2017年11月12日 (日)

コンターサークル地図の旅-美馬牛の谷中分水と尾根を行く水路

2017年6月18日、朝7時台のライラック3号で札幌を発ち、旭川までやってきた。乗り継ぐ富良野線の列車は2番線に停まっている。車内に入るとほぼ座席が埋まるほどの盛況ぶりで、インバウンドの旅行者とおぼしきグループもちらほらいる中に、堀さんの姿を見つけた。

列車は旭川駅を出ると、初夏の光眩しい郊外を一直線に南下する。今朝は雲一つない快晴で、左の車窓から、遠く連なる北海道の脊梁山地がすっきりと見通せる。「あのひときわ高いのが大雪山系ですよ」と、山々の名を堀さんに教えてもらいながら、約50分列車に揺られて目的地の美馬牛(びばうし、下注)に着いた。

*注 駅舎にあった説明板によれば、美馬牛という牧歌的な地名は、「カラスガイの多いところ」という意味のアイヌ語「ピパウシ」から来ているそうだ。カラスガイは湖沼に棲む大型の二枚貝で、本州ではカワシンジュガイと呼ぶとのこと。

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美馬牛南東の丘にて

美馬牛は富良野線のサミットの駅で、美瑛(びえい)町と上富良野(かみふらの)町の境界付近に位置する。美瑛の丘と呼ばれ、道央の人気観光地として必ず名前の挙がるエリアだから、私たちのほかにも、旅支度をした若者たちが何組か、同じホームに降り立った。赤屋根の小さな無人駅舎に集まったのは、堀さん、真尾さん夫妻、ミドリさん、河村さん、草間さん、私の7人。今日の行程を確認し合った後、さっそく2台の車に分乗して出発した。

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美馬牛駅に集合

旭川盆地の周縁部に当たるこの一帯は、十勝岳連峰からもたらされた火砕流堆積物(溶結凝灰岩)が浸食されて、なだらかな尾根と谷が交互に並ぶ独特の地形が広がっている。河川は基本的に北西へ向かうのだが、断層活動で富良野盆地が沈降した影響で、一部が鞍替えして南の富良野川へ流れ込むようになった。そのため、谷中分水(こくちゅうぶんすい)や、谷筋が途中でUターンするといった珍しい地形が生まれている。谷の途中で川の流れる方向が逆になる谷中分水は、地形図に明確に示されているものでも付近に2か所あり、まずはそれを見に行くつもりだ。

堀さんはすでに1970年代に、この地を訪れている。「地図の風景 北海道編 I 道南・道央」(そしえて、1979年)の134ページ以下にその記述があるが、「あのときは近いほうの分水界を確かめましたが、もう一つのほうは見なかったように思うんです」。それがこの旅を企画した動機だそうだ。

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美瑛・上富良野周辺の1:200,000地勢図に加筆
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す
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美馬牛周辺の1:25,000地形図に加筆

駅前から北西へ延びる道を、国道237号線を越えて少し進むと、早くも一つ目の谷中分水に到達する。地形図(上図右上の円内)では、道に沿って流れる小川がここで約500mの間、途切れている。流路を図上で追うと、北ではルベシベ三線川となって美瑛川へ注ぎ、南は江幌完別川で他の川と合流して富良野川となる。つまり、川が描かれていないこの間に、流れる方向を変える傾斜転換点があるはずだ。

クルマを降りて周囲を観察してみるが、メンバーから「どこが分水なんですか」という質問が飛んだ。以前訪れた愛知県巴川の谷中分水は稲田に囲まれていたので、灌漑用水路の流水方向が途中で反対になるのが明確だった(下注)。それに比べてこのような畑作地帯では排水溝も見当たらず、分水界を断定する方法がない。

*注 巴川の谷中分水については、本ブログ「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」参照。

谷間の先に目を遣ると、両側ともわずかに下っているから、このあたりが鞍部であることは疑いない。谷を横切る農道(幅員3.0m未満の道路の記号)に沿って町界が走っているのも傍証になる。尾根を行政界に利用するのはよくあることだからだ。しかし、谷を貫く道路には町界標が立っておらず、驚いたことに、道路脇に立ち並ぶスノーポールは、上富良野町域に入ってもなお美瑛町と書かれていたのだ。

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一つ目の谷中分水、東~南方向を望む。画面中央を横切る道が分水界か?

もやもや感が抜けきらないまま、二つ目の谷中分水(上図左上の円内)へ向かった。美馬牛から丘を越えてきた道道70号芦別美瑛線が、谷に沿う二車線道と交差する地点で車を停める。こちらは周りの丘が高く、谷は北側で明らかに下っていて、より鞍部らしい地形だ。道路脇に溝が切ってあったが、水は流れていなかった。ミドリさんが、地形図に水準点が書かれていると言って、俄然張り切る。いっしょに交差点近くの草むらを探してみたが、怪しげなポールが立っているものの標石は見つからない。それどころか道路脇の家の人が出てきて、「ここは私有地ですが」と咎められてしまった。

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二つ目の谷中分水、西方向を望む。画面中央の2車線道路が分水界

次は、Uターンする谷筋だ。「日本の地形図では珍しく、開拓川には北向きに、トラシエホロカンベツ川には南向きに、流れの向きを示す矢印がついている。」と、同書で堀さんが言及した場所で、この分水界のすぐ南にある。286m標高点の三叉路を右(西)へ折れて、小橋を2本渡った。後のほうが、開拓川に架かる第2海老名橋だ。ここまで北向きに調子よく下ってきた開拓川は、急に向きを変えて、南へ流れるトラシエホロカンベツ川に合流する。

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開拓川Uターン地点 (左)第2海老名橋 (右)川は左奥からカーブしながら橋の下へ

トラシエホロカンベツ川と東隣の江幌完別川には、こうした転向支流がいくつもあり、本流がかつて北へ流れていた形跡を残している。一方、上富良野市街の西を流れるエバナマエホロカンベツ川は、上流部に同じような谷中分水地形と転向支流を擁しているのに、本流が北向き、支流が南向きと、前2者とは逆の関係になっているのが面白い。

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「まるごとザンギ」おにぎり

橋の欄干を腰掛け代わりにして、昼食を広げた。先日、秋田の「ぼだっこ」でご当地もののおにぎりに味を占めた私は、旭川駅のコンビニで「まるごとザンギ」と書かれた海苔巻きを買ってきた。もちろん、ザンギが下味を付けた鶏の唐揚げであることを知らなかったのは、道外から来た私だけだったのだが。

*注 「ぼだっこ」については、「コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)」参照。

空腹を満たした後は、ミドリさんのリクエストで、急カーブする前の開拓川を源流へ向かって遡る。しかし、2車線道路はしばらく行くと左(東)へそれてしまい、直進側は細い未舗装道しかなかった。「上流まで道があることはありますが、どっちみち川から逸れて森の中へ入ってしまいます」と、地形図でナビをしていた私。

右手に、丘を一直線に上っていく道が見えたので、「それじゃ、この道の上から森を眺めることでよしとしましょうか」と真尾さんが提案した。比高50mはある急傾斜の丘を、クルマで這うように上っていく。周辺より少し高度があるので、私も「後ろを振り向いたら、きっといい景色ですよ」と予言する。

道が行き止る柵のところで車を降りると、果たして期待通りだった。一直線に遠ざかる野道を軸にして、緑系とベージュ系の色のパッチワークで覆われた丘が、緩やかにうねりながら見渡す限り広がっている。その表面を撫でるように、ゆっくりと雲の影が渡っていくのが見える。パノラマの背後では、十勝岳連峰が山肌にまだ雪渓をとどめたまま、縹色の屏風となって空を限っている。

一同思わず「すごーい」と一言発した後、しばらく言葉が続かない。真尾さんが沈黙を破って「十勝岳がこんなにきれいに見えたのは記憶にないですよ」。それにこの春、道内の旅の日は概して天気がすぐれず、今日は久しぶりの好天だったそうだ。絶景の前で記念写真を撮ったあと、少々お疲れの堀さんを美瑛駅まで送っていった。

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美瑛の丘と十勝岳連峰のパノラマ
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展望地で記念撮影

駅への最短ルートは、西11線農免農道だ。横たわる丘の列を次々と横断していくので、極端なアップダウンが連続する。「ここはジェットコースターの道と呼ばれてるんです」と真尾さん。途中、「かみふらの八景」という標柱が建つ空地に数台の車が停まり、十勝岳の眺望を楽しむ人垣ができていた。この景色も悪くはないが、さっきの無名の展望台のほうが、視点が高い分、ダイナミックな眺めなのは間違いない。

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ジェットコースターの道

ユニークな地形景観を楽しんだ後は、周辺の「青い川」と「不思議な用水」を訪ねることにした。美瑛駅から、美瑛川の谷沿いに走る道道966号十勝岳温泉美瑛線を、白金温泉(しろがねおんせん)方面へ進む。

白金温泉の3kmほど手前に、「青い池」と呼ばれるスポットがある。池といっても砂防用のブロック堰堤に美瑛川の水が滞留しただけだが、青みを帯びた水と立ち枯れした林の組合せが幻想的だと評判が高く、今では美瑛の定番観光地の一つになっている。しかし人気が出過ぎて、駐車場の空き待ちをする車で道路が渋滞するほどだというので、私たちは敬遠し、代わりに、池に青い水を供給している川を見に行った(下注)。

*注 後日(同年8月27日)、真尾さんとミドリさんは青い池の訪問を敢行している。

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白金温泉周辺の1:25,000地形図に青い池その他を加筆

白金温泉の入口に架かるブルーリバー橋の前で車を停める。美瑛川の渓谷(白金小函)を高い位置でまたぐトラス橋は、川と滝と山並みをセットで眺める格好の展望台で、多くの人が歩いていた(下注)。上流側に目を遣ると、右側の断崖に幾筋もの滝が簾のように掛かっている。白ひげの滝だ。約30万年前に堆積した土石流の上に新しい溶岩が被さり、その二つの地層の間を通ってきた水がここで湧き出すのだという。

*注 ブルーリバー橋の本来の用途は、十勝岳の噴火に備えて、白金温泉から対岸に設置されたシェルターへ通じる避難経路。

滝もみごとだが、水の色は、それより上手ですでに美しいターコイズブルーに染まっている。後で調べたところでは、橋からも見える硫黄沢川と美瑛川の合流点あたりから、その現象は強まるらしい。十勝岳の斜面を水源とするこれらの沢の水はアルミニウムを含んでいて、美瑛川の水と混ざるとコロイド状の粒子が生成される。それが波長の短い青色光を散乱させて目に届くのだそうだ。

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ブルーリバー橋から眺める白ひげの滝と青い川(美瑛川)
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(左)ブルーリバー橋 (右)左が美瑛富士、右が美瑛岳

十勝岳は今も噴煙を上げていて、沢の水には硫黄分も多く含まれる。そのため、美瑛の丘を潤す用水は沢より少し上流で取水されている。道内各地の水路を追いかけている河村さんは取水口を見たかったのだが、地形図を読む限り、谷底にあって近づけそうにない。それで下流に目を転じた。水路の水は美瑛川を横断した後、道道に並行する林道に沿って下り、いったん、しろがねダムの貯水池(四季彩湖)に溜まる。その後、一部がオヤウンナイ川を経由して美瑛川に戻り、下流で再び取水されて、別の水路に入っていく。

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(左)砂防ダムの流木捕捉工は、ラピュタのロボット兵を連想させる (右)この水が青い池をつくる

この水路は大規模な土地改良以前の古い用水で、地形図(下図)にも明瞭に描かれている。不思議な用水と言ったのは、水路が丘陵地の尾根を伝っているからだ。もちろん高台に水を万遍なく行き渡らせるためだが、地図では川の記号が使われるので、本来、谷底に描かれるはずの川が周囲より高いところにあるという不思議なことになるのだ。

目を付けたのは、美瑛町御牧(みまき)で、道道824号美沢美馬牛線から右へ分かれる道が、丘のサミットに達する地点だ。水路が鞍部を横断しようとして、この道と交差している。車を停めて雑木林の中を探すと、すぐに水路が見つかった。まだ根元に近い区間なので、けっこうな水量を保って勢いよく流れている。地形図を見ていたミドリさんが、「この水路は、熊見川というそうです」と報告する(下注)。「自然の川みたいだな」「開拓時代はこのあたりにも熊が姿を見せたんでしょうね」。不思議な川に値する新しい発見だ。

*注 現行の地理院地図では、この注記は消されている。

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尾根筋を流れる用水路(熊見川)

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熊見川の注記がある用水路(1:25,000地形図置杵牛(平成13年修正測量)に加筆)

これを最後の探索にする予定だったが、美馬牛駅の方へ戻る途中で誰かが、谷を隔てた緑の丘の上に水路橋が延びているのを見つけた。背丈は低いものの、傾きかけた陽の光を浴びて、まるでローマの水道橋か何かのように堂々と見える。「行ってみたいですね」と河村さん。「行ってみましょう」と衆議一決して、たもとまで道が描かれている東側の谷へ回った。トラクターが動いている畑の中の道を突っ切る前に、午前中の教訓で、真尾夫人がトラクターを操っていた人に声をかける。許可をもらって車を入れ、水路の手前につけた。

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向かいの丘の上に水路橋を発見
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反対側からの水路橋の眺め

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水路橋周辺(1:25,000地形図に加筆)

水路は熊見川の続きだ。たどってきた尾根筋がここで細まり、少し痩せてもいる。それで、用地幅が必要な土盛りを避けて、高架橋を渡したようだ。両側が畑になった尾根の上だから、眺めがいいのは当然だが、吹きつける風の強さも半端ではない。風圧にたじろぎながら水路の来た方を振り返ると、緑とベージュのパッチワークのかなたに、十勝岳連峰や幌内山地が西日を受けて、輪郭を際立たせている。美瑛の旅を締めくくるのにふさわしい景色だった。

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丘の上に水路橋を追う
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振り返ると十勝岳連峰の眺望

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図美馬牛(平成29年6月調製)、白金温泉(平成26年4月調製)、置杵牛(平成13年修正測量)、20万分の1地勢図旭川(昭和54年要部修正)を使用したものである。

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2017年11月 4日 (土)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

大陸分水嶺の下を貫くモファットトンネル Moffat Tunnel が完成するまでの24年間、旧線はどこを通っていたのだろうか。それに答える前に、まずこの古い絵葉書をご覧いただこう。吹雪が止んだばかりの曇り空、身を切るような大気のかなたに浮かぶ雪の山々、眼下には凍てついた円い湖と、それを包み込むように敷かれた線路が見える。線路は山の向こうを回って、やがて右上の稜線に開いたトンネルから再び顔を出す。列車の乗客たちの瞳はその間、車窓に張り付いたままだったに違いない。

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モファット・ロードの絵葉書、ヤンキードゥードル湖とジェームズ・ピーク James Peak の眺め
Image from The New York Public Library
https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47da-8796-a3d9-e040-e00a18064a99

*注 ニードルズアイ Needle's Eye の表記も見かける。

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ヤンキードゥードル湖周辺の拡大図
USGS 1:24,000地形図 East Portal
1958年版に加筆

目を疑うような絶景はどこにあるのか。地図(右図)右上の10711(フィート)と湖面に記された池が、写真の前景になっているヤンキードゥードル湖 Yankee Doodle Lake だ。氷河が削ったカール(圏谷)の窪みに湛水して生じた。湖岸を巡っている道がかつての線路の跡で、湖を後にして次のオメガカーブで反転し、今度はさっき通った道をはるか上空から眺め下ろす位置に出てくる。ここにあるニードルアイトンネル Needle Eye Tunnel(針孔トンネル、下注)は現在、一部が崩壊して通行できなくなっているそうだが、当時は短い闇を抜けると突然、箱庭のような景色が眼下に現れるという劇的な展開だったはずだ。

■参考サイト
ヤンキードゥードル湖付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@39.9377,-105.6541,16z?hl=ja

ルートの全体図(下図)も掲げておこう。中央を南北に走るのが大陸分水嶺で、それを直線で貫くモファットトンネルもすでに描かれている。だが注目すべきはその北側で、もう1本の鉄道がくねくねとその山腹を這い上り、ロリンズ峠 Rollins Pass を越えているのが読み取れる。とても標準軌の列車が走っていたとは想像できないルートだが、まぎれもなくモファット線の最初の姿だ。この旧線は延長37km(23マイル)、サミットの標高は3,557m(11,671フィート)あり、北米大陸で標準軌の列車が上ることのできる最高地点だった。

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ロリンズ峠越え旧線全体図
USGS 1:62,500地形図 Central City 1912年版、Fraser 1924年版に加筆

旧線の見どころはカールの湖に留まらない。デンヴァー側から行くと、まず山麓のトランド Tolland 駅がある。かつてここは給水塔、石炭庫、三角線 Wye を備えた峠越えの基地だった。旧線は現 モファットトンネル東口前で180度向きを変えて東に進路をとり、北東の山をオメガループで切り返しながら高度を上げていく。機関車が40‰の急勾配に喘ぎながら上っていく様子はトランド駅からよく見渡せ、「ジャイアンツ・ラダー Giant's Ladder(巨人のはしご)」と呼ばれる名物だった。

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旧線 トランド~ヤンキードゥードル湖間
USGS 1:24,000地形図 Nederland 1972年版、East Portal 1958年版に加筆

ヤンキードゥードル湖を過ぎ、尾根を大きく回り込むと、今度は「デヴィルズ・スライド Devil's Slide(悪魔の斜面)」がある。高さ300mの急斜面に架かる危うい木製トレッスルを渡っていくのだが、右手は視界をさえぎるものが何もなく、ロッキー山脈のかなたまで眺望が利いた。

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デヴィルズ・スライドとロリンズ峠の間で
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1617

間もなくコローナ Corona 駅に着く。分水界をまたぐロリンズ峠のサミットに設けられた駅で、冬場の運行に備えて、スノーシェッド(雪囲い)が構内施設全体を覆い尽くしていた。モファット線の鉄道広告は「トップ・オブ・ザ・ワールド The top of the world」と呼んで、驚異の山岳ルートの存在を全米にアピールした。資料によれば、当初の計画ではロリンズ峠まで上らず、もっと下の位置で分水嶺にトンネル(現在のモファットトンネルではない)を掘ることになっていたのだが、建設の困難さから断念されたという。もしこれが実現していたら、車窓のすばらしさの何割かは失われていたに違いない。

しばし休憩の後、今度は稜線の西側を降りていくが、こちらにも見どころが残されている。ライフルサイト・ノッチ Riflesight Notch(下注)に構えられたスパイラルループだ。ループの交差部は上部が木製のトレッスル橋、下部はトンネルで、張り出した尾根の付け根にあるくびれをうまく利用して設計されていた。橋はまだ残っているが通行不能で、トンネルは崩れた土砂に埋もれてしまった。

*注 ノッチ Notch は山あいの谷間を意味する。この自然のくびれを利用してスパイラルループが造られた。

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ライフルサイト・ノッチのスパイラル
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1634

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旧線 ヤンキードゥードル湖~ライフルサイト・ノッチ間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版に加筆

この先も40‰の下り坂と急曲線の連続だ。途中アロー Arrow という通過式スイッチバックの小さな駅と駅前集落があり、峠を越えてきた旅客列車はここでしばらく停車し、乗客はその間に食事をとることができた。フレーザー川 Fraser River の川床に達するまで、線路はなおも山腹を這うように下りていく。

モファットトンネルの開通でこの区間は廃線になり、施設も撤去されてしまったが、地形図のとおり現在もほとんどがオフロードで残っていて、四輪駆動車やマウンテンバイクの愛好者に格好のフィールドを提供している。

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モファット・ロードの絵葉書、アロー駅
Image from wikimedia.

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旧線 ライフルサイト・ノッチ~フレーザー川間
USGS 1:24,000地形図 East Portal 1958年版、Fraser 1957年版に加筆

旅行者の間で人気が高かったとはいえ、標高3,500mの高地を走るモファット線の経営状態は常に厳しかった。長い冬の間、列車は山道で猛吹雪に見舞われ、しばしば立ち往生した。スノーシェッドを施しても、風に乗った雪が厚い板張りの隙間から容赦なく吹き込んで線路を覆ってしまう。石炭の需要が増える冬場に貨物列車を動かせないのは、鉄道とそれに頼る沿線の鉱山にとって大きな痛手だった。

ロリンズ峠越えは本来暫定ルートであり、モファットは早く峠の下にトンネルを掘りたかったのだが、資金調達がなぜかうまくいかなかった。後で分かったことだが、リオグランデとその関連会社に出資していたジェイ・グールドや鉄道王エドワード・ハリマン Edward Harriman が、陰で妨害していたのだ。

モファットは1911年に73歳で亡くなり、会社は翌年、資金繰りに窮して倒産に至る。1年後に再建され、デンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道 Denver and Salt Lake Railroad (D&SL) と名称を改めた新会社が、鉄道の運営を引継いだ。

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ロリンズ峠の雪囲いを出る旅客列車
Image from wikimedia, Watercolor painting by Howard Fogg courtesy of Richard Fogg.

さて、ロリンズ峠の山道を降りきった線路は、フレーザー川、次いでコロラド川本流に沿って西をめざすのだが、そのまま進むとリオグランデの線路と鉢合わせすることになる。なにしろリオグランデの支持者たちは、モファット線を目の敵にしている。資金面だけでなく、ライバルが通過予定のゴア峡谷 Gore Canyon にダムを建設する計画を立て、線路敷設の差止めを裁判所に請求するなど、妨害にあらゆる策を弄していた(下注)。同じ谷を無理に通そうとすれば、ロイヤル峡谷の二の舞になったかもしれない。

*注 ゴア峡谷のダム計画は、モファットを支持する共和党員の働きかけにより、当時の大統領セオドア・ルーズヴェルトが中止の判断を下した。それを伝え聞いたモファットは、生涯自分の机にルーズヴェルトの像を置き続けたと言われている。

それでモファット線のルートは、合流する手前で一山越えて、北のヤンパ川 Yampa River の谷に抜けていた(下注)。競合の回避とともに、ヤンパ谷に開かれた有望な炭鉱へ寄り道して、当面の貨物需要を満たすためだった。こうして1909年にスティームボートスプリングズ Steamboat Springs、1911年にクレーグCraigまでが開通した。しかし、再建された新会社には、これ以上の投資をする余裕も意欲もなかった。結局、ソルトレークシティまで半分も達することなく、延長計画はついえた。

*注 コロラド川を離れるボンド Bond からの山越えでも、S字ループや谷の迂回を駆使した興味深いルート設定が見られる。

実は1928年に待望のモファットトンネルが完成したときも、路線はクレーグで行止りの状態だったのだ。モファット線に真の利用価値を見出したのは、ここでもリオグランデだ。1934年にモファット線のボンド Bond 付近からコロラド川を下って自社線まで、64km(40マイル)の接続路線を建設した。接続点の地名からドットセロ・カットオフ Dotsero Cutoff(カットオフは短絡線の意)と呼ばれるこの路線の完成で、ついにデンヴァーからソルトレークシティに至る最短ルートが誕生する。デーヴィッド・モファットの夢を実現したのは、皮肉にも彼を悩まし続けたライバル会社だったのだ。

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モファット線とドットセロ短絡線

その後1947年にリオグランデはデンヴァー・アンド・ソルトレーク鉄道を併合し、モファット線は名実ともにリオグランデの路線網に組み込まれた。そればかりか、コロラド州を通り抜ける大陸横断のメインルート、いわゆる中央回廊 Central Corridor の一端を担い、リオグランデ自身が造ったテネシー峠ルート以上に活用されるようになる。

その後の動向にも少し触れておこう。リオグランデの親会社は、1988年にサザン・パシフィック Southern Pacific (SP) を買収した際、荷主の認知度が高いサザン・パシフィックの社名に改称した(下注1)。最初のライバルだったサンタフェの名が、今もBNSF鉄道(下注2)の頭文字の一部に残されているのとは対照的に、歴史あるリオグランデの名称はこの時あえなく消滅した。さらにサザンは1996年にユニオン・パシフィック Union Pacific Railroad (UP) に売却され、リオグランデのルートは現在同社の運営するところとなっている。

*注1 鉄道のほか建設、不動産、エネルギー供給など事業を多角化していた親会社リオグランデ・インダストリーズ Rio Grande Industries は、改称してサザン・パシフィック・レール・コーポレーション Southern Pacific Rail Corporation になった。
*注2 1996年にサンタフェとバーリントン・ノーザンが合併して、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 Burlington Northern Santa Fe Railway になったが、2005年にBNSF鉄道 BNSF Railway に改称した。

モファット線に比べて、テネシー峠ルートを使う列車は少なく、1980年代からその存廃が議論されてきた。サザン・パシフィックは、代替ルートの必要性を重視して積極的にテネシー峠に列車を回していたが、すでにシャイアン経由の大陸横断ルート(下注)を持つユニオン・パシフィックは、経費のかかる山岳路線を複数維持することに少しも意義を見出さなかった。そして1997年に最後の列車がテネシー峠を越えていき、路線はそのまま休止となった。

*注 いうまでもなく1869年に全通した最初の大陸横断鉄道。

ロッキー山脈には雪を戴く高峰と大地を切り裂く峡谷が随所に横たわり、人の往来を妨げている。鉄道網の発達などは本来想像できないような場所だ。にもかかわらず、銀の採掘競争からたちまち鉄道建設の機運が高まり、北米最大の狭軌路線網を含めてあれほどの鉄道輸送体制が構築され、デンヴァーはその中心都市となった。最盛期が実際、1878年から1893年までのわずか15年だったことを思うと、西部開拓に賭ける人々の情熱がいかにすさまじかったかが実感される。

ブームが静まるとともに自動車が普及していき、第二次大戦が終わるまでに、あらかたの鉄道は用済みになり剥がされた。今ではそうした過去があったことさえ気づかない人がほとんどだ。ただ、幸い現地では、何本かの保存鉄道が狭軌、標準軌、蒸気、ディーゼルとさまざまな形で運営されている。賑やかさは当時と比べるべくもないが、沿革を踏まえて乗り込めば、コロラドの鉄道の黄金時代をいっときでも偲ぶことができるだろう。

(2007年2月8日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ロリンズ峠線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

★本ブログ内の関連記事
 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー
 ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道
 ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後
 ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート
 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編

2017年10月29日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編

コロラドの鉄道を語る際に欠かすことのできない人物がいる。その名はデーヴィッド・モファット David Moffat。生まれは東部ニューヨーク州だが、20代半ばでデンヴァーに移住し、デンヴァー第一国立銀行 First National Bank of Denver の頭取にまでなった有力実業家だ。

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デーヴィッド・モファット
(1839~1911)
© Denver Public Library 2017,
Digital Collections H-123

彼は、デンヴァー最初の鉄道となったデンヴァー・パシフィック Denver Pacific(下注)をはじめいくつかの新興鉄道にも出資者として名を連ねている。そして、1887年にはリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)の代表取締役に就任し、ライバル他社との激しい競争を制して、自社の優位を保つことに貢献した。テネシー峠回りの本線改良を推進したのも彼の功績だ。しかし、債権者との意見の相違が原因で1891年に社長を辞任し、その後は、リオグランデに対して距離を置き、独自の道を貫くことになる。

*注 デンヴァー Denver ~シャイアン Cheyenne 間のデンヴァー・パシフィックについては「ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー」で言及している。

その後モファットが仕掛けた鉄道は、リオグランデにとって最後のライバルとなった。デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway (DN&P) が正式名だが、地元では常にモファット線 Moffat Line またはモファットロード Moffat Road(下注)と呼ばれている。なぜなら新たな夢を叶えるために、彼が持てる私財を惜しみなく注ぎ込んだ鉄道だからだ。

路線は、デンヴァーから直接西へ進み、ソルトレークシティ Salt Lake City と直結する計画だった。リオグランデと目的地が重なり、かつ南のプエブロ Pueblo を回るリオグランデに比べて距離がはるかに短い。デンヴァーの商業界も、市街の背後に残された鉄道空白地を解消する「エアライン Air Line(空地の路線の意)」として、その実現に大いに期待を寄せた。

*注 次回詳述するロリンズ峠 Rollins Pass 越えの廃線跡も、モファットロードと呼ばれるので注意。

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デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道(モファット線)の路線概略図
赤線がモファット線、青線がリオグランデ

デンヴァーの西側には、ロッキー山脈の一部を成すフロントレンジ Front Range(前面山脈の意)が屏風のように立ちはだかる。そのため既存の鉄道は迂回路を選んだのだが、遅れてきたモファット線はこの天下の険に敢えて正面から挑戦した。工事は1902年の冬に始まったものの、山脈に分け入るルートは難工事の連続で、分水嶺を越えて西斜面に達するまでに3年の歳月を要した。その分、開通後は壮観な山岳風景が見どころとなり、長旅の客を魅了したのだ。

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デンヴァー西方の山岳地帯を行くモファット線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆

列車に乗ったつもりで、デンヴァーの中央駅であるユニオン駅 Denver Union Station(標高1,581m)からそのルートをたどってみよう。

駅を出てしばらく旧コロラド・セントラル線 Colorado Central Railroad と並行したあと、線路は西北西へ向かう。30km(18.5マイル)の地点に、早くも最初の注目ポイントがある。平原からフロントレンジへの取っ掛かりに設けられた大カーブ群だ(下の地形図も参照)。勾配を20‰に抑えるために、敢えて極端に切返すことで高度を稼ごうとした。

2か所の馬蹄形カーブには、デンヴァー側から順にリトルテン Little Ten、ビッグテン Big Ten の呼び名がある。アメリカの鉄道では通例、カーブの緩急を弦(=弧の両端を結ぶ線分)100フィートに対する中心角の度数で表す。度数が大きいほどカーブがきつい。ビッグテンの「テン」は10度を意味し、半径175mに相当する急カーブだ。マイルトレイン Mile train (下注)がこの区間を上る様子は、まるで山に帰ろうとする大蛇のようにも見え、早くから定番の撮影地になっている。

*注 マイルトレインは、1マイル(1.6km)もあるような長大編成の貨物列車を言う。

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ビッグテンを降りるマイルトレイン
Photo by Aaron Hockley at flickr.com. License: CC BY-NC-ND 2.0

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ビッグテン~プレーンビュー間
なお、等高線間隔は、図の左半分が40フィート(約12m)、右半分が10フィート(約3m)
USGS 1:24,000地形図 Louisville 1965年版、Golden 1971年加刷修正版、Eldorado Springs 1965年版、Ralston 1965年版に加筆

この後、列車は山裾を北へ進む。トンネルにはデンヴァー方から番号が振られていて、第1トンネルを出てまもなくプレーンヴュー Plainview の信号場(標高2,071m)がある。大平原の眺望という名が示すとおり、沿線最大かつ最後の見晴らしが楽しめる。

その先はいよいよ山岳地帯だ。大小のトンネルが27本も連続する区間「トンネル・ディストリクト Tunnel District」が待ち受けている。線路は、断層崖に露出したフラットアイアン Flatiron(アイロンの意)の大岩を抜け、エルドラド山 Eldorado Mountain の下の第8トンネルで西に折れ、サウスボールダークリーク South Boulder Creek の南側の険しい山襞を文字どおり縫うように進んでいく。このあたり、谷底からの比高は300mを優に超え、かなりの高度感がある。

サウスドロー South Draw の深い支谷を馬蹄カーブでしのぎ、長めの第17トンネルで向かいの尾根を抜ける。クレセント Crescent 信号場(標高2,271m)を通過すると、右手にデンヴァーの水がめ、グロス貯水池 Gross Reservoir の巨大なダムが望める。その後も同じようなトンネルが断続的に現れるが、いつのまにかサウスボールダークリークの谷底がかなり上昇してきている。谷中の馬蹄カーブの途中でごく短い第27トンネルをくぐればトンネル・ディストリクトは終了し、パインクリフ Pinecliff 信号場(標高2,430m)が目前だ。

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クレセント信号場の西でグロス貯水池を望む
Photo by Jerry Huddleston at wikimedia. License: CC BY 2.0

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プレーンビュー~クレセント間
USGS 1:24,000地形図 Eldorado Springs 1965年版に加筆
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クレセント~パインクリフ間
USGS 1:24,000地形図 Eldorado Springs 1965年版、Tungsten 1972年版に加筆

この後しばらくは、高原上の浅い谷の中を通る旅になる。ロリンズヴィル Rollinsville、トランド Tolland の信号場を過ぎ、デンヴァーから81km(50.2マイル)で、いよいよ大陸分水嶺の本体というべき山塊にぶつかる。線路はイーストポータル East Portal 信号場(標高2,808m)の先で、単線のモファットトンネル Moffat Tunnel に突入する。長さが9,994m(6.21マイル)もあり、開通当時は北米最長を誇った(下注)。

*注 現在は、ワシントン州のカスケードトンネル Cascade Tunnel(12.55km(7.8マイル))、モンタナ州のフラットヘッドトンネル Flathead Tunnel(11.28km(7.01マイル))について鉄道トンネルとしては第3位。

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モファットトンネル西口
Photo by Jeffrey Beall at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

当時、このようなトンネル建設は、前例のない大プロジェクトだった。それだけに、必要とされた莫大な資金を民間の力だけで集めきるのは難しかった。そこで、公営水道の計画と抱き合わせにして、デンヴァー市が起債で一部を賄おうとしたのだが、私企業との合弁事業に対し、反対派から横槍が入って頓挫する。最終的には州政府の財政援助を得て、なんとか着工に漕ぎつけた。

トンネルの掘削も、資金調達に負けず困難な作業だった。特に西側で想定以上に地質が悪く、破砕帯に遭遇して大量の湧水にも悩まされた。工期の短縮を図るために、先に貫通させた導坑を使い、本坑を複数の工区に分けて掘り進めていった。この導坑はトンネル完成後、水路に転用され、先ほど見たグロス貯水池を経由して、西斜面の豊かな水資源を東の都市域に導く役割を果たしている(下注)。

*注 トンネルは東口より西口のほうが高度が高いが、中央を高くする拝み勾配のため、水路トンネルの西半分は逆サイホンの原理で流している。

長い闇を抜ければ、太平洋斜面で最初の駅ウィンターパーク Winter Park(標高2,762m)に到着する。スキーリゾートとして知られる町だ。線路はさらに、フレーザー川 Fraser River に沿って西へ下っていく。

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ウィンターパークの中心部
Photo by Darkshark0159 at English Wikipedia.

興味の尽きないルートながら、現在このルートを走る旅客列車はごく少ない。通年運行するものでは、シカゴ Chicago ~エメリーヴィル Emeryville 間の大陸横断列車カリフォルニア・ゼファー号 California Zephyr が唯一だ。西行き、東行きとも2日目の日中にこの山岳区間を通過するので、変化に富んだ車窓風景が楽しめる。

このほか、デンヴァーのシニア世代には懐かしいデンヴァー~ウィンターパーク間の「スキートレイン Ski Train」が、数年間の中断を経て、2017年のシーズンから復活している。

この列車は1940年に運行が始まり、1950~60年代にはウィンターパークのスキー教室に出かける子どもたちを運んでいた。1988年にリゾートトレインとして再出発したものの、利用者の減少が進み、2008~09年冬のシーズンをもって廃止されてしまった。ところが、2015年のウィンターパーク開設75周年に当たって記念列車を計画したところ、用意された450席が即日完売となり、急遽追加した翌日便もすぐに売り切れた。そこで運行の定期化が検討され、2017年1月からスキーシーズンの週末(土・日曜)に「ウィンターパーク急行 Winter Park Express」の名で再び走り始めたのだ。

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デンヴァー・ユニオン駅に停車中のスキートレイン(2003年)
Photo by Lexcie at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

こうして今や大陸横断鉄道の一部にもなったモファット線だが、実はデーヴィッド・モファットは、夢に描いた新路線の完全な姿を見届けることなく、1911年にこの世を去っている。分水嶺を越える区間は、確かに生前の1904~05年に開通しているのだが、トンネルが完成したのはずっと後の1928年なのだ。では、それまでの24年の間、旧線はどこを通っていたのだろうか。その驚くべきルートについて次回詳述しよう。

(2007年2月2日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-モファット線」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
アムトラック-ウィンターパーク急行 https://www.amtrak.com/WinterParkExpress

★本ブログ内の関連記事
 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー
 ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道
 ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後
 ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート
 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

2017年10月22日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 VI-リオグランデの2つの本線

サウスパーク、そしてミッドランドと、コロラド山岳地帯で抜きつ抜かれつ繰り広げられた鉄道の敷設競争を挑戦者の視点から追ってきた。こうした他社の進出に刺激されて、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)も改軌工事や新線建設など、自社路線の改良と拡張を着々と進めている。今回は、その様子をまとめておこう。

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マーシャル峠東側を下る列車、右奥に谷底の線路が見える
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1260

意外というべきか、リオグランデの最初の本線は、マーシャル峠 Marshall Pass 経由の南回りルートだ。これでデンヴァー Denver とソルトレークシティ Salt Lake City が3フィート(914mm)軌間で結ばれた。レッドヴィル Leadville の近くからテネシー峠 Tennessee Pass を越えていく北回り路線が整備されたのはその後のことだ。

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デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の2本の本線ルート
太い二重線が標準軌の北回り(テネシー峠経由)、
細い二重線が狭軌の南回り(マーシャル峠経由)、
太い青の梯子線は3線軌条区間(プエブロ~マルタ間)

リオグランデは、銀山のあるレッドヴィルへ進出するのと同時に、西へ向けて路線網を拡大する計画を進めていた。レッドヴィル到達は1880年だが、途中サライダ Salida で分岐した路線が、ガニソン Gannison には翌年8月、モントローズ Montrose へは1882年9月に達し、同年12月にグランドジャンクション Grand Junction まで延長された。そしてユタ州側から建設されていた鉄道に乗入れることで、1883年にデンヴァー~ソルトレークシティ間に初めて直通列車が走った。なお、グランドジャンクションという地名は鉄道の接続と関係はなく、コロラド川の旧称グランド川 Grand River とガニソン川の合流点(ジャンクション)を意味している。

ユタ側の鉄道会社は、デンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW) といった。非常に紛らわしい名称だが、実際にコロラド側のリオグランデの関連会社(社長は兼任)で、まもなく同社が施設を借りて運行するようになり、過半数株式の取得を経て、1908年に両社は統合される。

マーシャル峠は大陸分水嶺 Continental Divide 上に位置し、標高は3,309m(10,846フィート)だ。富士山の8合目ほどもある高地を、軌間3フィートの軽便鉄道がどうやって越えていたのか。ルートを追ってみよう。

サライダでレッドヴィルへ北上する線路と分かれた本線は、いったん南西へ向かう。ポンチャジャンクション Poncha Junction でモナーク支線 Monarch Branch を、ミアーズジャンクション Mears Junction で南下するヴァレー線 Valley Line(下注)を分けた後、いよいよマーシャル峠への上りにかかる。ミアーズとは、峠に最初の有料馬車道を作ったオットー・ミアーズ Otto Mears の名を取ったものだ。リオグランデはその馬車道を買収して、工事資材の輸送に利用した。

*注 モナーク支線は、最急勾配45‰と2か所のスイッチバックを介してモナーク鉱山へ通じる24.6km(15.3マイル)の支線。ヴァレー線は、ポンチャ峠 Poncha Pass を越え、サンルイス谷 San Luis Valley を一直線に南下してアラモサ Alamosa に至る119.7km(74.4マイル)の路線。

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マーシャル峠東側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Mount Ouray 1980年版、Poncha Pass 1980年版に加筆
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マーシャル峠と西側のアプローチ
USGS 1:24,000地形図 Pahlone Peak 1967年版、Mount Ouray 1980年版に加筆

地形図(上図)を見ると、分水嶺へのアプローチはたいへんユニークだ。峠からまだ直線距離で10kmも手前の段階で、ヘアピンカーブを繰り返しながら約300m(900フィート)の高度を上りきり、後はユーレイ山 Mount Ouray の中腹を等高線に従いながら、峠へ近づいていく。先に存在したミアーズの馬車道に沿って線路を敷いたからだとされるが、高所を通る区間が長いため、見晴しのいい路線になった。

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マーシャル峠東側の多重ループ眺望。中央の雪山はユーレイ山、峠はその左奥になる
image from wikimedia

峠の駅マーシャルパスは、分水界の尾根を切り通した急曲線上に設けられた。峠は風の通り道で、冬場はかなりの積雪がある。後に線路は雪囲いですっぽり覆われ、屋根に点々と煙抜きの小窓が開けられた。周辺には小さな集落ができ、合衆国最小と言われる郵便局もあったという。

駅を出るとすぐに本線は、分水嶺の西斜面を降りる長い下り坂に入る。こちらは峠直下の支谷をいくつも巻きながら、東側の半分の距離で一気に下界をめざしている。本線の制限勾配は40‰と険しく、それが麓の谷のチェスター Chester 駅に降り立つまで続いていた。

州道50号線と出会うサージェンツ Sargents から、トミチクリーク Tomichi Creek が流れる谷底平野を50km(31マイル)進むと、ガニソンの町に到達する。ここは同名の郡の中心地で、周辺で開発された鉱山や放牧地からの貨物の集積地として賑わったところだ。リオグランデ線から1年後にはサウスパーク線も開業した(下注)が、両社は地域の覇権を巡って対立し、町民もそれに同調して市街地は二分されたという。

*注 デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)。本ブログ「ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート」も参照。

ガニソンからは先は再び谷が狭まり、やがて東のロイヤル峡谷と並ぶ東西交通の障壁となったガニソンのブラック峡谷 Black Canyon of the Gannison にさしかかる。峡谷には陽がほとんど差し込まず、昼間も薄暗かったために、その名がついた。長さ77km(48マイル)と規模はロイヤル峡谷をはるかにしのぎ、深さも最大600m(2000フィート)ある。

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ブラック峡谷~セロサミット間の現役時代のルート
(上)東半部。中央にクーリカーンティ・ニードル
(下)西半部
USGS 1:125,000地形図 Montrose 1909年版、Uncompahgre 1908年版に加筆

途中、左岸(南側)に突き立つ奇岩クーリカーンティ・ニードル Curecanti Needle(クーリカーンティの針、比高210m)は沿線きっての名勝として知られた。リオグランデの社章にも、その特徴的な形が描かれている。路線が廃止された後の1960~70年代、電源開発の目的で峡谷に一連の大型ダム群(下注)が建設された。ダム湖によって残念ながら廃線跡はほとんど水没し、クーリカーンティ・ニードルも下部が沈んで、神秘性が半減してしまった。

*注 鉄道ルート上に造られたのは、上流からブルーメサダム Blue Mesa Dam(1966年供用)、モローポイントダム Morrow Point Dam(1968年供用)。

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ガニソン川を隔ててクーリカーンティ・ニードルを望む(当時の絵葉書)
image from wikimedia

ブラック峡谷はなおも続くが、本線はシマロン Cimarron 付近で支流シマロン Cimarron River の谷を利用して、脱出を図る。500m遡った地点にその支流を渡っていたトレッスル橋が復元され、一時はその上に列車も展示されていた。狭軌用の278号機関車(軸配置2-8-0)、炭水車、有蓋貨車、カブース(車掌車)と最小編成ながら、現役当時をしのばせるモニュメントだった。

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シマロン川のトレッスル橋に静態展示された列車、2006年撮影
(左)278号機関車 (右)最後尾はカブース
left: Photo by Nationalparks at English Wikimedia. License: CC BY-SA 2.5
right: Photo from flickr.com

この後、線路は標高2,451mのセロサミット Cerro Summit を再び40‰で越えて、モントローズ Montrose の谷底平野に出る。針路を北西に変え、デルタ Delta からガニソン川 Gunnison River の流路に忠実に沿って、グランドジャンクションへ向かった。

しかし、南回りルートが本線として使われた期間は、7年と短かった。後述のとおり、テネシー峠経由の新線が1890年に標準軌で全通すると、役目を終えてローカル線に転落する。他の線区のように標準軌に改築されることもなく、1949年にまず、セロサミットをはさむ閑散区間(サピネロ Sapinero~セダークリーク Cedar Creek)が廃止されて直通不能になり、1953年にはマーシャル峠を越えていた残り区間もほとんど廃止となった。

地図でも一目瞭然だが、テネシー峠経由のルートは南回りより距離が長い。それにもかかわらず、なぜ本線として遇されるようになったのだろうか。テネシー峠の標高は3,177m(10,424フィート)で、デンヴァーの西方で大陸分水嶺を越える峠の中では最も低い。さらにサミットに至るアプローチが比較的穏やかで、高度に比例して積雪量も少ない。それが列車運行の面で利点と認められたのは確かだが、理由はそれだけではなかった。

この峠を初めて列車が越えたのは1881年だ。ただしそれは、峠の北側で新たに拓かれたレッドクリフ Red Cliff の銀鉱山へ向かうためだった。翌82年には、3.2km(2マイル)先のロッククリーク Rock Creek 鉱山まで延長されている。レッドヴィル周辺では鉱山が次々に開発されており、そのつど貨物線が延ばされた。テネシー峠を越えた路線も、初めはそうした支線の一つに過ぎなかった。

簡易線であった証拠に、ルートも今と異なっている。地形図(下図)に描かれているとおり、峠南麓のクレーンパーク Crane Park から北側のパンド Pando までほとんど別ルートだった。テネシー峠のトンネルも存在せず、サミットを急勾配で昇り降りしていたのだ。

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テネシー峠の初期ルート
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

平凡なローカル支線に転機が訪れるのは、1880年代の後半になってからだ。山向こうのアスペン Aspen で有望な鉱脈が発見されたという情報が知れ渡り、新たなエルドラドを求めて、人々の視線が一斉に西の山中に注がれた。前回紹介したコロラド・ミッドランド鉄道は、ハガーマン峠経由でアスペンとレッドヴィルを直結する新線を計画していた。それに対し、リオグランデはすでにテネシー峠を越えていた上記支線をイーグル川 Eagle River 沿いに延長することで、アスペンに先回りしようと考えた。

まずは3フィート(914mm)軌間のままで、グレンウッドスプリングズ Glenwood Springs を経てアスペンに至る167km(104マイル)の自社線路が1887年10月に完成した。目的地への到達は、ミッドランドより3か月早かった。

続いて、1435mm標準軌のミッドランドに対抗するため、貨物輸送で上がる収益をつぎ込んで、改軌工事にもとりかかる。その際、3フィート狭軌のブルーリヴァー支線 Blue River Branch の列車が直通する区間は、狭軌・標準軌併用の3線軌条とした(下注)。対象となるのは、ロイヤル峡谷を含むプエブロ Pueblo~マルタ Malta 間254km(158マイル)で、東京~浜松間に相当する長大なものだった。この措置は同支線がコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad(サウスパークの後継)に譲渡される1911年まで続けられた。

*注 ブルーリヴァー支線はレッドヴィルから北へ、フリーモント峠 Fremont Pass を越えてディロン Dillon まで延びていた58.3km(36.2マイル)の支線。マルタは、レッドヴィルの7.7km(4.8マイル)手前にある、テネシー峠方面とレッドヴィル方面の分岐駅。

もう一つの課題はテネシー峠だった。西の延長区間は曲線や勾配が標準軌仕様で設計されていたが、峠周辺は簡易線規格のままで、標準軌の列車を通すわけにはいかなかったからだ。1889~90年に分水嶺の下の、旧線より60m(200フィート)低い地点に初代テネシー峠トンネルが穿たれ、前後区間もパンドまで全面的に付け替えられた。なお、このトンネルは1945年に、並行して造られた新トンネルに置き換えられている。

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テネシー峠の改良ルート(赤マーカー)と旧ルート(破線)の関係
USGS 1:100,000地形図 Leadville 1983年版に加筆

一方、グレンウッドスプリングズから西、南回り本線と出会うグランドジャンクションまでの区間は、ミッドランドと線路を共有する協定を結んだ。ハガーマン越えの建設工事で多額の負債を抱えたミッドランドが、単独での全線建設を諦めたからだ。改軌やトンネル掘削を含む一連の改良工事は1890年中に完了し、プエブロからテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る中央山岳地帯の標準軌ルートがつながった。

こうしてリオグランデは、他社との競争という外的要因に刺激されて、初めから意図したわけではないものの、北回りルートを手に入れた。運行距離が多少長くなろうとも、標準軌で全米に直通できるメリットには代えがたい。狭軌のマーシャル峠はたちまち、主役の座を追われることになる。

本線化によって、テネシー峠を経由する貨物の輸送量は年を追うごとに増加していった。峠の西側には30‰勾配が連続する区間があり、坂を上る列車には補助機関車が必要だ。この回送が加わり線路容量が逼迫するようになったため、1903~10年には勾配区間(ディーン Deen ~ミンターン Minturn 間)で複線化工事が行われている。

代替ルートを形成していたミッドランドが1918年に廃止されると、列車はテネシー峠に集中した。ボトルネックを解消すべく、CTCの導入や単線区間に長い待避線を設置するなどの対策が相次いで実施された。運行機能が強化された北回りルートは、ライバル社の挑戦を退けて覇者となったリオグランデの主要幹線として、しばらくの間君臨し続けたのだ。

しかし何事にも盛衰がある。リオグランデが築いた堅固な地盤に、なおも挑む鉄道が現れ、しかも最終的にはこの本線ルートを代替することになろうとは、当時誰も予想しなかったに違いない。詳細は次回

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Colorado Central Magazine  http://cozine.com/
National Park Service - Curecanti National Recreation Area, Colorado
https://www.nps.gov/cure/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

★本ブログ内の関連記事
 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー
 ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道
 ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後
 ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート
 ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VII-モファットの見果てぬ夢 前編
 ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

2017年10月15日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 V-標準軌の挑戦者ミッドランド

1887年9月、リオグランデやサウスパークに7年遅れて、レッドヴィル Leadville に次の挑戦者が登場する。その名はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)。以下、「ミッドランド」と呼ぶことにしよう。

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ハガーマン峠西側ヘルゲート Hell Gate へのアプローチ
Courtesy, L. Tom Perry Special Collections, Harold B. Lee Library, Brigham Young University, Provo, UT 84602.

この鉄道はどこから来たのだろうか。デンヴァー Denver とプエブロ Pueblo の間にコロラドスプリングズ Colorado Springs という町がある。現在は州でデンヴァーに次ぐ大きな都市に成長しているが、もとはリオグランデが、付近の鉱泉を売りにして1871年から開発を始めた鉄道沿線のリゾートタウンだ。鉄道網ができ、1890年にクリップルクリーク Cripple Creek でコロラド最後のゴールドラッシュが起こると、鉱物資源の集積地として発展する。この町からミッドランドは、サウスパークと同じ峠を越えてレッドヴィルへ、そしてさらに西へと線路を延ばしていった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の路線概略図
赤線がミッドランド、青線がリオグランデ(主要線のみ)

ミッドランドには、前2社とは一線を画すセールスポイントがあった。2社が3フィート(914mm)の狭軌線だったのに対して、最初から4フィート8インチ半(1435mm)の標準軌で建設されたのだ。これは、大陸横断鉄道はもとより国内の主要鉄道網にそのまま車両を乗入れできることを意味する。リオグランデも対抗上、翌1888年にプエブロ~レッドヴィルの競合区間に急いで標準軌の線路を敷いたほど、そのインパクトは強かった。

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コロラド・ミッドランド鉄道の
絵葉書、1900年ごろ
Photo from wikimedia

中でもブエナビスタ Buena Vista 北方からレッドヴィル西方までの約80kmは、ライバル同士が並走する区間になった。両者の線路は、時にアーカンザス川 Arkansas River をはさんで対岸に、時には全く隣接して敷かれていた。

リオグランデも標準軌にするのだが、完全に軌間を変更してしまうと狭軌車両が直通できなくなる。そこで一部区間では3線軌条方式を採用した。その後、支線の廃止に伴って、コロラド山中の路線は標準軌に統一されていくが、そのきっかけとなったのがミッドランドの参入だったのだ。

さらにミッドランドは1887年に、ブエナビスタまでの区間で定期運行を開始するにあたり、スケネクタディ機関車工場 Schenectady Locomotive Works 製115形3両を含む28両の機関車を投入した。115形は軸配置2-8-0(先輪1輪、動輪4輪)で、「コンソリデーション Consolidation(混載輸送の意)」と呼ばれた当時としては最大級の蒸気機関車だ。荷主たちに輸送力の優位性をアピールする意図があったことは言うまでもない。

では、鉄道がどんなルートを通っていたのか、地図で確かめておこう。幸いレッドヴィル周辺については、各社が競合していた時代の地形図が残っている(下図参照)。ご覧の通り、リオグランデ、ミッドランドとも、山麓の緩斜面に立地するレッドヴィルの町まで谷筋から寄り道する形で線路を設けている。ミッドランドにとってはこれが本線で、アーカンザス川に沿う線路は後から造ったアスペン短絡線 Aspen Short Line と呼ばれるショートカットルートだ(下注)。

*注 下図は1889年版だが刊行は少し後のようで、サウスパークのハイライン High Line(図の右上から降りてくる2本の線路のうちの右側)がすでに後継会社のコロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railroad と注記されている。

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1880年代、レッドヴィルを目指した路線網
赤がミッドランド、青がリオグランデ、緑がコロラド・アンド・サザン(旧サウスパークのハイライン(高地線))
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版に加筆

さて、ミッドランドがさらに西へ進出するには、どこかで大陸分水嶺を越える必要がある。選ばれたのは、レッドヴィルの西に位置する峠だ。ミッドランドの社長の名からハガーマン峠 Hagerman Pass と呼ばれるようになるが、鉄道通過で注目されるまでは交易ルートからも外れた無名の土地だった。峠の南1.3kmにある鞍部の直下に掘られたトンネルは、長さが659m(2,161フィート)に過ぎない。しかし、線路の最高到達地点は標高3,514m(11,528フィート)で、アルパイントンネルに次ぐ高度になった。当然、そこに至るアプローチは生易しいものではない。

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ハガーマン峠東側の多重ループ
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1915

地形図(下図)に開通当時の状況が描かれているが、峠の東側では、約560mある高度差を稼ぐために4回も折り返しながら最大32.4‰の勾配で上っていく。山麓から3つ目の馬蹄カーブは、谷をまたぐ長さ330mの大規模なトレッスル(下の写真参照)が組まれていて、とりわけ壮観だった。一方、峠の西側は谷底まで900m(3000フィート)以上も下降するため、最大30‰の片勾配が延々32km(20マイル)も続く。西から鉱石などの重量貨物を牽いて上ってくる機関車にとっては、試練の道中だったに違いない。

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ハガーマン峠周辺
USGS 1:125,000地形図 Leadville 1889年版、Mount Jackson 1909年版に加筆
*注 ハガーマントンネル~アイヴァンホー湖間のルートは誤りで、実際は赤のマーカーで示したように湖の南側の尾根を巻いていた。

分水嶺を驚異のルート設定で克服したミッドランドは、1887年12月にコロラド川本流と出会うグレンウッドスプリングズ Glenwood Springs まで線路を完成させて、分水嶺をまたぐ列車運行を開始した。線路はアスペンジャンクション Aspen Junction(後のバソールト Basalt)で二岐に分かれ、片方は1888年2月に目標としていた鉱山町アスペン Aspen に達した。

もう片方は、コロラド川北岸のライフル Rifle まで自社路線を建設(一部は乗入れ)し、その先をリオグランデと協定を結んで線路を共有することで、1890年9月にユタ州境に近いグランドジャンクション Grand Junction まで開通させた。これによりミッドランドは、ユタ州側の鉄道(リオグランデ・ウェスタン鉄道 Rio Grande Western Railway)と接続を果たし、予定していたソルトレークシティ Salt Lake City へ列車を直通できるようになった(下注)。

*注 ミッドランドは、1890年にリオグランデのかつての敵サンタフェの子会社となり、名称はコロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railroad に改められた。日本語では区別できないが、旧社名の Railway が Railroad に変わっている。しかし1893年のサンタフェ倒産により、再度独立する。

しかし山越えの線路には、開通直後から問題が発生していた。標高の高い峠道はとりわけ冬の気候が厳しく、雪が6月まで融けきらないこともあった。そのため、湿度の高い状態が長く続き、影響で木製の枕木やトレッスルが早々と腐り始めたのだ。取り換えてもまた同じ繰り返しになることから、抜本的なルート変更が計画された。

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第3馬蹄カーブの大規模な木造トレッスル橋
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-729

より低い位置で峠の下を貫くバスク=アイヴァンホートンネル Busk-Ivanhoe Tunnel がそれだった。長さは旧トンネルの4倍以上の2,863m(9,394フィート)あり、標高は3,338m(10,953フィート)まで落ちる。地図(下図の破線ルート)に示したとおり、ハガーマン峠前後の多重ループを一掃し、距離も1/3以下に短縮する画期的なものだった。不安定な地質に苦しみながら工事は3年がかりで進められ、1893年に開通した。

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旧線ハガーマントンネルと新線バスク=アイヴァンホートンネル(図では破線のルート)の位置関係
USGS 1:24,000地形図 Homestake Reservoir 1970年版、Nast 1970年版、Mount Massive 1967年版、Mount Champion 1960年版に加筆
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ハガーマン峠西側で32km続いていた下り坂(地図はその一部、上図の西側に当たる)
USGS 1:24,000地形図 Nast 1970年版に加筆

ただし、新線での運行が定着するまでには一騒動があった。ミッドランドはすでに巨額の負債を抱えていたため、トンネルは同名の建設会社が完成後も所有し、当面ミッドランドが通行料を支払って運行する形をとった。しかしこれは問題を先送りしたに過ぎず、不況下でミッドランドの経営が行き詰ってくると、料率をめぐる交渉が決裂する。鉄道会社が再建されたとき、新経営陣は放置されていた旧線を急ぎ復旧して、1897年10月から新トンネルの運行契約を破棄するという強硬策に出た。列車の運行は旧線経由に戻された。

ところが運の悪いことに、次の冬(1898~99年)は例年以上に天候不順で、連日嵐が吹き荒れた。1月になると降り積もる雪で、旧線ではスノーシェッド(雪囲い)が倒壊し、線路も埋まってしまった。峠の線路に列車が閉じ込められたが、救援に向かおうとしたロータリーもあまりの豪雪に歯が立たなかった。荒天が収まり線路が開通したのは4月になってからで、不通期間は78日に及んだ。さすがに懲りたミッドランドは建設会社を買収することにより使用料問題を解消し、1899年5月から運行を新線に復帰させたのだった。

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アスペンに入る2本の鉄道
USGS 1:125,000地形図Mount Jackson 1909年版に加筆

ミッドランドは、標準軌や最新車両という武器を引っ提げ、域内輸送のみならず、山地を通過する貨物もリオグランデから奪おうとした。その目論見はどこまで成功したのだろうか。

2社はレッドヴィルに次いで、発展が期待されたアスペンや西方との連絡輸送ルートの確立を競った。路線の開通はほとんど同時期だが、ミッドランドは速達性と輸送力で応分のシェアを獲得した。しかし、リオグランデも1890年には標準軌化を完了させるとともに、待避所の増設や複線化を進め、輸送体制を強化していく。ミッドランドの場合、稼いだ利益は社債の高利息の支払いに消えていき、運転資金は潤沢とは言えなかった。さらに1900年から1901年にかけての資本移動の結果(下注)、ミッドランドはライバルであるリオグランデに半分所有される形になり、もはや競合関係ではなくなってしまった。

*注 1900年にミッドランドの株式をリオグランデ・ウェスタンとコロラド・アンド・サザン Colorado and Southern が取得し、1901年にそのリオグランデ・ウェスタンの株式をリオグランデが取得して経営権を掌握した。

この頃のアメリカは好況期で、沿線では鉱業だけでなく畜産業も盛んになり、貨物輸送は順調に増加した。しかし1908年を境に、経済は不況に転じる。通過貨物はリオグランデだけでも担える量に縮小し、ミッドランドには流れにくくなった。鉱山の閉鎖や生産設備の移転により、域内輸送も減少した。

ところが、第一次世界大戦が始まると、連邦鉄道管理局は、戦時輸送の効率化を図るために、東西の短絡ルートであるミッドランドに列車を集中させるよう指令を出した。突然、膨大な貨物が集中したため、ミッドランドでは運行管理が追い付かず、列車の遅延や貨物の滞留が常態化した。当局はミッドランドが対応できないとみるや指令を撤回し、今度は列車をリオグランデ経由に振り替えた。この混乱で、ミッドランドから通過貨物がまったく消えてしまい、ついに息の根を絶たれることになった。1918年に運行休止の許可が下り、線路は1920年代初めに撤去された。

コロラドの中央山岳地帯における鉄道事業者の争いで、勝ち残ったのはリオグランデだった。もちろん経営権をめぐる複雑な動きも含めた結果ではあるものの、主要河川であるアーカンザス川とコロラド川の自然回廊をいち早く選択するという、先行者ならではの特権も大いに寄与しただろう。この基軸ルートを最大限に活用して、路線網を広範囲に張り巡らせ、それによって地域内と全米各地との移送貨物、さらには大陸を横断する通過貨物も受け入れることができた。

ほかの鉄道は、リオグランデより有利な経路を採ろうとしたものの、連絡運輸をうまく取り込むことができず、多くの場合、地域内輸送を担ったにとどまる。そのため、鉱物資源に多くを依存する地域が不況に陥ると、たちまち収益は悪化し、経営が立ちいかなくなってしまったのだ。

とはいえ、覇者たるリオグランデも、ライバルに対抗するために自社路線のさまざまな拡張や改良を行っている。とりわけ山脈の東西を結んだ2本の主要ルートは、アルパイントンネルやハガーマン峠にも匹敵する北米屈指の山岳鉄道だった。次回はその起源と盛衰に迫ろう。

(2007年1月18日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-ハガーマン峠」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
Colorado Midland Railway - A Short History
http://www.willcallhandyman.com/ColoradoMidland/Short_History_Page.html
DRGW.net - The Colorado Midland Railway
http://www.drgw.net/info/ColoradoMidland
William Henry Jackson Collection - Brigham Young University Library
https://lib.byu.edu/collections/william-henry-jackson-collection/

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2017年10月10日 (火)

ロッキー山脈を越えた鉄道 IV-サウスパークの直結ルート

銀の都レッドヴィル Leadville に、サンタフェとの鉄道戦争を決着させたリオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)が到達したのは1880年のことだ。ところが、リオグランデは狙い通りに町の輸送需要を独占することはできなかった。なぜなら、次のライバルが別の方向からすでに姿を現していたからだ。

ライバルの名は、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P、下注)。以下「サウスパーク」と呼ぶが、リオグランデがロイヤル峡谷の戦いでもたついている間に、着々とコロラドの山中へ駒を進めていた。パシフィック(太平洋)という名が示すとおり、これも西を目指そうとした鉄道だが、軌間は、リオグランデと同じ3フィート(914mm)の狭軌だった。

*注 1872年10月設立時点の社名は Denver, South Park and Pacific Railway。1873年に増資の上、Railway を Railroad に改名して新たに設立された。

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サウスパークを走った機関車
(コロラド州フェアプレー Fairplay, CO のサウスパーク市立博物館 South Park City Museum に展示)
Photo from www.loc.gov http://www.loc.gov/pictures/resource/highsm.33658/

リオグランデが、路線をデンヴァー Denver から南へ延ばすつもりだったことは前々回述べたとおりだ。それでレッドヴィルへ向かう路線も、開通済みのプエブロ Puebloで分岐してアーカンザス川 Arkansas River 沿いに北上するルートをとった。しかしこれをデンヴァー起点で見ると、かなりの遠回りになる。それに対してサウスパークは、デンヴァーから目的地に直行するという点を売りにした(下図参照)。サウスパーク South Park という名称は、途中で横断する高原地帯の名に由来する。

会社設立は1872年という早い時期だ。この時点ではまだシルヴァーブーム(1878年~)が起きてはおらず、したがってレッドヴィルの町も小さかった。例のパイクスピーク・ゴールドラッシュのさなか、1859~60年に礎が築かれたレッドヴィルは、一時はオロ・シティ Oro City(黄金都市の意)と持て囃されながら、砂金が枯渇するとたちまち人口が激減していた。標高3,100mの高地で気候が厳しいこともあって、有望な鉱物資源がない限り、鉄道資本家の興味を引く場所ではなかったのだ。

それでサウスパークの本線は、レッドヴィルに立ち寄ることなく、まっすぐ西へ向かい、まだ見ぬパシフィックをめざそうとした。しかし、1873~76年というのは金本位制のもとで、西部が不況に喘いでいた時代だ。鉄道会社も資金繰りが苦しく、延伸工事はいっこうに捗らなかった。

1878年にいよいよシルヴァーブームが到来すると、コロラド各地で銀の採掘地へ向けた鉄道の建設ラッシュも始まった。その年の初めにはまだデンヴァーから20マイル(32km)のプラット峡谷 Platte Canyon 入口で足踏みしていたサウスパークも、みるみる路線を延ばしていった。鉄道輸送は活気を呈しており、1日当り480ドルの費用で1,200ドルの収入があった。収支係数40の超優良線だったのだ。鉄道は1879年6月にサウスパークの一角にあるコモ Como に達した後、標高2,892mのトラウトクリーク峠 Trout Creek Pass を越え、リオグランデが縄張りとするアーカンザス川の谷へ降りていった。

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デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道の路線概略図
赤線がサウスパーク、青線がリオグランデ(主要線のみ)

こうなると、銀の都へのルートを巡って、両者の間で新たな鉄道戦争が勃発する、と先読みしたいところだが、実際はそうならなかった。なんと両者は手を携えて、レッドヴィルに入ったのだ。サウスパークのレッドヴィル開業は1880年7月2日、リオグランデは7月20日とされ、前者がタッチの差で早いらしいのだが、ターミナルは別でも、そこに至る線路は共同で使っていた。なぜそうなったのか。

実は裏で画策した男がいた。「泥棒男爵」ジェイ・グールド Jay Gould。ロイヤル峡谷戦争に介入し、リオグランデの側に立って、サンタフェの戦意を喪失させたあの男だ(前々回参照)。彼はすでにサウスパークの物言う株主でもあったため、二者が並行路線を持つのは無駄だと考えた。それで、両者がレッドヴィルに到達する1年前の1879年10月に、共同運行協定を結ばせていたのだ。そこにはこう記されている。「調和と相互利益を目的として、リオグランデは、ブエナビスタ Buena Vista からレッドヴィル鉱山地区へ線路を敷設し、サウスパークは同等の運行権を共有する。同様に、サウスパークは、チョーククリーク Chalk Creek 経由ガニソン Gunnison 地内への敷設権が与えられ、リオグランデには同等の運行権が与えられる。」

平たく言えば、両者がそれぞれ相手の路線に乗り入れる権利を有するということだ。サウスパークはこの協定に基づいて、リオグランデの敷いた線路でレッドヴィルに乗入れることができ、同時に、サウスパークが敷く予定の西側区間がガニソンまで共用となる。しかし、これはお互いに不満の残る協定だった。というのも、当該区間で上がる収入も、かかる維持費も両者が折半することになっていたからだ。取扱量の多いリオグランデとしてはドル箱路線の利益をみすみす他者に渡すことになる一方、サウスパークは列車数が少ない割に維持費の負担が重かった。

案の定、協定は開業から4年足らず、1884年2月に破棄されてしまう。それを見越してサウスパークは、レッドヴィルに通じる独自路線の建設を進めていた(下注)。コモで本線から分岐して北上するルートだ。

*注 ジェイ・グールドの支配下にあったサウスパークは、1881年からユニオン・パシフィック鉄道(UP)のサウスパーク線区 South Park Division として扱われるようになったが、本稿では混乱を避けるために前歴と区別せずに記述している。

線路はボレアズ峠 Boreas Pass を越え、ブレッケンリッジ Breckenridge からいったんブルー川 Blue River の谷を下る。その後反転南下して、テンマイルクリーク Tenmile Creek を遡り、フリーモント峠 Fremont Pass 経由でレッドヴィルに至る。「ハイライン High Line(高地線)」と呼ばれたように、標高3500m近い大陸分水嶺を二度も越える名うての山岳路線だった(下注)。この開通によって、レッドヴィルからデンヴァーまでの距離は、リオグランデの446km(277マイル)に対し、243km(151マイル)と著しく短縮された。

*注 ボレアズ峠は標高3,499m(11,481フィート)、フリーモント峠は標高3,450m(11,318フィート)。

ところで、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道を語るなら、本来の設立目的であった西部連絡線のことも外すわけにはいかない。ハイラインの大胆なルート選択にも驚くが、西方ではさらに挑戦的な土木工事が実行に移されていたからだ。

西をめざすサウスパークの当面の目標は、大陸分水嶺を越えた先にあるガニソンの谷だった。その周辺では石炭、石灰石、鉄や貴金属を産出する鉱山が開発を待っていた。峠道にはいくつかの選択肢がある。最も標高が低いのは一番南にあるマーシャル峠 Marshall Pass だが、すでにリオグランデの最初の本線が敷かれていた。次に低い峠はモナーク峠 Monarch Pass で、現在、連邦道50号線が通っている。サウスパークはそのいずれでもなく、ブエナビスタから距離は最短だが、標高はさらに高い峰筋を越えようとした。

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アルパイントンネルを中心とした鉄道路線
USGS 1:500,000コロラド州全図 Colorado State Map 1980年改訂版に加筆

残念ながらその時代に分水嶺付近の地形図は作られなかったので、1980年代の地形図でルートを確認しておこう。右上のデンヴァー側からPACK TRAIL(登山道)の注記のある小道が左に延びている。これが廃線跡だ。線路は最急40‰の険しい勾配で、サミットをめざしていた。トンネル沢 Tunnel Gulch の南斜面に、標高11,600フィートの注記を伴ってトンネル北口がある。本来の峠道は一つ東にあるウィリアムズ峠 Williams Pass なのだが、鉄道はそれよりも尾根がくびれて、掘削距離が短くて済むこの場所を選んだ。

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アルパイントンネル周辺
USGS 1:24,000地形図 Saint Elmo 1982年版、Cumberland Pass 1982年版、Whitepine 1982年版、Garfield 1982年版に加筆

アルパイントンネル Alpine Tunnel(アルプストンネルの意)と命名されたこのトンネルは、コロラドの大陸分水嶺に穿たれた最初のものだ。標高3,539m(11,612フィート、下注)は、鉄道用としては北アメリカで最も高く、その記録は未だに破られていない。長さはたかだか540m(1,772フィート)と見積もられたので、建設会社は6か月で貫通させるつもりだった。ところが、掘削中に花崗岩の破砕帯に遭遇し、アカスギの支持枠で全長の8割を補強するなど、予期しない難工事となった。結局、完成までに2年近くを要し、1881年12月にようやく開通した。地形図にはトンネルの位置が明瞭に描かれているが、現在はポータルが崩壊して、内部に入ることはできなくなっている。

*注 アルパイントンネルに関するウィキペディア英語版の記事では、トンネルの標高が11,523フィート(3,512m)とされているが、1:24,000地形図記載の標高値から見て、Narrowgauge.org が示す11,612フィートに妥当性がある。 http://narrowgauge.org/alpine-tunnel/html/auto_tour.html

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アルパイントンネル西口、1880年代撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections WHJ-1425

南口からは、地図上の廃線跡が車道の記号になる。もちろん車高の高い四輪駆動車でしか行けないようなオフロードだが。この狭い平底の谷間には、列車運行の中継基地が設けられた。アルパイン駅 Alpine Station と呼ばれて、機関庫、給水タンク、転車台、鉄道員宿舎などが備わっていたが、1906年に火災に遭い、主要な建物は焼失してしまった。最近になって愛好家たちの手で、駅併設の電報局舎や37m(120フィート)の線路、転車台などが復元され、かつての雰囲気が蘇っている。

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現地に復元されたアルパインステーションの施設
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

やがて道は、はるかに広いU字谷の中腹に踊り出る。谷底からの高さは約300m(1,000フィート)ある。車窓には、登山鉄道も顔負けの雄大な山岳風景が開けて、列車の客を魅了したに違いない。降りていく途中にあるザ・パリセーズ The Palisades(絶壁の意)は、そそり立つ断崖の下に石組みで通路を確保した難所で、沿線の名所にもなっていた。谷底に達すると、線路は急曲線のシャーロッドループ Sherrod Loop で方向転換する。現在の車道はループを短絡しており、外側に膨らんだ小道が本来の線路跡だ。また、すぐ下方にあるウッドストック Woodstock 駅は、1884年早春の雪崩で宿舎が壊滅して、13人が命を失うという大きな被害に見舞われた現場になる。

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往時のザ・パリセーズ、1900~1920年撮影
© Denver Public Library 2017, Digital Collections MCC-1373
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現在のザ・パリセーズ(上写真の逆方向を見る)、2006年撮影
Photo by A.L. Szalanski at English Wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

この後は、ミドルクウォーツクリーク Middle Quartz Creek の右岸の谷壁に沿って、淡々と下っていく。地形図で、山から滑り落ちる谷川を渡る地点にある "Water Tank" の注記は、機関車に補給する水を貯える水槽だ。張り出し尾根を大きく回り込むと、ようやく峠の西麓クォーツ Quartz(すでに廃村)に降り立つことができる。

このアルパイントンネルとアプローチ区間20.9km(13マイル)は、近年「アルパイントンネル歴史地区 Alpine Tunnel Historic District」として保存と復元が進められ、1996年に国の登録歴史地区 National Register of Historic Places に指定されている。

さて、最大の難所の完成で工事は山場を越え、1882年9月にサウスパークの最初の列車がガニソンに到着した。ガニソンからさらに北方のボールドウィン鉱山へ支線が敷かれ、鉱石輸送も始まった。しかし、アルパイントンネルを挟んだ険しい山岳区間は冬場、しばしば猛吹雪に曝され、列車の運行は困難を極めた。年表には、トンネルの一時閉鎖をはじめ、脱線、衝突など、心細げな狭軌鉄道の苦闘の歴史が連綿と綴られている。

サウスパークは、ガニソンを拠点に、オハイオ峠 Ohio Pass を越えて西進するルートの開拓や、西南部のサンファン San Juan 地方への進出を画策するが、新天地はすでにリオグランデに押さえられていて、手の出しようがなかった。全通6年後の1888年、不況のために会社は早くも資金繰りに窮し、ユニオン・パシフィックの管理下で別会社(下注)に引継がれた。さらに1899年には、コロラド・アンド・サザン鉄道 Colorado and Southern Railway (C&S) に再編される。

*注 デンヴァー・レッドヴィル・アンド・ガニソン鉄道 Denver, Leadville and Gunnison Railway。社名からわかるように、破綻したサウスパークの受け皿会社だった。

1910年11月、トンネルの一部が崩壊してまたも運休となったが、運営会社はもはや復旧する意欲を失っていた。そのままアルパイントンネルを含むブエナビスタ~ガニソン間は、廃止されてしまう。自動車交通が発達すると残る東部区間でも輸送量も漸減していき、1937年ついにほぼ全線が廃止となった。例外的に残された、もとハイライン(高地線)のレッドヴィル~クライマクス Climax 間は1943年に標準軌に改軌され、なおも使われたが、現在は保存鉄道「レッドヴィル・コロラド・アンド・サザン鉄道 Leadville Colorado & Southern Railroad」の観光列車が走るだけになっている。

リオグランデが創始し、サウスパークなどが後を追って、確立されたコロラドの3フィート狭軌王国。次回は、そこに標準軌という新しい風を吹き込んだ挑戦者の話をしたい。

(2007年1月25日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-アルパイントンネル」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002およびGeorge W. Hilton "American Narrow Gauge Railroads" Stanford University Press, 1990、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
The Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Leadville Colorado & Southern Railroad  http://www.leadville-train.com/

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2017年10月 5日 (木)

ロッキー山脈を越えた鉄道 III-ロイヤル峡谷、その後

鉄道史に残るバトルの舞台となったロイヤル峡谷 Royal Gorge は、アーカンザス川 Arkansas River がロッキー山脈からグレートプレーンズ Great Plains(大平原)に流れ出る直前に通過する地形上の隘路だ。谷は西北西方向に約10km続き、まるで鋭利なナイフで切り裂いたかのように深くて狭い。谷の深さは最高380m、幅は最も狭まるところで底部15m、頂部90mしかないという。

これほどの険しい地形はどうしてできたのだろうか。およそ100万年前、氷河期の直前に、アーカンザス川の流れる方向と交差する軸に沿って、花崗岩の地盤の隆起が始まった。それは断続的かつかなり急速なものだったが、川が水の力で河床を削るペースより速くはない。結果的に流路はその位置に保たれ、周囲が上昇していく中で相対的に谷が刻まれていった(=先行谷)。これがロイヤル峡谷になる。谷の幅は通常、長年の風化作用によって両側へ拡大していくものだが、隆起の発生が比較的最近のために、まだその段階に達しておらず、切り立った断崖が残されているのだ。

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ロイヤル峡谷
Photo by Michael Murphy at flickr.com, License: CC BY-NC-ND 2.0

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ロイヤル峡谷橋周辺
USGS 1:24,000地形図 Royal Gorge 1994年版に加筆

1880年3月に宿敵サンタフェとの間で結んだボストン協定 Treaty of Boston によって、リオグランデ(デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad)はこの峡谷で路線所有権を手に入れた。険しいとは言え川沿いの通路は、隆起した台地を昇り降りするより、はるかに勾配が緩やかで、機関車に多くの荷物を運ばせることができる。峡谷を押さえたことは、コロラドの山岳地帯に路線網を拡げる突破口を得たのも同然だった。

これを梃にリオグランデは、精力的に線路を延ばし続ける。銀の都レッドヴィルはもとより、サライダ Salida で分岐してマーシャル峠 Marshall Pass を経由するルート(南回り線)で、1883年にユタ州ソルトレークシティ Salt Lake City との接続も果たした。ユタ州との連絡路はまもなく北回りのテネシートンネル Tennessee Tunnel 経由に移るが、いずれにしてもロイヤル峡谷は通らねばならず、1930年代までここは常に重要幹線であり続けた。

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1901年のリオグランデ路線図

峡谷に衰退の影が差し始めたのは、1928~34年にモファットトンネル Moffat Tunnel 経由でデンヴァーに直結する新線が完成してからだ。この路線はもともとリオグランデのライバル会社(下注)が、自力でデンヴァーとソルトレークシティを結ぶために建設を進めていた。しかし全通を果たすことなく倒産してしまったため、リオグランデが買収し、自社線に接続替えする工事を実施したのだ。デンヴァーへの距離ではこのほうがかなりの短縮になるため、多くの列車がそちらに回るようになった。

*注 デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway、別稿で詳述予定。

しかし、峡谷ルートの息の根を止めたものはそれではない。まず旅客輸送について言えば、あらゆる鉄道に共通の課題である自動車や航空機との競争だ。1967年7月26日、デンヴァー~サライダ間にわずかに残されていた1日2便の運行が終了して、旅客列車の姿が消えた。片や貨物列車はその後も運行が続いていたが、合併によって路線の所有者となったユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、1996年にコスト削減策の一つとして運行ルートの整理を発表したのだ。最後の営業列車が峡谷を抜けたのは、それから1年も経たない1997年8月23日だった。

かつて経営を支えていた多数の鉱山支線はとうに全廃されており、通過貨物が戻らないなら路線の将来はないと思われた。ところが、ここで新たな道が開ける。それは観光資源としての活用だった。休止の翌年(1998年)、ユニオン・パシフィックは、ロイヤル峡谷を通る約19km(12マイル)の線路の売却について要請を受けた。運営に携わる新会社が地元のキャニョンシティ Cañon City(下注)で設立され、早くも1999年5月に「ロイヤル峡谷ルート鉄道 Royal Gorge Route Railroad」の名称で観光列車の運行が始まった。

*注 旧名 キャノンシティ Canon City。1994年に正式に改称された。

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ロイヤル峡谷ルート鉄道
Photo from wikimedia

走行区間は、キャニョンシティ~パークデール Parkdale 間19km。キャニョンシティのサンタフェ駅 Santa Fe Station で乗り込み、峡谷を通り抜けたパークデールで折り返す、所要2時間(夕刻便は2時間半)のツアーだ。喜ばしいことにこのイベントは人気を呼び、18年経過した現在も継続されている。2017年のスケジュールでは、夏のシーズン(5月27日~10月31日)に毎日3~4本の列車が走り、冬場にもサンタ・エクスプレスなど特別列車の運行がある。

設立当時から在籍する機関車は、かつてリオグランデの長距離列車を牽引していたGM-EMD社製F7形などだが、2012年に同じEMD社のGP40-2形がお目見えし、それ以来これが運行の主力になっているようだ。

客車はヴィスタドーム Vista Dome(展望車)、クラブ Club (1等車)、コーチ Coach(普通車)の区別があり、乗車料金も異なる。中間にはオープンエアカー Open Air car (無蓋車)が1両連結されており、展望車に乗らなくても峡谷の空を仰ぐことが可能だ。これは予約不要で、クラスを問わず出入りできる。また、GP40-2形が先頭につくときは、より魅力的なキャブライド Cab Ride(運転室添乗)という選択肢も用意されている。1列車2名限定で150ドルのプレミアムチケットだが、いい思い出になるのは間違いない。

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オープンエアカーから見る峡谷の風景
Photo from coloradoscenicrails.com

線路はこの区間で終始アーカンザス川の左岸(北側)を通っているが、これほどの峡谷にもかかわらずトンネルが一つもなく、断崖を削って用地を確保しているのには驚かされる。だが、最も狭隘な地点ではそれも難しく、流路の上に張り出す形で長さ53m (175フィート)の橋梁を渡す必要があった。設計者は、川床に橋脚を立てる代わりに、両岸から梁を延ばしてA字形に組み、それでプレートガーダー(鈑桁)の片側を吊るという珍しい形式の橋梁を考案した。ここは開通時から有名なポイントなので、観光列車も必ず停車して、見学の時間を与えてくれる。

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A字梁の吊橋
Photo from coloradoscenicrails.com

もう一つ、大きな吊橋がはるか上空に架かっている。谷を一跨ぎして両岸を結ぶロイヤル峡谷橋 Royal Gorge Bridge だ(下写真。冒頭の俯瞰写真も参照)。長さ384m(1,260フィート)、中央径間268m(880フィート)、水面からの高さはなんと291m(956フィート)もあり、1929年完成以来、米国で最も高い橋のタイトルを保持し続けているという(下注)。

*注 長年、橋の公式の高さは321m(1,053フィート)とされてきたが、現在は上記の値になっている。また、2001年に中国の六広河大橋 Liuguanghe Bridge が完成するまで、72年の間世界一高い橋でもあった。

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谷を一跨ぎするロイヤル峡谷橋
Photo by Hustvedt at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

橋は、一般交通を目的とせず、最初から観光アトラクションを意図して建設されたものだ。地形図で読み取れるように、峡谷の両側には、谷底にいては想像もできないような、なだらかな起伏の高原が広がっている。ここにロイヤル峡谷橋公園 Royal Gorge Bridge and Park という名のテーマパークがあり、橋はその公園区域を連絡する通路、かつアトラクションの一つになっているのだ(下注)。

*注 普通車両までは通行できるが、南口は閉鎖されており、公園への出入りは北口に限定されている。

公園では吊橋の他にも、峡谷のスケールを立体的に体感できるさまざまなライド(乗り物)やアトラクションが開発されてきた。橋の完成後間もない1931年には、峡谷の底に達する3フィート(914mm)軌間のインクライン鉄道 Incline Railway(ケーブルカー)が造られた(下注)。地形図に、破線に添えて INCLINED RR とあるのがそれだ(RRは Railroad の略)。

*注 延長1550フィート、勾配45度(1000‰)、所要時間片道5分半とされる。
最近の写真は次のサイト参照。ページの後半でインクライン鉄道が登場する。
http://highestbridges.com/wiki/index.php?title=Royal_Gorge_Bridge/Page_2

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(左)インクライン鉄道全景(古い絵葉書)
Photo by Boston Public Library at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0
(右)インクライン鉄道の谷底駅(1987年)
Photo by Larry D. Moore at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

さらに1950年代には、峡谷のへりにループ式のミニチュア鉄道が設置された(同じく  Miniature Railroad と注記)。1969年には峡谷を渡る空中ケーブルが開通し(同 AERIAL TRAM と注記)、片道は空中ケーブル、片道は徒歩で橋を渡るという周遊コースが可能になった。2003年には峡谷上空へ空中ブランコで飛び出すスカイコースター Skycoaster も登場した。

ところが、観光地として人気を博していたさなかの2013年6月、橋の西側で山火事が発生し、まもなく峡谷両岸に燃え広がった。火は4日間燃え続け、公園の90%を焼き尽くした。客と従業員は全員避難して無事だったが、インクライン鉄道や空中ケーブルを含め公園施設の大半が被害に遭い、当面休園を余儀なくされてしまった。吊橋だけは不幸中の幸いで、踏板の一部を焦がしたにとどまり、躯体に損傷は及ばなかった。

復旧工事が進められた結果、公園は2014年8月に一部再開、2015年5月に峡谷を横断する新しいゴンドラとジップラインが完成して、大規模な再開が実現した。その陰で、インクライン鉄道は、定員が少なく非効率だったこともあり、修復の断念が伝えられている。会社としては、代わりに二人乗りチェアリフトのような、待ち時間を少なくする別のアトラクションの導入を検討しているという。橋とほぼ同じ時を刻んできたユニークな鉄道だったのに、残念なことだ。

話を開拓時代に戻すことにしよう。空前の景気に沸く銀の都レッドヴィル Leadville、その切符を手中にしたリオグランデに対し、サンタフェとはまた別のライバルが別の方向から出現する。それを次回に。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
Royal Gorge Route Railroad  https://royalgorgeroute.com/
Royal Gorge Bridge and Park  http://royalgorgebridge.com/
Highest Bridges.com  http://highestbridges.com/

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2017年9月24日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道

デンヴァー Denver に拠点を置く鉄道会社として、デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG) 、あるいはデンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW、下注) の名はいまだになじみがある。名称が長いので、以下単に「リオグランデ」と呼ぶことにするが、1870年の創設以来、1988年まで実に100年以上も山岳地帯の鉄道輸送で中心的な役割を果たしてきた。

*注 D&RGが経営悪化で政府の管理下に置かれた後、1920年に新たに受け皿会社としてD&RGWが設立され、1921年にD&RGを統合した。

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D&RGW 483号機、ニューメキシコ州アズテック Aztec, NM 駅にて、1967年
Photo by Drew Jacksich at wikimedia. License: CC BY 2.0

そのリオグランデが先駆者のデンヴァー・パシフィック Denver Pacific と異なるのは、3フィート(914mm)の狭軌で建設されたという点だ。1830年代から鉄道の建設が始まっていた東部では、当初さまざまな軌間が用いられた。しかし、路線が延長され相互に連絡する段階になると、イギリスと同じように、車両が直通できないという難点が強く認識されていった。大陸横断鉄道の軌間が4フィート8インチ半(1435mm)と法律で明示されたのも、これを教訓にしている(下注)。この軌間はすでに東部で多数派になっていたとはいえ、法制化されたことが事実上の標準軌として全米に普及する契機となった。

*注 いわゆる太平洋鉄道法 Pacific Railroad Acts で、1862年に大陸横断鉄道の建設を促進するために制定。軌間の規定は1863年に追加された条文にある。

大陸横断鉄道と直通することを主目的に挙げるデンヴァー・パシフィックは、当然同じ規格を採用したが、リオグランデはそれを選ばなかった。なぜだろうか。

リオグランデの共同経営者だったハワード・スカイラー Howard Schuyler は、鉱山経営を視察するためにイギリスのウェールズ地方へ行ったことがある。そこで見たのが、スレートを採掘場から港まで運んでいたフェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway だ。約2フィート(正確には1フィート11インチ半、597mm)とたいへん狭い軌間ながら、何ら問題なく使われていた(下注)。

*注 フェスティニオグ鉄道については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I」で詳述している。

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フェスティニオグ鉄道タン・ア・ブルフ(タナブルフ)Tan-y-bwlch 駅、1890~1905年ごろ
Photo from wikimedia

狭軌鉄道は線路用地だけでなく曲線半径も小さくできるので、山間のような険しい地形に適している。また、車両や設備がコンパクトな分、比較的安価に導入できる。スカイラーはこうした利点を評価し、標準軌にこだわらず、むしろ最初にこれを採用することで地域の標準規格にすることができると考えた。

ただし、フェスティニオグ鉄道はたかだか20km程度の路線に過ぎない。コロラドでは100km単位の長距離となり、かつ取り扱う貨物量も多くなることが見込まれたため、3フィートに拡げて設計したと言われている。それでも、大陸の人々は狭軌鉄道を実見したことがなく、こんな鉄道では役に立つはずがないと反対したので、準備は見切り発車で進められた。

リオグランデは、その後、コロラドから西のユタ準州にかけての中央山岳地帯に自社路線を張り巡らせていく。しかし不思議なことに、鉄道の名称であるリオグランデは、デンヴァーから1,000kmも南のメキシコ国境へ流れていく川の名で、路線網と流域が重なるのは南部を走る一部の支線に限られる。そう、確かに最初の計画は、現 インターステート25号線に沿うルートでひたすら南下して、リオグランデ川に達するというものだった。最終的には国境を越えて、メキシコシティ Mexico City をめざしていた。だが、遠大な構想が実現することはついになかったのだ。

なぜ、リオグランデはリオグランデに行かなかったのか。その理由は、大きく二つ挙げられる。一つは行く手を阻むライバルが出現したからであり、もう一つは南へ行くよりもっと収益が上がる目標を見つけたからだ。

そのライバルというのは、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway (AT&SF、下注)。これも名称が長いので「サンタフェ」と略することにするが、カンザス州アッチソン Atchison を起点に、西へ向けて建設が進められてきた路線だ。同じように南部の開発利益を狙っていて、早晩利害の対立が表面化するのは明白だった。

*注 アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道は1859年設立。サンタフェ Santa Fe はニューメキシコ州の州都だが、路線は最終的に西海岸のロサンゼルス Los Angeles やサンフランシスコ San Francisco に達し、南回りの大陸横断鉄道を実現した。1995年にバーリントン・ノーザン鉄道 Burlington Northern Railroad と合併し、現在はBNSF鉄道 BNSF Railway になっている。

アメリカ19世紀の交通史には、「鉄道戦争 Railroad Wars」という用語がしばしば登場する。連邦政府や州政府の援助を得てはいてもすべて私設鉄道として計画されるため、ときにルートが競合して争いになる。通常は訴訟が起こされ、法廷闘争のなかで決着を見るのだが、中にはこじれて本物の武力抗争に発展することがあった。というのも19世紀後半の西部は、映画のジャンルで一世を風靡したあの西部劇の舞台であり、たとえば「荒野の決闘」に出てくるような保安官やならず者が実際に生きていた時代なのだ。

リオグランデとサンタフェがぶつかったのは、コロラドとニューメキシコの州境に位置するラトン峠 Raton Pass(下注)だった。両者ともすでに峠の北麓のトリニダード Trinidad まで路線を延ばしてきており、さらに南へ進出するにはどうしてもこの峠を越える必要があった。

*注 ラトン峠は標高2,388m、西部開拓ルートのサンタフェ・トレール Santa Fe Trail が通る。ラトン Ratón はスペイン語で鼠を意味する。

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同じ南部の開発を狙うリオグランデ(図の赤線)とサンタフェ(黒線)のルートがラトン峠 Raton Passでぶつかる
image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)

1878年12月、双方が拳銃使いや保安官を雇って激しくにらみ合った。サンタフェの社長W・B・ストロング W. B. Strong は、リオグランデのW・J・パーマー W. J. Palmer 将軍に対し、峠の上でこう言い放ったとされる。「最初にここに着いたのはわれわれだ。この仕事の邪魔をする奴は誰でも、眉間に弾丸(たま)を受けるのを覚悟しろ!」

結局この争いは、資本規模で劣るリオグランデが引き下がったため、サンタフェがラトン峠を獲ることに成功した。しかし戦争はそれで終わらなかった。リオグランデが南へ行かなかったもう一つの理由、収益の期待できる目標が絡んできたからだ。

前年(1877年)、コロラド山中のレッドヴィル Leadville で有望な銀の鉱脈が発見されていた。さらに、1878年2月にブランド=アリソン法 Bland-Allison Act が施行され(下注)、金本位制に替えて金と銀の複本位制が復活した。これは、連邦政府が一定量の銀を買上げ、ドル銀貨に鋳造して流通させる制度で、政府による銀の買い支えだ。たちまち銀価格が吊り上がり、ゴールドラッシュならぬ銀の採掘ブーム、いわゆるシルヴァーブーム Silver boom が巻き起こる。一旗揚げようとする男たちが我先にレッドヴィルへ殺到し、膨れ上がる人口で小さな入植地は、数年のうちにデンヴァーに次ぐ大きな町になった。

*注 1873年から金本位制が採用されていたが、それに伴う銀価格の下落で打撃を受けた西部の採鉱関係者は議会での巻き返しを図っていた。ブランド=アリソン法の成立はその成果だった。

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1882年のレッドヴィル鳥瞰図、鉱脈発見から5年で大きな町に
Image from www.loc.gov https://www.loc.gov/resource/g4314l.pm000720/

当然、大きな需要が生じるのを見越して、鉄道を敷こうという動きが出てくる。レッドヴィルはアーカンザス川 Arkansas River(下注1)の最上流、標高10,152フィート(3,094m)の高地に位置している。当時、リオグランデの路線は180km下流のキャノンシティ Canon City(下注2)に、サンタフェはさらに下流50kmのプエブロ Pueblo に達していた。

*注1 アーカンザス川は、レッドヴィル近くの大陸分水嶺に源をもち、本流というべきミズーリ川 Missouri River を別とすると、ミシシッピ川 Mississippi River の最も長い支流。
*注2 市名は1994年に、スペイン語に由来するキャニョンシティ Cañon City に変更されたが、本稿ではそれ以前の旧称を使用する。

両者揃って並行路線を敷ければ何の問題もなかったのだが、キャノンシティの西には、ロイヤル峡谷 Royal Gorge という稀に見る難所が横たわっている。川が花崗岩の高原を切り刻み、最高380mもある断崖が長さ16kmにわたって続く大峡谷だ(下注)。谷底の最狭部は15mほどの幅しかないクレバスのような隘路で、到底、鉄道を2本も建設する余地はない。

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ロイヤル峡谷の最狭部を
通過するリオグランデの線路
© Denver Public Library 2017, Digital Collections P-448

サンタフェは1878年4月に、この難所で線路敷設のための測量調査を始めた。連絡もなしに自分の縄張りに杭を打たれたリオグランデが黙っているはずがない。すぐに現場へ駆けつけるものの、サンタフェ側の妨害に遭って撤退させられてしまう。ラトン峠でぶつかる以前に、もう一つの鉄道戦争、いわゆるロイヤル峡谷戦争 Royal Gorge War の種がすでに蒔かれていたのだ。

サンタフェは裁判所にリオグランデを訴えた。主張が通って、リオグランデに対して妨害行為の差止め命令が出されたが、それに耳を貸すようなリオグランデではない。現場に岩を落としたり、測量器具を川に捨てたりと、なおも作業を妨害し続けたため、サンタフェは警備のために強力な助っ人を雇う。

呼び寄せられたのは、フォード郡の保安官だったバット・マスターソン Bat Masterson 。彼は、ドク・ホリデイ Doc Holliday の力を借りて人を集め、リオグランデの駅施設を次々に襲って、占拠する。リオグランデも反撃に出た。ガンマンの一団を雇って駅に付属する電報局の裏窓から奇襲攻撃をかけ、州政府の兵器庫から借りた大砲で威嚇して、機関庫の奪回に成功する。

*注 蛇足ながら、ドク・ホリデイといえば、保安官ワイアット・アープ Wyatt Earp とともに「OK牧場の決闘」で闘った命知らずのガンマン。他にも、「汚れた」デーヴ・ラダボー "Dirty" Dave Rudabaugh、「謎の」デーヴ・マザー "Mysterious" Dave Matherといった派手な名を持つ拳銃使いがいた。

並行して進めていた法廷闘争では、1879年4月、リオグランデに峡谷に鉄道を建設する権利を認める決定が下された。こうしてリオグランデはとりあえず戦争に勝利したのだが、二者の抗争はその後泥沼化していく。サンタフェは豊富な資金力にものを言わせて、リオグランデの既存路線と競合する路線を造ると発表した。これに怖れをなしたのがリオグランデに出資していた資本家たちで、会社を潰されては元も子もないと、サンタフェに通行権を与えるよう圧力をかけた。

思惑通りに30年間の通行権を得たサンタフェは、すぐさま次の手を打った。カンザス州の荷主を優遇して、運賃のダンピングを始めたのだ。これはサンタフェと、その支持者であるデンヴァーの商人にとって、大きな打撃となった。リオグランデが法廷に申し立てた通行権契約の破棄が認められると、堰を切ったように双方の抗争が再燃する。実弾が飛び交い、駅や機関庫が襲われ、ついに死者も出た。

不毛の闘いに終止符が打たれたのは、連邦裁判所の介入と、大資本家ジェイ・グールド Jay Gould(下注)がリオグランデに加担したことによる。彼はあくどい手口で鉄道を買収していくので「泥棒男爵 robber baron」の一人とされる人物だが、すでにリオグランデの大株主になっていて、手を引かなければサンタフェの競合路線を造ると脅しをかけた。サンタフェは、これで最終的に諦めた。

*注 ジェイ(ジェイソン)・グールドはアメリカ鉄道王の一人で、1880年に全米の鉄道路線の1/9に当たる1万マイル(16,000km)を支配下に収めていた。

1880年3月に、すべての訴訟に決着をつけるボストン協定 Treaty of Boston が結ばれた。それによれば、リオグランデは、ニューメキシコのエスパニョーラ Española(下注)から南に鉄道を建設せず、サンタフェは今後10年間、リオグランデの本拠地であるデンヴァー、レッドヴィルのいずれにも鉄道を延ばさない。また、サンタフェがすでにロイヤル峡谷に建設を進めていた線路は、リオグランデが180万ドルで買い取ることとされた。これが、リオグランデがリオグランデに行かず、西に路線網を張り巡らすことになった決定的な理由だ。

*注 エスパニョーラは、同州サンタフェ市の北40kmにある町。サンタフェ鉄道はラトン峠経由で、サンタフェ市以南にすでに路線を持っていた。

アメリカ鉄道史に残るロイヤル峡谷戦争は、こうして幕を閉じた。リオグランデは協定どおりロイヤル峡谷の線路を獲得し、1880年5月にサライダ Salida、同年7月に念願のレッドヴィルに到達した。

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ロイヤル峡谷を行く保存観光列車(ロイヤル峡谷ルート鉄道)
Photo by Markgreksa at wikimedia.

さてその後、ロイヤル峡谷はどうなったのだろうか。まずはリオグランデが思い描いたとおりの華やかな幹線時代が始まるのだが、しかしそれは永遠に続くものではなかった。次回は、峡谷ルートの盛衰とその後の展開を追ってみたい。

(2007年3月8日付「ロイヤル峡谷の鉄道 I」、同3月15日付「ロイヤル峡谷の鉄道 II」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
New Mexico History Museum  http://www.nmhistorymuseum.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I

2017年9月17日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー

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最初の大陸横断鉄道開通75周年
の記念切手
image from wikimedia

北アメリカで最初の大陸横断鉄道が開通した1869年5月10日は、全米が祝賀ムードに酔いしれたと言われる。しかし、所詮それは1本の道に過ぎない。鉄道が通った町が人と荷物の集散地になって繁栄を謳歌する一方で、ルートから外れてしまった多数の町は賑わいを奪われ、寂れていくのを座して待つしかなかった。現在、コロラド州の州都になっているデンヴァー Denver も、当時はそうした不運な町の一つだった。

ところがそのわずか20年後には、背後のロッキー山脈 Rocky Mountains を越えて密度の高い鉄道網が出現し、その中心に、急速な発展を成し遂げたデンヴァーの町があった。いったいこの間に何が起きたのだろうか。その原因に迫るために、19世紀後半から20世紀前半における代表的なコロラドの開拓鉄道を4つ(下注)選び、その歴史と特徴を、地形図とともに追ってみることにしよう。

*注 デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG)、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)、コロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)、デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway (DN&P)。

1869年5月10日、最初の大陸横断鉄道の開通式のようすを描いた一枚の絵がある(下図)。開通の宣言は、今のようなテープカットではなく、犬釘を打ち込む儀式をもって行われた。特別誂えの月桂樹の枕木に、代表者が銀のハンマーで黄金製の犬釘(下注)を打ち込み、レールを固定するのだ。「最後の犬釘を打ち込む driving the last spike」という言い回しは、鉄道の開通と同義語になっている。もちろんこんな高価なものを無人の平原に放っておくわけにはいかないので、式の後、通常の犬釘と枕木に差し替えられた。本物は今もスタンフォード大学の博物館に保存されている。

*注 ゴールデンスパイク Golden spike と言うものの、実際は金73%、銅27%の合金製。

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トーマス・ヒル Thomas Hill 画「最後の犬釘 The Last Spike」
プロモントリー・サミットにおける大陸横断鉄道の開通式の様子を描いた油彩画
California State Railroad Museum Collection, image from wikimedia

大陸横断鉄道は、東側からネブラスカ州オマハ Omaha を起点にユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、西側からカリフォルニア州サクラメント Sacramento を起点にセントラル・パシフィック鉄道 Central Pacific Railroad が、それぞれ建設を進めていった。私鉄の形をとるとはいえこれは国を挙げての大事業であり、連邦政府から手厚い支援を受けていた。用地は線路だけでなく、付属地として線路1マイルにつき10平方マイル(1.6kmにつき26平方キロ)が無償供与され(下注)、建設費用も、国債の発行により調達された補助金が支給された。それで両社は、できるだけ自社の運行区間を長くしようとして大いに競い合った。

*注 ランド・グラント Land grant という。鉄道会社は獲得した広大な土地に入植者を募り、農産物や生活必需品など輸送需要の喚起を目論んだ。

開通式が挙行されたのは、両鉄道の接続点となったユタ州(下注1)のプロモントリー・サミット Promontory Summit という場所だ。グレートソルト湖 Great Salt Lake の北岸に位置するが、前後区間が1904年に湖上を横断する新線(下注2)に置換えられて廃止されたため、今は史跡として残されている。

*注1 開通当時はユタ準州 Utah Territory で、1896年に州 State に昇格した。
*注2 このルーシン短絡線 Lucin Cutoff は当初トレッスル橋で建設されたが、1950年代に築堤に移された。

路線延長競争の結果は、東側のユニオン・パシフィックが1,087マイル(1,749km)、西側のセントラル・パシフィックは690マイル(1,110km)と、かなりの差が生じた。前者は中央大平原を行く区間が長く、技術的に建設が容易だったのに対し、後者は険しいシエラネバダ山脈 Sierra Nevada を越えるのに難工事を強いられたためだ。

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青線が、デンヴァーを通らなかった最初の大陸横断鉄道のルート
赤線は、後に完成したデンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックのルート
map image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)

上図は、その大陸横断鉄道の路線図だ。ルートの宿命として、北米大陸の背骨を成すロッキー山脈をどこかで横断しなければならず、そのピークが太平洋斜面と大西洋斜面を分ける大陸分水界 Continental Divide になっている、とふつうは思う。ところが、意外にも分水界と交差する場所は、峨々たる山脈どころか、大分水嶺盆地 Great Divide Basin と呼ばれる広大な高原地帯の真っただ中にある(下注)。地形的に通しやすい場所を選んだ結果だが、このために鉄道は盆地の入口であるワイオミング州シャイアン Cheyenne を経由し、その約100マイル(160km)南にあるデンヴァーはルートから外れてしまった。

*注 ワイオミング州ローリンズ Rawlins とロックスプリングズ Rock Springs の中間、ロビンソン Robinson 信号所のすぐ東で大陸分水界と交差する。

シャイアンと違ってデンヴァーの背後には、鉄路の行く手を阻む大山脈がそびえている。この地域で標高14,000フィート(メートルに直すと4,267m)を超えるピークをコロラド・フォーティナーズ Colorado 14ers と呼ぶが、その数は全部で53峰。アラスカを除けば、合衆国の高山ベスト10のうち7つがこの一帯にあるというほどの山岳地帯だ。

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コロラド・フォーティナーズの最高峰エルバート山 Mt. Elbert
手前はツインレイク Twin Lakes
Photo by David Herrera at wikimedia. License: CC BY 2.0

では、なぜこんな場所に町ができたのだろうか。きっかけは1858年、コロラド山中のパイクスピーク Pike's Peak で発見された砂金だ。瞬く間にゴールドラッシュが巻き起こり、「何が何でもパイクスピークを目指せ! Pike's Peak or Bust!(下注)」を合言葉に10万もの人が殺到した。このとき交易の中心となったのが、山麓に位置していたデンヴァーだった。

*注 原文の "or Bust" は是が非でもという慣用表現だが、同時にPeak(絶頂、頂点)とBust(破産)の対比を掛けている。

しかし、ゴールドラッシュの狂騒は3年しか持たなかった。さらに、1861年に成立したコロラド準州の州都の地位を近隣のゴールデン Golden に奪われ、鉄道も通らないと確定したことで、新興のデンヴァー市民は町の将来を危ぶんだ。実際に北方で鉄道が着工されると活気が消え失せ、ユニオン・パシフィックの幹部はそのさまを見て、「墓場よりも寂れている too dead to bury」とさえ形容したといわれる。

苦境を挽回するために準州知事ジョン・エヴァンズ John Evans が打ち出したのは、独自の鉄道会社を起こして町に線路を引込むという構想だった。彼は「鉄道のないコロラドなど大した価値はない」と宣言していた。彼や地元実業家の奔走により、1867年11月に「デンヴァー・パシフィック鉄道・電信会社 Denver Pacific Railway and Telegraph Company」が設立される。奇しくも、大陸横断鉄道のシャイアン到達とほぼ同時だった。

ところで、西部の鉄道は「パシフィック(太平洋)」という名を冠したものが多い。デンヴァー・パシフィックなどは高々100マイル程度の地方路線に過ぎず、僭称の域を出ないのだが、これは当時の鉄道事業者のいわば合言葉だ。自力で太平洋まで進出できなくとも、大陸横断鉄道と接続すれば、線路は太平洋までつながる。パシフィックが意味するものは黄金郷にも似て、その目的を前面に打ち出すことで投資家を誘うことができたのだ。

とはいっても、デンヴァーはまだ若い町で、資本の蓄積は十分でない。会社は立ち上がったものの、工事を始めるために必要な資金の調達は一向に捗らなかった。知事は町ぐるみの事業として、富裕層に投資を呼びかける一方、中産・下層階級には少額の寄付か、でなければ労働力の提供を求めた。それでも一時は、計画が頓挫の危機に立たされた。

ちょうどそのころ、東隣のカンザス州で、西へ路線を延ばそうとしている鉄道があった。カンザスシティ Kansas City を起点にするカンザス・パシフィック鉄道 Kansas Pacific Railway だ。これとの接続を図るとして連邦政府から土地の無償払下げを受けることに成功した会社は、その土地の売却と、一部は担保にして融資を受けることで、ようやく建設費用を捻出することができた(下注)。

*注 カンザス・パシフィックは、大陸横断鉄道の南の支線という位置付けで、太平洋鉄道法に基づき設立されており、ランド・グラントの対象になっていた。

デンヴァー・パシフィックは1868年5月に起工式を行い、2年後の1870年6月に予定のデンヴァー~シャイアン間が完成して、開通式が挙行された。初めて通じたこの鉄道により、ついに町は大陸横断鉄道と接続するという念願を叶えた。2か月後の8月にはカンザス・パシフィックも町に到達したので、この年、一気に北と東へ列車が走るようになり、苛酷な駅馬車の旅を過去のものにした(下注)。

*注 その後、デンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックは、1880年1月に大陸横断鉄道のユニオン・パシフィックに合併される。

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1870年代のデンヴァー駅
(c) Denver Public Library 2017, Digital Collections Z-169

以上が、デンヴァーにおける鉄道発達史の第1幕だ。続く第2幕は、残された南のフロンティアをめざした鉄道が主役になる。次回、そのデンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の動きと、それを牽制しようとするライバルとの確執について話を進めよう。

(2007年1月11日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-序章」を全面改稿)

本稿は、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Colorado Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/

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2017年9月10日 (日)

スロベニア 消える湖、消える川

スロベニアの南西部、クラス Kras(ドイツ語でカルスト Karst)と呼ばれる地域には、地形用語の本場にふさわしい石灰岩台地が横たわる。地中には長い歳月をかけて造られた洞穴が網目のように張り巡らされていて、世界遺産のシュコツィアン Škocjan や、トロッコ列車が走るポストイナ Postojna(下注)などの大規模鍾乳洞は、観光地としても有名だ。

*注 ポストイナの洞内軌道については、本ブログ「ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車」参照。

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ポストイナ鍾乳洞前のピウカ川
image from www.slovenia.info

こうした地下洞をうがってきたのが、台地に降った雨水を流す河川であることはいうまでもない。たとえばポストイナ盆地 Postojnska kotlina / Postojna Basin の水はピウカ川 Pivka に集まる(下図参照)。地形用語でポリエ Polje と呼ばれるこの溶蝕盆地は、砂岩と頁岩が互層になったフリッシュ Flysch で床張りされている。フリッシュは不透水性のため、川は盆地の平たい地表面を蛇行しながら流れる。

しかしその周囲は、石灰岩やドロマイトといった水溶性の岩石で覆われた山地だ(下注1)。そこで川は山際まで来ると、岩の隙間に浸み込み、徐々に溶かして地中に通路を拡げていく。ポストイナ鍾乳洞 Postojnska jama / Postojna Cave(下図では青の円内)もそのようにして生成された(下注2)。

*注1 石灰岩の主成分は炭酸カルシウムでそれ自体は水に溶けないが、二酸化炭素を含んだ水に触れることで水溶性の炭酸水素カルシウムに変化する。
*注2 なお、トロッコの線路が敷かれているのは水流の絶えた古い通路で、現在のピウカ川はそれより西側の通路を流れている。

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ポストイナ付近の1:50,000地形図
青の円内がピウカ川 Pivka の吸込み口であるポストイナ鍾乳洞
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ではこの後、川はどこへ行くのだろうか。ポストイナの町から街道を北へたどってみよう。ポストイナ門 Postojnska vrata / Postojna Gate と呼ばれるなだらかな峠を越えると、道はヘアピンカーブを繰り返しながら山を降りていく。坂下にあるのがプラニーナ Planina という小さな村だ。村の奥、高さ65mの断崖の直下に水の湧出口がある。ここで地中から出た川は、同じようなポリエの盆地、プラニーナ・ポリエ Planinsko polje / Planina Polje の中をゆったりと流れていく。

プラニーナ村の湧出口はプラニーナ鍾乳洞 Planinska jama / Planina Cave(下注)と呼ばれている。この洞穴が興味深いのは、500メートル奥で主要地下河川の合流が見られることだ。一つはポストイナから北流してきたピウカ川、もう一つは東から流れてくるラーク川 Rak River で、地下での合流としては、水量的にヨーロッパで最大級だという。

*注 かつては、湧出口近くにある古い小城にちなんで、小城鍾乳洞 Malograjska jama / Little Castle Cave とも呼ばれていた。

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プラニーナ鍾乳洞入口。ウニツァ川が勢いよく流れ出る
Photo by Doremo at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

そしてこのラーク川は、ピウカ川にもまして、何度も地下に消える川として知られている。地表に現れるたびに名前が変わることから、「7つの名を持つ川」の異名もある。

本流の水源は、スロベニアのカルストでは最も高い大スネジュニク山 Veliki Snežnik(標高1796m、下図右下)の麓に湧き出る泉だ。この山が属するディナル・アルプス Dinaric Alps は、バルカン半島を北西から南東に走っているが、その北側に、山脈に並行して大小のポリエの列が見られる。川はこのポリエ群を貫通しながら流れ下る。

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「7つの名を持つ川」リュブリャニツァ川の流路
ポリエ Polje(溶蝕盆地)で地表に現れては地下に潜るのを繰り返す
背景のレリーフは Geopedia.si より取得。(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

まず、クロアチア国境のバブノ・ポリエ Babno polje(標高750~770m)で、川はトルブホヴィツァ Trbuhovica の名を与えられる(下注)。地下を通って次のロジュ谷 Loška dolina / Lož Valley(標高約580m)に出ると、オブルフ川 Obrh と呼ばれる。また地下に浸み込み、ツェルクニツァ・ポリエ Cerkniško Polje / Cerknica Polje(標高約550m)に現れてからは、ストルジェン川 Stržen になる。

*注 この項は "Karst of Notranjska", Geodetski zavod Slovenije, 1996による。地形図には記載されていない。

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ツェルクニツァ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内がストルジェン川 Stržen の湧出し口、青の円内が吸込み口
「消える湖」ツェルクニツァ湖は湿原記号で描かれる。ポリエの周縁には他にも湧水(濃い青円の記号)が多数見られる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ストルジェン川の名は知らなくても、川の流域にある「消える湖」ツェルクニツァ湖 Cerkniško jezero / Lake Cerknica の名は耳にしたことがあるかもしれない。平均で26~28平方km、満水時には38平方kmと面積は同国最大で、ウィンドサーフィンなどさまざまなウォータースポーツの場を提供する湖だ。ところが、夏の渇水期には完全に干上がってしまい、湖底はたちまち草に覆われて牛たちの放牧地に変貌する。秋に激しい雨が降ると、わずか一日のうちに水が戻り、湖が再現される。

これが毎年繰り返されることから、ツェルクニツァ湖はヨーロッパ最大の間欠湖と言われる。湖面の変動が大きいため、地形図には水涯線が描かれず、Cerkniško jezero の名称と、蛇行する川の周囲に湿地の記号が広がるばかりだ。

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ツェルクニツァ湖の眺め
Photo by ModriDirkac at wikimedia. License: CC0 1.0

なぜこのような現象が起きるのだろうか。湖はポリエの南半分に位置する。そして、カルスト台地の地下にある洞穴の貯水池と、多数の開口部を通してつながっている。このいくつかは周囲の山の下にあって湖面より水位が高く、ほかのものは湖面より水位が低い。夏、流入量が少ないとき、水はより低水位の地下洞貯水池に排水されてしまい、湖には残らない。秋に雨が降ると、周囲のより高所にある貯水池が満水になり、地下通路を通じて湖へ水が回る。こうして湖は急速に水量を回復するのだ。

かつて村人たちは、湖を干拓して恒久的な農地に変えようとした。逆に土木技師は、貯水池に整備して産業開発に生かそうと考えた。しかし、カルストの地下構造との連動を完全に断ち切ることは不可能で、これまでいかなる制御の試みも成功したことがないという。

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秋、ツェルクニツァ湖に水が戻る
image from www.slovenia.info

川の追跡に戻ろう。ツェルクニツァ・ポリエの後、川は一度だけ地下から峡谷の底に顔を出す。名勝として知られ、同国で最も歴史ある風景公園のラーク・シュコツィアン Rakov Škocjan / Rak Škocjan だ。

*注 ディヴァーチャ Divača の近くにある世界遺産のシュコツィアン鍾乳洞 Škocjanske jame / Škocjan Caves とは別。シュコツィアンは聖カンティアヌスの縮約形で、これを守護聖人とする村(教会)の名として他にも例がある。

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ラーク・シュコツィアン付近の1:50,000地形図
ラーク川 Rak は青の円内でのみ地表に現れる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

峡谷は、鍾乳洞の天井の崩落によって生じたもので、長さは2.5km、切り立った断崖に囲まれる「出口のない」谷だ。中でも、42mの高さがある小天然橋 Mali naravni most / Little Natural Bridge、同じく37mの大天然橋 Veliki naravni most / Big Natural Bridge の、2か所の天然橋(下注)が見ものだ。特に後者では、上を地方道さえ通過している。この峡谷を通る間、川はラーク川 Rak と称し、再度地中に潜った後、先述のプラニーナ洞の中で合流してピウカ川になるのだ。

*注 天然橋(ナチュラルブリッジ)は、岩が川の上にアーチ状にまたがる自然の造形。

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ラーク・シュコツィアンの小天然橋。橋の上部は川から42mの高さ
image on the left by Zairon at wikimedia, License: CC BY-SA 4.0. image on the right from www.slovenia.info
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大天然橋は川のトンネル
Photo by Umberto Vesco at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

さて、これでプラニーナ・ポリエ(標高440~450m)まで戻ってきた。湧出口を出た川は、今度はウニツァ川 Unica(またはウーネツ川 Unec)と名前を変える。そして豊かになった水量を持て余すようにひどく蛇行しながら、ポリエの中を横断していく。北西端まで達すると、鋭角に曲がって東を向くが、地形図で涸れ川の記号が使われているように、いくらかの水は途中、山地の際に寄ったところで地中に吸い込まれてしまうようだ。

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プラニーナ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内が湧出し口=プラニーナ鍾乳洞、青の円内が吸込み口だが、
ウニツァ川 Unica はその手前から涸れ川記号で描かれている
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

出現と潜伏の繰り返しにも、いつか終わりが来る。リュブリャーナ盆地南東隅のヴルフニカ Vrhnika という町(標高290m)の周辺で、川はいくつもの湧水に分かれた形で、最終的に地表に現れる(下図)。

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ブルフニカ付近の1:50,000地形図
左の円内がモチルニク Močilnikとトヴィエ Retovje、右の円内がビストラ Bistra
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ヴルフニカの主要な湧出口は3か所ある。一つはモチルニク Močilnik で、高さ40mの石灰岩の崖、悪魔の断崖 Hudičeve skale / Devil’s Cliffs の直下だ。ギリシャ神話によれば、英雄イアソンとアルゴー号乗組員 Jason and the Argonauts は、金の羊毛皮を求めて川を遡行してきた。ところが、ここで地上の川が消失したため、行く手を阻まれてしまった。イアソンは怒り狂って拳で岩を叩いたので、その跡が今も残っているという。乗組員たちはやむなく船を分解し、部材を肩に担いでアドリア海まで運んだのだそうだ。

二つ目は、最も湧水量の多いレトヴィエ Retovje で、とりわけ大水門 Veliko okence と呼ばれる湧水は、水面がむくむくと盛り上がるほど勢いよく湧きあがり、迫力満点だ。三つ目は、ヴルフニカとボロウニツァ Borovnica の中間にあるビストラ Bistra で、修道院と古城の脇を泉から流れ出た小川が巡っている。

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(左)レトヴィエの湧出し口の一つ、大水門 (右)ビストラの湧出し口
image on the left  by Savinjc at Slovenian Wikipedia. License: CC BY-SA 3.0. image on the right by Mihael Grmek at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

これらの川はまもなく盆地の中央に集まり、7番目の名であるリュブリャニツァ川 Ljubljanica となって、首都リュブリャーナへ流れ下る。イアソンの時代は一面芦が生い茂る湿原だったはずだが、今は排水が進み、行く手に見渡す限りの農地が広がっている。

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農地化された湿原をリュブリャニツァ川は流れ下る
image from www.slovenia.info

(2006年3月18日付「スロベニア 何度も消える川」を全面改稿)

本稿は、Tourist map " Karst of Notranjska " Geodetski zavod Slovenije, 1995、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/
ヴルフニカ市観光案内 http://www.visitvrhnika.si/

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