2016年12月 4日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 II

第一次世界大戦の戦後処理では、ベルギーが最後まで主権の行使にこだわったフェン鉄道だが、その後どのように使われたのだろうか。

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レートゲン(レートヘン)駅、ザンクト・フィート方向(2008年)
Photo by Les Meloures from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

まず軍用面では、荷主がベルギー軍に代わったものの、ドイツから接収したエルゼンボルン Elsenborn 演習場に向けて、最寄りのズールブロット Sourbrodt 駅まで、軍用列車が引き続き運行された。ズールブロットから3km離れたキャンプまでは、軌間600mmの道端軌道が延びていた。また、これまでと違って、貨物列車がオイペン Eupen 方面から来るようになったため、ラーレン Raeren 駅での折返しの手間を省く目的で、同駅西方に駅構内をバイパスする連絡線が設けられた。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線
図中の枠は下の拡大図の範囲を示す

その一方、産業鉄道としての役割は、大戦後の国内外における情勢の変化のために大きな打撃を受けた。そもそも鉄道が通過する地域はほとんどが山間部で、域内の輸送需要は限られている。主要顧客は、北と南の鉱工業地帯を発着する通過貨物だった。ところが南部では、ロレーヌ(ロートリンゲン)がフランスに返還されてしまい、ルクセンブルクもドイツとの関税同盟を離脱して、フランスへの依存を強めていった。何度も税関を通らなければならない貨物輸送は、とうてい現実的ではなかった。1926年には優良顧客であったアーヘン郊外ローテ・エルデ Rothe Erde の製鉄所も閉鎖された。

1929年に起こった世界恐慌とそれに続くナチズムの台頭は、通行量のさらなる衰退を招くことになった。ドイツ領沿いの区間では、ナチの信奉者による妨害が多発し、軍用列車も安全のために迂回を強いられた。過剰な設備を維持する意味が薄れ、ベルギー国鉄は1937~38年にかけて、ラーレン以南の単線化に踏み切った。

1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。1940年5月、ドイツによるベルギー再占領と同時に、東部地方はドイツに強制併合された。フェン鉄道の運行権も同年6月にドイツ国営鉄道 Deutsche Reichsbahn の手に渡り、フランスやベルギーに駐留する軍隊の補給路として利用された。30年前の事態の再来だった。

ドイツの敗色が濃くなった1944~45年の冬、濃霧が支配する高地の気候を利用して、ドイツ最後の反撃といわれるバルジの戦いがこの地方で仕掛けられた。しかし結果は失敗に終わり、戦場となったフェン鉄道沿線では、後退するドイツ軍と進攻する連合軍の双方によって、鉄道施設が甚大な被害を蒙った。中でも鉄道橋は、1か所を残してすべて通行妨害の目的で壊されたといわれる。

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破壊された高架橋(ビュートゲンバッハ付近)
Photo from wikimedia

ドイツ軍の撤退後、順次復旧工事が進められたものの、運行再開は1947年までずれ込んだ。また、トンネル内部が崩壊した南のロンマースヴァイラー Lommersweiler ~ロイラント Reuland 間や、1910年代に軍事目的で建設された一部の支線は放棄され、二度と列車が走ることがなかったのだ。

産業路線から国威を発揚する政治路線へ、そして軍事路線へと時代の要請に黙々と応えてきたフェン鉄道であるが、第二次大戦後はその存在理由をほとんど失ってしまう。自動車が陸上交通の主流となった1950年代以降、地方の鉄道路線に降りかかった運命はどれも似たようなものである。とりわけフェン鉄道にとって致命的だったのは、国境地帯に沿って延びているために貨客の流動方向に合わないことだった。

飛び地を従えたラーレン~カルターヘルベルク Kalterherberg 間では、定期の旅客列車はついに設定されなかった。貨物列車のほうは、各駅を回る便が週3回のペースで細々と存続した。レートゲン(レートヘン)Roetgen で材木や肥料が、ランマースドルフで調理用ストーブ工場からの製品が積出されるなど、控えめながら安定した物流が残っていたのだ。ベルギー軍もまた、演習場最寄りのズールブロットを発着する軍用列車を走らせていた。1974年に発効した両国間の新たな協定では、この区間で貨物の取扱いを引き続き実施することが確認される一方で、旅客列車の運行は特別な場合に限定された。すなわち、双方に定期旅客輸送を復活させる意思がないことを前提に、1922年の合意事項を簡素化したのだった。

しかし、この協定の効力も長くは続かなかった。線路状態の劣化がかなり進行しており、ベルギー国鉄SNCBが、今後の運行継続は困難であると表明したからだ。ズールブロットへの軍用列車は南回りで代替することになり、1988年8月限りで運行を終えた。民生用の定期貨物も1989年6月限りで姿を消した。そして1990年、用済みとなったラーレン~ズールブロット間の土地施設は、国鉄から地元自治体に移管されてしまった。すでにウェーム Waimes(ヴァイスメス Weismes)から南の区間は1982年までに廃止済みで、1986年に線路も撤去されていた。この結果、フェン鉄道「本線」の営業は、後述するラーレン以北の存続区間を除くと、トロワ・ポン Trois-Ponts 方面に接続するズールブロット~ウェーム間、わずか12.4kmの断片と化してしまった。

なお、この時点でラーレン以北が廃止を免れた理由は、別の役割が与えられていたためだった。ベルギーのアントヴェルペン Antwerpen 港に陸揚げされ、ドイツに運ばれる大型軍用車両などの例外的な貨物の通路としての役割だ。ベルギーからアーヘンに至る路線は別に2本あるのだが、どちらも両国国境の下をトンネルで抜けており、大型貨物は建築限界に抵触するため通行が不可能だった。そこで、遠回りにはなるがトンネルのないフェン鉄道が利用されていたのだ。

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ボッツェラールトンネルの4線軌条

しかしまもなく、2本の別ルートのうち、モンツェン Montzen ~アーヘン西駅 Aachen West ルートにあるボッツェラールトンネル Botzelaer Tunnel(ドイツではゲンメニッヒトンネル Gemmenich Tunnel と呼ぶ。長さ870m)で改良工事が開始された。もともとトンネル内部は複線だったが、アーヘン方向のみ、天井の高い中心部に寄せて、特殊貨物専用の第3の線路が増設されたのだ。この4線軌条化により、トンネル内部は6本のレールが並ぶ一種のガントレット(単複線)になった。トンネルの入口に第3の線路への分岐があり、ここから列車が進入すると、通行に支障する対向の線路には停止信号が出る。1991年にこの施設が完成したことで、オイペン~ラーレン~国境間もまた存在理由を失ってしまった。

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ボッツェラールトンネル
(左)ポータルの直前で左の線路から特殊貨物用線路が分岐
(右)内部は6本のレールが並ぶ
Photo by Wi1234 from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

フェン鉄道廃止年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ブラント Brand :1984年8月31日
・ラーレン Raeren ~ズールブロット Sourbrodt :1989年6月30日
・ズールブロット Sourbrodt ~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes):2007年1月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1982年9月28日
・ザンクト・フィート~ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~シュタイネブルック Steinebruck :1954年

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー~ロイラントReuland:1944年
・ロイラント~トロワヴィエルジュTroisvierges:1962年

【支線】
・シュトールベルク=ミューレ Stolberg-Mühle ~ヴァールハイム=シュミットホフ Walheim-Schmithof :1991年6月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :2007年1月1日

なお、日付は最後の営業日、運行廃止日、法的廃止日が混在している可能性がある。

飛び地を巡るルートは、これによって永遠に草むらに埋もれてしまったのだろうか。いや、そうではない。フェン鉄道がなしえた最後の貢献、それはこの地方に観光客を呼び寄せるシンボルになることだった。国鉄による路線廃止の意向を受けて、ベルギーのドイツ語共同体を包括する地方政府が、保存鉄道への転換を図ろうとしたのだ。

欧州地域開発基金 ERDF からの交付金を得て線路が再整備され、1990年からベルギーのフェン鉄道協会 belgische Vennbahn V.o.E. の手で、観光列車の運行が開始された。5月から10月の日祝日に、国鉄の定期旅客列車が通じているオイペン Eupen を始発駅として、ラーレン、ヴァイヴェルツまで進み、東のビュリンゲン Büllingen もしくは西のマルメディ、トロワ・ポン Trois-Ponts に達するコースだった。ディーゼル機関車のほかに蒸気機関車も登場して、いっとき人気を博した。1994年にはドイツ側のフェン鉄道協会 deutsche Vennbahn e.V. によるシュトールベルク Stolberg ~ラーレン~モンシャウ間の運行も始まった。

ところが、沿線にあったプロイセン時代の地下坑道の崩壊で、路盤が一部不安定になっていることが明らかになり、協会の資金不足も手伝って、2001年をもってこのイベントは幕を閉じる。その後しばらく鉄道施設は放置されていたが、2007年、ついにこの区間の線路を撤去し、他の廃線跡とともにワロン地域の遊歩道ネットワーク RAVeL, Réseau autonome de voies lentes に組み込むことが発表された。

こうして、時代に翻弄され続けたフェン鉄道の苦難の歩みは、過去の記憶となった。線路敷のベルギー領土はそのまま残されているが、シェンゲン協定によって国境の検問が不要となり、標石以外に両国の国境であることを示すものはない。すでにラーレン~カルターヘルベルク間の敷地は整備され、林や野を縫う静かな遊歩道に姿を変えている。一方、カルターヘルベルク~ズールブロット間7.1kmはレールが残され、現地でレールバイク Railbike と呼ぶ軌道自転車(ドライジーネ Draisine)を使った体験ツアーが催されている。今ではこれが、ありし日のフェン鉄道をしのぶ数少ない手がかりだ。

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レールバイクが並ぶカルターヘルベルク旧駅
Photo by L.1951a from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。記事では、Bernhard David "Die Vennbahn", Lokrundschau #195, pp.46-51、および参考サイトに挙げたウェブサイト、Wikipediaドイツ語版、フランス語版の記事(Vennbahn, Vennquerbahn)を参照した。

■参考サイト
Vennbahn Online http://www.vennbahn.de/
The Vennbahn: Belgium’s railway through Germany
http://www.avoe05.dsl.pipex.com/be_venn.htm
Eisenbahnen in Aachen und der Euregio Maas-Rhein
http://www.vonderruhren.de/aachenbahn/
Vennbahn.eu http://www.vennbahn.eu/
Rail Bike des Hautes Fagnes http://www.railbike.be/

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 ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

2016年11月27日 (日)

ベルギー フェン鉄道-飛び地を従えた鉄道の歴史 I

ドイツとベルギーが接する地域の詳しい地図を眺めた人は、奇妙な国境線が引かれているのに気づくだろう。下の地図はベルギー官製1:50,000地形図の一部だ。縦に走る+(プラス)記号の列が両国の国境線で、左側がベルギー領、右側がドイツ領になる。

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ドイツ側へブーメラン状に割り込むベルギー領
ベルギー官製1:50,000地形図 35-43 Gemmenich-Limbourg 1988年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016

鉄道は、日本のJR記号と同じ白黒の旗竿で描かれているが、図の中央でベルギー側からドイツ領内に割り込んでいったかと思うと、ブーメランのような軌跡を描いて戻ってくる。これは地形の起伏を避けて迂回しているのだが、奇妙なことに、ドイツにはみ出した部分は、終始両側に国境線の記号を伴っている。つまりここは、鉄道敷地だけがベルギー領なのだ。そのため、この回廊にブロックされる形で、ドイツの領土は「本土」から切り離されて飛び地になっている。飛び地はまだ南方にも続き、全部で5か所存在する。

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この不思議な回廊は、もとはプロイセン(当時すでにドイツ帝国の一部)の鉄道の線路敷だった。それが、第一次世界大戦後の国境を画定する際に、ベルギーの強い主張で帰属が変えられた経緯を持っている。

鉄道は、強風と冷たい霧雨が襲う森と湿原の国境地帯、ホーエス・フェン Hohes Venn(高フェンあるいはフェン高地)を越えていく。ドイツ語でフェンバーン Vennbahn(フェン鉄道)と呼ばれるのはそのためだ。それにしてもなぜ、ベルギーは鉄道の敷地の取得にこだわったのだろうか。その理由を理解するには、この鉄道路線に託された使命が何であったか、そして時代とともにそれがどのように変化していったのかを追跡する必要があるだろう。

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1919年以前のフェン鉄道と旧国境線
表示した他の路線は当時未完成のものを含む

ともすれば飛び地の区間にスポットが当てられがちだが、1882年に認可を得たフェン鉄道の計画は、アーヘン Aachen とアイフェル Eifel 地方のプリュム Prüm を結ぶ、延長100km以上の大規模な路線だった。本線に加えて北部地域で、ラーレン Raeren からオイペン Eupen に至る支線、ヴァールハイム Walheim からシュトールベルク Stolberg に至る支線が付随していた。

次いで、ルクセンブルク政府との協定により、同国のトロワヴィエルジュ Troisvierges(ドイツ語ではウルフリンゲン Ulflingen)に至る連絡線が追加された。後に、近傍の町への支線も建設されて、一帯のネットワークが形成されていった。右図に、一帯の鉄道路線図を当時の国境線とともに示したが、フェン鉄道のルートが、ベルギー領内に一切かかっていないことに留意したい。

鉄道は、最小曲線半径300m、最急勾配16.7‰(1/60)で設計された。最初に開通した区間は、アーヘン郊外のローテ・エルデ Rothe Erde からフェン高地の東側にあるモンシャウ Monschau(当時はモンジョワ Montjoie)までで、1885年のことだ。その後、下表のように順次延伸され、1889年にはトロワヴィエルジュで首都ルクセンブルク Luxembourg へ通じる路線に接続を果たして、計画はいったん完了した。

フェン鉄道開通年表(北からルート順に記載)

・アーヘン=ローテ・エルデ Aachen-Rothe Erde ~ラーレン Raeren ~モンジョワ(モンシャウ) Montjoie (Monschau) :1885年6月30日
・モンジョワ(モンシャウ)~ヴァイスメス(ウェーム)Weismes (Waimes) :1885年12月1日
・ヴァイスメス(ウェーム)~ザンクト・フィート St. Vith :1887年11月28日
・ザンクト・フィート~ブライアルフ Bleialf :1888年10月1日
・ブライアルフ~プリュム(アイフェル)Prüm (Eifel) :1886年12月15日

【ルクセンブルク連絡線】
・ロンマースヴァイラー Lommersweiler ~トロワヴィエルジュ(ウルフリンゲン)Troisvierges (Ulflingen) :1889年11月4日

【支線】
・ヴァールハイム Walheim ~シュトールベルク Stolberg :1889年12月21日
・オイペン Eupen ~ラーレン:1887年8月3日
・ヴァイスメス(ウェーム)~マルメディ Malmédy :1885年12月1日

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フェン横断鉄道 Vennquerbahn のビュートゲンバッハ Bütgenbach 西郊を走る観光列車(2004年)
Photo by Jan Pešula from wikimedia. License: CC BY-SA 3.0

鉄道がひたすら南を目指した理由はほかでもない、北と南にあるドイツ屈指の産業地帯を最短距離で結ぶためだった。貨物列車は、北のアーヘン近郊で産出する石炭やコークスを南のルクセンブルクやロレーヌ地方(当時はドイツ領ロートリンゲン Lothringen)にある製鉄所へ運び、帰路はロレーヌの鉄鉱石や粗鋼をルールの工業地帯などに送り込んだ。輸送量は順調に増加し、産業鉄道としての重要性は年を追うごとに高まった。1894年から複線化が開始されたことがそれを実証している。

ただし、輸送力の増強にはもう一つの隠された意図があった。というのは、普仏戦争(1870~71)以来、ドイツはフランスと常に緊張関係にあり、西部国境線の軍備増強を着々と進めていたからだ。

ドイツの宰相ビスマルクは牽制策として、他国との協調関係を固めることによって、フランスを国際的に孤立させる政策を展開した。しかし、1890年に彼が職を辞した後、情勢は明らかに変化した。フランスはロシアに接近し、1894年に露仏同盟を結んだ。ドイツは、中東政策の対立でロシアとの関係を悪化させるなか、有事の際に東と西の二正面作戦を迫られることを覚悟した。

戦況を有利に導くには、地理的に近い対仏戦をできるだけ短い期間で完結させ、兵力を速やかに対露戦線へ反転させる必要がある。しかし、独仏が直接国境を接するアルザス・ロレーヌ周辺は、フランス側の守備も固く、突破に手間取る可能性が高かった。そこで対仏戦略を定めたシュリーフェン・プランは、軍備の比較的手薄な中立国ベルギーを突破して、北からフランスに迫ろうとしていた。

ベルギー国境に沿って南下するフェン鉄道は、そのための補給路の一部と位置づけられた。複線化と並行して、荷解きのための側線整備や待避線の延長など、軍用列車の運行を想定した駅機能の拡張が実施された。また、1910年代になると、フェン鉄道を軸にした東西方向の連絡支線の整備も急がれるようになった。フェン横断鉄道 Vennquerbahn と通称されるヴァイヴェルツ Weywertz ~ユンケラート Jünkerath 間をはじめ、ヴィエルサルム Vielsalm ~ボルン Born、ザンクト・フィート St Vith ~グーヴィ Gouvy などは、このときに開通したものだ。これらは、初めから複線で建設され、分岐点の多くは本線運行に支障がないよう立体交差とされた。

1914年、ついに第一次世界大戦が勃発する。ドイツ軍はかねての計画に基づいてベルギーに侵攻し、武力占領を開始した。鉄道では、兵士や軍事物資の集中輸送が実施された。30年をかけて築かれたフェン鉄道を中心とする路線網が、面目を果たした時期だった。

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1919年以降のフェン鉄道と新国境線
図中の枠は下の拡大図の範囲を示す

しかし、潜水艦による無差別攻撃などに反応したアメリカの参戦によって、ドイツは守勢に立たされていく。国内の混乱もあって1918年11月、連合軍との休戦協定に署名し、4年に及ぶ戦争は終結した。戦後処理のために1919年6月にヴェルサイユ条約が調印されたが、このことはフェン鉄道の運命を一変させた。第27条によりベルギーとの間の国境線が東に移動し、鉄道の沿線であるオイペン郡 Kreis Eupen とマルメディ郡 Kreis Malmedy がベルギーに帰属することになったからだ。

ベルギーでは新たに獲得した地域を、東部地方 Cantons de l'Est / Ostkantone と呼んだ。新国境はフェン鉄道のヴァールハイム Walheim とラーレン Raeren の間を通ることになったため、両駅は税関をもつ国境駅とされた。

ところが、ルートの北部には、まだドイツ領を通過する区間が残っていた。この帰属が次の課題として浮上したのだ。ヴェルサイユ条約第372条では、同じ国の2つの地域間の連絡鉄道が他国を横断するか、もしくはある国からの支線が他国に終点を持つ場合、稼働の条件は関係する鉄道管理者間の協定で定められるとしていた。したがって、フェン鉄道についても、ドイツ領に残っている区間を含めてベルギー側の運営とすることは可能だった。しかし、ベルギーはさらに踏み込み、条約によって得られた領土の南北を連絡するのだから、この鉄道敷地は自国領になると主張したのだ。

当時は自動車交通も未発達で、鉄道の果たす役割は絶大だった。また、戦争で中立を侵犯されたベルギーは、まだドイツに強い警戒心を持っていた。鉄道の運行を将来にわたって保証するには、敷地に対して主権を行使することが不可欠の条件だったのだ。

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飛び地付近の拡大図
図中の1~5がドイツ領の飛び地

条約の第35条には、経済的要因と交通手段を考慮しながら両国間の新たな境界線を調停する国際調査委員会の設置がうたわれている。鉄道管理者間で協定の条件に関して合意に達することができない場合、先述の第372条で、この委員会がその相違点を裁定するものとしていた。課題の処理を委ねられた委員会は、結局ベルギーの主張を認め、1921年11月に鉄道の敷地はベルギーに割譲されることになった。冒頭で述べたように、地形の起伏の関係で、線路はベルギーに移ったオイペン郡とドイツに残るモンシャウ郡の間を蛇行して走る。そのため、沿線ではドイツの領土が分断されて、いくつもの飛び地が生じた(下注)。

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コンツェン地内の最小飛び地(上の矢印、上図の番号3)と
ベルギー領に囲まれたドイツ領の道路(下の矢印、上図の番号4の上端)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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ドイツ領モンシャウを横断するベルギー領の線路(矢印はモンシャウ旧駅)
ベルギー官製1:20,000 43 7-8 Reinartzhof-Hoscheit 2000年版
(C) Institut Géographique National - Bruxelles, 2016
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同じ場所のドイツ官製1:50,000
ここでも鉄道(「貨物列車のみ」と注記)が国境記号を伴って描かれる
L5502 Monschau 1988年版
(C) GEObasis.nrw, 2016

*注 1922年に画定された飛び地は、その後、一部で帰属変更が行われた。詳細は以下の通り。

レートゲナー・ヴァルト Roetgener Wald (右図の2、変遷は下左図参照)
1922年11月 国境画定。中央部はベルギー領で、東西にあるドイツ領飛び地は貫通道路(258、399号線)でつながっていた。
1949年4月 貫通道路もベルギー領とされたことで、ドイツ領飛び地は完全に二分。
1958年8月 中央部と横断道路(258号線の西半分と399号線)がドイツに返還。南北道路(258号線の南半分)はベルギー領のままで、国内道路網と接続のない道路となっている。

ヘンメレス Hemmeres (ザンクト・フィートの南方にあった6番目の飛び地。下右図参照)
1922年11月 国境画定で線路用地がベルギー領とされたため、オウル(ウール)川 Our と鉄道に挟まれた土地がドイツ領飛び地に。
1949年4月 飛び地もベルギー領とされたため、ドイツ領飛び地は解消。
1958年8月 鉄道の区間廃止により、飛び地と線路用地がドイツに返還。

レートゲナー・ヴァルト
Roetgener Wald
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ヘンメレスHemmeres
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薄緑の部分が1922年確定のドイツ領
線路はベルギー領のため、西側に飛び地が生じた
地名はヘンマース Hemmers と表記
ドイツ官製1:25,000
3311 St Vith、3312 Bleialf(いずれも1895年版)

異例の措置は、ドイツ側の周辺住民を大いに当惑させた。当該区間には北からレートゲン(レートへン)Roetgen、ランマースドルフ Lammersdorf、コンツェン Konzen、モンシャウ Monschau(1918年にフランス語由来のモンジョワ Montjoie から改称)、カルターヘルベルク Kalterherberg の5つの駅が含まれていた。飛び地となった土地には農地や森林だけでなく、集落も立地している。鉄道の両側に住む者は踏切、すなわち国境を越えて行き来できるのか。アーヘンの産業地帯に通勤する住民は、鉄道を今までどおり利用できるのか、運賃はどの国の通貨で支払うのか。委員会はその調整にさらに1年を費やし、次のように取り決めた。

列車運行に関しては、

・ベルギー国鉄が全ての列車を運行する。
・各駅停車列車は、区間の両端で両国の税関検査を行う。
・通過列車あるいは通過車両は、区間走行中、施錠する(いわゆるコリドーアツーク Korridorzug)。

また、鉄道利用に関しては沿線住民に最大限の配慮を払った。

・鉄道敷地(ベルギー領)の通行や横断に関しては、ベルギーの警察や税関の審査を受けない。
・駅名は(沿線住民の言語である)ドイツ語とする。
・駅窓口に関するドイツの鉄道規則は、ベルギー国鉄でも準用する。
・区間各駅からドイツ国内へ向かう旅行者には、ドイツの国内運賃制度を適用する。
・運賃支払いは両国の通貨が使用できる。
等々。

これらの特別条項を盛り込んだ合意は1922年11月に成立し、フェン鉄道は正式に、北のラーレンから南で再び(新)国境を越えるシュタイネブリュック Steinebrück までが、ベルギー国鉄の路線となった。

続きは次回に。

本稿は、海外鉄道研究会『ペンデルツーク』No.61(2012年2月)に掲載した同題の記事に、写真と地図を追加したものである。

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2016年11月13日 (日)

イギリスの1:250,000地形図 II-歴史

1:250,000は、図上1cmで実長2.5kmを表す縮尺だ。しかし、そのルーツをたどれば、いわゆる「クォーターインチ地図 Quarter-inch Map」に行き当たる。これは図上1/4インチが実長1マイルに対応するもので、分数表示では1:253,440になる。

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1:250,000 クォーターインチ地図 第5シリーズD版
ハイランズ西部(1978年)の一部(×1.6)
© Crown copyright 2016

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クォーターインチ地図
第4シリーズ表紙
 1948年
image from The Charles Close Society site.

クォーターインチの初版刊行は、1888年のことだ。すでに1859年から1マイル1インチ図(1:63,360)をもとに編集作業が着手されていたのだが、情報量の不足から完成が遅れていた。しかもこの第1シリーズはデザイン、内容とも不評で、途中で改訂版である第2シリーズに切り替えられて、ようやく1918年に全土21面が揃った。

続いて1919年に始まった第3シリーズでは、精度の低いぼかし(陰影)に代えて、段彩を施した200フィート(61m)間隔の等高線が用いられ、道路網が太く強調された。下図でご覧のとおり、クォーターインチ図式の骨格はここで確立され、その後実に70年以上にわたって各シリーズに受け継がれていく。

1934年からの第4シリーズ全19面では、森林に緑色が配されるとともに、自動車旅行の一般化に呼応して、車内で扱いやすいように縦長の折図として販売されるようになった(右写真)。

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クォーターインチ地図 第3シリーズの例 図番4、右図は一部拡大(×2.0)
image from The Charles Close Society site.

現行版に直接つながるのは、第二次大戦後の1957年に始まる第5シリーズだ。というのも、ここで初めて他の欧米諸国に歩調を合わせて、縮尺が1:250,000に変更されたからだ(下注)。しかし、実際の縮尺の変化は小さかったので、シリーズの名称はクォーターインチ地図のままとされた。つまり、伝統的な測量単位(帝国単位)を名乗りながらも、中身はメートル系に置き換えられていたわけだ。全土を17面でカバーするこのシリーズは、1970年代まで改訂を加えながら刊行が続けられた。表紙のデザインは、他の縮尺と同様、途中で大きく変わったが(下写真)、1インチ地図の赤表紙に対して、青表紙とされた点は共通している。

*注 地図の縮尺表示には「1:250,000またはおよそ4マイル1インチ」と記された。

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クォーターインチ地図 第5シリーズ表紙
(左)A版、1962年 (中)C版、1966年 (右)D版、1978年

地勢表現には、さらに磨きがかけられた。段彩(高度別着色)は、低地では薄いミントグリーンだが、200フィートでクリームイエローに変わり、高度が上がるにつれて黄系から濃い茶系へと変化していく。それで、平地の多い図葉には爽やかな空間が広がる一方で、山地の卓越する図葉では険しい地勢が強調される。さらに、森林を表す明るいアップルグリーンの塗りが適度なアクセントを添える。

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クォーターインチ地図 第5シリーズの異版を比較。後の版ほど彩色の明度が向上する
(左)A版、クライド湾 1962年 (右)D版、ハイランド西部 1978年
© Crown copyright 2016

初期は暗めの色調だったが、版を重ねるごとに明度が上がり、美しい見栄えになっていった。実際に今年(2016年)、OS創設225周年を記念して出版された特別図「ハイランド西部 Western Highlands」で、第5シリーズ(D版、1967年、下注)がベースに採用されたことでも、その完成度の高さが窺える。

*注 同一シリーズ中の版 Edition の区別は長らく、Aから始まるアルファベットで(マイナーな改訂はアルファベットに数字を添えて、例:A2)、地図のコピーライト表示の近くに記されていた。ただし、2015年6月から、歴年表示のみに切り替えられている。

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ルートマスター表紙 1978年

長年親しまれたクォーターインチ地図だが、1978年に開始された新シリーズで、ついにその名が消える。新名称は、道を識る者というような意味の「ルートマスター Routemaster」とされた。形態の点で旧版と違うのは、地図が両面刷りになったことだ。全土を9面でカバーできるように図郭を拡張するかわりに、それを南北に2分割して、表裏に印刷している。用紙も、直前の旧版のおよそ横82cm×縦75cmに対して、123.5cm×48cmと著しい横長サイズに変わった。

これは縦の折返しをなくし、蛇腹状に畳んで扱いやすくする試みなのだが、ユーザーの反応は意外にも冷たかった。そこで、次の版では、同じ図郭のまま、片面刷りに戻されている。当然、用紙が約2倍大になるため、今度は、車中で使うにはかさばって困るという苦情が寄せられたそうだ。

地図図式にも目立った変化があった。実は第5シリーズでは高地の塗り色が濃くなりすぎて、小道や注記が見分けにくいという声が上がっていた。実際にはこの欠点は改版でかなり改善されていたのだが、ルートマスターではさらに思い切って段彩の色を薄くした。等高線の色も茶系から赤系に変えた。また、道路番号の文字はぼかしにかかる部分に白のマージンをつけるなど、細かい工夫もしている。その結果、両図を並べれば、まったく別の図のように見える(下図参照)。濃色の道路網が効果的に目に飛び込んでくる反面、地勢表現にメリハリが感じられなくなったのもまた事実だ。

なお、このルートマスター版を使って、OSブランドの地図帳「OSイギリス地図帳 Ordnance Survey Atlas of Great Britain」(1982年初版)、「OSイギリス道路地図帳 Ordnance Survey Road Atlas of Great Britain」(1983年初版)も制作されている。

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両者の印象の差は地勢表現の配色の大幅変更によるところが大きい
(左)クォーターインチ地図 第5シリーズC版 ウェールズ北部及びランカシャー 1966年
(右)ルートマスター A版 ウェールズ及びミッドランズ西部 1978年
© Crown copyright 2016

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トラベルマスター表紙 1993年

1993年からはシリーズ名称が、「トラベルマスター Travelmaster」に再び変更された。新名称には、ターゲットを旅行者一般に拡大する意図が込められたようだ。用紙寸法はそのままだが、図郭が一部変更されて、面数は8面に減っている。ただし、1:625,000の全国図がトラベルマスターの図番1に位置づけられたため、1:250,000図葉には2~9番が振られた。また、図面編集がデジタル化され、それに伴って図式も大幅に変更された。この図式が、多少手を加えながら、現在まで引き継がれているものだ。

2001年以降は、小縮尺図や旅行地図(集成図)が「トラベルマップ Travel Maps」の名でグループ化された。その上でシリーズごとの役割を改めて明確化するために、1:250,000は「ロード Road」と命名された(下注)。その際、図番が1~8番に振り直されたため、同じ図郭でもトラベルマスター時代とは1だけ図番がずれている。

*注 1:625,000全国図は「ルート Route」、旅行地図(集成図)は「ツアー Tour」と命名。

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OSロード 表紙 (左)2009年 (右)2016年

そして前回も触れたように、2010年1月の供給中止を迎えることになる。この背景には、当時のOSの組織内事情がある。1990年代に急速に進んだ地図のデジタル化で、広い作業スペースが不要になったため、OSは古い本部施設をたたんで、別の場所に移転する準備を進めていた。付随して、これまで200年以上内製してきた地図の印刷と出荷業務も、外部業者に委託する方針が決まる。ところがその際、見直しの対象に挙げられたのが小縮尺図で、費用対効果が低いとして、1:250,000と1:625,000全国図の刊行の取止めが発表されたのだ。

日本の1:50,000の例を引くまでもなく、印刷物としての地形図の供給見直しは世界的な趨勢だ。その中でむしろOSは、フランス国土地理院(IGN)などとともに、地形図に豊富な旅行情報を盛り込むことで、一般市民への浸透を積極的に図ってきた。そのパイオニアでさえ、時代の流れには逆らえなかったのか、と当時は残念に思ったことだ。それだけに、今回装いも新たに復活したOSロードには期待がかかる。この新地図が、車を運転する人にとどまらず、国土をくまなく知りたいと考える多くの層に受け入れられることを願いたい。

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新版では地勢表現(段彩とぼかし)が改善された
(左)トラベルマスターA版 イングランド南東部 1993年
(右)OSロード イングランド南東部 2016年版
© Crown copyright 2016

本稿は、Tim Owen and Elaine Pilbeam "Ordnance Survey: map makers to Britain since 1791", Ordnance Survey, 1992、参考サイトに挙げたウェブサイトを参照して記述した。

■参考サイト
イギリス陸地測量部(OS) http://www.ordnancesurvey.co.uk/
チャールズ・クロース協会 https://www.charlesclosesociety.org/
The Lez Watson Inexperience - Ordnance Survey Leisure Maps Summary Lists
http://www.watsonlv.net/os-maps.shtml

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 イギリスの1:250,000地形図 I-概要

2016年11月 6日 (日)

イギリスの1:250,000地形図 I-概要

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1:250,000
OSロード 表紙
図番6 ウェールズ及び
ミッドランズ西部

イギリス陸地測量部 Ordnance Survey(以下、OS)が刊行する地図のマーケティングは、伝統的に、対象となるユーザーごとに的を絞った形で展開されている。「OSロード Road」と通称されるように、1:250,000縮尺図には道路地図の性格が与えられ、ターゲットは自動車のドライバーだ。後で見るように地勢描写もしっかり施されているのだが、道路区分の強調、道路番号の明示、それにラウンドアバウトや急勾配など小縮尺にしては細かい情報も添えられるなど、ドライブ用途に傾斜した造りになっているのが特色だ。

ところがこのシリーズは、2010年1月限りで供給が中止されていた。今回このテーマを取り上げたのは、その消えた1:250,000が7年近い空白期間を経て、今年(2016年)9月に店頭に戻ってきたからだ。「ロード」の名称や、図郭・図番は中断前のものを引き継いでいるが、新版として最新情報が盛り込まれていることは言うまでもない。

それにしても、スマートフォンや携帯端末でデジタル地図が簡単に手に入る時代に、なぜいったん廃止した紙地図を復活させたのか。OSの担当者はこう語る。「デジタル地図は、A地点からB地点へ行く道を知るのにはすばらしいのだが、のんびり車を走らせたり、何か新しいものを見つけたりするときには制限がとても多い。OSロードを休刊してからも、紙地図の優れた点はテーブルの上に広げて学習したり計画を立てたりすることにあるのだという顧客の声を、私たちは絶えず耳にしていた」(下注)。

*注 Ordnance Survey News, 14 September 2016 " Ordnance Survey relaunches road maps" から翻訳引用

モバイル機器を使えば確かに便利だが、小さな画面で広域を見渡すには、縮尺を小さくせざるをえない。そうすると地図表現は概略になり、今度は細部を確認できなくなってしまう。地図ファンとしては、まだ紙地図は駆逐されるべきでないとしたOSの勇断を大いに喜びたいところだ。

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1:250,000 OSロードの一例 ウェールズ北部スノードニア周辺
© Crown copyright 2016

では、その新しい1:250,000「OSロード」の内容を見ていこう。名称の「ロード」というのは、もちろん道路(地図)の意味だ。しかし、アメリカの道路地図のように白地図に道路網と水系だけというのではなく、地勢が明瞭に描かれた「地形図」でもあり、交通網のほかにさまざまな旅行情報が入った「旅行地図」の性格も合わせ持っている。

地図記号は、各縮尺でほぼ共通のデザインが使われており、その点ではなじみやすいだろう。道路の重要度は、青・緑・赤・橙・黄という中塗りの色で表わされるが、主要道路については1:50,000などより若干幅を太くしてある。無骨な感もしないわけではないが、その効果で、道路網を図上で地勢表現などに煩わされずに、文字通りネットワークとして認識することができる。

さらに、道路番号に枠付きの大きな文字が使われ、サービスエリアは両車線/片車線、通年/期間限定と細かく分類されるなど、道路地図らしい配慮が随所に見られる。特に後者の分類は1:50,000などにはないものだ。興味深いのはラウンドアバウトで、この縮尺では省略されてもおかしくないところ、小さいながらもそれらしく描かれている。運転中のいい目印になるからだろう。

鉄道の記号については、標準軌がおなじみの太い実線だが、狭軌線は日本でいうところの私鉄記号ではなく、旗竿の塗りを省いた梯子のようなデザインが使われる。1:250,000図では最初からその形で、濃い段彩に紛れてしまわないための工夫だ。駅も律儀に表示されているので、都市やその近郊では赤い円(ライトレールは黄色の円)が集中して賑やかだ。ただし、駅名はごく一部を除いて、周辺の地名から推測するしかない。

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凡例 道路・鉄道の部

独立記号では、沖合にある発電用風車 Wind turbine の群が目を引く(一部は山地にも)。灯台も伝統的に描かれているが、今や目標物の地位を奪いそうな勢いだ。凡例には、太陽光発電施設 Solar farm という記号も登場している(ただし選択表示)。一方、陸上では、主に青色の記号で示されるさまざまな旅行情報が溢れている。修道院・大聖堂、水族館、ビーチをはじめ凡例に33個も並ぶ記号の列を見れば、旅行のヒントがいくつも掴めそうだ。

ちなみに保存鉄道 Preserved railway の記号は、長い路線の場合、起終点駅のそばに置かれていることが多い。1:25,000の同じ記号では蒸機が右に向かっているのだが、本図では逆に左向きにされている。

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凡例 旅行情報の部

次に地勢表現だが、等高線と段彩(高度別着色)、それにぼかし(陰影)も駆使して実感あふれる仕上がりになっている。「クォーターインチ地図 Quarter-inch map」を名乗っていた時代の、メリハリのついたグラフィックを参考にしたのかもしれない。その等高線は、おもしろいことに200フィート(約61m)間隔だ。1:25,000図や1:50,000図ではもちろんメートル刻みなのに、1:250,000には昔の等高線が大切に保存されているのだ(単に全面改版した場合にかかるコストの問題かもしれないが)。標高点はメートル値のため、等高線の高度値はメートル換算で記載してある。

段彩も少々ユニークだ。ふつうは等高線に沿って塗り分けるのだが、ここでは200フィートから600フィートあたりの境界がぼかされて、平野から傾斜地がじわりと立ち上がる様子がうまく表現されている。また、陰影をつけるぼかしも比較的繊細なもので、等高線では表現に限界のある地形の起伏をつぶさに捉えている。

1:250,000は、1993年からの描画作業のデジタル化(「トラベルマスター Travelmaster」シリーズ)の際に、図式が一変した。それまではどちらかというと大人しい印象のグラフィックだったのが、新図式では、太い描線、サンセリフの文字フォントの採用で、見た目にも濃くごわごわした図柄になってしまった。ぼかしもスクリーントーンを切って貼り付けたような品質で、失望したものだ。最新版もその図式を継承しているのだが、地勢表現が改良された(下注)ことで、印象はかなりいい方に変わった。筆者も久しぶりに全面揃えようという気になっている。

*注 中断前のロード図が手元にないため、その時点で改良されたのかは定かでない。

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凡例 地勢の部
等高線間隔は200フィート(約61m)

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1:250,000 OSロード 索引図
8面で全土をカバーする

OSロードシリーズは、8面でイギリス全土をカバーする。各図郭は十分な重複があり、特に図番5「ミッドランズ東部及びアングリア東部 East Midlands and East Anglia」と図番8「イングランド南東部 South East England」は、いずれもグレーター・ロンドン Greater London を図郭に取り込むために大きく重なっている。

価格は5.99ポンド(1ポンド130円として779円)で、1:50,000などの中縮尺図(普通紙版8.99ポンド)よりお得な設定だ。日本のアマゾンや紀伊國屋書店などの通販サイトでも扱っているので、"OS Road Map"などで検索するとよい。

なお、OS公式サイトでは、1:250,000ラスタデータのTIFファイルも無料公開されており、ナショナルグリッド単位でダウンロードが可能だ(下記参考サイトのOS OpenData参照)。印刷物と同等の解像度とはいかないが、実用的には問題ないだろう。

次回は、1:250,000のたどってきた130年近い歴史について、旧版地図の画像を交えながら紹介してみたい。

■参考サイト
イギリス陸地測量部(OS) http://www.ordnancesurvey.co.uk/
OS OpenData https://www.ordnancesurvey.co.uk/opendatadownload/products.html
チャールズ・クロース協会 https://www.charlesclosesociety.org/

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 アイルランドの1:50,000と1:250,000地形図

2016年10月30日 (日)

開拓の村の馬車鉄道

少し前に、存続の危機に瀕しているマン島ダグラス Douglas の馬車軌道(馬車鉄道)のことを書いたことがある(下注)。調べていくうちに、同じように馬に牽かせる鉄道が日本にもあることを知った。その一つが、札幌近郊にある「北海道開拓の村」で、観光アトラクションとして運行されている。札幌在住の人にそのことを話すと「あの馬鉄はかなり前からありますよ」と不思議がられたのだが、訪れてみれば、周りに点在する保存建物とともに開拓時代の雰囲気が巧みに再現されていて、一見に値するものだった。今回は北の国を走るこの小さな馬車鉄道をレポートしたい。

*注 本ブログ「ダグラスの馬車軌道に未来はあるのか」、旅行記は「マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道

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ニセアカシアの並木道を馬車がやってくる

北海道開拓の村は、北海道百年を記念して1983年4月に、野幌森林公園の一角に造られた公開施設だ(下注)。公式サイトでは、「開拓の過程における生活と産業・経済・文化の歴史を示す建造物等を移設、復元して保存するとともに、開拓当時の情景を再現展示して、北海道の開拓の歴史を身近に学ぶことのできる野外博物館」と紹介している。いわば、博物館明治村、あるいは江戸東京たてもの園の北海道版だ。

*注 北海道開拓の村への公共交通機関は、JR千歳線・地下鉄東西線の新札幌(しんさっぽろ)駅前から、JR北海道バスの新22系統「開拓の村」行きを利用。このバスはJR函館本線の森林公園駅にも立ち寄る。バスの時刻表は、下記開拓の村の公式サイトにある。

■参考サイト
北海道開拓の村 http://www.kaitaku.or.jp/
北海道開拓の村付近の1:25 000地形図
http://maps.gsi.go.jp/#15/43.048200/141.497100

訪れたのは10月のよく晴れた土曜日だった。旧札幌停車場を縮小再現したという正面玄関の堂々とした建物を通り、右手のメインストリートを少し行くと、背の高いニセアカシアの並木に抱かれるようにして伸びる複線のか細い線路が見えてくる。これが馬車鉄道の走行線だ。線路の総延長は516.58m、軌間は762mm(2フィート6インチ、いわゆるニブロク)で、昔の札幌市内の馬車鉄道と同じにしてあるという(下注)。

*注 数値は、ウィキペディア日本語版「馬車鉄道」の項を参考にした。

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(左)正面玄関は旧札幌停車場のレプリカ (右)馬車鉄道の起点にある旧浦河支庁庁舎

使われている車両は、ダブルルーフ、オープンデッキつきの小型2軸客車だ。1981(昭和56)年日本車輌の製造銘板を付け、内部は6人掛けのロングシートが向い合せになっている。これを「道産馬(どさんこ)」と呼ばれる馬が牽く。正式には北海道和種馬といい、小柄ながら脚が丈夫で辛抱強いので、昔から農作業や荷物の運搬に重宝されてきた種だ。場内のパネルによると、本日の担当は、1991年生まれの「リキ」と1994年生まれの「アラシ」で、二頭とも毛並みの美しい白馬だった。案内の人の話では、彼らは外の飼育場で飼われていて、毎週開拓の村へ出勤してくるのだそうだ。

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(左)ダブルルーフにロングシートの客車内部 (右)牽き馬は道産馬(どさんこ)種

運行は、「旧浦河支庁庁舎前」と「旧ソーケシュオマベツ駅逓所前」の間で行われている。いずれも付近の保存建物の名にちなんでいるが、乗降設備などはなく、「馬車鉄道のりば」と書かれた小さな立て札が立っているだけだ。時刻表の上には、「ご乗車希望のお客様は、並んでお待ちください。定員約18名」と書き添えられていた。座席に12名とつり革6つで18名という計算だが、「約」としているのは、詰めてもらえばあと少しは乗れますよというニュアンスかもしれない。

試乗は後回しにして、午後の始発となる13時10分発を観察した。村内は広くて散策している姿も目立たないのだが、発車時刻が近づくと、待ち合わせ場所に自然と人が集まってくる。グループに子供連れ、ベビーカーを押してきたお母さんもいる。歩けばそれなりに距離があるので、場内唯一であるこの交通手段で移動するのは正解だ。ベビーカーは折り畳んでデッキの隅に置かれる。この回はほぼ満席になり、なかなかの人気であることがわかった。

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(左)客車が客待ち中 (右)乗り場の立て札

発車数分前に、旧開拓使札幌本庁舎(レプリカ)の裏から、ガラガラと引き棒を引きずりながら、白馬のリキが登場した。御者を務める人が後ろで手綱を握っていて、リキは客車の前でしばし待機する。客が全員車内に収まると、女性車掌が発車を宣言し、続いて御者に向かって「お願いしまーす」と呼ばわった。ここで初めて引き棒の金具が客車に掛けられる。御者が手綱を一振りするのを合図に、馬車は走り出した。初めは首を垂れ、足を踏ん張って重そうにしていたリキだが、車が転がり始めると軽快な足取りになり、カラカラと賑やかな鈴の音を残して見る見る遠ざかっていった。

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(左)おもむろにリキが登場 (右)客車の前でしばし待機
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(左)足を踏ん張り重そうにスタート (右)車が転がり始めると表情が緩む
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馬車は並木道を遠ざかる

次の発車までに、村内をざっと見て回ろうと思った。ところが、いざ行ってみると多くの建物で、人形やパネル展示、音声を駆使しながら、そこで営まれていた仕事や時代背景などがリアルに再現されている。靴を脱いで座敷や部屋に上がったり、説明役の人に話を聞いたりしていると、すぐに時間が経ってしまう。簡単に済ませようという目論見は、全くもって甘かった。

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保存建物と内部のようす
(左)紅葉を映す旧 来正(くるまさ)旅館
(右)旧 南一条巡査派出所ではお巡りさんが道案内
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旧 山本理髪店
(左)外観 (右)懐かしい小道具の前で髭剃りの実演中(もちろん人形です)
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漁村群
(左)豪壮な旧 青山家漁家住宅が中央に
(右)広い居間で囲炉裏の火を囲む(人は本物です)
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(左)旧 札幌農学校恵迪寮 (右)谷間の木漏れ日

市街地群と呼ばれるエリアでは、例の鈴の音がよく聞こえるので、そのつどメインストリートへ引き寄せられる。復元された古びた街並みと秋空を区切る並木道、その間を一心に進んでくる鉄道馬車は、ノスタルジックな絵画そのものだ。線路は並木道の間250mほどが複線で、その後は単線になる。そして池の手前で右カーブし、農村群の一角まで進んだところで「旅客線」は終わる。さらに道端の煉瓦の車庫まで、引込み線が続いていた。傍らを見ると、板囲いの中で、もう一頭の牽き馬アラシが秋の陽を浴びながら出番待ちをしている。

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馬車の走る姿はノスタルジックな絵画を見ているよう

終点からは馬車に乗って戻ることにしよう。乗車券は、車掌さんが手売りしている。まだ日が高いせいか、終点側から乗り込んだのは3人だけだった。もちろんここは一番前の席に陣取るべきだ。走り出すと、鈴の音と車輪の音に蹄のリズミカルな響きが合わさってけっこう騒がしい。それもあいまって、スピード感は見物していたとき以上だ。とりわけ唯一のカーブを曲がるときは、白い尻尾が左右に大きく揺れて迫力があった。並木道に入ると、道行く人がこちらに注目してくれる。ちょっとパレードの主人公になった気分で、初乗りを終えた。

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(左)終点の旧 駅逓所 (右)車庫の前で、折返しの出番を待つリキ
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馬車に乗る (左)カーブを回って複線の並木道へ (右)昔懐かしい風景を行く

この貴重な馬車鉄道は、4月~11月の間、9~16時台(12時台を除く)に運行されている。積雪のある冬季は、馬橇がこれに代わる。月~土曜は40分間隔で運行され、1両が終点まで行っては戻ってくる。日曜・祝日は30分毎で、両端から同時発車して2両が複線区間ですれ違う。このシーンを撮るために来る人もいるようだ。片道の所要時間は約5分で、料金は片道大人(15歳以上)250円、小人(3~14歳)100円だ(開拓の村の入場料が別途必要)。

*注 運行状況、料金は2016年10月現在。

ちなみに、村内の鉄道関係の復元施設としてはもう1か所、山村群の一角に森林鉄道の機関庫がある。内部に、1966年の廃止まで夕張岳森林鉄道で稼働していた小型ディーゼル機関車や貨車、トローリーなどが静態展示されている。本物の森に囲まれ、庫外までレールが引き出されていることもあって、こちらも写真の被写体としていい雰囲気を保っている。

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(左)森林鉄道機関庫 (右)本物の丸太が臨場感を呼ぶ

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 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡
 マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道
 ダグラスの馬車軌道に未来はあるのか

2016年10月24日 (月)

コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

秋深まる北海道にやってきた。コンターサークルSによる2016年秋・道内の旅はほぼ毎週、精力的に挙行されている。なかでも10月16日の舞台は、廃止予告が発表されたJR夕張(ゆうばり)支線の沿線だというので、私も札幌に宿をとって参加させていただいた。「夕張支線に乗り、夕張鉄道跡、旧 夕張線跡などを歩く」と、本日は夕張尽くしの日程なのだが、路線の名称がどれも似ているので混同しそうだ。先に説明しておこう。

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鹿ノ谷駅で夕張行き下り列車を見送る

「夕張支線」というのはJR石勝線の一部で、新夕張~夕張間16.1kmをつなぐ現役路線のことだ。現在、普通列車が1日5往復運行されている。しかし、去る8月17日にJR北海道から、利用者の激減と施設の老朽化を理由に、廃止に向けて地元と協議を進めていく旨の発表があった。

それに対して二つ目の「夕張鉄道(線)」というのは、かつて存在した私鉄路線だ。函館本線の野幌(のっぽろ)を起点とし、室蘭本線の栗山を経由して、夕張本町(ゆうばりほんちょう、開通当時は新夕張)を終点とする53.2kmの鉄道だった。1930年に全線開通し、石炭産業の最盛期には、夕張から札幌方面への短絡路線として賑わった。しかし石炭産業の斜陽化に伴い輸送量が減少し、旅客営業は1971年に栗山~夕張本町間で廃止、1974年3月に残る野幌~栗山間も廃止となった(下注)。地元では夕鉄(ゆうてつ)と呼ばれているので、以下ではこの略称で記す。

*注 貨物輸送は、北海道炭礦汽船に譲渡後の1975年3月末に廃止。なお、夕張鉄道株式会社はバス会社として存続している。

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夕鉄開業当初の夕張本町(当時は新夕張)駅構内
「開業記念写真帳」夕張鉄道, 1930年。画像はWikimediaより取得

3つ目の「夕張線」は、現在のJR夕張支線だが、1981年の石勝線開通以前の、追分(おいわけ)~夕張(初代)間43.6kmだった国鉄時代の名称だ。終点の夕張駅は、路線短縮を伴って二度移転している。また、最盛期には複線化されていたので、その痕跡も残っている。これが夕張線「跡」の意味するところだ。

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1971~72年の1:200,000地形図
夕張鉄道(夕鉄)が図の中央を東西に走る。夕張線は、追分駅(図中央下端)から分岐する室蘭本線の支線だった。

朝10時05分、堀さんと札幌駅で会い、スーツケースの客が目立つ新千歳空港行きの快速エアポートに乗車した。夕張へ行くには、千歳か南千歳で乗り換えなければならない。千歳駅では4分接続だ。しかし、ホームが変わるため、堀さんとエレベーターの昇降を待っているうちに、夕張行きの気動車が出てしまった。

万事休すかと観念しかけたが、気を取り直して時刻表を調べると、列車は南千歳の次の追分駅で12分も停車している。後から来る特急に道を譲るためだ(下注)。「追分なら遠くないですよ」と堀さんが言う。駅前に出て客待ちタクシーに、30分以内で行けるか聞いてみると、「20分あれば」との頼もしい返事だ。意を決して乗り込むや、年配の運転手氏は「日曜なので、遅い車がいるんですよ」とぶつぶつ言いながら、地道を爽快に飛ばしてくれた。

*注 2016年夏の豪雨で石勝線には不通区間があり、このときは臨時ダイヤが組まれていた。特急は来なかったのだが、普通列車はいつもどおりに停車していた。

予告どおり追分駅前には、列車発車の10分前に到着した。タクシー代がウン千円かかったものの、棄権のダメージを回避することができてホッとする。さっき捕り逃した夕張行きは、ホームにおとなしく停まっていた。車内に入ると、ざっと5割を越える乗車率だ。「けっこう乗っていますね」と感心しながら、車端のロングシートに腰を下ろす。廃止宣告があったので、惜別乗車の客が増えているかもしれない。

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(左)タクシーを駆って追分駅へ (右)取り逃がしたキハ40はおとなしく停まっていた

追分を発車すると、石勝線は夕張川の谷のほうへ向かう。堀さんはこの沿線を過去に何度も歩いたことがある。「左側に並行する低い尾根は、一見変哲のないものですが、実は太平洋斜面と日本海斜面を分ける中央分水界なんです」「この先、夕張川の川床で、須佐と同様の互層が縦になって露出している場所がありますよ。軟らかい砂岩の部分が削られて、すだれのように水が落ちています。滝ノ上という地名の由来もわかるでしょう」。マンツーマンで地理講義を聴きながらの贅沢な列車旅だ。

川端駅ではさらに二、三十人の集団が乗車して、通路にも立ち客が並んだ。不思議に思ってその一人に「どこまで行かれるんですか」と尋ねると、「いや、滝ノ上まで一駅だけ乗るんです」。車窓から、堀さんが言っていた千鳥ヶ滝の前の道路で、車が数珠つなぎになっているのが見えた。竜仙峡の紅葉が見ごろを迎え、見物客が殺到しているようだ。一つ手前の駅で車を降りて、道路の渋滞を列車でスキップするのは、確かに賢明な選択だ。JRとしても臨時収入が入るが、ここはまだ石勝線の本線区間で、残念ながら赤字に悩む夕張支線ではない。

新夕張でミドリさんが乗ってきた。車を提供してくれる人たちは、鹿ノ谷(しかのたに)まで先回りするそうだ。列車は、これから夕張支線に入っていく。引き続き谷間とはいえ、むしろそれまでより空は開ける。ローカル線の列車にはのろのろ走るイメージを抱きがちだが、一部で25km/hの速度制限(下注)があったほかはスムーズで、意外に速いと見直した。

*注 JR北海道の資料によると、区間唯一のトンネルである稚南部(わっかなんべ)トンネルは、経年の進行と漏水のため、速度制限が実施されている。

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(左)鹿ノ谷駅に到着 (右)このサボも見納めか
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がらんとした鹿ノ谷駅待合室に集合

鹿ノ谷駅前に集合したのは、堀さん、真尾さん、ミドリさんほか総勢8名。まずは、鹿ノ谷から夕鉄の廃線跡を南へたどることになった。

夕張支線は、夕張川とその支流、志幌加別川(しほろかべつがわ)の谷を忠実に遡ってくる。それに対して夕鉄は、石狩平野から東進し、低い分水嶺を越えて夕張に達する短絡ルートを選択している。しかし、問題はこの間にある200m以上の高低差だ。夕鉄は20‰勾配や3本のトンネルに加えて、谷を巡るオメガカーブ、三段式スイッチバックといった技巧を駆使して、これを克服していた(下図参照)。

山越えのハイライト区間は、路線が廃止された後も18kmのサイクリングロードに再整備され、訪れる人々を楽しませてきた。だが、トンネルの老朽化が進んで、山中の区間が2000年5月に閉鎖されてしまい、現在通行できるのはトンネルの手前までらしい。

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夕鉄現役時代の1:50,000地形図(1967年)
山中の錦沢に三段式スイッチバックとオメガカーブ、平和~若菜間にも大規模なオメガカーブが見られる

鹿ノ谷駅から南へ約2kmの間、サイクリングロードは夕張支線の東側を並走している。ただし、夕張線旧構内の外側を通っているため、すすきの原の陰になって、鹿ノ谷駅のプラットホームからは見えない。私たちは駅のはずれで線路を渡って、サイクリングロードに出た。路面はアスファルト舗装され、自転車がすれ違うことのできる広さが保たれている。駅を離れると夕張支線と同じようにまっすぐ伸びていて、なるほど線路跡らしい。薄日の差す中、黄金色や辛子色に色づいた木々が縁取る小道を、気持ちよく歩いていく。

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廃線跡のサイクリングロード
(左)鹿ノ谷駅構内を出ると夕張支線に沿う (右)葉を落としたサクラ並木が続く

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夕張支線周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

まもなく旧 営林署前駅。踏切の下手にある片流れ屋根の旧 駅舎は、きれいに改装されているがまだ健在だった。さらに進んでいくうちに、隣を走る夕張支線との間隔は徐々に開き、高低差も生じてくる。旧 若菜駅では、半ば雑草に埋もれてプラットホームが残っていた。車両4~5両分の長さがある立派なものだ。Oさん曰く「混合列車が走っていたので、長さが必要だったんでしょう」。

堀さんの著書「続 北海道 鉄道跡を紀行する」(北海道新聞社、1999年、pp.129-142)に、コンターサークルで同じルートを歩いた記録があり、若菜駅跡の写真も載っている。1996年の撮影と思われるが、廃材がホームの上に所狭しと置かれているものの、まるで廃止直後のようなさっぱりした姿だ(下注)。それから20年の歳月は、側面の石積みが露出していなければ見逃しかけるほどに、風景を一変させてしまった。

*注 堀さんとコンターサークルの夕鉄跡訪問記は、「北海道 地図を紀行する 道南・道央編」北海道新聞社, 1988, p.112以下にもある。このときはサイクリングロード整備前だった。

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旧 若菜駅
(左)右下の踏切は今も「若菜駅前通り踏切」を名乗る
(右)長いプラットホーム跡が残っていた

少し先でサイクリングロードは左にカーブしていき、右から上ってきた片側1車線の舗装路と合流する。廃線跡は一旦この道路に吸収されてしまうが、200mほど先でまた右に分かれる小道があった。ここが若菜~平和間のオメガカーブの起点になる。小道は明るい林の中に延びているが、そう長くは続かない。夕張支線と道道38号夕張岩見沢線をオーバークロスする虹ヶ丘跨線橋(下注)の上に出るからだ。その後は、平和運動公園の緑の芝生とグラウンドを避けるように、右に急旋回して地平まで下っていく。

*注 夕張支線の陸橋部分の銘板には「虹ヶ丘跨線橋」、道道をまたぐ部分には「にじがおかはし」と書かれていた。なお、夕鉄時代の名称は、若菜邊跨線橋。

地形図を見ると、運動公園付近でサイクリングロードはくねくねと細かい曲線を重ねていて、一見して廃線跡ではないことがわかる。「ここには大築堤があったはずなので、崩されてしまったのは惜しいですね」と私。平和砿業所の跡地に運動公園が完成したのは1994年6月なので、先述の「続 鉄道跡を紀行する」の探索は、この迂回路ができて間もないころのことだ。「真新しくて味わいがなかった」という感想が文中に残されている。

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オメガカーブの一部を成す直線路が明るい林の中を延びる
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(左)虹ヶ丘跨線橋 (右)JR夕張支線をまたぐ
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(左)陸橋の先は廃線跡が消失、サイクリングロードは右へ迂回
(右)平和砿業所跡に整備された運動公園

車で先回りしていた堀さんたちと合流して、広い芝生で昼食にした。サッカーの試合を遠目に見ながら、私が赤飯おにぎりを食べていると、真尾さんが目ざとく「甘納豆が入っているでしょう」と言い当てる。「そうなんです。知らずに買ったので、包みを開けてびっくりしました。これ北海道の名物ですか」「小豆の赤飯も食べますが、甘納豆もふつうにありますよ」。小豆と違って、甘納豆はご飯を炊いた後に加えるので、赤い色つけには食紅を使うのだそうだ。

運動公園のはずれで、サイクリングロードは廃線跡に戻る。志幌加別川を渡る橋梁は長いカーブの途中で、築堤の続きだったため、けっこう高い位置に架かっている。橋桁は朱色のガーダーで、もとの鉄橋を転用したもののようだ。橋の左側を見下ろすと、平和鉱業所の専用線跡とおぼしいコンクリート桁の橋も残っている。通れるところまで行ってみたい気はしたが、時間の制約もあったのでここで引き返した。

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志幌加別川を渡る
(左)橋梁はオメガカーブの途中に (右)平和鉱業所専用線の橋桁が残る

行程の後半では、鹿ノ谷駅から北へ向けて谷を遡る。駅のすぐ北に架かる第五志幌加別川橋梁のたもとまで、車に乗せてもらった。かつてここには3本の鉄道橋が並んでいた。今も現役なのは夕張支線の1本だけだが、すぐ隣(西側)に開通当時の旧橋が残っている。橋脚は、現役がスマートな煉瓦積みなのに対して、右の旧橋はがっちりと組まれた隅石が特徴的だ(下写真参照)。色合いも褐色とスレート色で好対照を成している。複線だった時代は両方が使われていたはずだが、単線に戻すにあたって、築年の新しい方が選択されたのだろう。放棄されたとはいえ、旧橋も川の直上のガーダー2連が架かったままで、往時の面影をよく伝えている。

一方、3本目は夕鉄のそれだ。他の2本から少し東に離れた位置に橋台が残されている。イギリス積みの煉瓦の表面を覆っていたモルタルが朽ちかけて、哀れを誘う。橋桁は撤去済みだが、その跡に1本の白樺の木が根を張っている。廃墟の上に天を指してすっくと立つさまは、どこかクロード・ロランの描く古典画を連想させ、思わずカメラを向けてしまった。

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(左)夕張支線の第五志幌加別川橋梁。左が現役、右は旧橋
(右)夕鉄の橋台には1本の白樺がすっくと立つ

その旧橋の袂からサイクリングロードが北へ延びている。先に行ったOさんを追って、ミドリさんと私も、夕張支線に沿う小道を夕張駅のほうへ歩いていった。道の右手は、旧版地形図で炭住が整然と並んでいたエリアだが、南半分は新しい団地に変わっている。やがて直線コースの先に、雪山をイメージしたホテルマウントレースイの巨大な建物が姿を現した。裏手のスキー場へ来る客を当て込んだリゾート開発の象徴的施設だ。夕張支線もその一翼を担うことが期待されたのだが、列車で訪れるスキー客が実際にどれほどいたのだろうか。

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(左)終点夕張駅の横には巨大なホテルが (右)ホーム1本きりの終着駅

夕張駅前に全員が集合したところで、最後に旧 夕張駅を車で見に行くことにした。前述のように夕張駅は2度移転している。最も奥にあった初代夕張駅の開業は、1892(明治25)年だ。最盛時には、蒸機が石炭を満載した貨車の長い列を次々と運び出し、乗り降りする大勢の客で駅も賑わったことだろう。しかし今、現地には駅舎はおろかプラットホームすら跡形もなく、前にだだっ広い空き地が残されているばかりだ。

空き地はヤードの跡で、駅の移転後は石炭の歴史村という観光施設の駐車場に転用されていたらしい。それにしても広いので、「こんなに駐車場が必要だったんですか」とKさんに聞くと、「歴史村も一時はけっこう流行ってましたからね。私も来ましたよ」。盛時の炭鉱が人々の記憶に新しい間は、十分な集客力があったのだ。

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(左)初代夕張駅(現 夕張駅の写真展示を写す) (右)石炭の歴史村のモニュメントを望む

続いて、2代目の駅跡に移動した。2代目は初代の1.3km南に造られ、1985年10月13日に開業している。初代の駅が町から遠く不便なため、貨物輸送がなくなった後、商業の中心地に移されたのだ。夕鉄の終点である夕張本町駅もここにあったので、14年の空白を経て鉄道駅が帰ってきたとも言える。

案内された駅跡は、市役所や市民会館と、道道の築堤とに挟まれた谷間のような場所だった。生い茂る草に覆われ、駅の面影は全く失われている。隣接する市民会館も、耐震診断の費用が捻出できずに閉鎖されてしまったらしい。表に回ると、ガラスの破損を防ぐためか、壁一面にベニヤ板が打ち付けられていた。駅前通りの建物の壁には、名作映画の色あせた看板が目に付く。町おこしの一環で映画祭が開かれているからだそうだが、それだけで華やかな時代を想像するのは難しかった。

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道路の築堤と市民会館に挟まれた2代夕張駅跡

せっかく町の中心に駅が来たというのに、2代目が使われたのはごく短期間に終わった。5年後の1990年12月26日に、マウントレースイスキー場に隣接する現駅へ再移転したからだ。これによって夕張支線はさらに0.8km短縮され、初代から見れば2.1kmも南へ後退した。実は変遷があまりに急なため、2代夕張駅は国土地理院の地形図に記録される機会がなかった(下注)。地形図ファンにとっては幻の駅ということになる。

*注 1:25,000地形図「夕張」図幅は、1984(昭和59)年修正測量の次が1994(平成6)年。それを資料に編集された1:50,000地形図「夕張」図幅も、1985(昭和60)年修正の次が1995(平成7)年で、1985年10月~1990年12月の間に存在した2代目の位置は反映されていない。

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夕張駅の移転と路線短縮
(左)初代夕張駅のあった頃(1977年)
(右)再移転後の現駅(1994年)。参考に、2代目駅の位置を加筆

旧駅探訪を終えて、3代目となる現 夕張駅前に戻る。記念写真の後、列車組は16時31分発の上り列車を待った。駅舎は風見鶏の時計塔をつけたメルヘンチックな建物なのだが、無人で切符は売っておらず、駅舎からホームへ通じていたはずの扉も閉鎖されていた。私にとって、これが夕張支線最後の乗車になるだろう。そう思うと名残惜しさはあるものの、通行止めのサイクリングロード、更地に還った初代駅、うら寂しい市街地と目の当たりにした景色がよみがえり、重い気持ちもいっしょに抱えての帰路になった。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図夕張(昭和52年改測、平成6年修正測量)、5万分の1地形図夕張(昭和42年編集)、20万分の1地勢図夕張岳(昭和47年修正)、札幌(昭和46年修正)及び地理院地図(2016年10月20日現在)を使用したものである。

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 開拓の村の馬車鉄道

2016年10月14日 (金)

コンターサークル地図の旅-惣郷川橋梁と須佐のホルンフェルス

長州、萩の町で朝を迎えた。あの蒸し暑い空気は雨と共に去り、10月らしい青空が広がっている。山から差す朝陽がことのほかまぶしい。萩には自然と歴史の見どころが多いので、到着した昨日は自転車を借りて越ヶ浜の笠山まで遠征し、ホットケーキのように扁平な島が点々と浮かぶ沖合の奇景を堪能した。今朝(10月10日)も早起きして、松蔭神社の境内ですがすがしい空気を浴びてきた。

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(左)笠山から沖合の扁平な島々(萩六島)を望む (右)雲間から光のシャワーが
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(左)静かな朝の川べり(松本川) (右)松蔭神社境内に遺された松下村塾の建物

これを前哨戦だとするとこの後は本番で、コンターサークルS 地図の旅2日目に参加する。舞台は、萩から30kmほど北東の須佐(すさ)周辺。山陰本線の名橋に数えられる「惣郷川(そうごうがわ)橋梁」と、海岸のホルンフェルスの露頭を回る予定だ。

JR山陰本線で須佐は、東萩(ひがしはぎ)から数えて6駅目になる。列車で向かうつもりで8時半に東萩駅(下注)の待合室へ行くと、すでに堀さんと、愛車で到着した相澤さんの姿があった。

*注 阿武川(あぶがわ)のデルタに立地する萩市街に対して、鉄道は外側を大回りしていて、代表駅は、萩駅ではなく東萩駅。

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(右)人影少ない東萩駅 (右)待合室で道順を打合せ

「橋は須佐より手前ですからね」というお言葉に甘えて、車で出発した。まず走る国道191号線は、日本海の海岸線をなぞっていく絶景ルートだ。昨日眺めた沖合の島々も、順光のもとでより鮮やかに見えた。宇田郷(うたごう)駅前で山へ分け入る国道から離れ、海辺の狭い旧道に入る。弁天崎の短いトンネル(尾無隧道)を抜けると、道がやや海側に膨らんで、お目当ての惣郷川橋梁が現れる。旧道は橋梁の南端でアンダークロスしているので、手前で車を停めた。

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惣郷川橋梁周辺の1:25,000地形図に加筆

ここは、東から流れてきた惣郷川が海に注ぐ場所だ。両岸に山が迫り、線路は長さ2215mの大刈(おおがり)隧道へ向けて、上り坂(11‰)の途中にある。そのため、橋は取付け位置を高くし、かつ半径600mの曲線上に設けられた。全長は189.14m、高さは11.6m(下注1)だ。強い潮風に晒され続ける過酷な環境のため、防錆が課題となるトラス橋ではなく、鉄筋コンクリート(RC)の柱と梁で組んだラーメン構造(下注2)が採用された。しかも鉄筋の被り厚を標準の2倍にし、塩害に強いシリカセメントを使用して、万全を期したという。

*注1 高さは、井筒天端からレール面までの最大値。出典:小野田滋「土木紀行-山陰本線・惣郷川橋梁 屹立するコンクリートラーメン」土木学会誌87-1, 2002年1月, p54-55。
*注2 ラーメン Rahmen はドイツ語で枠、骨組みを意味する。

橋は1932(昭和7)年に竣工した。橋や大刈隧道を含む須佐~宇田郷間8.8kmが翌年開通し、これをもって山陰海岸を走る鉄道が全通した。つまり、この区間は現 山陰本線に残された最後のミッシングリンクだったのだ。

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(左)緩やかなカーブが優美さを醸し出す (右)裾が開いた橋脚、中央部は工事中

「立派な橋ですね」「築80年には見えない」。足元に潮騒を聞きながら、相澤さんと私がひとしきり感心していると、そばで堀さんが解説してくれた。「橋脚の脚の裾が平行ではなく、開いているでしょう。あれで安定感が出ます。橋全体がカーブしているのも変化があっていい」「柱3本ごとに黒い縦の継ぎ目が見えますか。構造的に一体ではなく、分割してあるんです。当時の技術的な事情があるのかもしれません」。

写真を撮ろうとするのだが、中央部では工事の足場が組まれ、人が動いている。鉄筋コンクリートは、経年によるひび割れが避けられず、侵入した水や空気が中の鉄筋まで届くと、腐食して強度が落ちる。それを防ぐために、表面に樹脂コーティングが施されているから、その塗り直しか何かの作業だろう。

と突然、ゴーッという音とともに、日に数本しかない列車が頭上を通過していった。私たちが須佐まで乗る予定だった上り列車だ。時刻表をチェックしていたわけではないので、偶然のタイミングだった。「線路のそばにいると、不思議と列車が通るんです」と私。「天浜線の天竜川橋梁でも、河原へ出たら来ましたよね」そのときもお二人と一緒だった。「好かれてるんでしょうね」と相澤さんがまじめな顔で応じてくれた。

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惣郷川橋梁を渡る上りのキハ40形
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惣郷川橋梁、北側からの眺め

旧道は、惣郷の小さな集落を通り抜けて坂を上り、北側で再び線路に接近する。そこからもう一度橋を眺めた。朝なので光の加減はいいのだが、角度が浅いため、海側の橋脚はあまり見えなかった。「旧道をこのまま行ってくれますか」という堀さんのリクエストで、大刈垰を越える旧道を行く。大刈トンネル経由の国道は1977(昭和52)年に開通したので、果てしなく曲がりくねるこの道が幹線でなくなってから40年近く経過している。さっき車が1台私たちを追い越していったから、通り抜けはできるはずだ。

舗装は特段荒れておらず、路肩に黄色いガードレールも残っている。ただ、路面には枯葉や小枝が積もっていて、それを右に左に避けながらの運転になった。堀さんとしては、歩いてみたい道候補の一つだったようだが、あいにく木が生い茂って、眺望のきくところはほとんどなかった。峠の掘割を越えると、金井という2~3軒しかない集落で稲刈りをしている。その後はまた同じような羊腸の下り坂になった。

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(左)大刈垰サミットの長い堀割 (右)羊腸の大刈垰旧道

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須佐周辺の1:25,000地形図に歩いたルートを加筆

続いて、二つ目の訪問地ホルンフェルスの露頭へ向かう。須佐駅を通過して海岸へ出る道へ折れ、4kmほど進んだところに、レストハウスと無料駐車場がある。海を見下ろすちょっとした海岸段丘の上だ。そこからさほど遠くない海辺に、それが見えた。道路の脇から小道が延びて、近くまで行けるようになっている。海沿いの棚田に沿って歩いていくと、道はだんだん細くなり、断崖の真上で終わった。堀さんの手を取って来たものの、「戻れなくなるからここで待っています」とおっしゃるので、相澤さんと二人で先へ進む。

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須佐のホルンフェルス露頭を遠望。右下が畳岩、奥の赤い崖がより典型的な例

濡れて滑りやすい波蝕棚の上を慎重に降りていくと、さっき遠望していた白黒ストライプの海蝕崖が目の前に現れた。地元では畳岩と呼ばれ、北へ向かって傾斜している。周辺の崖にも同じような横縞(=互層)があるのに、この一角だけコントラストが明瞭なため、特に目を引く。白く見える層は砂岩、黒っぽいのは頁岩だという。

垂直約12mの畳岩は思ったほど大きくはない。「でも、この広い岩場も上の層が剥がれたものですね」と私が言うと、相澤さんも「ずっと広がっていたのが、波で削られていったんでしょう」。間隔を置いてやってくる大波は、岩に激しくぶつかって砕け散る。縦にも節理が入っているため、裂け目が広がり、やがて剥離していくのだろう。

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縞模様が目を引く「畳岩」

ホルンフェルス Hornfels というのは、高熱による変成岩のことだ。ドイツ語で角岩(つのいわ)を意味し、動物の角を思わせる硬さと模様からそう呼ばれる(下注)。レストハウスのパネルで、当地のホルンフェルスの成因が説明されていた。すなわち、約2500万年前から1500万年前の間に、砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積した。約1400万年前にこれを突き破って高温の火成岩体が噴出し、そのときの高圧と高熱で周囲の須佐層群の性質が変わった(=熱変性)。互層を形成する岩石もその作用を受けているのだが、もっと典型的なものはその後ろにある赤い色の崖なのだそうだ。

*注 名称の由来は、ウィキペディア英語版による。

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(左)熱変成を受けた砂岩と頁岩の互層 (右)縦の大きな裂け目も見つかる

レストハウスへ戻って休憩する間、相澤さんが持参の焼き栗を割ってくれた。秋の味覚が口の中に広がる。店の人から、行列のできるイカ尽くしの食堂が駅前にあると聞いて、また車を走らせた。「梅の葉」という小さな店で、12時前に入ったのにすでに40分待ちだった。名物の活イカづくりはすでに品切れていたので、イカ天丼に舌鼓を打つ。粗食も辞さないコンターサークルの旅では珍しいことだ。車で帰る相澤さんに見送られて、堀さんと私は、須佐駅から14時発の下り列車に乗った。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図須佐、宇田(いずれも平成13年修正測量)を使用したものである。

■参考サイト
一般社団法人中国建設弘済会-アーカイブス(土木遺産一覧)
http://www.ccba.or.jp/archives/heritage.htm

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 コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋
 コンターサークル地図の旅-夕張の鉄道遺跡

2016年10月11日 (火)

コンターサークル地図の旅-木津川流れ橋

最近、映画やテレビで時代劇を見かけなくなったとはいえ、京都にはお寺や神社の境内をはじめ定番のロケ地が数多くある。コンターサークルS 2016年秋の旅の初日10月8日は、郊外のそうした場所の一つ、木津川流れ橋を訪れた。

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北東から眺めた流れ橋の全貌

木津川(きづがわ)というのは、宇治川や桂川と並ぶ淀川の主要な支流の一つだ。三重県伊賀地方を源流域に、京都府南部を流れ下り、大山崎で他の二つと合流する。地形図にも流橋と書かれているが、本名は「上津屋橋(こうづやばし)」という、全長356.5mの木橋だ。行政区画でいうと、京都府久御山(くみやま)町と八幡(やわた)市の境界に位置している。

おもしろいことに、上津屋という集落名は流れ橋をはさんだ木津川の両岸にある。川の流路が変わったわけでもなく、昔から両岸に村があり、交流が盛んだったようだ。渡し舟では不便という地元の強い要望を受けて、1953(昭和28)年に橋が架けられた。1959(昭和34)年には府道八幡城陽線に認定され、以来、京都府が管理している。

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木津川流橋周辺の1:25,000地形図に
歩いたルートを加筆

本日の集合場所は、JR奈良線の宇治駅。奈良へ行く多数の外国人客に挟まれて快速列車(みやこ路快速)でやってきた。改札で落ち合ったのは堀さん、真尾さんと私の3人。さっそく駅前からタクシーで、木津川右岸(東岸)の堤防上の車止めまで行ってもらった。

10月に入ったというのにまだ暑い。台風が次々に来襲して雨がよく降るのだが、ついでに南から温かい空気を呼び込んでいるようだ。京都のきょうの最高気温は31度、空気は重たく湿っぽい。雲間から日差しが降り注ぐと7月に逆戻りしたのかと思うほどだ。「川べりならもう少し風があると思いましたが」と思わず口にすると、「ないですね」と堀さんがつぶやく。お二人は、すでに最低気温が10度を割った北海道から来ている。

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(左)JR宇治駅に到着 (右)堤防上を歩いて橋の袂へ

茶畑の載る堤防上を数百m歩いたところに、流れ橋へ降りる小道があった。まずは、堤防の上から俯瞰してみる。素朴な風情の木橋だ。両岸を縁取る緑にしっくり溶け込んでいる。一直線に伸びる薄い橋桁といい、それを等間隔で支える華奢な橋脚といい、ちょっと心細げな構造物だ。戦後の架橋とはいえ、手甲脚絆に草鞋を履いた旅の者が渡っていたとしても違和感はないだろう。

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平水時の水流は右岸寄りに

私たちも渡ってみる。路面は板を流水方向に並べてあり、縁には転落防止を兼ねた挟み木が置かれているだけだ。高欄はないので、普通の橋とは開放感がまるで違う。平水時の水路は右岸寄りを流れている。そこでは水面から5.5mの高さがあるそうだが、路面の横幅が3.3m取られているので怖いと感じるほどではなかった。

橋の上は、結構人通りがある。地元の子供たちが自転車で通ったりもするが、休日の場合、多くは見物客だ。カップルや小グループはもとより、旗を手に持つツアーガイドに率いられた集団ともすれ違った。「今ではちょっとした観光地になっているらしいです」と私。

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(左)橋脚には大水の跡が残る (右)橋の上は開放感全開

流れ橋というから勘違いしていたのだが、水をかぶっても大阪湾まで流れていってしまうわけではない。水位が橋桁まで達すると、確かに橋板は橋脚から浮き上がる。しかし、ブロック単位で橋脚にワイヤでつながれているので、筏流しのように川の流れに身を任せながら、その場所にとどまっているのだ。水が引いたら、これを手繰り寄せて、橋脚の上に載せるともとの橋に戻る。

なるほど昔の人はうまいことを考えたものだと思うが、河原に残った筏を高さのある橋脚に載せ直すのは、それほど簡単な作業ではない。昔のことはいざしらず、今は重機を投入しての大工事になる。実際、復旧費用は1回の被災につき3500万から5000万円にも上っているという。

橋は、架設以来60年の間に21回被災している。特に最近は豪雨に見舞われることが多く、2011年から4年連続で流された。復旧工事は渇水期を待って行われるので、秋に壊れて翌年春に復旧完了したと思ったら、その秋に再び被災という繰り返しだった。その都度数千万を費やすのでは、府道を預かる行政としても「ええかげんにしてくれ」となったようだ。それで2014年から専門委員会で設計の抜本的な見直しが行われた。

京都府の資料(下記参考サイト)によると、観光資源であることも踏まえて、木造で流出可能という構造は堅持するものの、流出頻度を減らすための工夫をいくつか取り入れたという。一つには、流木等が引っ掛かりにくくなるように、橋脚間を約2倍に広げた。二つに、橋脚の杭木にコンクリートパイルを使用して、耐久性を高めた。三つに、水没をできるだけ回避するために、橋面を75cm嵩上げした。誤って転落したときの人体への衝撃を考えると、これがぎりぎりの高さだそうだ。

こうして昨年、改めて復旧工事に着手し、今年(2016年)3月27日に開通式が挙行された。古そうに見えるが、実は出来立てほやほやで、以前の橋と比べても姿がかなり変わっているのだ。

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(左)地元の子から見物客まで通行人は多い (右)橋脚の主要部はコンクリートパイルに

橋を渡り終えた後、左岸の堤防の上で振り返ってみた。手前に葉の緑が瑞々しい茶畑、その先の広い河原を、時代劇の一シーンを切り取ったかのように木橋が横切っている。疑似的とはいえ、なんとはなしに心が安らぐ原風景だ。しかし、下流に目を移すと、第二京阪道路の無粋な高架橋が視界を遮り、その周りにかさ高い建物も建ち始めている。迫りつつある都市化の波を、木橋が体を張って食い止めているようにも見える。

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宇治茶の畑と流れ橋

堤防の下の小さなあずまやで、持参した昼食を広げながら、よもやま話に花を咲かせた。後で堀さんに感想を聞いたら、「暑さには参りましたが、見たいと思っていたので満足です」とのこと。まだ昼過ぎだったが、明日から遠出なので(お二人はすでに遠出中だが)、近くの四季彩館という公共スペースでタクシーを呼んで、現場を後にした。

掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図宇治、淀(いずれも平成17年更新)を使用したものである。

■参考サイト
上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会(京都府建設交通部道路建設課 公式サイト)
http://www.pref.kyoto.jp/doroke/nagarebashi/

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2016年9月10日 (土)

お知らせ

2016年9月10日 「マン島の鉄道を訪ねて-マン島鉄道」の記事を更新し、写真を追加しました。

2016年9月7日 「マン島の鉄道を訪ねて-スネーフェル登山鉄道」の記事を更新し、写真を追加しました。

2016年9月4日 「マン島の鉄道を訪ねて-マンクス電気鉄道」の記事を更新し、写真を追加しました。

2016年8月30日 「マン島の鉄道を訪ねて-ダグラス・ベイ馬車軌道」の記事を更新し、写真を追加しました。

2016年7月30日 「イギリスの旅行地図-ハーヴィー社」の記事を更新しました。

2016年8月25日 (木)

イタリアの鉄道地図 III-ウェブ版

EUの基本政策に従って、イタリアでも旧 国鉄 Ferrovie dello Stato, FS の鉄道事業が上下分離された。移行段階を経て最終的に、インフラ管理は RFI(イタリア鉄道網 Rete Ferroviaria Italiana、2001年設立)が、列車運行はトレニタリア Trenitalia(2000年設立)が担う形に落ち着いた(下注1)。さらに旅客輸送についてはオープンアクセス化に伴い、2012年に NTV(新旅客輸送社 Nuovo Trasporto Viaggiatori)が深紅の高速列車イタロ italo を投入し、トレニタリアのフレッチャ(Freccia、矢の意)シリーズとサービスを競い合っている。また、アルプスの北側諸国に比べて、地方路線に私鉄(下注2)が多いのも特徴だ。この稿では、こうしたイタリアの鉄道網を、ウェブサイトで提供されている鉄道地図(路線図)で見ていくことにしたい。

*注1 RFIもトレニタリアも、国が出資するFS(国有鉄道会社 Ferrovie dello Stato S.p.A.)の子会社。
*注2 私鉄といっても、FSや州、地方自治体が多く出資しており、公営鉄道の性格が強い。

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ミラノ中央駅に勢ぞろいした高速列車
手前からE414機関車(フレッチャビアンカ)、AGV575(イタロ)、
ETR1000、ETR500(いずれもフレッチャロッサ)
海外鉄道研究会 戸城英勝氏 提供、2016年5月撮影

まず、RFIとその線路を使う鉄道会社のサイトから。

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RFI
http://www.rfi.it/
営業路線網 Rete in esercizio を示す全国図と州別図があり、それぞれインタラクティブマップ(対話式地図)とPDF版が用意されている。

・全国図
伊語版トップページ > Linee stazioni territorio > Istantanea sulla rete
または、英語版トップページ > The Italian rail network in figuresのバナー

路線は、幹線 Linee Fondamentali が青色、地方線 Linee Complementari(直訳は補完線)が水色、都市近郊線 Linee di Nodo が橙色で表される。全国の路線網を一覧できるのはいいが、駅の記載が少なすぎて実用的とはいえない。また、自社管理外の私鉄線は描かれていない。

・州別図
伊語版トップページ > Naviga nella rete RFI(RFI路線網へ移動)のクリッカブルマップで州を選択
または、伊語版トップページ > Linee stazioni territorio > 左メニューの Nelle regioni > クリッカブルマップかドロップダウンリストで州を選択

州(レジョーネ Regione)ごとに作成された路線図だ。さすがに全国図より詳しく、ベースマップでおよその地勢もわかる。路線は上記全国図の3分類に加えて、電化/非電化と複線/単線の組合せで区分している。記載する駅の数も決して十分ではないが、全国図よりは多い。

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RFI営業路線網図 トスカーナ州の一部

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トレニタリア Trenitalia
http://www.viaggiatreno.it/

上記URLは、トレニタリアの列車時刻表や発着状況を調べることができる「ヴィアッジャトレーノ Viaggiatreno(列車の旅の意)」というサイトだ。初期画面では、全国旅客路線網が現れる。残念ながら地図を拡大しても、多少駅名表記が増える程度で、情報量はさほど変わらない。なお、右上の言語選択では日本語を含む9か国語に対応している。左から伊(イタリア)、英、独、仏、西(スペイン)と来て、次の青・黄・赤の見慣れない三色旗はルーマニア語を意味している。イタリア語と同じラテン語系の言語なので、イタリアへの旅行者が多いのだろうか。

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NTV(イタロ Italo)
http://www.italotreno.it/

トップページ > Destinazioni e orari(英語版はDestinations & Timetable)
高速列車イタロのサイトには、簡単な系統図しかなかった。走行ルートが限られており、主要都市にしか停まらないから、これで用が足りるのだろう。

 

地方私鉄はどうだろうか。

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フェッロヴィーエノルド(北部鉄道)Ferrovienord
http://www.ferrovienord.it/

トップページ > La rete(路線網)
または直接リンク http://www.ferrovienord.it/orari_e_news/mappa_interattiva.php

ミラノMilanoとブレッシャ(ブレシア)Brescia から北へ路線を広げる主要私鉄で、ミラノ北駅 Milano Nord ~サロンノ Saronno 間21kmは堂々たる複々線が敷かれ、北イタリアの空の玄関口ミラノ・マルペンサ空港 Aeroporto di Milano-Malpensa へも乗り入れている。路線図はコーポレートカラーの黄緑を使って、運行系統を示すものだ。

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チルクムヴェズヴィアーナ(ヴェズヴィオ環状鉄道)Circumvesuviana
http://www.eavsrl.it/

ナポリからヘルクラネウム Herculaneum(伊語:エルコラーノ Ercolano)やポンペイ Pompei、ソレント Sorrentoなど著名観光地へのアクセスにもなっている歴史ある鉄道だが、現在はナポリ地下鉄などとともにヴォルトゥルノ公社 Ente Autonomo Volturno, EAV の一部門だ。残念ながらEAVのサイトには系統ごとの図しか見当たらないので、ウィキメディア収載の図を紹介しておこう。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Circumvesuviana_maps.png

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スド・エスト鉄道(南東鉄道)Ferrovie del Sud Est
https://www.fseonline.it/

トップページ > Orari e tariffe(時刻表と運賃)> / Download linee e orari
または直接リンクhttps://www.fseonline.it/downloadorari.aspx

南部プッリャ(プーリア)Puglia 州の幹線網を補完する役割の鉄道で、長靴形をしたイタリア半島のかかとに当たるサレント半島に路線網を築いている。上記ページの Le nostre linee(自社線)に系統図(png画像)と路線網のPDFがある。系統図のほうが色分けされてわかりやすいが、拡大はできない。

 

都市交通では、代表的な3都市を見てみよう。いずれも地方鉄道に比べればしっかりしたデザインで、好感が持てる。

ミラノ Azienda Trasporti Milanesi, ATM
http://www.atm.it/

トップページ > Viaggia con noi > Schema Rete
または直接リンク http://www.atm.it/it/ViaggiaConNoi/Pagine/SchemaRete.aspx

ページの最下段の、マウスオンすると "Scarica lo schema di rete(路線網図をダウンロード)" と出る画像からリンクしている。地図は、メトロ(地下鉄)の色を目立たせ、連絡するトレニタリアの列車系統は控えめに描くという、オーソドックスなデザインだ。

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ローマ ATAC
http://www.atac.roma.it/

トップページ > per te
またはトップページ > Linee e Mappe(路線と地図)

市街地や郊外のバス路線図、メトロ路線図など、充実したラインナップを提供していて見ごたえがある。

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ナポリ Azienda Napoletana Mobilità, ANM
http://www.anm.it/

トップページ > Metro(Mのマーク) > Linee metro e funicolari > 本文中の "rete metropolitana" のリンク

自社運営する2本のメトロと4本のケーブルカーだけでなく、トレニタリアやEAVなど他社線も分け隔てなく描いた総合路線図にしているところを特に評価したい。

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ANM市内路線図の一部

個人サイトでは、「ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版」で紹介したウェブ版鉄道地図帳である「Railways through Europe」のサイトに、イタリア編もある。
http://www.bueker.net/trainspotting/maps_italy.php

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非常に有益な旧版鉄道地図のコレクションも見つかる。
http://www.stagniweb.it/

トップページ > 左メニューの MAPPE STORICHE(歴史地図)> Carte ferroviarie(鉄道地図)

ここには最も古いもので1876年、新しいもので1989年の、イタリアの鉄道網を描いたさまざまな図面が収集されている。各図の Apri la mappa ad alta risoluzione / Open full size map のリンクから拡大画像をダウンロードすれば、より詳細に路線網の構成や変遷を追うことができる。眺めているうちに、時の経つのを忘れてしまうだろう。

★本ブログ内の関連記事
 イタリアの鉄道地図 I-バイルシュタイン社
 イタリアの鉄道地図 II-シュヴェーアス+ヴァル社

 近隣諸国のウェブ版鉄道地図については、以下を参照。
 フランスの鉄道地図 III-ウェブ版
 フランスの鉄道地図 IV-ウェブ版
 スイスの鉄道地図 IV-ウェブ版
 オーストリアの鉄道地図 II-ウェブ版
 ヨーロッパの鉄道地図 V-ウェブ版

«イタリアの鉄道地図 II-シュヴェーアス+ヴァル社

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