2012年1月26日 (木)

お知らせ

2012年1月25日 本ブログの「ハルツ狭軌鉄道のクヴェドリンブルク延伸」を加筆、地図も追加しました。

2012年1月5日 「インド マーテーラーン登山鉄道を地図で追う」に、現地を旅行された方から提供を受けて、写真を多数追加しました。

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2012年1月19日 (木)

モーゼル渓谷を遡る鉄道 II

図1
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モーゼル線のルート

モーゼル線Moselstreckeの後半、ブライBullay駅を出るところから話を再開しよう。

列車はホームを離れると、右に大きくカーブしながらモーゼル川の横断にかかる。モーゼルを渡るのはこれで3度目だが、この鉄橋は他にはない特徴がある。アルフ=ブライ二層橋Doppelstockbrücke Alf-Bullayと呼ばれるとおり、上部を鉄道、下部を道路が使うダブルデッキの重厚なトラス橋なのだ。全長314m、船の通行に支障しないよう最長径間は72mとってある。当初の計画は鉄道専用だったのだが、周辺自治体の負担で道路との併用橋が実現した。ブライから対岸のアルフAlfへ渡るには、渡船が近道だが、車ならこの橋を使うことになる。橋は第2次大戦中、反攻する連合軍の爆撃を受けて破壊されたため、1947年に再建された。

■参考サイト
アルフ=ブライ二層橋の写真(ウィキメディア)
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Doppelstockbr%C3%BCcke_Alf-Bullay_2010.jpg

図2
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コッヘム、ブライ周辺拡大図

橋の先に長さ458mのプリンツェンコプフトンネルPrinzenkopftunnelが待ち構える。プリンツェンコプフ(皇太子の頂)というのは、トンネルが貫いている山の頂の名前だ。ここはツェルのモーゼル湾曲Zeller Moselschleifeと呼ばれる大蛇行の付け根に当たり、谷を巡るモーゼル川が左右両側に迫ってくる景勝地として知られる。1818年、プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世)がアルフの町に行啓してここを訪れたことから、山名がついた。頂には展望台(標高233m)がある。また、川に挟まれた細い尾根の先は、マリエンブルクMarienburgという聖アウグスチノ会女子修道院跡で、16世紀に廃絶してからは堡塁に利用されていた。現在は司教区の青少年研修センターになっている。

■参考サイト
マリエンブルクの眺め(ウィキメディア)
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Mosel_Marienburg_Umgebung.jpg

図3
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ピュンダリッヒ付近詳細図

プリンツェンコプフトンネルを出ると、モーゼルの流れが再び左側に移るが、それは次のトンネルに入るまでのわずかな間に過ぎない。ここで注目したいのは、列車が走っているのが地面の上ではなく、ぶどう畑が広がる斜面に半分浮くように築かれた高架橋の上だということだ。距離がけっこう長く、全体が左に緩くカーブ(半径700m)しているので、列車の窓からも観察できる。これはピュンダリッヒ斜面高架橋Pündericher Hangviaduktと呼ばれ、モーゼル線きっての撮影名所になっている。長さは786mもあり、7.2m幅の支間をもつアーチが92個整然と連なる。橋脚を立てるために礫層に覆われた急斜面を掘削するのは、かなりの難工事だったという。

■参考サイト
ピュンダリッヒ斜面高架橋(ウィキメディア)
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Hangviadukt_Puenderich_2005-09-25.jpg

高架橋の南のたもとに、かつてピュンダリッヒPünderich駅があった。駅名のもととなった村は対岸の滑走斜面に立地しているが、橋がないため駅の利用者が少なく、廃止されてしまった。モーゼル線は右にカーブしながら、長さ503mのライラーハルストンネルReilerhalstunnelに突っ込んでいく。地図でわかるように、線路はここで蛇行を繰り返すモーゼル河谷を離れ、アイフェル山地Eifelとの間に広がるヴィットリッヒ盆地Wittlicher Senkeを駆け抜ける。次にモーゼル川と出会うのはプファルツェルPfalzelで渡る鉄橋だが、46kmも先だ。

一方、ピュンダリッヒ旧駅からは支線が分岐している。正式には起終点の駅名をとってピュンダリッヒ~トラーベン・トラールバッハ線Bahnstrecke Pünderich - Traben-Trarbach(以下、トラーベン線)というのだが、近年は観光客向けにモーゼルワイン鉄道Moselweinbahnという愛称を掲げている。運行は毎時1本の気動車で、ブライで本線列車と接続する。名称から、モーゼル川沿いのワイン産地を縫って走るモーゼルワイン街道Moselweinstraße(下注)のような大規模なものと混同してはならない。こちらは、モーゼル河畔のトラーベン・トラールバッハTraben-Trarbachへ行く延長10.4kmの短いローカル線だ。

この路線はモーゼル線のわずか4年後、1883年に早くも開通している。この地域がつとに知られたモーゼルワインの主要集散地だったからだろう。1900年ごろ、町はフランスのボルドーに次ぐワイン取引量を誇っていたといい、当時流行のユーゲントシュティール(ドイツのアールヌーボー様式)をまとう建造物に繁栄の証しが窺える。駅には貨物用の側線が設けられ、農産物を載せた貨車とともにワインを詰めたタンク車が各地に送り出されていたそうだ。

*注 モーゼルワイン街道は、ロマンティック街道Romantische Straßeなどと同様、観光用ルート(休暇街道Ferienstraße)の一つ。コブレンツからフランス国境まで242kmある。

■参考サイト
トラーベン線の歴史
http://www.kbs621.hochwaldbahn.info/reload.html?moselweinbahn.html
 トラーベン・トラールバッハ駅の配線図や当時の時刻表がある。
ドイツワイン研究所Deutsches Weininstitut
http://www.deutscheweine.de/

しかし、盲腸線の悲哀はいずこも変わらず、利用者減少で1980年代には休止が検討されるに至った。町の少し上流に、同じくワイン取引で栄えたベルンカステル・クースBernkastel-Kuesがある。ここにもモーゼル線の支線があり(下注)、同じ1883年に開通したトラーベン線の姉妹のような線区だったが、整理対象となり、1985年に旅客輸送、1989年に貨物輸送も止められて、自転車道に転換されてしまった。

*注 正式名称はヴェンゲローア~ベルンカステル・クース線Bahnstrecke Wengerohr – Bernkastel-Kuesといい、モーゼル線のヴェンゲローアWengerohr(現在のヴィットリッヒ中央駅Wittlich Hbf)とベルンカステル・クースBernkastel-Kuesを結んだ長さ15.1kmの支線。廃線跡は、マーレ~モーゼル自転車道Maare-Mosel-Radwegの一部になっている。

■参考サイト
ヴェンゲローア~ベルンカステル・クース鉄道線 資料集
http://www.kbs622.hunsrueckquerbahn.de/
 ベルンカステル=クース駅の写真や当時の時刻表がある。

ところが、トラーベン線は運命を共にしなかった。観光開発の可能性を見込まれて、1時間間隔の運行と新型車両の導入が図られ、その結果、息を吹き返すことができたのだ。この運行形態は今も続いている。ただ、貨物のほうは廃止されたため、ホームが200mほど手前に移築された。歴史的な価値のある駅舎はもとの場所に保存されているが、不要となった旧構内はバスターミナルに改装されて跡をとどめない。

図4
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ヴィットリッヒ周辺

さて、モーゼル線のほうに話を戻そう。ライラーハルストンネルを抜けると、車窓は一変し、狭い谷間から農地の広がる緩い起伏の土地へと移る。沿線の町には目もくれず目的の西部国境をめざして平原を直進していくさまは、戦略的鉄道の使命を思い起こさせる。盆地の中心都市ヴィットリッヒWittlichもしかり。インターシティ(IC)も停車する中央駅Hauptbahnhof(Hbfと略す)は、市街から南に4kmも離れた場所にある。

もともと市街地近くにはモーゼル線の支線であるヴェンゲローア~ダウン線Bahnstrecke Wengerohr - Daun(以下、ダウン線)の駅があった。そちらが本来のヴィットリッヒ駅であり、現中央駅のほうは所在する村の名であるヴェンゲローアWengerohrを名乗っていたのだ。しかし、閑散ローカル線だったダウン線の旅客輸送が休止される1年前、1987年9月にヴェンゲローアがヴィットリッヒ中央駅に、本来のヴィットリッヒはヴィットリッヒ市駅Wittlich (Stadt) に改称された。2001年のダウン線廃止に伴い、市駅は消え、中央駅だけが残っている。市内に駅が一つしかないのに中央駅を名乗る珍しい例だ。

*注 ヴェンゲローア~ダウン線Bahnstrecke Wengerohr - Daunは延長40.8km、1885~1909年開通。1981~1988年旅客輸送休止、2001年廃止。

図5
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トリーア周辺

やがて、アイフェル線Eifelstreckeが右手の谷間から出てきて合流する。エーラングEhrangの貨物駅の横をすり抜け、4度目となるモーゼル川を渡って、線路はいよいよトリーアTrier市街に入っていく。

古都トリーアの見どころはガイドブックに任せるとして、この町でのモーゼル線(下注)の歴史に触れておこう。同線が開通した1879年、すでにトリーアは鉄道の要衝だった。1860年に南のザールブリュッケンSaarbrückenからザール線Saarstreckeが、1861年に西のルクセンブルクLuxembourgからモーゼル・ジュルタール線Mosel-Syrtal-Strecke が、1871年に北のケルンKöln方面からアイフェル線Eifelstreckeがこの町に到達していたからだ。しかし、当時のトリーア駅は現在の中央駅ではなく、市街地からモーゼル川を渡った対岸に設置されていた。

*注 ここでは、同時に開通したトリーア以西のオーバーモーゼル線Obermoselstrecke(上モーゼル線の意)と呼ばれる区間を含めて、モーゼル線と記述する。

これに対して新参のモーゼル線は、市街の東側を通るまったく独自のルートを採用した。その理由はおそらく、市街に近づけるという営業上の理由よりも、輸送路のバイパス機能を重視したからだと考えられる。既存3線のジャンクションは、南西8kmにあるコンツ・モーゼル鉄橋Konzer Moselbrückeの北詰めにあった。モーゼル線もこの鉄橋を経由すれば経済的なのは明らかだが、列車が多方向から集中して運行上のボトルネックになる。カッセルKasselやギーセンGießenの例で見てきたように、戦略的鉄道は往々にして、列車が輻輳する市街地やジャンクションを避けようとした。新ルートが選定されるのは必然だった。

モーゼル線に設けられたトリーア中央駅Trier Hbfは、川向うの旧駅から市の代表駅の座を奪った。旧駅はトリーア西駅Trier-Westと改称され、路線もトリーア西線Trierer Weststreckeと言われるようになった。その後1983年の旅客列車廃止で、西駅は事実上廃駅となり、同線は現在、貨物だけが運行されている。

ベルリン~メス間805kmの大砲鉄道計画では、全線の約6割にあたる511kmの新線が建設されたが、その中で今も幹線の機能を担っているのは、ほぼこのモーゼル線に尽きる。ここまで見てきたように、モーゼル川という天然の通商路に沿い、都市間交通を担えるルート設定だったことが、路線の利用可能性を拡張した。戦争目的で計画された鉄道が、地域の発展にも貢献することができた幸福な例といえるだろう。大砲鉄道そのものは、終点メスMetzまでまだ100kmばかり続いているが、跡をたどる旅はこの辺で幕としたい。

本稿は、参考サイトに挙げたウェブサイトおよびWikipediaドイツ語版の記事(Moselstrecke, Doppelstockbrücke Alf-Bullay, Marienburg (Mosel), Bahnstrecke Pünderich–Traben-Trarbach, Bahnstrecke Wengerohr–Bernkastel-Kues, Eifelstrecke, Trierer Weststrecke, Mosel-Syrtal-Strecke)、ドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
地形図は、ドイツ連邦官製1:500 000 Blatt Südwest(1986年版)、同1:200 000 CC6302 Trier(1984年版)を用いた。 (c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.

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 モーゼル渓谷を遡る鉄道 I
 ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線

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2012年1月14日 (土)

モーゼル渓谷を遡る鉄道 I

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ピュンダリッヒ付近

ライン川とモーゼル川が出会う場所、コブレンツKoblenzからその鉄道は出発する。白ワインの産地モーゼル川の溪谷を遡り、ローマ時代の遺跡が残るドイツ最古の都市トリーアTrierに至る、延長113kmのモーゼル線Moselstreckeだ。しかし風光明媚な観光路線のイメージとは裏腹に、出自をたどれば19世紀に構想された対仏戦略路線「大砲鉄道」に行き着く。今は幻となった大砲鉄道ルート(下注)の中でほとんど唯一、幹線としての機能を果たしている区間でもある。これから2回にわたって、そのモーゼル線の見どころを探ってみたい。今回は前半、コブレンツ~ブライBullay間だ。

*注 大砲鉄道については、本ブログ「ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線」参照

図1
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モーゼル線と大砲鉄道のルート

コブレンツを出てまもなく、モーゼル線はモーゼル川に架かるギュルス鉄橋Gülser Brückeを渡る。これからしばらく、レギオナルエクスプレスRegional-Express(快速列車)なら30分強の間、モーゼル川の左岸にぴったり沿って走ることになる。ヴィンニンゲンWinningenの先では、頭上に深い谷を一気に跨ぐスマートな高架橋が現れる。アウトバーンA 61号線のモーゼルタール橋Moseltalbrückeだ。全長935m、谷底からの高さは136mもあって、1972年の完成当時は世界で最も高い高速道路橋といわれた。

■参考サイト
ギュルスの町と鉄橋(ウィキメディア)
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Guels.jpg
モーゼルタール橋の写真集(ウィキメディア)
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Moseltalbrücke

図2
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モーゼル線のルート

川が流れる谷間はライン川より小ぶりながら、同じように両側に見上げる斜面が迫り、整然と植えられた葡萄畑が点在している。谷底のわずかな平地には、必ずグレーのスレート屋根が肩を寄せ合う小さな町がある。各停列車しか停まらないモーゼルケルンMoselkern駅で降りるハイカーは、きっと支流の狭い谷間を伝ってエルツ城Burg Eltzへ行くのだろう。中世の姿をとどめる凛々しい外観で、かつてドイツマルク紙幣(下記参考サイト)にも使われ、同国内で最も知られた古城の一つだ。

■参考サイト
エルツ城(公式サイト) http://www.burg-eltz.de/
エルツ城の写真(ウィキメディア)
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Burg_Eltz_HDR.jpg
エルツ城を配した西ドイツ時代の500マルク紙幣の裏面(ウィキメディア)
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:500_DM_Serie3_Rueckseite.jpg

図3
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コッヘム、ブライ付近拡大図

川面を悠々と行き交う大小の船を車窓から見送るうちに、行く手の小山の上にいかめしげな構えの古城が見えてくる。コッヘムCochemのライヒスブルク城Reichsburgだ。コッヘムは9世紀から記録に名を残す古い町なので、城もさぞ由緒のある建物と思いきや、山上に放置されていた廃墟を1868年にベルリンの実業家がゴシック復興様式で再建したものだという。正統性はともかくとして、町随一の名所になっていることだけは間違いない。コブレンツ方面からインターシティ(IC)に乗った人にとっては、最初の停車駅がこのコッヘムだ。下車したら、趣きある街中へ繰り出す前に、ハーフティンバーの外観を組み込んだハイマートシュティールHeimatstil(郷土様式)の堂々たる駅舎も見学しておきたい。

■参考サイト
コッヘムの町とモーゼルの眺め(ウィキメディア)
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Panorama_Cochem.jpg
コッヘム駅舎の写真(ウィキメディア)
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Bahnhof_Cochem.jpg
コッヘム付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=50.1475,7.1669&z=16

片や列車に乗り続ける人には、車窓風景がこの駅を境にして一変することを伝えておかなければならない。駅を出ると、列車は初めて長いトンネルに突入するからだ。長さが4205mあるこのヴィルヘルム皇帝トンネルKaiser-Wilhelm-Tunnelは、3年の歳月をかけて1877年に完成した。1985年にハノーファー~ヴュルツブルク間の高速線上にラントリュッケントンネルLandrücken Tunnel(長さ10779m)が開通するまで、100年以上もドイツの鉄道で最長のタイトルを護り続けていたトンネルだ。大砲鉄道プロジェクトの中でもかなめの位置を占めていたことは、当時のドイツ皇帝の名が冠されていることから知れる。トンネルのポータル最上部には、帝国の盟主プロイセンの象徴、翼を広げた鷲の像が誇らしげに掲げられている。

■参考サイト
トンネルポータル-路線番号3010(モーゼル線)の写真
Tunnelportale - Bilder der Strecke: 3010
http://www.eisenbahn-tunnelportale.de/lb/inhalt/tunnelportale/3010.html

なぜ、このような長大トンネルが必要とされたのかは、地図を見れば納得がいく(図3参照)。ここから上流で、モーゼル川が極端な蛇行を繰り返しているのだ。この流域は、河谷が鎹(かすがい)のような鉤型に曲折していることから、モーゼルクランペンMoselkrampen(モーゼルの鎹)あるいはコッヘマー・クランペンCochemer Krampen(コッヘムの鎹)と呼ばれる。これを一挙に直線化した複線トンネルは、当時としては画期的な工事だった。しかし、世はグリュンダーツァイトGründerzeit(建国時代)と呼ばれる好景気に沸いており、通過列車が増加して、長さゆえの悩みを抱え始める。

それは換気の問題だった。蒸気機関車の全盛時代、トンネルにこもる煤煙を外に出す方法がいろいろと試みられた。まず1904年に、トンネル北口に送風機が設置された。しかし、10年も経たないうちに機関車の出力増や通行量の増え方に追いつかなくなり、換気立坑の掘削が行われた。

さらに第一次大戦中、西部戦線への主要な供給路に位置付けられていたモーゼル線に対して、軍部はバイパスの設置を求めた。排煙の問題を解決するために、せっかくの直線トンネルを迂回させよという要請だった。迂回線にはまた、モーゼル右岸をブライまで走っているモーゼルタール鉄道Moseltalbahn(下注)をコブレンツ方面へ延長することで、まだ鉄道のない右岸一帯を開発するという目論見もあった。

*注 モーゼルタール鉄道あるいはモーゼル鉄道Moselbahnは、トリーアTrier~ブライBullay間を走っていた延長102kmの標準軌私鉄線。ブライ以西で川から離れてしまう国鉄モーゼル線に代わって、モーゼル川中流域の振興のために、右岸に忠実に沿って敷設された。1905年全線開通、1962年廃止。

■参考サイト
モーゼルタール鉄道Die Moseltalbahn
http://www.alt-bernkastel.de/moseltalbahn.html
 当時の写真集がある

これを受けて1916年に、カルデンKardenとブライBullay(下注)を結ぶための新線工事が開始された。しかし、第一次大戦での敗北と、ヴェルサイユ講和条約で軍備制限が課せられたことで、バイパス設置の大義は失われ、さらに不況と財政難が工事の継続を困難にした。結局、1923年に工事は中止となる。この時点ですでに、トライスTreis~ブルッティヒBruttig間にある長さ2565mのトライストンネルTreiser Tunnelとその前後数kmの地上区間は完成していた(図3の右上部に完成区間のルートを加筆)。トンネルの入口は後に破壊されたが、地形図上には長らく残っていたし、トンネル南側ではブルッティヒの町中を、今も線路敷きの石垣を積んだ築堤が貫いている。

*注 実際にモーゼル線と合流するのは、ブライの一つ手前のネーフNeef駅付近になるはずだった。

さて、道草が長くなったので、本線に戻ることにしよう。1973年にモーゼル線が電化されて、ヴィルヘルム皇帝トンネルの換気問題は永遠に解決した。現在、すぐ脇に2本目の単線用トンネルを掘る工事が行われていて、これが完成すると、列車運行はいったん新トンネルに移される。引き続き旧トンネルの改修が行われ、2016年にこの区間は2本の単線トンネルが並列する形に変わる予定だ。

長いトンネルを出てもまだ、線路は直線的に延びている。そのままエディガー=エラーEdiger-Ellerの駅の先で長さ281mの鉄橋を渡るが、橋の上で右の車窓に目をやろう。川の左岸、奥まで続く斜面は、ゲーテが「自然の円形劇場Natur-Amphitheater」と呼んだという最急傾斜65度のぶどう畑、ブレマー・カルモントBremmer Calmontだ。しかし列車はすぐに短いトンネル(ペータースベルクトンネルPetersberg-Tunnel、長さ367m)に突っ込むので、残念ながらゆっくり鑑賞する暇はない。

トンネルの後、ネーフNeefとブライBullay両駅の間は、モーゼル川の右岸を走っていく。トリーアに向かう列車で右側の車窓に川が寄り添ってくれるのはこの1駅間だけなので、貴重な時間だ。ブライまで来ると、美しいモーゼル川との仲睦まじい旅も終わりが近いのだが、まだ最後の見せ場が残されている。この先は次回に。

本稿は、参考サイトに挙げたウェブサイトおよびWikipediaドイツ語版の記事(Moselstrecke, Kaiser-Wilhelm-Tunnel, Moselbahn, Burg Eltz, Cochem)、ドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
地形図は、ドイツ連邦官製1:500 000 Blatt Südwest(1986年版)、同1:200 000 CC6302 Trier(1984年版)を用いた。 (c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.

★本ブログ内の関連記事
 モーゼル渓谷を遡る鉄道 II
 ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線
 ドイツ 大砲鉄道 II-ルートを追って 前編
 ドイツ 大砲鉄道 III-ルートを追って 後編

 ドイツの鉄道地図 IV-ウェブ版

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2011年12月29日 (木)

ドイツ ロッセタール鉄道-6線軌条を行くトラム

Blog_lossetalbahn_map1 前回、大砲鉄道のルート後半を紹介した際に、ヴァルトカッペルWaldkappelでカッセルKassel方面の路線が接続していたことを記した。ヴァルトカッペル鉄道Waldkappeler Bahn(下注)と略称されるこの路線は、東西幹線に位置付けられた大砲鉄道の支線として建設されたものだ。しかし、実際の貨客の動きは、本線たる大砲鉄道の西行き以上に、支線のほうに向いていた。エシュヴェーゲEschwege周辺から地域の中心都市カッセルへの最短経路を構成していたからだ。

*注 開通当時の正式名称は、カッセル~ヴァルトカッペル鉄道Cassel-Waldkappeler Eisenbahn (略称CWE。なお、カッセルの公式地名表記は1926年までCasselだった)。後年には、カッセル~ヴァルトカッペル線Bahnstrecke Kassel-Waldkappelと呼ばれた。

時を経て旅客列車はいったん全廃されたものの、今世紀に入り、路線の一部がカッセル市内直結のLRTルートに組入れられて、みごとに復活を果たしている。名称も、ロッセ川の谷を遡ることからロッセタール鉄道Lossetalbahnと改められた。再生されたLRT線には、鉄道線をはずれて町の中心部に寄り道したり、貨物列車と共存するためにユニークな6線軌条(レール)を通るなど、興味をそそる仕掛けが含まれている。今回は本線から少しそれて、この鉄道を追ってみたい。

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ヴァルトカッペル鉄道 全体図

まずは、ヴァルトカッペル鉄道としての歴史から。
鉄道が誕生したのは、大砲鉄道本線に遅れること数か月、1879年12月のことだ。このときはヴァルトカッペルから、カッセル市街の川向うにあるベッテンハウゼンBettenhausenまでだったが、翌1880年3月にはそのフルダ川Fuldaを越えてマイン・ヴェーザー鉄道Main-Weser-Bahnに接続し、ヴァルトカッペル~カッセル中央駅Hauptbahnhof Kassel間49.6km(下注)の全線が開通した。市街の3km南を大回りしていたこの鉄道線に対して、1884年には市街とベッテンハウゼン鉄道駅を結ぶ馬車軌道が通じて、中心街への便が一段と向上した。軌道は1898年に電化され、現在もトラム4系統と8系統が走っている。

*注 ヴァルトカッペル駅東側の大砲鉄道との分岐点まで含めると49.86 km。ウィキペディア(ドイツ語版)はこの数値を採用している。

一方、ベッテンハウゼン駅周辺では広い土地を求めて工場が進出し、近郊の工業地帯として発展した。1870年代から第一次大戦にかけて好景気に沸いた時期には、列車が沿線の村々から工場に通勤する労働者で溢れかえったという。また、鉄道沿線に褐炭や粘土の採掘場があり、産品が途中駅のヴァルブルクWalburgで分岐する支線を経由して盛んに運ばれた。

しかし第二次大戦後、道路交通が発達するにつれてバスや自家用車に客を奪われ、旅客列車の運行本数は削減されていった。その結果、1976年、当時のDB(ドイツ連邦鉄道)が出した合理化計画で、不採算のため廃止対象に挙げられた。ついに1985年5月31日をもってすべての旅客列車が廃止され、ヴァルトカッペル~ヴァルブルク間では貨物列車もなくなった。後者の区間については、すでに線路が撤去され、一部、道路用地に転用された個所もある。ヴァルブルクからカッセル方面へ褐炭を運ぶ貨物列車は残っていたが、これも2002年末で廃止されたため、パピーアファブリークPapierfabrik(下注)以東では、列車の姿が完全に消えてしまった。

*注 パピーアファブリークはベッテンハウゼンの一つ東の駅。駅名は製紙工場を意味するが、地名として定着している。

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ロッセタール鉄道 全体図

このようにして時代に見放されたヴァルトカッペル鉄道に、第2幕が用意されていると誰が想像しただろうか。新たな動きの背景には、1992年に同じドイツのカールスルーエKarlsruheで、路面電車(LRV)が国鉄線を走るという運行方式が実用化され、世間の注目を集めたことが挙げられる。市内軌道を走るLRVを国鉄線に乗入れさせると、線路を新設することなく容易に郊外へ路線網を拡張することができるようになる。さらに目的地で国鉄線から離れて路面に戻れば、遠く離れた2つの市街地を乗換えなしに結ぶことができる。

カッセルは、カールスルーエ・モデルと呼ばれるこの方式を早くに採用して、市内と郊外を直結する路線網の充実に努めた。1995年に南東部のバウナタールBaunatal(下注1)で休止線への乗入れを開始したのに始まり、1996年に今度は東部への延伸計画が発表された。これがパピーアファブリークでヴァルトカッペル鉄道に乗入れて、ヘッシシュ・リヒテナウHessisch Lichtenau(以下リヒテナウという。下注2)まで行くという22kmの路線案だった。

*注1 現在の2系統と5系統。カッセル・ナウムブルク線Bahnstrecke Kassel-Naumburgに、グロッセンリッテGroßenritteまで2.9km乗り入れている。
*注2 ヘッシシュ・リヒテナウはヘッセン(州)のリヒテナウの意。リヒテナウという地名はドイツ各地にあるため区別したもの。

LRTロッセタール鉄道の開通は、2001年6月にパピーアファブリークからヘルザHelsaのイム・シュタインホフIm Steinhofまでの区間が先行した。暫定の終点イム・シュタインホフには折返し用のループが設けられた。2006年1月に残るリヒテナウまでの区間が開通して、事業は完成した。リヒテナウの終端も大きなループになっている。なお、パピーアファブリーク~リヒテナウ間では、線路の所有権も、DBからカッセル地方鉄道Regional Bahn Kassel (RBK) に移管された。

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カウフンゲン付近

さて、ここでようやく、冒頭で触れた「興味をそそる仕掛け」を説明する段まで来た。仕掛けの一つ、軌道が鉄道線から別れて市内に寄り道する区間は、カウフンゲンKaufungenとリヒテナウにある。どちらも鉄道駅が町はずれに位置しており、停留所を市街地により近づける目的で造られた。お手本となったカールスルーエ周辺でも、ヴェルトWörth (Rhein) やバート・ヴィルトバートBad Wildbad、ハイルブロンHeilbronnで見られるとおりだ。

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ヘッシシュ・リヒテナウ付近

カウフンゲンで寄り道するのは、停留所でいうと、ニーダーカウフンゲン駅Niederkaufungen Bahnhof(下注)とオーバーカウフンゲン駅Oberkaufungen Bahnhofの間だ。右上図のとおり、鉄道線を離れて南側にうねるように迂回している。これで、従来の鉄道駅から距離がある一貫教育学校やスポーツ公園の近くに、最寄りの停留所を設置することが可能になった。

リヒテナウのそれは、イム・タールIm Talの手前にある分岐点から始まるが、もう鉄道線には戻らない。道路に寄り添いながら鉄道線のガードをくぐり、旧市街のすぐ西に置かれたシュタットミッテStadtmitte停留所(市中央の意)を経て、終点ビュルガーハウスBürgerhaus(市会議事堂)のループに到達する。

*注 停留所名にバーンホフBahnhof(駅の意)とあるのは、旧ヴァルトカッペル鉄道の駅であることを示す。

もう一つの仕掛けは、駅部に見られる複雑なレール配置だ。駅のホームに挟まれて、6本のレールが所狭しと並ぶ写真(下記参考サイト)を初めて目にすると、誰しも驚くだろう。

■参考サイト
ニーダーカウフンゲン中央停留所の6線軌条
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/29/Sechsschienengleis.JPG

これはガントレットの一種で、車両限界の違う貨物列車とLRVに線路を共有させるための工夫だ。すなわち、プラットホームのへりをLRVに合わせると、貨物列車が接触してしまうし、かといって貨物列車に合わせると、乗降の際にホームと車両ドアの間に隙間が生じる。そこで、ホームがある部分だけ、貨物とLRVの走行線路を分離しようとしたのだ。

Blog_lossetalbahn_map6
軌条(レール)配置模式図

右の模式図でもう少し説明しよう。線路が2本(1対)以上ある駅では、オーバーカウフンゲン駅のように貨物線freight routeを別にする(図1段目)か、あるいは、ニーダーカウフンゲン駅のように片方の線路の4線化で済ませている(図2段目。この場合、貨物どうしは交換できない)。

しかし、1本だけのいわゆる棒線駅では、両側にLRV用のホームを設けるために、中央の線路を貨物用とし、左右に少しずらしてLRV用の線路を設置した(図3段目)。この珍しい6線軌条は、ニーダーカウフンゲン中央Niederkaufungen Mitte、ヴァルトホフWaldhof、整形外科病院Orthopädische Klinikの3停留所で見られる。さらに、ドイツ赤十字病院DRK-Klinik停留所ではホームが千鳥状に配置されているため、ホームの前は各4線で、間にある踏切は6線という変則形になっている(図4段目)。

この新路線には、先述の馬車軌道の後身であるトラム4系統が乗入れた。4系統は、市域南西部のマッテンベルクMattenbergから、ICEが停車するヴィルヘルムスヘーエ駅Bahnhof Wilhelmshöhe、中心市街の国王広場Königsplatzを経由してやってくる。それとともに全線開通時には、アルストム社製ディーゼル・ハイブリッド車両を使ったレギオトラムRegiotramが、朝夕3往復設定された。RT2系統とされたこの列車は、ディーゼル動力に切替えてカウフンゲンの非電化貨物線(旧ヴァルトカッペル鉄道)を通り、所要時間を短縮するというのが歌い文句だった。しかし、わずか3分の節約と少ない本数では定着せず、1年と数か月で姿を消した。

現行ダイヤは、各停の4系統に統一されている。日中、市街からパピーアファブリークまでは1時間当たり4~5本走っているが、その先、ヘルザまでは同2本、さらに終点リヒテナウまで行くのは1時間に1本きりだ。とはいえ、列車時代末期に1日7往復しかなかった(下注)ことを思えば、ずいぶん高頻度に運転されている。所要時間も、リヒテナウ~カッセル間では列車時代と遜色ない50分前後に収まる。中心街直結の効果も手伝って、停車駅が増えたハンディキャップを十分吸収しているといえるのではないだろうか。

*注 1984~1985年冬期時刻表による。7往復の旅客列車はすべてエシュヴェーゲ~ヴァルトカッペル~カッセル中央駅を通しで運行しており、硬直した地方線ダイヤだった。

その一方で、貨物列車の運行が再開される見込みはなさそうだ。6線軌条をはじめとする高価な施設は貨物と共存させるために整備したのだが、こちらは早くも無用の長物となりつつある。

本稿は、三浦幹男、服部重敬、宇都宮浄人「世界のLRT」JTBパブリッシング, 2008、服部重敬「カッセルのレギオトラム」鉄道ファン2007年5月号 pp160-165、および参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版の記事(Bahnstrecke Kassel–Waldkappel, Kassel Hauptbahnhof, Gleis#Mehrschienengleise)、ドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
地形図は、ドイツ連邦官製1:200 000 CC4718 Kassel(1983年版), CC4726 Goslar(1987年版), CC5518 Fulda(1983年版), CC5526 Erfurt(1988年版)を用いた。 (c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.

■参考サイト
ヘッセン北部運輸連合 Nordhessischen VerkehrsVerbund   http://www.nvv.de/
 路線図は、Fahrplan & Netz > Karten und Netzpläne > Liniennetzpläne KasselPlus
ロッセタール鉄道の歩みDer Weg zur Lossetal Bahn
http://www.bus-tram.de/html/lossetal_bahn1.html
ロッセタール鉄道-20年後の新たな始まりLossetalbahn - Ein Neuanfang nach 20 Jahren
http://www.kvc-kassel.de/index.php?id=27
ニーダーカウフンゲン中央付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=51.2834,9.6006&z=18

写真集
http://www.tram-kassel.de/rtn/rtn_galerie/rtn-gal_f.htm
http://www.vergessene-bahnen.de/Ex522_2.htm
 ヘルザまで部分開通した時代の写真が揃っている。

YouTube - Bahnhof Helsa~Orthopädische Klinik
http://www.youtube.com/watch?v=BRz3C7TnqbE

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2011年11月16日 (水)

ドイツ 大砲鉄道 III-ルートを追って 後編

全体図Blog_kanonenbahn_map5

ライネフェルデ~トライザ間 その2
Leinefelde - Treysa #2

カノーネンバーン(大砲鉄道)の中間部、ライネフェルデLeinefelde~トライザTreysa間には、なお2回の山越えがある。その一つは、エシュヴェーゲ西駅Eschwege West(現在は廃止)からマルスフェルトMalsfeldまでの行程で、ヴェーラ川Werraからフルダ川Fuldaへ流域も変わる。

エシュヴェーゲ西駅の南で、大砲鉄道はゲッティンゲン~ベブラ線Bahnstrecke Göttingen-Bebraを乗り越えるが、その後も3km以上並走してから、おもむろに針路を西に振る。ヴァルトカッペルWaldkappelでは、カッセル~ヴァルトカッペル線Bahnstrecke Kassel - Waldkappel、あるいはヴァルトカッペル鉄道Waldkappeler Bahnと呼ばれる路線が接続していた。この路線は大砲鉄道と同じ1879年に、数か月遅れで開通したもので、エシュヴェーゲ方面から地方の中心都市カッセルKassel(下注)への最短経路を構成した。旅客流動の大勢も、当路線経由でカッセルへ向いていたに違いない。

*注 カッセルは、1866年にプロイセンに併合されるまでヘッセン選帝侯国Kurfürstentum Hessen(略してクーアヘッセンKurhessen)の首都だった。

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 ドイツ ロッセタール鉄道-6線軌条を行くトラム
  ヴァルトカッペル線のその後を紹介している。

図4
Blog_kanonenbahn_map10
エシュヴェーゲ~マルスフェルト間

大砲鉄道はさらに西へ広い谷中を進み、サミットを長さ1503mのビショファローデトンネルBischofferoder Tunnel(下注)で貫く。あとは下り坂で、ドイツの人口重心(2004年現在)に位置するというシュパンゲンベルクSpangenbergを経て、フルダ川Fuldaを渡ると、カッセル~ベブラ線Bahnstrecke Kassel-Bebra(フリードリヒ・ヴィルヘルム北部鉄道 Friedrich-Wilhelms-Nordbahn)と交わるマルスフェルトMalsfeldだ。同線と大砲鉄道は十文字に立体交差するのだが、双方をつなぐ連絡線が北側と南側に1本ずつ造られていた。

*注 ビショファローデBischofferodeはトンネル西口の集落名。トンネルはまた、近くの山の名を採ってアイスベルクトンネルEisbergtunnelとも呼ばれる。

図5
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マルスフェルト~トライザ間

山坂はまだ終わらない。マルスフェルトからホンベルクHomberg (Efze) にかけては、もう一山越える必要がある。再び谷を遡ったバイスハイムBeisheimの小盆地には、山懐を大回りしながら高度を稼いでいく見せ場があった。オーバーバイスハイムOberbeisheimがサミット手前の駅になり、長さ917mのオーバーバイスハイムトンネルOberbeisheimer Tunnelでエーダー川Ederの支流エフツェEfze川の谷へ抜ける。坂を降りていく途中でエフツェの谷を一気にまたいでいる鉄橋にも注目したい。構造が上路式プレートガーダー(鈑桁)のため、先のレンゲンフェルトのような優美さはないが、長さ220m、高さ20mと、規模ではそれに次ぐものだ。

目立つ城山を擁するホンベルクまで来ると、あたりはすっかりのびやかな丘陵地に変わり、やがてトライザTreysaでフランクフルトFrankfurt am Main方面へ向かうマイン・ヴェーザー鉄道Main-Weser-Bahn(時刻表番号620)に合流する。トライザの町は1970年に東隣のツィーゲンハインZiegenhainほかと合併し、その際、市名は域内を貫く川の名を採ってシュヴァルムシュタットSchwalmstadt(シュヴァルム川の町の意)になった。グリム童話、中でも赤ずきんの故郷として、今や市名の方が通りがいいかもしれないが、駅名は開通当時のまま残っている。

さて、この区間の現状はどうなっているだろうか。ほとんどが山間部とあって、ご多分に漏れず列車の走る姿を見ることは叶わない。まず、エシュヴェーゲ西駅~ヴァルトカッペル間には、先述のとおりカッセル行きの列車が走っていたが、接続するカッセル~ヴァルトカッペル線とともに1985年に休止の措置がとられた。ヴァルトカッペル~マルスフェルト間はさらに早く1974年に休止され、マルスフェルト~トライザ間も1981年の段階で運行が途絶えた。貨物列車の運行も、早い区間は1974年、最後まで動いていたホンベルク~トライザ間も2002年に終了している。

その結果、ヴァルトカッペル~ホンベルク間ではレールが撤去されてしまい、鉄橋やトンネル、駅舎などの構築物だけが廃墟さながらの姿を晒している。前回見た東西ドイツ国境による分断とは事情が異なり、通過交通のほとんど見込めない区間だったのだろう。一方、レールが残るビッシュハウゼン~ヴァルトカッペル間では、約2kmに過ぎないが、2010年から軌道自転車(ドライジーネ)で走行できるようになった。同じくレールが現存するホンベルク~トライザ間では、地元自治体が定期列車の再開計画を温めているという。そのうちエシュヴェーゲのように、新型気動車が姿を見せる日が来るのかもしれない。

■参考サイト
ヴェーレタール・ドライジーネWehretal-Draisine
http://www.wehretal-draisine.de/inhalt/wehretal-draisine.html
大砲鉄道の現状写真集(説明はオランダ語)
3.フリーダトンネル~エシュヴェーゲ~ビショファローデトンネル
http://www.railtrash.net/images/Kanonenbahn_3/
4.ビショファローデトンネル~ホンベルク
http://www.railtrash.net/images/Kanonenbahn_4/
5.ホンベルク~マイン・ヴェーザー鉄道合流点
http://www.railtrash.net/images/Kanonenbahn_5/

ロラー~ヴェッツラー間
Lollar - Wetzlar

図6
Blog_kanonenbahn_map12
ロラー~ヴェッツラー間
図中の境界線は
プロイセンPreußenと
ヘッセン大公国Grhzm. Hessen
の旧国境

大砲鉄道が合流したマイン・ヴェーザー鉄道の名は、起点フランクフルトと終点カッセルの町を流れる川の名から来ているが、鉄道はその中間部で別のラーン川Lahn流域をしばらく走る。合流点のトライザはヴェーザー流域の最上流部に近く、ものの10kmも行けば列車はもうラーン川斜面に足を踏み入れている。メルヘン街道の経由地であり大学都市でもあるマールブルクMarburgを経て、本線はギーセンGießenへと続いていく。しかし、大砲鉄道はその手前8.1kmのロラーLollarで分岐し、ギーセンを完全にバイパスしてしまうのだ。これがロラー~ヴェッツラー線Bahnstrecke Lollar–Wetzlarと呼ばれる18.0kmの路線で、1878年に開通した。

ギーセンは、マイン・ヴェーザー鉄道とラインラント北部やルール工業地帯につながる幹線ディル線Dillstreckeが合流する鉄道結節点のため、それを迂回するというのが建設の理由だ。しかしさらに重要なのは、ギーセンがプロイセン領ではなく、ヘッセン大公国Großherzogtum Hessen(下注)領内の町だったという点だろう(図6参照)。

*注 ヘッセン大公国はダルムシュタットを首都とする。カッセルが首都のヘッセン選帝侯国(クーアヘッセンあるいはヘッセン=カッセル)とは別。選帝侯国が1866年にプロイセンに併合されて消滅したのに対して、大公国は1918年の民主化を経て1945年の敗戦まで存続した。

大公国は、普仏戦争を機に1871年、プロイセン主導のドイツ連邦に加盟したので、この時点ではもはや同盟国だった。しかし、そのわずか5年前の1866年にプロイセンとオーストリアの間で戦われた普墺戦争では、南ドイツ諸国とともにオーストリア側についた敵国だったという事実がある。

近い将来のフランスとの再戦争を想定した場合、直接統治が及んでいない地域にあるジャンクションを軍用列車がスムーズに通れるのか。同盟国の協力姿勢をプロイセン当局がどの程度信用していたかは定かでない。しかし、そもそもプロイセンがフランスにアルザス=ロレーヌの割譲を要求した背景の一つに、この地域を掌握することで、南ドイツ諸国から対仏国境を遠ざけ、西部戦線全体を自らコントロールするという目論みがあったとされる。念願のドイツ統一を成し遂げたとはいえ、軍事国家として成長してきたプロイセンにとって、有事の体制は自らの統制下で構築すべきものだった。迂回路線の建設計画も、当然この方針の延長上にあったはずだ。

そのロラー~ヴェッツラー線は以後どうなっただろうか。旅客輸送は1980年で休止された。貨物輸送も、北側のロラー~アーベントシュテルンAbendstern間がバイパス道路通過に支障するという理由で1983年に休止となり、残るアーベントシュテルン~ヴェッツラー間も1991年限りで運行が取止められた。先述のライネフェルデ~トライザ間と異なり、こちらは都市近郊の路線だが、フランクフルト方面に通じていないことが客貨の流動に合わなかった理由だろう。現在、レールは撤去され、西側のドルラーDorlarおよびアッツバハAtzbach村を通る一部区間は、鉄道用地の指定も法的に解除された。また、途中のキンツェンバハKinzenbachの駅舎は博物館施設(ホイヒェルハイム郷土博物館Heimatmuseum Heuchelheim)に転用され、敷地に赤いレールバス2両が静態保存されている。

■参考サイト
ロラー~ヴェッツラー線の現状写真集(2007~2008年)
http://home.arcor.de/bernd.funken/xspecial_kanonenbahnmittelhessen.html
ホイヒェルハイム郷土博物館 http://www.heimatmuseum-heuchelheim.de/

ヴェッツラー以西

図7
Blog_kanonenbahn_map13
ヴェッツラー~コブレンツ間

ヴェッツラーWetzlarは、ベルリンを発した大砲鉄道、別名ヴェッツラー鉄道の当面の目的地だった。ここから大砲鉄道のルートは、1858~1963年に開通済みのラーンタール鉄道Lahntalbahn(時刻表番号625)を利用して、ライン川Rheinとモーゼル川Moselの合流点に位置するコブレンツKoblenzに向かう。

路線は、蛇行を繰り返すラーン川Lahnにほぼ忠実に沿っている。車窓の眺めは申し分ないが、曲線が連続するため列車の速度は上がらない区間だ。ラーンタール鉄道は最初単線で開通したが、戦略的役割を与えられたことにより1875~1880年に複線化工事が実施された。しかし、現在は老朽化した鉄橋の改築などに伴い、部分的に単線に戻されている。

コブレンツから先のモーゼル線Moselstreckeについては、「モーゼル渓谷を遡る鉄道 I」で取り上げる。

本稿は、参考サイトに挙げたウェブサイトおよびWikipediaドイツ語版の記事(Kanonenbahn, Bahnstrecke Leinefelde–Treysa, Bahnstrecke Kassel–Waldkappel, Friedrich-Wilhelms-Nordbahn, Main-Weser-Bahn, Bahnstrecke Lollar–Wetzlar, Lahntalbahn)、ドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
地形図は、ドイツ連邦官製1:500 000 Blatt Südwest(1986年版)、同1:200 000 CC4718 Kassel(1983年版), CC4726 Goslar(1987年版), CC5510 Siegen(1982年版), CC5518 Fulda(1983年版), CC5526 Erfurt(1988年版), CC6310 Frankfurt a.M.-West(1980年版)を用いた。(c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.
また、図6のプロイセンとヘッセン大公国の境界線はドイツ帝国1:200 000地形図125 Marburg(1911年版)による。

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 ドイツ 大砲鉄道 II-ルートを追って 前編

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2011年11月12日 (土)

ドイツ 大砲鉄道 II-ルートを追って 前編

全体図Blog_kanonenbahn_map5

19世紀の軍事戦略鉄道プロジェクト、カノーネンバーンKanonenbahn(大砲鉄道)のルートと現状を、区間ごとに2回に分けて見ていこう。

ベルリン~ブランケンハイム間
Berlin - Blankenheim

起点のベルリン・シャルロッテンブルクBerlin-Charlottenburg駅から南西の方角へ、ハルツHarz山地東麓にあるブランケンハイムBlankenheimを目指すこの区間は、大砲鉄道の新設4線のなかで最も長く188.1kmある。ヴェッツラー鉄道Wetzlarbahnという別称を持っているが、これは1873年6月に認可された建設計画がベルリン~ヴェッツラーWetzlar間であったためだ。しかし目標のヴェッツラーは540kmのかなた、現在のヘッセン州の町だ。

図1
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ベルリン~ギューターグリュック間

大砲鉄道は、障害となるものがほとんどない平野部をまっすぐに進んでいる。国家戦略を託された路線にふさわしいルート設定だ。旧東独時代に西ベルリンの周囲を回る形に建設された外環状線Berliner Außenring (BAR) と交差した後、鉄道は東部最大のゼッディンSeddin操車場を通過していく。デッサウDessau方面への分岐駅ヴィーゼンブルクWiesenburgは、広大な丘陵地帯フレミングFlämingの中にぽつんとある。1923年にこの駅とロスラウRoßlauを結ぶ連絡線が完成して、ベルリン~デッサウ間の短絡ルートができあがった。現在も旅客列車の運行(時刻表番号207)がある。

対照的に、本線であるギューターグリュックGüterglück方面は、1993~95年の間、ベルリン~ポツダム~マグデブルク鉄道Berlin-Potsdam-Magdeburger Eisenbahn改良工事に際して、インターシティなどの迂回路として活用されたのが最後の花道となった。旅客列車に続き、貨物列車の運行も2004年12月をもって終了し、現在はエルベ川Elbeを渡ってギュステンGüstenまでが休止扱いとなってしまった(下注)。都市間連絡の機能を想定していない戦略的鉄道の弱点が、如実に現れた形だ。

*注 ただし、カルベ西駅Calbe West前後の線路は、カルベ東駅Calbe Ost~ベルンブルクBernburg間のローカル列車(時刻表番号340)の経路として使われている。

図2
Blog_kanonenbahn_map8
ギューターグリュック~
ブランケンハイム間

そのギュステンは、かつて鉄道で栄えた町だった。線路が5方面から集まる拠点駅であるとともに、大砲鉄道経由で西に向かう機関車にとってはハルツ東麓の峠越えを控えた補給基地となっていた。広い駅構内には給水塔や、1995年に廃止された扇形機関庫がまだ残されている。ベルリンからの本線線路は撤去されたものの、残り4方面はエルベ・ザーレ鉄道Elbe Saale Bahnのブランドを掲げた新型気動車が導入されて、面目を一新している(時刻表番号334、335)。

ギュステンで胸のすくような直進ルートは終わり、次のザンダースレーベンSanderslebenからは、線路数も減って単線になる。ヘットシュテットHettstedtの先では鉱山が点在する丘陵地をくねくねとたどり、やがて、左手から坂を上ってきたハレ~カッセル鉄道Halle-Kasseler Eisenbahnと合流する。ここ、ハルツ山地の東麓にあるブランケンハイムBlankenheimの峠越えは、線路標高こそ約270mに過ぎないが、蒸気機関車の時代には補機を必要とする勾配路だった。サミット直下のトンネル(ブランケンハイムトンネルBlankenheimer Tunnel)は長さ875mあり、これを抜けると線路はゴールデネ・アウエGoldene Aueの広い盆地へと降りていく。

■参考サイト
ギュステン駅Bahnhof  Güsten(写真集) http://www.eisenbahndet.de/BfGuesten.htm
エルベ・ザーレ鉄道(公式サイト) http://www.elbe-saale-bahn.de/
BW SangerhausenのDR52.80形 http://silkroad2000.web.fc2.com/105.htm
 ハレ~カッセル鉄道ザンガーハウゼンおよびブランケンハイム駅の蒸機写真集

ライネフェルデ~トライザ間 その1
Leinefelde - Treysa #1

大砲鉄道の中間部に当たるライネフェルデLeinefelde~トライザTreysa間は、北流するウェーザー川Weserの支谷を渡り歩くために、3度も山越えをする。勾配が連続することが、カッセルKassel回りの幹線より距離が短いにもかかわらず通過貨物に嫌われた、最大の要因だ。

図3
Blog_kanonenbahn_map9
ライネフェルデ~エシュヴェーゲ間

ハレ~カッセル線上のライネフェルデからすぐに新線が始まるわけではなく、まずはゴータ~ライネフェルデ線Bahnstrecke Gotha-Leinefeldeに乗り入れる。すでに1870年に完成していたこの路線は、駅から東向きに出ているため、大砲鉄道としては方向転換が必要になった。先を急ぐ軍用列車にとって機関車の付け替えは避けたいところだが、折り返さずに通過できるような連絡線が造られた形跡はない。

ゴータ線を8.2km進んだところに新線の分岐点がある。同線上のジルバーハウゼン駅より手前に位置するため、ジルバーハウゼン分岐駅Silberhausen-Trennungsbahnhofと称した。駅とはいえ、旅客の乗降を扱ったのは1905年から40年代までで、その後は信号所の機能のみとなった。

新線区間は121.8kmあるが、最初のサミットは、長さ1530mのキュルシュテットトンネルKüllstedter Tunnelだ。ちょうど、東側エルベ水系と西側ヴェーザー水系の分水界を成している。そしてここからが、沿線随一のハイライト区間だろう。しばらく谷壁に沿った10‰前後の下り坂が続き、4本の短いトンネルを経て、前回紹介した半回転ループのあるレンゲンフェルト・ウンテルム・シュタインLengenfeld unterm Steinまで降りていくのだ。そして、長さ1066mのフリーダトンネルFrieda-Tunnelを抜け、ヴェーラWerra川の鉄橋を渡り、エシュヴェーゲ西駅Eschwege West(下注)でゲッティンゲン~ベブラ線Bahnstrecke Göttingen-Bebraと連絡する。

*注 同駅は、開通当時ニーダーホーネNiederhoneと称した。ニーダーホーネ~エシュヴェーゲ町駅Eschwege Stadt(後にエシュヴェーゲに改称)3.3kmはゲッティンゲン~ベブラ線の一部として1875年に完成しており、大砲鉄道の新線では最も早く開通したことになる。

しかしこの区間は、第二次大戦の後で設けられた東西ドイツ国境(地図ではINNER GERMAN BORDERと表記)により、致命的な影響を受けた。大戦末期の1945年、ガイスマールGeismar~シュヴェブダSchwebda間のフリーダ川Friedaに架かる鉄橋が爆撃で破壊されたのだ。運行不能状態にとどめを刺すように、鉄橋の1.5km北側に国境が引かれることになった。両駅間は正式に休止となってしまい、国土の東西を直結するという、大砲鉄道に託された意義は失われた。

その後も東側の運行は、ガイスマールを終点として続けられたが、再統一後の1992年に終了した。西側は、シュヴェブダから分岐するヴェーラタール鉄道Werratalbahn(下注)と一体で運行されていたが、1981年に旅客が、1994年には貨物列車も休止となった。

*注 同鉄道は、終始ヴェーラ川に沿ってシュヴェブダ~ヴァルタWartha間を結んでいた。大砲鉄道と同様、1945年に途中の鉄橋が破壊され、さらに国境設定で直通不能となった路線だ。そのため、全廃直前はシュヴェブダから1駅目のヴァンフリートWanfriedまで細々と運行されていたに過ぎない。

これで大砲鉄道として造られたジルバーハウゼン分岐駅~エシュヴェーゲ西駅間は、全線が過去帳入りしたかに見えた。ところが最近、地方鉄道網を刷新する取組みが進み、その一環として、エシュヴェーゲに旅客列車が戻ってきた。ゲッティンゲン~ベブラ線を走る列車系統(時刻表番号613)が、エシュヴェーゲ町駅に寄り道するのだ。列車は町駅で折り返してゲッティンゲン~ベブラ線に戻る。この運行形態を可能にするために、同線との接続点が三角線化された。また、もとのエシュヴェーゲ西駅は廃止され、その代り、大砲鉄道上にエシュヴェーゲ・ニーダーホーネEschwege Niederhone駅が開設された。利便性を高めるために、集落に近い位置に移設されたのだ。同駅は一つの時刻表に2回登場する。その理由は、折り返してきた列車がまた停まるためだが、事情を知らなければ表の誤植を疑ってしまうだろう。

一方、旧東側のレンゲンフェルト・ウンテルム・シュタインでは、村の観光資源としてレールの残る旧線で軌道自転車(ドライジーネDraigine)を貸し出している。走れる区間はキュルシュテットKüllstedt~ガイスマール間16.8kmで、その間に、村の上空に架かる優美なレンゲンフェルト鉄橋と、サミットを抜けるキュルシュテットトンネルが含まれる。鉄橋を渡る爽快さもさることながら、トンネルのポータルも見逃せない。左右にタレット(装飾用の小塔)が付くなど、中世の城壁に見立てた技巧がこらされ、国家事業の威風を漂わせているからだ。加えて急坂とカーブが連続する野趣に富んだ廃線跡は、探索ファンの興味を掻き立てる。もちろん、トンネルの長い闇に備えて、ドライジーネの車体にはヘッドライトがついているそうだ。

大砲鉄道は複線用地を持っているが、1920年代に片方の線路が取り払われてしまった。撤去された側を自転車道にする計画もあるらしいが、現地写真を見る限り、まだ着手には至っていない。

エシュヴェーゲ以西は、次回詳述する。

本稿は、Günter Fromm "Die Geschichte der Kanonenbahn" Verlag Rockstuhl, 2004、参考サイトに挙げたウェブサイトおよびWikipediaドイツ語版の記事(Kanonenbahn, Berlin-Blankenheimer Eisenbahn, Halle-Kasseler Eisenbahn, Bahnstrecke Leinefelde–Treysa, Bahnstrecke Göttingen-Bebra, Bahnstrecke Schwebda–Wartha)、ドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
地形図は、ドイツ連邦官製1:500 000 Blatt Nordost(1990年版)、同1:200 000 CC4718 Kassel(1983年版), CC4726 Goslar(1987年版), CC5518 Fulda(1983年版), CC5526 Erfurt(1988年版)を用いた。(c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.

■参考サイト
北ヘッセン運輸連合Nordhessischen VerkehrsVerbund (NVV)   http://www.nvv.de/
 エシュヴェーゲを通るのはR7系統ゲッティンゲン~ベブラ間。カントゥス交通会社Cantus Verkehrsgesellschaft  http://www.cantus-bahn.de/ が運行している。
レンゲンフェルトのドライジーネ(写真多数)
http://www.bahntrassenradwege.de/index.php?page=kanonenbahn-draisine
大砲鉄道の現状写真集(説明はオランダ語)
1.ジルバーハウゼン分岐駅~キュルシュテットトンネル
http://www.railtrash.net/images/Kanonenbahn_1/
2.キュルシュテットトンネル~レンゲンフェルト~フリーダトンネル
http://www.railtrash.net/images/Kanonenbahn_2/
3.フリーダトンネル~エシュヴェーゲ~ビショファローデトンネル
http://www.railtrash.net/images/Kanonenbahn_3/

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 ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線
 ドイツ 大砲鉄道 III-ルートを追って 後編

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2011年11月 6日 (日)

ドイツ 大砲鉄道 I-幻の東西幹線

鉄道地図帳を眺めていると、時の経つのを忘れる。ページを繰りながらとりわけ注目するのは廃止線、休止線のたぐいだ。昔はこんなところに列車が走っていたのか、何のために敷かれたのだろう、と想像を巡らしてみる。資料に当たれば、鉄道が担った役割の向こうに、土地がもつさまざまな歴史事情が浮かび上がってくるのだ。

Blog_kanonenbahn_map1
中央部に
"Kanonenbahn"の注記

この鉄道を知ることになったきっかけも、そうだった。ドイツ中央部の鉄道地図(下注)を開いていた時に、カッセルKasselの近くで「カノーネンバーンKanonenbahn」と注記された廃止線が描かれているのに気付いた。北東から南西に向かうルートをたどっていくと、けっこう遠くまで伸び、しかも南北方向の2本の幹線と立体交差している。900~1500mといった長めのトンネルを連ねて幾山を越えているところも、ただのローカル線とは思えなかった。

*注 「ドイツ鉄道地図帳Eisenbahnatlas Deutschland」。この地図帳については、本ブログ「ドイツの鉄道地図 III-シュヴェーアス・ウント・ヴァル社」で詳述。

いったいどんな素性を秘めているのだろうか。興味を掻き立てられて、てっとり早くウィキペディアで調べてみると、「カノーネンバーンは、ギュステンGüsten、ヴェッツラーWetzlar、コブレンツKoblenzおよびトリーアTrierを経由してベルリンBerlin~メスMetz間を結んだ軍事戦略鉄道の俗称である。軍事戦略目的で建設された鉄道はほかにもあるが、なかでもこのベルリン~メス連絡線が最もよく知られている。」(ウィキペディア、ドイツ語版から翻訳引用)

図1
Blog_kanonenbahn_map2
カノーネンバーン(大砲鉄道)
路線図

起点のベルリンはプロイセン王国以来、ドイツの首都に位置付けられている。終点のメス(ドイツ語読みはメッツ)は現在フランス、ロレーヌ地方の中心都市だが、1870~71年の戦いで敗れたフランスは、メスを含むアルザス=ロレーヌをプロイセンに割譲していた(下注)。つまり、あの廃止線は一介のローカル線どころか、首都と領土西端の主要都市を直結するために構想された全長805kmに及ぶ壮大な幹線鉄道プロジェクトの一部だったのだ(右図1参照)。

*注 割譲されたロレーヌは、本来のロレーヌ地方の東半分に当る。この地域がフランスに復するのは第一次大戦後になる(1919年のヴェルサイユ条約で確定)が、その後第二次大戦でもドイツの占領下に置かれた。

この普仏戦争の後、プロイセンは周辺諸邦とともに連邦制のドイツ帝国Deutsches Kaiserreichを築きあげるのだが、アルザス=ロレーヌ(ドイツ語でエルザス=ロートリンゲンElsaß-Lothringen)は帝国直轄州(ライヒスラントReichsland)とされ、実質的にプロイセンが支配した。なぜなら、この地は鉄鉱石や石炭を産する重要な鉱工業地域であり、また敵国フランスと接する西部国境の最前線だったからだ。鉄道が計画された理由もそこに見出すことができる。

ベルリンから西へ向かい、モーゼル川流域を到達点とする鉄道路線は、早くも1855年には提唱されていたというが、具体的な建設計画として議会に提案されたのは、普仏戦争終結後の1872年だ。フランスからの賠償金を建設資金の一部に充当することで、計画は一気に現実的なものとなった。鉄道は、新幹線のようにすべて新規に建設されたわけではなく、805kmのうち新線は511kmで、それ以外は既存線の活用あるいは改良で補った。

図2
Blog_kanonenbahn_map3
建設当時の状況

その状況は右図2のとおりだ。まず、新設線は4区間に分けられる。第1に、ベルリン市内を出て直線的にブランケンハイムBlankenheimまで進む188kmの通称ヴェッツラー鉄道Wetzlarer Bahn。第2に、最急20‰勾配の峠道が点在する山間部のジルバーハウゼン分岐駅Silberhausen-Trennungsbahnhof~トライザTreysa間122km。第3に、ギーセンGießenの町をバイパスするロラーLollar~ヴェッツラーWetzlar間18km。第4に、ライン右岸のホーエンラインHohenrheinからコブレンツを経由し、モーゼル川に沿ってロレーヌ地方のディーデンホーフェンDiedenhofen(仏名ティオンヴィルThionville)まで行く188kmのモーゼル線Moselstreckeおよび上モーゼル線Obermoselstreckeだ。

その間は既存線5区間でつないだ。まず、ブランケンハイム~ライネフェルデLeinefelde間は1860年代に完成していたハレ~カッセル線Halle-Kasseler Eisenbahn (Hauptbahn Cassel–Halle) を利用した。第2に、ライネフェルデ~ジルバーハウゼン分岐までの短区間はゴータ~ライネフェルデ線Bahnstrecke Gotha-Leinefeldeを利用した。第3に、トライザTreysa~ロラーLollar間は1850年から運行されているマイン・ヴェーザー鉄道Main-Weser-Bahnを利用した。第4に、ヴェッツラーWetzlar~ホーエンラインHohenrhein間は1858~63年にかけて造られたラーンタール鉄道Lahntalbahnを使い、複線に改良した。最後に、終端となるディーデンホーフェン~メス間はフランスの東部鉄道会社Compagnie des Chemins de fer de l'Estが1854年に開通させていた路線に乗入れた。

新規区間は1875年から順次完成し、1880年5月15日、ジルバーハウゼン分岐駅~エシュヴェーゲEschwege間を最後に全線が開通した。ただし、この時点でベルリン市内のシャルロッテンブルクCharlottenburg~グルーネヴァルトGrunewald間3.1kmだけは未完成で、同区間が通じる1882年まで、列車はベルリンのポツダム駅Potsdamer Bahnhofから出発したという。

カノーネンバーンのカノーネンKanonenは、ドイツ語で大砲(複数形)を意味する。有事の際に兵器や兵士を戦地へ運ぶ目的で造られた路線だから、「大砲鉄道」と呼ばれてきたのだが、あだ名には別の隠喩が込められているようにも思う。つまり、大砲しか運ぶものがなかった鉄道という含意だ。

総じて戦略的鉄道は、長大な軍用貨物列車が頻繁に往来しても支障がないように、待避線は長く、勾配は緩く、可能な限り複線で建設される。それとともに、列車が輻輳する市街地を迂回するルートを採用することが多い。この鉄道も、地図でもわかるとおり、マグデブルクMagdeburgやカッセルKasselといった主要都市を避けるようにして敷かれている。このことは路線の平時における利用価値を低下させ、せっかくの立派な施設をなかば遊休化させてしまう原因となった。

開通当時からベルリン~ブランケンハイム間では定期列車が設定されない区間があり、ライネフェルデ~トライザ間は軍用列車も避けて、カッセル回りのルートを選んだと言われる。勾配区間の多さとともにライネフェルデ駅での方向転換(すなわち機関車付け替えの手間)が嫌われたのだろう。また後には、列車頻度に応じて、片方の線路を撤去して単線に戻す区間も現れた。ジルバーハウゼン分岐駅~トライザ間やラーンタール鉄道の一部区間がそうだ。

図3
Blog_kanonenbahn_map4
現在の状況

2010年現在の状況(下注)を右図3に示した。当時の新設線のうち今も活用されているのは、たまたま都市間連絡の機能を担うことができた区間に限られる(図の濃い赤線)。まずベルリン~ヴィーゼンブルクWiesenburg間、ここはデッサウDessau方面への定期旅客列車のルートとして定着した。ギュステンGüsten~ブランケンハイム間は、マグデブルクMagdeburgとエアフルトErfurtを結ぶ列車の経路になっている。コブレンツKoblenz~トリーアTrier間はルクセンブルク方面へのインターシティが走る幹線に成長し、トリーア~メス間にも国際列車の設定がある。しかし、それ以外の区間(図の淡い赤線)は実質的にローカル線の状況のまま、衰退の一途をたどった。

*注 ドイツ鉄道公式サイトの路線図Streckenkarteによる。

中でも、ジルバーハウゼン分岐駅~エシュヴェーゲ間は悲運をかこった区間だ。直通列車をカッセル経由の幹線から奪えなかっただけでなく、第二次大戦とそれに続く東西冷戦の影響をまともに蒙ったからだ。戦争末期に沿線のフリーダ川Friedaを渡る鉄橋が爆撃を受け、レールが分断されてしまう。さらに、東西ドイツの国境が鉄道を横切って設定されたため、鉄橋とその前後区間は二度と復旧されなかった。ローカル列車の運行は東西両側に分かれて細々と続けられたものの、いずれも1990年代になって廃止の最終宣告が下された。

Blog_kanonenbahn_map6 ところで、この鉄道はどれほどの規模で建設されたのだろうか。締めくくりにあたって、それを少しでも想像できる写真を紹介しておこう(下記参考サイト)。場所は、上で述べた分断地点の東側、山懐に抱かれたレンゲンフェルト・ウンテルム・シュタインLengenfeld unterm Steinの村だ。東の分水界から長い下り坂を降りてきた線路が、村を巻くように半回転している。その途中、家並みと小川をまたぎ越しているのが、6つの逆アーチ(魚腹トラス)を連ねた複線幅の堂々たる高架橋だ。長さ237m、高さ24m、集落からはまさに仰ぎ見る位置にある。

このような立派な構造物を地表に遺したまま、歴史のかなたに消え去った大砲鉄道。次回はそのルートと現況を、地形図と照合しながら見ていきたい。

■参考サイト
ウィキペディア(ドイツ語版)レンゲンフェルト橋梁の写真
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Viadukt_Lengenfeld.JPG
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Lengenfeld_Frieda.jpg
レンゲンフェルト付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=51.2128,10.2221&z=16

Kanonenbahn(個人サイト) http://www.soccer-city.eu/index.php?id=92
 レンゲンフェルト・ウンテルム・シュタインLengenfeld unterm Steinにある大砲鉄道博物館Kanonenbahnmuseum関連の情報サイト。開通当時の写真、絵葉書が豊富に公開されている。

本稿は、参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版の記事(Kanonenbahn, Berlin-Blankenheimer Eisenbahn, Bahnstrecke_Leinefelde–Treysa, Bahnstrecke Lollar–Wetzlar, Lahntalbahn, Moselstrecke)およびドイツ語版に対応する英語版の記事を参照して記述した。
レンゲンフェルトの地形図は、ドイツ連邦官製1:200 000 CC4726 Goslar(1987年版)を用いた。(c) Bundesamt für Kartographie und Geodäsie.

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2011年10月23日 (日)

オーストリアの新しい1:250 000地形図

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1:250 000地形図表紙
ウィーン 2011年版

1:50 000更新停止の断を下したわが国の例を引くまでもなく、官製地形図の印刷物刊行は世界的に見ても縮小傾向にある。デジタルデータで提供するほうが、多様化している利用形態に適応しやすいとか、製作・流通にかかるコストが削減できるといった点で、有利とみなされているのは明らかだ。

ところが、世の趨勢に逆らうかのように、オーストリアの測量局、連邦度量衡測量制度庁Bundesamt für Eich- und Vermessungswesen(以下BEVと略す)のサイトで2011年6月8日、新たな印刷地図シリーズの刊行が告知された。それによるとこれは、オーストリア全土と隣接する国々を描いた1:250 000地形図で、経度2度×緯度1度の範囲で区切られ、12面から成るという。さっそくウィーンの地図専門店に注文して、実物を数点取り寄せた。

新シリーズは、横91cm×縦57.5cmの用紙サイズで、通常折図で販売されている。シンボルカラーには、1:25 000の緑、1:50 000の青、1:200 000のオレンジに対して紫色が当てられ、表紙部分に図名の都市を象徴する風景写真が配されている。地図の図郭は横長で、他の縮尺と同様、隣接図幅との間に図上2cm程度の重複を持たせてある。さらに、図の上端と右端が製本でいう断切り(たちきり)にされて、貼合せの便が図られている。

既存の1:200 000と比べてみると、地図全体の印象は淡泊でクリアになった。その原因の一端は、色や文字フォントの使い方にあるだろう。森林を表すアップルグリーンは薄めにされ、地名注記の文字フォントも細身のものに変えられたからだ。一方、等高線にぼかし(陰影)という地勢の表現方法は踏襲されている。等高線の版は1:200 000と同じデータだが、アルプスなどで広範囲に見られる露岩の描写は新たに書き起こされたようだ。

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1:250 000 凡例の一部

地図記号で最も目立つ違いは市街地の描写だ。1:200 000の場合、黒抹家屋か総描家屋を丁寧に置いているが、新図ではピンクのベタ塗りで、その上に載る市街地の道路網も最小限度だ。また、小さな集落は大小の円を用いて、位置を示すにとどめている。図を見易くするという目標にはかなうが、1:200 000図と見比べると、やや手抜きのそしりを免れないだろう。ただしこれは市街地の話で、郊外や山間部では、区間距離やインターチェンジの名称、サービスエリア、パーキングエリアなど、1:200 000にはないデータや記号が加えられ、道路地図の要件を兼備している。

こうした個々の特徴もさることながら、新シリーズ自体、かなり異色な存在と言うべきだ。理由の一つは先述のとおり、旧来のオフセット印刷で提供されている点だが、それにも増して、すでに1:200 000地形図が完備されているところへ敢えて1:250 000図を投入したことに、驚きと戸惑いがある。なぜなら、縮尺こそ80%に縮小されるものの、見た目には両者の間に大差がないからだ。通常、どちらも小縮尺図に分類されるが、併存させている国は寡聞にして知らない。スイス、ドイツ、チェコ、ハンガリーなど多くの隣国は1:200 000であり、1:250 000を採用しているのはフランス、イギリスなど遠く離れた国々だ。併用は限りある事業予算を圧迫するし、利用者としてもどちらを選ぶべきか、はたと迷うに違いない。

オーストリアの場合、1:200 000が州全域を1面に収める州別地図に切替えられたので、経緯度区切りの1:250 000とは競合しないという見方もあるだろう。しかし、機械的に経緯度で区切ると、行政的に一体のエリアでも複数面に分割される可能性がある。この不便さを解消することが州別地図にする意義だったとすれば、なにも以前の状態を復活させる必要はないはずだ。

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1:250 000索引図

なぜ今、新シリーズなのか。BEVのサイトはこの問いに正面から答えてはいないが、推測する手掛かりはある。1:250 000の紹介ページにこう書かれている。「(このシリーズは)軍事地理研究所Institut für Militärisches Geowesen (IMG) の協力を得てBEVによって製作され、民生用であるとともにオーストリア軍の公式軍用地図としても使われる。内務省の国家危機災害対策局Staatlichen Krisen- und Katastrophenschutzmanagement (SKKM) は、すべての危機対応組織に対して、この地図製品を計画と活動の基本資料として推奨している。」

軍用地図である証拠として、地図記号のなかに、橋梁の重量制限、道路の狭隘個所、桁下制限高、3段階に分類された道路勾配表示といった汎用図には珍しいものが含まれる。大型あるいは重量のある軍用車両が通行できるかどうかを示す目的だ(下注)。こうした行軍用の情報が、旧社会主義国の地形図におびただしく盛り込まれていたのを思い出す。しかし紹介文から読み取るかぎり、これは軍事作戦に向けたものというより、国家組織が担う災害救援活動などへの活用を意図しているらしい。

*注 道路整備が行き届いているからなのか、図中における特殊記号の使用例は、勾配表示を除けばごく少ない。

このような国家的要請が背景にあるのなら、既存の地形図との競合は二の次の話になる。また、一般市民より公的機関の需要を念頭に置いているとすれば、あえて商業ベースに載せることもない。新シリーズ刊行の理由が見えてくるのだ。

地図は3年ごとに更新されると、アナウンスされている。内容が最新に近い状態に保たれることで、地図の実用性が維持され、軍用のみならず民生用としての存在価値も高まるだろう。その反対に、従来の汎用図である1:200 000の用途は限定されていく予感がする。規格が類似しているために、長期的に見れば市場での両立は難しいと思うからだ。新しい縮尺図の登場は、オーストリアの地形図体系が有する19世紀以来の伝統を覆すきっかけになるのかもしれない。

■参考サイト
連邦度量衡測量制度庁BEV  http://www.bev.gv.at/
同サイトの記事「新しいBEVの地図製品:オーストリア1:250 000地形図」
Neues Kartenwerk des BEV: Österreichische Karte 1:250 000 (ÖK250)
http://www.bev.gv.at/portal/page?_pageid=713,2168919&_dad=portal&_schema=PORTAL
オーストリアの地形図の種類、入手方法などについては「官製地図を求めて-オーストリア」にまとめた。
http://homepage3.nifty.com/homipage/map/map_austria.html

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 オーストリアの1:50 000地形図
 オーストリアの1:25 000と1:200 000地形図

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2011年10月16日 (日)

新線試乗記-九州新幹線、博多~新八代間

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800系電車入線
新鳥栖駅にて
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粋な和のインテリア
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金箔貼りの妻壁も

「祝!九州」のCMに感動したせいか、今年(2011年)全線開業した九州新幹線(鹿児島ルート)が、何かしら旅心を誘う。夏には阿蘇と高千穂を巡る家族旅行で使い、先日は鹿児島からの帰路に利用して、新規開業区間の駅もいくつか見てきた。今回はその印象を綴りたい。

九州新幹線の開業順序はちょっと変則的だ。南側の新八代(しんやつしろ)~鹿児島中央間が先行して2004年3月に開業し、他の新幹線とは接続しない飛び地のまま7年間運行されてきた。八代~西鹿児島間は、在来線特急で2時間10分程度かかっていたのだが、新幹線の登場で一気に40~50分まで短縮されてしまった。初乗りした時は、和風の意匠を凝らした800系車両も居心地良く、もう少しゆっくり走ってほしいとさえ思ったものだ。

一方、北側の博多~新八代の開通は後回しにされ、ダークグレーの渋い面構えで気を吐く787系電車が、「リレーつばめ」の名でこの間をつないでいた。新八代では新幹線のホームに上がり、あたかも通勤電車の緩急接続のように、横に並んだ新幹線の「つばめ」号と乗客を受け渡しするというので話題になった。しかし、この長らく続いた乗継ぎの手間も今年3月12日、ついに解消するときが来た。前日に東日本を襲った大地震を受けて祝賀行事は全面中止となったものの、運行は予定通り始まり、実キロ256.8kmにおよぶ九州旅客輸送の新しい動脈がここに完成を見たのだ。

今回の旅の1日目は、鹿児島中央から熊本まで移動する。東海道新幹線の「のぞみ」「ひかり」「こだま」に対応して、九州新幹線には「みずほ」「さくら」「つばめ」が設定されている。「みずほ」は熊本しか停まらない速達便、「さくら」は主要駅停車、そして「つばめ」は全ての駅に停まる。ただし日中の「つばめ」は熊本以南に入らず、「さくら」がその役を代行する。今回は乗車目的からして、1時間に1本あるこの各停「さくら」を敢えて選んだ。

車両はN700系8両編成、連続35‰勾配に対応した九州仕様だ。始発駅だからすいているものと高を括って自由席に乗ったら、窓側はたちまち塞がり、発車時点で空いていたのは3連中央のB席程度という盛況ぶりだった。川内(せんだい)、出水(いずみ)と、どの駅でも乗降客が結構あり、すっかり地元の足として定着しているようだ。

Blog_kyushushinkansen4
夕映えの八代海(遠景)
松橋南方にて
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熊本駅西口

新八代からは初乗りになるので、車窓に集中する。新幹線は広い八代平野を縦断していく。ルートは在来線より3~4kmも海寄りで、江戸期に干拓で造成された土地を通っている。区画の整った農地を貫くまっすぐな水路に、夕闇迫る西の空が映える。視野の先に広がる水面は八代海で、背景に浮かぶシルエットは三角半島か天草か。最近の新設区間は防音壁が高くて興をそぐのだが、このあたりは上部を透明素材に変えてあり、断続的でも眺望が保てるのがありがたい。しかし、宇土以北、熊本平野では在来線に寄り添うように敷かれていて、周囲に人家が増えるため、視界はほとんど絶望的だ。

いつのまにか減速して、熊本駅に到着した。さすがは中九州の中心、2面4線が大屋根を戴く堂々たる駅だ。東口(白川口)に回る前に、西口(新幹線口)に出てみた。こちらは市街の反対側で駅前はまだがらんとしているが、駅舎の透ける外壁を通して、上り外側線(11番線)に停車した列車を眺めることができるのが売りだ。日が傾いてホームに明かりが点ると、さらに見栄えがした。

2日目は、熊本から博多までの行程だ。この区間は夏の旅行の際に通しで乗っているので、今回はいくつか途中駅を訪問してみるつもりだ。当然、乗る列車は各停の「つばめ」となる。噂には聞いていたが、車内に入ると見事なほどすいている。昨日の「さくら」とは大違いだ。

「つばめ」に主として使われる800系は、自由席でも1列4席という他の新幹線電車ならグリーン車並みのゆったりした座席配置が特色だが、それでも不人気の理由はおよそ見当がつく。熊本から博多へ行く人は、停車駅の少ない「さくら」を選ぶ。安くあげたい人は、中心部から頻繁に出ている高速バスを利用する。途中駅の利用者はというと、新玉名、新大牟田は中心街から離れていてアクセスがよくない。久留米はもともと西鉄が中心で、特急なら天神までわずか30分強だ。新幹線でも2枚きっぷのような格安切符が発売されているが、値ごろなフリークエントサービスに慣れた市民には、費用対効果が低いと見なされているのではないか。京阪神間でもそうだが、新幹線はよそ行きの乗り物なのだ。

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熊本駅南方遠望
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筑後船小屋駅
在来線駅前から望む
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ドーム状の
久留米駅中央通路
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からくり時計
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2面4線が用意された
新鳥栖駅ホーム
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防音壁越しに
博多総合車両所

列車が熊本市街を去る前に、ビルの間からお城の天守閣が見送ってくれるが、それもつかの間、視界はトンネルで閉ざされる。しばらくこの闇と明かりが断続したあと、田園地帯に出て新玉名(しんたまな)、トンネルを過ごして新大牟田(しんおおむた)と、こまめに停まっていく。この2駅は在来線の接続がなく、降りてしまうと次の列車は1時間後なので、今回は敬遠した。

下車した筑後船小屋(ちくごふなごや)は熊本から3つ目の駅で、在来線である鹿児島本線に5分もあれば乗換えられる。というのも、この辺りからしばらく新幹線は在来線に並行しているからだ。新幹線の開業を期に、元来もう少し北にあった在来線の駅(駅名は船小屋)が真横に移設された。両駅舎の間には小ぶりなロータリーがはさまれているが、通路にシェルターがあるので一体化も同然だ。しかし、ここも市街地から遠く、上り列車から降りた客は筆者の他になかった。改札口の前も閑古鳥が鳴いていて、立派な構えの駅舎が手持ち無沙汰に見えた。

ここから久留米(くるめ)へ行くのに新幹線を使う人はいまい。距離にして15.8km、在来線の電車でも15分ほどで着く。久留米には、石橋美術館へ青木繁の名作を見に行くために寄り道したことがある。都会的な西鉄久留米に対して日通倉庫が似合いそうな雰囲気を漂わせていたはずの駅は、全面改築により面目を一新していた。線路に直交してドーム状の翼部が設けられ、柱はレンガ調、天井と正面にはステンドグラスが嵌められている。駅前広場も整備されて、昔の鄙びた面影はない。ちょうど午後3時で、正面に据え付けられた田中儀右衛門のからくり時計(下注)が始まるところだったので、しばし見とれた。こうして朝8時から夜7時まで1時間おきに、儀右衛門人形と彼の手になる発明品たちが、5分間のちょっとしたショーを演じている。

*注:儀右衛門こと田中久重は江戸時代、久留米出身の発明家。東芝のルーツの一つとなった田中製作所を設立した。

まだ時間があったので、次の新鳥栖(しんとす)まで再び在来線で行くことにした。この駅は長崎本線との交差点に設けられている。それで在来線の場合、鹿児島本線で鳥栖へ着き、長崎本線に乗り換えて1駅目となる。在来線が形作る三角形の二辺に対して新幹線は残り一辺を通り、久留米~新鳥栖間の実キロは5.7kmとあまりに短い。これでは電車が十分加速する間もないのだが、駅が存在する理由は二つある。将来ここから長崎新幹線(九州新幹線 長崎ルート)が分岐する予定であることと、今のところここが佐賀県にとって唯一の新幹線駅であるということだ。

鳥栖は読んで字のごとく鳥のすみかなので、駅舎のファサードも鳥の翼をイメージしているそうだ。筆者にはユーロ通貨のマークにも見えたが。筑後船小屋と同様、この駅も新幹線の改札が地上にある。ホームに上がるには3階分の長いエスカレータを使う。島式2面4線のホームは一方が通過列車なら不要なはずだが、これも長崎新幹線のための準備らしい。

久留米方から800系がゆっくり進入してきた。これに乗って博多に戻ろう。鹿児島から2日かけて乗継いできた九州新幹線もいよいよ最後の行程になる。新鳥栖を出ると、列車はすぐに、脊振山地を貫く九州新幹線最長11935mの筑紫トンネルに突入する。トンネルを含む前後に35‰という急勾配のアップダウンがあって、全電動車の本領が発揮される区間なのだが、乗客はせいぜいトンネルを出た博多方で、左手に見える宅地の高さの変化に気づく程度だ。その頃、右手車窓には、レールスターをはじめ、さまざまな新幹線電車が居並ぶ博多総合車両所が開けてきて、山陽新幹線の縄張りに入ったことを意識する。車両所からの線路が合流すると、側壁の色が古くなりスピードも落ちて、まもなく博多、「つばめ」の終点だ。

■参考サイト
JR九州-九州新幹線 http://kyushushinkansen.com/
熊本駅付近の1:25 000地形図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.6886&latitude=32.7904
熊本駅付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=32.7891,130.6890&z=16

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 新線試乗記-東北新幹線、新青森延伸+レールバス見学

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2011年10月 2日 (日)

新線試乗記-東北新幹線、新青森延伸+レールバス見学

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(上)新幹線七戸十和田駅
(下)在りし日のレールバス
(1984年3月、七戸駅)

8月の終わりのある日、盛岡駅で新青森行き「はやて159号」(下注)に乗り込んだ。お昼の便なので盛岡から先ならすいているだろうと、特定特急券を買っていた。列車がホームに停まっている間に空席をざっと探してみたのだが、車内は案外混んでいて、片側1列空いているのは数えるほどしかない。なんとか右側の窓際席に落ち着き、午後の活動に備えてさっそく弁当を広げることにした。

*注 震災後の暫定ダイヤのため、平常の「はやて19号」のスジで159号が運転されていた。

説明するまでもないが、「はやぶさ」はもとより「はやて」も早朝・深夜の一部を除いて、座席はすべて指定席だ。しかし、盛岡以北については座席指定をしない特急券が発売されていて、普通車の空いている座席が利用できる。これが特定特急券で、料金も他の区間と同じ1駅840円からの設定になっている。これは自由席のある列車が走らないことに対する救済措置だが、空いていればどこでも座れるというのがなんだかヨーロッパの特急列車のようで、ちょっと羨ましい。

車窓から見える山並みの一番奥に、早池峰山(はやちねさん)のシルエットがひときわ高く浮かんでいる。それもつかの間、外は闇に閉ざされてしまった。八戸の手前まで、岩手一戸トンネルをはじめ長短のトンネルが連続していることは知っている。在来線時代、奥中山を越えていく列車の窓から山里の景色を飽きるほど味わえたことを思い返せば、実に味気なくなった。ただ、この「はやて」は各駅停車なので、駅の前後で減速がある。前回乗った時より明かり区間が多いように錯覚したのは、たぶんそのせいだ。

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八戸駅遠望
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高い防音壁越しに
田園風景が飛び去る
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七戸十和田駅南口

八戸では、さすがにかなりの客が下車して、周囲の席に空きが目立つようになった。ここからが初乗り区間なので、鞄から地図を取り出す。八戸駅は、市街地から5kmも離れた川向うに設置されている。そして駅を出ると、線路は町に目もくれず、そそくさと向きを北西に変えて、内陸へ走り去る。これでも国道4号線(奥州街道)の道筋に比べれば、八戸市街を十分に意識したルートなのだが、窓から眺めていてもよそよそしさはぬぐえない。

新幹線は、青い森鉄道に転換された旧東北本線の西側を進む。洪積台地の末端を一直線に、今まで地元の人しか見ることのなかった風景に割り込んでいく。奥羽山脈から流れてきた川が台地を削って谷底平野を拡げているので、車窓には、青い稲穂の田園風景と掘割やトンネルが交互に現れる。

「まもなく七戸十和田(しちのへとわだ)に到着」と車内のアナウンスが入った。この機会にぜひとも訪れたいところがあるので、降りる支度を始めた。七戸十和田は、新規開業区間の中間に一つだけ設けられた駅だ。三沢や十和田市の市街地から遠く離れ、七戸の町からも北に2km行った鶴児平(つるのこたい)と呼ばれる開拓地の一角にぽつんとある。空中写真で見ると、一帯は広々とした牧場や畑地だが、駅の周囲だけは今、商業施設や住宅が建ち始め、にわか景気の真っ只中だ。

駅前に降り立つと、吹き通る風がさらっとしていて心地よい。真新しいロータリーに、タクシーと十和田湖行の観光バスが数台停まっている。路線バスの時刻を調べてあったので、それを待って七戸方面へ出た。国道を約10分、笊田川久保(ざるたかわくぼ)のバス停で降り、少し東へ歩くと、目的の南部縦貫鉄道、旧七戸駅がある。

Blog_tohokushinkansen5 1984年3月の記録から
(左上)七戸駅舎
(右上)七戸駅ホーム
(左下)線路の雪を掻き出す
(右下)天間林駅

南部縦貫鉄道の名を聞いて懐かしさがこみあげてくる人は、年季の入った鉄道ファンに違いない。1997年5月、ついに運行休止となるまで、野辺地からこの七戸へ原野を貫いて走っていた。20.9kmの小路線ながら、バス用の車体を載せたディーゼルカー、いわゆるレールバスが名物で、車体を激しく揺らしながら健気に走る姿を多くの人がカメラに収めようとしたはずだ。

筆者が最初で最後に乗ったのは1984年3月18日、北の大地は深い雪に覆われていた。野辺地へ帰る途中、運転士が急ブレーキをかけた。見ると、切通しの法面から崩れてきた雪で線路が半分埋まっている。どうするのかと思ったら、運転士と車掌がやおら線路に降りて、スコップで雪を掻き出し始めた。示し合せたように作業をしていたので、よくあることだったのだろう。しかし、筆者は初めて見る光景に、遥か遠くまでやってきたという感慨にとらわれた。あの光景は今も脳裏に焼き付いている。

Blog_tohokushinkansen6 2011年8月の旧 七戸駅

レールバスは鉄道の正式廃止後も、愛好家の手により七戸駅で動態保存されてきた。そして、今年は新幹線開業を記念して、町の観光協会の主催で車庫が見学できるようになっている(下注)。2011年の七戸駅舎は、のっぺりとした外観といい、筆書き風の社名の文字と言い、遠い昔のままだった。中に入ると、女性が一人店番をしていた。きょうは日曜なので社員はおらず、観光協会から派遣されて見学の世話をしているのだという。さっそくホームの向こうにある車庫に案内してもらった。

*注 1か月に一度程度、屋外展示も行われている。詳しくは下記参考サイト。また同サイトで、観光協会による一般公開は2012年3月までと告知されている。

納屋のような木造車庫に電球の明かりが点ると、あの車体が記憶と変わらぬ姿で目の前にあった。クリームとオレンジの塗り分けに白帯を巻き、乗降用の折り扉、上下2段のバス窓、正面の額にヘッドライト、無骨だがちょっとユーモラスな独特の風貌だ。ボディーに刻まれた無数の凹みや塗装を重ねた跡は、35年間に及んだ奮闘の証しだろう。2両仲良く並んだレールバスの後ろには、国鉄キハ10形、砂鉄輸送計画の形見であるディーゼル機関車、その脇には小さな除雪車も残されている。かすかに機械油の匂いが残る車庫は、時代の宝箱ともいうべき濃密な空間だった。

案内の礼を言って外に出ると、構内はきれいに整備され、線路が国道バイパスの手前まで延びている。ホームの先にぽつんと一本残された腕木信号機が、来ることのない列車を待ち続けているように見えた。

ところで、新幹線とレールバス、一見かけ離れた取り合せだが、実は因縁がある。新幹線が開通すれば、南部縦貫鉄道の厳しい経営状態が改善されると期待されていたからだ。新幹線駅予定地のすぐ近くを走る地の利を生かし、線路を駅まで引き込んで、野辺地方面との連絡運輸の受け皿とする構想だった。しかし鉄道の廃止で、それは見果てぬ夢に終わってしまった。

Blog_tohokushinkansen7 三内丸山高架橋から
見た青森市街
Blog_tohokushinkansen8 新青森駅東口
Blog_tohokushinkansen9
車両基地へ引揚げるE5系

七戸十和田駅に戻り、新青森に向けて再び「はやて」の客となる。駅を出ていくらも経たないうちに、列車はまたトンネルに突入する。岩手一戸を抜いて、東北新幹線最長となる26455mの八甲田トンネルだ。湾沿いに走る在来線に比べて、緩い曲線でショートカットしているので、付随するトンネルをいくつか抜ければ、もう青森平野だ。右手遠方には青森市街が白く光り、左の窓には、八甲田連峰が優美に裾野を広げている。しかし、新幹線は市街に入らず、遠巻きにしながら西へ北へと回り込んでいく。減速して、到着を告げるアナウンスが聞こえる頃には、八甲田山さえ右の窓に移っていた。

北海道に直通するため、新青森駅が設けられた場所は、在来線の青森駅から西4kmの町はずれだ。在来線(奥羽本線)のホームが併設されているとはいえ、駅前広場も閑散としていて、唯一活気があったのが、構内1階にオープンした名産コーナーだった。おそらく、在来線青森駅頭の賑わいがここへ引っ越してきたのだろう。再びホームに上がると、緑地に紅帯のE5系電車が北方の車両基地に引揚げていくのが見えた。あの先が数年後、青函トンネルを経て北海道に延びる。レールバスの鉄路は永遠の眠りについたが、こちらの夢はまだ当分続いている。

■参考サイト
南部縦貫鉄道 思い出のレールバス
http://www.ogaemon.com/r-bus/r-bus-top.html
七戸十和田駅付近の1:25 000地形図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=141.1538&latitude=40.7199
七戸十和田駅付近のGoogle地図
http://maps.google.com/maps?f=q&hl=ja&ie=UTF8&ll=40.7199,141.1540&z=16

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