2018年1月18日 (木)

ドイツ・バイエルン州の地形図-ウェブ版

通販サイトで商品の発注や代金決済が手軽に行えるようになった今でも、外国の地形図を印刷物で入手するには、ある程度の手数と時間を伴う。そのため、より手軽に地形図にアクセスできるように、ウェブサイトで閲覧やセルフ印刷のサービスを提供する測量機関も増えてきた。本ブログでも、先にスイスとニュージーランドのサイトを紹介した(本稿末尾にリンクあり)が、ほかにも同じような仕組みを整えている国(測量機関)がある。ドイツ・バイエルン州もその一つだ。

Blog_bayern_map_hp0
バイエルンの州章
from wikimedia commons

ドイツの地形図概説 II-連邦と州の分業」 でも紹介したように、ドイツの官製地図作成は、小縮尺(1:200,000以下)が連邦政府、中・大縮尺図(1:100,000以上)は各州政府という分業体制がとられていて、ウェブサイトもそれぞれにある。中でもバイエルン州の測量局(下注)が開いているサイト「バイエルンアトラス BayernAtlas」は、使い勝手がよく、内容的にも充実している。

*注 かつてはバイエルン州測量局 Bayerisches Landesvermessungsamt という単純明快な名称だったが、現在は任務の高度化を反映して「デジタル化・広帯域・測量局 Landesamt für Digitalisierung, Breitband und Vermessung(略称 LDBV)」と称する。

バイエルン州 Bayern(正式名:バイエルン自由州 Freistaat Bayern)は、ドイツの面積の2割に当たる広い州域(70,549平方km、北海道の面積の85%に相当)を有している。さらに、オーストリアとの国境にはアルプスの山岳地帯が横たわり、地勢の面でもダイナミックだ。それだけに、見ごたえのあるサイトで、地形の詳細を余すところなくチェックできるのはうれしい。

同サイトは、スイスの「連邦ジオポータル Geoportal des Bundes」で使われているシステムをベースにしているので、画面デザインや操作方法はよく似ている。ただ、英語表記の説明も選択できるスイスとは異なり、ドイツ語表記しかないというのが国際的には難点だ。そこで本稿では、スイスのサイト紹介と重複するのを承知の上で、主な使い方を日本語訳を加えながら記すことにしたい。

バイエルンアトラス BayernAtlas
https://geoportal.bayern.de/bayernatlas/

Blog_bayern_map_hp1
初期画面

初期画面(上の画像)では、バイエルン州全域が「ウェブカルテ Webkarte」のカラー版で表示されている。ウェブカルテというのはベクトルマップで、右端の拡大縮小(+-)ボタンを使って、最終的に家1軒の形と家屋番号がわかるところまで拡大できる。実用的にはこれで十分だが、残念ながら等高線や植生の種類などは省かれており、そこが地形図との違いになっている。ウェブカルテは背景図として扱われており、他の地図と入れ替えたり、この上に別の地図レイヤーを重ねたりできる。

Blog_bayern_map_hp2
背景図選択

背景図を入れ替えるには、画面右下の Hintergrund(背景)をクリックする。背景図は、Kein Hintergrund(背景なし=白地の画面)、Webkarte S/W(ウェブカルテのモノクロ版)、Historische Karte(古地図)、Topographische Karte(地形図)、Luftbild + Beschriftung(空中写真+注記)、Webkarte(ウェブカルテのカラー版=初期画面)の6種から選択できる。

このうち、「Historische Karte(古地図)」は、1817~1841年に作成されたバイエルン王国最初の近代測量成果である縮尺1:25,000の「測量原図 Urpositionsblätter」902面のシームレス画像が表示される。それ以外の旧版地形図は、背景図ではなくレイヤーで重ねることになる(後述)。

「Topographische Karte(地形図)」は、現行地形図のピクセルマップ(ラスタデータ)で、1:200,000以下は連邦の測量局BKG作成の図が使われている。

「Luftbild + Beschriftung(空中写真+注記)」には、画像に注記文字が埋め込まれている。注記のない空中写真はレイヤーで選択できる(後述)。

特定の地域の地図を表示するには、地名、郵便番号、経緯度、UTM座標などで指定するほか、マウスで直接矩形を描いて選択する方法がある。

・地名/郵便番号で検索
 →検索窓に、表示したい地名(例:Augsburg)または郵便番号(例:86150)を入力。候補が表示された場合はその中から選択

・経緯度で検索
 →検索窓に、経緯度(経度 緯度の順、48°22'03" 10°53'54")、同 座標値(例:48.36728 10.89829)などを入力

・マウスで直接選択
 →地図上でShiftキーを押しながらマウスで任意の範囲をドラッグする(矩形を描く)

縮尺を変更するには、拡大縮小(+-)ボタンを使うほか、ダブルクリックでも行える。図上でダブルクリックすると、1段階ずつ拡大する。Shiftキー+ダブルクリックで1段階ずつ縮小する

Blog_bayern_map_hp3
テーマの選択

背景図の上に重ねる地図レイヤーを表示するには、まず地図のテーマを選択する必要がある。レイヤーはテーマ別にまとめられているからだ。テーマは左メニューに表示されており、デフォルトは「Freizeit in Bayern(バイエルンでの休暇)」になっている。この下部項目にレイヤーが列挙されている。

地図のテーマを選択するには、初期画面で「Freizeit in Bayern」の見出しの右にある「Thema wechseln(テーマを選択)」のリンクから、選択肢(下の画像)を表示させる。

レイヤー表示の例として、ここでは「旧版地図」と「注記のない空中写真」を取り上げる。

Blog_bayern_map_hp4
さまざまなテーマを選択できる

Blog_bayern_map_hp5
旧版地形図を表示

・旧版地図(図郭表示→PDFダウンロード)
 テーマ「Geobasisdaten(地理基礎データ)」の従項目に「Historische Karten(旧版地図)」がある。2018年1月現在で提供されているのは1:25,000地形図 Historische Topographische Karten 1:25 000(下注)のみだ。表示される索引図の中から任意の図郭をクリックすると、その図葉の刊行年次リストとPDFファイルへのリンクが表示される(上の画像)。

*注 バイエルンの1:25,000地形図は、1902年にラインプファルツ Rheinpfalz(ライン川左岸にあったバイエルン王国の飛び地で、第2次大戦後はラインラント・プファルツ州の一部となる)で、1920年からライン川右岸のバイエルン rechtsrheinischen Bayern でも開始され、1960年に全558面が完成した。リストには2008年までに作成されたものが表示される。

・注記のない空中写真
 「Freizeit in Bayern(バイエルンでの休暇)」の従項目の「Basiskarten(基本図)」に、Luftbild(空中写真)を選択する。

Blog_bayern_map_hp6
複数の地図の対比、透明度バーを使う

複数の地図や空中写真を画面上で対比させるときは、2通りの方法がある。まず、地図や空中写真を先述の手順で複数選択しておく。

・透明度バーを使う
 →左メニュー下部の Dargestellte Karten(表示する地図、上図②)で、上記テーマで選択したレイヤーの一覧が表示されるので、右の歯車マーク(上図③)をクリックし、Transparenz(透明度)バー(上図④)をスライドさせて、各層の透明度を調整する。重ね順は右側の矢印をクリックして変更できる。

Blog_bayern_map_hp7
同上、左右に並べて表示

・左右に並べて表示
 →左メニューの Erweitere Werkzeuge(拡張ツール)> Vergleichen(対比)で左右に並べて表示できる。境界線はスライド(左右に移動)できる。

Blog_bayern_map_hp8
地図の印刷

地図をプリントするときは、左メニューのDrucken(印刷)から必要事項を選択する。Orientierung(印刷の向き)は、Hochformat(縦長)か Querformat(横長)で、Maßstab(印刷の縮尺)の意味するところは、印刷対象となる地図本来の縮尺ではなく、紙に印刷したときの縮尺のことだ。たとえば1:50,000地形図が印刷対象のとき、ここで1:25,000を選択すると2倍に拡大したものが出力される。

選択後、Drucken(印刷する)をクリックする。生成されたPDFファイルを保存し、アドビリーダー等を使ってプリントする。

その他詳しい使い方は画面右上の Hilfe(ヘルプ)にある。

Blog_bayern_map_hp9
時間旅行バーの表示

「時間旅行 Zeitreise」

スイスのサイトと同じく、各時代の旧版地形図による「時間旅行」機能も提供されている。
左メニューにある Thema wechseln(テーマ変更)のリンクから、Zeitreise(時間旅行)を選択すると、画面上部に「時間旅行バー」が表示される。バーには1850年代から現在までの目盛が振られている。ポインターに記されている数字は年次で、その時点で最も新しい改訂年次の地図が画面に表示される。

Blog_bayern_map_hp10
年次の選択

表示地図の年次を変更するには

・ポインターをスライド
 →ポインターをバーの上で左右にスライドさせる。動かす都度、地図が入れ替わる。

・ポインターの年次を手入力
 →年次の個所をダブルクリックで選択して、任意の年次を手入力する。

なお、年代(特に古い年代)によって旧版図が存在しない場合は、最も近い年代の図(または別の縮尺図の拡大版など)が表示される。

Blog_bayern_map_hp11
地図の縮尺や改訂年次などを知る

表示地図の縮尺や改訂年次などを知るには、図上でクリックする。Objekt-Information(主題情報)として、シリーズ名称・縮尺、Blattnummer(図番)または Blattname(図名)、Herausgabejhar(改訂年次)、Ausgabeart(版の種類、Normalausgabe=通常版、Schummerungsausgabe=ぼかし付加版、Farbausgabe=カラー版など)が表示される。

また、その下の行に "Karte als PDF" のリンクが出る場合は、当該図のPDFファイルをダウンロードすることができる。

時代順に地図を自動で切替えるには、時間旅行バーの右端にあるプレイボタンをクリックする。

異なる年次の地図を表示するには、上記「複数の地図や空中写真を画面上で対比させるとき」の機能を使用する。

「バイエルンアトラス」では、ドイツ全土をカバーする既知の地形図体系とは別に、バイエルン王国(第一次世界大戦後は州)が独自に整備した19世紀前半の縮尺1:25,000「測量原図 Urpositionsblätter」や、縮尺1:50,000「バイエルン王国地形図集成 Topographischer Atlas des Königreiches Bayern」など、貴重な古地図(旧版地形図)も公開されており、興味は尽きない。1:50,000旧版など未作成のPDF化が完了した暁には、スイスのそれに匹敵するすばらしいウェブ・アーカイブになることが期待される。

★本ブログ内の関連記事
 ドイツの地形図概説 I-略史
 ドイツの地形図概説 II-連邦と州の分業
 ドイツの地形図概説 III-カタログおよび購入方法
 ドイツの1:25,000地形図
 ドイツの1:50,000地形図
 ドイツの1:100,000地形図
 ドイツの1:200,000地形図ほか

 スイスの地形図-ウェブ版 I
 スイスの地形図-ウェブ版 II
 ニュージーランドの地形図-ウェブ版

2018年1月10日 (水)

奥出雲おろち号で行く木次線

山陰本線の宍道(しんじ)駅3番ホームに、赤1色のキハ120形気動車が停車している。朝9時10分発の木次(きすき)線木次行き1445Dだ。鄙びたローカル線と高をくくっていたので、単行とはいえ、ほぼ満席で立ち客までいるのは予想外だった。乗り込むなり、気のいい車掌さんに「トロッコですか」と聞かれたから、やはり観光列車に乗り継ぐ客が多いらしい。

Blog_kisukisen1
宍道駅3番線に停車中の木次行きキハ120形

今日10月27日(2017年)はその「奥出雲おろち号」で、木次線を遡る。出雲南部、いわゆる雲南地方の観光資源として1998年から運行されているトロッコ列車だが、乗車するのは初めてだ。運行区間は通常、木次~備後落合(びんごおちあい)間で、主として日曜日だけ出雲市から延長運転が行われている。今日は平日なので、木次まで定期列車に乗る必要があったのだ。

■参考サイト
出雲の国・斐伊川サミット-トロッコ列車「奥出雲おろち号」
http://www.hiikawa-summit.info/orochi/

Blog_kisukisen2
木次駅 (左)駅前の道は川堤へ続く (右)構内

木次線は、島根県の宍道から広島県の備後落合まで延長81.9km、単線非電化の鉄道線だ。1937年に全通した中国山地を横断するルートの一つだが、名うての(?)閑散路線で、代替道路が未整備でなかったら、とうに廃止宣告を受けていたに違いない。

特に木次以遠は人口が少なく、列車はふだん、鉄道愛好者を除けば空気を載せて走っている。峠越えの区間は冬場、大雪に見舞われることがあり、そのつど長期の運休を迫られるのも厳しい。一方、根元に当たる宍道~木次間は比較的人口が張り付いているが、私鉄(下注)により簡易線規格で造られたため、半径161m(=8チェーン)の急カーブと20~25‰の急勾配が随所にあり、速度がいっこうに上がらない。その上、地図で見るとおり、点在する町に近づけようとしたことで、冗長なルートができてしまった。鉄道が交通の主役だった時代はともかく、道路が改良された今となっては、競争に不利な条件が揃っているのだ。

*注 簸上(ひのかみ)鉄道により1916年に開通、1934年国有化。

しかし別の見方をすれば、都市化されていない懐かしい風景の中を、ゆったりのんびり走るスローライフ志向の路線ともいえる。加えて、最奥部にはスイッチバックの出雲坂根(いずもさかね)駅という鉄道名所がある。高度を稼ぐために造られる明瞭な三段式(Z形)スイッチバックは、JR路線としてここ以外には、豊肥本線の立野(たての、大分県)にしかない。

「奥出雲おろち号」は、こうした変化に富んだ車窓風景を、ガラス越しでなく自然の風が吹き抜けるトロッコ列車で、心行くまで味わえるのが売りだ。私も出雲坂根までこの列車に揺られて、木次線のもつ雰囲気を体感しようと思っている。

Blog_kisukisen_map1
木次線ルート概略図

そろそろ発車時刻が近づいてきた。改札を入ると、さきほどキハ120形で到着した2番線に、ボディーに青と純白をあしらった3両編成の列車が停まっている。先頭が運転室つきの開放型客車(トロッコ車両)、真ん中が密閉型客車(普通客車)、最後尾にDE15形ディーゼル機関車という並びだ。観光列車らしく、機関車は後ろから推す形にして、前面展望を保証している(下注)。

*注 終点で列車を転回できないので、帰路は機関車が前に立つ。

Blog_kisukisen3
木次駅2番線に「奥出雲おろち号」がバックで入線 *

すでに多くの人が乗り込んで発車を待っていた。トロッコ車両は定員64名、テーブルをはさんで2席分の木製ベンチが向かい合う。車端はレール方向に向いた4人用の長椅子だ。見たところすべてのテーブルが塞がっていて、平日というのに盛況だ。同行のTさん、Gさんと合流して、私もこの長椅子に着席した。

ちなみに後ろの密閉型客車には誰も乗っていない。なぜなら、トロッコ車両では寒いとか、雨が吹き込んでくるときに避難するための席だからだ。つまり乗客は1枚の指定券で2席確保しているわけで、同時に使うことはないとはいえ、なんとも贅沢な措置だ。

Blog_kisukisen4
「奥出雲おろち号」の客車
(左)開放型車両(トロッコ車両) (右)密閉型車両は避難(?)用

ホームから園児の集団に見送られながら、10時07分定刻に木次駅を発車した。線路は斐伊川(ひいかわ)の流域に延びているが、斐伊川本流に沿って走る区間は意外に少なく、支谷を伝ってトンネルで別の支谷へ抜けるという一見迂遠なルートがとられている。斐伊川は中流部で穿入蛇行(せんにゅうだこう)しているから、トンネルや切通しが多く必要になり、工費がかさむのを嫌ったのだろう。そのため、車窓には、三江線で見るような大河ではなく、狭い谷川や段々になった山田の風景がどこまでも続くことになる。

Blog_kisukisen5
(左)園児に見送られて発車 (右)車端の長椅子が私たちの席 *

列車は、木次の町裏を抜けた後、久野川(くのかわ)が流れる谷を延々10km以上も遡る。2駅目の下久野(しもくの)駅を過ぎたところで右に折れて、路線最長2,241mの下久野トンネルに入った。ここで一つ出し物がある。客車の天井に八岐大蛇(やまたのおろち)のイルミネーションが浮かび上がるのだ。トンネルの壁にレーザー光で絵を描くといった派手な仕掛けではないが、長い闇の中で退屈をわずかでも紛らせることができる。

季節に応じた防寒着のご用意を、と案内サイトに注意書きがあるとおり、走行中は絶えず風が当たる。気温はさほど低くないとはいえ、早くも密閉型車両に移動する人が出てきた。

Blog_kisukisen6
(左)下久野トンネル通過中 (右)天井におろちの姿が浮かび上がる *

トンネルを抜けると、高原状の浅い谷を下って出雲三成(いずもみなり)に停車する。ここで上り列車1450Dとの交換がある。ダイヤに従えば相手が先着して待っているはずだが、今日は遅れているようだ。乗客の中にはホームに降り、記念写真を撮る人もいる。まもなく赤いキハ120形が何食わぬ顔でやってきた。

Blog_kisukisen7
出雲三成駅 (左)ここでも園児の見送りが (右)対向列車が到着

三成からは斐伊川を右に見ながら進むが、線路はまた支谷へそれていく。次の停車は亀嵩(かめだけ)、いうまでもなく松本清張の「砂の器」の舞台になった場所だ。小説は大昔に読んだきりだが、事件の真相を探る刑事のように、私も亀嵩には用事があった。というのはほかでもない、駅でそば弁当を受け取ることになっていたのだ。当日1時間前までに予約しておけば、ホームから手渡ししてくれる。

亀嵩駅の手打ちそばは昔から有名だが、2駅先の八川(やかわ)駅では、この列車のためにそば弁当を立ち売りしている。ただし、数個しか用意されていないので、確実に手に入れるにはどのみち電話予約が安心だ。

出雲横田(いずもよこた)は、大しめ縄を張った社殿と見紛う駅舎で知られている。しかし、眺めたければ駅前広場に回る必要がある。停車時間はわずかで、その余裕はなかった。八川を過ぎると谷はさらに深まっていき、いよいよ30‰の勾配標が現れた。険しい峠道の始まりだ。標高は500mを越え、紅葉も川下より進んでいる。

Blog_kisukisen8
(左)亀嵩駅。駅の手打ちそばは有名
(右)八川駅。ホームで待っているのはそばの立ち売り人 *
Blog_kisukisen9
トロッコ車両はいつでもパノラマビュー(八川~出雲坂根間)

11時15分、ついにスイッチバックの出雲坂根駅に到着した。駅自体は標準的な相対式ホームだが、その手前にシーサスクロッシング(X字形の分岐器)があり、そこで下段と中段の線路に分かれている。2010年築の木造駅舎はまだ新しいが、もちろん無人駅で、切符も売っていない。

■参考サイト
出雲坂根付近の最新1:25 000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/35.102400/133.120600
出雲坂根付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@35.1024,133.1182,16z?hl=ja

Blog_kisukisen10
出雲坂根駅
(左)駅舎正面。川下より紅葉が進んでいる * (右)列車の到着時だけ賑わう駅

私たちはここで下車して、備後落合へ旅を続けるトロッコ列車を見送った。列車は機関車を先頭にしてもと来た方向へバックし(見た目はこのほうが正常だが)、分岐器を渡って森の中へ消えていった。発車後10分近く経って、上段の続きの線路をゆっくり上っていく列車が、森の切れ目からちらと見えた(右下写真)。

おろち号は備後落合で折り返してくるが、それまでしばらく時間がある。駅舎の隣のあずまやに腰かけて、名物の延命水をお茶代わりに、そば弁当をおいしくいただいた。何匹ものカメムシが周りをうろうろするのには閉口したが、ピクニックに来たと思えばそれも一興だ。

Blog_kisukisen11
(左)スイッチバックを上るおろち号を見送る
(右)駅から上段の線路を行く列車が見えた
Blog_kisukisen12
(左)駅舎横のあずまやにある延命水 (右)亀嵩駅のそば弁当を開ける

13時30分過ぎ、木次側から先に下り普通列車1449Dが到着した(下注)。私はこれに乗るつもりだが、列車はおろち号と行き違いをするため、駅で長い待ち合わせがある。ほどなく、上方からレールのきしむ音が聞こえてきた。姿は見えないが、スイッチバックの上段を列車が降りてきている。下り列車の乗客がカメラの放列を敷く中、13時50分を回ったころに、ようやくおろち号が森の陰から現れた。

*注 木次線は山陰本線の支線なので、運転上は宍道方面が「上り」、備後落合方面が「下り」になる。

Blog_kisukisen13
下り普通列車が、戻ってきたおろち号と交換 *

出雲坂根に残ったTさんとGさんはこの後、スイッチバックの俯瞰撮影を試みている。後で聞くと、七曲がりの旧道を三井野原(みいのはら)のほうへ上っていく途中に、お立ち台に通じる道を見つけたそうだ。ロープをたぐって斜面をよじ登り、木立の間から狙い通りのショットをものにした。下がその成果だ。

Blog_kisukisen14
スイッチバック上段を降りていく普通列車 *
左奥の屋根(シェルター)が折り返しポイント。中段の線路は森に阻まれて見えない
下の線路は出雲坂根から八川へ向かう線路(スイッチバック下段に相当)
Blog_kisukisen15
折り返しポイントのシェルターから出てきた列車 *
Blog_kisukisen16
スイッチバックを降りた列車が木次方面へ去る *

次の三井野原が峠の駅で標高726m、JR西日本の路線では最高所だ。周辺は高原の風情だが、地形としては、南へ流れ下る西城川(江の川水系)が北へ流れる室原川(斐伊川水系)により河川争奪を受けて上流を喪失した、いわゆる風隙(ふうげき)に相当する。出雲坂根との直線距離はわずか1.3kmだが、標高差は160mにもなる。線路は、30‰の連続勾配と、スイッチバックを含む6km以上の長い迂回路で高度を稼いで、ようやくこの駅に達する。

その途中、並行する国道314号線が、奥出雲おろちループと名付けられた巨大なオープンスパイラルで上ってくるのが、車窓からも見える。谷を一気にまたぐ真っ赤なアーチ橋とその上をすいすい走る車を前にして、80年も前に造られた鉄道はいかにも分が悪い。観光列車を走らせる価値はあっても、残念だが、もはや日常輸送の役割は終えたと思わざるを得ない。

Blog_kisukisen17
国道314号奥出雲おろちループ
右写真のスパイラルを上り、左写真のアーチ橋を渡って三井野原へ
Blog_kisukisen18
(左)峠の駅三井野原(木次方を撮影)
(右)西城川上流の谷を降りていく(木次方を撮影)

西城川上流の狭い谷を下ること約30分で、終点備後落合に着いた。芸備線との乗換え駅で、この時間帯は珍しく三方向から列車が集まり、互いに連絡している。各ホームに帯の色が違うキハ120形がちょこんと停まり、揃って客待ちしているのはおもしろいが、運行本数が極少だから、乗り間違えるとおおごとだ。「三次」の方向幕をしっかり確かめて、私も次の列車に乗り継いだ。

Blog_kisukisen19
備後落合駅
(左)乗ってきた木次線列車
(右)隣の島式ホームで、芸備線三次行きと新見行きに連絡

掲載した写真のうち、キャプション末尾に * 印のあるものは同行のTさんから提供を受けた。それ以外は筆者が撮影した。

★本ブログ内の関連記事
 三江線お別れ乗車
 新線試乗記-可部線あき亀山延伸

2018年1月 5日 (金)

三江線お別れ乗車

廃止を目前に控えた三江線(さんこうせん)が、時ならぬ賑わいに沸いている。

島根県の江津(ごうつ)と広島県三次(みよし)を結ぶ三江線は、延長108.1km、単線非電化のローカル線だ。中国山地に発し日本海に流れ下る江の川(ごうのかわ)に、終始ついて走る。江の川は中国地方最長で、最大の流域面積をもつが、中・下流はいわゆる先行性河川(下注)のため、山に挟まれ、周りに平地がほとんどない。それで三江線の車窓は、のどかで鄙びた谷沿いの風景がどこまでも続いている。

*注 先行性河川とは、周辺の山地の隆起より川の下刻速度が勝ることで、元の流路を保った川のこと。

路線の魅力もそこにあるのは間違いないが、それはとりもなおさず沿線人口が少ないことを意味する。加えて、中間の川本町や美郷町からは山越えの道路で大田に出るほうが早く、江津回りの鉄道はニーズに合わなかった。全通したのは1975年だが、それより前の部分開通(三江北線および南線)時代から、輸送密度が低迷しているとして廃止対象に挙げられていたのだ。全通によって生き延び、国鉄からJR西日本に引き継がれたものの、状況が改善する気配はなく、ついに今年(2018年)3月末で廃止が現実のものとなる。

Blog_sankosen1
尾関山公園から江の川(可愛川(えのかわ))と三江線を望む

私は昨年(2017年)、この三江線を二度訪れた(ルートは下図参照)。初回の10月はオーソドックスに、鉄道仲間のTさんらと三次から江津まで全線を乗り通した。二回目の12月は趣向を変えて、バスと鉄道の合わせ技を使った。広島から高速バスで石見川本(いわみかわもと)へ直行し、石見川本~浜原間で下り列車425Dに乗った後、一駅歩いて、粕淵(かすぶち)から路線バスで大田市(おおだし)へ抜けたのだ(下注)。

*注 乗継時刻は以下の通り。広島10:00発→(イワミツアー高速バス)→石見川本12:09着/14:00発→(三江線)→浜原14:41着→(徒歩)→粕渕駅15:30発→(石見交通バス)→大田市駅16:16着/16:42発→(山陰本線)→出雲市17:33着。なお、粕渕駅15:30発のバスは、土日祝日運休につき注意(2017年12月現在)。

ちなみにTさんは前半のみ別行動で、前日に広島、三次、口羽(くちば)と列車移動し、そこから持参の自転車で潮(うしお)駅近くの旅館まで走って投宿、翌日も潮から川本まで再び自転車に乗り、石見川本駅で私と合流するというアクティブな旅をしている。

Blog_sankosen_map1
三江線お別れ乗車でたどったルート

以下は2回分の見聞録だが、混乱を避けるために、三次から江津へ順に話を進めることにしたい。

初回の訪問時、三次に宿をとっていた私は、朝の下り列車を撮影しようと、早起きして尾関山に上った。尾関山は、三次旧市街の北西端にある比高50mほどの独立丘で、春は桜の名所として名高い。旧市街の西端を走る三江線はこの山をトンネルで貫いた後、江の川を渡る(下注)。その様子を狙おうと思ったのだ。時折小雨が降るあいにくの天気だったが、7時台の列車を山上の公園から(冒頭写真)、9時台の列車を橋のたもとからそれぞれ撮ることができた。

*注 江の川は、広島県側では可愛川(えのかわ)の別名で呼ばれており、鉄橋の名称も可愛川橋梁。

■参考サイト
尾関山駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.812900/132.841600

Blog_sankosen2
可愛川橋梁を渡る夕方の三江線上り列車、前日に西側から撮影
Blog_sankosen3
同 朝の下り列車、東側から撮影

尾関山駅が山のふもとにあるので、そこで上り列車を待ってもよかったのだが、全線乗車のために三次駅まで戻る。距離にして約2.5km、歩いても30分程度だ。三次駅で10時02分発の上り列車(下注1)に乗車した。日が短いこの時期、他の列車だと出発が夜明け前か、到着が日没後になってしまう。それで唯一の昼行便となるこの列車(424D~426D)に乗り納めの旅行者が集中して、混雑していると聞いていた(下注2)。

*注1 線路名称上、三江線は山陰本線の支線なので、川下へ進む江津行きが「上り」になる。
*注2 さらなる混雑を見越して、3月のダイヤ改正で口羽~浜原間上下各1便が増発されることになった。廃止まで2週間の期間限定ながら、昼間通し乗車の選択肢が増える。

列車はキハ120形の2両編成だったが、発車数分前に乗り込むと、なるほど座席はすでに埋まり、立ち客も10人では利かない。川本まで2時間以上の長丁場、私は最後部のかぶりつきに陣取って線路を眺めることになった。

Blog_sankosen4
朝の三次駅
(左)駅舎 (右)10時02分発三江線列車に惜別客が続々と乗り込む

三江線は大きく3つの区間に分けられる。まず戦前の1930~37年に、北側の江津~浜原間50.1km(のちの三江北線)が順次開通している。南側でも同時期に着工されたが戦争のために中断し、戦後、1955~63年に三次~口羽間28.4kmが順次開通した(三江南線)。中間に残された浜原~口羽間29.6kmの開通は1975年になってからで、これにより三江線が全通した。

列車が三次駅を出るとまもなく、広島へ向かう芸備線を左へ分ける。そして馬洗川(ばせんがわ)を渡り、旧市街の西側を直線の高架で突っ切る大胆なルート設定だ。三次駅が川向うの不便な場所にあるので、鉄橋を2本架けてでも、旧市街の側に鉄道を引き寄せたかったように見える。期待に反して列車本数が少なく、結局使い物にはならなかったのだが。

Blog_sankosen5
尾関山駅
(左)市街地西側を直線で突っ切る線路(三次方を撮影)
(右)人影のないホーム、交換設備はとうに撤去済(江津方を撮影)

朝の撮影場所にした可愛川橋梁を渡り、しばらく川の左岸を行く。粟屋駅の手前で、早くも制限時速30kmの標識が見えた。戦後の開通とはいえ着工は戦前なので、トンネルを極力避け、川べりの崖を削って線路を通した箇所が断続する。そこには例外なく速度制限があり、所要時間が長びく原因を作っている。

停留所といったほうが適当な片面ホームの駅が多数を占める中で、式敷(しきじき)駅は島式ホームで、列車交換設備があった。江の川を斜めに横断するガーダー橋が、単調になりがちな車窓に変化を与えてくれる。島根県に入った作木口(さくぎぐち)では、驚いたことに下車する客がぞろぞろと続いた。周辺は民家が数軒だけの寂しい場所だが、旗を持った添乗員らしき人が見えたので、区間乗車を組み込んだツアーの客のようだ。

Blog_sankosen6
(左)式敷駅を出てすぐ川を斜めに横断(三次方を撮影)
(右)作木口駅ではツアー客が多数下車

口羽はいうまでもなく三江南線時代の終点で、列車交換が可能だ。ここで降りたTさんが、写真を提供してくれた。ここから浜原までが最後の開通区間になる。鉄建公団が建設した高規格線なので、PC枕木が敷かれ、曲線も緩やかで、谷間を縫うトンネルが連続する。列車の速度も明らかに上がってくる。

*注 最高速度は北線・南線区間が65km/hと低速なのに対して、中間区間は85km/h。

Blog_sankosen7
口羽駅
(左)当駅折返しの列車が停車中 * (右)15時17分、三次に向けて発車 *

線路は川の左右を行ったり来たりし、そのたびに県境をまたぐ。地上20mの高さで、天空の駅のネーミングがついて注目される宇都井(うづい)駅のホームには、雨模様にもかかわらずカメラをかざす人が何人もいた。また川を渡って右岸につき、しばらく進むと、川幅が心なしか広がっていくのに気づく。少し下流の浜原ダムで川が堰き止められて、湖になっているのだ。そのほとりに潮駅がある。線路沿いの桜並木で有名だが、残念なことに次の花見頃に列車の姿は見られない。

Blog_sankosen8
(左)天空の駅宇都井から見える石州瓦を葺いた家々
(右)短い覆道が3本連続(石見松原~潮間、三次方を撮影)
Blog_sankosen9
潮駅を発つ朝の下り列車 *

線路は、路線最長の登矢丸(とやがまる)トンネル(2,802m)で、支流の沢谷にそれた後、浜原で江の川本谷に戻ってくる。浜原は三江北線時代の終点だ。口羽に似て、カーブした構内に交換設備があり、駅前には全通記念碑も置かれている。二回目の訪問では、ここから次の粕淵まで約2.5kmの旧道を徒歩移動した(Tさんは自転車)。乗るべきバスが粕淵駅前発だったからだが、川を見下ろす高堤防の上を歩いていくのは気分がよかった。

Blog_sankosen10
浜原駅
(左)当駅止まりの列車が停車中。右奥は三瓶山 (右)駅舎前に全通記念碑

線路は下路ワーレントラスの第一江川橋梁で左岸に移る。これが最後の江の川横断になる。北線は建設年代が古いからか、カーブは半径200mが続出し、崖際が多いので速度制限も頻繁にある。前面展望の楽しみはともかく、運行環境としてはかなり厳しい。途中、浜原ダムの水を落として発電している明塚(あかつか)発電所の前を通過する。また、乙原(おんばら)駅前には、曲流していた川の短絡によって孤立した丘、いわゆる繞谷(じょうこく)丘陵があり、線路はそれを遠巻きにするように敷かれている。

Blog_sankosen11
(左)粕淵駅を出てすぐ最後の江の川横断(三次方を撮影)
(右)里道の踏切(粕淵~明塚間) *
Blog_sankosen12
三江北線区間には杣道のような箇所が点在(三次方を撮影)
Blog_sankosen13
(左)浜原ダムから導水する明塚発電所(明塚~石見簗瀬間)
(右)乙原の繞谷丘陵

起終点を除いて沿線最大の集落が、川本(駅名は石見川本)だ。昼行便424Dはここが終点となり、約1時間半の待ち合せで、始発の江津行き426Dに連絡している。実際は同じ車両が通しで使われるのだが、停泊中は施錠されるため、所持品もすべて持って降りなければならない。

Blog_sankosen14
石見川本駅到着
(左)車両はここで1時間半停泊 (右)神楽ラッピングの団体専用列車と交換した

ちょうどお昼時でもあり、車内から解放された客がどっと駅前に繰り出すのが、日々の恒例行事になっている。町もそれを好機と捉えて、駅前の空き店舗を休憩場所に提供し、「おもてなしサロン」と銘打った。名産のえごま茶をふるまい、見どころや食事処を記した地図を配って、地元の観光PRに余念がない。サロンでもらった「三江線乗車記念切符」は10月段階で8457人目(同年3月31日からの来場者数)だったのが、12月には11125人目と、1万人を軽く突破していた。

私たちが食事処に選んだのは、すぐ近くにある新栄寿しだ。初回来た時に食べたうな重(1300円)が大いに気に入ったので、二回目も迷わず注文する。肉厚の鰻を1匹まるごと使って今時この値段だから、リクエストしないわけにはいかない。大将もおかみさんもあいそがいいし、ここはお奨めだ。小さな店で、早く行かないとすぐ満席になるのでご注意を。

Blog_sankosen15
川本駅前のおもてなしサロン
(左)萌えキャラが店先でカウントダウン * (右)えごま茶をいただきながら休憩
Blog_sankosen16
(左)石見川本駅の記念スタンプ (右)サロンでもらった「三江線乗車記念切符」
Blog_sankosen17
駅前の新栄寿しで昼食 (左)店入口 * (右)立派なうな重に舌鼓を打つ

食事の後は、駅裏の川の堤防や南にある川本大橋の上から、停泊中の列車を撮る時間が十分ある。江津行き426Dは、下り浜原行き425Dの到着(13:43ごろ)を待って13時45分に発車する。その425Dは14時ちょうどの発車だ。二度目に来た時は425Dで浜原に向かうことにしていたので、その到着と426Dの発車を大橋の上でカメラに収めてから、急ぎ足で乗り継いだ。

■参考サイト
石見川本付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.991300/132.492600

Blog_sankosen18
川本大橋から江津方を望む
Blog_sankosen19
石見川本駅
(左)高堤防から見た構内全景 * (右)満員の客を乗せて上り列車が発車

川本滞在の話はこれくらいにして、再び三江線を江津へ向かおう。相変わらず右手車窓に江の川の悠然とした流れが横たわり、列車は例の速度制限に足かせをはめられて、緩慢な走りを続ける。

ところが、お腹も満ち足りた私は、前半のような集中力を失くしていた。たとえば因原(いんばら)駅の南側では、路線の観光ポスターにも使われている石州瓦を載せた家並みが広がるし、江の川も河口に近づくにつれ川幅が太くなり、中国太郎の風格を表し始めるのだが、同行の人たちと四方山話に明け暮れて、1枚の写真も撮っていない。

そのうち、行く手にスマートな二層構造の国道橋(新江川橋)と白い煙を吐く製紙工場の煙突が見えてきた。ずっと山中の景色を見慣れた目には違和感さえある。川と山に挟まれて家の影すらない江津本町(ごうつほんまち)を出ると、列車は旅の伴侶だった江の川から離れていき、14時54分、江津駅3番線の古びたホームに滑り込んだ。三次を出てかれこれ5時間になる。言葉は交わさないまでも、跨線橋へと移動するどの顔にも、「長旅お疲れさま」の文字が浮かんでいる。

Blog_sankosen20
江津駅に到着

掲載した写真のうち、キャプション末尾に * 印のあるものは同行のTさんから提供を受けた。それ以外は筆者が撮影した。

★本ブログ内の関連記事
 奥出雲おろち号で行く木次線
 新線試乗記-可部線あき亀山延伸

2017年12月29日 (金)

新線試乗記-可部線あき亀山延伸

Blog_kabesen1
河戸帆待川~あき亀山間を走る227系

可部(かべ)線の新しい終点まで行くのに、京都駅の券売機で乗車券を買おうと思った。駅名を度忘れしてしまい、ちょっと慌てたが、なんとか検索で探し当てた。ところが、出てきた切符を見たら、広島市内行きと書いてある! 手間取る必要はなかった。券面表示が同じなら、広島駅まで買えばよかったのだ。

地図・鉄道ファンと広言している割には認識不足も甚だしいが、可部線は駅数が多く、時刻表地図に比較的長めに描かれているせいか、こんな勘違いをしてしまう。実際の営業キロ数は15.6km(横川~あき亀山間)、広島からでも18.6kmと、広電と並走する山陽本線の広島~宮島口(21.8km)に及ばない小規模な都市近郊線だ。

その可部線も、かつては広島市域を出て中国山地深くに分け入り、三段峡まで60.2kmの長い距離を走っていた。しかし、非電化区間の可部~三段峡間は、利用者数の低迷で2003年に廃止されてしまった。しばらくその状態が続いていたが、今年(2017年)3月4日、新たな展開があった。可部から新駅のあき亀山まで1.6km、運行区間が延長されたのだ。見かけは旧線の一部復活だが、線路も駅も一から整備されたので、実態は新規開業に等しい。今回は、遅まきながらその様子を見に行くつもりだ。

Blog_kabesen2
広島近郊路線図、水色のラインが可部線

しばらくぶりで訪れた広島駅は、2階に広いコンコースがオープンして、見違えるように明るくなっていた。南口の改築はこれからなので、これでもまだ変化の途中だ。4番線に降りると、可部線方面の新型電車が停まっていた。こちらも黄色一色の従来車ではなく、2年前(2015年)から投入された新型電車227系だ。ステンレス車体に、カープの本拠地らしく鮮やかな赤帯を巻いている。すでに日中の運行はこの形式の2両編成に統一され、ローカル支線のイメージが一掃された。

Blog_kabesen3
広島駅にて
(左)新型電車227系
(右)黄色づくめの旧型車は朝夕の応援部隊。写真は105系

広島駅を出て横川(よこがわ)までは山陽本線を行く。アストラムラインと連絡する新白島(しんはくしま)駅が中間にできたからか、速度は上がらないままだ。横川駅では、手前でポイントを渡って、島式ホーム5番線に入った。ここからが可部線で、太田川(放水路)の鉄橋を渡り、路線唯一の短いトンネルを抜けた後、川の右岸(西岸)に広がる沖積平野を北上していく。

Blog_kabesen4
横川を出てすぐ太田川放水路鉄橋を渡る
Blog_kabesen5
太田川(放水路)に面する三滝駅

可部線のルーツは、1909~11年に大日本軌道により開業した非電化762mm軌間の軽便鉄道だ。駅間距離が短く、駅構内の造りがコンパクトなのもその名残だろう。1919年に可部軌道として独立したが、その後、1926年に地元の電力会社だった広島電気に買収されて、電化と1067mmへの改軌(1928~30年)が行われた。1931年には広浜鉄道として独立し、1936年に島根県浜田に至る予定線の一部として国有化されて、国鉄可部線となった。

軽便鉄道が開通したころは一面の田園地帯だった沿線も、今や市街地で覆い尽くされている。広々とした車窓風景に出会える区間といえば、太田川を渡る三滝駅の前後や上八木~中島間ぐらいのものだ。

Blog_kabesen7
太田川鉄橋を渡る227系(上八木~中島間)

ただ、前面展望なら他にも楽しめるところがある。可部線のルートは、電化改軌や河川改修に伴い、かなり変わっている(詳細は本稿末尾を参照)が、梅林~上八木間では、道端をゴトゴト走っていた軽便鉄道の面影が残っているのだ。道路とは完全に分離されているものの、梅林駅の前後では可部街道の左側にぴったり沿って走る。10キロポスト付近に来ると、半径160mの急カーブで街道を横断し、今度は道の右側につく。吊り掛けモーターの旧車が似合いそうな線路を、新型227系が進んでいくのは面白い。

Blog_kabesen6
軽便鉄道の面影が残る区間
(左)梅林駅 (右)上八木駅。いずれも上り列車から撮影

広島駅から約40分で、可部駅に到着した。今回の延伸に伴って、駅構内は様変わりしている。右側にあった電車用の頭端式ホーム(旧1・2番線)は使われなくなり、線路も剥がされた。その代わり、三段峡まで通じていた時代に気動車が発着していた3番線が1番線上りホームとなり、その向かいに2番線下りホームが整備された。改札は各ホームの北端に設置され、跨線橋が駅の東西を結ぶ自由通路になっている。

旧市街地に面した狭い東口が昔日の面影を残す一方で、西口は、2007年に造られた立派なバスターミナルが駅の下り改札に直結された(上り改札へは跨線橋の上り下りが必要になったが)。朝、再訪したときは、ここに広島方面行きのバスが次々と発着していた。なにしろ国道は渋滞気味だし、町中の旧道も抜け道に使う車がひっきりなしに行き交い、歩くのに危険を感じるほどだから、可部線の果たす役割は小さくない。

Blog_kabesen8
可部駅東口
(左)駅務室も売店もこちらに (右)改札は上りホーム専用になった
Blog_kabesen9
可部駅西口
(左)アーチをくぐって右手が下り改札。左は跨線橋で東口と上り改札へ通じる
(右)整備された西口バスターミナル

Blog_kabesen_map1
可部線旧線と新線の比較
(左)可部~三段峡間廃止以前の図(1977~78(昭和52~53)年)。河戸駅は大毛寺川を渡る手前にあった
(右)あき亀山延伸後の図。あき亀山駅は大毛寺川を渡った県営団地跡に設けられた

新線区間は短距離なので、まずは線路に沿って歩いてみた。河戸帆待川(こうどほまちがわ)駅の小さな駅前広場は県道267号線に面している。帆掛け舟のモニュメントがあったので、太田川を遡る川舟かと思ったら、帆待川の名の謂れを示すものだった。直前に渡った小川は帆掛け舟が通れそうにないし、帆待川がどこにあるのかはわからずじまいだ。新可部や西可部のようなありきたりの名にはしたくなかったとしても、凝りすぎだろう。

Blog_kabesen10
河戸帆待川駅
(左)最小サイズの正面入口 (右)駅名の由来を示す帆掛け舟のモニュメント

さらに歩いていくと、路地の奥に歩行者用跨線橋があるのを見つけた。新線区間の列車を撮るには好都合だ(冒頭写真はここで撮影)。ただ、人通りがさほどなさそうな場所なのに、エレベーターまで付随している。バリアフリーの方針自体は結構なことだが、果たして保守費用に見合うだけの利用があるのだろうか、と余計な心配をしてしまった。

県道267号線の整備区間は大毛寺川(おおもじがわ)の手前までで、そこから昔ながらの田舎道になった。とはいえここも車の通行が結構多く、歩きたくなるような道ではない。終点のあき亀山駅は、高台の住宅地から降りてきた道との交差点を南へ入ったところにある。構内は、頭端型の島式ホームに接する2線の横に、可部駅の設備が移されたのだろう、留置側線が3線並んでいる。駅前には小さなロータリーがあるだけで、市民病院の移転予定地とされる一帯はまだ手付かずの状態だ。

■参考サイト
あき亀山駅付近の最新1:25,000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.517200/132.496300
あき亀山駅付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@34.5170,132.4955,17z?hl=ja

Blog_kabesen11
あき亀山駅
(左)正面入口は南向き (右)発着用2線の横に留置線も
Blog_kabesen12
あき亀山駅と可部市街を遠望。川との間の空地は病院の移転予定地

駅名の亀山というのはこの地域の地名(旧村名)で、駅の住居表示も広島市安佐北区亀山南一丁目になっている。旧線にも「安芸亀山(あきかめやま)」と称する駅があったが、場所はもっと西で、新駅の位置はむしろ旧 河戸(こうど)駅に近い。安芸がひらがな表記になったのは、旧駅との混同を避けるためらしい。

ちなみに、周辺を歩いたとき、集落の中に河戸駅の駅名標と待合室が保存されているのを偶然発見した。場所はあき亀山駅の北200mで、グーグルマップにも「旧河戸駅移設地」の注記がある。

Blog_kabesen14
集落の中に旧 河戸駅の駅名標と待合室を発見

駅への進入路の西側には、復活しなかった廃線跡が続いている。線路がまだ残されているのが見えたので、雑草をかき分けながら行ってみた。すっかり赤錆びているものの、レールは左に緩くカーブしながら、家並みの裏手に延びる。線路脇に倒された電柱、8の字(0.8kmの意)が刻まれた距離標と、思いがけない小道具が情趣を添える。だが、それも県道267号線との交差地点(旧 踏切)までで、後はバラストが剥き出しだった。位置的には平野のどん詰まりで、溪谷が目の前に迫っている。

Blog_kabesen13
(左)あき亀山駅西側の廃線跡 (右)倒された電柱と距離標が残る

あき亀山駅へ戻った。簡易改札機にICカードをタッチして、ホームへ上がる。広島行きの列車が停車中だが、昼間の始発駅には人影がほとんどなく、静かだ。病院が移転してくるまで、当面こんな状況が続くのだろう。

定刻になり、列車はバラストも真新しい線路をおもむろに走り出した。見通しのいい直線コースだが、駅間距離800mなので速度を上げる間もない。棒線駅の河戸帆待川で、黒カバンにスーツ姿の二人連れが乗り込んだ。税務署や区役所が近いから、その所用客だろうか。国道54号可部バイパスの高架をくぐり、右へカーブしていくと、早くも可部駅が視界に入った。列車は旧線時代と同じ東側のホーム(現 1番線)へ滑り込み、隣で待機していた下り列車に道を譲る。

Blog_kabesen15
可部駅での列車交換。左の上りホームは旧来のもの、右の下りホームは新設

可部線のルート変遷

横川~安芸長束

軽便時代の駅は可部街道の東側にあり、松原駅の北で街道を横切っていたが、1928年の電化改軌の際に省線横川駅から西へ出発する形に改められた。さらに、戦後の太田川放水路の建設に伴って、1962年に西寄りの現ルートに付け替えられている。

Blog_kabesen_map2
(左)1925(大正14)年図。軽便時代の横川駅は、可部街道の東側にあった
(中)1950(昭和25)年図。電化改軌の際に、省線横川駅から西へ出発する形に改修
(右)1994(平成6)年図。太田川放水路建設に伴い、西寄りの現ルートに付け替え。赤のマーカーは旧線のルート

古市橋~緑井

軽便時代は、安川の旧流路に架かる古市橋を併用軌道で渡り、古市市街地の裏手を通っていた。1929年の電化改軌の際に併用軌道が廃され、現在の直線的なルートとなった。ちなみに、このとき消えた古市駅の名は、場所は異なるもののアストラムラインの駅名として復活している。

Blog_kabesen_map3
(左)1925(大正14)年図。軽便時代は、古市橋を併用軌道で渡り、古市市街地の裏手を通った
(右)1994(平成6)年図。電化改軌の際に、直線的な現ルートに付け替え

上八木~中島

旧 太田川鉄橋は可部街道の橋梁に並行して架けられ、前後に急曲線があったが、河川改修に伴い、1953年に鉄橋が移設され、曲線も緩和された。

Blog_kabesen_map4
(左)1925(大正14)年図。旧 太田川鉄橋は可部街道の橋梁に並行
(右)1994(平成6)年および1977(昭和52)年図。河川改修で、鉄橋とその前後のルートが付け替えられた

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図広島(大正14年測図、昭和25年修正、平成6年部分修正測量)、祇園(大正14年測図、昭和25年修正、平成6年部分修正測量)、深川(大正14年測図)、中深川(昭和52年修正測量)、可部(昭和52年修正測量)、飯室(昭和53年修正測量)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 三江線お別れ乗車
 奥出雲おろち号で行く木次線
 ライトレールの旅-広島電鉄本線・宮島線

2017年12月19日 (火)

コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年11月5日、札幌は最低気温が4度まで下がった。昨日は曇り空に木枯らしが吹いて、道庁の庭に散り敷いた黄葉の絨毯を舞い上がらせていたが、今朝はもはや初冬の風情だ。札幌駅8時43分発の小樽行き普通列車に乗る。車内は混んでいて、途中駅での動きも少なく、結局ほとんどの人が小樽まで乗り通した。出口へ向かう人の波を見送って、私はさらに気動車に乗り継ぐ。

Blog_contour2601
初冬の積丹海岸、泊村茂岩にて

集合場所の余市(よいち)駅前には、堀さん、ミドリさん、河村さん、片岡さんがすでに到着していた。列車で来た真尾さんと私を加えて総勢6人。3台の車に分乗して、国道229号線を積丹(しゃこたん)半島西岸へ向かう。精力的に実施されてきたコンターサークルS道内の旅も、今年はこれが最終回になる。神恵内(かもえない)村の大森山道と泊(とまり)村の海のモイワが、本日の目的地だ。

Blog_contour2602
余市駅 (左)改築された駅舎 (右)駅前に集合した面々

Blog_contour26_map1
積丹半島の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

私は片岡さんの車に乗せてもらった。古平(ふるびら)からは、近道になる道道998号でトーマル峠を越える。半島を横断するこの峠道は標高が600m以上あり、周囲は早くも雪景色だ。神恵内(かもえない)で国道に復帰して海岸線を北上し、山際に道の駅が見えたところで、目指す大森トンネルに入った。2007(平成19)年に開通した新しいトンネルで、長さは2,509mある。

半島の海岸線をぐるりと回る国道229号は、夕陽のきれいな海景ルートとして人気が高い。反面、地形的には非常に厳しく、険しい断崖がどこまでも連なり、日本海の荒波に洗われている。そのため、1982(昭和57)年にトーマル峠越えのルートから指定替えされて以降も、国道はしばらく未完のままだった。最後まで残った積丹町沼前(下注)~神恵内村川白(かわしら)間が開通したのはわずか20年前、1996(平成8)年のことだ。

*注 沼前は、旧図に「のなまい」の読み仮名が振られているが、地理院地図によれば現在は「ぬままえ」と読むようだ。

大森トンネルを含む大森~珊内(さんない)間はそれ以前に道路が通じていたが、ルートには変遷がある。現ルートは3代目に当たり、その前は、南から順に旧 大森トンネル、大森大橋、とようみトンネル、ウエンチクナイトンネルとつなぐ旧道があった(下図の第2段参照)。旧道といっても、1985(昭和60)年開通の立派な二車線道だ。

Blog_contour26_map2
大森トンネル前後のルート変遷

ところが不幸なことにこの2代目は、2004(平成16)年9月に襲来した台風18号の波浪で途中の大森大橋が損壊し、通行不能になってしまう。12月に仮復旧した(上図第3段)が、最終的に、別途山側に掘ったトンネルを既存のウエンチクナイトンネルとつなげる形で、2007(平成19)年3月に現在の大森トンネルが完成して(同 第4段)、2代目ルートはあえなく廃道となった。

この新道、旧道に対して、初代の自動車道路は海際を避けて、標高約150mの高みを通っていた(同 第1段)。ルートはまず、大森集落の北のはずれで大森山の斜面をゆっくり上るところから始まる。断崖より上の山襞を4本の短いトンネルで貫いた後、キナウシ川の谷に沿って降下する。しかし、降りきる手前でキナウシ岬をトンネルで抜け、それからおもむろに海岸線に達する。それが、これから歩こうとしている大森山道だ。なお、旧版地形図には、それより古い山越えの徒歩道が描かれており、こちらを山道と呼ぶべきかもしれないが、それは別の課題として…。

Blog_contour26_map3
現行の地理院地図(1:25,000、2017年12月取得)に、歩いたルートを加筆
Blog_contour26_map4
上記と同範囲の1:25,000地形図、2005(平成17)年および2006(平成18)年更新
大森大橋が仮復旧していた時期のもの。図には、ウエンチクナイトンネルの延長によって廃止された2代目ルートの痕跡が残っている。

私たちは、大森トンネルを出てすぐの空き地に車を停めた。山を下ってきたキナウシ川が海に注ぐ場所だが、高い防波堤に遮られて、道路から海はまったく見えない。向いには次のキナウシトンネル(長さ1,008m)が口を開けている。

面白いことにキナウシトンネルは、先代、先々代と3代のポータルが斜面に仲良く並ぶ。大森トンネルの北口が旧 ウエンチクナイトンネルのそれをそのまま利用しているのに対して、キナウシトンネルは、ルートが変わるたびに新たに掘られたからだ。供用中の3代目(2002(平成14)年竣工、2003(平成15)年開通)に対して、その海側で完全封鎖されているのが2代目、上方の、バリケードがあるものの本体は無傷なのが初代のトンネルだ。

Blog_contour2603
3代のキナウシトンネルが並ぶ光景
現 3代目トンネルの左に封鎖された2代目、上方に初代が残る

時刻は12時少し前。このとき神恵内の気温は6.8度だったのだが、海辺は強い風が吹き付けていて、体感温度はもっと低い。「寒いのは苦手です」という堀さんはミドリさんの車に残り、あとの5人で旧道のようすを探りに出かけた。

現行の地理院地図には描かれていないが、2010(平成22)年3月完成の大きな砂防ダムが谷をまたいでいる(下注)。そのため、山道の新道接続部は完全に消失していた。ミドリさんがさっさとダムの脇の法面をよじ登っていったので、私たちも草をかき分けながら後を追う。幸いにもダムの上流ではもとの山道が残っていた。轍の跡以外はススキその他の丈高い草が茂っているが、冬枯れしていて歩くのに支障はなさそうだ。

*注 上図では、3か所のダムの概略位置を加筆した。

いったん車のところまで下りて、作戦会議を開く。日の短い時期で、全線踏破するには時間が足りないことから、目標を山道のトンネルの現況確認に絞ることになった。

Blog_contour2604
(左)砂防ダムで付近の山道は消失 (右)ダム側からの眺め
Blog_contour2605
(左)砂防ダム上方、海岸へ降りる道と初代キナウシトンネル方面への分岐点
(右)冬枯れの山道をたどる

Blog_contour2606

堀さんは、過去に二度、サークルのメンバーとここを訪れている。最初は1989年5月と8月で、『忘れられた道-北の旧道・廃道を行く』(北海道新聞社、1992年)の冒頭にそのレポートがある。新道への切り替えから4年後だが、掲載写真で見る限り、足元に雑草は生えているものの、路面はいたって明瞭だ。

二度目は12年後の2001年5月で、自費出版の『北海道の交通遺跡を歩く』(コンターサークル、2003年、p.60~)に出てくる。堀さんの記憶では、このときもまだ普通に通れたそうだ。

山道が寸断されたのは、主に砂防ダム工事が原因だろう。歩いていくと、キナウシ川を渡る最初の橋は問題がなかったが、上流にある砂防ダムの手前で道は途切れてしまい、少しの間、藪をかき分けながら、あるかなしかの踏み分け道をたどらなければならなかった。

Blog_contour2607
上流の砂防ダム。左は帰路写す

さらにその先、第二の橋のあるところでは川筋が移動していた。橋の下を流れていたはずのキナウシ川が、橋の手前を横切り、そのために山道がまるごと流失していたのだ。「昭和35年10月竣工」の銘板をもつ親柱が残っているとはいえ、橋はもはや何の役割も果たしていない。川にはそれなりの水量があったが、山歩きに慣れている片岡さんが、川幅が最も狭まるところを見極めて、ひょいと渡った。私たちも後に続き、足を濡らしながらもどうにか難所を通過した。

Blog_contour2608
第二の橋
(左)川筋の移動で山道が流失。奥に見えるのが山道の続き
(右)沢渡りの場所にあったハクション大魔王の壺?

そのあとは再び歩ける道になった。枯草と落ち葉に覆われているものの、もとの道幅がわかる程度に空いている。第三の橋は欄干こそ壊れていたが、路面は無事で、「キナウシ」と川の名を記した看板が道の脇に埋もれていた。ここで谷を折り返して、今度は左岸の斜面を上っていく。川際と沢の横断で2か所流されていたのを除けば、道は谷沿いよりはるかに原形をとどめていた。崖に張られた防護ネット、ガードレール、カーブミラー、道路標識、砂箱と、置き去りにされた現役時代の証人が次々と現れて、私たちを喜ばせる。

いくつか切通しを抜けたところで、枯れ枝越しに白くかすむ海原が俯瞰できた。ずっと上り続けてきて、標高はすでに130~140mある。

Blog_contour2609
道のない斜面を横渡り(第三の橋の直後)
Blog_contour2610
切通しは当時のまま残る
Blog_contour2611
現役時代の証人 (左)防護ネットとガードレール (右)曇りなきカーブミラー

やがて、目指していたウエンチクナイ4号トンネルが視界に入ってきた。近づくと、コンクリート製のしっかりしたポータルで、内部も荒れておらず、30年以上も放置されていたとは思えない。河村さんがトンネル名称を記した看板が落ちているのを見つけて、撮影用にセットする。最も長い4号がこれだけしっかり残っているのなら、残り3本の状況も期待できそうだ。しかし、復路に必要な時間も考えて、今回は4号の南口を確かめただけで引き返した。

Blog_contour2612
ウエンチクナイ4号トンネル北口

戻りがてら、初代キナウシトンネルの様子を見に行った。ポータルの仕様は4号トンネルと同じなので、同時期に一連の工事で造られたものだろう。北口はオーバーハングした断崖の真下で、頼まれても長居はしたくないような場所だった。崖下に沿って草に覆われた狭い段丘のような地形が続いていたが、山道の跡なのか、それとも2代目道路の覆道の屋根なのか、判然としない。

Blog_contour2613
(左)海に臨むキナウシの断崖 (右)初代キナウシトンネル北口

車に戻ったのは15時に近かった。堀さんを残して2時間半も出かけていたことになる。ミドリさんが「長い間、車に閉じ込めてしまって」と謝ると、堀さんは笑って「いや、かえってその間、開放してもらったようなもんです」。

持参した軽食でとりあえず空腹を満たしてから、次の目的地、泊村の茂岩(もいわ)へと車を進めた。それは長いトンネルを出た先にある小さな浜集落で、正面の海岸に兜をかぶったような形の大きな岩山が鎮座している。弁天島と呼ばれるが、「茂岩の名はここから来ていると思います」と真尾さん。アイヌ語でモ・イワは小さい山を指し、さらにイワには神聖な山という含みがある。今は弁天様(弁財天)にすり替わってしまったが、アイヌの人々もこの孤高の岩山に神が宿ると考えたのだ。

Blog_contour26_map5
茂岩周辺の1:25,000地形図、2006(平成18)年更新。青円内が弁天島

おりしも低く垂れこめた雲の間から太陽が顔をのぞかせ、鉛色の海原を朱く照らし出した。傍らに立つ神の岩が、そのシルエットをひときわ濃くする。夕陽のきれいな積丹半島が見せてくれた最後の挨拶。目の前に広がる荘厳なメッセージに、私たちは寒さも忘れて、しばらくその場に立ち尽くしていた。

Blog_contour2614
海原を照らす夕陽と神の岩のシルエット

掲載の地図は、国土地理院サイト「地理院地図」、国土地理院発行の2万5千分の1地形図珊内(昭和51年修正測量、平成17年更新)、ポンネアンチシ山(昭和51年修正測量)、神恵内(昭和51年修正測量、平成18年更新)、20万分の1地勢図岩内(平成18年編集)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点

2017年12月10日 (日)

コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点

本日のテーマは3つの都府県が境を接する地点、いわゆる3県境会合点だ。こうした会合点は全国で48か所(和歌山県の飛び地に関する4か所を含む)を数えるが、ほとんどが山中か、そうでなければ水面上にある。行政界は稜線や川など自然の境界に設定されることが多いから、当然だろう。一昨年訪れた京都・大阪・奈良の会合点などはまだ到達が容易なほうだったが、それでも藪蚊の猛攻撃をかわしながら、雑木の茂る里山に分け入る必要があった(下注)。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-京阪奈3府県境会合点」参照。

ところが全国で唯一、平地の会合点も存在する。栃木・群馬・埼玉3県境のそれだ。渡良瀬(わたらせ)遊水地近くの田んぼの中に、その旨を示す標識杭が打たれているという。本日10月9日はまずここを目指し、周辺を歩く予定だ。ついでに近辺にある茨城・栃木・埼玉の会合点、さらに茨城・埼玉・千葉の会合点(どちらも川の中)にも足を延ばそうと思う。

Blog_contour2501
三県境界に設置された測量標。中央の+の位置が会合点

Blog_contour25_map1
古河周辺の1:200,000地勢図に訪問地点を加筆

東北本線(宇都宮線)の古河(こが)駅西口で、真尾さんのレンタカーに拾ってもらった。参加者はこの二人だけだ。古河の旧市街を抜け、渡良瀬川に架かる三国橋を渡って右へ。見通しのいい渡良瀬遊水地の堤防道路を北上する。昨日から続く好天で、青空がまぶしい。

この道は県道9号佐野古河線(下注)だが、県境を次々と越えていくことで知られている。三国橋の上で茨城県から埼玉県に入るが、約3kmで栃木県に移り、さらに群馬、埼玉、群馬、栃木と目まぐるしく変わる。ご丁寧にも、境界をまたぐたびに県名と市町村名を掲げた道路標識(白看)が立っている。道路は気持ちよく伸びているので、県境のほうが複雑に入り組んでいることがわかるが、なぜこんなことになったのだろうか。

*注 加須市柏戸~古河市街(本町二丁目交差点)間は国道354号線と重複している。

Blog_contour2502
県道9号佐野古河線を北上
遠方に「道の駅きたかわべ」の特徴的な建物が見える区間で県名標識が林立する
(左)栃木県栃木市 (中)群馬県板倉町 (右)道の駅の入口で再び埼玉県加須市
Blog_contour2503
道の駅施設の屋上から望む渡良瀬遊水池(谷中池)

下図で、この周辺の今昔を比較してみよう。左は今から110年前、1907(明治40)年の5万分の1地形図を拡大したもの、右は現行1:25,000地形図だ。左図では北西から流れてきた渡良瀬川に、西から谷田川(やたがわ)が合流している。渡良瀬川はこのあたりで大きく蛇行しており、「海老瀬(えびせ)の七曲り」の呼び名があった。3県の境界は川の流路上に設定されていたので、川の合流地点がすなわち3県境会合点だった。

1910(明治43)年から、洪水制御の名目で渡良瀬川の大規模な改修工事が始まり、1918(大正7)年に現在の東寄りの流路に付け替えられた。蛇行していた旧流路は、後に遊水地の造成工事で出た土砂を盛って、耕作地に整備された。しかし、県境は変更されなかったので、結果的に、県境を堤防道路が串刺しするような状況が出現したのだ。3県境会合点が田んぼの真ん中に残されたのも、同じ理由だ。

Blog_contour25_map2
栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大
(右)1:25,000地形図(平成29年)。いずれも県境を赤のマーカーで強調。現在の県境が旧河道をなぞっていることがわかる

車の行く手に、「道の駅きたかわべ」の建物が見えてきた。きたかわべ(北川辺)は、加須(かぞ)市に合併する前の旧町名だ。目的地に近いので、車を停めさせてもらう。連休中とあって、お昼前でも駐車場は満車寸前で、特産品売り場もよく賑わっている。建物の屋上に出て、広々と明るい遊水池(谷中池)の展望を楽しんだ後、いよいよ県境探索に出発した。

実は真尾さんは、すでに二度ここを訪れている。初回は個人で、二回目は2014年10月11日に堀さんを含むコンターサークルのメンバー5名とともに。「あのときも会合点には行ったんですが、周りの入り組んだ県境は歩いてないんです」。再々訪の目的はそれを貫徹することだ。私は私で、前回の旅を仕事の都合で欠席したので、初の踏査を楽しみにしている。

■参考サイト
コンターサークルS前回の訪問記「関東内陸の3県境を訪ねる」
https://ameblo.jp/chizumania/entry-12006028049.html

Blog_contour2504
道の駅から3県境会合点を望む。県境を白線で加筆

Blog_contour25_map3
栃木・群馬・埼玉3県会合点周辺の1:2,500都市計画基本図に加筆
画像は105dpi相当。加須市刊行図のため、空白となる他市町域は1:25,000地形図で補った。図中のA~Iは以下の写真の撮影位置

「境界を歩くために、秘密兵器を用意してきました」と、私は加須市の1:2,500都市計画基本図(上図)を広げた。これなら、1:25,000地形図で描ききれない田んぼの畦道や細かい水路もしっかり載っている。地図に従って、道の駅の南側の法面を降りた。小道の脇に県境が走っているはずだ。しかも、北西に埼玉、南東に群馬という地理感覚を混乱させる配置なので、二人で交互に2県を股にかける記念写真を撮った。このユニークな県境は、畦道にはさまれた溝となってさらに南へ250m続く。途中、溝の北西側に「北川辺町」の標石を見つけた。

Blog_contour2505
サイクリストが県境を越える(背景は渡良瀬遊水池(谷中池)、上図のA地点)
北西に埼玉県、南東に群馬県(!)
Blog_contour2506
埼玉・群馬県境
(左)右足は群馬、左足は埼玉に(B地点) (右)県境の北西側に旧 北川辺町の標石

車道に接近する一歩手前、コスモスが風に揺れる草道と出会う地点で、県境は東へ向きを変える。さっきよりはやや深い水路に沿って200m弱進むと、県境は、東西に延びる新設の街路と二度クロスする。この街路の南側にはみ出した部分は、三角形の公園に整えてあるのがおもしろい(下注)。さらに草をかき分けながら住宅裏の畦道をたどっていくと、目標の地点が見えてきた。

*注 1:25,000地形図ではこのはみ出し部分を長く描きすぎている。会合点の位置もあいまいだ。

Blog_contour2507
埼玉・群馬県境
(左)南北に延びる農道の右側が県境(C地点)
(右)群馬県域に含まれる三角公園(D地点)

変哲のない田園地帯というのに、何人か先客の影がある。それもそのはず、今やこの3県境会合点は、にわか観光スポットになっているのだ。道の駅には案内パンフレットが置いてあったし、私たちがここに滞在した短い間だけでもグループが2組現れて、順番に写真に収まっていた。自撮り用にと、スマホやカメラを置く台まで作ってある。

Blog_contour2508
(左)県境の水路の先の会合点には先客が(E地点)
(右)道の駅にある3県境のPRコーナー

当の会合点は、小さな水路がT字状に交わる地点で、水路の中に「三県境界」と刻まれた測量標が設置されている(冒頭写真)。水準点に使われるのと同様の、金色に光る立派なものだ。「地元の方が作った立札は3年前もありましたが、測量標はなかったですよ」と驚く真尾さん。パンフレットには、昨年(2016年)1月から3月にかけて県境の改測が実施され、その際に、ここで以前入れられたと思われる杭が発見されたとある。この測量標はそれに代わるものらしい。しかし見物客にとっては、溝に隠れた測量標より、目立つ手製の立札のほうがむしろいいようだった。

Blog_contour2509
栃木・群馬・埼玉3県境会合点

私たちは会合点から延びる小水路、すなわち栃木・埼玉の県境を東へたどることにした。渡良瀬川の旧流路をなぞっているから、緩く左にカーブするのはわかるが、なぜか栃木側がやや高い。住宅の裏を縫うようにして進むと、堤防の手前で資材置き場のフェンスに阻まれた。この平行四辺形の造成地は2県にまたがっている。

次に堤防下の側道を遡上し、栃木・群馬県境となった旧流路跡の小水路に沿って、会合点に戻った。さっきいた人たちとは別のグループが来ている。なかなかの人気だ。通りがかりの人の話では、3県境がマスコミにも取り上げられた去年はもっと多かったらしい。

Blog_contour2510
栃木・埼玉県境
(左)こちらも小さな水路が県境(F地点) (右)集落入口、堤防際に建つ祠(G地点)
Blog_contour2511
栃木・群馬県境
(左)カーブミラーには藤岡町(現 栃木県栃木市)と記載。道路標識は群馬県板倉町(H地点)
(右)栃木・群馬県境の小水路をたどって会合点に戻る(I地点)

一つ目の会合点と県境探索を完遂した私たちは、道の駅に戻って、次の目的地である茨城・栃木・埼玉3県境会合点へ車で移動した。県道9号を古河のほうへ戻り、遊水地と渡良瀬川を区切る堤防の水門脇に出る。会合点があるのは渡良瀬川の水面上だ。河川改修以前は、ここで渡良瀬川に思川が合流していた。旧版地形図(下図左)に描かれたとおり、三国橋はこの場所に架かり、文字通り下総(下注)、下野、武蔵の三国を渡っていたのだ。堤防の天端に立つと、対岸のゴルフ場と古河市街が望めるが、その手前にあるはずの肝心の水面は、ススキその他背の高い草の陰に隠れて、ほとんど見えなかった。

*注 古河(旧 猿島郡古河町)は茨城県だが、下総国に属する。

Blog_contour2512
遊水地堤防から茨城・栃木・埼玉3県会合点を望む
しかし会合点のある水面はほとんど見えない

Blog_contour25_map4
茨城・栃木・埼玉3県会合点周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

三つ目の会合点へ赴く途中、加須市伊賀袋(いがぶくろ)に残された河跡湖(三日月湖)に寄り道した。渡良瀬川の旧河道で、ふれあい公園の名で周囲と併せて整備されている。湖といっても泥に覆われてまるで干潟のようだが、申し訳程度に流れる水でも、逆光で眺めると、悠然たる大河の気配を漂わせるから不思議だ。「渡良瀬川本流だったときは、ここに県境が通ってたんです」と真尾さん。確かに、遊水地周辺とは違って、県境が新しい渡良瀬川に沿っている。かつて茨城県(猿島郡新郷村)だった伊賀袋は、河川改修後の1930(昭和5)年、地続きになった埼玉県(北埼玉郡川邊村)に編入されたのだ。

Blog_contour2513
公園に整備された伊賀袋の河跡湖

Blog_contour25_map5
伊賀袋周辺の地形図
(左)1:50,000地形図(明治40年)を2倍拡大 (右)1:25,000地形図(平成29年)

国道354号線を東へ進み、境大橋で利根川を渡って、かつて水運で栄えた関宿(せきやど、現 千葉県野田市)へ。江戸川沿いに建つ関宿城博物館で、河川改修の歴史展示を見た後、茨城県五霞(ごか)町へ回って、江戸川の堤防の上に立つ。茨城・埼玉・千葉の会合点はかつて権現堂川、逆川、江戸川の合流・分流点だったところで、今も江戸川の水面上だ。最高気温26度と10月にしては暑い一日だったが、さすがに堤の上は心地よい風が吹き通っている。合流点の向こうに顔をのぞかせる関宿城の模擬天守、そのちょっと意外な構図をカメラに収めて、本日の全行程を終了した。

Blog_contour2514
江戸川の中の茨城・埼玉・千葉3県会合点。正面奥に関宿城博物館の模擬天守

Blog_contour25_map6
茨城・埼玉・千葉の会合点周辺の1:25,000地形図(平成11年)

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図古河(平成29年8月調製)、下総境(平成11年修正測量)、宝珠花(平成11年修正測量)、5万分の1地形図古河(明治40年測図)、20万分の1地勢図宇都宮(平成22年修正)および加須市都市計画基本図No.2(縮尺1:2,500)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年12月 4日 (月)

堀淳一氏を偲ぶ

物理学者、地図エッセイストであり、コンターサークルSの創始者でもある堀淳一さんが、2017年11月15日、冥界へと旅立っていった。

実は堀さんには、11月初旬に北海道でお目にかかったばかりで、5日はコンターサークルSの旅で積丹半島に出かけ、翌6日はご自宅に伺って地図談議に花を咲かせた。1926年生まれの御年91歳だが、頭脳は常に明晰で、収集した膨大な数の地図を肴に、四方山話はいつまでも尽きなかった。

それだけに、亡くなったと聞いても俄かに信じることができなかったのだが、先日サークルのメンバーと最後のお別れに参列したことで気持ちに区切りがついた。私が堀さんの面識を得てからまだ4年足らずだが、『地図のたのしみ』(下注)以来の読者だったこともあり、敬愛する著者の最晩年に接した思い出を少し語ろうと思う。

*注 『地図のたのしみ』は1972年初版で、日本エッセイストクラブ賞受賞作。私の手元にあるのは1973年1月発行の9版。

初めて生身の堀さんに会おうという気になったのは、私が所属していた海外鉄道研究会の席で、先輩会員のNさんが「今度、堀さんが関西に来ますよ」と声をかけてくれたのがきっかけだ。NさんはコンターサークルSの会員でもあり、私が堀さんの本を読んでいることを知っていた。

ずっと後で堀さんに、なぜもっと早く現れなかったのか、と問われたことがある。コンターサークルSの活動のことは知識があったものの、北海道が活動拠点で、メンバーも道内の人たちなのだろうと、漠然と考えていたというのが唯一の理由だ。実際には本州在住のメンバーも多数いて、本州を巡る旅では主に堀さんとその人たちが動いている。

Nさんからもらった旅程表は、堀さんの自筆だった。このときはまだ堀さん自身で旅のテーマを決め、列車でアプローチする場合の集合場所と時刻を書いたものを、メンバーに送っていたのだ。その記述に従って、2014年のゴールデンウィークのさなか、京都北部の東舞鶴駅へ一人で出かけた。

サークルの旅に参加するのに事前連絡は不要で、誰が来るかは当日その場でないとわからない。私にとっては著書にある小さな顔写真の記憶だけが頼りだが、白い顎鬚を伸ばした仙人のようないでたちで改札を出てこられたので、難なくわかった。その後のことはブログ(下注)に書いたとおりで、この日はたまたま他に同行者がなく、堀さんと二人行という、長年のファンにとっては夢のような旅になった。

*注 本ブログ「コンターサークル地図の旅-中舞鶴線跡」に記述。

舞鶴へ行った翌日の旅は、滋賀の百瀬川扇状地が舞台だった(下注)。ここで以前からのサークルメンバーとも初めて会うのだが、私はこの川の上流の河川争奪について書かれている『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水』(東京書籍、1996年)を持参して、ちゃっかりサインをもらったのを思い出す。帰りは、堀さんが宿をとっている近江八幡まで電車でご一緒した。現地へ車で来るメンバーも多い中で、堀さんと私は基本的に列車移動なので、以降の旅でも行き帰りの車内で話をする時間がたっぷりあった。

*注 「コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地」に記述。

そうした機会に、ずっと疑問に思っていたことを聞いたことがある。「文章の中に色の名前がたくさん出てきますが、あれは現地でメモしておられるんですか」と。堀さんが言うには「いや、撮ってきた写真を後で色名事典で照合しながら書いてるんです。赤、黄、緑だけではおもしろくない。緑色と言ってもいろんな緑がありますからね。それを書き分けたいので」。その答えに、目にした情景を正確に表現するという信念を見た気がしたものだ。

堀さんの文章は、地元北海道を題材にしたものが圧倒的に多い。その雰囲気を味わいたくて、道内の旅にも何回か参加した。昨年5月に行ったときは、旅の前日に二人で、環状線化された札幌市電に乗り(下注)、行きつけのレストランで昼食をとった。食後に紅茶を注文した堀さんは、飲む前に砂糖をスプーン3杯注いだ。驚いている私に、「『先生、入れ過ぎでは?』とウェイターが言うんで、『市販のジュースはもっと砂糖が入ってるよ』と言い返したことがあるんです」と笑った。

*注 「新線試乗記-札幌市電ループ化」に記述。

渡道のもう一つの目的は、堀さんの地図コレクションを拝見することだった。堀さんは北大で教鞭をとっていた時代から幾度もヨーロッパを訪れ、その都度気に入った地形図や市街図を買い集めている。日本でも輸入地図を扱う専門店(東京・広尾にあった内外交易など)へよく通ったそうで、「行くと、店の人が私のためにいろいろとおもしろい地図を取り置いてくれてました」と語っていた。

『地図のたのしみ』(p.51~)によれば、堀さんが外国地図の魅力に捕えられたのは、イギリスの1マイル1インチ地形図を手に入れた1961年のことだ。その後、国際学会で初めて海外出張する1963年前後から、収集に本腰を入れるようになった。私が堀さんの本に影響を受けて外国地図に熱中し始めたのは1990年ごろなので、その1世代前の旧版図が揃っている。

北大近くにある堀さんの仕事部屋は、書籍と地図でほとんど埋め尽くされていた。外窓に面して書き物机が置かれ、その周りだけがかろうじて空いている。ここにはあまり来客を入れないという堀さんは「これでも片づけたんですが、半分でいやになっちゃった」と言い訳されたが、私にはその心遣いだけでもありがたかった。

『地図を歩く』(p.24~)でも紹介されているように、日本の地形図はきれいに折り畳んで図名を記し、引き戸のキャビネットに20万分1図、図番(1~16)、作成年の順で並べてある。一方、日本の市街図や外国地図はジャンル別、国別に仕分けして赤茶色のデスクトレーに収め、それをスチール棚に縦重ねしてあった。同じような箱積みが奥にもあるのがちらと見える。「蓋に青いラベルが貼ってあるのが外国図です。緑は北海道関係かな。三層になってるので、奥にあるのはもう取れなくなってます」。

その日は、イギリスとアイスランドの地形図に絞って見せてもらったが、それでさえ相当な数だった。イギリスは主に1インチ図の第7エディションや1/4インチ図の第5シリーズ、アイスランドはデンマーク時代の手描き感溢れる旧図のオンパレードだ。そして、私が「これいいですね」と言うたびに、地図に描かれた土地にまつわる堀さんの思い出話が次々と出てくる。それを伺いながら見ていたら、いつのまにか夕方になっていた。

それからも何度か部屋におじゃましたが、いつもデスクトレーを二、三箱開けるだけで午後の時間が過ぎてしまう。直近の11月6日は、イタリアなど南欧の地図を拝見した。「イタリアの古い地形図は記号が美しいでしょう?」と堀さん。「そうですね、さすが芸術の国だと思います」「ええ、文字も洒落てるんですよ」「この書体ですね、平ペンで書いたような…。イタリアって一見大雑把かなって思うんですけど、結構細かいんですよね」「細かいですよ。果樹の記号なんか、やたら細かく分類されてる」「そういうものに愛着を持っているんでしょうね」。そんなやりとりを日がな一日していたのだ。

「山下さんのお好きなスイスの地形図も結構あるはずです」というので、奥のほうのデスクトレーも確かめてみたが、見つからない。あちこち探し回った挙句、もしやと、椅子の後ろに積まれた段ボール箱の一つを開けてみると、中に目標の品が山盛りになっていた。「ああ、ここでしたか。灯台下暗しだな。見ますか?」 しかし、そろそろ夕食の時間だった。次回来た時にこの続きを見せていただくことにして、いつもの店へ食べに出る。そこでも長話をした後、別れ際に「次来るのはいつです?」と聞かれたので「雪が融けたころに必ず参ります」と答えた。それが、堀さんと交わした最後の言葉になった。

「はじめての土地を、誰にも道を聞かずに、気の向くままのびのびと歩き回るのは、大変気分のよいものである。その土地をよく知っている人間と思われて、人に道を尋ねられたりすれば、なおさらのことである。」「これを可能にしてくれるのが地図である。地図さえ持っていれば、どんな道の土地でも、自由に歩き回ることができ、思うところへ行くことができる。」(『地図から旅へ』p.106)

堀さんにとって、地図は知らない土地への道案内であるとともに、歩いた道の記憶装置でもあった。旅の詳細を忘れていても、そのとき携行した地図をもう一度開けば、情景をありありと脳裏に蘇らせることができる。行き帰りの列車の中で、あるいは仕事部屋で、記憶装置から引き出された話を心行くまで伺うことができたのは本当に幸せだった。しかし、未見の地図はまだまだ棚の間に眠っていて、それと同様、聞き出せなかったこともたくさんあったはずだ。

来年からコンターサークルSの旅に、堀さんの姿はない。でも、きっといつものように地形図を手にしながら、空の上から私たちの旅に参加されるだろう。おあずけになった話の続きはそのときに聞くことができるかもしれない。

2017年11月30日 (木)

コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡

今日も宇都宮駅東口で待ち合わせた。中心街とは反対側で、空き地が目立つ東口だが、LRTの着工を来年に控えて、ストラスブールのシタディスをモデルにした大きな看板が立てられている。富山市のようなスマートな都市装置の始動を期待しながら、今の風景を写真に収めた。地図の旅2日目の10月8日は、黒磯の晩翠橋(道路橋)を見るとともに、東北本線(以下 東北線)の旧線跡をたどりながら北上する。

Blog_contour2401
宇都宮駅東口に立つLRT計画推進の大看板

参加者は堀さん、真尾さん、大出さん、石井さん、中西さん、私の計6人。堀さんはいつものとおり石井さんの車に、他のメンバーは真尾さんのレンタカーに分乗して、国道4号線を北東へ向かった。

最初の目的地は、東北線の鬼怒川(きぬがわ)橋梁だ。上野から順次延伸されてきた日本鉄道、現在の東北線は、1886(明治19)年10月1日に宇都宮~那須(現 西那須野)間が開業している。このときのルートは宇都宮からほぼ北へ直進するもので、氏家(うじいえ)の西方で、東西に分流していた鬼怒川を渡っていた(下注)。ところがこの川は暴れ川で、大雨のたびに氾濫しては線路に多大な被害を与えた。そのためルートは1897(明治30)年に早くも放棄され、現在の宝積寺(ほうしゃくじ)経由に付け替えられたのだ。

*注 後年、河川改修で東鬼怒川が鬼怒川本流となり、西鬼怒川は川幅縮小の上、水路化された。

水害の教訓から、新しい橋梁は、東の宝積寺台地と西の岡本台地が接近して、鬼怒川低地が最も狭まる地点を選んで架けられている。東西鬼怒川がすぐ上流で合流しているので、橋梁が1本で済むという点でもベストな渡河地だ。現在は上下線がそれぞれ単線橋で渡る。明治の橋梁はとうに姿を消し、現在上り線が使っているのが、跡を継いで1917(大正6)年に完成した2代目だ。

Blog_contour24_map1
鬼怒川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆。薄茶色に着色した部分が台地

私たちは国道4号線の新鬼怒川橋を渡り、東北線を乗り越したところで狭い脇道に入った。車を降りて護岸上の踏み分け道を少し行くと、2本並ぶ鉄橋の袂に出られる。上り線橋梁は南側で、頑丈そうな煉瓦積みの橋脚に、ポニーワーレントラスと呼ばれる小型のトラス桁が載っている。下り線の、スマートだが冷たげなコンクリート橋との対比で、リベット打ちのレトロな機能美がひときわ目を引く。

Blog_contour2402
東北線鬼怒川(きぬがわ)橋梁。左が上り線のワーレントラス橋

橋脚はよく観察できるのだが、浅い角度のため橋桁の眺めは今一つだ。それで引き返して、国道橋の歩道へ回り、側面から鉄橋の全貌を眺めることにした。横構のない小型トラスは古風なスタイルだが、背景に広がる那須の山並みを遮らないのがいい。コンテナを連ねた長い貨物列車が、ジョイント音を高く響かせながら走り去るのを見送る。

Blog_contour2403
国道橋からの眺め

じっと眺めていた石井さんが「なぜ一番右のトラスだけ白いままなんでしょうね」と聞く。誰も答えないので、「塗り直さないでいつまで持つか実験しているのでは」と私。「持つなら塗らずに済まそうってこと?」「そうかも…」。本当のところは塗装作業の途中だったのかもしれない。

次の目的地は黒磯なので、しばらく4号線をドライブする。市街地をバイパスして、那珂川(なかがわ)のたもとに車を付けた。

Blog_contour2404
黒磯の晩翠橋のたもとに到着

Blog_contour24_map2
晩翠橋周辺の1:25,000地形図に加筆

晩翠橋(ばんすいきょう)は、旧国道4号(現 県道55号西那須野那須線)が那珂川を渡る地点に架けられた道路橋だ。初代の橋は、栃木県令に就任した三島通庸(みしまみちつね)が新陸羽街道整備の一環で1884(明治17)年に造らせたもので、木造だった。今より約70m上流にあり、大水で損壊しては、その都度架け直された。現在の橋は実に5代目で、1932年(昭和7)年に、世界恐慌に伴う失業対策で実施された国道の改良工事に合わせて建設されたものだ。

昭和の晩翠橋は、取付け道路を含めて画期的な設計で水害に対する強度を高めている。三島の旧橋は、扇状地面に載る黒磯の市街地から一段下がった位置(低位段丘面)で対岸に渡されていた。対する新橋は市街地から築堤を延ばし、道路はほとんど勾配なしで橋に達する。そのため橋面は、水面から23mの高さになった。さらに、流路に橋脚を立てずに済むアーチ構造を採用し、全長126.0m、中央径間70m(下注)の、大規模で景観的にも優れた橋梁が誕生したのだ。

*注 数値は、現地の案内板による。

Blog_contour2405
(左)初代~第4代の写真(現地案内板を撮影) (右)現 晩翠橋を川べりから見上げる

橋の南のたもとに、大きな写真入りの案内板があった。考えてみれば、いくら立派な橋梁を造っても、このように上路アーチの場合、通行人の目に入るのは欄干と路面だけだ。全体像は、側面から見て初めて理解できる。私たちもそうしたいと思ったが、それには下の河原に降りる必要がある。右岸の河原に停車している車や人影が見えるから、行けるのは確かなようだ。

しかし、実際にたどり着くのは一苦労だった。地理院地図に描かれている橋の300m北側の小道は柵で塞がれていて、車を進めることができなかったのだ。方々探し回ったあげく、石井さんがグーグルマップで橋の南側に別の道を見つけて、ようやくたどり着く。せっかくライトアップまでして橋を観光につなげようとしているのに、鑑賞する場所への道案内を欠くのは不備ではないか。

ともかく、水際から勇壮な鋼橋を見上げることができた。この構造はバランスドアーチといって、アーチを連続させることで、中間の2つの支点にかかる力(水平反力)を相殺する。もちろん見た目にも美しく、この角度から眺めると、まるで白鳥が翼を広げて大空に飛び立とうとしているかのようだ。

Blog_contour2406
翼のように広がるアーチが緑の渓谷を横断

「そろそろお昼にしましょうか」と真尾さんが皆に声をかけた。ベンチや土手の段に思い思いに座って、持参の昼食を開けようとしたら、堀さんが「昼食を買ってくるのを忘れちゃったな」と言う。しかし、心配する必要はなかった。「おにぎりありますよ」「私のアップルパイもどうぞ」と差し出されたもので、たちまち1食分が揃った。みんな優しい。

それから、400mほど下流に架かる東北線の橋梁を見に行った。鬼怒川橋梁と同じで上り線が古く、1920年竣工の上路プラットトラスが架かっている。下り線はコンクリート橋だが、初代のものとおぼしき煉瓦造の橋台が残っていた。カーオーディオのボリュームを全開にしてキャンプもどきを楽しんでいる若者たちの傍らで、新幹線と3本並んだ鉄道橋を写真に収める。

Blog_contour2407
少し下流に架かる鉄道の那珂川橋梁
手前から東北線上り線、同 下り線、東北新幹線

那珂川河畔を後にして、私たちは東北線の旧線跡をたどりながら北上した。同線の黒磯~郡山間は、1887(明治20)年に開業している。黒磯と白坂の間では、那須火山群からの泥流に覆われた起伏の多い土地を横断するため、曲線とともに随所に25‰の急勾配が必要になった。第一次世界大戦後、輸送力の逼迫から東北線では複線化を含む大規模な改良工事が実施され、1920(大正9)年にこの区間は、勾配を緩和した新線に切り替えられた。それに伴い残されたのが、20km近い旧線跡だ。

Blog_contour2408

堀さんの著書『地図を歩く』(河出書房新社、1974年、p.232~)にこのことが詳述されている(下注)。今でこそ廃線跡探索は鉄道趣味の一ジャンルとして確立しているが、おそらくその先駆けとなったのが『地図のたのしみ』や本書に収録されたレポートだ。私もこれで、地形図と照合しながらルートの変遷を追うという楽しみ方を知ったので、読み返せば懐かしい。

*注 2012年刊の『地図を歩く』新装新版ではp.220以下。

晩翠橋の少し先の瀬縫交差点を右折して、県道211号豊原高久線へ。国道4号(黒磯バイパス)をくぐった地点から、道路は旧線跡に載り、上瀬縫の台地越えを再現している。車なら何でもないとはいえ、じわじわと上る坂道だ。新幹線を乗り越えて現在の東北線に突き当たると、道は旧線からそれて高久駅に並行する。そして駅の先で右折して、線路の反対側へ出ていた旧線跡に再び合流する。

Blog_contour24_map3
東北線 黒磯~大田原間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
Blog_contour24_map4
旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

まもなく、現在線と並行する気持ちの良い直線路に入った。「撮り鉄がいますね」と話しながら車を走らせていると、余笹川の手前で列車がこちらに向かってくるのが見えた。「あれ、四季島(しきしま)じゃない?」と真尾さんが叫ぶ。なるほど、撮り鉄さんはこれを待っていたのか。私たちも路側のスペースに車を寄せて、今年デビューしたばかりのクルーズ列車がしずしずと通過するのを見届けた。私のコンデジではぶれてしまったので、大出さんにもらった動画のキャプチャーが下の写真。

Blog_contour2409
黒田原駅南方でクルーズ列車「四季島」と遭遇
(大出さん撮影の動画からのキャプチャー)

黒田原の市街地では町役場などが並ぶ旧駅前の道の直線化が完了していて、ナビを間違えた。ここで旧線は坂を下っていき、泥流原の縁に黒川がつくった浅い谷に通路を求める。堀さんが訪れた1972(昭和47)年当時は、黒川の中に「レンガ造りの背の高い橋脚が、五〇年の風雪に耐えて屹立して」(同書p.239)いたのだが、すでに撤去され、二車線道路に姿を変えている。

しかし、まもなく改良区間が終わり、一車線の田舎道が現れた。おおかた刈取りを終えた田んぼの中を、左右に緩くカーブしながら続いている。黒川を再び渡ったところで、豊原駅へ寄り道することにした。新線への切替えと同時に、その間にあった黒田原、豊原の両駅も移転したが、なかでも豊原新駅は旧駅から南へ1.6kmも離れた丘の中腹に造られた。小さな無人の駅舎から跨線橋で島式ホームに渡る構造だが、果たして今どれだけの乗降客があるのだろうか。

Blog_contour2410
ひっそりとした現 豊原駅

Blog_contour24_map5
東北線 大田原~豊原間周辺の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
Blog_contour24_map6
旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

成沢集落を過ぎたところで、旧線跡の道路に戻る。40数年前は、「ススキが両側に伸び放題に伸びているデコボコの砂利道で、ときたま小型自動車が砂埃をまきあげて通るほかは、秋の日ざしをあびて静まりかえった、野趣あふれる道だった」(同書p.242)。さすがに舗装されたものの今も一車線のままで、堀さんが歩いたときと景色はほとんど変わらないだろうと思わせる。だが、対向車の数は確実に増え、それもけっこう飛ばしてくる。「廃線後も幹線のままですね」と真尾さんが笑う。信号のない一本道なので、抜け道に利用されているのかもしれない。

Blog_contour2411
黒川橋梁南方の旧線跡を転用した一車線道路を進む

Blog_contour24_map7
東北線 豊原~白河間の1:50,000地形図。赤のマーカーが旧線跡
Blog_contour24_map8
旧線の現役時代の1:50,000地形図(1907(明治40)年測図)

列車の撮影地として名高い黒川橋梁が見えてきた。丘の高みを伝ってきた現 東北線は、ここで黒川の広い谷を横断して、利根川水系と阿武隈川水系の分水嶺に向かう。橋梁は、上り線が長さ333.7mの堂々とした上路ワーレントラス橋で、下り線はシンプルなプレートガーダー橋になっている。

Blog_contour2412
堂々たる姿の東北線黒川橋梁

橋の下の空き地に車を停めた。せっかくだから、鉄橋を渡っていく列車を撮ってみたいが、旅客列車はさっき通ったばかりだ。「貨物列車が来るといいんだが。山下さんの神通力は効きませんか」。昨年、山陰本線の惣郷川橋梁へ行って以来、堀さんは、私に列車を呼び寄せる力があるのではと疑っている(下注)。しかし残念ながら、運はさっきの四季島との遭遇で使い果たしてしまったようだ。しばらく待ってみたものの、来ないものは来ない。

*注 惣郷川橋梁でキハ40系が通った話は「コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス」参照。

Blog_contour2413
(左)車を止めて待つも列車は現れず (右)地形図で経路を確認(大出さん撮影)

今日はよく晴れて、強い日差しが降り注ぐ。「ここにいても暑いので先へ進みましょう」と再び車に乗り込んだ。一車線道に出て、ちょうど鉄橋の真下を通っていたときだ。車内の話し声が突然、耳を聾さんばかりの轟音にかき消された。頭上を貨物列車が通過している。

「直下だと凄い音ですね。てっきり車が何かを引っ掛けて引きずってるのかと思いましたよ」と真尾さん。そのまま車を走らせようとしたら、中西さんが「大出さんを置いてきちゃった」と叫ぶ。私たちが轟音にたじろいでいる間に、列車を撮ろうと飛び出していったらしい。慌てて車を停めた。まもなく何喰わぬ顔で戻ってきた大出さん、うまく走行シーンを捉えることができたそうでよかった。

道はこの後、杉林の中を右にカーブを切りながら坂を上っていく。側面に、黒田原からの下り坂と同じような石垣が続いているので、同時期に整備したのだろう。やがて東北線下り線の踏切、少し離れて上り線の踏切を通過。それから廃線跡は緩やかなカーブで上り線に吸収されていき、本日の探索のゴールと決めた白坂駅に到達する。

Blog_contour2414
林の中の旧線跡道路

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図黒磯(平成13年修正測量)、宝積寺(平成13年修正測量)、5万分の1地形図大田原(明治42年測図)同(平成7年修正)、白河(明治42年測図)同(平成5年修正)を使用したものである。

■参考サイト
栃木県の土木遺産 http://www.doboku.shimotsuke.net/
土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年11月19日 (日)

コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡

2017年秋のコンターサークルSの旅は、北関東が舞台だ。1日目10月7日は、かつて東洋一の銅山の町として栄えた足尾(現在は栃木県日光市足尾町)を回る。

集合場所に指定されていたのはJR日光駅だったが、私の泊っている宇都宮駅前まで、真尾さんがレンタカーで迎えに来てくれた。小雨そぼ降る中、杉並木が続く国道119号(日光街道)を走って、日光駅へ。集合時刻の10時21分に到着した電車から外国人を交え大勢の客が降りたけれども、残念ながらサークルのメンバーの姿はなかった。堀さんは明日来るので、本日の参加者は私たちと、足尾へ先回りしているはずの大出さんの3人だけだ。

Blog_contour2301
足尾本山駅構内風景

再び車に乗り込んで、国道を西へ進んだ。清滝から大谷(だいや)川を渡ると、国道122号は長さ2,765mの日足(にっそく)トンネルで足尾側へ抜ける。トンネルは一直線だが、「この上に細尾峠というつづら折りの旧道があって、霧の中を堀さんと踏破したことがあります」と真尾さん(下注)。雨は上がってきたものの、谷の上空を覆う雲はまだ低い。

*注 このときのレポートは、堀さんの著書『消えた街道・鉄道を歩く地図の旅』(講談社+α新書、2003年、p.182以下)にある。

まずは、わたらせ渓谷鐵道(以下「わ鐵」という)の通洞(つうどう)駅へ向かった。足尾の市街地は、渡良瀬川上流の谷沿いに長く伸びている。そのため町には、わ鐵の前身である旧 国鉄足尾線時代から、足尾本山(あしおほんざん)、間藤(まとう)、足尾、通洞と4つの駅があった。

最奥部に位置する足尾本山は精錬所の前の貨物専用駅で、1987年に貨物輸送が終了して以来、使われていない。次の間藤が旅客列車の終点で、最後まで採鉱が続けられた本山地区の最寄り駅だ。三つ目の足尾はわ鐵の運行拠点で、列車交換ができ、広い構内には貨物側線も残されている。そして最も川下の通洞は、棒線駅ながら足尾の中心部にあり、乗降客も多い。

Blog_contour23_map1
足尾(通洞、小滝地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

まずはその通洞駅前に車をつける。破風にハーフティンバーをあしらった山小屋風のデザインの駅舎がなかなかお洒落だ。駅前の小さな広場で大出さんと合流。山の緑が差し掛かるホームに出ると、ちょうど桐生方面の上り列車が入線するところだった。ちょっと褪せてはいるが、阪急電車のマルーン色を連想させる310形気動車だ。せっかくなので発着のようすを見届けてから、3人で足尾探索に出かけた。

Blog_contour2302
通洞駅 (左)ハーフティンバーの山小屋風駅舎 (右)昔の面影を残す駅舎内部
Blog_contour2303
桐生行き310形気動車が停車中

大出さんは私たちの到着を待つ間に近辺を歩いていて、「足尾のことがよくわかりますよ」と勧めてくれたのが足尾歴史館だ。足尾銅山と町に関するさまざまな歴史資料を展示している。運営するNPO法人の理事長さんの説明を伺いながら、館内を回った。「明治の足尾は、日本初の科学技術がたくさん導入された近代都市だったんです」と理事長。「電話、水力発電、索道、溶鉱炉など、みなそうです。電気鉄道も京都より早く、鉱石の運搬に使われていました」(下注)。

*注 旅客用の電気鉄道は1895(明治28)年京都で初めて走り始めたが、その4年前(1891年)に足尾では銅鉱石運搬用の電気軌道が開設されたという。

汚染排水や煤煙による渡良瀬川流域の深刻な公害問題は、足尾銅山の負の側面として知られているが、反面、鉱山は採掘・精錬技術の近代化で生産量を拡大させ、そのお膝元で町は栄華を極めた。鉱床のある備前楯山を取り巻く形で本山、通洞、小滝の主要3鉱区が立地し、その周囲に従業員とその家族、関連産業に携わる人々が暮らす市街地が形成されていた。足尾の人口は大正時代に3万8千人を超え、県内で宇都宮に次いで大きな町だったのだ。

Blog_contour2304
足尾歴史館 (左)鉱山町の歴史を資料で追う (右)トロッコ列車の周回線路

そのとき、「今からガソリンカーが走ります」とアナウンスが聞こえてきた。「外の乗り場へどうぞ」と理事長さんに急かされて建物の裏に回ると、波板屋根の簡易ホームに、黒装束のボンネット型ミニ機関車が停まっている。後ろには、北海道開拓の村で乗ったのとそっくりの小型客車がつけられていた。

*注 北海道開拓の村の馬車軌道の話は、本ブログ「開拓の村の馬車鉄道」参照。

足尾では、1895(明治28)年9月に開業した馬車鉄道が町民の足となり、資材や生活用品の輸送を担っていた。1925(大正15)年、馬に代わってガソリンエンジンの機関車が投入され、昭和30年代まで使われた。停車中の列車はそれを復元したものだ。

走路は当時と同じ610mm(2フィート)軌間で、もとスケートリンクだった場所に、延長174mの周回線が敷かれている。私たちもさっそく豆客車のロングシートに納まった。列車は、バイクのような騒々しいエンジン音とともに動き出すと、超急カーブを小気味よくしのいで走っていく。側線には、立山砂防軌道から譲渡されたというディーゼル機関車や、オープン客車も留置してある。それを横目に見ながら2周回って、ホームに帰着。思いがけない列車体験は楽しかった。「足尾ガソリン軌道歴史館線」と名付けられた軌道は、4~11月の第一土・日曜に運転されている。幸運にも今日はその日だったのだ。

Blog_contour2305
足尾ガソリン軌道歴史館線のトロッコ列車
(左)ガソリン機関車 (中)豆客車 (右)客車内部

資料館を後にして、主要鉱区の一つ、小滝へ向かった。わ鐵の第二渡良瀬川橋梁の下をくぐってすぐに右折、支流の庚申山川に沿う細道を上っていく。まず見つけたのは、道路橋に隣接して川をまたいでいるダブルワーレントラスの廃橋だ。傍らの案内板に旧 小滝橋、大正15年架設とある。地形図では「小滝坑跡」と注記された地点で、橋の上流側で石積みの坑道が口を開けている。残念ながら鉄パイプのバリケードに阻まれて、中には入れなかった。

Blog_contour2306
旧 小滝橋
(左)残存するワーレントラスの構造物 (右)橋の左手に旧小滝坑が口を開ける

銀山平の狭い段丘では、道の両側に階段状に均された敷地と土留めの石垣が見られた。公園の案内板によると、かつてここには多くの社宅が整然と並んでいたそうだ。最盛期には小滝だけで1万有余の人が暮らしていて、病院、学校が建ち、料理屋や芸妓屋もあったという。しかし、今は背の高いカラマツの林にすっかり覆われて、面影すら見いだすことができない。

Blog_contour2307
銀山平社宅跡
(左)階段状の敷地と土留めの石垣 (右)盛時の写真(現地案内板を撮影)

国民宿舎の前で引き返して、本山坑のほうへ向かう途中、足尾駅に立ち寄った。駅舎は平入り切妻造りで、庇が広く張り出しているのが特徴的だ。また、いいタイミングで桐生行きの気動車が入ってきた。今度は510形、2013年に導入された車両で、わ鐡で最も新しい。右手へ回ると、がらんとした敷地の側線に、国鉄色の気動車やタンク車が数両留置されている。真尾さんいわく、「ここにはヤードがあって、昔は貨車の操車をしていました」。

Blog_contour2308
足尾駅 (左)屋根庇を張り出させた駅舎 (右)桐生行き510形気動車

Blog_contour23_map2
足尾(本山地区)周辺の1:25,000地形図に訪問地点を加筆

次いで、終点間藤駅へ向かった。こちらは線路が1本きりで、駅のすぐ上手に車止めがあり、先は草むらと化している。その中をさまよっている人がいたので、何かと思ったら、線路脇の木から落ちた栗を拾っているのだった。ホームに設置されている展望台は、対岸の山の斜面に現れるカモシカを見るためのものだそうだ。カモシカの姿は見かけなかったが、シカは確かにいて、銅親水公園からの帰り道に車の前を急に横切り、ヒヤッとする。

Blog_contour2309
間藤駅 (左)花壇になった旧折返し線跡と展望台 (右)駅舎

さらに上流へ。上間藤の道路脇で、地面に斜めに突き刺さる直径1mほどの鉄管を発見した。これは、理事長さんの説明にもあった日本初、1890(明治23)年完成の間藤水力発電所の跡だ。上部に延びていたはずの管路跡を確かめようと小道の階段を上っていく途中、地元の男性がすれ違いざまに「どこへ行かれる」と聞く。目的を話すと、「水路はここを通っていたんだ」と、斜面にかすかに残る正確な位置を教えてくれた。その人が言うには、発電所の跡地は、土盛りされて道路が通ったので、今はもう見ることができない。「だが、川の中に残骸があるよ」と指さす方向に、流れに洗われる煉瓦の塊が見えた。

Blog_contour2310
間藤水力発電所跡
(左)水を落とす鉄管の一部だけが残る (右)発電所のかつての姿(現地案内板を撮影)
Blog_contour2311
間藤水力発電所跡
(左)松木川に洗われる煉瓦の塊 (右)地元の男性が案内してくれた

親切な人で、「これから古河橋を見に行くんです」と話すと、「案内するよ。なに、散歩ついでだ」。それで車に同乗してもらい、1km上流の橋のたもとまで走った。重要文化財指定の古河(ふるかわ)橋は、松木川に架かる径間48mのボーストリング型ワーレントラス橋で、これも1890年に造られている(下注)。資料館で見た写真(下写真右)によれば、日本初の電気軌道もこの橋を渡っていたようだ。しかし老朽化に伴って、現在は通行禁止になっている。「隣に新しい道路橋ができてからも、歩いて渡れたんだが」とこの人。

向こうに見える大きな構造物は、本山精錬所跡だ。その奥に、支流の出川を渡る貨物線のガーダー橋があり、三態三様の橋が一つの構図に収まる。男性が、同じように橋を見に来た別のグループに捕まってしまったのを機に、私たちはお礼を言って、さらに上流へ車を移動させた。

*注 土木学会(JSCC)のサイトによれば、開通は1891(明治24)年1月1日。

Blog_contour2312
古河橋
(左)ボーストリング型トラス橋、対岸に本山精錬所跡
(右)橋には貨物を運ぶ電気軌道が併設されていた(足尾資料館の展示を撮影)

谷の奥に、白い簾のような滝がかかる何段もの堰堤が見えてきた。その周囲が整備されて、銅(あかがね)親水公園と呼ばれている。一般車が入れる最奥部なので、駐車場に車を置いて一番大きな砂防堰堤の脇まで上った。ここで北から降りてくる松木川に、東西からの支流が合流する。西側の谷をトラス橋が横断しているのが見えるが、森林鉄道の跡ではなく、発電所へ通じる送水管を通しているのだ。大出さんは以前ここまで来たことがあって、「あの鉄橋には見覚えがあります」。一帯は森林の乱伐と鉱山からの煙害で禿山になり、土砂の流出が激しい。懸命の植林活動が進められているが、堰堤の内側はすでに土砂で満杯だった。

Blog_contour2313
谷を塞ぐ大規模な砂防ダムと何段もの堰。ダムの手前に銅親水公園がある
Blog_contour2314
砂防ダムの上流側にて。奥に送水管を通すトラス橋が見える

帰り道、間藤から延びていた貨物線の廃線跡を訪ねてみた。松木川右岸、南橋集落の裏手に、間藤から26~30‰の急勾配で上ってきた線路がある。すっかり錆びが回っているものの、2本のレールはしっかり残っていた。土砂崩れであらかた埋まった難所を抜けると、トンネルの手前に腕木信号機が立っている。最近塗り直したのだろうか、異様にきれいだ。矢羽根が進行表示になっていたので(?)自己責任で進ませてもらうと、線路は短いトンネルを抜けて右に緩くカーブし、さっき古河橋から眺めた出川鉄橋を渡っていく。

Blog_contour2315
足尾本山への貨物線
(左)休止線にしては美しい腕木信号機 (右)S字カーブのトンネルを反対側から見る

その先が足尾本山駅だが、残念ながら手前に柵が立てられ、「鉱山施設につき立入りお断り」の札が掛っていた。柵越しに覗くと、構内は意外に整然と保たれている。しかし、錆びた側線に沿って破れ窓と朽ち板の建物が並ぶ、まるで時が止まったような光景には哀愁が漂う。じっと眺めていた真尾さんが「夕張を思い出しますね」とぽつりと呟いた(下注)。衰退した鉱山地区は、どこか共通の雰囲気を持っているようだ。谷の底は日暮れが早い。影が濃くなり始めた廃駅の構内を写真に収めて、私たちは車に戻った。

*注 北海道夕張の探訪記は「コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡」参照。

Blog_contour2316
出川鉄橋の先に足尾本山駅を望む

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図中禅寺湖(平成27年3月調製)、足尾(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
NPO法人 足尾歴史館 http://ashiorekishikan.com/

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-美馬牛の谷中分水と尾根を行く水路
 コンターサークル地図の旅-黒磯・晩翠橋と東北本線旧跡
 コンターサークル地図の旅-北関東3県境会合点
 コンターサークル地図の旅-積丹半島・大森山道

2017年11月12日 (日)

コンターサークル地図の旅-美馬牛の谷中分水と尾根を行く水路

2017年6月18日、朝7時台のライラック3号で札幌を発ち、旭川までやってきた。乗り継ぐ富良野線の列車は2番線に停まっている。車内に入るとほぼ座席が埋まるほどの盛況ぶりで、インバウンドの旅行者とおぼしきグループもちらほらいる中に、堀さんの姿を見つけた。

列車は旭川駅を出ると、初夏の光眩しい郊外を一直線に南下する。今朝は雲一つない快晴で、左の車窓から、遠く連なる北海道の脊梁山地がすっきりと見通せる。「あのひときわ高いのが大雪山系ですよ」と、山々の名を堀さんに教えてもらいながら、約50分列車に揺られて目的地の美馬牛(びばうし、下注)に着いた。

*注 駅舎にあった説明板によれば、美馬牛という牧歌的な地名は、「カラスガイの多いところ」という意味のアイヌ語「ピパウシ」から来ているそうだ。カラスガイは湖沼に棲む大型の二枚貝で、本州ではカワシンジュガイと呼ぶとのこと。

Blog_contour2201
美馬牛南東の丘にて

美馬牛は富良野線のサミットの駅で、美瑛(びえい)町と上富良野(かみふらの)町の境界付近に位置する。美瑛の丘と呼ばれ、道央の人気観光地として必ず名前の挙がるエリアだから、私たちのほかにも、旅支度をした若者たちが何組か、同じホームに降り立った。赤屋根の小さな無人駅舎に集まったのは、堀さん、真尾さん夫妻、ミドリさん、河村さん、草間さん、私の7人。今日の行程を確認し合った後、さっそく2台の車に分乗して出発した。

Blog_contour2202
美馬牛駅に集合

旭川盆地の周縁部に当たるこの一帯は、十勝岳連峰からもたらされた火砕流堆積物(溶結凝灰岩)が浸食されて、なだらかな尾根と谷が交互に並ぶ独特の地形が広がっている。河川は基本的に北西へ向かうのだが、断層活動で富良野盆地が沈降した影響で、一部が鞍替えして南の富良野川へ流れ込むようになった。そのため、谷中分水(こくちゅうぶんすい)や、谷筋が途中でUターンするといった珍しい地形が生まれている。谷の途中で川の流れる方向が逆になる谷中分水は、地形図に明確に示されているものでも付近に2か所あり、まずはそれを見に行くつもりだ。

堀さんはすでに1970年代に、この地を訪れている。『地図の風景 北海道編 I 道南・道央』(そしえて、1979年)の134ページ以下にその記述があるが、「あのときは近いほうの分水界を確かめましたが、もう一つのほうは見なかったように思うんです」。それがこの旅を企画した動機だそうだ。

Blog_contour22_map1
美瑛・上富良野周辺の1:200,000地勢図
茶色の枠は下記詳細図の範囲を示す
Blog_contour22_map2
美馬牛周辺の1:25,000地形図に加筆

駅前から北西へ延びる道を、国道237号線を越えて少し進むと、早くも一つ目の谷中分水に到達する。地形図(上図右上の円内)では、道に沿って流れる小川がここで約500mの間、途切れている。流路を図上で追うと、北ではルベシベ三線川となって美瑛川へ注ぎ、南は江幌完別川で他の川と合流して富良野川となる。つまり、川が描かれていないこの間に、流れる方向を変える傾斜転換点があるはずだ。

クルマを降りて周囲を観察してみるが、メンバーから「どこが分水なんですか」という質問が飛んだ。以前訪れた愛知県巴川の谷中分水は稲田に囲まれていたので、灌漑用水路の流水方向が途中で反対になるのが明確だった(下注)。それに比べてこのような畑作地帯では排水溝も見当たらず、分水界を断定する方法がない。

*注 巴川の谷中分水については、本ブログ「コンターサークル地図の旅-巴川谷中分水」参照。

谷間の先に目を遣ると、両側ともわずかに下っているから、このあたりが鞍部であることは疑いない。谷を横切る農道(幅員3.0m未満の道路の記号)に沿って町界が走っているのも傍証になる。尾根を行政界に利用するのはよくあることだからだ。しかし、谷を貫く道路には町界標が立っておらず、驚いたことに、道路脇に立ち並ぶスノーポールは、上富良野町域に入ってもなお美瑛町と書かれていたのだ。

Blog_contour2203
一つ目の谷中分水、東~南方向を望む。画面中央を横切る道が分水界か?

もやもや感が抜けきらないまま、二つ目の谷中分水(上図左上の円内)へ向かった。美馬牛から丘を越えてきた道道70号芦別美瑛線が、谷に沿う二車線道と交差する地点で車を停める。こちらは周りの丘が高く、谷は北側で明らかに下っていて、より鞍部らしい地形だ。道路脇に溝が切ってあったが、水は流れていなかった。ミドリさんが、地形図に水準点が書かれていると言って、俄然張り切る。いっしょに交差点近くの草むらを探してみたが、怪しげなポールが立っているものの標石は見つからない。それどころか道路脇の家の人が出てきて、「ここは私有地ですが」と咎められてしまった。

Blog_contour2204
二つ目の谷中分水、西方向を望む。画面中央の2車線道路が分水界

次は、Uターンする谷筋だ。「日本の地形図では珍しく、開拓川には北向きに、トラシエホロカンベツ川には南向きに、流れの向きを示す矢印がついている。」と、同書で堀さんが言及した場所で、この分水界のすぐ南にある。286m標高点の三叉路を右(西)へ折れて、小橋を2本渡った。後のほうが、開拓川に架かる第2海老名橋だ。ここまで北向きに調子よく下ってきた開拓川は、急に向きを変えて、南へ流れるトラシエホロカンベツ川に合流する。

Blog_contour2205
開拓川Uターン地点 (左)第2海老名橋 (右)川は左奥からカーブしながら橋の下へ

トラシエホロカンベツ川と東隣の江幌完別川には、こうした転向支流がいくつもあり、本流がかつて北へ流れていた形跡を残している。一方、上富良野市街の西を流れるエバナマエホロカンベツ川は、上流部に同じような谷中分水地形と転向支流を擁しているのに、本流が北向き、支流が南向きと、前2者とは逆の関係になっているのが面白い。

Blog_contour2206
「まるごとザンギ」おにぎり

橋の欄干を腰掛け代わりにして、昼食を広げた。先日、秋田の「ぼだっこ」でご当地もののおにぎりに味を占めた私は、旭川駅のコンビニで「まるごとザンギ」と書かれた海苔巻きを買ってきた。もちろん、ザンギが下味を付けた鶏の唐揚げであることを知らなかったのは、道外から来た私だけだったのだが。

*注 「ぼだっこ」については、「コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)」参照。

空腹を満たした後は、ミドリさんのリクエストで、急カーブする前の開拓川を源流へ向かって遡る。しかし、2車線道路はしばらく行くと左(東)へそれてしまい、直進側は細い未舗装道しかなかった。「上流まで道があることはありますが、どっちみち川から逸れて森の中へ入ってしまいます」と、地形図でナビをしていた私。

右手に、丘を一直線に上っていく道が見えたので、「それじゃ、この道の上から森を眺めることでよしとしましょうか」と真尾さんが提案した。比高50mはある急傾斜の丘を、クルマで這うように上っていく。周辺より少し高度があるので、私も「後ろを振り向いたら、きっといい景色ですよ」と予言する。

道が行き止る柵のところで車を降りると、果たして期待通りだった。一直線に遠ざかる野道を軸にして、緑系とベージュ系の色のパッチワークで覆われた丘が、緩やかにうねりながら見渡す限り広がっている。その表面を撫でるように、ゆっくりと雲の影が渡っていくのが見える。パノラマの背後では、十勝岳連峰が山肌にまだ雪渓をとどめたまま、縹色の屏風となって空を限っている。

一同思わず「すごーい」と一言発した後、しばらく言葉が続かない。真尾さんが沈黙を破って「十勝岳がこんなにきれいに見えたのは記憶にないですよ」。それにこの春、道内の旅の日は概して天気がすぐれず、今日は久しぶりの好天だったそうだ。絶景の前で記念写真を撮ったあと、少々お疲れの堀さんを美瑛駅まで送っていった。

Blog_contour2207
美瑛の丘と十勝岳連峰のパノラマ
Blog_contour2208
展望地で記念撮影

駅への最短ルートは、西11線農免農道だ。横たわる丘の列を次々と横断していくので、極端なアップダウンが連続する。「ここはジェットコースターの道と呼ばれてるんです」と真尾さん。途中、「かみふらの八景」という標柱が建つ空地に数台の車が停まり、十勝岳の眺望を楽しむ人垣ができていた。この景色も悪くはないが、さっきの無名の展望台のほうが、視点が高い分、ダイナミックな眺めなのは間違いない。

Blog_contour2209
ジェットコースターの道

ユニークな地形景観を楽しんだ後は、周辺の「青い川」と「不思議な用水」を訪ねることにした。美瑛駅から、美瑛川の谷沿いに走る道道966号十勝岳温泉美瑛線を、白金温泉(しろがねおんせん)方面へ進む。

白金温泉の3kmほど手前に、「青い池」と呼ばれるスポットがある。池といっても砂防用のブロック堰堤に美瑛川の水が滞留しただけだが、青みを帯びた水と立ち枯れした林の組合せが幻想的だと評判が高く、今では美瑛の定番観光地の一つになっている。しかし人気が出過ぎて、駐車場の空き待ちをする車で道路が渋滞するほどだというので、私たちは敬遠し、代わりに、池に青い水を供給している川を見に行った(下注)。

*注 後日(同年8月27日)、真尾さんとミドリさんは青い池の訪問を敢行している。

Blog_contour22_map3
白金温泉周辺の1:25,000地形図に青い池その他を加筆

白金温泉の入口に架かるブルーリバー橋の前で車を停める。美瑛川の渓谷(白金小函)を高い位置でまたぐトラス橋は、川と滝と山並みをセットで眺める格好の展望台で、多くの人が歩いていた(下注)。上流側に目を遣ると、右側の断崖に幾筋もの滝が簾のように掛かっている。白ひげの滝だ。約30万年前に堆積した土石流の上に新しい溶岩が被さり、その二つの地層の間を通ってきた水がここで湧き出すのだという。

*注 ブルーリバー橋の本来の用途は、十勝岳の噴火に備えて、白金温泉から対岸に設置されたシェルターへ通じる避難経路。

滝もみごとだが、水の色は、それより上手ですでに美しいターコイズブルーに染まっている。後で調べたところでは、橋からも見える硫黄沢川と美瑛川の合流点あたりから、その現象は強まるらしい。十勝岳の斜面を水源とするこれらの沢の水はアルミニウムを含んでいて、美瑛川の水と混ざるとコロイド状の粒子が生成される。それが波長の短い青色光を散乱させて目に届くのだそうだ。

Blog_contour2210
ブルーリバー橋から眺める白ひげの滝と青い川(美瑛川)
Blog_contour2211
(左)ブルーリバー橋 (右)左が美瑛富士、右が美瑛岳

十勝岳は今も噴煙を上げていて、沢の水には硫黄分も多く含まれる。そのため、美瑛の丘を潤す用水は沢より少し上流で取水されている。道内各地の水路を追いかけている河村さんは取水口を見たかったのだが、地形図を読む限り、谷底にあって近づけそうにない。それで下流に目を転じた。水路の水は美瑛川を横断した後、道道に並行する林道に沿って下り、いったん、しろがねダムの貯水池(四季彩湖)に溜まる。その後、一部がオヤウンナイ川を経由して美瑛川に戻り、下流で再び取水されて、別の水路に入っていく。

Blog_contour2212
(左)砂防ダムの流木捕捉工は、ラピュタのロボット兵を連想させる (右)この水が青い池をつくる

この水路は大規模な土地改良以前の古い用水で、地形図(下図)にも明瞭に描かれている。不思議な用水と言ったのは、水路が丘陵地の尾根を伝っているからだ。もちろん高台に水を万遍なく行き渡らせるためだが、地図では川の記号が使われるので、本来、谷底に描かれるはずの川が周囲より高いところにあるという不思議なことになるのだ。

目を付けたのは、美瑛町御牧(みまき)で、道道824号美沢美馬牛線から右へ分かれる道が、丘のサミットに達する地点だ。水路が鞍部を横断しようとして、この道と交差している。車を停めて雑木林の中を探すと、すぐに水路が見つかった。まだ根元に近い区間なので、けっこうな水量を保って勢いよく流れている。地形図を見ていたミドリさんが、「この水路は、熊見川というそうです」と報告する(下注)。「自然の川みたいだな」「開拓時代はこのあたりにも熊が姿を見せたんでしょうね」。不思議な川に値する新しい発見だ。

*注 現行の地理院地図では、この注記は消されている。

Blog_contour2213
尾根筋を流れる用水路(熊見川)

Blog_contour22_map4
熊見川の注記がある用水路(1:25,000地形図置杵牛(平成13年修正測量)に加筆)

これを最後の探索にする予定だったが、美馬牛駅の方へ戻る途中で誰かが、谷を隔てた緑の丘の上に水路橋が延びているのを見つけた。背丈は低いものの、傾きかけた陽の光を浴びて、まるでローマの水道橋か何かのように堂々と見える。「行ってみたいですね」と河村さん。「行ってみましょう」と衆議一決して、たもとまで道が描かれている東側の谷へ回った。トラクターが動いている畑の中の道を突っ切る前に、午前中の教訓で、真尾夫人がトラクターを操っていた人に声をかける。許可をもらって車を入れ、水路の手前につけた。

Blog_contour2214
向かいの丘の上に水路橋を発見
Blog_contour2215
反対側からの水路橋の眺め

Blog_contour22_map5
水路橋周辺(1:25,000地形図に加筆)

水路は熊見川の続きだ。たどってきた尾根筋がここで細まり、少し痩せてもいる。それで、用地幅が必要な土盛りを避けて、高架橋を渡したようだ。両側が畑になった尾根の上だから、眺めがいいのは当然だが、吹きつける風の強さも半端ではない。風圧にたじろぎながら水路の来た方を振り返ると、緑とベージュのパッチワークのかなたに、十勝岳連峰や幌内山地が西日を受けて、輪郭を際立たせている。美瑛の旅を締めくくるのにふさわしい景色だった。

Blog_contour2216
丘の上に水路橋を追う
Blog_contour2217
振り返れば十勝岳連峰の眺望

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図美馬牛(平成29年6月調製)、白金温泉(平成26年4月調製)、置杵牛(平成13年修正測量)、20万分の1地勢図旭川(昭和54年要部修正)を使用したものである。

★本ブログ内の関連記事
 コンターサークル地図の旅-花渕浜の築港軌道跡
 コンターサークル地図の旅-石井閘門と北上運河
 コンターサークル地図の旅-上山周辺の石橋群
 コンターサークル地図の旅-岩見三内(河川争奪、林鉄跡ほか)
 コンターサークル地図の旅-足尾銅山跡

«ロッキー山脈を越えた鉄道 VIII-モファットの見果てぬ夢 後編

2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

BLOG PARTS


無料ブログはココログ