2017年9月24日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道

デンヴァー Denver に拠点を置く鉄道会社として、デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG) 、あるいはデンヴァー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道 Denver and Rio Grande Western Railroad (D&RGW、下注) の名はいまだになじみがある。名称が長いので、以下単に「リオグランデ」と呼ぶことにするが、1870年の創設以来、1988年まで実に100年以上も山岳地帯の鉄道輸送で中心的な役割を果たしてきた。

*注 D&RGが経営悪化で政府の管理下に置かれた後、1920年に新たに受け皿会社としてD&RGWが設立され、1921年にD&RGを統合した。

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D&RGW 483号機、ニューメキシコ州アズテック Aztec, NM 駅にて、1967年
Photo by Drew Jacksich at wikimedia. License: CC BY 2.0

そのリオグランデが先駆者のデンヴァー・パシフィック Denver Pacific と異なるのは、3フィート(914mm)の狭軌で建設されたという点だ。1830年代から鉄道の建設が始まっていた東部では、当初さまざまな軌間が用いられた。しかし、路線が延長され相互に連絡する段階になると、イギリスと同じように、車両が直通できないという難点が強く認識されていった。大陸横断鉄道の軌間が4フィート8インチ半(1435mm)と法律で明示されたのも、これを教訓にしている(下注)。この軌間はすでに東部で多数派になっていたとはいえ、法制化されたことが事実上の標準軌として全米に普及する契機となった。

*注 いわゆる太平洋鉄道法 Pacific Railroad Acts で、1862年に大陸横断鉄道の建設を促進するために制定。軌間の規定は1863年に追加された条文にある。

大陸横断鉄道と直通することを主目的に挙げるデンヴァー・パシフィックは、当然同じ規格を採用したが、リオグランデはそれを選ばなかった。なぜだろうか。

リオグランデの共同経営者だったハワード・スカイラー Howard Schuyler は、鉱山経営を視察するためにイギリスのウェールズ地方へ行ったことがある。そこで見たのが、スレートを採掘場から港まで運んでいたフェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway だ。約2フィート(正確には1フィート11インチ半、597mm)とたいへん狭い軌間ながら、何ら問題なく使われていた(下注)。

*注 フェスティニオグ鉄道については、本ブログ「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I」で詳述している。

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フェスティニオグ鉄道タン・ア・ブルフ(タナブルフ)Tan-y-bwlch 駅、1890~1905年ごろ
Photo from wikimedia

狭軌鉄道は線路用地だけでなく曲線半径も小さくできるので、山間のような険しい地形に適している。また、車両や設備がコンパクトな分、比較的安価に導入できる。スカイラーはこうした利点を評価し、標準軌にこだわらず、むしろ最初にこれを採用することで地域の標準規格にすることができると考えた。

ただし、フェスティニオグ鉄道はたかだか20km程度の路線に過ぎない。コロラドでは100km単位の長距離となり、かつ取り扱う貨物量も多くなることが見込まれたため、3フィートに拡げて設計したと言われている。それでも、大陸の人々は狭軌鉄道を実見したことがなく、こんな鉄道では役に立つはずがないと反対したので、準備は見切り発車で進められた。

リオグランデは、その後、コロラドから西のユタ準州にかけての中央山岳地帯に自社路線を張り巡らせていく。しかし不思議なことに、鉄道の名称であるリオグランデは、デンヴァーから1,000kmも南のメキシコ国境を流れている川の名で、路線網とは全くかけ離れた場所にある。そう、確かに最初の計画は、現 インターステート25号線に沿うルートでひたすら南下して、リオグランデ川に達するというものだった。最終的には国境を越えて、メキシコシティ Mexico City をめざしていた。だが、遠大な構想が実現することはついになかったのだ。

なぜ、リオグランデはリオグランデに行かなかったのか。その理由は、大きく二つ挙げられる。一つは行く手を阻むライバルが出現したからであり、もう一つは南へ行くよりもっと収益が上がる目標を見つけたからだ。

そのライバルというのは、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway, (AT&SF、下注)。これも名称が長いので「サンタフェ」と略することにするが、カンザス州アッチソン Atchison を起点に、西へ向けて建設が進められてきた路線だ。同じように南部の開発利益を狙っていて、早晩利害の対立が表面化するのは明白だった。

*注 アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道は1859年設立。サンタフェ Santa Fe はニューメキシコ州の州都だが、路線は最終的に西海岸のロサンゼルス Los Angeles やサンフランシスコ San Francisco に達し、南回りの大陸横断鉄道を実現した。1995年にバーリントン・ノーザン鉄道 Burlington Northern Railroad と合併し、現在はBNSF鉄道 BNSF Railway になっている。

アメリカ19世紀の交通史には、「鉄道戦争 Railroad Wars」という用語がしばしば登場する。連邦政府や州政府の援助を得てはいてもすべて私設鉄道として計画されるため、ときにルートが競合して争いになる。通常は訴訟が起こされ、法廷闘争のなかで決着を見るのだが、中にはこじれて本物の武力抗争に発展することがあった。というのも19世紀後半の西部は、映画のジャンルで一世を風靡したあの西部劇の舞台であり、たとえば「荒野の決闘」に出てくるような保安官やならず者が実際に生きていた時代なのだ。

リオグランデとサンタフェがぶつかったのは、コロラドとニューメキシコの州境に位置するラトン峠 Raton Pass(下注)だった。両者ともすでに峠の北麓のトリニダード Trinidad まで路線を延ばしてきており、さらに南へ進出するにはどうしてもこの峠を越える必要があった。

*注 ラトン峠は標高2,388m、西部開拓ルートのサンタフェ・トレール Santa Fe Trail が通る。ラトン Ratón はスペイン語で鼠を意味する。

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同じ南部の開発を狙うリオグランデ(図の赤線)とサンタフェ(黒線)のルートがラトン峠 Raton Passでぶつかる
image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)

1878年12月、双方が拳銃使いや保安官を雇って激しくにらみ合った。サンタフェの社長W・B・ストロング W. B. Strong は、リオグランデのW・J・パーマー W. J. Palmer 将軍に対し、峠の上でこう言い放ったとされる。「最初にここに着いたのはわれわれだ。この仕事の邪魔をする奴は誰でも、眉間に弾丸(たま)を受けるのを覚悟しろ!」

結局この争いは、資本規模で劣るリオグランデが引き下がったため、サンタフェがラトン峠を獲ることに成功した。しかし戦争はそれで終わらなかった。リオグランデが南へ行かなかったもう一つの理由、収益の期待できる目標が絡んできたからだ。

前年(1877年)、コロラド山中のレッドヴィル Leadville で有望な銀の鉱脈が発見されていた。さらに、1878年2月にブランド=アリソン法 Bland-Allison Act が施行され(下注)、金本位制に替えて金と銀の複本位制が復活した。これは、連邦政府が一定量の銀を買上げ、ドル銀貨に鋳造して流通させる制度で、政府による銀の買い支えだ。たちまち銀価格が吊り上がり、ゴールドラッシュならぬ銀の採掘ブーム、いわゆるシルバーブーム Silver boom が巻き起こる。一旗揚げようとする男たちが我先にレッドヴィルへ殺到し、膨れ上がる人口で小さな入植地は、数年のうちにデンヴァーに次ぐ大きな町になった。

*注 1873年から金本位制が採用されていたが、それに伴う銀価格の下落で打撃を受けた西部の採鉱関係者は議会での巻き返しを図っていた。ブランド=アリソン法の成立はその成果だった。

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1882年のレッドヴィル鳥瞰図、鉱脈発見から5年で大きな町に
Image from www.loc.gov https://www.loc.gov/resource/g4314l.pm000720/

当然、大きな需要が生じるのを見越して、鉄道を敷こうという動きが出てくる。レッドヴィルはアーカンザス川 Arkansas River(下注1)の最上流、標高10,152フィート(3,094m)の高地に位置している。当時、リオグランデの路線は180km下流のキャノンシティ Canon City(下注2)に、サンタフェはさらに下流50kmのプエブロ Pueblo に達していた。

*注1 アーカンザス川は、レッドヴィル近くの大陸分水嶺に源をもち、本流というべきミズーリ川 Missouri River を別とすると、ミシシッピ川 Mississippi River の最も長い支流。
*注2 市名は1994年に、スペイン語に由来するキャニョンシティ Cañon City に変更されたが、本稿ではそれ以前の旧称を使用する。

両者揃って並行路線を敷ければ何の問題もなかったのだが、キャノンシティの西には、ロイヤル峡谷 Royal Gorge という稀に見る難所が横たわっている。川が花崗岩の高原を切り刻み、最高380mもある断崖が長さ16kmにわたって続く大峡谷だ(下注)。谷底の最狭部は15mほどの幅しかないクレバスのような隘路で、到底、鉄道を2本も建設する余地はない。

*注 地形用語でいう先行谷。およそ300万年前に高原の隆起が始まったが、この場所を流路としていたアーカンザス川は、それに抵抗して侵食を続け、その結果深い峡谷が形成された。

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ロイヤル峡谷の最峡部を
通過するリオグランデの線路
@ Denver Public Library 2017, Digital Collections P-448

サンタフェは1878年4月に、この難所で線路敷設のための測量調査を始めた。連絡もなしに自分の縄張りに杭を打たれたリオグランデが黙っているはずがない。すぐに現場へ駆けつけるものの、サンタフェ側の妨害に遭って撤退させられてしまう。ラトン峠でぶつかる以前に、もう一つの鉄道戦争、いわゆるロイヤル峡谷戦争 Royal Gorge War の種がすでに蒔かれていたのだ。

サンタフェは裁判所にリオグランデを訴えた。主張が通って、リオグランデに対して妨害行為の差止め命令が出されたが、それに耳を貸すようなリオグランデではない。現場に岩を落としたり、測量器具を川に捨てたりと、なおも作業を妨害し続けたため、サンタフェは警備のために強力な助っ人を雇う。

呼び寄せられたのは、フォード郡の保安官だったバット・マスターソン Bat Masterson 。彼は、ドク・ホリデイ Doc Holliday の力を借りて人を集め、リオグランデの駅施設を次々に襲って、占拠する。リオグランデも反撃に出た。ガンマンの一団を雇って駅に付属する電報局の裏窓から奇襲攻撃をかけ、州政府の兵器庫から借りた大砲で威嚇して、機関庫の奪回に成功する。

*注 蛇足ながら、ドク・ホリデイといえば、保安官ワイアット・アープ Wyatt Earp とともに「OK牧場の決闘」で闘った命知らずのガンマン。他にも、「汚れた」デーヴ・ラダボー "Dirty" Dave Rudabaugh、「謎の」デーヴ・マザー "Mysterious" Dave Matherといった派手な名を持つ拳銃使いがいた。

並行して進めていた法廷闘争では、1879年4月、リオグランデに峡谷に鉄道を建設する権利を認める決定が下された。こうしてリオグランデはとりあえず戦争に勝利したのだが、二者の抗争はその後泥沼化していく。サンタフェは豊富な資金力にものを言わせて、リオグランデの既存路線と競合する路線を造ると発表した。これに怖れをなしたのがリオグランデに出資していた資本家たちで、会社を潰されては元も子もないと、サンタフェに通行権を与えるよう圧力をかけた。

思惑通りに30年間の通行権を得たサンタフェは、すぐさま次の手を打った。カンザス州の荷主を優遇して、運賃のダンピングを始めたのだ。これはサンタフェと、その支持者であるデンヴァーの商人にとって、大きな打撃となった。リオグランデが法廷に申し立てた通行権契約の破棄が認められると、堰を切ったように双方の抗争が再燃する。実弾が飛び交い、駅や機関庫が襲われ、ついに死者も出た。

不毛の闘いに終止符が打たれたのは、連邦裁判所の介入と、大資本家ジェイ・グールド Jay Gould(下注)がリオグランデに加担したことによる。彼はあくどい手口で鉄道を買収していくので「泥棒男爵 robber baron」の一人とされる人物だが、すでにリオグランデの大株主になっていて、手を引かなければサンタフェの競合路線を造ると脅しをかけた。サンタフェは、これで最終的に諦めた。

*注 ジェイ(ジェイソン)・グールドはアメリカ鉄道王の一人で、1880年に全米の鉄道路線の1/9に当たる1万マイル(16,000km)を支配下に収めていた。

1880年3月に、すべての訴訟に決着をつけるボストン協定 Treaty of Boston が結ばれた。それによれば、リオグランデは、ニューメキシコのエスパニョーラ Española(下注)から南に鉄道を建設せず、サンタフェは今後10年間、リオグランデの本拠地であるデンヴァー、レッドヴィルのいずれにも鉄道を延ばさない。また、サンタフェがすでにロイヤル峡谷に建設を進めていた線路は、リオグランデが180万ドルで買い取ることとされた。これが、リオグランデがリオグランデに行かず、西に路線網を張り巡らすことになった決定的な理由だ。

*注 エスパニョーラは、同州サンタフェ市の北40kmにある町。サンタフェ鉄道はラトン峠経由で、サンタフェ市以南にすでに路線を持っていた。

アメリカ鉄道史に残るロイヤル峡谷戦争は、こうして幕を閉じた。リオグランデは協定どおりロイヤル峡谷の線路を獲得し、1880年5月にサライダ Salida 、同年7月に念願のレッドヴィルに到達した。

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ロイヤル峡谷を行く旅客列車、1951年
@ Denver Public Library 2017, Digital Collections Z-6356

しかし、空前の景気に沸くレッドヴィルがリオグランデの独占で収まるはずはない。同じ年に、別のライバルがまったく別の方向から現れることになる。それはまた次回に。

(2007年3月8日付「ロイヤル峡谷の鉄道 I」、同3月15日付「ロイヤル峡谷の鉄道 II」を全面改稿)

本稿は、「ロッキー山脈を越えた鉄道-コロラドの鉄道史から」『等高線s』No.12、コンターサークルs、2015に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に当たって、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

■参考サイト
DRGW.net  http://www.drgw.net/
New Mexico History Museum  http://www.nmhistorymuseum.org/
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/

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 ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー

 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I

2017年9月17日 (日)

ロッキー山脈を越えた鉄道 I-リオグランデ以前のデンヴァー

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最初の大陸横断鉄道開通75周年
の記念切手
image from wikimedia

北アメリカで最初の大陸横断鉄道が開通した1869年5月10日は、全米が祝賀ムードに酔いしれたと言われる。しかし、所詮それは1本の道に過ぎない。鉄道が通った町が人と荷物の集散地になって繁栄を謳歌する一方で、ルートから外れてしまった多数の町は賑わいを奪われ、寂れていくのを座して待つしかなかった。現在、コロラド州の州都になっているデンヴァー Denver も、当時はそうした不運な町の一つだった。

ところがそのわずか20年後には、背後のロッキー山脈 Rocky Mountains を越えて密度の高い鉄道網が出現し、その中心に、急速な発展を成し遂げたデンヴァーの町があった。いったいこの間に何が起きたのだろうか。その原因に迫るために、19世紀後半から20世紀前半における代表的なコロラドの開拓鉄道を4つ(下注)選び、その歴史と特徴を、地形図とともに追ってみることにしよう。

*注 デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道 Denver and Rio Grande Railroad (D&RG)、デンヴァー・サウスパーク・アンド・パシフィック鉄道 Denver, South Park and Pacific Railroad (DSP&P)、コロラド・ミッドランド鉄道 Colorado Midland Railway (CM)、デンヴァー・ノースウェスタン・アンド・パシフィック鉄道 Denver, Northwestern and Pacific Railway (DN&P)。

1869年5月10日、最初の大陸横断鉄道の開通式のようすを描いた一枚の絵がある(下図)。開通の宣言は、今のようなテープカットではなく、犬釘を打ち込む儀式をもって行われた。特別誂えの月桂樹の枕木に、代表者が銀のハンマーで黄金製の犬釘(下注)を打ち込み、レールを固定するのだ。「最後の犬釘を打ち込む driving the last spike」という言い回しは、鉄道の開通と同義語になっている。もちろんこんな高価なものを無人の平原に放っておくわけにはいかないので、式の後、通常の犬釘と枕木に差し替えられた。本物は今もスタンフォード大学の博物館に保存されている。

*注 ゴールデンスパイク Golden spike と言うものの、実際は金73%、銅27%の合金製。

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トーマス・ヒル Thomas Hill 画「最後の犬釘 The Last Spike」
プロモントリー・サミットにおける大陸横断鉄道の開通式の様子を描いた油彩画
California State Railroad Museum Collection, image from wikimedia

大陸横断鉄道は、東側からネブラスカ州オマハ Omaha を起点にユニオン・パシフィック鉄道 Union Pacific Railroad が、西側からカリフォルニア州サクラメント Sacramento を起点にセントラル・パシフィック鉄道 Central Pacific Railroad が、それぞれ建設を進めていった。私鉄の形をとるとはいえこれは国を挙げての大事業であり、連邦政府から手厚い支援を受けていた。用地は線路だけでなく、付属地として線路1マイルにつき10平方マイル(1.6kmにつき26平方キロ)が無償供与され(下注)、建設費用も、国債の発行により調達された補助金が支給された。それで両社は、できるだけ自社の運行区間を長くしようとして大いに競い合った。

*注 ランド・グラント Land grant という。鉄道会社は獲得した広大な土地に入植者を募り、農産物や生活必需品など輸送需要の喚起を目論んだ。

開通式が挙行されたのは、両鉄道の接続点となったユタ州(下注1)のプロモントリー・サミット Promontory Summit という場所だ。グレートソルト湖 Great Salt Lake の北岸に位置するが、前後区間が1904年に湖上を横断する新線(下注2)に置換えられて廃止されたため、今は史跡として残されている。

*注1 開通当時はユタ準州 Utah Territory で、1896年に州 State に昇格した。
*注2 このルーシン短絡線 Lucin Cutoff は当初トレッスル橋で建設されたが、1950年代に築堤に移された。

路線延長競争の結果は、東側のユニオン・パシフィックが1,087マイル(1,749km)、西側のセントラル・パシフィックは690マイル(1,110km)と、かなりの差が生じた。前者は中央大平原を行く区間が長く、技術的に建設が容易だったのに対し、後者は険しいシエラネバダ山脈 Sierra Nevada を越えるのに難工事を強いられたためだ。

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青線が、デンヴァーを通らなかった最初の大陸横断鉄道のルート
赤線は、後に完成したデンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックのルート
map image from The National Atlas of the United States of America (nationalatlas.gov)

上図は、その大陸横断鉄道の路線図だ。ルートの宿命として、北米大陸の背骨を成すロッキー山脈をどこかで横断しなければならず、そのピークが太平洋斜面と大西洋斜面を分ける大陸分水界 Continental Divide になっている、とふつうは思う。ところが、意外にも分水界と交差する場所は、峨々たる山脈どころか、大分水嶺盆地 Great Divide Basin と呼ばれる広大な高原地帯の真っただ中にある(下注)。地形的に通しやすい場所を選んだ結果だが、このために鉄道は盆地の入口であるワイオミング州シャイアン Cheyenne を経由し、その約100マイル(160km)南にあるデンヴァーはルートから外れてしまった。

*注 ワイオミング州ローリンズ Rawlins とロックスプリングズ Rock Springs の中間、ロビンソン Robinson 信号所のすぐ東で大陸分水界と交差する。

シャイアンと違ってデンヴァーの背後には、鉄路の行く手を阻む大山脈がそびえている。この地域で標高14,000フィート(メートルに直すと4,267m)を超えるピークをコロラド・フォーティナーズ Colorado 14ers と呼ぶが、その数は全部で53峰。アラスカを除けば、合衆国の高山ベスト10のうち7つがこの一帯にあるというほどの山岳地帯だ。

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コロラド・フォーティナーズの最高峰エルバート山 Mt. Elbert
手前はツインレイク Twin Lakes
Photo by David Herrera at wikimedia. License: CC BY 2.0

では、なぜこんな場所に町ができたのだろうか。きっかけは1858年、コロラド山中のパイクスピーク Pike's Peak で発見された砂金だ。瞬く間にゴールドラッシュが巻き起こり、「何が何でもパイクスピークを目指せ! Pike's Peak or Bust!(下注)」を合言葉に10万もの人が殺到した。このとき交易の中心となったのが、山麓に位置していたデンヴァーだった。

*注 原文の "or Bust" は是が非でもという慣用表現だが、同時にPeak(絶頂、頂点)とBust(破産)の対比を掛けている。

しかし、ゴールドラッシュの狂騒は3年しか持たなかった。さらに、1861年に成立したコロラド準州の州都の地位を近隣のゴールデン Golden に奪われ、鉄道も通らないと確定したことで、新興のデンヴァー市民は町の将来を危ぶんだ。実際に北方で鉄道が着工されると活気が消え失せ、ユニオン・パシフィックの幹部はそのさまを見て、「墓場よりも寂れている too dead to bury」とさえ形容したといわれる。

苦境を挽回するために準州知事ジョン・エヴァンズ John Evans が打ち出したのは、独自の鉄道会社を起こして町に線路を引込むという構想だった。彼は「鉄道のないコロラドなど大した価値はない」と宣言していた。彼や地元実業家の奔走により、1867年11月に「デンヴァー・パシフィック鉄道・電信会社 Denver Pacific Railway and Telegraph Company」が設立される。奇しくも、大陸横断鉄道のシャイアン到達とほぼ同時だった。

ところで、西部の鉄道は「パシフィック(太平洋)」という名を冠したものが多い。デンヴァー・パシフィックなどは高々100マイル程度の地方路線に過ぎず、僭称の域を出ないのだが、これは当時の鉄道事業者のいわば合言葉だ。自力で太平洋まで進出できなくとも、大陸横断鉄道と接続すれば、線路は太平洋までつながる。パシフィックが意味するものは黄金郷にも似て、その目的を前面に打ち出すことで投資家を誘うことができたのだ。

とはいっても、デンヴァーはまだ若い町で、資本の蓄積は十分でない。会社は立ち上がったものの、工事を始めるために必要な資金の調達は一向に捗らなかった。知事は町ぐるみの事業として、富裕層に投資を呼びかける一方、中産・下層階級には少額の寄付か、でなければ労働力の提供を求めた。それでも一時は、計画が頓挫の危機に立たされた。

ちょうどそのころ、東隣のカンザス州で、西へ路線を延ばそうとしている鉄道があった。カンザスシティ Kansas City を起点にするカンザス・パシフィック鉄道 Kansas Pacific Railway だ。これとの接続を図るとして連邦政府から土地の無償払下げを受けることに成功した会社は、その土地の売却と、一部は担保にして融資を受けることで、ようやく建設費用を捻出することができた(下注)。

*注 カンザス・パシフィックは、大陸横断鉄道の南の支線という位置付けで、太平洋鉄道法に基づき設立されており、ランド・グラントの対象になっていた。

デンヴァー・パシフィックは1868年5月に起工式を行い、2年後の1870年6月に予定のデンヴァー~シャイアン間が完成して、開通式が挙行された。初めて通じたこの鉄道により、ついに町は大陸横断鉄道と接続するという念願を叶えた。2か月後の8月にはカンザス・パシフィックも町に到達したので、この年、一気に北と東へ列車が走るようになり、苛酷な駅馬車の旅を過去のものにした(下注)。

*注 その後、デンヴァー・パシフィックとカンザス・パシフィックは、1880年1月に大陸横断鉄道のユニオン・パシフィックに合併される。

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1870年代のデンヴァー駅
(c) Denver Public Library 2017, Digital Collections Z-169

以上が、デンヴァーにおける鉄道発達史の第1幕だ。続く第2幕は、残された南のフロンティアをめざした鉄道が主役になる。次回、そのデンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道の動きと、それを牽制しようとするライバルとの確執について話を進めよう。

(2007年1月11日付「ロッキー山脈を越えた鉄道-序章」を全面改稿)

本稿は、Claude Wiatrowski, "Railroads of Colorado : your guide to Colorado's historic trains and railway sites", Voyageur Press, Inc., 2002、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
Denver Public Library Digital Collections  http://digital.denverlibrary.org/
Colorado Narrow Gauge Circle  http://www.narrowgauge.org/

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 ロッキー山脈を越えた鉄道 II-デンヴァー・アンド・リオグランデ鉄道

2017年9月10日 (日)

スロベニア 消える湖、消える川

スロベニアの南西部、クラス Kras(ドイツ語でカルスト Karst)と呼ばれる地域には、地形用語の本場にふさわしい石灰岩台地が横たわる。地中には長い歳月をかけて造られた洞穴が網目のように張り巡らされていて、世界遺産のシュコツィアン Škocjan や、トロッコ列車が走るポストイナ Postojna(下注)などの大規模鍾乳洞は、観光地としても有名だ。

*注 ポストイナの洞内軌道については、本ブログ「ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車」参照。

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ポストイナ鍾乳洞前のピウカ川
image from www.slovenia.info

こうした地下洞をうがってきたのが、台地に降った雨水を流す河川であることはいうまでもない。たとえばポストイナ盆地 Postojnska kotlina / Postojna Basin の水はピウカ川 Pivka に集まる(下図参照)。地形用語でポリエ Polje と呼ばれるこの溶蝕盆地は、砂岩と頁岩が互層になったフリッシュ Flysch で床張りされている。フリッシュは不透水性のため、川は盆地の平たい地表面を蛇行しながら流れる。

しかしその周囲は、石灰岩やドロマイトといった水溶性の岩石で覆われた山地だ(下注1)。そこで川は山際まで来ると、岩の隙間に浸み込み、徐々に溶かして地中に通路を拡げていく。ポストイナ鍾乳洞 Postojnska jama / Postojna Cave(下図では青の円内)もそのようにして生成された(下注2)。

*注1 石灰岩の主成分は炭酸カルシウムでそれ自体は水に溶けないが、二酸化炭素を含んだ水に触れることで水溶性の炭酸水素カルシウムに変化する。
*注2 なお、トロッコの線路が敷かれているのは水流の絶えた古い通路で、現在のピウカ川はそれより西側の通路を流れている。

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ポストイナ付近の1:50,000地形図
青の円内がピウカ川 Pivka の吸込み口であるポストイナ鍾乳洞
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ではこの後、川はどこへ行くのだろうか。ポストイナの町から街道を北へたどってみよう。ポストイナ門 Postojnska vrata / Postojna Gate と呼ばれるなだらかな峠を越えると、道はヘアピンカーブを繰り返しながら山を降りていく。坂下にあるのがプラニーナ Planina という小さな村だ。村の奥、高さ65mの断崖の直下に水の湧出口がある。ここで地中から出た川は、同じようなポリエの盆地、プラニーナ・ポリエ Planinsko polje / Planina Polje の中をゆったりと流れていく。

プラニーナ村の湧出口はプラニーナ鍾乳洞 Planinska jama / Planina Cave(下注)と呼ばれている。この洞穴が興味深いのは、500メートル奥で主要地下河川の合流が見られることだ。一つはポストイナから北流してきたピウカ川、もう一つは東から流れてくるラーク川 Rak River で、地下での合流としては、水量的にヨーロッパで最大級だという。

*注 かつては、湧出口近くにある古い小城にちなんで、小城鍾乳洞 Malograjska jama / Little Castle Cave とも呼ばれていた。

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プラニーナ鍾乳洞入口。ウニツァ川が勢いよく流れ出る
Photo by Doremo at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

そしてこのラーク川は、ピウカ川にもまして、何度も地下に消える川として知られている。地表に現れるたびに名前が変わることから、「7つの名を持つ川」の異名もある。

本流の水源は、スロベニアのカルストでは最も高い大スネジュニク山 Veliki Snežnik(標高1796m、下図右下)の麓に湧き出る泉だ。この山が属するディナル・アルプス Dinaric Alps は、バルカン半島を北西から南東に走っているが、その北側に、山脈に並行して大小のポリエの列が見られる。川はこのポリエ群を貫通しながら流れ下る。

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「7つの名を持つ川」リュブリャニツァ川の流路
ポリエ Polje(溶蝕盆地)で地表に現れては地下に潜るのを繰り返す
背景のレリーフは Geopedia.si より取得。(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

まず、クロアチア国境のバブノ・ポリエ Babno polje(標高750~770m)で、川はトルブホヴィツァ Trbuhovica の名を与えられる(下注)。地下を通って次のロジュ谷 Loška dolina / Lož Valley(標高約580m)に出ると、オブルフ川 Obrh と呼ばれる。また地下に浸み込み、ツェルクニツァ・ポリエ Cerkniško Polje / Cerknica Polje(標高約550m)に現れてからは、ストルジェン川 Stržen になる。

*注 この項は "Karst of Notranjska", Geodetski zavod Slovenije, 1996による。地形図には記載されていない。

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ツェルクニツァ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内がストルジェン川 Stržen の湧出し口、青の円内が吸込み口
「消える湖」ツェルクニツァ湖は湿原記号で描かれる。ポリエの周縁には他にも湧水(濃い青円の記号)が多数見られる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ストルジェン川の名は知らなくても、川の流域にある「消える湖」ツェルクニツァ湖 Cerkniško jezero / Lake Cerknica の名は耳にしたことがあるかもしれない。平均で26~28平方km、満水時には38平方kmと面積は同国最大で、ウィンドサーフィンなどさまざまなウォータースポーツの場を提供する湖だ。ところが、夏の渇水期には完全に干上がってしまい、湖底はたちまち草に覆われて牛たちの放牧地に変貌する。秋に激しい雨が降ると、わずか一日のうちに水が戻り、湖が再現される。

これが毎年繰り返されることから、ツェルクニツァ湖はヨーロッパ最大の間欠湖と言われる。湖面の変動が大きいため、地形図には水涯線が描かれず、Cerkniško jezero の名称と、蛇行する川の周囲に湿地の記号が広がるばかりだ。

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ツェルクニツァ湖の眺め
Photo by ModriDirkac at wikimedia. License: CC0 1.0

なぜこのような現象が起きるのだろうか。湖はポリエの南半分に位置する。そして、カルスト台地の地下にある洞穴の貯水池と、多数の開口部を通してつながっている。このいくつかは周囲の山の下にあって湖面より水位が高く、ほかのものは湖面より水位が低い。夏、流入量が少ないとき、水はより低水位の地下洞貯水池に排水されてしまい、湖には残らない。秋に雨が降ると、周囲のより高所にある貯水池が満水になり、地下通路を通じて湖へ水が回る。こうして湖は急速に水量を回復するのだ。

かつて村人たちは、湖を干拓して恒久的な農地に変えようとした。逆に土木技師は、貯水池に整備して産業開発に生かそうと考えた。しかし、カルストの地下構造との連動を完全に断ち切ることは不可能で、これまでいかなる制御の試みも成功したことがないという。

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秋、ツェルクニツァ湖に水が戻る
image from www.slovenia.info

川の追跡に戻ろう。ツェルクニツァ・ポリエの後、川は一度だけ地下から峡谷の底に顔を出す。名勝として知られ、同国で最も歴史ある風景公園のラーク・シュコツィアン Rakov Škocjan / Rak Škocjan だ。

*注 ディヴァーチャ Divača の近くにある世界遺産のシュコツィアン鍾乳洞 Škocjanske jame / Škocjan Caves とは別。シュコツィアンは聖カンティアヌスの縮約形で、これを守護聖人とする村(教会)の名として他にも例がある。

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ラーク・シュコツィアン付近の1:50,000地形図
ラーク川 Rak は青の円内でのみ地表に現れる
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

峡谷は、鍾乳洞の天井の崩落によって生じたもので、長さは2.5km、切り立った断崖に囲まれる「出口のない」谷だ。中でも、42mの高さがある小天然橋 Mali naravni most / Little Natural Bridge、同じく37mの大天然橋 Veliki naravni most / Big Natural Bridge の、2か所の天然橋(下注)が見ものだ。特に後者では、上を地方道さえ通過している。この峡谷を通る間、川はラーク川 Rak と称し、再度地中に潜った後、先述のプラニーナ洞の中で合流してピウカ川になるのだ。

*注 天然橋(ナチュラルブリッジ)は、岩が川の上にアーチ状にまたがる自然の造形。

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ラーク・シュコツィアンの小天然橋。橋の上部は川から42mの高さ
image on the left by Zairon at wikimedia, License: CC BY-SA 4.0. image on the right from www.slovenia.info
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大天然橋は川のトンネル
Photo by Umberto Vesco at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

さて、これでプラニーナ・ポリエ(標高440~450m)まで戻ってきた。湧出口を出た川は、今度はウニツァ川 Unica(またはウーネツ川 Unec)と名前を変える。そして豊かになった水量を持て余すようにひどく蛇行しながら、ポリエの中を横断していく。北西端まで達すると、鋭角に曲がって東を向くが、地形図で涸れ川の記号が使われているように、いくらかの水は途中、山地の際に寄ったところで地中に吸い込まれてしまうようだ。

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プラニーナ・ポリエの1:50,000地形図
緑の円内が湧出し口=プラニーナ鍾乳洞、青の円内が吸込み口だが、
ウニツァ川 Unica はその手前から涸れ川記号で描かれている
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

出現と潜伏の繰り返しにも、いつか終わりが来る。リュブリャーナ盆地南東隅のヴルフニカ Vrhnika という町(標高290m)の周辺で、川はいくつもの湧水に分かれた形で、最終的に地表に現れる(下図)。

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ブルフニカ付近の1:50,000地形図
左の円内がモチルニク Močilnikとトヴィエ Retovje、右の円内がビストラ Bistra
(c) Sinergise d.o.o., Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

ヴルフニカの主要な湧出口は3か所ある。一つはモチルニク Močilnik で、高さ40mの石灰岩の崖、悪魔の断崖 Hudičeve skale / Devil’s Cliffs の直下だ。ギリシャ神話によれば、英雄イアソンとアルゴー号乗組員 Jason and the Argonauts は、金の羊毛皮を求めて川を遡行してきた。ところが、ここで地上の川が消失したため、行く手を阻まれてしまった。イアソンは怒り狂って拳で岩を叩いたので、その跡が今も残っているという。乗組員たちはやむなく船を分解し、部材を肩に担いでアドリア海まで運んだのだそうだ。

二つ目は、最も湧水量の多いレトヴィエ Retovje で、とりわけ大水門 Veliko okence と呼ばれる湧水は、水面がむくむくと盛り上がるほど勢いよく湧きあがり、迫力満点だ。三つ目は、ヴルフニカとボロウニツァ Borovnica の中間にあるビストラ Bistra で、修道院と古城の脇を泉から流れ出た小川が巡っている。

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(左)レトヴィエの湧出し口の一つ、大水門 (右)ビストラの湧出し口
image on the left  by Savinjc at Slovenian Wikipedia. License: CC BY-SA 3.0. image on the right by Mihael Grmek at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

これらの川はまもなく盆地の中央に集まり、7番目の名であるリュブリャニツァ川 Ljubljanica となって、首都リュブリャーナへ流れ下る。イアソンの時代は一面芦が生い茂る湿原だったはずだが、今は排水が進み、行く手に見渡す限りの農地が広がっている。

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農地化された湿原をリュブリャニツァ川は流れ下る
image from www.slovenia.info

(2006年3月18日付「スロベニア 何度も消える川」を全面改稿)

本稿は、Tourist map " Karst of Notranjska " Geodetski zavod Slovenije, 1995、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/
ヴルフニカ市観光案内 http://www.visitvrhnika.si/

★本ブログ内の関連記事
 ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

2017年9月 3日 (日)

ポストイナ鍾乳洞のトロッコ列車

中欧スロベニアの南西部からアドリア海の間には、石灰岩やドロマイトなど水溶性の岩石が造り出す複雑怪奇な地形が横たわる。カルスト地形というよく知られた用語は、スロベニア語でクラス Kras と呼ばれるこの地方のドイツ語名称を借りたものだ(下注)。

*注 クラスはドイツ語でカルスト Karst、イタリア語ではカルソ Carso になる。

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トロッコ列車が地中の「コンサートホール」を駆け抜ける
image from www.slovenia.info

首都リュブリャーナ Ljubljana から西へ向かう列車は、このカルストの波打つ高原を越えていかなければならない。たどるルートは、ローマ時代からあるパンノニア平原(現 ハンガリーとその周辺)と北イタリアを結ぶ交易路だ。標高610mの峠道は回廊状になっていて、ポストイナ門 Postojnska vrata と呼ばれる。近現代に至るまで戦略的に重要な場所で、今も幹線鉄道と高速道路が並走している。

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ポストイナというのは、峠道から下りたところにある小さな町の名だ。しかしその名は門よりも、鍾乳洞(下注)の存在によって世界に知られている。カルスト地形では珍しくない鍾乳洞だが、ポストイナの裏山の地下に横たわるそれは総延長が約24kmあり、同国でも一二を争う規模を誇る。その一部、往復5kmが観光用に公開されており、1日数回行われるガイド付きツアーで見学することができる。

*注 公式名称はスロベニア語で Postojnska jama(ポストイナの洞穴)、英語でも Postojna Cave だが、日本ではこの種の洞穴を鍾乳洞と呼ぶので、本稿では「ポストイナ鍾乳洞」とした。

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ポストイナ鍾乳洞の管理棟(鍾乳洞宮殿 Jamski Dvorec)、左奥が洞口
image from www.slovenia.info

ポストイナ鍾乳洞のユニークさは、規模の大きさにとどまらない。ここにはおそらく世界でも類のない、鍾乳洞の中を走るトロッコ列車があるのだ。ツアー参加者は、洞内に入るとまず、このミニ列車に乗って、地中の奥深くへ運ばれていく。約10分乗車した後、ガイドに従って、徒歩で鍾乳洞の最も見ごたえのある区間を巡る。そして、コンサートホール Koncertna dvorana と呼ばれる大空間から、再び列車で入口まで戻ってくる。全行程の所要時間は約1時間半だ。

洞内軌道は620mm軌間で、上下別線になっている(見かけは複線)。終端はループ化されており、周回線路の総延長は3.7kmに及ぶ。また、降車ホームと乗車ホームは分離され、両者の間は回送運転になる(下図参照。図中、departure platform が乗車ホーム、arrival platform が降車ホームの位置)。列車は、蓄電池式機関車が牽引し、2人掛け×4列の簡素な2軸客車を多数連結している。それでも押し寄せる訪問客をさばくために、繁忙期は60分ごとに続行で運行されるのだ。

■参考サイト
YouTube ポストイナ洞内軌道の乗車映像(4K解像度)
 往路と復路が逆に編集されているので注意。全20分のうち、前半は「復路」の後方、後半は「往路」の前方の映像になっている
https://www.youtube.com/watch?v=u3CE6hzDE0A

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線路は上下別線
photo by fish tsoi at flickr.com, CC BY 2.0
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洞内の終点(降車ホーム)、ここから徒歩ツアーが出発する
image from www.slovenia.info

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地形図で見るポストイナ鍾乳洞
赤の鉄道記号が洞内軌道のルート、青線が徒歩ツアーのルート

公式サイトから取得した洞内平面図を、1:25,000地形図に重ねた。位置照合は、Geodetski zavod Slovenije 発行の観光地図 "Karst of Notranjska" を参考にした
(c) Geodetska uprava Republike Slovenije, 2017

観光用の軽鉄道とはいえ、鍾乳洞の公式サイトによれば140年もの歴史があるという。ポストイナ鍾乳洞は、未知の通路が発見された1818年以降、人々に知られるようになった。ウィーン~トリエステ間のオーストリア南部鉄道 Österreichische Südbahn がポストイナを経由した19世紀中期には、すでに洞内に鉄道を敷く構想があったが、実現はしなかった。

初めて洞内にレールが敷かれるのは1872年だ。入口から洞内のカルバリ Kalvarija(下注1)と名付けられた地点まで、1,534mの長さの人車軌道だった。ルートにほとんど坂道がない(下注2)ので、案内人一人で、二人乗りの小さな客車を押して走らせていたという。しかし、訪問者が増加すると、人力に頼る運行形態には限界が来る。

*注1 カルバリはいうまでもなくキリスト受難の丘のことだが、現在は「大きな山」 Velike gore / Great Mountain と呼ばれる。
*注2 実際、軌道が走る周囲の床面は平坦化されており、人工的に整備したのは間違いない。

1914年に、モンタニア Montania と呼ばれるガソリンエンジンで走る機関車と4人乗り客車が、オーレンシュタイン・ウント・コッペル Orenstein & Koppel 社に発注された。モンタニアは鉱山や林業で使われていた小型機関車だ。しかし、第一次世界大戦が勃発したため、納入は延び延びになり、予定の運行が可能になったのは、線路の改修が完了した1924年だった。

当初、1日4便が運行され、初年度は15,588人がそれを利用して鍾乳洞を巡った。翌25年には3軸の、より強力な新型モンタニアが6人乗りの新しい客車とともに導入された。1928年には、鍾乳洞の入口に、レストランや待合室がある今の管理棟がオープンし、プラットホームも整備された。ただし、今と違って、列車を利用せずに徒歩だけで巡ることもまだ可能だった。徒歩ツアーは1963年まで維持されていた。

第二次世界大戦後、鍾乳洞の訪問者数はますます増加したが、引き続きガソリン車が使われたため、洞内の空気汚染が深刻化していった。1957年にようやく、蓄電池で動くエマム Emam 機関車2両が配備されてモンタニアを置き換え、完全無煙化を達成した。エマムは1959年と1964年にも各1両が増備された。

一方、線路も改良の必要に迫られていた。単線で、中間の信号所が2か所しかなく、同時に3本運行するのが限度だったからだ。1959年から複線化の検討が始まり、第一段階として、鍾乳洞入口のループと2本目の線路が1964年6月20日に開通した。このとき、洞内の終点はまだ頭端構造だったが、1967年に第二段階の、人工トンネルを介したループが最奥部で開通し、現在の周回線が完成した。

1978年には蓄電池式機関車は12両を数えるまでになったが、1988年に新型6両が調達されて、8両の旧型車を置き換えている。来年(2018年)は鍾乳洞発見200周年に当たり、これを機に管理会社では、輸送システムのさらなる更新を計画しているそうだ。

本稿の最後に、1999年8月に筆者が訪れたときの簡単なレポートを記しておこう。

リュブリャーナ8時10分発のプーラ Pula 行き列車で、霧の中をゆるゆると走って、ポストイナ着9時02分、ホームに降り立ったのは数人だった。貨物駅かと思うほど駅前にも何もなく、地図帳を紛失して土地不案内の私たちは、道なりに進んでなんとか町の中心部に出た。案内所があったので地図を所望するも、窓口氏は「not exist」とにべもない。

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(左)ポストイナ駅に到着。構内は広いが貨物駅のよう (右)鍾乳洞の平面図

道路標識を頼りに歩くこと10分ほどで、鍾乳洞の施設が見えてきた。訪問者はみなマイカー利用のようで、なるほどこれでは公共交通が成立しないはずだ(下注)。毎時00分にツアーが出るとパンフレットにあったので、急いで入場券の窓口に並んだ。平日でもかなりの人出だ。

*注 2017年現在、リュブリャーナからポストイナ鍾乳洞行きのバスが平日3本、休日1本設定されている。なお、鍾乳洞には立ち寄らないものの、ポストイナ市街を通る路線バスは多数走っている。

エントランスを入っていくと、トロッコ列車が待機している。遊園地のジェットコースターのような短いオープン客車が10両ほども連なっている。ドアもシートベルトもないのだが、走り出したらやたらと飛ばす。それも本物の鍾乳洞の中なので、鍾乳石の垂れ下がる大広間があるかと思えば、頭をこすりそうな素掘りのトンネルをくぐる。通路幅が狭くなると上り線と下り線が離れていき、また近づいてくる。スリリングな場面展開は、造り物のアトラクションの比ではなかった。

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(左)乗降客で混雑する入口駅 (右)鍾乳石の垂れ下がる洞内を行く
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第2次大戦中、ナチスドイツが洞内を火薬庫に使用していた。パルチザンが火をつけたため、洞内に煙が充満した。黒い鍾乳石はその名残

これだけでも十分楽しめたのだが、列車を降りた後、ガイドによる洞内ツアーがある。私たちは「English」の立札のもとに集合したが、ガイド氏の話は率直なところよくわからない。一応ついていきながらも、半分勝手に行動したので、いつのまにか後ろの「イタリアーノ」組に追いつかれてしまった。

鍾乳石は見事に保存されていて、スパゲティと呼ばれる細い糸のような石や、削り節をくねらせたような石のように、繊細な造形がそのまま見られる。かなり奥深いところなので、荒らされる前に保護の網をかぶせることができたのだろう。洞穴はピウカ川 Pivka River が造ったはずだが、水流が全く見られないのは、別の場所を通っているからだという(下注)。

*注 ピウカ川は、上の地図でライトブルーに塗った洞穴を流れている。なお、入口の降車ホーム付近だけは、川が流れる洞穴に設けられているため、水音がする。

ツアーが終わる直前、類人魚なる生き物が入れられた水槽の前を通過した。ライトを当てられっ放しだが、闇の中で生きてきた類人魚は大丈夫なのだろうか。徒歩による鍾乳洞見学は1時間ほどで終わる。予想に反して、ガイド氏はチップを要求することもなく、帰りの列車の時刻だけ告げて、どこかへ消えてしまった。

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徒歩ツアーで巡る鍾乳洞、「スパゲティ」が天井を覆う

■参考サイト
ポストイナ鍾乳洞(公式サイト) http://www.postojnska-jama.eu/

★本ブログ内の関連記事
 スロベニア 消える湖、消える川
 ベルギー アン鍾乳洞トラム I

2017年8月26日 (土)

城下町岩村に鉄路の縁

明知(あけち)鉄道の気動車は、JR中央本線恵那(えな)駅の片隅から出発する。鉄道仲間のTさんと訪れた2017年7月のある日、片面1線の狭い専用ホームは、賑やかな年配女性のグループに占拠されていた。というのも、次に入線するのが、急行「大正ロマン号」という料理を楽しむイベント列車だったからだ。明知鉄道明知線は、恵那~明智(下注)間25.1km。私たちは途中の岩村(いわむら)駅まで切符を買っている。

*注 地名・駅名は「明智」と書かれるが、鉄道名は、古い用字の「明知」鉄道「明知」線が使われている。

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恵那駅で発車を待つ大正ロマン号
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明知鉄道路線図(恵那駅の案内板を撮影)

大正ロマン号は破格(?)の3両編成で、前1両が普通車、後ろ2両は特製弁当が用意された食堂車だ。残念だが私たちは普通客なので、前の車両のかぶりつきに陣取った。発車は12時22分、走り出すや列車は33‰勾配に直面する。一部にほぼ平坦な区間はあるものの、飯沼川の渓谷を遡り、1つ目のサミットとなる飯沼トンネルまで、8km近くこの急勾配が続くのだ。

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(左)東野駅東方にある33‰の勾配標 (右)野田トンネル

気動車はゆっくりと、しかし喘ぐこともなく、淡々と坂を上っていく。急行運転のため、小駅には止まらない。いったん阿木川のやや開けた谷に降りて、阿木(あぎ)駅に停車。再び小さな峠を越えて、今度は岩村川の平たい谷に出る。極楽(ごくらく)という新駅を経て、12時53分に岩村に着いた。斜め向かいのホームに、交換する上り列車が待っている。

岩村(下注1)は私にとって初めての土地だ。明知線には国鉄時代、一度乗り通したことがある(下注2)が、中間駅は素通りしたのでほとんど何も記憶に残っていない。今回も本来の目的は鉄道乗車だ。取り立てて岩村の町に興味があったわけではなく、まさかここで浅からぬ鉄路の縁に巡り合えるとは、この時はまだ想像もしていない。

*注1 行政上は岐阜県恵那市岩村町
*注2 国鉄明知線は、1985年11月に第三セクターである明知鉄道に転換された。

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岩村駅
(左)路線唯一の列車交換駅
(右)全線自動閉塞化されたが、転轍てこが残されている

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岩村のレンタサイクルは
電動アシストタイプ

とりあえず計画していたのは、明知線上の飯沼(いいぬま)駅を見に行くことだった。この駅は33‰勾配の途上にあり、日本で2番目の急傾斜駅として売り出し中だ(下注)。岩村から4駅恵那寄りで、さっき大正ロマン号で通過している。駅前からレンタサイクルの連絡先に電話して、パナソニックの電動自転車を借りた。なにしろ周りは山坂だらけなので、普通の自転車ではたちまちへばってしまうに違いない。

*注 普通鉄道で日本一の急傾斜の駅は、滋賀県大津市にある京阪電鉄京津線大谷駅で40‰の勾配上にある。

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阿木周辺の1:50,000地形図に加筆

あらかじめ地形図で、飯沼までできるだけ2車線道を避けて行けるルートを確かめてある。絶えずクルマを気にしながら走るのは興醒めだからだ。国道257号に並行して、岩村川の左岸に頃合いの小道が延びている。走ってみると比較的直線で舗装もされているし、飯羽間の中切集落で国道に合するまで、ゆったりのんびり進むことができた。

地形図にはまた、阿木駅の北に1車線のトンネルが描かれている(上図の中央)。里道にしては異例の長さなので、これもルートに組み入れておいた。もしや森林鉄道の跡と疑ったのだが、そうではなかった。ネット情報を拝借すれば、これは野田トンネルといい、長さは252m。戦時中、地下軍需工場のために掘られたのを戦後転用し、1947年に竣工したのだそうだ(下注)。内壁はモルタル吹き付け、路面はコンクリート舗装で、照明もついている。空気はひんやりとして、蒸し暑い外との気温差で靄がかかっていた。

*注 北口に立つ隧道完成之碑には次のように書かれていた。「昭和二十二年半田市加藤銀三郎氏私財を投じて之を貫通し爾来中津川市及び阿木飯沼両地區の厚志により年を追うて補強し昭和四十四年四月完成す 茲に謝恩の意を表し建之 野田組」

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野田トンネル (左)南口 (中)内部はもやがかかる (右)北口

峠を一つ越えると、飯沼駅だ。集落から離れた谷合いにぽつんとある。私たちが着くと同時に、踏切の警報機が甲高い音を立て始めた。うまいタイミングで、明智行き普通列車がやってきたのだ。慌ててスタンバイし、ホーム取付けの階段と列車との傾斜加減を写真に収める。後で、この列車と岩村駅で交換した上り列車も、阿木駅北側のカーブした築堤で捉えることができた。3段変速の電動自転車だと、かなり急な坂道でも無理なく走れるので、野山を駆ける撮影行には重宝する。

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飯沼駅
(左)33‰勾配からの発進 (右)待合室の基礎に表れる高低差
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阿木駅北方で上り列車を見送る
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阿木駅舎
(左)懐かしいホーロー引き駅名標 (右)ベンチには暖かそうな手縫いの座布団

話はそれるが、阿木にある異形の橋、旧阿木橋も見た。片側はコンクリート桁の道路橋なのだが、川の中央から先は簡易な鉄骨トラスで繋いである。通りがかりのご婦人に聞くと、かつて(1957年)大水の時に川岸が抉られたため、人や自転車だけでも通れるように継ぎ足したのがあの結果だという。元の川幅は今の半分だったのだ。すぐ上流に新しい橋が架かり、車の通行に支障がなくなったので、当時のまま残されている東濃のアビニョン橋だ。

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東濃のアビニョン橋、旧阿木橋

岩村の旧市街は、1998(平成10)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。近在の妻籠宿、馬籠宿のような先駆事例に影響を受けているのだろう。本通りと呼ばれるメインストリートでは約2kmの間、目障りな電線が地中化され、街路に沿う家並がすっきりと見通せるのがいい。古風な雰囲気を残す建物が数多く保存され、現代建築も修景されている。

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岩村本通り

駅から城をめざして上っていくと、街路がクランクしている枡形(ますがた)付近から先が、江戸期に遡る商家町になる。文化財の公開建物ももちろん一見の価値があるのだが、それにも増して、国道の本町交差点の上手で軒を並べる商家群が圧巻だ。立派な売薬の看板が所狭しと掛かる水野薬局、年代ものの柱時計が壁を埋める藤井時計店、18世紀の創業という造り酒屋の岩村醸造、同じ頃、藩医が長崎から持ち帰ったレシピで今もカステラを焼く松浦軒本店(下注)など、どれも、にわか造りの観光施設には真似のできない歳月の重みを感じさせる。

*注 固めに焼き上げて独特の食感をもつ名物のカステラをつくる菓子店が、この町にはあと2軒ある。

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本通りの商家
(左)柱時計が壁を埋める時計店 (右)長崎伝来のカステラを売る老舗
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貴重な年代物の看板に感動

今朝からずっと曇り空だったが、夕暮れにとうとう雨が降り出した。本通りをなおも上っていくと、背後にそびえる城山の森が薄墨を刷いたように重なり、木版画の風情を漂わせている。標高717mの山頂に築かれた岩村城は、こうして霧がかかりやすいので「霧ヶ城」の別名をもつ。伝説では、城内の井戸に秘蔵の蛇骨を投じると、霧が沸き立って城を隠すのだそうだ。

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木版画の風情を見せる街路と城山の森

麓から城跡までは、石畳の険しい坂道が続いている。雨の上がった翌朝早く登城したら、濡れた木立に陽光のシャワーが射し込む荘厳な光景に迎えられた。あまたの歴史を秘めた山城が、神秘の力の一端を見せてくれたのかもしれない。

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岩村城の登城坂 (左)初門付近 (右)追手門跡
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六段壁の石垣が残る岩村城址

話は前日に戻るが、町の端に立つ常夜灯の傍らで、保存地区の成り立ちを記した案内板を見ていたら、ある一文が目に止まった。「枡形より西側の地区は、江戸時代末期から順次発展し、明治39年の岩村と大井(現・恵那市)を結ぶ岩村電気軌道の開通により一層繁栄し、いまも岩村町の商業の中心地となっています」。明知線より前からここに電車が来ていたことを知ったのは、それが初めてだった。

中世から近世を通じて、岩村藩の城下町として栄えたこの町も、明治維新による藩の解体を境に、地域経済の中心的地位を失ってしまう。加えて、鉄道が町から遠く離れた中山道に沿って敷設されることになった。さらなる衰退を危惧した地元資産家の奔走で、実現したのが岩村電気軌道(下注)だったのだ。

*注 大井~岩村間12.6 km、軌間1,067 mm、600 V直流電化

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岩村電気軌道に関する記事
荒巻克彦「明知線と蒸気機関車」非売品,1980年より

名古屋から延伸されてきた官設鉄道、今の中央本線は1902(明治35)年に中津(現 中津川)に達し、大井駅(現 恵那駅)が開設された。会社の設立はその翌年で、3年後の1906(明治39)年には早くも大井と岩村の間で営業運転を始めている。名古屋に国内2番目の市内電車が登場(1898年)してまだ8年、進取の精神がもたらした最新の交通機関を、町民はさぞ驚きの目をもって迎えたことだろう。

同じ大井駅を起点とする国鉄明知線が岩村に到達するのは、1934(昭和9)年のことだ。大井までの所要時間は両者さほど変わらなかったが、貨物輸送はもとより、旅客も乗り心地の良さから新しい路線に移っていった。利用者が激減したため、電気軌道は補償を受けて、翌1935(昭和10)年に運行を廃止した。

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岩村周辺の1:50,000地形図に加筆
赤の破線は岩村電気軌道のルート

では、その軌道はどこを通っていたのか。さっそく調べてみると、何のことはない、昼間に自転車を走らせた岩村川左岸の小道が、廃線跡だった(上図参照)。どうりでまっすぐ延びていたはずだ。翌日、もと十四銀行支店の建物にある観光案内所「まち並みふれあいの館」に立ち寄って、電気軌道に関する資料を見せてもらう。写真もまったく撮っていなかったので、改めて駅付近のルートを確かめに出かけた。

駅から北西に400m、小道が国道257号線を横断する地点に立つ。北側は、軽四輪が似合いそうなのどかな一車線道が続いている。それに対し、南側は同じ道幅ながら周囲に屋敷が並び、岩村川に突き当たったところで右へ曲がる。そのときは判らなかったのだが、旧版地形図によれば、現 岩村駅南西の、盛り土をした公園が電気軌道の終点跡と読める。

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電気軌道廃線跡
国道257号線横断地点の北側(大井方)は野中の一本道
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電気軌道廃線跡
(左)国道257号線横断地点から南側(岩村方)を望む
(右)岩村川に臨んでカーブした後、川を渡っていた

岩村駅の上りホームが駅舎から離れて、軌道終点の近くに配置されているのも、意味ありげだ。明知線が開通したとき、軌道はまだ現役だったから、相互に乗換の便が図られたとしても不思議はない。いたって静かなこの山里の駅が、一時期、新旧路線の旅客ターミナルとして賑わっていたなど、想像するだけでも興味深いことだ。

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ホームが千鳥状に配置された現 岩村駅
右の上りホームの斜め後ろが軌道駅跡らしい

さて、岩村での鉄路の縁の最後にもう一題、本通りに面した造り酒屋、岩村醸造を覗いたときの話をしよう。ソフトクリームはじめました、という看板に釣られて店内に入ったのだが、ふと見ると、床にレールが敷いてあるではないか。酒屋や醤油屋などで、重い原材料や製品の搬出入に手押しトロッコを使っていたとは聞いたことがある。いわゆる横丁鉄道だが、本物を見るのは初めてだ。

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杉玉が吊された岩村醸造の玄関口

もう利用されていないとはいえ、線路はしっかり残されている(下注)。店の人に「奥まで見学できますよ」と言われたので先を追うと、透き通った水の流れる中庭に出た。本通りに並行して走っている天正疎水という用水路で、屋敷を奥へ拡張したときに庭に取り込まれたのだ。酒の仕込みに使うのと同じ地下水で喉を潤してから、なおも奥へ向かうと、瓶詰めの作業場の横を急カーブですり抜けていく。そして、仕込み桶が並ぶ酒蔵に入ったところで途切れていた。

*注 岩村醸造のリーフレットによれば、長さは100m。

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(左)店先から奥へトロッコのレールが延びる (右)天正疎水をまたいで続く
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(左)作業場を急カーブですり抜ける (右)レールの先端は酒蔵の中

鉄道模型の世界には、屋外に線路を敷いて、人が乗れるような大型車両を走らせる庭園鉄道というジャンルがある。業務用とはいえ、屋敷の中を線路がくねくねと走るのは、それを超える意外性が感じられて愉快だ。堪能したので、何か土産を買って感謝の気持ちに代えたいと思ったが、日本酒をやらない私は、少し恐縮しながら甘酒入りのソフトクリームを注文するしかなかった。

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(左)トロッコは商品の陳列台に (右)甘酒入りソフトクリーム

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図岩村(平成19年更新)を使用したものである。

■参考サイト
明知鉄道 http://www.aketetsu.co.jp/
安岐郷誌 http://agimura.net/
城下町ホットいわむら http://hot-iwamura.com/
岩村醸造 http://torokko.shop-pro.jp/
 左メニューにあるグーグルのストリートビューで、トロッコのレールを追うことができる

2017年8月19日 (土)

タイエリ峡谷鉄道-山峡を行く観光列車

ダニーディン駅 Dunedin Railway Station は、どこかのお城と見間違えるほど華麗な駅舎だ。右端に立つ高さ37mの時計塔が、市の中心街オクタゴン Octagon からもよく見える。駅舎の印象を決定しているのは、地元ココンガ Kokonga 産の黒玄武岩と明るいオアマル石の組み合わせから成る鮮明なコントラストだ。そこにピンクの大理石の列柱や、テラコッタの屋根、銅板葺きの頂塔があしらわれて、モノトーンのカンヴァスに彩りを添えている。

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ダニーディン駅舎の華麗な外観
Photo by Ulrich Lange at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

出札ホールに入るとまず、中央に蒸気機関車のモチーフをあしらった英国ミントン製のモザイクタイルの床に目を奪われる。内壁を飾る艶やかなロイヤル・ドルトンの陶製付柱と装飾帯を愛でた後、2階のバルコニーに上れば、大窓のステンドグラスの、煙を勇壮に噴き上げる機関車の意匠が旅の気分を盛り上げてくれる。

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(左)出札ホールの内壁はロイヤル・ドルトンの装飾陶板、バルコニーのステンドグラスは機関車の意匠
(右)床はミントンのモザイクタイルを敷き詰める
以下、コピーライトの表示がない写真は、2004年3月筆者撮影

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南島の南東岸に位置するダニーディンは、1860年代のゴールドラッシュで移住者が急増し、工業都市としての基盤が造られた。19世紀にはニュージーランドで最大の都市になったこともある。経済的繁栄のもとで、1880年代から1900年代初めにかけて注目に値する建造物が市内に次々と造られた。その一つが、1906年に竣工したこの駅舎だ。

かつては1日最大100本の列車と乗降客をさばいていた駅だが、2002年に廃止された「サザナー Southerner」を最後に、メイン・サウス線 Main South Line(下注)を通しで走る長距離旅客列車は消滅してしまった。鉄骨組みの屋根が架かる立派なホームも今では閑散として、タイエリ峡谷鉄道(タイエリ・ゴージ鉄道)Taieri Gorge Railway(2014年からダニーディン鉄道 Dunedin Railways、詳細は後述)の観光列車が発着するだけになっている。

*注 メイン・サウス線は南島の東海岸を南へ走る幹線。リトルトン Lyttelton ~クライストチャーチ Christchurch ~ダニーディン~インヴァーカーギル Invercargill 間601.4km。

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閑散としたダニーディン駅の本線ホーム

タイエリ峡谷鉄道の列車は、駅から南へ出ていく。メイン・サウス線をウィンガトゥイ Wingatui まで走り、そこでオタゴ・セントラル支線 Otago Central Branch に入る。タイエリ川 Taieri River が隆起する地盤を刻んで造った深い峡谷を遡った後、多くの列車は、谷を脱した地点にあるプケランギ Pukerangi(ウィンガトゥイ分岐点から45.0km、ダニーディンから57.2km)で折り返す。往復の所要時間は4時間だ。

また、運行日は限られるが、その先ミドルマーチ Middlemarch(同 63.8km、76.1km)まで足を延ばす便もあり、こちらはミドルマーチでの休憩1時間を含めて往復6時間のコースになる。

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オタゴ・セントラル支線(ウィンガトゥイ Wingatui ~クロムウェル Cromwell)および周辺路線図
旗竿記号はタイエリ峡谷鉄道観光列車の走行ルート、点線は廃線区間(現 オタゴ・セントラル・レールトレール)
土地測量局 Department of Lands and Survey 発行の鉄道地図 南島1983年版に加筆
Sourced from LS159 Railway Map of South Island, Crown Copyright Reserved.

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駅舎にはタイエリ峡谷鉄道の
チケットオフィスが入居

私たちは、2004年3月のニュージーランド旅行の終盤で、タイエリ峡谷鉄道を訪れた。オクタゴンの観光案内所で資料や市街図を仕入れて、駅へ向かう。列車はEメールで予約してあるので、グッズショップを兼ねたチケットオフィスで名前を言って、切符を受け取った。プケランギ往復は1人59 NZドル(当時のレートで4,250円)だ。

プラットホームは、駅舎に接した長さ500mもある本線用と、ドック形(片側行止り)の支線用が使われている。朝の列車は支線用のほうに停まっていた。ディーゼル機関車に続いて緩急車、それから新旧の客車が8両ほど連なり、最後はバーと売店を備えた車両だ。私たちの指定された車両はクラシックな木造車だった。狭軌線のために車内は狭いが、座席は1+2配列の背もたれ転換式で、なかなか快適だ。最後尾の1人席と2人席の向かい合わせをあてがってもらったので、わが子の座る場所もある。

発車時刻が近づくにつれ、車内はほぼ満席になった。見たところ乗客層は鉄道ファンというより、この地方への観光客で、列車の旅を一つのイベントとして愉しんでいる様子だ。

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(左)支線用ホームで発車を待つ列車
(右)クラシックな車内は、1+2配列の転換式座席

9時30分、定刻に発車した。時おり雨が襲う肌寒い日だが、鉄道ファンとしてはオープンデッキに立たないわけにはいかない。列車はしばらく本線を走る。トンネルを2本抜けて、島式ホームが残るウィンガトゥイ駅で運転停車。すぐに右へ分岐して北進し、山裾を巻きながら1:50(20‰)勾配で上っていく。

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(左)ウィンガトゥイ駅を発車して支線へ
(右)タイエリ平野を後に、山裾を巻いて上り始める

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前半のハイライト区間(ウィンガトゥイ鉄橋の前後)の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map CE16 Mosgiel, CE17 Dunedin. Crown Copyright Reserved.

この小さな峠越えの下り坂の途中に、沿線前半の見どころがある。谷を斜めに横断する長さ197.5m、高さ47mのウィンガトゥイ鉄橋 Wingatui Viaduct だ。直下の谷底が透けて見え、写真を撮ろうと狭いデッキから身を乗り出したら、足がすくんだ。

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ウィンガトゥイ鉄橋
(左)高さは沿線随一 (右)直下が透けて見えて足がすくむ

まもなく幅30~50mほどのタイエリ川本流に出会う。列車は川の屈曲に対して忠実に急カーブで応じながら、しばらく左岸を進んでいく。バックロードとの併用橋で右岸に移ると、待避線のあるヒンドン Hindon 駅だ。しばらく停車します、とアナウンスが流れ、乗客たちはホームの形すらない線路脇の地面にどさっと降り立った。

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(左)タイエリ川本流に出会う
(右)旧パレラ Parera 駅通過。赤屋根の家はかつての駅舎

再び走り出すと、200~300mの比高がある谷が一層深さを増すように感じられる。車窓からいつのまにか高木が消え、ごつごつした巨岩と灌木や草地に代わっている。左から合流するディープ・ストリーム Deep Stream を渡ったところで、線路は再び1:50(20‰)勾配で谷壁を上り始めた。川が下方へ離れていけば、いよいよ旅の後半の見どころ区間だ。

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ディープストリーム鉄橋を渡り終えると、線路は谷壁を上りにかかる

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後半のハイライト区間(ヒンドン~プケランギ)の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map CD16 Middlemarch, CE16 Mosgiel. Crown Copyright Reserved.

岩をうがち、橋を架けて、険しい谷壁を切り抜けていくルートは、スリリングで見飽きることがない。とりわけ支谷の上空を渡るフラット・ストリーム鉄橋 Flat Stream Viaduct が見事だ。長さ120.7m、高さは34mと数字上はおとなしいが、右下方を流れる本流との高低差はすでに100m近くある。曲線でカントがついていることも手伝って、デッキから見下ろす高度感はなかなかのものだ。

鉄橋を渡った後は、直立に近い岩壁を大胆に切り崩した区間を通過していく。「ザ・ノッチズ The Notches(山峡の意)」と呼ばれ、峡谷の工事では屈指の難所だったところだ。

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険しい斜面を渡るフラット・ストリーム鉄橋(左)とザ・ノッチ第4鉄橋(右)

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上空から見たフラット・ストリーム鉄橋の前後
(c) Dunedin Railways, 2017

そのうち、垂直の切通しに機関車が頭を突っ込む形で停車した。旧 ザ・リーフス The Reefs 駅の少し手前(地形図に Viewpoint と注記)で、もうすぐ峡谷本体ともお別れという地点だ。展望台になっている保線用空地に出ると、平坦な高原とその底を這うように流れるタイエリ川が見渡せた。

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(左)ザ・リーフス駅手前で切通しに突っ込む形で停車
(右)保線用の空地が展望台に

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展望台からタイエリ川上流を望む

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IPENZによる記念銘板

IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会)が設置した銘板には次のように記してあった。「旧 オタゴ・セントラル鉄道のこの区間はニュージーランドの工学遺産として重要なものである。ダニーディンからクロムウェル Cromwell までのルートは7つの代案の中から選ばれ、1879年に建設が始まった。タイエリ峡谷を通す工事は15の橋梁と7つのトンネルを要する最も困難な工区であったが、その壮大な景観は工学上の業績の価値をより高めている... 」

最後の休憩地を出ると、十分な高度を得た線路は高原上に居場所を移し、まもなくこの列車の終点プケランギに到着する。粗末な待合所がぽつんと建つ以外、何もないようなところだ。また雨が降り出したので、外に出た乗客も慌てて車内に戻ってしまう。機関車の機回し作業が手際よく終わり、列車は10分後に同じ道を引き返した。

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折返し地点のプケランギに到着

観光列車が走るオタゴ・セントラル支線は、本来、内陸部の開発で得られる鉱物資源や農畜産物を輸送する目的で造られた。ウィンガトゥイ~クロムウェル間236.1kmの長大な路線で、1889年から1921年の間に順次開通した。実現しなかったが、さらに奥地のハウェア Hawea まで延長する構想もあった(冒頭の路線図参照)。

しかし、第二次大戦後は輸送量が減少し、1970年代に入ると存続の可否が議論されるようになった。すでに1958年以降、末端区間アレクサンドラ Alexandra ~クロムウェル間の旅客輸送は、バスで代行されていたが、1976年には全線で、専らレールカーが担っていた旅客輸送が休止された。そればかりか、クルーサ川 Clutha River を堰き止めるクライドダム Clyde Dam(下注)の着工を前に、水没するクライド Clyde ~クロムウェル間19.9kmが、1980年4月4日限りで廃止となった。

*注 湛水したダム湖は、ダンスタン湖 Lake Dunstan と呼ばれる。

残る区間が遅くまで存続したのは、そのダムの建設資材を輸送する目的があったからに過ぎない。水没区間廃止後、クライド駅は1.9km手前に移転し、そこに貨物を扱うヤードが設けられた。1990年にダムが完成すると、鉄道は役割を終え、同年4月30日をもって運行が終了した。

ところで、このルートを走る観光列車は、支線の運命が定まるより前の1950~60年代から実績がある。1979年にオタゴ観光列車財団 Otago Excursion Train Trust に引き継がれて、事業が本格化した。それが人気を呼んだことから、1987年には運行に専念する公営企業「タイエリ峡谷株式会社 Taieri Gorge Limited」の設立で実施体制が整えられ、新車両も投入された。

路線の廃止方針を受けて、ダニーディン市議会は、列車を今後も安定して走らせるために、ニュージーランド鉄道との分界点(下注1)からミドルマーチまで約60kmの線路資産を取得することを決めた。1990年5月1日にこの区間の所有権は、ニュージーランド鉄道から市に移された(下注2)。

*注1 オタゴ・セントラル支線の根元区間には、産業用側線が接続しているため、分界点は同線4kmポスト地点にある。
*注2 ミドルマーチ以遠は、鉄道施設が撤去され、自然保護局 Department of Conservation (DOC)  により、「オタゴ・セントラル・レールトレール Otago Central Rail Trail」という自然歩道・自転車道に転用された。

1995年には、市と財団の共同出資により、新会社「タイエリ峡谷鉄道株式会社 Taieri Gorge Railway Limited」が設立された。市の線路資産と財団所有の車両は新会社に売却され、それ以降、この会社が観光鉄道事業の運営に当たっている。

2014年10月にタイエリ峡谷鉄道は、名称をダニーディン鉄道 Dunedin Railways に変更した。ただし、登記上の社名は変わらず、マーケティングブランドだけを新しくしたのだ。それというのも、内陸へ向かうタイエリ峡谷線とは別に、近年、メイン・サウス線を北上する観光列車も定期運行させており、名称と実態が合わなくなってきていたからだ。

この列車は「シーサイダー Seasider」の名で呼ばれ、東海岸の海浜風景を売り物にしている。多くはダニーディンから25.5km先のワイタティ Waitati で折り返す手軽な90分コースだが、奇勝モエラキ・ボールダー Moeraki Boulders や125km先のオマルー Oamaru を往復する長時間ツアーもある。旅客輸送における鉄道の凋落が著しいこの国で、ダニーディンだけは例外的に意気盛んだ。

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海岸線を走る観光列車「シーサイダー」
(ポート・チャルマーズ Port Chalmers ~ワイタティ間)
(c) Dunedin Railways, 2017

本稿は、J.A. Dangerfield and G.W. Emerson, "Over the Garden Wall - Story of the Otago Central Railway" Third Edition, The Otago Railway & Locomotive Society Incorporated, 1995、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
ダニーディン鉄道 http://www.dunedinrailways.co.nz/

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 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道
 ミッドランド線 II-アーサーズ・パス訪問記

2017年8月12日 (土)

ミッドランド線 II-アーサーズ・パス訪問記

古い話で恐縮だが、2004年3月にニュージーランド南島を訪れたとき、クライストチャーチ Christchurch からアーサーズ・パス Arthur's Pass へ、バスと列車で日帰り旅をした。前回のミッドランド線 Midland Line とトランツアルパイン TranzAlpine の記事の付録として、そのときの様子を綴っておこう。写真も当時のもの(一部はネガフィルムからのスキャン)であることをご了承願いたい。

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アーサーズ・パス駅に停車中の、クライストチャーチ行きトランツアルパイン

サザンアルプスを横断するミッドランド線は、前々からぜひ乗ってみたい路線の一つだった。とはいえ、全線往復は一日がかりで、私たちのような幼児連れには辛いし、地形図で確かめると、車窓の見どころは前半に集中している。乗るのはアーサーズ・パスまでとして、滝を見に行くミニハイキングと組合せれば、気分も変わっていいのではと考えた。

最初、往復ともトランツアルパインにするつもりで、1か月前にトランツ・シーニック Tranz Scenic 社のウェブサイトで予約を試みたが、すでに往路は満席だった。仕方がないので、列車に近い時刻で運行しているバス会社を探し出し、Eメールで予約を入れた。無料のピックアップサービスがあるというので、泊っているクライストチャーチのB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト、いわば民宿)まで朝、迎えに来てほしいと依頼した。

それで今朝は、返信メールで指示された7時30分に間に合わせるために、早起きする必要があった。7時からの朝食を大急ぎで済ませて宿の玄関で待っていると、通りの向かいに "Coast to Coast" と社名を掲げた、送迎用らしきマイクロバスが停まった(下注)。列車なら市街のはずれにある駅まで出向かなければならなかったから、これはラクチンだ。私たちが最初の客で、そのあと大聖堂前のほか数個所で次々と客を拾って、ほぼ満席の20人ほどになった。

*注 ちなみに2017年8月現在、このルート(朝、クライストチャーチ発、グレイマウス行き)には、Atomic Shuttles Service のバス便がある。
http://www.atomictravel.co.nz/

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スプリングフィールド(右下)~アーサーズ・パス(左上)間の1:250,000地形図
国道(赤の太線)は、鉄道(黒の太線)から離れた山間を通ってアーサーズ・パスに向かう
Sourced from NZMS262 maps 10 Grey and 13 Christchurch. Crown Copyright Reserved.

時刻表によると、クライストチャーチの発車時刻は8時ちょうどだ。アーサーズ・パスには10時30分に到着し、そのままグレイマウス Greymouth まで走破する(下注)。どこで大きいバスに乗り継ぐのだろうと、ずっと地図で軌跡を追っていたのだが、そのうち家並みが疎らになり、郊外へ出て行くではないか。

*注 列車の時刻はクライストチャーチ8:15→アーサーズ・パス 10:42なので、所要時間はほとんど変わらない。

やがて運転手は道端に車を止めて、切符を売り始めた。そう、このマイクロバスがそのまま山越えをするのだった。バス停はあってなきがごとし、だ。客を最寄りから拾い、しかもアーサーズ・パスまでの運賃は、60 NZドルかかる列車の半分以下の25ドル(当時のレートで1,800円)。人口の少ないこの国らしい実に小回りのきいたサービスで、これでは列車が太刀打ちできるはずがない。でも、こんなに繁盛しているなら大きなバスにすればいいのにと思う。

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(左)アーサーズ・パス方面のバスのリーフレット。大型バスが描かれているが...
(右)実際に走ったのはマイクロバス

バスは、畑がどこまでも広がるカンタベリー平野の直線道を、時速100kmで飛ばしていく。1時間ほど走ったところで、ようやく前方に山並みが現れた。アルプスの前山を越す標高942mのポーターズ・パス Porter's Pass だ。鉄道がワイマカリリ川 Waimakariri River の峡谷に沿って走るのに対して、道路は西にそれてこの峠を越える。

胸突き八丁の険しい勾配をローギアで登って行くと、えもいわれぬ色合いの山並みが迎えてくれた。アルプスの東側は乾燥気候で、樹木が育ちにくく、山肌が崩壊しやすい。それで、岩石の露出したところはグレー、草の生えたところは黄金色や黄緑色になり、水彩画の趣きを見せているのだ。

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ポーターズ・パスを越えて、サザンアルプスの山懐へ

峠を下りてしばらく進むうちに、草で覆われた丘に異様な形の巨岩が立ち並ぶキャッスル・ヒル Castle Hill が見えてきた。ここでフォトストップを兼ねた休憩がある。乗客はみな狭い車内からつかの間解放されて、嬉しそうだ。このあたりは盆地状の土地だが、河川の浸食で起伏が激しく、道路は大きく迂回しながら谷を渡る。

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キャッスル・ヒルから、雲がたなびくサザンアルプスを望む
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(左)剥き出しの巨岩が並ぶキャッスル・ヒル (右)山間で静かに水を湛えるピアソン湖

静かに水をたたえるピアソン湖 Lake Pierson を過ぎ、改めてワイマカリリの広く平たい河原に出る頃、対岸に私たちが乗れなかった西行きトランツアルパインの疾走する姿が小さく捉えられた。次善策で選んだバスの旅だったが、こうして列車では見られない景色を鑑賞できる印象深いものになった。

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(左)ワイマカリリ川上流。川を横断する鉄橋が見える
(右)対岸にトランツアルパインの姿が

10時30分、時刻表どおりにアーサーズ・パスのバス停(正確には峠ではなく、峠の手前の集落)に到着した。バスの窓から列車を追いかけていた頃はまずまずの天気だったが、峠の空は変わりやすくて、時折しぐれが襲う。カフェでミートパイ、サンドイッチとコーヒーを注文して、早めの昼食とした。

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(左)アーサーズ・パスのカフェ前からハイキングに出発
(右)グレイマウス行きトランツアルパインが通過

晴れ間が覗いたところを見計らって、デヴィルズ・パンチボウル滝 Devil's Punchbowl Falls を見に出かけた。パンチボウルはポンスを入れる鉢のことで、滝の名は「悪魔の大鉢」といったところだろう。滝壷まで大人の足で30分ほどの距離だ。西海岸へ通じる国道からわき道にそれるとまもなく、峠から流れ下ってくるビーリー川 Bealey River ともう一つの谷川を連続して渡る。鉄材でトラスを組んだ歩道橋だが、わが子は一目見て「てっちょー(鉄橋)」と叫んだ。目指す大滝が正面に見えている。

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デヴィルズ・パンチボウル滝とトラスの歩道橋

途中までは立派な木製の階段が整備されていて快調だったが、やがて大きな石が転がる本格的な山道となった。上り一辺倒ではなく下り坂もある。ベビーキャリアで重心が高くなっているので、慎重に進まざるを得ない。落石注意の看板の先で林がとぎれて、いよいよ滝が全貌を現した。高さ131m(下注)、見上げる高さから一気に落ちてくる。水しぶきばかりか、雲に覆われた空から霧雨まで吹きつけてきた。来合わせた青年に家族写真を撮ってもらう。

*注 高さの数値は、DOC "Discover Arthur's Pass - A Guide to Arthur's Pass National Park and Village" による。

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(左)石が転がる山道を行く (右)滝壺前に到着
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見上げる高さのデヴィルズ・パンチボウル滝

15時半に鉄道駅まで戻ってきた。発車時刻は15時57分なのだが、すでにトランツアルパインはホームに停まっていた。行きに見かけたときは客車を12両つないで堂々たる編成だったのに、帰りはたった3両とさびしい。それにここアーサーズ・パスはまったくの無人駅で、駅舎はあれど売店などはない。車内に持ち込むお菓子と飲み物を買いたいと思っていたので、当てが外れた。

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(左)アーサーズ・パス駅へ戻ると列車はすでに入線していた
(右)旧駅舎の写真パネル。現駅舎は旧駅舎の焼失後1966年に建築

列車は予約済みだが、座席指定は現地で行われる。始発駅なら窓口で行うはずのところ、ホームに出ていた車掌氏に名前を告げて、ボーディングパスを受け取った。

車内に入ると、日本のグリーン車以上の大型席が片側2つずつ、テーブルをはさんで向かい合わせに並んでいる。狭軌の車両にこの設備なので、通路は人一人通れるくらいの幅しかない。列車が動き出しても、私たちの向かいの席には誰も乗ってこなかった。見るとあちこちに空席がある。出発前に見たウェブサイトでは満席と表示されていたので、どうやらボックス単位で予約を入れているようだ。

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トランツアルパイン車内。テーブルつきボックスシートが所狭しと並ぶ

出発すると列車はビーリー川の谷を下っていき、まもなくワイマカリリの広い河原に出る。朝来るときにバスの車窓から追跡したあたりだ。やがて川と国道から離れて雄大な風景の高原地帯に入っていく。

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(左)初めはワイマカリリの広い河原の際を走る
(右)キャス Cass から川を離れて高原を行く

次はいよいよ大峡谷だ。右手に、大地を深く刻み込んだブロークン川 Broken River が現れる。これを高い鉄橋でゆるゆると渡ると、今度は左手はるか眼下に、さきほど別れたワイマカリリ川が明るいブルーの太い線を大きくくねらせている。窓の開かない客車を脱出して、連結された荷物車のデッキに移ったが、そこはカメラを手にした乗客が入れかわり立ちかわり集まる展望台と化していた。

長めのトンネルをいくつか抜けると、支流を渡る高い鉄橋がある。ワイマカリリがオーム字形に蛇行していて、まるで上空に飛び出したかのような角度から眺めることができる。最後の眺めは、この峡谷がカンタベリー平野へ出て行くところだ。谷の中に封じ込められていた水の力が一気に解放され、網流の限りを尽くす様子が遠望された。

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(左)ブロークン川の鉄橋を渡って峡谷へ (右)峡谷になったワイマカリリ川に再会

スイスの列車も楽しいが、それに匹敵するほど、ダイナミックな景勝ルートだ。朝充電したデジカメが列車に乗る前に電池切れになってしまい、その後はアナログカメラでちびちび撮ったため、車窓写真がもうひとつパッとしないのが唯一の心残り。

平野に出たスプリングフィールド Springfield で、静かなはずのホームがにわかにざわついた。窓越しに覗くと、3両目を占有していた日本人団体客の一行が下車して、駅前に停車した観光バスに移動していく。ここから先の車窓は単調なので、先を急ぐツアーにさっさと見切りをつけられたわけだ。

やがて左にゆるゆるとカーブしてサウス・メイン線 South Main Line に合流し、工場や倉庫の中を走って、18時ごろクライストチャーチ駅に到着した。定刻18時05分より少し早い。駅舎は新しくモダンなデザインの建物だが、ホームは片面1線の簡素な造りだ。駅前に路線バスなどは来ていないので、シャトル Shuttle(当地では乗合タクシーのこと)を捕まえて宿へ戻った。

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クライストチャーチ駅に到着

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 ミッドランド線-トランツアルパインの走る道
 タイエリ峡谷鉄道-山峡を行く観光列車

2017年8月 6日 (日)

ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道

南北500kmにわたって連なるサザンアルプス Southern Alps。ニュージーランド南島の背骨を成すこの大山脈を果敢に横断する鉄道路線が、1本だけある。それがミッドランド線 Midland Line で、南島最大の都市クライストチャーチ Christchurch に近いロルストン Rolleston と、西海岸のグレイマウス Greymouth の間 211km(下注)を連絡する。最高地点は標高700mを超え、幾多のトンネルや鉄橋で険しい地形と闘う同国きっての山岳路線だ。

*注 路線距離(正確には210.94km)は "New Zealand Railway and Tramway Atlas" Fourth Edition, Quail Map Company, 1993 による。なお、英語版ウィキペディアでは212km(132マイル)としている。

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DXC形機関車が重連で牽く運炭列車がワイマカリリ川を渡る
Photo by TrainboyMBH at wikimedia. License: CC BY-SA 4.0

西海岸の北部には炭鉱が集中しているが、あいにく積出し用の良港に恵まれていない。そのため、採掘された石炭は専用のホッパ車に積み込まれ、貨物列車でミッドランド線を経て、東海岸の港リトルトン Lyttelton まで運ばれる。それで、同線は重要な産業路線になっている。

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ミッドランド線の歴史は1870年代に遡る。当時、南島では、クライストチャーチからダニーディン Dunedin、インヴァーカーギル Invercargill に至る現在のメイン・サウス線 Main South Line が開通し、そこから内陸の町や村へ、支線が続々と延びていた。1880年1月に開通したスプリングフィールド支線 Springfield Branch(ロルストン~スプリングフィールド 48.6km)もその一つで、これが後にミッドランド線の根元区間になる。

1880年代に入ると、今度は島の東西を結ぶ鉄道建設の機運が高まった。1884年には、ルートとしてワイマカリリ川の谷 Waimakariri Valley を遡り、アーサーズ・パス Arthur's Pass を越える案が採択されている。だが、その間にそびえるサザンアルプスが建設の最大の障害になることもまた、十分に認識されていた。

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ミッドランド線(ロルストン Rolleston ~グレイマウス Greymouth)および周辺路線図
旗竿記号は後述するトランツアルパインの走行ルート
土地測量局 Department of Lands and Survey 発行の鉄道地図 南島1983年版に加筆
Sourced from LS159 Railway Map of South Island, Crown Copyright Reserved.

財源不足の政府に代わって、1886年にニュージーランド・ミッドランド鉄道会社 New Zealand Midland Railway Company が設立され、建設契約が交わされた。会社はロンドンで資金を調達して、工事に着手する。しかし1900年に政府への施設引渡しが完了したとき、線路は、西側こそ峠下のオーティラ Otira まで達していたが、東側ではほとんど前進していなかった。

なぜなら、ブロークン川左岸までの約13km (8.5マイル)には、ワイマカリリ川 Waimakariri River が造った大峡谷が横たわっていたからだ。線路は峡谷の肩に当たる比高100mの段丘上に敷かれる計画だったが、それでも迫る断崖と深い支谷を通過するために、16本のトンネルと4本の高い鉄橋が必要となった。最も壮観なステアケース橋梁 Staircase Viaduct は、川床からの高さが73mもある。

結局、工事は政府が引継ぐことになり、1906年10月にこの区間が完成を見た。さらに線路は延伸され、キャス Cass に1910年、峠の手前のアーサーズ・パス駅には1914年に到達した。

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川床からの高さ73mのステアケース橋梁
Photo by Zureks at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

残された課題は、アーサーズ・パス(アーサー峠)をどのように越えるかだった。峠の標高は920mあり、かつ両側の河川勾配は著しく非対称だ。水平距離5kmの間に、東側(下注)では200m下るのに対して、西側は450mも急降下する。この激しい高度差を克服する方法として、すでにミッドランド鉄道会社の時代に、索道方式や、リムタカのようなフェル方式またはアプト式ラック(いずれも1:15(66.7‰)勾配)が検討されていた。

*注 トンネルは地形の関係で南北に向いているが、ここではアーサーズ・パス駅方を東、オーティラ駅方を西と表現する。

しかし、貨物の大量輸送をもくろんでいた政府は、特殊鉄道案には否定的で、1902年に長さ8,554mの単線トンネル(下注)を建設する案を決定した。これは当時大英帝国では最長、世界でも7番目の長大トンネルだった。しかも内部はオーティラに向けて、終始下り1:33(30.3‰)の急勾配という異例の設計だ。蒸気機関車では煤煙でとうてい運行に適さないため、この区間のみ直流1500Vで電化されることになった。

*注 トンネルの長さは、前掲の "New Zealand Railway and Tramway Atlas" に拠る。なお、IPENZ公式サイトでは8,529m、ウィキペディア英語版では8,566mとされている。IPENZサイトには5マイル25チェーンとも書かれており、これは8,549.64mになるため、Atlasの値が最も近い。

オーティラトンネル Otira Tunnel は、1907年に着工された。5年で完工する予定だったが、アルプスの破砕帯を突破する工事に難渋し、請け負った建設会社が倒産してしまう。政府は、建設工事をまたも直轄事業とせざるを得なかった。第一次世界大戦中も戦略的な観点から工事が続けられ、1918年に貫通。着工から16年目の1923年8月に、ようやく開通式を迎えた。

上述の理由で、トンネルを挟むアーサーズ・パス~オーティラ間だけは、開業時から電気機関車の活躍の場だったが、改良DX(DXC)形ディーゼル機関車の投入により、1997年に電化設備は撤去された。現在、この区間ではDXCの5重連が、ホッパ車(運炭車)を最大30両連結した貨物列車を牽いて、峠のトンネルを上っている。

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ディーゼル機関車DXC 5356号機(先頭車、ピクトン駅にて)
Photo by DXR at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

一方、ミッドランド線を通る唯一の旅客列車が「トランツアルパイン TranzAlpine」だ。キーウィレール KiwiRail 社が「ニュージーランドの大いなる旅 The Great Journeys of New Zealand」のトータルブランドのもとで、運行している。トランツアルパインとは、ヨーロッパでアルプス横断を意味するトランスアルパイン Transalpine の ns の綴りを、ニュージーランドの略称 nz に置き換えた造語だ。

1日1往復のみの設定だが、驚くことではない。なにしろニュージーランドでは、長距離旅客列車は絶滅危惧種と言ってよく、南島にはこれを含めて2本しか残っていないからだ(下注)。トランツアルパインは絶景の中を走ることで知られるが、それどころかこの国では、旅客列車の走行シーンが見られるだけでも貴重なのだ。

*注 もう1本は「コースタル・パシフィック Coastal Pacific」。ピクトン Picton ~クライストチャーチ間で、9月~4月(夏季)に1日1往復設定されている。しかし、2016年11月の地震による土砂崩れのため、2017年8月現在運休中。これとは別に、ダニーディンを拠点にするダニーディン鉄道 Dunedin Railway がメイン・サウス線とその支線で、観光列車を走らせている。

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アーサーズ・パス駅に入線するトランツアルパイン
Photo by User: (WT-shared) SONORAMA at wts wikivoyage. License: CC BY-SA 3.0

トランツアルパインの運行は1987年に始まった。改装したての車両が投入され、従来の古びた急行列車のイメージを一掃しての登場だった。以来、ニュージーランドで最も人気のある観光列車として、他の便が縮小や廃止の憂き目にあう中、しぶとく生き残ってきた。

運行区間は、クライストチャーチ~グレイマウス間の223km(139マイル)。途中7駅に停車する。一部区間がパックツアーに組み込まれ、団体客も乗ってくるので、乗車には事前予約が望ましい。

2017年8月現在のダイヤでは、西行きがクライストチャーチ8時15分発、グレイマウス13時05分着で、所要4時間50分。折返し東行きが同駅14時05分発、クライストチャーチ18時31分着で、所要4時間26分だ。所要時間が往路と復路でかなり違うのは、単線のため、貨物列車との交換待ちがあるからだろう。

現在のクライストチャーチ駅は3代目で、ロータリーになった広場の前に、簡素ながらスマートな駅舎が建っている。メイン・ノース線 Main North Line とメイン・サウス線の分岐点に近く、列車運用上は好都合な位置だが、町の中心部から西へ2.5kmも離れていて、駅前に路線バスすら来ていない。列車本数があまりに少なく需要がないのに違いない。

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クライストチャーチ駅
Photo by Matthew25187 at en.wikipedia. License: CC BY-SA 3.0

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クライストチャーチ市街の1:50,000地形図
中心部の大聖堂広場 Cathedral Square と旧駅 Former station site の位置を加筆
Sourced from Topo50 map BX24 Christchurch. Crown Copyright Reserved.

発車して1時間余りは、カンタベリー平野の広大な耕作地の中をひた走る。車窓を眺めても全く気づかないが、この一帯はサザンアルプスから流れ出るワイマカリリ川による大規模な開析扇状地で、扇頂に位置するスプリングフィールド Springfield では、すでに標高が383mに達している。

スプリングフィールドを出ると山が迫り、路線の歴史で紹介したワイマカリリ川の大峡谷に入っていく。西行きの列車の場合、展望は右側に開ける。このスペクタクルな景観は、スローヴンズ・クリーク橋梁 Slovens Creek Viaduct を渡ったところで、ひとまず終わる。

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ブロークン川橋梁を遠望
Photo "TranzAlpine 2011" by Bob Hall at flickr.com. License: CC BY-SA 2.0

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ワイマカリリ峡谷の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BW21 Springfield, BW22 Oxford. Crown Copyright Reserved.

山中の浅い谷を通り抜けて、谷幅いっぱいに広がるワイマカリリ川と再会する。まもなくこの川を横断し、支流ビーリー川 Bealey River の谷を遡ると、路線のサミットである標高737mの駅アーサーズ・パスだ。山岳観光の玄関口でもあるので、降車する客が多く、車内は急に閑散とするだろう。帰りの列車まで約5時間半あるから、クライストチャーチから日帰り旅行も可能だ。

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キャス周辺の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BV21 Cass. Crown Copyright Reserved.
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アーサーズ・パス周辺の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BV20 Otira. Crown Copyright Reserved.

ビーリー川を渡るやいなや、列車はオーティラトンネルに突入する。下り一方の長く騒々しい闇を抜ければ、山間のオーティラ Otira 駅に停車だ。さらに降りていくと、タラマカウ川 Taramakau River 本流の谷に出るが、線路は海へ向かう川には従わず、北へ向きを変える。

沿線で唯一、車窓に穏やかな湖面が広がるのが、モアナ Moana 駅の前後だ。鱒釣りで知られるブルナー湖 Lake Brunner だが、その景色はすぐに後へ去り、列車は、湖から注ぎ出すアーノルド川 Arnold River の岸をゆっくりと下っていく。スティルウォーター=ウェストポート線 Stillwater–Westport Line に合流してからは、グレイ川 Grey River に沿って最後の走りを見せる。

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モアナ駅から見たブルナー湖
Photo "TranzAlpine 2011" by Bob Hall at flickr.com. License: CC BY-SA 2.0

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モアナ周辺の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BU20 Moana. Crown Copyright Reserved.

両岸に山が迫り、右へ分岐した線路(ラパホー支線 Rapahoe Branch)が川を渡っていくのを見送ると、まもなく道路を斜め横断して、グレイマウス駅に到着する。ここも片面ホームの簡素な駅だ。なお、さらに遠方へ足を延ばす人には、駅前から、インターシティ InterCity 社が運行するフォックス・グレーシャー Fox Glacier 行きとネルソン Nelson 行きのバス便がある。

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グレイマウス駅
Photo by User: (WT-shared) SONORAMA at wts wikivoyage. License: CC BY-SA 4.0

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グレイマウス市街周辺の1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BT19 Runanga, BU19 Kumara. Crown Copyright Reserved.

次回は、ミッドランド線を通って、クライストチャーチ~アーサーズ・パス間の日帰り旅をしたときのことを記したい。

■参考サイト
KiwiRail - The Great Journeys of New Zealand
https://www.greatjourneysofnz.co.nz/
InterCity(長距離路線バス会社) https://www.intercity.co.nz/
IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会) http://www.ipenz.org.nz/

★本ブログ内の関連記事
 ミッドランド線 II-アーサーズ・パス訪問記
 タイエリ峡谷鉄道-山峡を行く観光列車
 リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶
 リムタカ・インクライン II-ルートを追って
 ニュージーランドの鉄道地図

2017年7月30日 (日)

リムタカ・インクライン II-ルートを追って

新線が開通すると、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline を含むワイララパ線 Wairarapa Line 旧線区間では、施設の撤去作業が行われ、ほぼ更地化した。平野部では多くが農地や道路に転用されてしまったが、峠越えのカイトケ Kaitoke ~クロス・クリーク Cross Creek 間は公有地で残された。

一方、フェル式蒸気機関車の中で唯一解体を免れたH 199号機は、リムタカの東にあるフェザーストン Featherston の町に寄贈され、公園で屋外展示された。子どもたちの遊び場になったのはいいが、その後風雨に晒され、心無い破壊行為もあって、状態は悪化の一途をたどる。20年が経過したとき、旧線時代を振り返る書物の刊行をきっかけにして、保存運動が始まった。その結果、フェザーストンに今もあるフェル機関車博物館 Fell Locomotive Museum が1984年に建てられ、機関車は改めて館内で公開されるようになった。

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IPENZ(ニュージーランド専門技術者協会)によるリムタカ・インクラインの銘板
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

忘れられていた廃線跡にも、人々の関心が向けられた。ニュージーランド林務局 New Zealand Forest Service は、博物館開館と同じ年に、クロス・クリーク駅跡へ通じるアクセス道とインクライン跡の整備を実施した。崩壊した築堤には迂回路が設けられ、土砂崩れで冠水していたサミットトンネル Summit Tunnel も排水されて、サミット駅跡まで到達できるようになった。

その発展形が、ウェリントン地方議会 Wellington Regional Council と自然保護局 Department of Conservation が共同で計画した、廃線跡を利用するトレール(自然歩道)の設置だ。1987年11月に、メイモーン Maymorn ~クロス・クリーク間 22kmが「開通」し、「リムタカ・レールトレール Rimutaka Rail Trail」と命名された。H形機の舞台は今や、自転車や徒歩で追体験することが可能だ。

それは、いったいどのようなところを走っていたのか。トレールにならなかった区間も含めて、新旧の地形図でそのルートを追ってみよう。

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リムタカ・インクラインを含むワイララパ旧線のルート
3つの枠は下の詳細図の範囲を示す
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

アッパー・ハット Upper Hut ~カイトケ Kaitoke 間

付け替え区間は、アッパー・ハット駅を出て間もなく始まる。ハット谷 Hutt Valley より一段高いマンガロア谷 Mangaroa Valley に出るために、旧線は、境を成す尾根筋に取りつき、ぐいぐいと上っていく。短距離ながら急曲線(半径5チェーン=100.6m)と急勾配(1:35=28.6‰)が続く、リムタカの本番を控えた前哨戦のような区間だ。廃線跡は森に埋もれてしまい、現行地形図では、尾根を抜ける長さ120mのトンネル(Old tunnel の注記あり)しか手がかりがない。しかし、等高線の描き方から谷を渡っていた築堤の存在が推定できる。

トンネルを抜けるとマンガロア谷だ。北に緩やかに傾斜する広い谷の中を、旧線はほぼ直線で縦断し、途中にマンガロア駅があった。地形図でも、断続的な道路と防風林(緑の帯の記号)のパターンがその跡を伝える。

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マンガロア駅跡
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

現 メイモーン駅の東方から、旧線跡はリムタカ・レールトレールとして、明瞭な形をとり始める。周辺はトンネル・ガリー保養地 Tunnel Gully Reareation Area で、地形図では破線で描かれる小道が錯綜しているが、その中で、車が通れる小道 Vehicle track を表す少し長めの破線記号が、本題のトレールだ。こう見えても、勾配は1:40(25‰)前後ある。

長さ221m、直線のマンガロアトンネル Mangaroa Tunnel で、プラトー山 Mount Plateau の尾根を抜ける。大きく育った松林の間を進むうちに、一つ北側のカイトケ谷 Kaitoke Valley に移っている。旧カイトケ駅構内は私有地になったため、トレールはそれを避けて大きく西へ迂回しており、駅跡の先で本来の旧線跡に復帰する。

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アッパー・ハット~カイトケ間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP32 Paraparaumu, BP33 Featherston. Crown Copyright Reserved.
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同 旧線時代の1マイル1インチ地図(1957年版)
鉄道記号の横のT字の記号は電信線 Telephone lines、
橋梁に添えられた S は鋼橋 Steel または吊橋 Suspension、W は木橋 Wooden を表す
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

カイトケ~サミット Summit 間

サミットに至る峠の西側約12kmのうち、初めの約2kmは一般車も通れる道だ。車止めのゲートを越えると専用林道で、開けたカイトケ谷のへりに沿いながら、パクラタヒ川 Pakuratahi River が流れる谷へ入っていく。

まもなく谷幅は狭まり、渓谷の風情となる。小川を横切っていたミューニションズ・ベンド橋梁 Munitions Bend bridge は1960年代に流失した。以来、林道は川をじかに渡っていた(=渡渉地 Ford)が、2003年、傍らに徒橋 Foot bridge と線路のレプリカが渡された(下注)。長さ73mのパクラタヒトンネル Pakuratahi Tunnel を抜けると、森の陰に新線リムタカトンネルの換気立坑がある。新線はこの直下117mの地中を通っているのだ。

*注 ウェリントン地方議会のサイトでは、徒橋の設置を2003年としているが、現地の案内標識には2004年と記されている。

少し行くと、長さ28m、木造ハウトラス Howe truss のパクラタヒ橋梁 Pakuratahi Bridge で本流を渡る。ニュージーランド最初のトラス橋だったが、火災で損傷したため、1910年に再建されたもので、2001年にも修復を受けている。

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木造ハウトラスのパクラタヒ橋梁
Photo by Pseudopanax at wikimedia

谷間がやや開け、右カーブしながら、長さ70mの桁橋レードル・ベンド・クリーク橋梁 Ladle Bend Creek bridge を渡る。比較的緩やかだった勾配は、ここから最急勾配1:40(25‰)と厳しくなる。直線で上っていくと、また谷が迫ってくる。高い斜面をトレースしながら、山襞を深い切通しで抜ける。

再び視界が開けると、レールトレールは左から右へ大きく回り込みながら、均されたサミット駅跡に達する。現役時代から、集落はおろかアクセス道路すらない山中の駅だったので、運転関係の施設のほかに鉄道員宿舎が5戸あるのみだった。今は跡地の一角に蒸機の残骸のオブジェが置かれているが、H形のものではないそうだ。

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サミット駅跡
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

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カイトケ~クロス・クリーク間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

サミット~クロス・クリーク Cross Creek 間

峠の東西で線路勾配は大きく異なる。あたかも信越本線の碓氷峠に似て、西側は25‰で上りきれるが、東側は66.7‰の急勾配を必要とした。それを克服する方法が、碓氷峠のアプト式に対して、リムタカではフェル式(下注)だ。この急坂区間をリムタカ・インクライン Rimutaka Incline と呼んだ。

*注 フェル式については、前回の記事参照。

文献では長さ3マイル(メートル換算で4.8km)と書かれることが多いが、これは両駅間の距離を指している。サミット駅を出ると間もなく、旧線は長さ576m(1,890フィート)のサミットトンネルに入るが、トンネル内の西方約460mは、下り1~3.3‰とわずかな排水勾配がつけられているだけだ。残り約100mの間に勾配は徐々に険しくなり、トンネルの東口で下り1:15(66.7‰)に達していた(下注)。このことから推測すれば、フェル式レールの起点は東口近くに置かれていたはずだ。

*注 トンネルは地形の関係で南北に向いているが、ここではサミット駅方を西、クロス・クリーク駅方を東と表現する。

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サミットトンネル東口
Photo by russellstreet at flikr.com. License: CC BY-SA 2.0

トンネルを抜けると、旧線跡は分水嶺の中腹に躍り出る。眼下の谷、向かいの山並み、これから下っていくルートまで眺望できる展望地だ。左に回り込んで、長さ121mのシベリアトンネル Siberia tunnel を抜けたところに、半径100m(5チェーン)の急曲線で谷を渡る高さ27mの大築堤があった。谷は築堤の形状にちなんでホースシュー・ガリー Horseshoe Gully(馬蹄形カーブの峡谷の意)と呼ばれたが、冬は激しい北西風に晒されるため、シベリア・ガリー Siberia Gully の異名もあった。1880年に突風による列車の転落事故が発生した後、築堤上に防風柵が設けられている。

しかし、その大築堤も今はない。廃線後の1967年、暴風雨のさなかに、下を抜けていた水路が土砂で詰まり、溢れた水が築堤を押し流してしまったからだ。そのため現在、レールトレールの利用者は谷底まで急坂で下り、川を渡渉するという回り道を余儀なくされる。谷から突っ立っている異様なコンクリートの塔は、縦方向の水路が剥き出しになったものだという。

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(左)ホースシュー・ガリーを渡っていた大築堤に、防風柵が見える
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ
(右)築堤が流失したため、現在、レールトレールは谷底まで降りて川を渡る
Photo by Matthew25187 at wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

次のプライシズトンネル Price’s Tunnel は、長さ98m(322フィート)でS字に曲がっている。しばらくこうして斜面を下っていくうちに、平坦地に到達する。登録史跡にもなっているクロス・クリーク駅跡だ。フェル式車両の基地があったので、構内はかなり広いが、今はトレール整備で造られた待合室のような小屋があるばかりだ。

なお、旧版地形図には、マンガロアとクロス・クリークを結んで "Surveyed Line or Proposed Rly. Tunnel" と注記された点線が描かれている。これは当初構想のあった約8kmの新トンネルだ。結局、リムタカトンネルはこのルートでは実現せず、クロス・クリークは廃駅となってしまった。

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1955年10月29日、H 199号機が先導する最終列車がクロスクリーク駅を出発
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

クロス・クリーク~フェザーストン Featherston 間

クロス・クリークから東は、1:40(25‰)以内の勾配で降りていく。残念ながら大部分が私有地となり、旧線跡の多くは牧草地の中に埋もれている。そのため、レールトレールは小川(クロス・クリーク)を渡って対岸に移る。地形図で下端に見える水面は、北島第3の湖、ワイララパ湖 Lake Wairarapa だ。平原に出ると、旧線はフェザーストンの町まで一直線に進んでいた。途中、小駅ピジョン・ブッシュ Pigeon Bush があったはずだが、周辺にぽつんと残る鉄道員宿舎の暖炉煙突2基を除いて、跡形もない。

リムタカトンネルを抜けてきた新線が接近する地点に、スピーディーズ・クロッシング Speedy's Crossing と呼ばれる踏切がある。1955年11月3日、ここで新線の開通式が執り行われた。39kmに及ぶ旧線跡の終点はまた、新旧の交替というエポックを象徴する場所でもあった。

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クロス・クリーク~フェザーストン間の現行1:50,000地形図
Sourced from Topo50 map BP33 Featherston, BQ33 Lake Wairarapa. Crown Copyright Reserved.
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同 1マイル1インチ地図(1957年版)
Sourced from NZMS 1 map N161 Rimutaka. Crown Copyright Reserved.

■参考サイト
Tracks.org.nz  http://tracks.org.nz/
Cycle Rimutaka - New photos of the Rimutaka Cycle Trail!
http://www.cyclerimutaka.com/news/2015/10/28/new-photos-of-the-rimutaka-cycle-trail
Mountain Biking Travels - Rimutaka Rail Trail - Wairarapa
http://mountainbiking-travels.blogspot.jp/2015/06/rimutaka-rail-trail-wairarapa.html

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶
 ミッドランド線 I-トランツアルパインの走る道

 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 I
 オーストラリアの大分水嶺を越えた鉄道-ジグザグ鉄道 II

2017年7月23日 (日)

リムタカ・インクライン I-フェル式鉄道の記憶

急勾配の線路を上り下りするために、2本の走行レールに加えて第3のレールを用いて、推進力や制動力を高める鉄道がある。その大部分は、地上に固定した歯竿(ラック)レールと、車体に装備した歯車(ピニオン)を噛ませるラック・アンド・ピニオン方式、略してラック式と呼ばれるものだ。代名詞的存在のアプト式をはじめ、いくつかのバリエーションが創られた。

しかし、フェル式 Fell system はそれに該当しない。なぜなら、中央に敷かれた第3のレールはラックではなく、平滑な双頭レールを横置きしたものに過ぎないからだ。坂を上るときは、このセンターレールの両側を車体の底に取り付けた水平駆動輪ではさむことで、推進力を補う。また、下るときは同じように制輪子(ブレーキシュー)を押し付けて制動力を得る。

■参考サイト
レール断面図
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/history/fell-centre-rail-system

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線路工夫が見守る中、フェル式区間を上る貨物列車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

この方式は、イギリスの技師ジョン・バラクロー・フェル John Barraclough Fell が設計し、特許を取得したものだ。ラック式ほど険しい勾配には向かないものの、レールの調達コストはラック式に比べて安くて済む。1863~64年に試験運行に成功したフェルの方式は、1868年に開通したアルプス越えのモン・スニ鉄道 Chemin de fer du Mont-Cenis で使われた。フレジュストンネル Tunnel du Fréjus が開通するまで、わずか3年間の暫定運行だったが、宣伝効果は高く、これを機に、フェル式は世界各地へもたらされることになる(下注)。

*注 現存しているのは、マン島のスネーフェル登山鉄道(本ブログ「マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道」参照)が唯一だが、中央レールは非常制動用にしか使われない。

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ニュージーランドの植民地政府もまた、この効用に注目した。当時、北島南端のウェリントン Wellington からマスタートン Masterton 方面へ通じる鉄道(現 ワイララパ線 Wairarapa Line)の建設が準備段階に入り、中間に横たわるリムタカ山脈 Rimutaka Range をどのように越えるかが主要な課題になっていた。

ルート調査の結果、カイトケ Kaitoke(当時の綴りは Kaitoki)からパクラタヒ川 Pakuratahi River の谷を経由するという大筋の案が決まった。峠の西側の勾配は最大1:40(25‰)に収まり、蒸機が粘着力で対応できるため、問題はない。しかし、東側は谷がはるかに急で、なんらかの工夫が必要だった。勾配を抑えるために山を巻きながら下る案は、あまりの急曲線と土工量の多さから退けられ、最終的に、平均1:15勾配(66.7‰、下注)で一気に下降する案が採用された。

*注 縦断面図では1:16(62.5‰)~1:14(71.4‰)とされている。

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ワイララパ旧線とリムタカ・インクライン
フェル式を採用したインクライン(図では梯子状記号で表示)は、サミットトンネル Summit Tunnel 東口~クロス・クリーク Cross Creek 駅間のみで、それ以外は粘着式で運行された
Sourced from NZMS 262 map 8 Wellington. Crown Copyright Reserved.

この長さ3マイル(4.8km)のインクライン(勾配鉄道、下注)に導入されたのが、フェル式だ。特殊な構造の機関車が必要となるものの、客車や貨車は直通でき、実用性もモン・スニで実証済みだというのが、推奨の理由だった。当時、山脈を長大トンネルで貫く構想もすでにあり、インクラインは暫定的な手段と考えられたのだが、実際には、フェル式を推進と制動の両方に使用するものでは77年間と、最も寿命の長い適用例になった。

*注 このインクライン区間の呼称については、リムタカ・インクライン Rimutaka Incline のほか、「リムタカ・インクライン鉄道 Rimutaka Incline Railway」や「リムタカ鉄道 Rimutaka Railway」も見受けられる。ただし、下記参考資料では「リムタカ鉄道」を、ワイララパ旧線全体を表現する用語として使用している。

建設工事は1874年に始まり、予定より遅れたものの1878年10月に完成した。これでウェリントンからフェザーストン Featherston まで、山脈を越えて列車が直通できるようになった。

フェル式区間のあるサミット Summit ~クロス・クリーク Cross Creek 間(下注)には、イギリス製の専用機関車NZR H形(軸配置0-4-2)が投入された。開通時に1875年製が4両(199~202号機)、1886年にも2両(203、204号機)が追加配備されている。また、下り坂に備えて列車には、強力なハンドブレーキを備えた緩急車(ブレーキバン)が連結された。これら特殊車両の基地は、峠下のクロス・クリーク駅にあった。通常の整備はここで実施され、全般検査のときだけ、ウェリントン近郊のペトーニ Petone にある整備工場へ送られたという。

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唯一残るフェル式機関車(フェル機関車博物館蔵 H 199号機)
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.
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床下に潜れば、センターレールとそれをはさむブレーキシューが見える
© Optimist on the run, 2002 / CC-BY-SA-3.0 & GFDL-1.2.

当初インクラインを通行する列車は、機関車1両で扱える重量までとされた。制限は徐々に緩和され、1903年の貫通ブレーキ導入後は、最大5両の機関車で牽くことも可能になった。しかし、機関車ごとに乗員2名、列車には車掌、さらに増結する緩急車でブレーキ扱いをする要員と、1列車に10数名が携わることになり、運行コストに大きく影響した。また、インクラインでの制限速度は、上り坂が時速6マイル(9.7km)、下り坂が同10マイル(16km)で、機関車の付け替え作業と合わせ、この区間の通過にはかなりの時間を費やした。

ワイララパ線は、1897年にウッドヴィル・ジャンクション Woodville Junction(後のウッドヴィル)までの全線が完成している。ギズボーン Gisborne 方面の路線と接続されたことで輸送量が増え、20世紀に入ると、H形機関車の年間走行距離は最初期の10倍にもなった。

1936年、鉄道近代化策の一環で、ウェリントン~マスタートン間に軽量気動車6両 RM 4~9 が導入された。センターレールに支障しないよう、通常の台車より床を12インチ(305mm)高くした特別仕様車で、速度の向上が期待されたが、実際には時速10~12マイル(16~19km)にとどまった。

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カイトケ駅に到着する軽量気動車
Photo from archives.uhcc.govt.nz. License: CC BY-NC 3.0 NZ

リムタカのボトルネックを解消する抜本策が、バイパストンネルの建設であることは自明の話だった。1898年に詳細な調査が実施され、マンガロア Mangaroa ~クロス・クリーク間を直線で結ぶ約5マイル(8km)のトンネル計画が練られた。1920年代にも再び実現可能性の調査が、30年代には詳細な測量が行われたが、それ以上前に進まなかった。

懸案への対処が先送りされ続けた結果、第二次世界大戦が終わる頃には、リムタカの改良は待ったなしの状況になっていた。機関車もインクラインの線路も、長年酷使されて老朽化が進行していたからだ。1947年に決定された最終ルートは、当初案のクロス・クリーク経由ではなく、一つ北のルセナズ・クリーク Lucena's Creek(地形図では Owhanga Stream)の谷に抜けるものになった。1948年、ついにトンネルを含む新線が着工され、7年の工期を経て、1955年に竣工した。

これに伴い、旧線の運行は1955年10月29日限りとされた。最終日には、稼働可能なH形機関車全5両を連結した記念列車がインクラインで力走を見せ、多くの人が別れを惜しんだ。切替え工事を経て、新線の開通式が挙行されたのは同年11月3日だった。

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インクライン運行最終日に坂を下るH形4重連
Norman Cameron "Rimutaka Railway" 表紙写真

リムタカ迂回線 Rimutaka Deviation は、延長39.0kmあった旧線区間を14.4kmも短縮するとともに、最急勾配は1:70(14.3‰)、曲線半径も400mまでに抑えた画期的な新線だ。その結果、旅客列車で70分かかっていたアッパー・ハット~フェザーストン間がわずか22分になった。貨物列車も所要時間の短縮に加え、長編成化が可能になって、輸送能力が格段に向上した。

新線は全線単線で、トンネルをはさんで西口のメイモーン Maymorn 駅と東口のリムタカ信号場 Rimutaka Loop にそれぞれ待避線が設置されている。リムタカトンネル Rimutaka Tunnel は長さ 8,798mと、当時ニュージーランドでは最長を誇った(下注)。

*注 1978年に東海岸本線 East Coast Main Trunk Line の短絡線として、長さ8,850mのカイマイトンネル Kaimai Tunnel が完成するまで、最長の地位を守った。

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リムタカトンネル開通式
ブックレット表紙
Photo by Archives New Zealand at wikimedia. License: CC BY-SA 2.0

トンネルには、ほぼ中間地点に換気立坑 ventilation shaft があり、旧線が通るパクラタヒ谷の地表面に達している。実はこれは、トンネル完成後に追加された工事だ。この区間はもともと架空線方式の電化が想定されていたが、経済的な理由で非電化のままになった。ディーゼル機関車の試験走行を行ったところ、自然換気だけでは排気が十分でないことが判明し、急遽対策がとられたのだ。

新線への切替え後、列車の往来が途絶えた旧線では、すぐさま施設の撤去が始まった。H形機関車は、長年走り続けた線路の撤去作業を自ら務めた。それが終わると、ハット整備工場へ牽かれていき、そこでしばらく留置された。そして翌年除籍され、フェザーストンの町に寄贈された1両を残して、あえなく解体されてしまった。

まだ使用可能だったフェルレールと緩急車は、再利用するために南島のレワヌイ支線 Rewanui Branch(下注)へ移送された。こうして、リムタカ・インクラインの77年の歴史は幕を閉じたのだった。

*注 ニュージーランドにはリムタカのほかにも、フェル式が使われた路線がある。南島北西部の鉱山支線であった上記のレワヌイ・インクライン Rewanui Incline(使用期間 1914~66年)とロア・インクライン Roa Incline(同 1909~60年)、ウェリントン ケーブルカー Wellington Cable Car(同 1902~78年)、カイコライ・ケーブルカー Kaikorai Cable Car(ダニーディン Dunedin 市内、期間不明)だが、いずれも制動のみの使用だった。

では、旧線はどのようなところを走っていたのか。次回は、インクラインを含む旧線のルートを地形図で追ってみたい。

本稿は、Norman Cameron "Rimutaka Railway" New Zealand Railway and Locomotive Society Inc., 2006、および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
リムタカ・インクライン鉄道遺産財団 Rimutaka Incline Railway Heritage Trust
http://www.rimutaka-incline-railway.org.nz/

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