2017年1月21日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-グレート・オーム軌道

下部区間:ヴィクトリア Victoria ~ハーフウェー Halfway 間800m、開業1902年
上部区間:ハーフウェー~サミット Summit 間750m、開業1903年
軌間3フィート6インチ(1,067mm)

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グレート・オーム軌道の古典トラムが急坂を行く

アイリッシュ海に臨むスランディドノ Llandudno は人気のある海岸保養地で、白い瀟洒な建物が建ち並ぶプロムナード Promenade(海岸遊歩道)は、休暇を過ごす多くの人で賑わう。その町の西側を、灰色の高い崖が限っている。草地の間にドロマイト(苦灰岩)が層状に露出して、まるでミルフィーユのような容貌のこの崖は、グレート・オーム Great Orme と呼ばれる台地の側面だ(下注)。

*注 ちなみに、グレート・オームに対するリトル・オーム Little Orme が、スランディドノ市街の東側にある。これらの岬は、船乗りたちにとって格好の目印だった。

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スランディドノの市街地の背後を、ミルフィーユのようなグレート・オームの崖が限る

東西3.5km、南北2km、標高207mのグレート・オームは、地形的に見ると、スランディドノの市街地が載る砂州によって陸地とつながれた島(=陸繫島)だ。海に突き出して、眺めがいいので、昔からスランディドノの滞在客に手近な気晴らしの場を提供してきた。これから乗るグレート・オーム軌道 Great Orme Tramway も、そこへ上る足として親しまれているケーブルトラム(トラム車両のケーブルカー)だ。

軌道は下部区間と上部区間に分かれている。それぞれ独立して運転され、乗客は両区間が接続するハーフウェー駅 Halfway Station で車両を乗換える。開業したのは、下部区間が1902年、上部区間が1年遅れて1903年のことだ。1932年に下部区間で車両がケーブルから外れて脱線する事故を起こし、2年間運休となった以外は、2度の大戦中も含めて110年以上走り続けてきた。その間に運行権は、1949年に民間会社からスランディドノ市に移り、その後の自治体再編によって、現在はコンウィ特別市 Conwy County Borough が運営主体となっている。

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グレート・オーム軌道(赤で表示)と周辺の鉄道網

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グレート・オーム周辺の地形図
1:25,000地形図 SH78, SH88 いずれも1956年版 に加筆。標高はフィート単位。

乗り場のヴィクトリア駅 Victoria Station は、町を南北に貫くグローザイス通り Gloddaeth Street から300mほど山手へ上った、台地の麓にある。駅名は、この敷地にかつて建っていたヴィクトリアというホテルが由来だという。主要道路から引っ込んでいて場所がわかりにくそうに思ったが、心配は無用だった。青い大きな看板のかかる乗り場の前の歩道に、すでに次のブロックまで達する長い行列ができていたからだ。

案内板によると、4~9月は始発10時、最終便が18時で、通常20分毎、繁忙時は10分毎に運行されている(下注)。真っ青な空が広がった今日は、もちろん10分間隔でフル稼働していたが、定員48名の小さな車両なので、並んでいる間も列は解消するどころか、次々と加わる人で長くなる一方だった。

*注 3月と10月は10~17時の運行で、冬場は全面運休となる。

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ヴィクトリア駅の前には長蛇の列が

車両が発着する様子を眺めながら1時間近く待って、ようやく大屋根の下の切符売り場までたどり着いた。ここまで来れば、あと1~2便で乗れる。たまたま前の便が私たちの直前で満席になったので、次に来た車両には先頭で乗込めた。できるならこの手の乗り物は、上るにつれて眼下の景色が開けていく最後尾の席を取りたい。

車両は開業時からいるオープンデッキ付き側窓なしのボギー車で、コバルトブルーの外壁に、クリーム色でクラシックな装飾や文字が描かれている。車内は通路の両側に、2人掛けの狭い木製ベンチが向かい合わせに並ぶ。乗り込んだ客が全員着席すると、すぐに発車した。

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開業時からの古典車両
(左)オープンデッキ付き側窓なし (右)2人掛けの木製ベンチが並ぶ

ヴィクトリアからハーフウェー Halfway までの下部区間は、長さが800m、最急勾配1:3.7(270‰)で、標高差123mを6分で上りきる。大部分が道路との併用軌道で、車両を引き上げるケーブルは、路面に埋められたZレールの溝の中に敷かれている。そのため、地表では車輪が走行する2本のレールと、その間にZレールの平たい頂部が見えるばかりだ。教えられなければ、ケーブルカーとは気づかないだろう。

見かけは有名なサンフランシスコ市内のケーブルカーに似ているが、あちらは、動いているケーブルを車両側の専用装置で掴むことにより移動する循環式だ。対して、こちらは車両がケーブルに固定され、ケーブルとともに移動する。普通のケーブルカーと同じ交走式と呼ばれる仕組みだが、併用軌道で残存しているのはイギリス唯一で、世界でも貴重な存在だそうだ(下注)。

*注 同じ方式がポルトガルのリスボン市内で3路線稼働している。

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車両の駆動システム図解。左の下部区間と、右の上部区間で方式が異なる

線路は、駅を出るとすぐにオールドロード Old Road と呼ばれる家並に囲まれた坂道に入り、そのまま急勾配で上っていく。歩く人でさえ、車両が通るときは石積みの側壁に身を寄せてやり過ごさなければならないほどの狭い道だ。クルマとの対向はとうてい不可能なので、運行時間帯は沿線の住宅への出入りを除いて、車両通行が禁止されている。

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下部区間は4号車と5号車が担当。最初は狭いオールド・ロードを行く
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上るにつれ、スランディドノのプロムナード(海岸遊歩道)が見えてくる

高度が上がるにつれて、弓なりになったプロムナードと波打ち寄せる海岸線が視界に入ってくる。くねくねと曲がったあと、ようやく2車線のティー・グウィンロード Tŷ Gwyn Road(Tŷ Gwyn は白い家の意)に躍り出た。ここでは道路の中央ではなく進行方向右端を走るので、最初に車道を横切らなければならない。その間、警報機が鳴り、道路側の赤信号が灯って、クルマの通行は遮断される。

帰りはここを歩いて降りたのだが、警報機が鳴り出すより前に、地面からガラガラと賑やかな音が響き始めた。ケーブルが溝の中で移動し、滑車が回転する音だ。そしてしばらくしてから車両が現れる。ドライバーはともかく歩行者にとっては、この音が車両の接近を知らせる一番の合図になった。

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ティー・グウィンロードに出る。警報機が鳴り、クルマは停止

まもなく下部区間の中間地点だ。線路が複線に分かれ、降りてきた車両とゆっくりすれ違う。交換所の先は、線路が一種のガントレット(単複線)になるのがおもしろい。走行レールのうち内側2本は近接し、かつ位置が逆転(左車線のレールが右側にある)しており、フランジが通る溝は左右車線で共用になっている。

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道路わきの列車交換所を通過
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(左)交換所より下は単線 (右)交換所より上はガントレットに
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スランディドノ湾が大きく広がる。湾の先の断崖がある山がリトル・オーム

道路とともに右へ大きく曲がると、勾配は輪をかけて急になった。道端の建物が坂上側へ傾いて見える。トラムが涼しい顔で上る隣を、クルマがローギアでエンジンを唸らせながらやっとのことで追い抜いていく。そんなに気張らなくても、と思わず同情したくなる。後ろに開けていたスランディドノ湾の眺望は、いつしか山かげに隠れた。

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カーブを曲がると目に見えて急勾配に。左写真は坂上から、右写真は坂下から撮影

今度は左へカーブする。公園のゲートがあり、並行道路が線路から離れていった。まもなく、ケーブルカーも、ハーフウェー駅の切妻屋根の下へ半分吸い込まれ、そこで停車した。ハーフウェーは文字どおり道の中途なので、山頂へ行く乗客はここで上部区間の車両に乗り換えなくてはいけない。

駅舎は2001年の改築で、見かけはまだ新しい。半円の屋内通路の壁には、軌道の歴史や構造を説明したパネルがかかり、ガラス張りの内壁からケーブルを巻き上げたドラムも間近に見える。それはそれで興味深いのだが、接続する便に乗りたければ、残念ながらじっくり見ている時間はない。

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(左)ハーフウェー駅到着 (右)停車位置の先にある車両検査ピット
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(左)ガラス越しにケーブルの巻上げ機が見える (右)隣接する上部区間の発着場

ハーフウェーからサミット Summit までの上部区間は、750mの長さがある。最急勾配1:9.3(107.5‰)で、標高差44mを4分半で上ってしまう。すでに台地の上に出ているので、勾配は比較的緩く、速度も若干速めだ。下部区間とは違って終始単線(交換所を除く)の専用軌道で、ケーブルも露出している。

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上部区間 (左)ハーフウェー駅を発車 (右)終始専用区間のため、ケーブルが露出

駅を出ると、聖ティドノ教会(下注1)へ降りる道路と交差した後、ヒースが淡い彩りを添える緑の草原をそろそろと上っていく。海側を小さな空中ゴンドラが行き来しているのが見える。スランディドノ・ケーブルカー Llandudno Cable Car という名称のため紛らわしいが、グレート・オームへ上るもう一つの公共交通機関だ(下注2)。後で乗ろうとしたのだが、乗り場に山麓で見たのと同じような長蛇の列ができていたので諦めた。

*注1 ちなみに、聖ティドノ St. Tudno はスランディドノの守護聖人で、町の名の由来でもある。
*注2 公共交通機関としては、スランディドノの市内循環バス(26系統)も山頂まで1時間毎に走っている(日祝日を除く)。

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上部区間の列車交換所で6号車と7号車が交換。背後は空中ゴンドラ
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交換所のあとは少し急な勾配で山頂までひと上り

中間地点を過ぎると、交換した下り車両が、日差し降り注ぐのどかな景色の中を遠ざかっていく。線路には柵がないので、群れからはぐれた羊や牛が入り込むこともままあるそうだ。線路は左右にカーブを切りながら、短い切通しで起伏を乗り越えた。今度は左手に青いコンウィ湾が見えてきて、乗客の視線がそちらに注がれる、と思う間に早くも終点だった。

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(左)左手にコンウィ湾が開ける (右)サミット駅に到着

標高198mのサミット駅は、呼び名にたがわず山頂直下にある。右手の小道を少したどれば、ビジターセンターやショップ、レストランのある山頂の休憩施設だ。しかし、こんな天気のいい日は何よりもまず、遮るもののない陸と海の眺望を楽しみたい。南側は弧をなすコンウィ湾の後ろになだらかなスノードニアの山並みが続き、西はアングルシーの島影が長く尾を引く。北は、羊が放たれた山上牧場の向こうに、アイリッシュ海の大海原が目の届く限り広がり、そのまま明るい空に溶け込んでいる。こんな気晴らしの場所がすぐ近くにあるスランディドノの滞在客は幸せだと、心から思った。

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山頂から、コンウィ湾とスノードニアの山々を遠望
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(左)山上の台地はのびやかな放牧地 (右)カモメの楽園でもある

次回は南に転じて、鉱山軌道だったタリスリン鉄道に乗る。

本稿は、Keith Turner "The Great Orme Tramway - Over a Century of Service" Gwasg Carreg Gwalch, 2002および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
グレート・オーム軌道(公式サイト) http://www.greatormetramway.co.uk/

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2017年1月14日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-コンウィ・ヴァレー線

スランディドノ Llandudno ~スランディドノ・ジャンクション Llandudno Junction ~ブライナイ・フェスティニオグ Blaenau Ffestiniog 間49.6km
軌間4フィート8インチ半(1,435mm)、開業1858~79年

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保養地スランディドノを遠望

今日も晴れるというので、ウェールズ北海岸にある有名な保養地スランディドノ Llandudno へ行くことにした。グレート・オームという岬に上がるケーブルトラムに乗り、それから世界遺産のコンウィ城へ回るという行程だ。ポースマドッグからスランディドノへは、ブライナイ・フェスティニオグ経由で山を越えていくのが速い。

7時55分、私たちはポースマドッグの公園前にあるバス停から、1B系統の路線バスに乗った。例のフェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway は早朝には動いていないし、なにより鉄道で70分かかるこの区間を、バスならわずか30分で走り切ってしまう。移動手段として見た場合、後者の選択になるのはやむをえない。バスはドゥアリド川 Afon Dwyryd に沿って進み、谷底からいきなりスラン・フェスティニオグ Llan Ffestiniog(フェスティニオグ本村)のある山の中腹へ攀じ登り始める。鉄道とはまったく別のルートをたどるので、興味の尽きることがない。

ブライナイ・フェスティニオグ駅の構内は、がらんとしていた。最も山側の標準軌ホームに、連接気動車がぽつんと停まっている。この路線の旅客輸送を担うのは、カンブリア線と同じアリーヴァ・トレインズ・ウェールズ Arriva Trains Wales で、車両も同形だ。この便の接続時間は12分と、十分余裕がある。バスからの乗継ぎ客が車内に収まると、人影の消えたホームにアイドリングの音だけが響いた。

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朝のブライナイ・フェスティニオグ駅で発車を待つ

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コンウィ・ヴァレー線(赤で表示)と周辺の鉄道網

ここブライナイ・フェスティニオグからスランディドノに通じる路線は、コンウィ・ヴァレー線(コンウィ渓谷線)Conwy Valley Line と呼ばれている。スランディドノ・ジャンクション Llandudno Junction を起点に、ノース・ウェールズ・コースト線(ウェールズ北岸線)North Wales Coast Line から南と北に分岐する本来別の2本の路線を、統一名称で売り出しているのだ。呼称だけではなく運用上も、ブライナイ・フェスティニオグ発着の列車は一部を除き、スランディドノへ直通する。

歴史をたどると、海側の方が登場が早く、避暑客の利用を見込んで1858年に、スランディドノ・ジャンクション~スランディドノ5.1kmが開通している。

一方、コンウィ川の谷を遡る山側区間は、1863年に、コンウェー・アンド・スランルースト鉄道 Conway and Llanrwst Railway(Conway はコンウィの英語における旧綴り)の手で、ノース・スランルースト North Llanrwst まで建設されたのが最初だ。これがロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道 London and North Western Railway に引き継がれ、1868年にベトゥス・ア・コイド Betws-y-Coed、1879年にようやくブライナイ・フェスティニオグの仮駅に通じた。その後、1881年に新設された本駅まで延伸され、ようやく44.5kmの全線が完成した(下注)。

*注 仮駅は、トンネルの出口近くに造られた。1881年の本駅(国有化後はブライナイ・フェスティニオグ北駅 Blaenau Ffestiniog North と称した)も現在の位置ではない。

最後の開通区間には、モイル・ダルノギズ Moel Dyrnogydd の下を貫く長さ3,520mのフェスティニオグトンネル Ffestiniog Tunnel がある。わざわざイギリスでも有数の長大トンネルを掘ってまで線路を延ばそうとしたのは、それまでフェスティニオグ鉄道が独占していたスレート輸送に参入するのが目的だった(下注)。そのために鉄道会社は、スランディドノの手前の、コンウィ川河口デガヌイ Deganwy に専用の積出し港も整備した。

*注 ブライナイ・フェスティニオグでの路線網と駅の変遷については、前回「ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II」参照。

しかしその後、採鉱事業の斜陽化が進んで貨物輸送は廃止されてしまい、今はアリーヴァの気動車が旅客輸送だけを続けている。海側区間は、マンチェスター Manchester 方面からの直通列車を含め、1時間に1~2本と比較的高頻度で運行されているが、山側区間では平日・土曜に一日6往復、日曜は3往復(冬季は運休)が走るのみだ。

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スレドル川の谷から見るモイル・シャボード Moel Siabod

始発駅の車内でも1列おきに座席が埋まっていて、ローカル線とはいえ、この時間帯はそれなりの需要があるのが見て取れる。8時35分定刻に走り出すと、列車は、うず高く積まれたスレート屑の山をすり抜け、フェスティニオグトンネルに突入した。長い闇の中から解放された後は、スレドル川の谷 Dyffryn Lledr に沿って下っていく。眺めはおおむね進行方向左側の車窓に開け、濃淡の緑をまとう山麓の上に、岩がちのどっしりした山塊が朝日を浴びている。途中に小駅がいくつかあるのだが、リクエストストップのためすべて通過した。

谷が狭まったところで、川を斜めに横切っていく。石造アーチのゲシン高架橋 Pont Gethin を渡るのだが、列車に乗っていたのでは気づかない。帰りは路線バスを使ったので、思いがけなくも、城壁のような重厚な石積みをカメラで捉えることができた。

まもなく、ベトゥス・ア・コイド Betws-y-coed だ。渓流が岩をはむ佳景で知られた小村で、以前車で通ったことがある。駅の裏にはコンウィ・ヴァレー鉄道博物館 Conwy Valley Railway Museum があって、15インチ(381mm)軌間のミニチュア鉄道も運行されている(下注)。一度ゆっくり訪ねてみたいものだ。

*注 同館サイトによれば、ミニチュア鉄道は2015年12月に洪水の被害を受け、運行休止中。

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(左)石造アーチのゲシン高架橋(帰りの路線バスから撮影)
(右)ベトゥス・ア・コイド駅裏の鉄道博物館

この後は山がしだいに遠のき、牧場や畑を森が縁取る穏やかな風景が車窓を支配するようになる。コンウィ川 Afon Conwy と名を改めた流れを渡ると、スランルースト Llanrwst に停車した。かつて羊毛交易で栄えたコンウィ谷の中心地だ。左側に見える川もその幅を広げていき、やがて川と海の境があいまいな三角江の様相を呈し始めた。小さな干潟で水鳥の群れが羽を休めている。線路が川岸から離れる直前、遠方にコンウィの鉄橋と古城がその姿を現した。

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スランルーストから下流は川幅が広がる
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川と海の境があいまいな三角江に
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三角江の先にコンウィの鉄橋と古城が見えた

コンウィの町は、スランディドノからの帰り途に立ち寄った。町の東側に、13世紀後半、イングランド王エドワード1世がウェールズ征服に際して築いた古城、コンウィ城 Conwy Castle があり、世界遺産にも登録され、観光名所になっている。それとともに鉄道ファンには、傍らに架かるコンウィ鉄橋 Conwy Railway Bridge も見逃せない。ロバート・スティーヴンソン Robert Stephenson が設計し、1848年に竣工、翌49年に開通した橋だ。クルー Crewe ~ホリーヘッド Holyhead 間の幹線鉄道ノース・ウェールズ・コースト線 North Wales Coast Line が通っている。

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コンウィ城
(左)コンウィ川を渡るA547号線から城を見る(2階建バスから撮影) (右)塔が立ち並ぶ城内

鉄橋はチューブラーブリッジ(管状橋)といわれる構造で、スパンを長くとるために橋桁を鋳鉄製の四角い箱にし、その中に線路を通している。両岸には城の一部かと見紛う立派な橋楼(バービカン barbican)が建ち、列車はそのたもとに開いた門口から箱の中に吸い込まれていく。せっかく名城が背景を固めているというのに、列車が橋を渡る姿は見えない。それで、鉄道写真の被写体としてはインパクトが足りないのが惜しいところだ。

ちなみに、西のメナイ海峡を渡る同線のブリタニア橋 Britannia Bridge も当時同じ構造で造られたのだが、1970年に火災で損傷し、再建に際してトラスアーチ橋に変更された。それでコンウィ鉄橋は、管状橋の現存する唯一の作例になっている。コンウィ城の塔の上からは、眼下にこの珍しい鉄道橋と、トーマス・テルフォード Thomas Telford 設計の優雅な吊橋が並ぶさまを眺めることができる。

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(左)城のすぐ横をノース・ウェールズ・コースト線が通る
(右)コンウィ川を渡る3本の橋。右からスティーヴンソンの鉄道橋、テルフォードの吊橋、改修中の道路橋

鉱山町を出て約1時間で、スランディドノ・ジャンクションまで下ってきた。ここは駅名のとおり、本線格のノース・ウェールズ・コースト線との乗換駅だ。乗ってきた客の多くがここで降り、コースト線ホームへ移動していく。駅舎は上下線の間のホーム上にあり、レトロな風情の中央階段で、駅前広場へ通じる跨線橋につながる構造だ。本線の接続列車を待ち合わせるために15分停車したので、観察時間はたっぷりあった。いっとき人の動きが止まったホームを、カモメが一羽、わがもの顔で散歩していた。

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スランディドノ・ジャンクション駅
(左)ノース・ウェールズ・コースト線ではヴァージン・トレインも運行中
(右)レトロな風情の中央階段
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ホームを一羽のカモメが闊歩

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コンウィ~スランディドノ間の地形図(図中のConwayはConwyの旧綴り)
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 107 Snowdon 1959年版 に加筆

9時48分に再び発車、列車は上り線をゴトゴトと横断して、コンウィ・ヴァレー線の海側区間へ進入した。左手はコンウィ川の広い河口で、水面越しにもう一度コンウィ城と、それに続く石造りの街並みを遠望できる。デガヌイに造られたスレートの積出し港はもはや跡形もなく、ヨットがもやる優雅なマリーナに変身していた。列車は、ゴルフコースの横をかすめたかと思うと、早くも終点だった。この間わずか8分だ。

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デガヌイ駅付近から河口を隔ててコンウィの町の眺め

スランディドノはアイリッシュ海に臨む夏の保養地で、19世紀には「ウェールズのリゾートの女王」と称され、上流階級の人気を集めていた。煉瓦造りの現駅舎は、利用者が増えて初代駅舎が手狭になったため、1892年に新築されたものだ。建設当初は待合室や軽食堂を擁し、頭端式のプラットホームが5番線まであったそうだ。

その後、鉄道輸送が縮小するにつれ、設備を持て余すようになったことから、2014年に大改修が行われた。旧駅舎は半分撤去され、総ガラス張りのモダンな待合室に生まれ変わった。ホームも3面3線に縮小されたが、かつて送迎車両が乗り入れていた構内車道、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ鉄道 London, Midland and Scottish Railway (LM&S) のモノグラムを埋め込んだ改札柵、ホームを覆っていた大屋根の一部は残されていて、最盛期の威容をしのばせる。

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スランディドノ駅
(左)フェスティニオグからの列車が到着 (右)LM&S のモノグラムのある改札柵
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(左)大屋根の架かるホームの中央はかつての構内車道
(右)駅正面。中央部は総ガラス張りに改築された

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駅前に立つアリスの木像

駅前に出ると、天気予報の言ったとおり、町の上には雲一つない青空が広がっている。スランディドノには、不思議の国のアリスのモデルになったアリス・リデル Alice Liddell 一家の別荘があり、彼女はよく家族と訪れていたそうだ。駅の向かいの角に立つ大きなアリスの木像に見送られて、私たちは保養地の瀟洒な通りをグレート・オームの方角へ歩いていった。

次回は、グレート・オームのケーブルトラムに乗る。

■参考サイト
Cambrian Lines http://www.thecambrianline.co.uk/
Arriva Trains Wales  https://www.arrivatrainswales.co.uk/

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 ウェールズの鉄道を訪ねて-グレート・オーム軌道
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 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

2017年1月 7日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II

フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下、FR)の旅を続けよう。

機関車リンダ Linda が牽く列車は、リウ・ゴッホ Rhiw Goch 信号所を後にすると、高い石垣で谷を渡り、苔むした森に入っていく。この辺りは、かなりの急斜面だ。1830年代という早い時期に、起伏の多い山地で20kmもの勾配線路を築いていくのは、大変な工事だったに違いない。

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フェスティニオグへ向けて列車は上り続ける

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タン・ア・ブルフ~ブライナイ・フェスティニオグ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆

プラース・ホールト Plas Halt(ホールトは停留所の意)の手前に、「タイラーのカーブ Tyler's Curve」と呼ばれる半径2チェーン半(50.3m)の最小カーブが控えている。線路横に立つ「W」と書いた標識は、「警笛鳴らせ」の意味だ。車輪をきしませながら回り込む間、ドゥアリド川が流れるフェスティニオグ谷 Vale of Ffestiniog と、それを隔てて向かいに大きな山塊が見晴らせた。谷底で軒を寄せ合うマイントゥログ Maentwrog の村のたたずまいも美しい。

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(左)リウ・ゴッホ信号所を通過 (右)マイントゥログの村を遠望

列車は、続いてマイル湖 Llyn Mair のある支谷を巡り始める。その途中に、タン・ア・ブルフ Tan-y-bwlch (下注)の駅がある。森に囲まれたS字状の島式ホームに軽やかな跨線橋が架かり、FRでは一番絵になる中間駅だ。ミンフォルズから20分奮闘し続けてきた機関車は、しばらく停車して水の補給を受ける。帰りはここで列車交換も行われて、眠ったようなホームがいっとき生気を取り戻した。

*注 タン・ア・ブルフ(峠下の意)は、ふつう続けてタナブルフと読まれるが、分かち書きの地名は中黒でつないで表記した。

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タン・ア・ブルフ駅 (左)森の中の島式ホームと跨線橋 (右)列車交換(帰路写す)
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坂を上る列車はここで給水を受ける(帰路写す)
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眼下にマイル湖。線路は対岸の山を回ってきた

ガルネズトンネル Garnedd Tunnel(55m)の短い闇を経て、しばらくはカンブリア山地を見渡す高みを走っていく。すでに谷底との標高差は160m以上あり、開いた窓から強めの風が入ってくる。タン・ア・ブルフから10分、そろそろ次の見どころ、ジアスト Dduallt のオープンスパイラル(ループ線)だ。ジアストの駅を過ぎると、線路は右へぐんぐん回り込み、今通った線路の上を乗り越える。そしてモイルウィントンネル Moelwyn Tunnel(262m)を介して、北側のアストラダイ Ystradau の谷へ抜けていく。

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フェスティニオグ谷を隔ててカンブリア山地の眺望が開ける
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ジアストのオープンスパイラル (左)ジアスト駅 (右)駅を出ると右へぐんぐん回り込む

あたかも鉄道模型を実地で再現したような構造だが、これはオリジナルのルートではない(下図参照)。1836年の開通当初は、インクライン(斜行鉄道)でこの山を越えていた。1842年に、山を貫く長さ668mの(旧)モイルウィントンネルが完成して、産業鉄道の時代はこのトンネルを行き来した。スパイラルになったのは、意外にも保存鉄道になってからで、正確にいうなら、鉄道を復元するためにわざわざ建設されたのだ。その理由を知るには、少し20世紀のFRの歩みを振り返る必要があるだろう。

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ジアスト~タナグリシャイ間の路線の変遷
(左)開通当初はインクラインで山越え("Old Tramway" と注記)
   旧モイルウィントンネルの完成で全線重力運行が可能に
    1:25,000地形図 SH64 1953年版に加筆
(右)現在は、貯水池の水位を超えるまでスパイラルで高度を稼ぐ
    1:25,000地形図 OL18 2015年版に加筆 © Crown copyright 2017

ウェールズのスレート産業が絶頂期を迎えたのは1880年代だ。世紀が変わると、タイルのような新素材の普及や、世界大戦に起因する労働力不足と販路の途絶、経済不況など、いくつも悪条件が重なって、凋落の傾向がはっきりしてくる。フェスティニオグでも採石場の閉山が相次いだため、ついにFRは1939年9月に旅客輸送を中止、1946年8月にはスレート輸送も断念せざるを得なくなった。鉄道施設が撤去を免れたのは、路線の建設を許可した19世紀の法律に、休廃止に関する規定がなかったからに過ぎない。

鉄道愛好家のグループが鉄道の復元に取組み始めたのは、それから5年後の1951年のことだ。まず1954年にボストン・ロッジ工場で機関車の修復に着手し、翌55年にはザ・コブ(築堤)の区間で保存走行を開始した。線路は山に向かって段階的に復旧されていき、1968年にはここ、ジアストまで到達した。

しかし、そこからが難関だった。鉄道が休止している間に、線路が通るアストラダイの谷では、揚水式水力発電所の建設計画が進められていたからだ。谷をダムで締め切って調整池にしたため、線路は2km近くにわたって水没してしまった。モイルウィントンネルの北口も使えなくなり、より高い位置にトンネルを掘り直す必要があった。足掛け18年2か月に及ぶ長い法廷闘争で英国中央電力庁CEGBから補償金を獲得した彼らは、ボランティアを動員して約4kmの新線建設を敢行した。これは1978年に最終的に完成し、保存鉄道は調整池の北端にあるタナグリシャイ Tanygrisiau まで延長されたのだ。

列車がループを回りきって新トンネルに入る直前に、旧線を載せていた築堤が右車窓の下方に見える。オープンループで稼いだ高度はわずか11mに過ぎないが、これがなければFRの復元は尻切れトンボで終わっていたに違いない。

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ジアストのオープンスパイラル
(左)今通って来た線路を乗り越える。左奥にジアスト駅が見える
(右)石積みが残る旧線の築堤

トンネルを出ると、その調整池が右手に姿を見せる。きょうは水位が下がっていたので、旧トンネルに突っ込む廃線跡も確認できた。列車は、発電所の建物の裏をかすめた後、坂を下りてタナグリシャイ駅に入っていく。ここでも列車交換があった。先頭に立っていたのは、同じダブル・フェアリーで赤塗装の12号機「デーヴィッド・ロイド・ジョージ David Lloyd George」だ。

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発電所の調整池の向こうに、スレートの採掘跡が残る山々
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(左)池の底に旧線跡が露出。旧トンネルの入口(封鎖)も見える
(右)揚水式発電所の裏手をかすめる

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タナグリシャイ駅
(左)駅の手前にあるクーモルシン滝 Cwmorthin Waterfall
(右)最後の列車交換は赤塗装の12号機と

いよいよ次が終点になる。最後の区間は、大きく崩された山肌や赤鼠色の巨大なボタ山を眺めながら、ブライナイ・フェスティニオグの町の方へゆるゆると向かう。見ての通り、ここはスレート鉱山の町だ。長い地名はフェスティニオグの上手(かみて)という意味で、本村であるスラン・フェスティニオグ Llan Ffestiniog から約4km北に位置する。

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(左)ボタ山を眺めながら行く
(右)左はディナス Dinas 方面の引込線。正面はグラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫

かつて町がどれだけ栄えていたかは、ここに3方向から鉄道が集中したことからも想像できる。ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷図(下図)をご覧いただきたい。

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ブライナイ・フェスティニオグの路線網と駅の変遷

一番乗りしたのは、もちろんフェスティニオグ鉄道だ。北を向いているのが本線で、東へ出ているのは支線の扱いだった。客扱いを始めた1865年から数年間、列車は、本線上のディナス Dinas 駅と東支線のディフス Duffws 駅へ交互に通っていた(図左上、1860s の欄)。しかし町から遠いディナスが1870年に休止となった後は、全旅客列車がディフスを終点とするようになった(下注1)。一方、1868年にFRと同じ軌間でフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道 Festiniog and Blaenau Railway が開通し(下注2)、FRディフス駅の近くに駅が造られた。

*注1 FRの本線もディナス駅も、その後成長したボタ山の下に埋没した。
*注2 ブライナイ・フェスティニオグ~フェスティニオグ Festiniog 間。で、鉄道はフェスティニオグ本村の周辺で採掘されたスレートを輸送する目的で敷かれた。FRと直通し、貨車もFR所有で、実質的にFRの支線だった。なお、当時は "Ffestiniog" ではなく "Festiniog" と綴った。

狭軌の路線網しかなかったこの町に、1879年、標準軌のロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 London and North Western Railway が北から到達した(図左中)。現在のコンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line だ。こちらもスレート輸送が目的で、わざわざコンウィ川の河口デガヌイ Deganwy に自前の積出し港を築いての進出だった。1881年に町の北西に本駅が完成し、FRも自社線上に乗換駅を設けた。

間を置かずして1883年には、ライバルたるグレート・ウェスタン鉄道 Great Western Railway も進出を果たす。バラ=フェスティニオグ鉄道 Bala Festiniog Railway という別会社を立てて、既存のフェスティニオグ・アンド・ブライナイ鉄道を買収し、改軌の上で接続したのだ。駅の位置は狭軌時代を踏襲したので、FRはここにも乗換え用のホームを用意した。

FRのディフス駅は1931年に休止となり(図左下)、グレート・ウェスタンとの乗換駅がその代替とされた。スレート輸送の衰退で1939年にFRの旅客輸送は途絶してしまうが、大手2社の路線はこの地に残った。

*注 ディフス駅の旧駅舎は当時の位置に残っている。

第二次世界大戦後、鉄道の国有化が実施され、標準軌線は英国国鉄 British Railways となる。それに伴い、旧ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン(当時はロンドン・ミッドランド・アンド・スコッティシュ鉄道 London, Midland and Scottish Railway)の駅は北駅 Blaenau Ffestiniog North、旧グレート・ウェスタンは中央駅 Blaenau Ffestiniog Central と改称された(図右上)。後者は1960年に休止となったものの、1963年にフェスティニオグ本村の南に建設が決まった原子力発電所への物資輸送用として一部が復活し、北駅から接続線が造られた(図右中)。もとよりこれは貨物専用であり、旅客輸送は従来どおり、北駅を終点としていた。

復元されたフェスティニオグ鉄道が、数次の延長を経て、鉱山町に帰ってきたのは1982年だ(図右下)。これに合わせて旧 中央駅の位置に、新たに国鉄とFRの共同使用駅が設けられ、開業式が華々しく催された。これが、現在のブライナイ・フェスティニオグ駅だ。ジアストのオープンスパイラルと同様、終点駅もまた保存鉄道のために造られた施設なのだ。

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ブライナイ・フェスティニオグにあった旧駅の位置
1:25,000地形図 SH64 1953年版、SH74 1953年版 に加筆

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終点ブライナイ・フェスティニオグ駅に到着

小柄なリンダが1時間10分かけて牽いてきた列車は、グラン・ア・プス Glan y Pwll の旧機関庫を見ながら右に大きくカーブした後、その新駅に進入する。到着は定刻の15時40分。やはり遅れていたのではなく、途中駅の時刻表がおおまかだったようだ。国鉄(現 ナショナル・レール)コンウィ・ヴァレー線 Conwy Valley Line(下注)のホームは片側1線、対するFRは島式ホームの両側を使っている。線路幅は並ぶと大人と子供ほども違うが、FRのホームにはしっかり屋根がかかり、簡素ながら切符売り場兼売店の入った建物もある。先駆者のプライドを示しているのかもしれない。

*注 コンウィ・ヴァレー線は、この路線の観光開発にあたり、運行会社のアリーヴァ・トレインズ・ウェールズや沿線自治体が用いている線路名称。

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跨線橋から見た終着駅。右の線路は標準軌のコンウィ・ヴァレー線
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(左)線路幅は倍以上違う(597mmと1435mm) (右)構内踏切を渡れば町の中心部へ

ただ、利用実態は、コンウィ・ヴァレー線が地元の一般客、FRはほとんど観光客で、まったく異なっている。そのため、時刻表上も相互連絡しているとはいいがたく、この日もFRの列車が滞在中、隣のホームに標準軌の気動車は現れなかった。

実はFRに並行するポースマドッグとの間には路線バス(1B系統、下注)が1時間ごとに走っており、コンウィ・ヴァレー線に接続しているのはそちらのほうなのだ。一時は狭軌の伝統が途絶した鉱山町に、今は再びナロー蒸機の鋭い汽笛がこだまするようになった。せっかく便利な乗車券もできているのだから、うまく周遊旅行が組めるように、鉄道各社も協調してくれるといいのだが。

*注 Express Motors http://www.expressmotors.co.uk/ が運行。

次回は、コンウィ・ヴァレー線を北上して、スランディドノへ向かう。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Ffestiniog Railway, A Traveller's Guide" Ffestiniog Railway Company, 2016および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-コンウィ・ヴァレー線

2016年12月31日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I

ポースマドッグ・ハーバー Porthmadog Harbour ~ブライナイ・フェスティニオグ Blaenau Ffestiniog 間21.93km(下注)
軌間 1フィート11インチ半(597mm)
開業 1836年、休止 1946年、保存鉄道開業 1955~82年

*注 公式数値13マイル50チェーンをメートル法に換算

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ポースマドッグ・ハーバー駅の新ホームで発車を待つ列車

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フェスティニオグ鉄道(赤で表示)と周辺の鉄道網

ポースマドッグに到着した日、ホテルに荷物を置いて、私はさっそく一つ目の保存鉄道、フェスティニオグ鉄道 Ffestiniog Railway(以下 FR)に乗りに出かけた。同じポースマドッグが起点でも、FRの駅はカンブリア線のそれとは1kmほど離れ、市街地をはさんで反対側の、港の脇に位置している。名称もポースマドッグ・ハーバーだ。もちろんこれは、鉄道が山から積出し港までスレート(下注1)を運ぶために敷かれたからで、開業も1836年と、カンブリア線(1867年開通)より30年以上も先輩になる。それどころかこの鉄道会社は、現存するものでは世界最古(下注2)というから只者ではない。

*注1 スレートは頁岩、粘板岩で、板状に加工して屋根を葺く材料などに用いられた。
*注2 運行中の世界最古の鉄道は1758年創業のウェスト・ヨークシャーのミドルトン鉄道 Middleton Railway だが、当時の会社はすでになく、保存団体(会社組織)が運営している。

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(左)ポースマドッグの市街地 (右)かつてのスレート積出し港はマリーナに転身

駅舎は通りから少し引っ込んでいるが、すぐにわかった。黒ずんだ石積みに濃赤とアイボリーのラインが入った独特の配色で、「フェスティニオグ鉄道ハーバー駅」と側壁に大書してある。この駅は2011年から、もう一つの保存鉄道ウェルシュ・ハイランド鉄道 Welsh Highland Railway (WHR) の終着駅にもなったので、入口には2つの鉄道の時刻表が掲げてあった。駅舎の中は切符売り場と、品揃えの豊富な売店、その隣はパブのようだ。グッズ漁りは後回しにして、さっそくエクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass (下注)を見せて、ブライナイ・フェスティニオグ往復の乗車券(50%引き)を購入した。

*注 エクスプローア・ウェールズ・パスについては、前回「ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線」で詳述。

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ポースマドッグ・ハーバー駅
(左)駅舎は石積みに赤とアイボリーでアクセント (右)入口には2つの鉄道の時刻表
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紙カードに印字した乗車券

駅舎に接したホームには大きな庇屋根がかかり、満載のフラワーバスケットが彩りを添えている。これは南北に向いた旧1番線だ。ちょうど、給水を終えて持ち場に向かう緑色の小型蒸機「リンダ Linda」が通りかかった。1893年製で、最初はペンリン Penrhyn の採石場鉄道で働いていたが、1962年にフェスティニオグに輿入れした機関車だ。

その後ろ姿を目で追うと、ホームは急カーブで向きを変え、2014年にお目見えしたばかりの新1・2番線につながっている。これはウェルシュ・ハイランドの列車を受け入れるために実施された、敷地を海側へ拡張しての大改修の成果だ。このホームがなかった2011年当初、列車は入換機関車に託されて、スイッチバックで旧1番線に入っていた。1本きりのホームを、FRとウェルシュ・ハイランドが交替で使っていたのだ。新ホームと機回し線の完成で、両線の列車を一度にさばくことができるようになり、FRの列車もこちらを使うことが多い。

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(左)フラワーバスケットが飾られた旧1番ホーム (右)小型蒸機「リンダ」が持ち場に向かう
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ポースマドッグ・ハーバー駅のパノラマ
左が旧1番線、右はウェルシュ・ハイランド鉄道が入ってくる新2番線
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新2番線から背後のカンブリア山地を望む(上の写真の反対側)

この日のFRのダイヤは、10時05分発から15時45分発まで計6便だ。私はリンダが牽く14時30分発の列車に乗り込んだ。狭軌線なので、3等室は中央通路の片側が1人掛け、もう一方が2人掛けのテーブルつきボックスシートだ。隣の1等室を覗くと、肘掛つきの1人掛け席が用意されている。しかし、午後の山行きは客車1両につきせいぜい2~3組しか乗っていないから、1等室でなくてもゆったりした旅ができるだろう。

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発車を待つブライナイ・フェスティニオグ行き列車
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車内 (左)3等室は1人掛けと2人掛けのボックス席 (右)1等室は肘掛つき1人掛け席

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ポースマドッグ~タン・ア・ブルフ間の地形図
1マイル1インチ(1:63,360)地形図 116 Dolgellau 1953年版 に加筆

列車はまず、ザ・コブ The Cob と呼ばれる築堤の上を走っていく。グラスリン川 Afon Glaslyn の三角江を締め切り、内側の干拓と同時に、水流を集中させて港の水深を確保するための長い築堤だ。線路は並行する道路(A497号線)より一段高く敷かれているから、眺めがいい。とりわけ左の車窓は、スノードニアの山並みを背景にして、広大な湿地の風景が展開する。左奥に見える尖峰が、ウェールズの最高峰スノードン Snowdon(標高1,085m)だ。右の尖った山はクニヒト Cnicht(標高689m)と言うのだが、近いだけに目立つので、私は滞在中、ひそかに偽スノードンと呼んでいた。湿原は一面丈の高い草に覆われ、グラスリン川の水辺では鳥たちが集まって羽を休めている。

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ザ・コブを行く。線路の左側は道路が並走、右側は遠浅の海
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左車窓に広がる湿地とスノードニアの山並み。左端奥の最も高い尖峰がスノードン山

ザ・コブを渡り終えると、扇形に開いたボストン・ロッジ工場 Boston Rodge Works が右手をかすめる。FRの車両整備を一手に引き受けている基地だ。1893年生まれのリンダも、ここで解体修理を受けて2011年に復帰した。窓の外に集中していると、ウェイトレスさんから、お飲み物はいかがと声がかかった。何等車の客であろうと、注文したものはトレーを提げて持ってきてくれる。

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FRの整備基地ボストン・ロッジ工場

次のミンフォルズ Minffordd は、石造りの趣ある駅舎と、ホームに陰を作る大きな樹が印象的な駅だ。それに気を取られてつい見逃してしまうのだが、駅の下をカンブリア線がアンダークロスしている。両鉄道の間でスレート貨物を受け渡していた側線も、左側に残っている。ここで最初の列車交換があった。時刻表には14時35分発とあるのだが、対向列車はなかなか現れず、交換したときには45分になっていた。よく考えてみれば、ポースマドッグを30分に発車して、ここまで10分はかかっている。35分に交換できるはずがない。ほかの駅でもほぼ同じ調子だったから、どうやら時刻表はかなりサバを読んでいるようだ。

イギリスの鉄道は原則左側通行だが、FRは開通当初から右側通行だ。それで、対向列車は左の線路を進んでくる。車両限界が思いのほか小さいから、切符の注意書きのとおり、うかつに窓から乗り出していると危ない。ドアには鍵が掛かり(下注)、ホームにも出られないので、おとなしく通過を待つのが無難だ。対向列車の先頭は、ダブル・フェアリーの11号機「メリオネス伯爵 Earl of Merioneth」だった。デザインは19世紀のものだが、1979年にボストン・ロッジで新造されている。

*注 途中駅で降りる客のいるボックスには、車掌がホームから開けに来た。検札の際に覚えているのだろう。

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カンブリア線と接続するミンフォルズ駅に接近
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ミンフォルズ駅にて
(左)山を下りてきた列車と交換 (右)車両限界が小さいので、写真撮影には注意!

13分の遅れ(?)でミンフォルズを発車した。5分ほどでペンリン Penrhin 駅を通過。集落の近くを走るのは当面これが最後だ。牧場のように大仰な柵で封じた踏切を横切ると、列車は山中へ入っていき、気がつくと、いつのまにか結構高いところを走っている。ボストン・ロッジ以降、1:82(12.2‰)~1:96(10.4‰)の勾配を保ちながら、等高線をなぞるように上り続けているからだ。

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(左)牧場のような柵で封じた踏切を通過 (右)有人踏切で、柵は落とし錠で固定

線路に一定の勾配がついているのには理由がある。もともとFRは、機関車を使わない重力鉄道だった。小型貨車に整形スレートを積み、山の上から自然の力で転がすという実にエコロジカルな方式で運行されていたのだ。スレートは重いので、下り坂が続くと結構なスピードが出る。それを手動ブレーキで調節しながら、港まで送り届けた。1856年の時刻表によれば、この方法でフェスティニオグからボストン・ロッジまで、途中3駅各10分の停車を含めて1時間32分で下りきっている。最盛期には、連結される貨車が80両以上になるのも普通で、3名の制動手が乗り込んでこれを操った。

下りはいいが、帰りの上り坂はどうしたのだろうか。実は、列車にはスレート貨車8両につき1両の割合で、馬を載せた貨車も連結されていた。港で荷を下ろして身軽になった貨車は、今度はその馬に牽かれ、約6時間かけて山へ戻っていったそうだ(下注)。

*注 ボストン・ロッジ~ポースマドッグ間のザ・コブはレベル(水平)のため、坂を降りてきた列車が停まってしまったときは、同じように馬に牽かせていた。

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線路には一定の勾配がついている

スレートの増産が続き、鉄道会社としては蒸気機関車を使った効率的な輸送を模索していた。しかし、狭軌用の小型機関車は開発が難しく、馬に代わる最初の蒸気機関車マウンテニア号 Mountaineer が導入されたのは、開通から27年後の1863年だった。これでようやく列車の長編成化が可能になり、1865年から人も乗せ始めた。用意されたのは小さな2軸客車で、「虫篭 bug box」と揶揄されたとはいえ、イギリスの狭軌鉄道では初めて実現した旅客輸送だった。続いて1869年には、ダブル・フェアリー式機関車(下注)も導入されている。

*注 スコットランドのロバート・フランシス・フェアリー Robert Francis Fairlie が1864年に発明した、ボギー台車に動輪をもつ関節機関車。

山へ帰る列車はこうして機関車が牽引し、輸送力と速度の飛躍的向上が果たせたのだが、おもしろいことに、山を下る列車は相変わらず重力に頼っていた。それも、荷を積んだスレート貨車、一般貨車、客車、仕事をせずに走る機関車の最大4群に分割され、順番に坂を下っていく。車間を適切に保って転がすのが、制動手の腕の見せどころだったようだ。危険性が指摘されて、一般貨車と客車は機関車に連結するようになったが、スレート貨車は実に1939年まで自力で転がされていたという。

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ザ・コブ区間(写真前方)は水平路のため、途中で止まってしまった貨車は馬で牽いた(帰路写す)

重力列車が実際にどのように走ったのか。運行のようすを再現した実験映像がある(下記参考サイト)。開通当時とは違って現在は、途中のジアスト Dduallt ~タナグリシャイ  Tanygrisiau 間に逆勾配があるため、全線で重力走行させることはできない。それで、1つ目の実験はモイルウィントンネルの南口から、2つ目はトンネルを抜けた先にある水力発電所の裏手からのスタートだ。機関車で坂の上まで引き上げられた貨車の列が、連結を解かれた後、どんな走りっぷりを見せるのか、興味のある方はご覧いただきたい。

■参考サイト
重力列車が実際にどのように走ったのかを再現したイベントの動画
BBC Countryfile - Gravity Train  https://www.youtube.com/watch?v=scD0B7Gczp8
Slate train - 1863 and all that!  https://www.youtube.com/watch?v=B5xzUsNbZ-g

次回も、ブライナイ・フェスティニオグへ向けて、旅を続ける。

■参考サイト
フェスティニオグ及びウェルシュ・ハイランド鉄道(公式サイト)
http://www.festrail.co.uk/

本稿は、「ウェールズ海岸-地図と鉄道の旅」『等高線s』No.13、コンターサークルs、2016に加筆し、写真、地図を追加したものである。記述に際して、"Ffestiniog Railway, A Traveller's Guide" Ffestiniog Railway Company, 2016および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照した。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-コンウィ・ヴァレー線

2016年12月24日 (土)

ウェールズの鉄道を訪ねて-カンブリア線

シュルーズベリー Shrewsbury ~アベリストウィス Aberystwyth 131.2km
ドーヴィー・ジャンクション Dovey Junction ~プスヘリ Pwllheli 86.6km
軌間 4フィート8インチ半(1,435mm)、開業 1859~67年

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朝の光に浮かぶバーマス鉄橋のシルエット

まだひっそりとした朝のバーミンガム・インターナショナル Birmingham International 駅5番線から、私たちのウェールズへの旅が始まる。ここはバーミンガム空港の最寄り駅だ。ホームにはすでに、西海岸へ直通する4両編成の列車が停車している。側面をピーコックブルーに塗った気動車158形エクスプレス・スプリンターだ。きょうは終日いい天気になると、テレビの予報が言っていた。車両の屋根越しに射し込んでくる朝日がまぶしい。

今回(2016年8月)の旅では、西海岸のポースマドッグ Porthmadog に宿を取っている。そこを足場に、ウェールズの北・中部に残る小鉄道群を訪ね歩く計画だ。バーミンガム・インターナショナルからポースマドッグまでは253km、列車で4時間40分もかかる。小縮尺の地図では近そうに見えるのだが、本州に住む人が北海道の距離感覚にとまどうのと同様、グレート・ブリテン島も想像以上に広い。

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中部ウェールズ直通列車の走行ルート、シュルーズベリー以西はカンブリア線を通る
基図は "National Rail Timetable Map 2003-2004" を使用  (c) Network Rail, 2016

ウェールズのローカル線は、2003年からドイツ鉄道(DB)の関連会社アリーヴァ・トレインズ・ウェールズ Arriva Trains Wales が運行している。列車はシュルーズベリー Shrewsbury を経由して途中マハンレス Machynlleth で分割され、前2両が北のプスヘリ Pwllheli 行き、後ろ2両が南のアベリストウィス Aberystwyth 行きだ(下注)。私たちの目的地はプスヘリ方面だが、耳慣れない地名ばかりなので、乗り間違えないように注意しなくてはいけない。

*注 これは始発駅での編成。後述のようにシュルーズベリーで進行方向が変わるため、以降は前後が逆になる。なお、2016年現在、平日のプスヘリ方面は2時間間隔、アベリストウィス方面は1~2時間間隔の運行。

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バーミンガム空港とインターナショナル駅を直結するエアレール・リンク AirRail Link(無人運転のシャトル)
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朝のバーミンガム・インターナショナル駅
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中部ウェールズ直通列車はアリーヴァ・トレインズ・ウェールズが運行

切符は、駅の窓口でウェールズの公共交通のフリーチケットを買った。「エクスプローア・ウェールズ・パス Explore Wales Pass」といって、ウェールズ内のナショナル・レール(下注)と路線バスに使える。価格は大人99ポンド。有効期間は連続8日で、鉄道にはその中で4日(自由選択)、バスには8日間とも乗れる。鉄道は本数が少ないので、それを補完する路線バスが自由に乗れるのはありがたい。それに、各地の保存鉄道もこれを見せると所定の割引が受けられる。通常20%引きだが、距離の長いフェスティニオグとウェルシュ・ハイランドでは50%引きという寛大さだった。

*注 「ナショナル・レール National Rail」は実体のある事業者名ではなく、旧イギリス国鉄 British Rail (BR) の路線を主に運行する旅客輸送事業者 TOCs が共通的に使用しているブランド名。日本でいえば総称としてのJR(ただし旅客輸送のみ)のようなもの。

ちなみに北ウェールズあるいは南ウェールズだけを回るなら、これより安い地域版があり、さらに短期滞在用に有効1日のローヴァー Rover チケットも用意されている。いずれも現地でしか買えないが、ブリットレールパス(下注)よりずいぶんと安く上がるのは確実だ。

*注 ブリットレールパス BritRail Pass は、ナショナル・レールの外国人旅行者専用フリーパス。

ただし、ウェールズ・パスにも難点がある。指定のローカル線を除いて、平日は9時15分以降有効、つまり朝の通勤通学時間帯には使えないのだ。きょうは月曜日。駅の改札機が時間までチェックするとは思えないが、車内検札でペナルティを払わされるのは避けたい。それで、列車が有効時間帯に入るシュルーズベリーまで、別に自販機で乗車券を購入しておいた(下注)。

*注 蛇足ながら、帰りはこの切符でバーミンガム・ニューストリート駅の改札機を出入りできたので、イングランドでもアリーヴァの運行区間なら有効のようだ。

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エクスプローア・ウェールズ・パス、これとは別に利用日付を記入する副券あり

列車は、インターナショナル駅を定刻の8時09分に発車した(下注)。渡り線をゴトゴト渡って左の線路に移り、速度を上げていく。予約の札が立っている座席はざっと半分で、始発駅ではまだ座る場所を選ぶ余地があった。しかし、バーミンガムの中央駅であるニューストリート New Street である程度の乗車があり、シュルーズベリーでは、ついに通路を含めて満杯になった。のんびりしたローカル線を予想していたのに、大外れだ。隣に座ってきた老婦人はロンドン在住で、今はウェールズ西海岸のタウィン Tywyn に避暑に来ている、と話した。彼女によればこの集団は、シュルーズベリーで開かれていたフラワーショーを見て帰る人たちなのだそうだ。

*注 この中部ウェールズ直通列車は、かつてニューストリート駅止まりだったが、2008年にインターナショナル駅まで延長された。空路との乗継ぎがスムーズになっただけでなく、大ターミナルでのタイトな折返しで多発していた遅延も減って、運行実績が改善したという。

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イングランドの麦畑の中を行く

シュルーズベリーで進行方向が変わり、列車はこの先、カンブリア線 Cambrian Line(下注)と呼ばれる中部ウェールズで唯一廃止を免れた旧国鉄線に入っていく。ウェルシュプール Welshpool の手前に「国」境がある。車窓はまだ、イングランドと同じのびやかな田園地帯が続いているが、駅名標は2言語併記になって、異国に入ったことを無言で告げていた。

*注 カンブリア Cambria は、ウェールズ(ウェールズ語でカムリ Cymru)のラテン名。ちなみに地質時代区分のカンブリア紀は、英国でこの時代の岩石の露出が最も多い地域であったことに由来する。

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(左)シュルーズベリー駅で多数乗車
(右)ウェールズ最初の駅ウェルシュプール、駅名標は2言語併記

列車は、建設当時世界一と言われた深さ37mの切通し(タレルジッグ切通し Talerddig cutting)でカンブリア山地 Cambrian Mountains の分水界を越える。森を掻き分けるように坂を降りていくと、ドーヴィー川 Dovey の広い谷に出た。点在する建物が、赤煉瓦からグレーの石積みに変わっていることに気づく。ウェールズの建築様式だ。中部ウェールズの入口に当たるマハンレス駅では12分停車して、列車の切離し作業が行われた。

先行するアベリストウィス行きを見送って数分後、私たちのプスヘリ行きも発車した。実際に線路が分岐するのは次のドーヴィー・ジャンクション Dovey Junction 駅で、西を目指してきた線路が、片方は南へ、もう片方は北へと進路を変える。実は海岸までまだ10kmほどあるのだが、ドーヴィー川の河口は広大な三角江(エスチュアリーまたはエスチュエリー estuary)になっているため、川幅が狭いうちに渡っておく必要があるのだ(下注)。

*注 当初は河口(アニスラス Ynyslas ~アバードーヴィー Aberdovey 間)に長大な鉄橋を架ける計画で、一時、港までの仮線を敷いて渡船連絡を行っていた。しかし架橋は実現せず、代わりに現在のドーヴィー川右岸(北岸)を縫うルートが造られた。

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(左)マハンレス駅でアベリストウィス行きを切離し
(右)実際の分岐駅ドーヴィー・ジャンクション、直進はアベリストウィス方面、右に曲がるのがプスヘリ方面
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海岸沿いの湿地帯は野鳥の楽園(タウィン Tywyn ~トンヴァナイ Tonfanau 間)

保存鉄道に乗るのが主たる目的なので、ナショナル・レールの車窓風景には大して期待していなかった。ところがどうして、これはイギリスでも指折りの海景ルートだ。列車は、カーディガン湾の波打ち際を舐めるように走るかと思えば、断崖の上から白く煙る大海原を眺め下ろす。往路、遠浅の河口には目の届く限り砂浜が広がっていたのに、帰りは満潮で線路際まで水が押し寄せていて、まったく別の風景に写った。

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(左)カーディガン湾に沿って北上
(右)マウザッハ川の河口に接近(フェアボーン Fairbourne 南方)

中でも絶景と言えるのが、マウザッハ川 Afon Mawddach に架かるバーマス鉄橋 Barmouth Bridge の前後区間だ。この川も例に洩れず広い三角江をなしていて、カンブリア線は河口近くでこれを横断する。1867年に完成した鉄橋は、長さが699m(下注)。113本の鋳鉄製橋脚が木造トレッスルを支え、その後に、河道をまたぐ2連の下路アーチが続いている。アーチ橋は、当初船を通すために跳上げ式の構造になっていたそうだが、1899年に旋回式に改築され、それが現存している。速度制限の標識が建っていたが、列車は平然と通過していった。渡り終えた後、左の車窓から振り返ると、橋の全貌が見渡せる(冒頭写真)。黒ずんだ頑丈そうなアーチと、整然と並ぶ華奢な橋脚の取り合わせが絶妙だ。

*注 長さには諸説あるため、ここでは英語版ウィキペディアの数値を記した。

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マウザッハ川の三角江を横断するバーマス鉄橋
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バーマス鉄橋。木造トレッスルに旋回式のトラス橋が接続

列車がバーマス Barmouth 駅に到着すると、多数の人が下車した。ホームの賑わいが、沿線でも人気のある観光地であることを教えている。路線も末端に近づいてきたからか、走行音が短尺レールのそれに変わり、速度もやや落ちたようだ。列車はリクエストストップ扱いの小駅にも、けっこう律儀に停まっていく。フィーンフォーンと聞こえるユーモラスな警笛は、都会ではちょっと間が抜けているのだが、開放的な海岸の景色にはマッチするような気がする。

車窓最後の名所は、ハーレフ(ハルレッフ)駅に程近い丘の上に立つハーレフ城 Harlech Castle だ。13世紀ウェールズ王国を征服したエドワード1世が拠点にした城の一つで、世界遺産にも登録されている。列車の窓からもその威容が拝めるが、訪れた家内によると、城の上から一望できるカーディガン湾の景色はまた格別なのだそうだ。

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丘の上に立つハーレフ城の足元を列車は走る

架け直された道路併用橋でドゥアリド川 Afon Dwyryd を渡ると、列車の針路は再び西へ変わる。三角江の岸辺をなぞり、後で乗るフェスティニオグ鉄道と交差し、湿地を横断する長い直線路を渡りきれば、目的地のポースマドッグだ。2面2線のがらんとした無人駅にも、それなりの客が降り立った。プスヘリの終点まであと20km走り続ける列車を見送って、私たちは宿へ向かった。

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ポースマドッグ駅に到着

■参考サイト
Cambrian Lines  http://www.thecambrianline.co.uk/
Arriva Trains Wales  https://www.arrivatrainswales.co.uk/

【付記】 ウェールズ語の表記について

ウェールズの公共の表示は、英語とウェールズ語の併記が原則だ。地名も概してウェールズ語由来だが、読み方は一様でない。"Porthmadog" は、バーミンガムの切符売り場でポースマドッグ(th は[θ])と聞いたが、列車の車掌氏は巻き舌でポ「ル」スマードッグと発音した。カーナーヴォン Caernarfon も、現地読みはカイルナルヴォンだ(「ル」は巻き舌)。また、"Aberdovey" は、ウェールズ語で河口の意の Aber(アベル)と、ウェールズ語による川の名 Dyfi(ダヴィ)を英語化した Dovey(ドーヴィー)との合成で、車掌氏はアバドーヴィーと発音した。現地でそうだから、日本語表記はなおさら混乱している。

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路面に記された「徐行」の文字も2言語で

加えて、日本語では書き表しようのない音があり、中でもエルを2つ重ねた "ll" が難題だ。本稿では原則として、語頭に来るときは「ス+ラ行音」(例:スランディドノ Llandudno)、語中で母音の後では「ス」(例:プスヘリ Pwllheli)、語中で子音の後では「ラ行音」(例:マハンレス Machynlleth)で表記した。ただし、慣用の読みがある場合はそれに従う(例:スランゴスレン Llangollen)。もちろんウェールズ語の発音が位置によって変化するのではなく、日本語での書き分けに過ぎない。

次回は、ここポースマドッグを拠点にするフェスティニオグ鉄道に乗る。

★本ブログ内の関連記事
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 I
 ウェールズの鉄道を訪ねて-フェスティニオグ鉄道 II
 ウェールズの鉄道を訪ねて-コンウィ・ヴァレー線
 スランゴスレン鉄道乗車記

2016年12月17日 (土)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

午前5時過ぎのロス・モチス駅。真っ暗な中にここだけ蛍光灯が煌々と灯る待合室には、スーツケースを引いてきた旅行者が10数人、列車の搭乗を待っていた。隅の出札窓口は1等急行とエコノミー(普通列車)に分かれている。2016年3月1日から1等急行の切符は車内では発売しないので事前に購入のこと、と注意書きが見えた。駅で買って乗るように、ということだ。ところが目を疑うことに、窓口には昼間の取扱時間しか書かれていない(下注)。列車は早朝に1本だけなのだが。

*注 掲示によると取扱時間は、月・木 10:30~14:30、15:00~17:30、火・水・金 9:00~12:00。

がらんとしたホームに、チワワ Chihuahua 行き1等急行列車はすでに据えつけられている。フェロメックス Ferromex(メキシコ国鉄)のいかつい顔をしたディーゼル機関車の後ろに食堂車1両、客車3両という簡素な編成だ。発車時間が近づくと、ぞろぞろと客が集まってきて、係員氏が搭乗のチェックを始めた。客はみな旅行社かどこかで予約を入れてきているらしい。切符を持っていないと告げると、スペイン語で答えが返ってくる。だが通じないと見た係員氏は、とにかく乗れと身振りで示してくれた。

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夜明け前のロス・モチス駅で発車を待つチェペトレイン
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ロス・モチス駅 (左)待合室に人が集まり始める  (右)乗車開始

6時00分、定刻にチェペトレインはホームを後にした。チェペ Chepe というのは、チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)の愛称だ。駅や列車のあちこちでそのロゴを見かける。車内に入ると、通路を挟んで2人掛けのゆったりしたリクライニングシートが並んでいるが、始発駅ではまだ空席が多い。車掌が回ってきたので、手書きの乗車券を切ってもらう。

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(左)1等急行車内、始発駅からの乗客はまだ少数
(右)座席配置図(備え付けの安全のしおりに掲載)

出発したときは薄暗かったのに、東の空が見る見る明るんできた。きょうも快晴のようだ。食堂車へ行くと、テーブルにはすでにクロスが敷かれ、食器とナプキンがセットされている。ほかの乗客も朝食を求めて次々と客車から移ってきた。

夜が明けると、列車は遠くに小山を望む平原を走っている。ほかに見えるのは、林と空地と雑多な建物群ぐらいだ。本来、貨物鉄道なので、軌道はロングレールでバラストも厚く、速度が上がっても乗り心地は悪くない。南北幹線との分岐駅、多数の貨車が休むスフラヒオ Sufragio を通過。車内に朝日が差し始め、食事を終えたテーブルに濃い影をつくった。

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走るうちに東の空が白み始める
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朝食
(左)朝食メニュー、通貨単位はメキシコペソ
(右)ウエボス・チェペ Huevos Che Pe を注文。説明によれば、農場風ソースをかけたマチャカ(乾燥肉)入りウエボス・エストレジャードス(フライドポテトの目玉焼き載せ) Huevos estrellados con machaca bañados en salsa ranchera

8時20分、エル・フエルテ El Fuerte 着。フエルテ Fuerte とは砦(英語の fort)のことで、16世紀の探検時代に軍隊の駐屯地だった。駅からかなり離れているが、旧市街はプエブロ・マヒコ Pueblos Mágicos(下注)にも選定されている。それとセットのツアー客なのだろう。簡易屋根の待合所にたむろしていた人たちが大勢乗り込んできて、車内はにわかに活気づいた。

*注 プエブロ・マヒコ(スペイン語で魔法の村の意)は、魅力的な市街や村を選定するメキシコ政府観光局の観光振興プログラム。

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エル・フエルテ駅 (左)8時20分到着 (右)多数の乗車がありほぼ満席に

線路にカーブが目立ち始め、大サボテンがまるで記念碑か何かのように、周りの灌木を圧して突っ立つ。列車は信号場のような小駅をいくつか通過した後、9時半過ぎにフエルテ川 Río Fuerte に差し掛かった。部分上路トラスのリオ・フエルテ橋梁は、長さが499mと路線随一だが、それだけでなく水面から結構な高さもある。自然のまま流れる泥色の大河に影を落としながら、列車は飄々と通過した。

*注 本稿記載のトンネルと橋梁の長さは、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014, p.123 のリスト掲載のフィート数値をメートルに換算した。

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(左)灌木の生える丘陵地を行く (右)記念碑のように立つ大サボテン
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路線最長のリオ・フエルテ橋梁を渡る

橋梁を境にして、西シエラネバダ山脈の西斜面を上る山岳線区間に入る。まずは東西に横たわる前山を越えなくてはならない。灰青色の油煙を勢いよく吐きながら、機関車は勾配のついた線路に挑み続ける。エル・デスカンソ El Descanso の無人駅を見送ると、まもなくトンネルに突っ込んだ。海側では初めてのトンネルとなるこの第86号(エル・デスカンソトンネル)は、前山を一気に抜けるもので、1,807m(現地標識は1,823m)と路線では最長だ。

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(左)山並みをめざして (右)信号場の小駅にも簡易のベンチ(ロス・ポソス Los Pozos)
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(左)前山を抜ける第86号トンネル
(右)トンネルを出るとウィテスダム湖が広がる。正面奥の谷がこれから上るセプテントリオン川の谷

闇が晴れると、やがて右手に湖面が現れる。フエルテ川を堰き止めて1995年に完成したウィテスダム Presa Huites(正式名 ルイス・ドナルド・コロシオダム Presa Luis Donaldo Colosio)の湖だ。対岸には重量感のある山塊が居座り、ところどころ剥き出しの岩肌を見せて威嚇している。峡谷の入口に到達したと実感させる光景だ。10時過ぎ、列車は右に大きくカーブして、湖面の上を鉄橋で一跨ぎした。さざ波立つ青い湖水が緑の山並みに映えて、予想外のいい眺めだった。このチニパス橋梁 Puente Chinipas は、全長291mで路線第二の長さがある。湛水した現在はともかく、完成当時は谷底からの高さが105mもあったそうだ。

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(左)ダム湖を渡るチニパス橋梁 (右)橋上からは予想外のいい眺め

いよいよ列車は、セプテントリオン川 Río Septentrión の谷を上流へ遡っていく。湖はほどなく後ろへ去り、川は渓流となって谷底を這う。両岸の切り立った断崖が牙をむき、見上げると山上で尖った岩の塔が青空に列をなしている。このあたり、谷は非常に深く刻まれ、頂との高低差は1,500mにもなる。急傾斜の岩は脆くて落石が多いので、主要列車が通る前に、軌陸車(下注)が線路の点検に回るのだという。

*注 軌陸車は、トラックなどの道路車両に軌道用の車輪を装備した保線用車両。これにより道路と同様、線路でも走ることができる。英語ではハイレール hi-rail(ハイウェーとレールからの造語)などと呼ばれる。

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セプテントリオン川の谷に分け入る
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(左)線路を巡回する軌陸車に遭遇 (右)落石防止の工事施工中
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(左)谷が深まる中流部ではトンネルと橋梁が多数 (右)川床からかなりの高さがある

20を超えるトンネルと無人駅を3つ通過した後、線路は川を渡って左岸(谷の東側)に移った。すると、左の席の乗客が外を指差して何か言っている。見ると、高い岩山の中腹に、鉄橋の朱いガーダーと巨大な銘板が架かっている(下写真)。資料によると、古い鉄道レールで組んだ銘板には、こう記されているそうだ。「チワワ太平洋鉄道は、メキシコ革命50年を記念してアドルフォ・ロペス・マテオス共和国大統領により開業した。1958年までの投資額3億9千万ペソ、1959~1961年の投資額7億4,400万ペソ。公共事業大臣。」(下注)

*注 原文は次の通り。"F. C. Chihuahua al Pacífico fue puesto en servicio por Adolfo López Mateos, Presidente de la República, en conmemoración del cincuentenario de la Revolución Mexicana. Inversión hasta 1958 $ 390,000,000.00. Inversión en 1959-1961 $ 744,000,000,00. Secretaria de Obras Públicas."

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テモリスに接近
(左)セプテントリオン川を渡りながら反転。上段に橋梁と巨大な銘板が見える
(右)古い鉄道レールで組んだ開通記念の銘板

ここが鉄道の名物景観の一つ、テモリス Témoris の3段ループだ。線路はまず大きく左に回りながら、長さ218mの鉄橋で川を渡り、向きを反転した形でテモリス駅へ滑り込む。エル・フエルテ以来の停車駅で、時刻はもう11時20分だ。駅を出ると、そのまま斜面を上っていく。そして、長さ932mの第49号トンネル(ラ・ペーラトンネル Túnel la Pera)の中で右に半回転してから、最上段のテラスに飛び出す。そこから見下ろす峡谷の風景は、あたかも良くできた鉄道模型だ。聳え立つ岩山が影を落とす緑の小盆地、その縁を廻るように敷かれた単線の線路。急カーブしたガーダー橋と、貨車が休む小さな駅。

■参考サイト
テモリス付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.2561,-108.2598,15z?hl=ja

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テモリス駅
(左)列車は南を向いている (右)チェペ全通50周年(2011年)の記念碑
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テモリスの3段ループ全景
線路は右下から来て、奥の鉄橋を渡り、左の駅を手前に進み、トンネルで半回転してこの写真の撮影地へ出てくる。さらに左の山腹を進み、奥の山塊をトンネルで抜ける
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ループ最上段を走る列車から下の鉄橋を望む。モニュメントのような岩山が印象的

この迂回で高度をかなり稼いだはずだが、傍らの川はかなりの急流で、長いトンネルを抜けたところで、もう線路の近くまで上ってきている。またしばらく、谷川とのおつきあいが続く。次のソレダー Soledad 駅の先にもオメガループの寄り道があるが、走るにつれて、周りの景色は溪谷から高原へと表情を和らげていった。

12時20分着のバウィチボ Bahuichivo では、久しぶりに大きな集落に出会うことができた。下車した人たちは、きっと南方にある峡谷観光の拠点チェロカウィ Cerocahui を訪れるのだろう。赤屋根の家と果樹園が点在するクィテコ Cuiteco の村を見送った後は、また溪谷の中だ。オメガループが計3回。最後のそれを回り終えると、3時間かけて遡ってきたセプテントリオン川は見納めになる。

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(左)車窓は高原の様相を帯びてくる (右)チェロカウィへの最寄りとなるバウィチボ駅
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赤い屋根と果樹園が点在するクィテコの村

この後鉄道は、激しい浸食を辛うじて免れた形の、回廊状の高原の上を伝っていく。地勢としては尾根筋だが、鉄道を通すには手ごわい起伏も待っている。最初の試練は、峠のトンネルを出てすぐのラ・ラーヤ La Laja だ。だが、概して羊腸の山岳ルートでは例外的に、ここの線形は大胆だ。大きく口を開けた谷を長さ212mのPC橋梁でひとまたぎし、立ちはだかる山を長さ465mのトンネルで貫いていく。

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ラ・ラーヤ橋梁 (左)木の間越しに橋梁がのぞく (右)線路は珍しく直線的

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1:1,000,000(100万分1)地形図で見るチワワ太平洋鉄道第二区間(山岳区間)のルート、図中の枠は下図2の範囲
米国国防地図局DMA発行ONC H-23(1988年改訂)
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

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クリル~ラ・ラーヤ間の拡大図(縮尺1:250,000)
赤で加筆した鉄道ルートは、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" に基づいているため、原図とは一致しない
米国空軍航空図・情報センター発行JOG NG12-3 Ciudad Obregon(1968年編集)、JOG NG13-1 Creel (1969年編集)を使用
image from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

13時15分、サン・ラファエル San Rafael 駅に到着。機関車を転回する三角線が備わり、山岳区間の運行基地を任されている。乗務員も交替するので、列車は10分ほど停車する。鮮やかな原色の服をまとった地元タラウマラ族の売り子たちが、列車の周りに集まってきた。手編みの籠や袋詰めの果物を両手いっぱい持っているが、一様におとなしくて商魂には欠けるようだ。

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手編みの籠と果物を売るタラウマラ族の女性。サン・ラファエル駅にて

次は、珍しく棒線駅のポサダ・バランカス Posada Barrancas だ。峡谷の宿という意味の駅名どおり、宿泊施設が集中するアレポナプチ Areponápuchi 地内に設置されている。線路をはさんで両側にプラットホームがあった。人気の観光地で利用者が多いので、乗車ホームと降車ホームを分離しているのだ。秘境のはずが、これではまるで都会の駅ではないか。エル・フエルテから乗ってきた客も大方ここで降りた。

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ポサダ・バランカス駅 (左)1線2面の駅 (右)乗車と降車でホームを分離。写真は降車用

出発してまもなく、フランシスコ・M・トーニョ Francisco M. Togno 信号場で、対向待ちのロス・モチス行き列車と行違う。トーニョは、山岳区間の建設工事を指揮した主任技師だ。チワワ~トポロバンポの中間に近い場所に、功労者の名が残されているのも故ないことではない。

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フランシスコ・M・トーニョ信号場 (左)ロス・モチス行きと交換 (右)束の間の出会い

14時、列車はもう片方の観光拠点、ディビサデロ Divisadero に停車する。前回も記したように、厳密に言うと、鉄道はバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(コッパー・キャニオン)の中を通っていない。険しく複雑な断崖が続くため、とうてい線路を敷く土地がないからだ。それで、絶景を見渡せる唯一の場所が、崖っぷちに最接近する当駅ということになる。列車はここでも20分停車するから、展望台に出て、ウリケ川 Río Urique が刻んだ大峡谷の奇跡的な景色を堪能することができた。

■参考サイト
ディビサデロ付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.5345,-107.8245,17z?hl=ja

旅行書ロンリー・プラネットは書く。「駅には土産物屋や色鮮やかな屋台村もあるので、時間には気をつけたい。間に合わせのオイルドラムストーブで調理されたゴルディタス gorditas(マーサケーキ、ブルーコーンで作られたものもある)、ブリートー burritos(肉・チーズなどのトルティーヤ包み)、チレ・レジェーノ chiles rellenos(トウガラシのチーズ詰め)だけでも、足を止めるに値する」(下注)。

そればかりか、近所にはジップライン、ラペリング、ロッククライミングなど、冒険的アトラクションも揃っている。一日ここで過ごせればいいのだが、そうでない場合は、絶景を記憶にとどめて先へ進まなくてはいけない。

*注 残念ながら、飲食物を客車へ持込むことはできないそうだ。

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ディビサデロ駅では峡谷展望のために15~20分の停車がある
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バランカ・デル・コブレのパノラマ
コブレ(銅の意)の名は、岩肌が地衣類に覆われて緑(青銅色)に見えることから
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ディビサデロ駅前に色鮮やかな土産物屋や屋台が並ぶ

14時20分、ディビサデロを発車。カーブだらけの線路をしばらくのろのろと走った後、15時ごろ、エル・ラーソ El Lazo(スパイラル、日本でいうループ線のこと)を通過した。上り勾配の途中で、下の線路は切通しと短いトンネル、上の線路はそれをアーチ橋でまたいでいる。アーチの直下は切り通しなので、オープンスパイラルと言って間違いない。

■参考サイト
エル・ラーソ(スパイラル)付近のGoogle地図
https://www.google.com/maps/@27.6549,-107.7390,17z?hl=ja

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エル・ラーソ(スパイラル)通過中

次のオヒトス Ojitos 信号場が、路線の最高地点となる。標高はおよそ2,438m(約8,000フィートの換算値)に達している。後はおおむね下り坂だ。エル・バルコン El Balcón と呼ばれる長いオメガループを廻ると、右車窓に人里が見えてきて、まもなく一帯の中心地クリル Creel に到着した。時刻は15時40分、ほぼ定刻の運行だ。クリルも峡谷観光の拠点なので、残っていた乗客もここであらかた下車してしまった。

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クリル駅 (左)町は一帯の中心地で峡谷観光の拠点 (右)チワワ行きの入線

クリルから先は、西シエラマドレ山脈の東斜面になる。しかし実態は、今たどってきた高原地帯の続きと言ったほうが正確だろう。列車はまだしばらく、山中の気配が漂う中を行く。
クリルを出発してすぐ、路線で2番目、長さ1,260mの第4号トンネル(コンチネンタルトンネル)をくぐる。その名が示すように、カリブ海と太平洋を分かつ大陸分水嶺の下を抜けるトンネルだ。全通の際にルートが変更された区間で、以前は25‰の急勾配と数度のオメガループを駆使して峠を乗り越していた。その跡はダート道路になっているようで、空中写真でも追跡することができる。

また上り勾配に転じて、サン・ファニート San Juanito に16時20分着。峡谷圏はここまでで、以降、チェペトレインは沿線に点在する地方の町や村に目もくれない。支線と合流するラ・フンタ La Junta 駅も通過してしまうので、残る中間停車駅はクアウテモック Cuauhtémoc のみだ。

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潤いのある渓谷と乾燥した広大な盆地が交互に現れる

残っていた客もクリルであらかた降りてしまい、あれほど賑やかだった車内は嘘のようにがらんとしている。ツアー客はおそらくハイライト区間だけつまみ食いして、帰りは観光バスに身を任せるのだろう。人口の張り付く平野や盆地では閑散としているのに、人気のない山中に入ると賑やかになるというのも皮肉な現象だ。

少し早いが夕食を取ろうと思い、食堂車に足を向けた。ロス・モチスの出発直後のように、ここでも人影は数えるほどしかない。赤い夕日が差し込むテーブルに着き、キンキンに冷えた缶ビールを開けて、メキシコ唯一の長距離列車旅を締めくくろう。終点チワワの到着予定は20時54分だ。時間はまだたっぷりある。

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チワワ駅 (左)夜のとばりが降りた駅構内に接近 (右)20時54分全行程終了

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

2016年12月11日 (日)

メキシコ チワワ太平洋鉄道 I-概要

見る者を圧倒するような大峡谷といえば、アメリカのグランド・キャニオンがまず思い浮かぶだろう。ところが、お隣のメキシコには、それさえ凌ぐほど広大で深く刻まれた谷があるという。スペイン語でバランカ・デル・コブレ Barrancas del Cobre(下注)、英語でコッパー・キャニオン Copper Canyon と呼ばれるその地形は、同国北西部、西シエラマドレ山脈 Sierra Madre Occidental がカリフォルニア湾岸の低地に臨む一帯に広がっている。

*注 バランカ・デル・コブレは複数の峡谷(エル・コブレ El Cobre、ウリケ Urique、シンフォローザ Sinforosa、バトピラス Batopilas、オテロス Oteros など)の総称でもある。原語が複数形(バランカス Barrancas)なのはそのため。

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バランカ・デル・コブレの展望。ディビサデロにて

今回取り上げるチワワ太平洋鉄道(チワワ・パシフィック鉄道)は、その峡谷を一望できる展望台が第一のセールスポイントだ。しかしそれだけでない。鉄道自体が、中央高原と太平洋を直結する使命を背負い、険し過ぎてまともな道さえなかったコッパー・キャニオンの横断に挑んでいる。その結果、標準軌としては世界屈指の山岳鉄道が出現した。これから2回にわたって、驚異の路線の来歴と変化に富んだルートを紹介したい。

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奇岩が空を限るセプテントリオン谷
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路線最長のフエルテ川橋梁

チワワ太平洋鉄道 Ferrocarril Chihuahua al Pacífico(英訳 Chihuahua-Pacific Railway)は、メキシコ高原北部のチワワ Chihuahua(下注)とカリフォルニア湾に臨む天然港トポロバンポ Topolobampo を連絡する673.0kmの路線だ。名前が長いので、現地では、チワワとパシフィコの頭文字(ChとP)を取って「エル・チェペ El Chepe」と呼ばれる。

*注 チワワは州名でもあるので、区別するときはチワワ市 Ciudad de Chihuahua(英訳 Chihuahua City)と書かれる。ちなみに犬種のチワワは当地方が原産。

今でこそ国内で完結しているが、本来の構想ははるかに壮大だった。1880年にメキシコ政府の承認を受けた計画は、アメリカ中央部から太平洋岸を目指す大陸横断鉄道だったのだ。それを引き継いだのが、鉄道経営者のアーサー・エドワード・スティルウェル Arthur Edward Stilwell で、1900年にカンザスシティを起点に、プレシディオ Presidio(オヒナガ Ojinaga)で米墨国境を越えてトポロバンポを終点とする総延長2,670kmの鉄道建設を開始した。当時、スティルウェルは経営していた別の鉄道が破産して失意の底にあったのだが、励ましのために誘われたパーティーで、集まった人々を前にこの計画を打ち明けた。北米大陸の地図に紐を当てながら、彼は、このルートこそ太平洋への最短距離であることを人々に納得させたという(下図参照)。

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スティルウェルの大陸横断鉄道構想を赤のルートで示す
黒のルートは競合する大陸横断鉄道(の一部)

設立されたカンザスシティ・メキシコ・アンド・オリエント鉄道 Kansas City, Mexico and Orient Railway が、線路の建設を進めていった。メキシコ国内では、1907年に峡谷の東の入口クリル Creel に達した。しかし、その先は険しい地形に阻まれて着工の見通しが立たなかった。アメリカ国内でも、サザン・パシフィック Southern Pacific など他の大陸横断鉄道が、競合を懸念して陰で妨害していたと言われる。さらに1910年にメキシコで政変が起きると、沿線で破壊行為が頻発して、不通個所が拡大していく。運賃収入が急減した会社は、結局、計画未完のまま、1912年に倒産してしまった。

その後、経営体はアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway を含めて何度か交替するものの、クリル以西の延伸については長らく手付かずのままだった(下注)。1940年に鉄道が国有化されたことで、ようやく翌年から国営事業として工事が再開されることになる。

*注 アメリカとメキシコ区間の接続も遅れ、最後の空隙だったアルパイン Alpine から国境のプレシディオ Presidio の間が1930年に完成している。

海側では、線路がすでにエル・フエルテ El Fuerte の先まで延びていたので、クリルとの間に残されていたのは約280kmに過ぎなかった。ただし、一方は海岸低地、一方は山脈の肩に位置しており、標高差は2,300m以上もある。そのため、後で見る通り、2点をつなぐルートは非常に複雑で、足掛け20年にわたる長期の工事となった。ルイス・コルティネス Ruíz Cortines 大統領臨席のもと、国民待望の開通式が1961年11月 24日に挙行され、最初の構想から80年の長い時を経て、ついに峡谷を越える新たな交通路が日の目を見たのだ。

地下鉄とライトレールを除くと、今やメキシコで定期旅客列車を運行しているのは、この鉄道が唯一だそうだ。それで「チェペトレイン(スペイン語でトレン・チェペ Tren Chepe)」は、峡谷を訪れる観光客はもとより、地元住民にとっても大切な交通手段になっているらしい。2015年のダイヤによれば、旅客列車はチワワ~ロス・モチス Los Mochis 間653.1kmで、プリメラ・エクスプレス Primera Express(1等急行) が毎日1往復、クラセ・エコノミカ Clase Económica(普通列車)が週3往復設定されている。

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目立つロゴを配したチェペトレイン
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ロス・モチス駅の出札窓口は列車別

1等急行でも朝6時の出発で、終点に到着するのは夜の20時半から21時前という所要14~15時間の長旅だ。そのため、ハイライト区間のみを利用するツアー客が多い。一方、普通列車は、地元住民のために主要駅のほか50以上あるフラッグストップでも乗降を扱い、乗り通すなら1時間ほど余計にかかる。どちらも途中のディビサデロ Divisadero で、乗客が峡谷の眺望を楽しめるよう、15~20分の長い停車がある。

1等急行の編成は、定員64人の空調つき客車2~3両と食堂車1両だ。普通列車も同じ収容力の客車を使うが、食堂車は付随せず、代わりに売店がある。1等急行の運賃は普通の2倍近くするのだが、食事代は含まれておらず、普通に対する優位性はあまり高くない。それで普通列車のほうに人気が集まり、選択肢が1等しか残っていないこともしばしばある、と旅行書ロンリー・プラネットは注意を促している。

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1等急行車内
(左)リクライニングシートが並ぶ客車 (右)食堂車は木を使った暖かみのある内装

そのチワワ太平洋鉄道のルートだが、通過する地形を基準にすると、大きく3つに区分できるだろう。チワワ側から言えば、一つ目はチワワ~クリル間、メキシコ高原から西シエラマドレ山脈の東斜面をゆっくり上っていく約300kmだ。乾燥した盆地といくらか潤いのある溪谷が交互に現れ、その間に標高は1,400mから2,400mまで上昇する。

当区間は開通が1907年と早かったので、国営化後に路盤改良やレールの重軌条化が施工されており、線形を良くするために一部でルート変更も行われた。中でも規模の大きなものは、クリルの手前(東方)に造られた長さ1,260mのコンチネンタルトンネル Túnel Continental だ。旧線は、大陸分水嶺でもあるこの峠を25‰勾配と数か所のオメガループで乗り越えていたが、新トンネルの完成により勾配は20‰に緩和、距離も約3km短縮された。

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第一区間は高原に広がる盆地と渓谷が交互に現れる

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1:1,000,000(100万分1)地形図で見るチワワ太平洋鉄道のルート
第一区間のうち、チワワ~サン・ファニート、太字の駅名は1等急行停車駅

二つ目は、最終開通区間とも重なっている。クリルを出発して、山脈の西斜面を滑り降り、路線最長の橋梁でフエルテ川を渡るまでの約220kmだ。ここで鉄道は、スパイラル(日本でいうループ線)やテモリス Témoris にある3段ループ、さらには多数のトンネルと橋梁を連ねて、地形の障壁に立ち向かう。ディビサデロでの眺望チャンスを含めて、全線のハイライト区間であるのは疑いない。

下の地図でわかるとおり、ルート設定は非常に巧妙だ。鉄道を敷くには険しすぎるコッパー・キャニオンの本体には、実は一度も足を踏み入れていない。クリルからは、まず南西へ延びる尾根の上をたどる。それから、比較的浸食度が浅いセプテントリオン川 Río Septentrión の谷にとりつき、この中を終始下りていくのだ。貨物列車の走行を考えると、線路勾配は最大でも25‰に抑える必要がある。そのため、急流部では高度を稼ぐために何度も折り返しているのだが、それでもコッパー・キャニオンの懸崖と格闘することを思えば、はるかに通過は容易だっただろう。

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第二区間、テモリスの大規模ループを見下ろす
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第二区間、峡谷の入口にあるウィテスダムの湖面

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第一区間終端~第二区間:サン・ファニート~フエルテ川橋梁

三つ目は、トポロバンポで最終的に海に出会うまで、太平洋岸低地を淡々と走る160kmの道のりだ。エル・フエルテまでは起伏のある灌木林を縫っていくが、その先は一面の平野が広がっている。なお、旅客列車はトポロバンポまでは達せず、20km手前の主要都市ロス・モチスが終点になる。

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第三区間は、丘陵そして平野をひた走る

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第三区間:フエルテ川橋梁~トポロバンポ
以上3図は、米国国防地図局 DMA 発行 ONC H-23(1988年改訂)、H-22(1974年改訂)を使用
images from University of Texas at Austin Perry-Castañeda Library collection

折しも海側ロス・モチスからチワワまで、山を上っていく列車の車窓写真を提供いただいた。それをもとに次回、チワワ太平洋鉄道の机上旅行を楽しんでみたい。

写真はすべて、2016年10月に現地を訪れた海外鉄道研究会の田村公一氏から提供を受けたものだ。ご好意に心から感謝したい。

■参考サイト
チワワ太平洋鉄道(公式サイト) http://www.chepe.com.mx/
ロンリー・プラネット-コッパー・キャニオンとチワワ太平洋鉄道
https://www.lonelyplanet.com/mexico/the-copper-canyon-ferrocarril-chihuahua-pacifico

本稿は、Glenn Burgess and Don Burgess "Sierra Challenge - The Construction of the Chihuahua al Pacífico Railroad" Barranca Press, 2014、"Maps and Guide to the Chihuahua-Pacific Railroad" International Map Co., 2008 および参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

★本ブログ内の関連記事
 メキシコ チワワ太平洋鉄道 II-ルートを追って

2016年12月 4日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II

第一次世界大戦の戦後処理では、ベルギーが最後まで主権の行使にこだわったフェン鉄道だが、その後どのように使われたのだろうか。

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レートゲン(レートヘン)駅、ザンクト・フィート方向(2008年)
Photo by Les Meloures from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

まず軍用面では、荷主がベルギー軍に代わったものの、ドイツから接収したエルゼンボルン Elsenborn 演習場に向けて、最寄りのズールブロット Sourbrodt 駅まで、軍用列車が引き続き運行された。ズールブロットから3km離れたキャンプまでは、軌間600mmの道端軌道が延びていた。また、これまでと違って、貨物列車がオイペン Eupen 方面から来るようになったため、ラーレン Raeren 駅での折返しの手間を省く目的で、同駅西方に駅構内をバイパスする連絡線が設けられた。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線

その一方、産業鉄道としての役割は、大戦後の国内外における情勢の変化のために大きな打撃を受けた。そもそも鉄道が通過する地域はほとんどが山間部で、域内の輸送需要は限られている。主要顧客は、北と南の鉱工業地帯を発着する通過貨物だった。ところが南部では、ロレーヌ(ロートリンゲン)がフランスに返還されてしまい、ルクセンブルクもドイツとの関税同盟を離脱して、フランスへの依存を強めていった。何度も税関を通らなければならない貨物輸送は、とうてい現実的ではなかった。1926年には優良顧客であったアーヘン郊外ローテ・エルデ Rothe Erde の製鉄所も閉鎖された。

1929年に起こった世界恐慌とそれに続くナチズムの台頭は、通行量のさらなる衰退を招くことになった。ドイツ領沿いの区間では、ナチの信奉者による妨害が多発し、軍用列車も安全のために迂回を強いられた。過剰な設備を維持する意味が薄れ、ベルギー国鉄は1937~38年にかけて、ラーレン以南の単線化に踏み切った。

1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。1940年5月、ドイツによるベルギー再占領と同時に、東部地方はドイツに強制併合された。フェン鉄道の運行権も同年6月にドイツ国営鉄道 Deutsche Reichsbahn の手に渡り、フランスやベルギーに駐留する軍隊の補給路として利用された。30年前の事態の再来だった。

ドイツの敗色が濃くなった1944~45年の冬、濃霧が支配する高地の気候を利用して、ドイツ最後の反撃といわれるバルジの戦いがこの地方で仕掛けられた。しかし結果は失敗に終わり、戦場となったフェン鉄道沿線では、後退するドイツ軍と進攻する連合軍の双方によって、鉄道施設が甚大な被害を蒙った。中でも鉄道橋は、1か所を残してすべて通行妨害の目的で壊されたといわれる。

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破壊された高架橋(ビュートゲンバッハ付近)
Photo from wikimedia

ドイツ軍の撤退後、順次復旧工事が進められたものの、運行再開は1947年までずれ込んだ。また、トンネル内部が崩壊した南のロンマースヴァイラー Lommersweiler ~ロイラント Reuland 間や、1910年代に軍事目的で建設された一部の支線は放棄され、二度と列車が走ることがなかったのだ。

産業路線から国威を発揚する政治路線へ、そして軍事路線へと時代の要請に黙々と応えてきたフェン鉄道であるが、第二次大戦後はその存在理由をほとんど失ってしまう。自動車が陸上交通の主流となった1950年代以降、地方の鉄道路線に降りかかった運命はどれも似たようなものだ。とりわけフェン鉄道にとって致命的だったのは、国境地帯に沿って延びているために貨客の流動方向に合わないことだった。

飛び地を従えたラーレン~カルターヘルベルク Kalterherberg 間では、定期の旅客列車はついに設定されなかった。貨物列車のほうは、各駅を回る便が週3回のペースで細々と存続した。レートゲン(レートヘン)Roetgen で材木や肥料が、ランマースドルフで調理用ストーブ工場からの製品が積出されるなど、控えめながら安定した物流が残っていたのだ。ベルギー軍もまた、演習場最寄りのズールブロットを発着する軍用列車を走らせていた。1974年に発効した両国間の新たな協定では、この区間で貨物の取扱いを引き続き実施することが確認される一方で、旅客列車の運行は特別な場合に限定された。すなわち、双方に定期旅客輸送を復活させる意思がないことを前提に、1922年の合意事項を簡素化したのだった。

しかし、この協定の効力も長くは続かなかった。線路状態の劣化がかなり進行しており、ベルギー国鉄SNCBが、今後の運行継続は困難であると表明したからだ。ズールブロットへの軍用列車は南回りで代替することになり、1988年8月限りで運行を終えた。民生用の定期貨物も1989年6月限りで姿を消した。そして1990年、用済みとなったラーレン~ズールブロット間の土地施設は、国鉄から地元自治体に移管されてしまった。すでにウェーム Waimes(ヴァイスメス Weismes)から南の区間は1982年までに廃止済みで、1986年に線路も撤去されていた。この結果、フェン鉄道「本線」の営業は、後述するラーレン以北の存続区間を除くと、トロワ・ポン Trois-Ponts 方面に接続するズールブロット~ウェーム間、わずか12.4kmの断片と化してしまった。

なお、この時点でラーレン以北が廃止を免れた理由は、別の役割が与えられていたためだった。ベルギーのアントヴェルペン Antwerpen 港に陸揚げされ、ドイツに運ばれる大型軍用車両などの例外的な貨物の通路としての役割だ。ベルギーからアーヘンに至る路線は別に2本あるのだが、どちらも両国国境の下をトンネルで抜けており、大型貨物は建築限界に抵触するため通行が不可能だった。そこで、遠回りにはなるがトンネルのないフェン鉄道が利用されていたのだ。

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ボッツェラールトンネルの4線軌条

しかしまもなく、2本の別ルートのうち、モンツェン Montzen ~アーヘン西駅 Aachen West ルートにあるボッツェラールトンネル Botzelaer Tunnel(ドイツではゲンメニッヒトンネル Gemmenich Tunnel と呼ぶ。長さ870m)で改良工事が開始された。もともとトンネル内部は複線だったが、アーヘン方向のみ、天井の高い中心部に寄せて、特殊貨物専用の第3の線路が増設されたのだ。この4線軌条化により、トンネル内部は6本のレールが並ぶ一種のガントレット(単複線)になった。トンネルの入口に第3の線路への分岐があり、ここから列車が進入すると、通行に支障する対向の線路には停止信号が出る。1991年にこの施設が完成したことで、オイペン~ラーレン~国境間もまた存在理由を失ってしまった。

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ボッツェラールトンネル
(左)ポータルの直前で左の線路から特殊貨物用線路が分岐
(右)内部は6本のレールが並ぶ
Photo by Wi1234 from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

フェン鉄道廃止年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ブラント Brand :1984年8月31日
・ラーレン Raeren ~ズールブロット Sourbrodt :1989年6月30日
・ズールブロット Sourbrodt ~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes):2007年1月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1982年9月28日
・ザンクト・フィート~ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~シュタイネブルック Steinebruck :1954年

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー~ロイラントReuland:1944年
・ロイラント~トロワヴィエルジュTroisvierges:1962年

【支線】
・シュトールベルク=ミューレ Stolberg-Mühle ~ヴァールハイム=シュミットホフ Walheim-Schmithof :1991年6月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :2007年1月1日

なお、日付は最後の営業日、運行廃止日、法的廃止日が混在している可能性がある。

飛び地を巡るルートは、これによって永遠に草むらに埋もれてしまったのだろうか。いや、そうではない。フェン鉄道がなしえた最後の貢献、それはこの地方に観光客を呼び寄せるシンボルになることだった。国鉄による路線廃止の意向を受けて、ベルギーのドイツ語共同体を包括する地方政府が、保存鉄道への転換を図ろうとしたのだ。

欧州地域開発基金 ERDF からの交付金を得て線路が再整備され、1990年からベルギーのフェン鉄道協会 belgische Vennbahn V.o.E. の手で、観光列車の運行が開始された。5月から10月の日祝日に、国鉄の定期旅客列車が通じているオイペン Eupen を始発駅として、ラーレン、ヴァイヴェルツまで進み、東のビュリンゲン Büllingen もしくは西のマルメディ、トロワ・ポン Trois-Ponts に達するコースだった。ディーゼル機関車のほかに蒸気機関車も登場して、いっとき人気を博した。1994年にはドイツ側のフェン鉄道協会 deutsche Vennbahn e.V. によるシュトールベルク Stolberg ~ラーレン~モンシャウ間の運行も始まった。

ところが、沿線にあったプロイセン時代の地下坑道の崩壊で、路盤が一部不安定になっていることが明らかになり、協会の資金不足も手伝って、2001年をもってこのイベントは幕を閉じる。その後しばらく鉄道施設は放置されていたが、2007年、ついにこの区間の線路を撤去し、他の廃線跡とともにワロン地域の遊歩道ネットワーク RAVeL, Réseau autonome de voies lentes に組み込むことが発表された。

こうして、時代に翻弄され続けたフェン鉄道の苦難の歩みは、過去の記憶となった。線路敷のベルギー領土はそのまま残されているが、シェンゲン協定によって国境の検問が不要となり、標石以外に両国の国境であることを示すものはない。すでにラーレン~カルターヘルベルク間の敷地は整備され、林や野を縫う静かな遊歩道に姿を変えている。一方、カルターヘルベルク~ズールブロット間7.1kmはレールが残され、現地でレールバイク Railbike と呼ぶ軌道自転車(ドライジーネ Draisine)を使った体験ツアーが催されている。今ではこれが、ありし日のフェン鉄道をしのぶ数少ない手がかりだ。

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レールバイクが並ぶカルターヘルベルク旧駅
Photo by L.1951a from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。記事では、Bernhard David "Die Vennbahn", Lokrundschau #195, pp.46-51、および参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版、フランス語版の記事(Vennbahn, Vennquerbahn)を参照した。

■参考サイト
Vennbahn Online http://www.vennbahn.de/
The Vennbahn: Belgium’s railway through Germany
http://www.avoe05.dsl.pipex.com/be_venn.htm
Eisenbahnen in Aachen und der Euregio Maas-Rhein
http://www.vonderruhren.de/aachenbahn/
Vennbahn.eu http://www.vennbahn.eu/
Rail Bike des Hautes Fagnes http://www.railbike.be/

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 ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

2016年11月27日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

ドイツとベルギーが接する地域の詳しい地図を眺めた人は、奇妙な国境線が引かれているのに気づくだろう。下の地図はベルギー官製1:50,000地形図の一部だ。縦に走る+(プラス)記号の列が両国の国境線で、左側がベルギー領、右側がドイツ領になる。

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ドイツ側へブーメラン状に割り込むベルギー領
ベルギー官製1:50,000地形図 35-43 Gemmenich-Limbourg 1988年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016

鉄道は、日本のJR記号と同じ白黒の旗竿で描かれているが、図の中央でベルギー側からドイツ領内に割り込んでいったかと思うと、ブーメランのような軌跡を描いて戻ってくる。これは地形の起伏を避けて迂回しているのだが、奇妙なことに、ドイツにはみ出した部分は、終始両側に国境線の記号を伴っている。つまりここは、鉄道敷地だけがベルギー領なのだ。そのため、この回廊にブロックされる形で、ドイツの領土は「本土」から切り離されて飛び地になっている。飛び地はまだ南方にも続き、全部で5か所存在する。

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この不思議な回廊は、もとはプロイセン(当時すでにドイツ帝国の一部)の鉄道の線路敷だった。それが、第一次世界大戦後の国境を画定する際に、ベルギーの強い主張で帰属が変えられた経緯を持っている。

鉄道は、強風と冷たい霧雨が襲う森と湿原の国境地帯、ホーエス・フェン Hohes Venn(高フェンあるいはフェン高地)を越えていく。ドイツ語でフェンバーン Vennbahn(フェン鉄道)と呼ばれるのはそのためだ。それにしてもなぜ、ベルギーは鉄道の敷地の取得にこだわったのだろうか。その理由を理解するには、この鉄道路線に託された使命が何であったか、そして時代とともにそれがどのように変化していったのかを追跡する必要があるだろう。

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1919年以前のフェン鉄道と旧国境線
表示した他の路線は当時未完成のものを含む

ともすれば飛び地の区間にスポットが当てられがちだが、1882年に認可を得たフェン鉄道の計画は、アーヘン Aachen とアイフェル Eifel 地方のプリュム Prüm を結ぶ、延長100km以上の大規模な路線だった。本線に加えて北部地域で、ラーレン Raeren からオイペン Eupen に至る支線、ヴァールハイム Walheim からシュトールベルク Stolberg に至る支線が付随していた。

次いで、ルクセンブルク政府との協定により、同国のトロワヴィエルジュ Troisvierges(ドイツ語ではウルフリンゲン Ulflingen)に至る連絡線が追加された。後に、近傍の町への支線も建設されて、一帯のネットワークが形成されていった。右図に、一帯の鉄道路線図を当時の国境線とともに示したが、フェン鉄道のルートが、ベルギー領内に一切かかっていないことに留意したい。

鉄道は、最小曲線半径300m、最急勾配16.7‰(1/60)で設計された。最初に開通した区間は、アーヘン郊外のローテ・エルデ Rothe Erde からフェン高地の東側にあるモンシャウ Monschau(当時はモンジョワ Montjoie)までで、1885年のことだ。その後、下表のように順次延伸され、1889年にはトロワヴィエルジュで首都ルクセンブルク Luxembourg へ通じる路線に接続を果たして、計画はいったん完了した。

フェン鉄道開通年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ラーレン Raeren ~モンジョワ(モンシャウ) Montjoie (Monschau) :1885年6月30日
・モンジョワ(モンシャウ)~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes) :1885年12月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1887年11月28日
・ザンクト・フィート~ブライアルフ Bleialf :1888年10月1日
・ブライアルフ~プリュム(アイフェル)Prüm (Eifel) :1886年12月15日

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~トロワヴィエルジュ(ウルフリンゲン)Troisvierges (Ulflingen) :1889年11月4日

【支線】
・ヴァールハイム Walheim ~シュトールベルク Stolberg :1889年12月21日
・オイペン Eupen ~ラーレン:1887年8月3日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :1885年12月1日

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フェン横断鉄道 Vennquerbahn のビュートゲンバッハ Bütgenbach 西郊を走る観光列車(2004年)
Photo by Jan Pešula from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

鉄道がひたすら南を目指した理由はほかでもない、北と南にあるドイツ屈指の産業地帯を最短距離で結ぶためだった。貨物列車は、北のアーヘン近郊で産出する石炭やコークスを南のルクセンブルクやロレーヌ地方(当時はドイツ領ロートリンゲン Lothringen)にある製鉄所へ運び、帰路はロレーヌの鉄鉱石や粗鋼をルールの工業地帯などに送り込んだ。輸送量は順調に増加し、産業鉄道としての重要性は年を追うごとに高まった。1894年から複線化が開始されたことがそれを実証している。

ただし、輸送力の増強にはもう一つの隠された意図があった。というのは、普仏戦争(1870~71)以来、ドイツはフランスと常に緊張関係にあり、西部国境線の軍備増強を着々と進めていたからだ。

ドイツの宰相ビスマルクは牽制策として、他国との協調関係を固めることによって、フランスを国際的に孤立させる政策を展開した。しかし、1890年に彼が職を辞した後、情勢は明らかに変化した。フランスはロシアに接近し、1894年に露仏同盟を結んだ。ドイツは、中東政策の対立でロシアとの関係を悪化させるなか、有事の際に東と西の二正面作戦を迫られることを覚悟した。

戦況を有利に導くには、地理的に近い対仏戦をできるだけ短い期間で完結させ、兵力を速やかに対露戦線へ反転させる必要がある。しかし、独仏が直接国境を接するアルザス・ロレーヌ周辺は、フランス側の守備も固く、突破に手間取る可能性が高かった。そこで対仏戦略を定めたシュリーフェン・プランは、軍備の比較的手薄な中立国ベルギーを突破して、北からフランスに迫ろうとしていた。

ベルギー国境に沿って南下するフェン鉄道は、そのための補給路の一部と位置づけられた。複線化と並行して、荷解きのための側線整備や待避線の延長など、軍用列車の運行を想定した駅機能の拡張が実施された。また、1910年代になると、フェン鉄道を軸にした東西方向の連絡支線の整備も急がれるようになった。フェン横断鉄道 Vennquerbahn と通称されるヴァイヴェルツ Weywertz ~ユンケラート Jünkerath 間をはじめ、ヴィエルサルム Vielsalm ~ボルン Born、ザンクト・フィート St Vith ~グーヴィ Gouvy などは、このときに開通したものだ。これらは、初めから複線で建設され、分岐点の多くは本線運行に支障がないよう立体交差とされた。

1914年、ついに第一次世界大戦が勃発する。ドイツ軍はかねての計画に基づいてベルギーに侵攻し、武力占領を開始した。鉄道では、兵士や軍事物資の集中輸送が実施された。30年をかけて築かれたフェン鉄道を中心とする路線網が、面目を果たした時期だった。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線
図中の枠は下の拡大図の範囲を示す

しかし、潜水艦による無差別攻撃などに反応したアメリカの参戦によって、ドイツは守勢に立たされていく。国内の混乱もあって1918年11月、連合軍との休戦協定に署名し、4年に及ぶ戦争は終結した。戦後処理のために1919年6月にヴェルサイユ条約が調印されたが、このことはフェン鉄道の運命を一変させた。第27条によりベルギーとの間の国境線が東に移動し、鉄道の沿線であるオイペン郡 Kreis Eupen とマルメディ郡 Kreis Malmedy がベルギーに帰属することになったからだ。

ベルギーでは新たに獲得した地域を、東部地方 Cantons de l'Est / Ostkantone と呼んだ。新国境はフェン鉄道のヴァールハイム Walheim とラーレン Raeren の間を通ることになったため、両駅は税関をもつ国境駅とされた。

ところが、ルートの北部には、まだドイツ領を通過する区間が残っていた。この帰属が次の課題として浮上したのだ。ヴェルサイユ条約第372条では、同じ国の2つの地域間の連絡鉄道が他国を横断するか、もしくはある国からの支線が他国に終点を持つ場合、稼働の条件は関係する鉄道管理者間の協定で定められるとしていた。したがって、フェン鉄道についても、ドイツ領に残っている区間を含めてベルギー側の運営とすることは可能だった。しかし、ベルギーはさらに踏み込み、条約によって得られた領土の南北を連絡するのだから、この鉄道敷地は自国領になると主張したのだ。

当時は自動車交通も未発達で、鉄道の果たす役割は絶大だった。また、戦争で中立を侵犯されたベルギーは、まだドイツに強い警戒心を持っていた。鉄道の運行を将来にわたって保証するには、敷地に対して主権を行使することが不可欠の条件だったのだ。

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飛び地付近の拡大図
図中の1~5がドイツ領の飛び地

条約の第35条には、経済的要因と交通手段を考慮しながら両国間の新たな境界線を調停する国際調査委員会の設置がうたわれている。鉄道管理者間で協定の条件に関して合意に達することができない場合、先述の第372条で、この委員会がその相違点を裁定するものとしていた。課題の処理を委ねられた委員会は、結局ベルギーの主張を認め、1921年11月に鉄道の敷地はベルギーに割譲されることになった。冒頭で述べたように、地形の起伏の関係で、線路はベルギーに移ったオイペン郡とドイツに残るモンシャウ郡の間を蛇行して走る。そのため、沿線ではドイツの領土が分断されて、いくつもの飛び地が生じた(下注)。

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コンツェン地内の最小飛び地(上の矢印、上図の番号3)と
ベルギー領に囲まれたドイツ領の道路(下の矢印、上図の番号4の上端)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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ドイツ領モンシャウを横断するベルギー領の線路(矢印はモンシャウ旧駅)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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同じ場所のドイツ官製1:50,000
ここでも鉄道(「貨物列車のみ」と注記)が国境記号を伴って描かれる
L5502 Monschau 1988年版
(C) GEObasis.nrw, 2016

*注 1922年に画定された飛び地は、その後、一部で帰属変更が行われた。詳細は以下の通り。

レートゲナー・ヴァルト Roetgener Wald (右図の2、変遷は下左図参照)
1922年11月 国境画定。中央部はベルギー領で、東西にあるドイツ領飛び地は貫通道路(258、399号線)でつながっていた。
1949年4月 貫通道路もベルギー領とされたことで、ドイツ領飛び地は完全に二分。
1958年8月 中央部と横断道路(258号線の西半分と399号線)がドイツに返還。南北道路(258号線の南半分)はベルギー領のままで、国内道路網と接続のない道路となっている。

ヘンメレス Hemmeres (ザンクト・フィートの南方にあった6番目の飛び地。下右図参照)
1922年11月 国境画定で線路用地がベルギー領とされたため、オウル(ウール)川 Our と鉄道に挟まれた土地がドイツ領飛び地に。
1949年4月 飛び地もベルギー領とされたため、ドイツ領飛び地は解消。
1958年8月 鉄道の区間廃止により、飛び地と線路用地がドイツに返還。

レートゲナー・ヴァルト
Roetgener Wald
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ヘンメレスHemmeres
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薄緑の部分が1922年確定のドイツ領
線路はベルギー領のため、西側に飛び地が生じた
地名はヘンマース Hemmers と表記
ドイツ官製1:25,000
3311 St Vith、3312 Bleialf(いずれも1895年版)

異例の措置は、ドイツ側の周辺住民を大いに当惑させた。当該区間には北からレートゲン(レートへン)Roetgen、ランマースドルフ Lammersdorf、コンツェン Konzen、モンシャウ Monschau(1918年にフランス語由来のモンジョワ Montjoie から改称)、カルターヘルベルク Kalterherberg の5つの駅が含まれていた。飛び地となった土地には農地や森林だけでなく、集落も立地している。鉄道の両側に住む者は踏切、すなわち国境を越えて行き来できるのか。アーヘンの産業地帯に通勤する住民は、鉄道を今までどおり利用できるのか、運賃はどの国の通貨で支払うのか。委員会はその調整にさらに1年を費やし、次のように取り決めた。

列車運行に関しては、

・ベルギー国鉄が全ての列車を運行する。
・各駅停車列車は、区間の両端で両国の税関検査を行う。
・通過列車あるいは通過車両は、区間走行中、施錠する(いわゆるコリドーアツーク Korridorzug)。

また、鉄道利用に関しては沿線住民に最大限の配慮を払った。

・鉄道敷地(ベルギー領)の通行や横断に関しては、ベルギーの警察や税関の審査を受けない。
・駅名は(沿線住民の言語である)ドイツ語とする。
・駅窓口に関するドイツの鉄道規則は、ベルギー国鉄でも準用する。
・区間各駅からドイツ国内へ向かう旅行者には、ドイツの国内運賃制度を適用する。
・運賃支払いは両国の通貨が使用できる。
等々。

これらの特別条項を盛り込んだ合意は1922年11月に成立し、フェン鉄道は正式に、北のラーレンから南で再び(新)国境を越えるシュタイネブリュック Steinebrück までが、ベルギー国鉄の路線となった。

続きは次回に。

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。

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2016年11月13日 (日)

イギリスの1:250,000地形図 II-歴史

1:250,000は、図上1cmで実長2.5kmを表す縮尺だ。しかし、そのルーツをたどれば、いわゆる「クォーターインチ地図 Quarter-inch Map」に行き当たる。これは図上1/4インチが実長1マイルに対応するもので、分数表示では1:253,440になる。

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1:250,000 クォーターインチ地図 第5シリーズD版
ハイランズ西部(1978年)の一部(×1.6)
© Crown copyright 2016

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クォーターインチ地図
第4シリーズ表紙
 1948年
image from The Charles Close Society site.

クォーターインチの初版刊行は、1888年のことだ。すでに1859年から1マイル1インチ図(1:63,360)をもとに編集作業が着手されていたのだが、情報量の不足から完成が遅れていた。しかもこの第1シリーズはデザイン、内容とも不評で、途中で改訂版である第2シリーズに切り替えられて、ようやく1918年に全土21面が揃った。

続いて1919年に始まった第3シリーズでは、精度の低いぼかし(陰影)に代えて、段彩を施した200フィート(61m)間隔の等高線が用いられ、道路網が太く強調された。下図でご覧のとおり、クォーターインチ図式の骨格はここで確立され、その後実に70年以上にわたって各シリーズに受け継がれていく。

1934年からの第4シリーズ全19面では、森林に緑色が配されるとともに、自動車旅行の一般化に呼応して、車内で扱いやすいように縦長の折図として販売されるようになった(右写真)。

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クォーターインチ地図 第3シリーズの例 図番4、右図は一部拡大(×2.0)
image from The Charles Close Society site.

現行版に直接つながるのは、第二次大戦後の1957年に始まる第5シリーズだ。というのも、ここで初めて他の欧米諸国に歩調を合わせて、縮尺が1:250,000に変更されたからだ(下注)。しかし、実際の縮尺の変化は小さかったので、シリーズの名称はクォーターインチ地図のままとされた。つまり、伝統的な測量単位(帝国単位)を名乗りながらも、中身はメートル系に置き換えられていたわけだ。全土を17面でカバーするこのシリーズは、1970年代まで改訂を加えながら刊行が続けられた。表紙のデザインは、他の縮尺と同様、途中で大きく変わったが(下写真)、1インチ地図の赤表紙に対して、青表紙とされた点は共通している。

*注 地図の縮尺表示には「1:250,000またはおよそ4マイル1インチ」と記された。

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クォーターインチ地図 第5シリーズ表紙
(左)A版、1962年 (中)C版、1966年 (右)D版、1978年

地勢表現には、さらに磨きがかけられた。段彩(高度別着色)は、低地では薄いミントグリーンだが、200フィートでクリームイエローに変わり、高度が上がるにつれて黄系から濃い茶系へと変化していく。それで、平地の多い図葉には爽やかな空間が広がる一方で、山地の卓越する図葉では険しい地勢が強調される。さらに、森林を表す明るいアップルグリーンの塗りが適度なアクセントを添える。

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クォーターインチ地図 第5シリーズの異版を比較。後の版ほど彩色の明度が向上する
(左)A版、クライド湾 1962年 (右)D版、ハイランド西部 1978年
© Crown copyright 2016

初期は暗めの色調だったが、版を重ねるごとに明度が上がり、美しい見栄えになっていった。実際に今年(2016年)、OS創設225周年を記念して出版された特別図「ハイランド西部 Western Highlands」で、第5シリーズ(D版、1967年、下注)がベースに採用されたことでも、その完成度の高さが窺える。

*注 同一シリーズ中の版 Edition の区別は長らく、Aから始まるアルファベットで(マイナーな改訂はアルファベットに数字を添えて、例:A2)、地図のコピーライト表示の近くに記されていた。ただし、2015年6月から、歴年表示のみに切り替えられている。

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ルートマスター表紙 1978年

長年親しまれたクォーターインチ地図だが、1978年に開始された新シリーズで、ついにその名が消える。新名称は、道を識る者というような意味の「ルートマスター Routemaster」とされた。形態の点で旧版と違うのは、地図が両面刷りになったことだ。全土を9面でカバーできるように図郭を拡張するかわりに、それを南北に2分割して、表裏に印刷している。用紙も、直前の旧版のおよそ横82cm×縦75cmに対して、123.5cm×48cmと著しい横長サイズに変わった。

これは縦の折返しをなくし、蛇腹状に畳んで扱いやすくする試みなのだが、ユーザーの反応は意外にも冷たかった。そこで、次の版では、同じ図郭のまま、片面刷りに戻されている。当然、用紙が約2倍大になるため、今度は、車中で使うにはかさばって困るという苦情が寄せられたそうだ。

地図図式にも目立った変化があった。実は第5シリーズでは高地の塗り色が濃くなりすぎて、小道や注記が見分けにくいという声が上がっていた。実際にはこの欠点は改版でかなり改善されていたのだが、ルートマスターではさらに思い切って段彩の色を薄くした。等高線の色も茶系から赤系に変えた。また、道路番号の文字はぼかしにかかる部分に白のマージンをつけるなど、細かい工夫もしている。その結果、両図を並べれば、まったく別の図のように見える(下図参照)。濃色の道路網が効果的に目に飛び込んでくる反面、地勢表現にメリハリが感じられなくなったのもまた事実だ。

なお、このルートマスター版を使って、OSブランドの地図帳「OSイギリス地図帳 Ordnance Survey Atlas of Great Britain」(1982年初版)、「OSイギリス道路地図帳 Ordnance Survey Road Atlas of Great Britain」(1983年初版)も制作されている。

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両者の印象の差は地勢表現の配色の大幅変更によるところが大きい
(左)クォーターインチ地図 第5シリーズC版 ウェールズ北部及びランカシャー 1966年
(右)ルートマスター A版 ウェールズ及びミッドランズ西部 1978年
© Crown copyright 2016

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トラベルマスター表紙 1993年

1993年からはシリーズ名称が、「トラベルマスター Travelmaster」に再び変更された。新名称には、ターゲットを旅行者一般に拡大する意図が込められたようだ。用紙寸法はそのままだが、図郭が一部変更されて、面数は8面に減っている。ただし、1:625,000の全国図がトラベルマスターの図番1に位置づけられたため、1:250,000図葉には2~9番が振られた。また、図面編集がデジタル化され、それに伴って図式も大幅に変更された。この図式が、多少手を加えながら、現在まで引き継がれているものだ。

2001年以降は、小縮尺図や旅行地図(集成図)が「トラベルマップ Travel Maps」の名でグループ化された。その上でシリーズごとの役割を改めて明確化するために、1:250,000は「ロード Road」と命名された(下注)。その際、図番が1~8番に振り直されたため、同じ図郭でもトラベルマスター時代とは1だけ図番がずれている。

*注 1:625,000全国図は「ルート Route」、旅行地図(集成図)は「ツアー Tour」と命名。

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OSロード 表紙 (左)2009年 (右)2016年

そして前回も触れたように、2010年1月の供給中止を迎えることになる。この背景には、当時のOSの組織内事情がある。1990年代に急速に進んだ地図のデジタル化で、広い作業スペースが不要になったため、OSは古い本部施設をたたんで、別の場所に移転する準備を進めていた。付随して、これまで200年以上内製してきた地図の印刷と出荷業務も、外部業者に委託する方針が決まる。ところがその際、見直しの対象に挙げられたのが小縮尺図で、費用対効果が低いとして、1:250,000と1:625,000全国図の刊行の取止めが発表されたのだ。

日本の1:50,000の例を引くまでもなく、印刷物としての地形図の供給見直しは世界的な趨勢だ。その中でむしろOSは、フランス国土地理院(IGN)などとともに、地形図に豊富な旅行情報を盛り込むことで、一般市民への浸透を積極的に図ってきた。そのパイオニアでさえ、時代の流れには逆らえなかったのか、と当時は残念に思ったことだ。それだけに、今回装いも新たに復活したOSロードには期待がかかる。この新地図が、車を運転する人にとどまらず、国土をくまなく知りたいと考える多くの層に受け入れられることを願いたい。

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新版では地勢表現(段彩とぼかし)が改善された
(左)トラベルマスターA版 イングランド南東部 1993年
(右)OSロード イングランド南東部 2016年版
© Crown copyright 2016

本稿は、Tim Owen and Elaine Pilbeam "Ordnance Survey: map makers to Britain since 1791", Ordnance Survey, 1992、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
イギリス陸地測量部(OS) http://www.ordnancesurvey.co.uk/
チャールズ・クロース協会 https://www.charlesclosesociety.org/
The Lez Watson Inexperience - Ordnance Survey Leisure Maps Summary Lists
http://www.watsonlv.net/os-maps.shtml

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