管理局 Administration du Cadastre et de la Topographie
http://www.act.etat.lu/
1:20 000 Rシリーズ サンプル画像 http://www.act.etat.lu/carter.html
在日ルクセンブルグ大使館 http://www.luxembourg.or.jp/

本ブログ「フランスの1:25 000地形図」
http://homipage.cocolog-nifty.com/map/2009/05/125-000-c61a.html
「官製地図を求めて-ルクセンブルク」
http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_luxembourg.html

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2009年10月22日 (木)

オランダのサイクリング地図

Blog_netherlands_cyclingbrochure クラシックな街乗り用、それがオランダ製自転車の典型的なスタイルだ。王室ご用達のガゼル社Royal Dutch Gazelleが有名だが、黒塗りで、チェーンガードやドレスガードがつき、バックペダルブレーキも健在で、いかにも実用本位という印象がある。国外ではダッチバイクDutch Bikeの名で知られるこのタイプを、現地ではオマフィツomafiets(発音は「オ」にアクセント)と呼んでいる。訳すと、おばあちゃんの自転車(つまり、ババチャリ?)だそうだ。

オランダからドイツ北部、デンマークと、北海に面する一帯はヨーロッパの中でも自転車の利用率が高い地域なのだが、中でもこの国は自転車王国を自認する。自転車協議会Fietsberaadの資料(下記サイト)によると、2004年の1人あたり自転車保有台数はドイツ0.77台、デンマーク0.83台に対して1.11台と、人より自転車の数のほうが多い。1人でレジャー用と通勤通学用の2台を使い分けるのも珍しいことではない。

なぜそれほど自転車が普及しているのだろうか。地形が平坦なことはこの地域に共通する特徴だが、平坦ゆえの強い風が利点を相殺してしまう。そうではなく、最大の要因は国の政策にある。たとえば、車は市街地に入りにくくされ、駐車場は少なく、時間制限がある。車と自転車の衝突事故では法律上、車の側に厳しい責任が課せられる。一方で自転車通勤者には、所得税控除の制度があるという。このように、クルマよりも自転車が有利だと思わせる施策が徹底されているのだ。その結果、外出の際の交通手段を聞いた調査でも、自転車で行くという回答が、距離が7.5kmまでなら34%に達し、自動車利用の36%と拮抗している。高速道路の無料化を検討しているどこかの国も、本来取るべき方向はこちらのほうではないだろうか。

自転車の普及には、専用道fietspad(英語のcycle path)の整備も寄与している。LF-routeという略称が定着している自転車国道Landelijke Fietsrouteの総延長は、4500kmに及ぶ。さらに、地方自治体や地域の民間団体が管理する地方道がある。LFルートを長距離旅行用とすれば、地方道の周遊ルートRundfahrtenや支線網は、所用や日帰り旅に利用されている。各自転車道が交差する地点、すなわち接続ポイントKnotenpunktには、高速道路のインターチェンジのように番号が振られているし、町に入れば観光案内所VVV(フェーフェーフェーと読む)や自転車店で必要な情報が手に入る。自転車旅行が当たり前にできるシステムが見事に構築されているのだ。

■参考サイト
自転車協議会Fietsberaad「オランダのサイクリング Cycling in the Netherlands」(英語版)
http://www.fietsberaad.nl/library/repository/bestanden/CyclingintheNetherlands2009.pdf
 冒頭の写真はその表紙。Fietsberaadのサイト http://www.fietsberaad.nl/ ではこれ以外にも多数の自転車関連資料が公開されていて、参考になる。

LFルート http://www.fietsplatform.nl/routes/
ガゼル社 http://www.gazelle.nl/

Blog_netherlands_cyclingmap1さて、ドライバーのために道路地図があるように、サイクリストには自転車道地図(サイクリングマップ)が必要だ。全国をカバーするものとしては、ANWBとファルク社Falkが出している。

ANWBの名称は、1883年の創立当時に名乗っていた全オランダサイクリスト連盟Algemene Nederlandse Wielrijdersbondの頭文字をとったもので、現在の正式名称は王立オランダツーリスト連盟ANWB、De Koninklijke Nederlandse Toeristenbond ANWBという。業務範囲は百数十年の間に、自転車から自動車、保険、旅行情報の分野へと拡大してきた。地図出版もその一環だ。興味深いのが、1919年から継続しているという、路傍に道標を設置する事業だ。そのずんぐりした形状から、きのこを意味するパッデストゥルpaddestoelと呼ばれる道標は、国じゅうのいたるところで黙々と道案内に携わっている。ANWBの中縮尺図を見れば、「きのこ」のある場所とその識別番号がわかる。

Blog_netherlands_cyclingmap1_index 「ANWB地形図 ANWB Topografische kaart」はその名が示すように1:50 000官製地形図を独自の図郭で集成した、全国を25面でカバーするシリーズだ(右上写真はその一つ、フェリュヴェ北部Noord-Veluwe。右はシリーズの索引図)。耐水性のある合成紙を使い、両面印刷されている。価格表紙に「自転車道とANWBきのこを追加Met fietspaden en ANWB Paddenstoelen」とあるように、この2種の地図記号だけがオリジナルとの相違点だ。地形図がベースマップなので、一般的な情報量は申し分ないが、自転車地図として見ると、区間距離の記載がなく、市街地の自転車道が省略されているなど、物足りない部分もある。

Blog_netherlands_cyclingmap2これに対して、「ANWBサイクリング地図ANWB Fietskaart」(右写真)はANWBのオリジナル地図だ。縮尺は1:75 000、普通紙に両面刷りで、全国を17面でカバーする。ベースマップは交通網、市街地、水系、植生などを表した比較的シンプルなデザインに抑えられ、等高線のような地勢表現もない。自転車道に関する情報(LFルート、区間距離、接続ポイント)が目立つように濃い色で置かれ、さらに道路勾配、修理工場、案内所、「きのこ」、それ以外の目標物(駐車場、発電所、灯台、テレビ塔など)、自然・文化施設といった記号が配されている。余白には、収録地域の見どころの紹介がある。

また、これを地図帳に仕立てた「ANWBサイクリング地図帳ANWB Fietsatlas」も刊行されている。A5版のコンパクトサイズで、北部と南部の2分冊となっている。

Blog_netherlands_cyclingmap3 ANWBが黄色系の表紙をまとうのに対して、ファルク社のサイクリング地図は、緑の表紙だ。VVVのマークを大きく掲げて、地域の観光局とのタイアップを強調している。区分図の縮尺は1:50 000で、普通紙に両面刷り、全国を20面でカバーする(右写真。右下はシリーズの索引図)。

ベースマップはオリジナルで、縮尺は違うもののANWB版と同じようなつくりだ。ただし、1:50 000という少し大きめの縮尺を生かして、道路網や目標物の表示はANWBより詳しく、市街地の自転車道もきちんと描き込まれている。LFルート、区間距離、接続ポイントといった必須情報に漏れはないが、ライバル(?)の「きのこ」には言及していない。裏面には、全長40km前後の日帰り周遊推奨コースがいくつか紹介されているので、具体的な旅行のイメージが作れるだろう。町や村のVVVの連絡先やURL、ささやかながら地名索引までつけられて、丁寧に作られた地図だ。

Blog_netherlands_cyclingmap3_index これらの地図は、欧米の主要な地図商で扱っている。

■参考サイト
ANWB http://www.anwb.nl/
 ショッピングサイトはあるが、国内対応のみ。サンプル地図はイギリスの地図商Stanfordsのサイトで見ることができる。
 ANWB地形図
 http://www.stanfords.co.uk/stock/netherlands-anwb-50k-topographic-survey-maps/
 ANWBサイクリング地図
 http://www.stanfords.co.uk/stock/netherlands-anwb-75k-cycling-maps/

オランダ・ファルク社 http://www.falk.nl/
 インタラクティブのサイクリング地図がある。地図カタログはOnline winkelにて。

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2009年10月15日 (木)

オランダの地形図地図帳 III

ここでは、オランダの地形図地図帳でまだ触れていないものを概観しておきたい。

1980年代のヴォルテルス・ノールドホフ社Wolters-Noordhoffに始まる地図帳製作の伝統は、ANWBを経て、現在、12州出版社Uitgeverij 12 Provinciënに受け継がれている。12州とは言うまでもなくオランダの州Provincieの数で、同国の地図業界の一翼を担うのにふさわしい社名といえるだろう。「オランダの地形図地図帳 I」でも少し言及したが、同社は、ANWBに代わって現行地形図の地図帳を刊行し始めている。うれしいことに価格も引き下げられた(1:50 000地図帳の場合、ANWBの49.95ユーロに対して12州は定価44ユーロ、本年11月1日まで特価29.95ユーロ)。

Blog_netherlands_historicalatlas2 しかし、同社の本領はむしろ、各種揃った旧版地形図の地図帳にある。その一つ、「軍用地形図地図帳Atlas van Topografische Militaire Kaarten」(写真)では、19世紀半ばのオランダの土地景観をつぶさに知ることができる。収載されている軍用地形図(頭文字からTMKと呼ぶ)とは、「オランダの地形図地図帳 II」で紹介した彩色測量原図を単色で石版印刷したもので、1864年に製作を完了した全国を同一縮尺(1:50 000)でカバーする最初のシリーズだ。全部で62面あり、一般にはスタフカールトStafkaart(参謀本部地図の意)の名で親しまれた。墨1色だが、ルーペを要すると紹介されているとおり、居住地や砂丘の起伏など、感心するほど詳細に描き込まれている。地図帳では原図1面を4分割(縦横2分割)して、見開きに収める。判型23×32 cm、全448ページ、巻末に地名索引がついている。

Blog_netherlands_historicalatlas3 その100年後(20世紀半ば)の状況がわかる「オランダ地形図地図帳1955~1965 Atlas van Topografische Kaarten Nederland 1955-1965」(写真)も刊行済みだ。判型は35×25cm、全314ページ(うち地図276ページ)。標記の年代に作成された全国の1:50 000地形図をフルカラーで収めている。写真製版のため、直接製版のようなシャープな画像ではないものの、判読に支障ない程度の解像度にはしてある。

広告のキャッチコピーには、「若かりし頃の地図帳Atlas van mijn jeugd」とある。50~60年前の地図を読み解くというだけなら純粋に理知的な作業だが、そこに郷愁とか感傷とかの味付けを示唆しているわけだ。もちろん筆者のように記憶を共有しない余所者に対しても、親切な編集がなされている。現代の地形図地図帳と図郭の切り方を揃え、かつ1kmグリッドの座標値を図の周囲に記載してあるので、新旧の対比がすぐにできるのだ。ANWBの現代版地図帳とはフリーラント島Vlieland以降2ページ分ずれるが、自社版の最新地図帳ではおそらくページ数も合致させているはずだ。

1960年前後にはまだ多くの地方鉄道路線が残っている。北海運河Noordzeekanaalは拡幅前だし、フレーフォラントFlevolandの干拓も南半は未達成だ。それに都市の輪郭がどこも小ぢんまりしている。1:50 000は1959年に図式が変更されて、総描化の傾向が強まったのだが、地図帳では双方の図式の地図が混在しているので、その比較も興味深い。

新旧比較に関しては、それ自体をテーマにした地図帳が作られている。オランダ語ではデュッベルアトラスDubbelatlas(英語のDouble Atlas)と名づけられていて、意味は新旧対比地図帳ということだ。見開きページの左右に、同じ図郭の旧と新の地図がレイアウトされて、比較するのに何の手間も要らない。

Blog_netherlands_historicalatlas4 現在入手できるものを挙げると、まず赤と紺に塗り分けた表紙が目を引く「地形図対比地図帳Topografische Dubbelatlas」がある。1868年に完成した1:200 000軍用地形図(単色)と官製ではない2001年の1:200 000地図を対比したものだ。この縮尺は広範囲を概観するのに適しているので、内湖・湾の干拓地化や、道路・鉄道・運河など交通網の変遷がよくわかる。装丁も一風変わっていて、旧の綴りと新の綴りを表紙の内側でつなげた形にしてあり、左右とも開くと4ページ分を一気に見ることができる(写真は測量局のカタログから)。

Blog_netherlands_historicalatlas5 「若かりし頃の地図」と現代の地形図をダブルにしたものもある。州別に刊行されていて、現在は北ホラントNoord-Holland、南ホラントZuid-Holland、ユトレヒトUtrecht、ゼーラントZeelandの4点が出ている。書名は上記と同じタイトルで、北ホラント州なら「Topografische Dubbelatlas Noord-Holland 1:50.000」(写真)となる。旧図のソースは「若かりし頃の地図」と同一で、見開きの両面に旧と新を配置している。全国版はけっこうかさばるから、おらが州に特化した地図帳のほうがニーズが高いのかもしれない。いずれも12州出版社が刊行している。

1:25 000の旧版地形図も地図帳化も行われている。ヴォルテルス・ノールドホフ社の現代版「州別大地図帳Grote Provincie Atlas」と同時期の1989~90年に、ロバス社Robasから 刊行された州別の「旧版地図帳Historische atlas」全11巻がおそらく最初だろう。収載にあたって、原図の保存状態が悪い場合は後世の修正版と差し替えたりしたために、地図の製作時期は1865年から1933年まで大きく分散している。

続いて、ヴォルテルス・ノールドホフ社からは1992年に「州別旧版大地図帳Grote Historische Provincie Atlas 1:25.000」が刊行されたが、これは「オランダの地形図地図帳 II」の「オランダ旧版大地図帳Grote Historische Atlas van Nederland」で使われた1:50 000測量原図を2倍拡大したものだ。

Blog_netherlands_historicalatlas6 上記2種の地図帳は現在すべて廃版になっているが、ロバス社版で使われた1:25 000地形図、正式名ネーデルラント王国彩色地形図Chromo-Topografische Kaart van het Koninkrijk der Nederlandは、12州出版社の州別「旧版地形図地図帳Atlas van Historische Topografische Kaarten」(写真)に収載されており、こちらは現在8巻まで刊行済みだ。ちなみにこの地形図のオリジナルは24×40cmのサイズで、オランダ全土を776面でカバーする。地図帳では1面を見開き2ページに収めて、美麗な手彩色図面の詳細を余すところなく伝えてくれる。

Blog_netherlands_historicalatlas7 ここでは紹介しきれないが、ほかにも都市図の歴史地図帳(SUN社、右写真はデン・ハーフ歴史地図帳)、空中写真の地図帳(12州出版社)などがあって、オランダの地図出版は傍目に羨ましいほどの隆盛ぶりを見せている。

■参考サイト
12州出版社の近刊紹介 http://www.12prov.nl/
 サンプル地図も数多く掲載されている。
12州出版社のショッピングサイトhttps://www.kaartenenatlassen.nl/
 Historische atlassen、Topografische atlassenに、ここで紹介した地図帳がリストアップされている。

19~20世紀オランダ市販地図史(英語版)The Topographic Record of the Netherlands 1800-1992 for Sale
http://liber-maps.kb.nl/articles/distr-00.htm

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2009年10月 8日 (木)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史

Blog_vennbahn_minimap ベルギーの詳しい地図を眺めた人は、2か所の奇妙な国境線に目を奪われる。一つは北部で、オランダ領の町の中にガラスの破片のように散乱しているベルギーの飛び地だ。これはバールレ・ヘルトフBaarle-Hertogと呼ばれる地区で、錯綜していた貴族の旧所領が、オランダからの独立で固定化されたことに由来する。もう一つは東部で、ドイツ領内に回廊状にはみ出しているベルギー領だ。それにブロックされる形で、ドイツの領土は本体と切り離されて飛び地になっている。

この不思議な回廊は、もとはプロイセン王国(当時はドイツ帝国の一部を構成)の鉄道の線路敷きだったのだが、第1次大戦後の国境を画定する際に、ベルギーの強い主張で帰属が変えられた経緯をもつ。鉄道は、強風と冷たい霧雨が襲う森と湿原の国境地帯、ホーエス・フェン(上フェン)Hohes Vennを越えている。ドイツ語でフェンバーンVennbahn、すなわちフェン鉄道と呼ばれるのはそのためだが、建設の主要な目的は観光用でも、地域の足としてでもなかった。そして20世紀前半の激動する国際情勢の中で、次々とその性格を変えていった。時代に翻弄され続けたフェン鉄道、そこに託された使命とは、いったい何だったのだろうか。話は1885年からスタートする。

Blog_vennbahn1 右の図をご覧いただきたい。ともすると飛び地の部分にスポットが当てられがちだが、フェン鉄道の最初の計画は、アーヘンAachen付近とアイフェルEifel地方のプリュムPrümを結ぶという、延長100kmを越える大規模なものだった。次いで、南のルクセンブルク領に至る連絡線が追加され、近傍の町への支線も同時に建設されて、一帯のネットワークが形成された。図では当時のドイツとベルギーの国境を赤の+で示しておいた。ルートがベルギー領内に一切かかっていないことに留意したい。

鉄道は、最小半径300m、最急勾配16.7‰(1/60)で設計された。最初に開通した区間は、アーヘン郊外のローテ・エルデRothe Erdeからフェン高地の東側にあるモンシャウMonschau(Montjoie)までで、1885年のことだ。その後、順次延伸され、1889年にはルクセンブルク領のトロワヴィエルジュTroisvierges(ドイツ語ではウルフリンゲンUlflingen)で、首都ルクセンブルクLuxembourgへ通じる路線に接続を果たして、計画はいったん完了した。

ひたすら南を目指した理由は、北のアーヘンやルールRuhr地方を南のルクセンブルクとロレーヌ(当時はドイツ領ロートリンゲンLothringen)とを最短距離で結ぶためだった。貨物列車は北で産出する石炭やコークスを南の製鉄所へ運び、帰路はロレーヌの鉄鉱石や粗鋼をルールの工業地帯に送り込んだ。産業鉄道として成功し、輸送量は順調に増加した。1894年から複線化が開始されたことがそれを実証している。

ただし、輸送力の増強にはもう一つ隠された意図があった。というのは、普仏戦争(1870~71)以来、ドイツはフランスと常に緊張関係にあり、有事に備えた西部国境線の軍備増強を着々と進めていたからだ。フェン鉄道はそのための輸送路と位置づけられ、複線化と並行して、荷解きのための側線整備や待避線の延長など、軍用列車の運行を想定した駅機能の拡張が行われた。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍はベルギーに侵攻し、占領を開始した。鉄道は予定どおり軍事輸送に集中的に使われたが、同時に、近隣の路線への連絡支線が、初めから複線で次々と建設されていった。ヴァイヴェルツWeywertz~ユンケラートJünkerath(通称、フェン横断鉄道Vennquerbahn)、ヴィエルサルムVielsalm~ボルンBorn、ザンクト・フィトSt Vith~グーヴィGouvyなど、当初の計画線以外の路線はこのときに開通したものだ。

ドイツの敗北と1919年6月に調印されたヴェルサイユ条約は、フェン鉄道の運命を一変させることになる。鉄道の沿線、オイペン郡Kreis Eupenとマルメディ郡Kreis Malmedyがベルギーに帰属することになったからだ(ベルギーでは東部地方Cantons de l'Est / Ostkantoneと呼んだ)。新たな国境がヴァルハイムWalheimとレーレンRaerenの間に引かれたため、両駅が国境駅となった。

Blog_vennbahn2 ところが、ルートの北部には、まだドイツ領を通過する区間が残っていた。これに対してベルギーは、条約によって得られた領土の南北を連絡するのだから、この鉄道は自国領になると強く主張した。条約第35条には、両国間の新たな境界線について、経済的要因と交通手段を考慮しながら調停する国際調査委員会の設立がうたわれていた。委員会はベルギーの主張を認め、1921年11月に鉄道の所有地はベルギーに割譲された。その結果、ドイツの領土は分断されて、大小5個の飛び地が生じることになった(右図)。

異例の措置は、ドイツ側の周辺住民を大いに戸惑わせた。当該区間には北からレトゲンRoetgen、ラマーズドルフLammersdorf、コンツェンKonzen、モンシャウMonschau、カルターヘルベルクKalterherbergの5つの駅が含まれていた。鉄道の両側に住む者は国境(すなわち踏切)を越えて行き来できるのか、鉄道を今までどおり利用できるのか、運賃はどの国の通貨で支払うのか...。委員会はその調整に1年を費やし、次のように取り決めた。

当該区間の駅名はドイツ語とする(フランス語由来のモンジョワMontjoieから1918年に改称したばかりのモンシャウMonschauを含めて)。鉄道敷地の通行や横断はベルギーの警察や税関の審査を受けない。駅窓口に関するドイツの鉄道規則はベルギー鉄道でも準用する。区間各駅からドイツ国内へ向かう旅行者にはドイツの国内運賃制度を適用する。運賃支払いは両国の通貨が使用できる。ベルギー国鉄が全ての列車を運行する。各駅停車列車は区間の両端で両国の税関検査を行う。通過列車については区間走行中は施錠する(いわゆるコリドアツークKorridorzug)等々。

軍用列車の通行は続いていた。荷主はベルギー軍となり、ドイツから接収したエルゼンボルンElsenborn演習場に向けて、レーレン西方に作られた短絡線経由で最寄のズールブロットSourbrodtまで走った。一方、産業鉄道としての役割は、ベルギー国鉄に移管されたことで大きな影響を受けた。ロレーヌはフランスに返還され、ルクセンブルクもドイツとの関税同盟を離脱してしまい、何度も税関を通らなければドイツに到達できない貨物輸送は、とても現実的とは言えなかった。1926年には優良顧客であったアーヘンの製鉄所も閉鎖された。

1929年に起こった世界恐慌とそれに続くナチズムの台頭は、通行量のさらなる衰退を招いた。ドイツ領沿いの区間では、ナチの信奉者による妨害が多発し、軍用列車も安全のため、迂回を強いられた。過剰な設備を維持する意味が薄れ、ベルギー国鉄は1937~38年にかけて、レーレン以南の単線化に踏み切った。

1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。1940年5月、ドイツによるベルギー占領と同時に、東部地方はドイツに強制併合された。フェン鉄道の運行もドイツ国営鉄道Deutsche Reichsbahnの手に渡り、フランスやベルギーに駐留する軍隊の補給路として利用された。ドイツの敗色が濃くなった1944~45年の冬、濃霧が支配する高地の気候を利用して、ドイツ最後の反撃といわれるバルジの戦いがこの地方で仕掛けられた。結果は失敗に終わり、戦場となったフェン鉄道沿線では、後退するドイツ軍と進攻する連合軍の双方によって、鉄道施設は大きな被害を蒙った。ドイツ軍の撤退後、順次復旧が進められたが、トンネル内部が崩壊した南のロマーズヴァイラーLommersweiler~ロイラントReuland間や一部の支線はついに再開されることはなかった。

産業路線から国威を発揚する政治路線へ、そして軍事路線へと時代の要請に黙々と応えてきたフェン鉄道だが、第二次大戦後はその存在理由をほとんど失ってしまう。1950年代以降、地方の鉄道に降りかかった運命はどれも似たようなものだ。とりわけフェン鉄道にとって致命的だったのは、国境地帯に沿って延びているために貨客の流動方向に合わないことだった。

飛び地の前後では定期の旅客列車は二度と設定されず、各駅を回る貨物列車だけが週3回のペースで細々と存続した。しかしこれも、線路状態が悪化したため、レーレンからズールブロットの間の運行が1989年6月で中止された。すでにウェームWaimes(ヴァイスメスWeismes)以南も廃止されており、この結果、フェン鉄道「本線」は、レーレン以北の存続区間を除くと、トロワ・ポンTrois-Ponts方面に接続するズールブロット~ウェーム間、わずか12.4kmにまで縮小してしまった。

飛び地をめぐるルートは、これで永遠に草むらに埋もれてしまったのだろうか。いや、そうではない。フェン鉄道がなしえた最後の貢献、それはこの地方に観光客を呼び寄せることだった。欧州地域開発基金ERDFからの交付金を受けて線路が再整備され、1993年から夏の間、観光列車の運行が開始された。オイペンEupenを始発駅としてビュリンゲンBüllingenを着地にするか、またはトロワ・ポンTrois-Pontsへ直行するコースで、蒸気機関車も登場して、いっとき人気を博した。

ところが、沿線にあった昔の地下坑道の崩壊で路盤が一部不安定になっていることが明らかになり、2003年をもってこのイベントは終焉を迎える。そして2007年、ついにこの区間の線路を撤去し、他の廃線跡とともにワロン地域の遊歩道ネットワーク(RAVeL)に組み込むことが発表された。

こうして、フェン鉄道の苦難の歩みは過去の記憶となった。線路敷のベルギー領土はそのまま残されているが、シェンゲン協定によって国境の検問が不要となり、標石以外に両国の国境であることを示すものはない。2009年現在、レーレン~カルターヘルベルク間の敷地は整備され、林や野を縫う静かな遊歩道に姿を変えている。カルターヘルベルク~ズールブロット間7.1kmはレールが残され、足漕ぎ台車draisine、当地でいうレールバイクRailbikeを使った体験ツアーが催されている。今ではこれが、ありし日のフェン鉄道をしのぶ数少ない手がかりだ。

■参考サイト
フェン鉄道:ドイツを通るベルギーの鉄道The Vennbahn: Belgium's railway through Germany
http://www.avoe05.dsl.pipex.com/be_venn.htm
 英語で書かれたフェン鉄道の通史。本稿の記述の多くはこのサイトに拠っている。
上フェンの旧 観光保存鉄道Die ehemalige touristische Museumseisenbahn im Hohen Venn
http://www.vennbahn.de/
 旧観光鉄道の公式サイト。サイトだけはまだ残っている。収載されているベルンハルト・ダーフィト氏のフェン鉄道の記事Die Vennbahn von Bernhard David (PDFファイル)も本稿の参考にした。

フェン鉄道の現在の状況を伝える個人ブログ
http://borderhunting.blogspot.com/2007/07/vennbahn-roetgen.html
世界の飛び地Enclaves of The World 西ヨーロッパ編
http://enclaves.webs.com/westerneurope.htm
 ページ冒頭で、バールレとフェン鉄道のことが記されている。

オート・ファーニュのレールバイクRailbike des Hautes Fagnes
http://www.railbike.be/
 フランス語のHautes Fagnesは、ドイツ語のHohes Vennと同意。また、普通名詞のfagneやVennは沼地を意味する。

モンシャウ旧駅付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=50.5635,6.2312&z=16
 駅の前後で(等高線に沿って)蛇行している廃線跡が見える。廃線跡の国境線は省略されている。

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2009年10月 1日 (木)

新線試乗記-阪神なんば線

Blog_hanshinnanbasen1 2009年3月20日、阪神電鉄阪神なんば線が開通した。新線区間は西九条~大阪難波3.8kmだが、以前の西大阪線、尼崎~西九条を含めた10.1kmを一括して「阪神なんば線」と称している。列車はさらに近鉄難波線・奈良線に直通する。大手私鉄が地下鉄などを介さずに相互乗入れするのは、日本で初めてだというが、大阪の西と東にエリアを持つ両鉄道のレールが結ばれる意義は大きい。阪神沿線からは、キタに加えてもう一つの核、ミナミ一帯がテリトリーに入るし、方や近鉄沿線からは、魅力的な神戸の街へ乗換えなしのルートが開かれる。

関西圏ではこの2、3年、新線が続々と誕生しているが、その中でも注目度では最上位で、次に開通の見通しが明示された路線がないことからも、現状では最後の大物と言えるだろう。開通からすでに半年、ようやく先日(9月14日)、奈良から三宮まで乗る機会があったので、ここに遅まきのレポートを綴りたい。

Blog_hanshinnanbasen2
近鉄奈良駅にて

近鉄奈良駅の地下ホームでおもしろいシーンを発見した。4番線に緑帯の京都市地下鉄10系、2番線にはブラックフェイスに黄帯の阪神1000系が入線している。京都と神戸、ふだんは決して出会うはずのない電車が、遠い奈良市内で顔を合わせていたとは…。しかし、筆者が乗った快速急行、三宮行きは、おなじみのマルーンレッド(というか、あずき色)をまとった近鉄車両だった。

終点まで約1時間20分の長旅になるが、初乗りはやはり先頭車両のかぶりつきに限る。屏風のように行く手を遮る生駒山地や、トンネルを抜けた先の、日本三大車窓の次点ぐらいには着けたい大阪平野の眺望を楽しんでいると、鶴橋まではあっという間に思えた。ここでJR大阪環状線に乗換える乗客を降ろした後、電車は大阪市街地の地下に潜っていく。

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安治川鉄橋を渡る

かつての終点、近鉄難波を改称した大阪難波に到着したが、いともあっさりと発車してしまった。これから阪神の新線区間に入るというのに、境界らしさがまるでない。降車客が多くなければ、ただの中間駅かと勘違いしてしまいそうだ。乗務員交替が、次の桜川で行われるせいもあるだろう。桜川駅の西方には近鉄車両の引上げ線があって、待機している電車のライトが目に入る。それを横目で見送りながら坂を下っていくと、すぐドーム前だ。最寄りの大阪ドーム(京セラドーム大阪)にちなんだのか、ホームの天井は1階分吹抜けにして広い空間に仕立てている。またわずかの距離をのろのろと走って、九条へ。地下駅はここが最後で、その証拠に、ホームの端に立てばカーブの向こうに地上の明かりが差し込む。地下から高架線まで一気に駆け上がるために、ここは40‰の急勾配が設定されているそうだ。高架に移っても半透明の防音壁にすっぽり覆われていて、外の様子が見えたのは、安治川(あじがわ)を渡るトラス橋の上だけだった。

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阪神三宮駅に到着

再びJR大阪環状線と交差する西九条から旧 西大阪線の区間に入る。千鳥橋の先の急カーブを過ぎると阪神には稀な、胸のすく直線コースが待っているのだが、日中の快速急行は尼崎まで各駅停車で、わずかな乗降のために走っては停まるのが何ともじれったい。大物(だいもつ)で本線と並び、1000系が憩う尼崎車庫の横で本線下り線をくぐって、ようやく尼崎駅に滑り込んだ。

後は、見慣れた阪神電車の車窓だ。武庫川(むこがわ)~甲子園、芦屋~魚崎と連続立体化工事が進む脇をすり抜け、快調に走る。三宮では行止りになっている3番線に到着した。降りて改めて眺めると、同じような地下駅なのに、奈良では日常的なあずき色の車体が、ここではとても新鮮で、正直なところ夢でも見ているようだ。半年前、神戸市民もそんな感想を抱いたことだろう。

阪神なんば線が通過する地域は大阪のいわば下町で、ノスタルジックな雰囲気を方々に残している。帰りは西九条から桜川へ、地上を歩いてみた。

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安治川トンネルの九条側出入口、
内部(右)

鉄道が安治川を渡る地点には前後2.5kmの間、道路橋がないが、その代わり、戦時中に造られた川底を横断する長さ80mのトンネルが存在する。かつては自動車用の通路も開放されていたが(下記サイトに写真あり)、現在は人と自転車しか通行できない。一見倉庫の出入口のようなエレベーターか、その脇の階段で地下へ降りると、タイル貼りの細長い通路が延びている。関門海峡の人道トンネルのミニ版といった趣きで、もちろん料金は要らない。殺風景な場所にあるが、利用者はけっこう多いし、警備員も配置されているので安心して歩けた。

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高架の終端

九条の商店街の末端をかすめて続く鉄道の高架橋を目で追うと、拡幅された道路のまん中で地中に没する。中央大通の交差点の手前で振り返ったら、巨大なチューブが街の建物をかき分けゆっくり空に昇っていくようで、ちょっとSF的な風景だった。九条駅の出入口も話の種になっている。阪神高速と地下鉄中央線の高架の脇に、奇抜な円筒状の建物ができているかと思えば、少し先には、40年の眠りから覚めたばかりというおとぎ話のような入口(九条東側出入口、下記サイト参照)がある。

ドーム前駅の入口は、木津川に面したドーム前のだだっ広い広場に、市営地下鉄とは別に設けられていた。まるで互いに張り合っているようだが、イベント終了後に殺到する客を分散させるために必要な設備なのだろう。地下改札を入る前に中2階風の滞留場所まで設けてあるというから、準備は万全だ。

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桜川駅と汐見橋駅(右)

十字に交わる水路を渡って千日前通を東に進むと、新なにわ筋との交差点に桜川の出入口が見つかる。同名の地下鉄千日前線の駅よりは一筋西の位置だ。ここは南海高野線のルーツ、通称汐見橋(しおみばし)線の連絡駅でもある。ガラス張りのスマートな阪神なんば線のエレベーターハウスの隣に、昭和30年代を凍結保存したような古びた南海の駅舎がたたずむ。そのさまは新旧のコントラストを超えて、壮絶ささえ漂っている。なにしろそこに発着するのは、朝夕でも30分ごとのペースを崩さず、ディープな大阪を黙々と走り続ける、都会の中のローカル線なのだ。

阪神と近鉄を結ぶ路線の建設計画の歴史は古く、発端は戦後まもない1946年に遡るという。紆余曲折の末、西側は1964年に西九条、東側は1970年に難波まで開通したが、残り区間の土地買収が難航して長らく頓挫したままだった。ようやく実現した地下新線は、21世紀の装いが目にまぶしい。時代の積層を背負った地上の市街地も、影響を受けて変わっていくのだろうなと、思いを巡らした。

■参考サイト
阪神なんば線(公式サイト) http://www.hanshin.co.jp/nambasen/

川瀬喜雄『日本初の沈埋トンネル「安治川トンネル」』建設コンサルタンツ協会「Consultant」Vol.232, 2006.7
http://www.jcca.or.jp/about/kaishi/232/232_dobokuisan.pdf
 PDFファイル。建設史とともに、自動車が通行していた時代のトンネル内部の珍しい写真が掲載されている。
阪神なんば線秘話4 九条東側出入口が約40年ぶりに日の目を見る
http://www.hanshin.co.jp/nambasen/enjoy/inside_story/04.html

西九条付近の1:25 000地形図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344056&l=1352758
西九条付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=34.6823,135.4662&z=17
 阪神なんば線はまだ描かれていない。

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2009年9月24日 (木)

オランダの地形図地図帳 II

スペインからの独立を戦っていた16世紀後半から17世紀前半にかけてのオランダ(スペイン領ネーデルラント)は、最初の近代的地図帳を出版したオルテリウスOrteliusを筆頭に、ホンディウスHondius、ブラウBlaeuら、次々とアトラス製作者を輩出した。地形図地図帳Topographic atlasの出版が盛んな現状を見るにつけ、この国に伝統が脈々と受け継がれているのを実感する。

Blog_netherlands_historicalatlas1 前回は、出版時点で最も新しい地形図を収録した地図帳をいくつか紹介したが、勢いは現行図の紹介にとどまらず、近代測量の初期段階である19世紀の地形図の復刻へと拡大している。おそらくその最初の例は、1990年に刊行された「オランダ旧版大地図帳Grote Historische Atlas van Nederland 1:50 000」(右写真。以下、旧地図帳と記す)だ。出版元はヴォルテルス・ノールドホフ社Wolters-Noordhoff、縮尺は1:50 000、オランダ全土を4巻に分冊して、右の写真が第1巻の西部編だ。と書けば、前回を読まれた方はお気づきだろう。これは、現行図を扱った「オランダ地形図大地図帳Grote Topografische Atlas van Nederland」(前回紹介したもの。以下、新地図帳と記す)と対になる刊行物なのだ。

*注 旧版地形図を扱った地図帳のことを、英語でHistorical topographic atlasのように言う。これを歴史的…と翻訳すると、いわゆる歴史地図帳History atlas (Atlas of history) と紛らわしいので、本稿では、いささかこなれない言い方だが「旧版地形図地図帳」と表現している。

Blog_netherlands_historicalatlas1_m 現在のオランダ(ネーデルラント王国)の成立は、ナポレオン後の政治体制を取り決めた1815年のウィーン議定書に遡る。隣国との国境を画定するために始まった測量事業は、1820年から縮尺1:10000~1:40000で国内へも広げられ、東部各州などではかなりの進捗を見せていた。当時の領土は今のベルギーとルクセンブルクを含むものだったが、1830年のベルギー独立に伴う混乱で図稿が失われ、調査局もヘントGentからの移転を余儀なくされて、中断する。新体制による国土測量事業は1834年に南部のティルブルフTilburg周辺で再開された。当初は1:25 000の縮尺が採用されたが、その後1:50 000で着々と作成が進められ、1845年には全土に及ぶ規模となった。

上記の旧地図帳に収録されているのは、この測量成果から調製された手彩色の測量原図(1839~59年作成)だ。各ページを新地図帳と同じ図郭、同じ図版番号にしてあり、5分単位の経緯線も入れてあるので、両者を並べれば、約150年間の時空を超えて今と昔をたやすく照合することができる。

この測量原図は手描きのため、当時、複製として石版による印刷図が作られた。1850~64年を作成年とする1:50 000ネーデルラント王国軍用地形図(Topographische en Militaire Kaart van het Koningrijk der Nederland、略称TMK)は、全土をカバーした最初の公式地形図シリーズとして知られている。TMKは確かに原図を忠実に再現したものだが、黒の1色刷であり、現代の鮮やかな地形図と対比させるにはインパクトが弱い。その意味で、カラーの原図を写真版で復刻した旧地図帳は、待望の刊行物といえるものだった。

筆者もこの地図帳で、ほんのひととき19世紀のオランダを旅してみた。第1巻にはアムステルダムAmsterdam、レイデンLeiden、デン・ハーフDen Haag、ロッテルダムRotterdam、ユトレヒトUtrechtなどオランダの主要都市が含まれるが、どの都市も「旧市街」の状態で、短冊状の水路が無数に走る広大な干拓地の中に、ぽつんぽつんと浮かぶように立地している。当時のオランダの人口は全部で300万人で、現在の南ホラント州1州よりも少なかったのだ。

Blog_netherlands_historicalatlas1_s ナールデンNaardenのような多稜郭の遺構をもつ都市は今では貴重な存在になっているが、この時代、主要都市はもとより各地に点在する町は、どれも多かれ少なかれお堀に囲まれていた。そのような町と町を、心細げな一本道が結んでいる。独立国家となって間がなく、道路網の整備にはほとんど手が付けられていなかったのだ。道の両脇に延々と樹木が植えられている様子もきちんと描写されていて、17世紀の画家ホッベマが描いた並木道の情景がまだ生きていたことを証言している。新地図帳ではすっかり干拓されて跡形もなく消えてしまったが、アムステルダムの南西には大きな内陸湖ハールレム湖Haarlemmer Meerがあった(右写真)。オランダの空の玄関口スヒポールSchipol空港はその一角に建設されたものだ。

この時代、自動車も自転車も出現しておらず、鉄道がようやく建設ブームを迎えていた。旧地図帳ではすでにアムステルダムから西方と南方に鉄道が通じているが、市街の外に別々の始発駅を構えていて、双方は連絡していない。新橋と上野で折り返していた初期の東京の鉄道のようなものだ。その後、街の北側の水面を埋め立てて中央駅を作り、2つの路線をつなげてスルー運転を可能にしたのだが、それは1889年で、まだたいぶ先の話になる……。

この旧地図帳を筆頭にして古い地図を扱った地図帳が次々と刊行され、オランダの出版界で一つのジャンルを築いたように見える。これについては次の機会に紹介したいと思う。旧地図帳は2009年現在、絶版になってしまったようだが、ウェブサイト(下記)では、この測量原図から作成された1色刷の軍用地形図(TMK)を閲覧することができる。
(2006年3月31日付「オランダの古地図帳」を改稿)

■参考サイト
ロンドン・ナショナル・ギャラリーにあるホッベマの「ミッデルハルニスの並木道」
http://www.nationalgallery.org.uk/server.php?show=conObject.1533
オランダの古地図(旧版地形図含む)の閲覧サイト
http://watwaswaar.nl/
 表示はオランダ語のみ。使い方は英語による説明があるが、「官製地図を求めて-オランダ」のURL・地図閲覧の項も参照。
 http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_netherlands.html

オランダの地形図地図帳 III

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2009年9月17日 (木)

オランダの地形図地図帳 I

Blog_netherlandsatlas1 本来、大判用紙に刷られた1枚ものである地形図を多数集めて1冊の本に仕立てたのが、いわゆる地形図地図帳Topographic atlasだ。オランダでは、この種の企画が盛んに行われている。その嚆矢となったのが、1987年に初版が刊行された「オランダ地形図大地図帳Grote Topografische Atlas van Nederland」全4巻だ。第1巻を西部、第2巻を北部、第3巻を東部、第4巻を南部編に振り分けて、当時110面あった1:50 000地形図をすべて収めている(右写真は第1巻)。

各巻は序論10ページ、地図102~126ページ、地名索引31~48ページから成る。序論は、地図測量の歴史、地形図の製作過程、縮尺・投影法・座標などの説明だ。記述がオランダ語だけなので、筆者には細かく読み取ることができないが、参考図版に、フェルメールゆかりのデルフトDelftの町を描く年代別の地図4点(1750年、1821年、1857年、1981年)が掲げられて、眺めるだけでも楽しい。

レポート(下記サイト)によると、地図帳の刊行計画はすでに1970年代から練られていたそうだ。このときはハンディなサイズを志向して地図を最大で50%まで縮小(1:100 000相当)する案もあったが、結局実現したのは、原寸のままの忠実なコピーだった。しかし、判型をA4サイズにし、分冊することで、扱いやすさには最大限の配慮がされている。出版元はフローニンゲンGroningenにあるヴォルテルス・ノールドホフ社Wolters-Noordhoffになっているが、それは当時、測量局「地形測量サービスTopografische Dienst」が財政難で、出版のリスクを負う余裕が無かったからだという。

Blog_netherlandsatlas2 幸いにも1:50 000地図帳の売れ行きは好調で、その後、内容を更新して重版(1989年~)するに至った。気をよくした測量局と出版社は、すぐに次のアイデアを実行に移した。それが、1:25 000地形図を用いた「州別大地図帳Grote Provincie Atlas」だ。1:50 000に比べて図の面積は4倍になるので、州ごとに分冊している(右写真はそのうちの南ホラント州Zuid-Holland、1990年刊)。

新図式による地形図がまだ刊行途中で、州ごとにその完成を待つことにしたので、製作が1988年から始められていたにもかかわらず、完了は1991年までずれ込んだ。上記の1:50 000地図帳初版に収められた地形図は、編集年が1972年から1986年と場所によって14年もの開きがあり、その間に図式が変更されたために注記文字のフォントが明らかに違ったりするのだが、この地図帳にはそういう心配はない。オランダの州は12あるのに地図帳が11巻しかないのは、最も新しい干拓地で1986年に独立した州になったばかりのフレーフォラントFlevolandを、ユトレヒト州の巻に含めたからだ。

Blog_netherlandsatlas3 21世紀に入って、地形図地図帳は第2世代に交代した。出版元も、ANWB(正式名称:王立オランダツーリスト連盟ANWB、De Koninklijke Nederlandse Toeristenbond ANWB)に移った。同連盟は日本で言うとJAFのような役割を担う組織だそうだが、地図出版の分野でも大手の地位を築いている。その1:50 000の書名は「ANWBオランダ地形図地図帳 ANWB Topografische Atlas Nederland」。判型が25cm×35cmと一回り大きくなり、そのおかげで、オランダ全土を1冊に収めることが可能になった(右写真は2005年刊行の第2版)。その分、中表紙を含めて336ページと分厚くなり、扱いやすさの点では少し後退している。

新しい地図帳の特徴は、地図のページに先立つ序論の部分だ。まず、地形図の製作過程などの解説が7ページあるが、これは第1世代と変わらない。真髄はその後で、地図記号の紹介が18ページも続いている。もちろん通り一遍の対照表ではなく、記号が使われている地図の断片とそれに対応する現地の写真を体裁よくレイアウトしたものだ。さらに次の16ページは、大河、砂丘、ポルダー(干拓地)、沼地、港、城郭などオランダの典型的景観を地図、空中写真、俯瞰写真の三者で比較する。見開きページ一面に展開するフルカラーの実景写真はたいへん美しく、説明のオランダ語が読めなくても理解できるだろう。

一方、地形図の本編は274ページあり、ディジタル図化に対応した新図式で揃えてある。ちなみにこの図式では、市街地の表現が変わった。以前は、道路に囲まれた街区(総描家屋)には、左上からの光源を想定した立体的な影がつけられていたのだが、新図式では街路を黒で描き、家屋の部分は平面的な網掛けになった。道路を際立たせるためか、色もかなり薄めに設定されている。他にも、高速道路autosnelwegがベルギー、フランスなどと同じ紫色になり、独立建物が柿色になり、砂丘のレリーフ表現が省かれるなど、各所に手が入れられている。

Blog_netherlandsatlas4 1:25 000州別地図帳も、同じようにANWBに引き継がれた。タイトルは「ANWB Topografische Atlas」の後ろに州名がつく(右写真は北ホラント州地形図地図帳ANWB Topografische Atlas Noord-Holland、2004年刊)。第1世代と同じく、ユトレヒト州とフレーフォラント州は1巻にまとめられているので、全部で11巻になる。解説ページは1:25 000のために再編集されているが、先述した地図記号の紹介は、写真が1:50 000地図帳とほとんど同一で、地図の部分だけを1:25 000に置き換えている。その結果、1:50 000地図帳と並べて比較すると、両者の図式の違いが一目でわかっておもしろい。

それにしても、さほど安くもないこれらの地図帳をどんな層が購入しているのだろうか。レポートによると、最大のグループは、自分自身の身近な環境を認識し見極めようとしている人々、平たく言えば地元の(州の)地図帳なら買っておこうという一般市民らしい。第二のグループはリクリエーションや調査・研究など実用に供し、最小のグループが鑑賞用または職業上の理由で買っている。普及の余地があるのは学校教育用だそうだ。

第二世代の表紙を初めて見たとき、筆者はずいぶん地味な意匠だと感じた。実際、派手なカバーもつけずにこのまま店頭に置かれているのだが、それでも版を重ねる需要が存在するというのは驚きだ。わかりやすい地図表現や扱いやすい形式といったさまざまな工夫が人々の関心を掘り起こすということを、オランダの地形図地図帳は証明しているようだ。

Blog_netherlandsatlas5 これらの地図帳はオランダ国内の書店で販売されているほか、Stanfordsなどの海外の地図商でも扱っている。
なお、2009年9月現在、ANWBの1:50 000地図帳は在庫切れで、その代わり、12州出版社Uitgeverij 12 Provinciënが後継の地図帳刊行に名乗りを上げた。同社は、州別1:25 000地図帳の刊行も引き継ぐようだ(右写真は、12州出版社のオランダ地形図地図帳Topografische Atlas Nederland、左は全国1:50 000、右は北ホラント州1:25 000。画像は同社サイトより)。

■参考サイト
オランダの地形図地図帳に関するレポート
http://liber-maps.kb.nl/articles/distr-60.htm
ANWB https://webwinkel.anwb.nl/
12州出版社の1:50 000地形図地図帳
https://www.kaartenenatlassen.nl/atlassen/topografische-atlas/topografische-atlas-van-nederland-2009-150000

オランダの地形図地図帳 II

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2009年9月10日 (木)

オランダの地形図

美しい塗り絵、というのがオランダの地形図の第一印象だ。市街地や森林はもとより、耕地も牧場も草木のない砂丘でさえも塗色が配されて、日本のような線描主体の地形図を見慣れた者には、とりわけ新鮮に感じる。この国の画家、ピエト・モンドリアンPiet Mondrianは、縦横に走る枠の中に三原色を塗り込めた抽象絵画を生み出したが、あの明快な造形美の精神が地図製作者にも脈々と受け継がれているようだ(サンプル図は下記参考サイト参照)。

オランダの地形図は、「カダステルKadaster」という機関が製作している。Kadasterは普通名詞では土地台帳(登記簿)のような意味があり、地籍の測量、提供、記録保存、国土計画への利用といった19世紀以来の測量局の活動を象徴的に示す名称だ。この機関はかつて「地形測量サービスTopografische Dienst」と称し、住宅・空間計画・環境省の一部局だったが、1994年に組織形態が変更されて、独立行政機関Zelfstandig bestuursorgaan(英訳では非省庁公共団体Non-departmental public body)となった。地形図体系は縮尺の小さいものから、1:250 000、1:50 000、1:25 000、1:10 000がある。かつては1:100 000も刊行されていたが、1984年で更新が終了し、廃版となってしまった。

Blog_netherlands250k 1:250 000は2種類が出ている。1つは、横112cm×縦130 cmの大判用紙の片面に印刷された「壁貼り地図Wandkaart」、もう1つは、図郭を上下2分割して両面刷りにしたうえ、コンパクトに折った「道路地図Wegenkaart」だ(右写真は1992年版。現在は表紙が異なる)。名称は変えてあるが、平図と折図の違いだけで、等高線などの地勢表現がないことを含めて、地図自体は同じ仕様だ。

道路地図の分野は民間地図会社の激戦区で、1枚ものなら縮尺1:300 000でANWB、マルコ・ポーロMarco Polo、フライターク・ウント・ベルントFreytag & Berndtなどがしのぎを削っている。しかし、カダステルも負けてはおらず、道路情報として、主要道などの種別で色分けし、道路番号と区間距離を付し、ロードサイドのガソリンスタンド、駐車場、レストラン、モーテル、案内所を記号で示している。流通のハードルがあるかもしれないが、内容的には市場で互角の勝負ができそうだ。

Blog_netherlands50k 1:50 000は、全国を101面でカバーする区分図だ(写真左は1994年版、右は2004年版。右下写真は1:50 000索引図)。東西20km、南北25kmの範囲を表す縦長の図郭で、1kmグリッド(方眼)が加えられている。等高線は5m間隔と縮尺の割に精度が高いが、おおむね平坦な国土ゆえに、等高線が幅を利かせる図幅は少ない。

冒頭で紹介したとおり、オランダの地形図は土地利用景にすべて色が配されて、塗り絵のようなのだが、その特徴が顕著に現れるのがこの1:50 000だ。とりわけ、ピンク(赤の網掛け)の市街地と、周囲に広がるライトグリーンの牧草地の対比は、色相差が大きいために、見る者に強い印象を残す。低地の町は周囲を干拓地に囲まれ、そこはたいがい牧草地に利用されている。それでかなりの確率で赤と緑がセッティングされることになり、地形図のイメージを規定しているのだ。

Blog_netherlands50k_index 一方、フレーフォラントFlevolandのような新しい干拓地には、見渡す限り耕地が広がっている。地形図では耕地は無色のように見えるが、よく観察するとごく薄いレモン色が被せてある。また、北海の岸に連なる砂丘にはそれより濃いクリームイエローが充てられ、彩りを添える薄紫はヒースの野を示している。標高が0mを越える内陸部には森も残され、広葉樹や針葉樹の記号を付した緑色が見られる。配色だけでなく、オランダの地図記号はなかなかの個性派ぞろいだ。自転車道を表す独立した記号があったり、風車、水車、灌漑ポンプと細分化されていたりと、ご当地色がにじみ出ている。

1:50 000地形図のルーツを遡ると、19世紀中期(1850~1864)に軍地図局Topographisch Bureauが作成した軍用地形図Topographische en Militaire Kaartにたどり着く。横92cm×縦64cmの横長の大きなサイズで、全部で62面あり、図番は北西端から南東端へ順に振られていた。Blog_netherlands_cyclingmap1現在の地形図はこの伝統的な図郭を縦に2分割してあり、図番の後ろに東Oost、西Westを付けて区別している。なお、上の索引図でゼーラント州Zeelandとリンブルフ州Limburg南部の番号が飛んでいる(64~)のは、後に図郭を変更したためだ。

余談だが、この1:50 000をそっくり使用してANWBが独自の区分図シリーズを刊行している。タイトルも「ANWB 地形図Topografische kaart」で、事情を知らない人には官製と区別がつかないだろう(右写真)。唯一の相違点は自転車道fietspadを強調してあることで、実はその利用者のための地図なのだ。定価は官製オリジナルが5.25ユーロに対して、ANWBが9.95ユーロと高く思うが、ANWBは1面(用紙の両面)で官製4面分の面積をカバーしているので、明らかにこちらのほうがお徳だ。

Blog_netherlands25k 1:25 000は、1:50 000を縦2×横2=4等分した図郭で、全国を302面でカバーする(写真左は1990年版。右は2004年版)。図郭のサイズは1:50 000と同じで、東西10km、南北12.5kmの範囲を表すことができる。筆者は、1:50 000を眺めてから1:25 000に目を移すと、何か物足りない気持ちになる。原因ははっきりしていて、あれほど目覚しい効果をあげていた市街地の赤色が、ここではグレー(黒色の網掛け)に変えられているのだ。縮尺が大きくなり、新市街の集合住宅は黒を使って実影で描かれるので、総描家屋の範囲は旧市街周辺に限られるが、むしろそれゆえに、人の集まる中心部の表現にはインパクトがほしいと思う。

市街地に代わって目を引くのは、赤とオレンジに塗り分けられた道路網だ。その結果、市街地以外の配色は1:50 000とほとんど同じなのに、面より線が強調されて、全く別の図式のように錯覚する。誤解のないように記しておくが、全体の印象はクリアかつスマートで、たとえば郊外歩きに利用するには申し分ない。ついでに、1:50 000では省略されているトラムのルートが明瞭に示されていることも付け加えておこう。

1:10 000は1:25 000を上下に2分割した図郭になる。サンプル図によれば、プリントはモノクロ1色で、ディジタルデータベースから直接出力するようだ。なお、各縮尺のラスタデータ(画像)も、オンデマンドで提供されている。

■参考サイト
カダステル http://www.kadaster.nl/
地形図の情報は、トップページ > zakelijk (business) > onze producten (our products) > topografische producten

地図サンプルへの直接リンク(カダステル公式サイトより。リンク切れご容赦)
1:250 000 http://www.kadaster.nl/pics-home-zakelijk/producten/250.000_raster_groot_2.gif
1:50 000 http://www.kadaster.nl/pics-home-zakelijk/producten/50.000_raster_groot_2.gif
1:25 000 http://www.kadaster.nl/pics-home-zakelijk/producten/25.000_raster_groot_2.gif

オランダの地図に関する情報は、「官製地図を求めて-各国地図事情 オランダ」にまとめている。
http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_netherlands.html

オランダの地形図地図帳 I

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2009年9月 3日 (木)

ベルギーの旅行地図

Blog_belgium_ostkantone この国に旅行するとしたら、人気の高いのは、おとぎの国のように美しい古都ブルージュ(オランダ語ではブルッヘBrugge)だろうか。それとも、首都ブリュッセルBruxellesのグランプラスか、アントヴェルペンAntwerpenの大聖堂か。いずれにしても街巡りが中心だから、市販のガイドブックを参考にするか、観光案内所に立ち寄って市街図をもらうといい。ベルギー国土地理院IGNが刊行している旅行地図はそれとは違って、主として野山歩きのための地図だ。都市名を図名にしたものも多いけれども、内容は市街案内よりも、郊外の散歩道と見どころの紹介に割かれている。それで対象となるエリアも、丘陵から山地へ地勢が展開するベルギー南半(ワロン地域)が中心だ。2008年のカタログではタイトル数180点以上とかなりの数に上るが、手元にあるものだけの紹介になるのをお許し願いたい。

Blog_belgium_namur ナミュールNamurは、ワロン地域を貫くムーズ川Meuseに西からサンブル川Sambreが合流する場所に栄えた「ムーズ川の真珠」と称される街だ。合流地点を見下ろす丘の上で、築城の名人ヴォーバンVaubanが再建した要塞が睨みをきかせている。この旅行地図(右写真、現行第3版は表紙が異なる)は、大判用紙全面を使ってナミュールとその周辺を縮尺1:25 000で表現している(現行第3版は1:30 000)。ベースマップは1:50 000地形図を単純拡大したものだが、原図の描写がかなり細かいので、かえって細部まで見やすい。市街と要塞付近はカラフルな1:10 000の拡大図も付されている。この上に、ハイキングルートpédestre、マウンテンバイクルートV.T.T.、サイクリングルートPromenade Véloがカラーで加刷されていて、丘陵のアップダウンが多い道はマウンテンバイク用、川沿いや平原の道は自転車用に設定されていることがわかる。ハイキングルートについては難易度表示がつき、裏面に拡大図と見どころ紹介がある。説明文は仏語と蘭語だけだが、英・独語による要点記述がある。紹介されているものの中で、要塞の丘を巡る5kmコースやムーズ川渓谷を眺める6.5kmコースなどは、遠来の旅行者にとっても興味深いものだろう。
■参考サイト
ナミュール観光局 http://www.namurtourisme.be/

Blog_belgium_herbeumont 「エルブモン、サン・メダール、ストレモンHerbeumont St-Médard Straimont」と題した1:25 000の旅行地図(右写真)は、ベルギー最南部、ムーズ川の支流スモワ川Semoisの中流域に位置する。観光地というわけでもないが、これらの河川はアルデンヌ高地の谷底で極端な蛇行を繰り返していて、そこに鉄道が谷を横切るために絡んでくる。筆者としては、その面白さを買ったのだ。これもナミュール図と同様、ベースは1:50 000の拡大版で南北2面に分けて用紙両面に印刷されている。地図表紙の左上に配された写真は、鉄道がスモワ川を渡るコンク鉄橋viaduc de Conques(エルブモン鉄橋 viaduc d'Herbeumontと紹介されることもある)で、長さ160m(150mとする文献も)、高さ38mの見事なアーチ橋だ。路線番号163 Aのこの鉄道は、ベルトリクスBertrixからミュノーMuno、フランスのカリニャンCarignanへ延びていたもので、1914年に開通し、1969年に廃止された。この橋は村の名物で、かなり傷んでいるものの歩いて渡ることができ、ハイキングルートの一部を構成している。
■参考サイト
ベルギー鉄道路線番号163 A  http://www.belrail.be/F/infrastructure/lignes/163A.html
「橋ウェブ」コンク鉄橋
http://www.brueckenweb.de/2content/datenbank/bruecken/2brueckenblatt.php?bas=4795

Blog_belgium_stvith 最後は、メルヘンチックな表紙絵をもつ東部地方(東部ドイツ語圏)Ostkantone / Cantons de l'Estのハイキング地図シリーズだ。冒頭の写真がそれで(写真はカタログから転写)、全部で6面あり、1919年にドイツからベルギーに編入された東部地方の全域をカバーしている。右はその中の1点、「ザンクト・フィット地方と上アーメル谷St.Vither Land & Oberes Ameltal」だ。ここでもアーチを連ねた鉄道橋がモチーフになっているが、ドイツのアーヘンAachenとルクセンブルク方面を結んでいたフェン鉄道Vennbahnの遺構だ。ベースマップは旧版1:25 000地形図で、その上にはろばろとした高原を行くハイキング・トレッキングルートWanderwegが緑の太線で明示されている。探せば廃線跡をたどるルートも見つかる。また、山小屋、休憩所、宿泊施設、名所旧跡、スポーツ施設などの旅行情報がオリジナルの記号で多数配されているのも特徴だ。優れた統一デザインで、旅心をくすぐる地図群といえるだろう。ちなみに、東部地方観光局Verkehrsamt der Ostkantoneのサイト(下記)には、同地方の地形図や旅行地図を販売するオンラインショップがある。
■参考サイト
東部地方観光局オンラインショップ http://www.eastbelgium.com/2typo3cms/index.php?id=875
 発注のみで決済はできないので、別途送金手続きを要する。

なお、本ブログ「アン鍾乳洞トラム II」の末尾で紹介したアン・シュル・レッスHan-sur-Lesseの旅行地図も、IGNの手によるものだ。これらの旅行地図はIGNで直販している(下記「官製地図を求めて」参照)。
■参考サイト
「官製地図を求めて-各国地図事情 ベルギー」
http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_belgium.html

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